ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
この火曜礼拝ブログは
川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
1.戒めという重荷を背負わせる
先週学びました箇所から、再びパリサイ人とイエス様の問答が始まりました。
イエス様は「わざわいだ」とパリサイ人を厳しく非難されました。
その中心にあった問題は偽善です。外側を良くすることで、
内側をごまかそうとする偽善の問題。
今晩の箇所においても、42節、43節、44節と、
「わざわいだ、パリサイ人」という厳しい言葉が続きます。
そして、その偽善の問題がさらに深く掘り下げられていくのです。
先週学びましたことは、日常を汚れたもの、非日常を聖なるものと
区別することで、汚れの中に生きている自分を
ごまかそうとする問題でありました。
伊豆半島には様々な新興宗教の大施設があります。
なぜあのようなものを造るのか。
教祖や宗教団体の権威付けであるとともに、
非日常の創出ということがあるのでしょう。
日常を全部帳消しにしてくれるような、聖なる空間、
ありがたい場所を造る。そうやって外側が聖められるような感覚の中で、
内側の汚れから逃れたような気持ちになる。
けれども、実際には私たちの内側は、そうやってごまかすことで
さらに汚れていくのです。
今晩の箇所においても偽善が問題になっていますが、
さらにその内容は深められていきます。
46節
「しかし、イエスは言われた。『おまえたちもわざわいだ。
律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、
自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。
わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、
彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ』」
イエス様がおっしゃっていることは、とても分かりやすい。
当時の律法学者たちは、旧約聖書の律法を現実の生活に適用するために、
非常に細かな規定を定めていました。
例えば「安息日を守って、これを聖なるものとせよ」
というモーセの十戒があります。
この戒めを実際の生活に適用するときに、
どのようにすることが安息日を守ることであり、
どのようにすると安息日を汚すことになるのか、具体的な説明が必要になる。
それを一手に引き受けていたのが律法学者たちです。
針仕事はどうなのか。文字を書くことはどうなのか。
種をまくことはどうなのか。
どの程度の距離なら歩いて良いのか。
そうやって一つの戒めについても細かな規定を積み重ね、
それを守るように教えていました。
一般の民衆は、そういう律法学者の教えを神のことばとして信頼し、
それに従おうとしました。それが信仰であり、聖さであると信じていたのです。
そうやって重たい荷物を人々に担わせる。
しかし、誰もそんなものは担いきれないのです。
担えない重荷、守りきれない律法の規定を次々に民衆に教え、それでおしまい。
あなたがたは担えない重荷を民衆に負わせるだけで、
その担えない荷物をどうするのか、守れない律法をどうするのか。
民衆の心に寄り添う思いを一つも持ち合わせていない。
イエス様はそうおっしゃって、お怒りになられたのです。
いや逆に、民衆が担えないものを負わせること自体に
意味があったとも言えるでしょう。
次々と律法の規定を聞かされて、一般の民衆は、
まったくその基準に及ばない自分たちを突き付けられる。
そのときに、彼らは律法学者に服従し、宗教指導者に
依存せざるを得なくなります。
人々をコントロールし、自分たちの地位を確立するために、
民衆には及びもつかない律法規定の数々を浴びせかける。
そういう教師としてのあり方が「わざわいだ」とイエス様は言われるのです。
神学生時代、ある年配のクリスチャンが、
牧師についてこんな少し辛口のたとえ話をしてくれました。
ある人がパラシュートで降下していたところ、風に流されて木に引っかかり、
身動きが取れなくなってしまいました。
そこへ一人の人が通りかかったので、
「すみません。ここはどこですか」と尋ねると、
その人は冷静に「木の上です」と答えました。
すると、ぶら下がっている人が言います。「あなた、牧師でしょう」。
かなり辛口のたとえ話です。つまり、言っていることは正しい。
しかし、その正しさが、今困っている人を少しも助けていない。
そういう牧師への批判であり、また神学生の私に
「そういう牧師になるな」という忠告でもありました。
私たちが本当に自分の問題で苦しんで、どうしたら良いかと悩んで相談に行く。
そのときに「あなたはこれこれこうだから駄目なのです。
あなたはこういうところが駄目なのです」と言われて、
その指摘がどれほど正しかったとしても、
その正しさだけでは何の救いにもならない。
そういう駄目な私が、ではどうしたら良いのか。どうしたら救われるのか。
そのことを知りたい、そのことを求めているのです。
律法教師たちは、人々に
「だからあなたたちは駄目なのだ」
「あなたたちは律法を守れていない」
「私たちが教えなければ駄目なのだ」と言う。
しかし、それでは人々の重荷は少しも軽くなりません。
むしろ、自分ではどうすることもできない絶望が、
宗教指導者への依存へと変わっていきました。
ここに「わざわい」の深刻さがあります。
本来、神のことばは、人を神様のもとへ導くために与えられたものです。
ところが律法教師たちは、神のことばを語りながら、
結果として人々を神様から遠ざけてしまった。
神様により頼ませるのではなく、
「この先生がいなければ自分は駄目だ」と思わせてしまったのです。
神のことばを語る者が、そのことばによって人を神様へ近づけるのではなく、
かえって神様から遠ざけてしまう。
だからこそ、イエス様は「わざわいだ」と厳しくおっしゃったのです。

2.重荷を担ってくださる主
一方で、イエス様はどうだったでしょうか。
イザヤ書53章には、来るべきメシアについて、このように語られています。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」。
人に重荷を負わせるのではなく、私たちの重荷をご自分が担ってくださる。
