本作品においては、登場人物の言動から、其々の抱える「共依存」的な性向が垣間見えることがあります。その描写は極めてリアリティに満ちており、この物語にえも言われぬ深みを与えていると言えるのではないでしょうか。

(「兄妹カプセル」な関係)


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本考察では、作中における登場人物其々の「共依存」的な描写について考察するとともに、そのパーソナリティに関しても考察するものとします。

「その4」においては渡直人の「共依存」的な性向について考察すると共に、「共依存」と並んで本作品のテーマである「家族」との関連性等についても考察します。


本考察の構成は以下の通りです。


1 作中における渡直人の「共依存」的な言動

前編

後編



2 渡直人の「共依存性」に関する考察


3「家族」というテーマと渡直人の「共依存」性との関連今回!

4 渡直人のパーソナリティについて


正直、大変つまらない内容かと思いますし、また、実際に共依存等に関して造詣が深い方々からすると誤りばかりの内容になるとは承知しております。何卒ご了承頂ければと存じます。

今回は「その3」として、「家族」というテーマと渡直人の「共依存」性との関連について考察していきたいと思います。


タイトルが本当に訳が分からなくて済みません。

「共依存」シリーズはこれまで「その3」までやっております。其々は以下の通りです。宜しければご覧下さい。


・その1:渡鈴白編

・その2:梅澤真輝奈編

・その3:石原紫編 前編後編


3「家族」というテーマと渡直人の「共依存」性との関連について

作中での渡直人の「家族」に係る描写、それは相当に複雑です。

まず、実際に渡直人を取り巻く「家族」の姿、それは作中において徐々に「変化」して行きます。

それに対し、渡直人の認識がその「変化」に追随しているかと言うと、必ずしもそうではありません。むしろ、その「変化」を受け入れないとすら思える節もあります。

(受け入れ難い「変化」(7巻第3話))

そして、渡直人自身が思い描く「家族」の姿、それもまた複雑です。

渡直人が表面的に思い浮かべる「家族」の姿は渡鈴白との二者関係であって、渡直人が渡鈴白を庇護するといった姿でありますが、館花紗雪との関わりの中で垣間見せる、そして彼が思い浮かべる「家族」の関係性、それは渡鈴白との二者関係的な「家族」の関係性とは大きく異なるものであったりします。


『「家族」というテーマと渡直人の「共依存」性との関連』においては、大きく以下の項立てで考察を進めたく考えております。


①「家族」と「依存・共依存」について

 渡直人と「家族」について

 については、①の内容を踏まえて述べさせて頂く予定です。


今回は、①について述べさせて頂きます。

今回は完全につまらない回です。

ヤバいくらいつまらない回です。

申し訳ありません。


①「家族」と「依存・共依存」について

渡直人の「家族」に関する考察を述べる前に、まず、「家族」、そして「依存・共依存」に関して簡単に述べさせて頂きます。

(今回述べさせて頂くのは、次回から述べさせて頂く渡直人の「家族」の説明に関連する範囲に留めています。相当に単純化した説明となっていることをご承知置き下さい。なお、私は家族関係、あるいは依存・共依存に関する専門家などではなく、今回のこの記事を記すに当たって付け焼き刃的に勉強しただけですので、内容に誤りがあるかもしれません。参考程度にお読み頂くとともに、もし明確な事実誤認等がございましたらご教示下さりますようお願い申し上げます)。


今回は以下の順で述べさせて頂きます。

その1: 「家族」の基本的な機能について

その2:情緒的な「依存」とは?

その3:家族の中での「依存」の姿について

その4:「共依存」について


その1: 「家族」の基本的な機能について

「家族」に求められる機能は多々あるかと思いますが、経済的及び情緒的に安心して依存できることは、それらはその家庭の子供たちにとって、極めて重要なことであろうと考えます。

まず、経済的に安心して依存できること、これは生存していくために極めて重要なことなのでしょう。家族が経済的に安定していること、それは生存に必要となる「衣・食・住」が安定的に供給されることの大前提であり、かつ、それは家族の情緒的な安定性の基盤ともなると考えます。

そして、経済的に安心して依存できることと並んで重要なのは、安心して情緒的に依存できることでしょう。子どもは保護者に安心して依存することを通じ、その情緒を安定させ、そして成長させていくことができます。

子どもの保護者への依存が最も分かりやすい例、それは赤ちゃんと、その母親への関係性でしょう。赤ちゃんは保護者の庇護が無くては生きていくことが出来ません。赤ちゃんは保護者に対して肉体的にも、そして情緒的にも全面的に依存し、そして、保護者の関心を独占しようとします。母親が家事をするため、抱いていた赤ちゃんを降ろそうとしたら、その赤ちゃんが号泣して抗議することは、隙あらば乳房に吸い付いて栄養を摂取したいという謂わば物理的な欲求に基づくものであり、そして、母親の腕に抱かれて安心したい、そしてその関心を、視線を独り占めしたいという情緒的な欲求にも基づくものなのでしょう。

経済的に依存」することによって生存を確保し、また、「情緒的に依存」することによって情緒を安定させ、その成長を図る、それが子どもにとっての家族の基本的な機能であると考えます。


その2:情緒的な「依存」とは?

