「道が阻まれた時」ルカ1:5-23 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「道が阻まれた時」ルカ1:5-23

1.祭司ザカリヤ

第一の人物では無い、中心では無い、傍らの人・周辺の人

ルカが書いた福音書。

周辺の人だったからこそ、一異邦人キリスト者の

テオピロに向けてこのようにキリストの生涯と教えを

まとめることができた、そういう福音書を学べることの幸いを思います。

今晩から本論に入って参ります。

 5節「ユダヤの王ヘロデの時代に、アビヤの組の者で

ザカリヤという名の祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で

名をエリサベツといった。」 


まず本論に入ってルカらしく

「ユダヤの王ヘロデの時代」と語りはじめます。

異邦人に向けられた福音書でありますから、

常に歴史性を重んじていきます。

いつ・どこで・誰が、そのことを明確にして語ることが

ギリシャ・ローマ世界において信頼性のある書物としての

基本的な要件でありました。

一方で、マタイの福音書のように

ヘブライ文化に向けられた書物は

旧約におけるイスラエルの歴史との繋がり・一貫性、

特にもアブラハム・ダビデの系図に連なっているかどうか、

この一点が問われたのです。

このように考えますと、どうしても異邦人伝道のために

異邦人のための福音書が必要であった、

そのことがはっきりと分かります。

さて、ここにルカ福音書の最初の登場人物として

ザカリヤという1人の祭司が登場いたします。 

祭司というのは元々モーセの兄アロンの子孫が

受け継いできた大切な職務でありました。

その務めの中心は、民に代わって神に取り成し祈るということです。

週報に「万人祭司」ということを簡単に書きました。

マルチン・ルターは、私たち新約に生きるキリスト者は

十字架によって、神様と誰しも個人的な交わりを

いただくことができると教えたのですが、

旧約の時代というのはそうではありません。

キリストの十字架によって聖められていない人間は、

聖なる神様の御前に進み出ることができない。

ですから、神様が特別に定めてくださった祭司の職務に

就く者だけが例外的にそのことを許され、そして

民の代表者として神様と人とを繋ぎ合せる、

そのような務めを果たしていたのです。 

それゆえに、中世カトリック教会の司祭たちがそうであったように

祭司たちは自分たちを特権階級とする高慢に陥ってしまった。

そういう意味で、まったくの異邦人が聖書に関心を持つ時に

「祭司」という存在は嫌なものでありました。

特権意識を持って、自分たち異邦人を見下し、

聖書に親しんでいく妨げとなる悪い意味での

ユダヤ的ななるものの代表者であった。 

しかしながら、ここに出てくるザカリヤという祭司は

大変立派な人物であり、また読み進めていくとわかるように

親しみやすい人物でもあります。

ルカは1000年以上の歴史と伝統がある祭司の家系を描くのではない。

真の祭司なるキリストを必要としている、

人間祭司ザカリヤを描くのです。

6節
「二人とも神の前に正しい人で、主のすべての命令と

掟を落度なく行っていた。」


ザカリヤだけではない、その妻エリサベツも

主の戒めと定めを落ち度なく踏み行っていた、

これは大変高い評価を表す言葉です。 

8・9節
「さてザカリヤは、自分の組が当番で、

神の前で祭司の務めをしていたとき、

1:9 祭司職の慣習によってくじを引いたところ、

主の神殿に入って香をたくことになった。」
 

この当時ユダヤに祭司はおよそ2万人居たと言われます。

その祭司が24の組に分かれており、ザカリヤは

アビヤの組に属しておりました。

組ごとに神殿で礼拝が行われる時の祭司の務めを

果たしていたわけですが、その中でくじを引いて当たった一人だけが、

神殿の中にある聖所と呼ばれる一番奥の部屋に入って香をたく。

2万人の祭司が24組に分かれるということですから

単純に計算すると一組833人です。

そこでくじに当たるのは1人ですから、

この務めは非常に稀なことでありました。

生涯で一度も聖所で香をたく務めが

出来なかった祭司も沢山居たわけです。

大変名誉な務め。祭司であるからには一度は果たしてみたい、

その大切な役割をザカリヤはこの年、念願かなって得たということです。 

ザカリヤ夫婦はすでに老年であったようですが、

きっと初めての務めであったでしょう。

引退間近に訪れた一世一代の大仕事。 

そこでいよいよザカリヤが聖所に入りますと

10節
「彼が香をたく間、外では大勢の民がみな祈っていた。」


香をたくというのはこれは一つの祈りの行為です。

香の煙が上って行く、そのことが天に向けられる祈りを

象徴しておりました。 

人々の罪のとりなしを香の立ち上る煙の中で

祭司は神に祈ったのです。外では大勢の民が祈っていました。

その祈りを代表して、受け止めるようにして

ザカリヤは聖所に立ったのです。

厳格な祭司ザカリヤであったからこそ、

その緊張は大きかったと思います。

きっと震える手と足で必死に香をたき祈ったに違いない。 