そもそも「情緒的な依存」とは何か?について、述べさせて頂きます(あくまで、『渡直人の「家族」の説明』において必要となる範疇での説明です。一般的なものとは必ずしも一致しないことをご承知置き下さい)。

まず、人は、その情緒的な安定のためには「自己肯定感」が不可欠であると考えます。

これは、自分自身が世の中に存在してもいいという自身を与えてくれるものです。人が人として生きていくための基本的な自信とでも表現すべきものなのかもしれません。

人が人として生きていくための基本的な自信、それには以下のようなものがあるのでしょう。

自分はこの世に在っていい

自分は他者から必要とされている

自分の欲求を他者は受け止めてくれる

自分は他者から無条件で受け入れられる存在である

他者は自分の気持ちを好意的に受け止めてくれる

他者は自分を守ってくれる

等々。

これらの人が人として生きていくための基本的な自信、それらを心の中に持つことで、人は情緒的に安定できるものだと考えます。

保護者に全面的に依存することを通じて、自己の存在を受容してもらい、そして、自分の欲求を承認してもらう」、即ち「受容と承認」を経ることで、子どもは「自己肯定感」を育んでいくことが出来るのでしょう。

(暖かなか関係性の中で育まれる自己肯定感(4巻第1話))

保護者から、あるいは友人や恋人、はたまた配偶者などからそのような気持ちを受け取ること、それが「依存」のひとつの形と言えるのではないかと考えます。


その3:家族の中での「依存」の姿について

「その1」で述べたように、家族の中には情緒的な「依存」関係が存在します。

特に、子どもは保護者に対して「依存」します。赤ちゃんが最も顕著な例ですが、保護者が情緒的に安定している場合、子どもは思春期ごろまでは、その度合いを成長につれて弱めつつも保護者に「依存」し続け、そして、自己肯定感を育んでいくのでしょう。

そして、子どもとしての「依存」の欲求が十分に満たされた時点で、その子どもは往々にして、保護者への「依存」関係を断ち切ろうとする行動に出ます。この現れの様態のひとつが、所謂「反抗期」なのでしょう。子どもは「反抗期」を通じ、自己の持つ保護者への一方的な「依存」を否定し、そして情緒的な自立を志向します。また、情緒活動の重心を家庭から友人などの外部へとシフトしようとします。

情緒活動の重心を家庭外に移した子どもは、友人あるいは恋人などとの情緒的な関わりを深めて行きます。家庭内において、子どもとしての「依存」の欲求が十分に満たされていた場合、友人や恋人との情緒的な関係性は、子どもが保護者に対して一方的に「依存」するようなものではなく、「お互いに支え合う」、「相互に適切に依存する」といったものになるのでしょう。

また、家庭内においても、保護者との関係性は、一方的に「依存」するものではなく、お互いに支え合う、場合によっては、保護者が成長した子どもに「依存」することもあるものへと変化もしていくのでしょう。

「依存」の変遷については、言葉だけですとやや分かり辛いかと思いますので、以下にイメージ図を示します。

 

(「依存」の変遷のイメージ)


その4:「共依存」について

3において述べたのは、保護者が情緒的に成熟しており、子どもが求めてくる「依存」の欲求に適切に応えられる場合のことです。

しかしながら、必ずしもそうでない場合というのが往々にしてあります。

例えば、父親が元々育った家族の中で、子どもとしての「依存」の欲求を十分に満たされておらず、自己肯定感が十分でない場合、配偶者である母親との、本来ならば相互に、大人として「依存」し助け合うべき関係性の中で、子どもとしての一方的な「依存」の欲求を満たそうとする場合があります。そんな場合、母親は、子どもが求めてくる「依存」の欲求を満たすべきリソースを、父親の「依存」の欲求を満たすために割かざるを得ず、結果、子どもの「依存」の欲求が家庭内において十分に満たされないといったことが生じてしまうことがあります。

イメージを以下に示します。

 

(父親の自己肯定感が満たされていない場合の家庭内での「依存」の一例)