そこでザカリヤの緊張に追い討ちをかけるように

さらに驚くべきことが起こるのです。

2.神の妨害によって癒される

限り癒されることがない

11節
「すると、主の使いが彼に現れて、香の祭壇の右に立った。」


ただでさえ緊張している時に御使いが現れる。

ザカリヤはもうパニックです。

12節
「これを見たザカリヤは取り乱し、恐怖に襲われた。」


聖書は綺麗な言葉を使っていますが

実際には腰が抜けて座り込んでしまったかもしれない。

驚愕の出来事でありました。 



牧師も結婚式とご葬儀、聖餐式などもそうでありますが、

牧師や司祭の緊張というのはまた独特のものでありまして、

言ってみれば神様と人との間に挟まれる緊張感というのがあります。

司式者には二つの立場があるわけです。

神の御名をもって人々の前に立つ、いわば神の代理人として立つこと。

一方で、人々の代表者として神に祝福を祈る、人々を背負って立つこと。 

やはり心の奥底まで読み取られる神様の御前で

式を執り行うということは緊張感のあることですし

、緊張感が無くなったらお終いとも言える。

一方人間の側も緊張している。

たとえ新郎新婦も親族も大いに緊張しているわけで、

彼らに対して司式者が「私もドキドキなんです」

と緊張してしまったら神様に取り次ぐことができなくなってしまいます。

神の代理人として神を現す立場と、

御前にひざまずく人間を励まし神様に取り成していく立場と、

両方を調和させるのはなかなか難しいなといつも思います。 


聖なる神様とそして外で待つ大勢のイスラエルの民の期待と、

この両方のはざまで極度の緊張を覚えながら

老祭司ザカリヤは一つ一つ祈りを決められたとおりに進めていく。

しかし、その最中に予想もしない驚愕の出来事が起こったのです。

御使いが現れた。 

ただでさえ緊張して余裕が無い。何度も練習して、

頭の中で整理して、決められた手順を間違えないように。

そう思っているところで起こった予想外の出来事。 

この時代「祭司的である」という一つの悪口があったようでありまして、

それは決められたことを決められたとおりにしかできない、

型通りの人を指して言う言葉。

今でいうと「官僚的」というような言葉でしょうか。

そういわれるほどに、決められたことを忠実に守ることに

集中していた祭司ザカリヤが、しかしその手順を

狂わされる出来事の直面するのです。

これはザカリヤだけの話しではありません。

私たちもしばしば人生を決められた手順通り進めたいと願っている。

あと何年たつと何歳になる、会社でこうなって、

子どもが何歳になるから、その時にはこういう風にして。

そうやって、決められた手順通りに人生を進めていくことに

思いが集中していくのです。

けれども、そういう私たちの思いを妨害されるかのような

神様の御手に出会うことがあるのです。

そのような時にしかし御使いが語りかけるのです。

13節
「御使いは彼に言った。「恐れることはありません、ザカリヤ。

あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、

あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。」 

17節「彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。

父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを

義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」 

イエス・キリストの道備えをする

バプテスマのヨハネ誕生を予告する御使いの言葉でありました。 

しかしザカリヤはにわかに信じることが出来ず、

恐れの中で御使いに尋ねます。

18節
「ザカリヤは御使いに言った。「私はそのようなことを、

何によって知ることができるでしょうか。

この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています。」 

アブラハムとサラの物語が思い起こされます。

年寄りの私たち夫婦に子どもが生まれる、そんなことを信じられません、

そういう言葉を思わずザカリヤは口にしてしまう。 

天使はザカリヤに答えます。

19節「御使いは彼に答えた。「この私は神の前に立つガブリエルです。

あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。」 

不思議な出来事という他ありません。 

この後ザカリヤは御使いガブリエルの預言の成就の日まで

口を利くことが出来なかったというのです。

ザカリヤは言葉を失い、しゃべることができなくなってしまった。

神様に黙っていることを求められたのです。


 カール・バルトという神学者がこのように言いました。

「われわれ人間の自然の営みが、神によって妨害されない

限り癒されることがない」


私たちが当たり前に思い描いている人生があり道理がある。

それが順調に進むことでは無くて、妨害される時に私たちははじめて癒される。