また、母親が元々育った家族の中て、子どもとしての「依存」を十分に満たされていない、あるいは子育て等の理由で孤立した環境に陥ってしまう。かつ、家庭の中において、父親との関係の中で「依存」の欲求を満たすことが出来ない場合、子どもの求める「依存」の欲求に応えることができないどころか、子どもを自分の「依存」の欲求を満たすための手段とする場合すらあります。

この一つの現れが、所謂「母子カプセル」なのでしょう。赤ちゃん、そして幼い子どもは、全力で母親に甘えてきます。子どもが甘えてくる、自分に「依存」してくることで、母親は『自分が必要とされている』と感じます。そして、その関係性の中では、元々の家庭の中で十分に受け取ることの出来なかった『自分は他者から必要とされている』という気持ちを味わうことが出来ます。子どもの「依存」が、「自己肯定感」の代替物となってしまうと言ってもいいでしょう。そして、その関係性に没入してしまい、その関係性が手放せなくなってしまうことがあります。手放せなくなるとどうなるのか?と言うと、第三者がその母子関係に入り込んでくることに拒否的な感情を抱くようになることがありますし、また、子どもが母親との別の人間関係に興味を抱くことに否定的となってしまうこともあります。そして、ともすれば、子どもが情緒的に成長し、母親である自分に「依存」しなくなることを恐れることすらあります。

(成長を恐れる(1巻第5話))

母親が自己の情緒の安定のために、子どもに「必要とされることを必要」とし、子どもが自分以外との人間関係に興味を持つことを、そして子どもが情緒的に成長して自分に「依存」しなくなることを恐れ、そのため子どもを自分との関係に束縛しようとする』ことが、所謂「母子カプセル」であろうかと考えます。

そして、これは、「共依存」の一種のスタイルでもあるのでしょう。

母子カプセル」のイメージを以下に示します。

 

(「母子カプセル」のイメージ)

1巻における渡直人と渡鈴白の関係性、それはまさに、この「母子カプセル」と同等な、「兄妹カプセル」とでも言うべきものなのでしょう。

 

(「兄妹カプセル」(1巻第1話))

そして、この「母子カプセル」の解消には、父親の介入が必要であると言われています。

母親を一人の人間として愛することで、母親が父親に適切に「依存」するようにし、そして、子どもに対しても、母親が持つ人間関係は子どもとの間の密着的な、「依存」させてくれる関係性だけでなく、父親との双方向性な「依存」の関係性も存在することを知らしめることで、その自立を促す。そして、人間関係の多様性を認識させ、外の世界に目を向ける動機付けを与える。それが、父親の「母子カプセル」に対しての、在るべき働き掛けの姿であるとも言われています。

母子カプセル」に対する父親の干渉について、以下にイメージを示します。

 

(「母子カプセル」に対する父親の干渉のイメージ)


また、「共依存」についてですが、これは、十分に「自己肯定感」を有していない男女同士の間で往々にして見られます。

例えばですが、『自己肯定感が満たされていない父親が、母親に一方的に「依存」してしまった家庭』において育った男性と、『母子カプセル』の中において育った女性とが出会い、恋人となる、あるいは結婚するなどしたとします。

この男性は、家庭の中で十分に「依存」できなかったために「自己肯定感」に欠けていて、それを何とか満たしたいという願望を抱いています。それに対し、『母子カプセル』の中で育った女性は、『自分に対して相手を全面的に「依存」させ、その関係の中で不足している自己肯定感を満たす』という、言うなれば対人関係のモデルケースを、その母親から引き継いでしまっています。他者に「依存」したい男性と、他者を「依存」させたい女性、この二人の関係性こそが「共依存」と言えるのではないでしょうか。

以下に、この「共依存」のイメージ図を示します。

 

(「共依存」のひとつのイメージ)

こんな二人の関係性は、それぞれが育った家庭の中の関係性を踏襲したものとなってしまいます。男性は、彼の父親がそうであったかのように、女性に対して一方的に「依存」して自分の自己肯定感を満たそうとし、そして、女性は、彼女の母親がそうであったかのように、男性が成長せずに自分に依存し続け、自分を必要とし続けることを望みます。その関係性の中では、お互いがお互いの成長を望むことはありません。

お互いが情緒的に成長せず、仮初めの虚ろな「自己肯定感」を満たし合う関係性、それが「共依存」の一つの姿であると考えます。


次回からは、「② 渡直人と「家族」について」と題し、今回の説明を元にして、作中における渡直人の「家族」の様相の変化について述べさせて頂きます。


本当につまらない回であったと思います。

最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。




こんな説明では分からない!って方はご質問下さい。なるべく分かり易いように敢えて省いている内容等もあるため、もしかしたら却って分かりにくくなっているかもしれません…その際は御免なさい。