人としての命を回復するというのです。

これはバルトの言葉であるけれども、

まさに聖書が語っている神の言葉であると思います。


 昔、中澤啓介先生に教えていただいたのでありますが、

牧師は週に30分一方的に話す機会が与えられている。

礼拝説教のことをおっしゃっているわけです。

信徒は口答えも許されず黙って聞いている。

30分一方的に話す機会があって牧会できないなら、

信徒の問題は全部牧師の責任だ。 

牧師が集まると、直ぐこんな信徒が居て、

こういう所がわかっていなくて、と言う人が居ますが、

それは違うだろうと思います。

礼拝で、祈祷会で、この教会ですと週に4回くらい

説教を聞いてくださる方がいます。

2時間以上一方的に話す機会があって、

なお信徒に不足があるならば、それはもう説教者である

牧師の不徳と言う他ない。

それ以上なおグチグチと言うのではなくて、

自分の説教を反省するべきだろうと思っています。 

そういう意味で、牧師は十分に語る機会が得られているわけですから、

それ以外の場ではなるべく信徒の皆さんが自由に語って欲しいと、

色々なことをおっしゃって欲しいと思っています。

説教が聞かれている上は、自由闊達な教会であるべきだと思うのです。 

愛を持って語ることの配慮の中で、自由にそれぞれが

教会において色々なことを話して良いと思います。

「こう思う、ああ思う。これが当然、これが道理」、

そしてそのような私たちの自由に語る言葉が妨害される、

中断される、取り上げられるところにこそ

神の救いが現れるのではないでしょうか。



ザカリヤが香を炊いた時の緊張、神に対する恐れ、

そして人に対する責任、その両方があった。

しかしそれだけではない、それ以上に彼の心にあったものは

これまで積み重ねてきた自分自身の歩みに対する

緊張だったのかもしれません。 

自らが人生において祭司として積み上げてきたものがある。

その集大成としての務めが与えられ、自らの人生を締め括る緊張感。

そこでしかし自分の想定を超える出来ごとが起こり、

自分の思いを妨害するような神様の介入に心を開くことが出来ない。 

そこで神様はザカリヤに問うておられるのです。

「」あなたは私の計画の成就と、自分の計画の成就と、どちらを望む者か。」

どちらに信頼する者か。

自分の望まない出来ごとの中にこそ、考えも及ばない

神の最善があることを信じ従っていく信仰。 

私たちが確認すべき真理は、神は常に私たち人間に勝っておられる方で

あるということではないでしょうか。

3.道が阻まれた時

 この後ザカリヤは10ヶ月沈黙を強いられました。

22節
「やがて彼は出て来たが、彼らに話をすることができなかった。

それで、彼が神殿で幻を見たことが分かった。

ザカリヤは彼らに合図をするだけで、口がきけないままであった。」


 その後エリサベツは身ごもります。ガブリエルの言葉が成就する。

しかしザカリヤは語ることが出来ません。 

驚きの声を上げたかったでしょう。

神の御業を賛美したかったし、また自分の不信仰を声を上げて

神にお詫びしたかったでしょう。

この素晴らしい神様を人々に証したいと思ったでしょう。 

けれども、ひたすらに黙っていることを求められたのです。

黙って聞くこと、黙って見ていることを主はザカリヤに求められた。 

ローマ10:17
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、

キリストについてのみことばによるのです。」


新共同訳聖書はこのように訳しています。

「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を

聞くことによって始まるのです。」 


自由に語って良い。色々なことを語って良い。

語った方が良いと私は思います。

でもそれは、あなたの言葉が成就するために語るのではない。

そうやって自分の言葉を語ることで、

その言葉を中断される神様のご介入に気がつくのです。 

これまでイスラエルの祭司として民を指導する立場にあり、

沢山のことを語ってきたザカリヤにとって

黙っていることは辛かったでしょう。

それでも神様はザカリヤの言葉を中断されました。

そして次に彼の口が再び開かれた67節以降、

ザカリヤはもう溢れ出るような思いをもって

有名なザカリヤの預言、ザカリヤの頌詞と呼ばれる賛美の歌を歌ったのです。 

この歌は祭司として民を教える責任や務めから

生まれた言葉ではありません。

ザカリヤ自身が神に驚き、神に感動し、溢れ出る思いの中で歌うたった。 

あなたの言葉が、あなたの人生が中断される時、

神様によって妨害される時、その時にこそ

神様のご計画があなたになる時。

あなたを通して神の計画が現される時。

思い描いていた、想定した手順を神様が変更される時。 

その時が私たちの人生の本番。

ブルームハルトという神学者がこのように言いました。

「たとえ君が病んでいて、苦しみ、貧しく、悲惨であっても、

神のみこころは、やはり君において成る」



大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。