そして主イエスご自身も、マタイの福音書でこう招いておられます。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」。
重荷を負って苦しんでいる者に、さらに重荷を加えるのではない。
「わたしのもとに来なさい」と招き、その重荷をご自分で担ってくださる。
それが私たちの救い主なのです。
42節「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、
うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、
正義と神への愛をおろそかにしている。
十分の一もおろそかにしてはいけないが、
これこそしなければならないことだ」。
パリサイ人たちは旧約聖書の律法に従い、
十分の一をささげていました。
それも主要な収穫物だけではなく、ミント、うん香、あらゆる野菜に至るまで、
きちんと十分の一を納めていた。非常に厳格であったのです。
それ自体が悪いわけではありません。
問題は、その厳格さが、いつの間にか神様を愛すること、
人を愛し正しく扱うことから離れて、
「自分はこれだけ正しく信仰を守っている」という
自分の正しさの証明になっていたことです。
神様に向かうはずの信仰が、いつの間にか自分自身を
誇るためのものになっていたのです。
そうなると、さらにその先に、
「自分たちこそがこの信仰を守っている」という思いが生まれます。
自分たちの厳格な信仰が神殿を支え、ユダヤ人の信仰を支え、
ユダヤ社会そのものを支えている。
自分たちのように聖書に精通し、律法を厳格に教える者がいなければ、
この社会は立ち行かない。
彼らはそのような強い自負心を持っていたのでしょう。
そして、それは彼ら自身の内では、必ずしも悪意ではなかったと思います。
むしろ、「自分たちは神のために正しいことをしている」という正義感であった。
だからこそ、彼らは良かれと思ってイエス様を敵視し、
イエス様を排除しようとした。
しかしイエス様は、まさにそのあり方を「わざわいだ」とおっしゃるのです。
先ほどの律法教師たちの問題も同じです。
「私たちが教えなければ、この人たちは駄目になる」
「私たちが支えなければ、この信仰は成り立たない」。
そうやって、いつの間にか神様ではなく、自分たちが中心になっていきます。
私たちはどうでしょうか?
「この家庭を支えているのは私だ」
「この職場は自分がいなければ回らない」
「この教会は、あの人がいなければ成り立たない」。
そうやって、自分や誰かの力がすべてを支えているように錯覚してしまう。
そうして、良かれと思って人を傷つけ、人を惑わし、
神様をも排除してしまうような過ちを犯します。
家庭も、仕事も、教会も、すべて神様の御手の中で支えられていることが、
容易に見えなくなってしまう。
主はイザヤ書50章2節でおっしゃいました。
「わたしの手が短すぎて贖えないのか。わたしには救い出す力がないのか」。
神様の御手が短いから、私たちが代わりに助けなければならない。
そのようなことはありません。
一方で、私たちが奉仕すること、献金することが無駄なのではない。
奉仕とは、困っている神様を助けることではありません。
お一人であらゆることがおできになる神様が、
私たちをキリストのからだの器官として選び、その御業の中に加えてくださる。
神様は私たちと一緒に、ご自身の御業を進めたいと願ってくださっているのです。
神様の御業に用いられることと、自分が神様の御業を支えていると思うことを、
混同してはいけないのです。
しばらく前に、友人がお父上を亡くされて葬儀で帰京された際に、
親戚や友人から、これまで知らなかった様々な
家のエピソードを聞かれたそうです。
そうしましたら、亡くなったお父上のおじいさんが、
日本の有名な歌人・詩人である石川啄木にお金を貸していて、
まだ返してもらっていないことが分かったというのです。
それを知ってから、啄木の歌が違って聞こえるようになった、
と友人は言いました。
啄木が歌いました。
「友がみな、われよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ来て妻としたしむ」。
周りの友人たちがみな自分より立派に見えて、
惨めな気持ちになった日に、花を買って家に帰り、
妻と一緒にその花を眺めて心を慰める、そういう歌です。
自分の曾祖父からお金を借りていた啄木の生活を知ると、
この有名な歌の背景に自分の曾祖父も少し関わっているように思えて、
歌の響きが違って感じられる。
自分が、啄木の詩にほんの少し関わっているような気がして、
それだけでもうれしい。良くわかることです。
ましてや私たちは、神様の救いの御業に実際に加えていただいている。
私たちの一つひとつの奉仕が、神様の愛の御業の中で用いられていく。
自分が神様を支えるのではありません。
神様に支えられながら、その御業に加えていただく。
神様も、私たちの参加を喜んでくださる。
一人より、あなたと一緒にやりたいと。ここに奉仕の喜びがあります。
私たちが神様の御業を支えているのではありません。
私たちは神様の御業のために、用いられているのです。
随分前に、こんな相談をいただいたことがありました。
非常に能力のある女性で、早くにご主人を亡くされ、
重度の障害を持つお子さんを、仕事をしながら
本当によく支えておられました。
その方が、「自分が死んだ後、この子はどうなってしまうのでしょう。
私がいなければ生きていけないと思うと、心配でたまりません」
とおっしゃったのです。
それは、障害を持つお子さんの親御さんにとって当然の不安でありましょう。
しかし、牧師である私に相談してくださったので、
よくお話を伺ったうえで二つのことを申し上げました。
一つは、「自分がいるから、この子は生きていられると思うことをやめましょう」。
もう一つは、「あなた自身も、自分の力で生きていると思うことをやめましょう」
ということです。
私たちは、自分の力で自分を生かしているのではありません。
神様によって今日も生かされています。
そうであるならば、私たちの愛する人もまた、
私たちだけの力によって生きているのではない。
その人を本当に生かしておられるのも神様です。
できる限り愛し、支え、与えられた責任を果たしていくのは当然のこと。
しかし、その人の人生そのものまで自分が背負わなければならないわけではない。
主が支えてくださいます。主が責任を取ってくださいます。
私たちは精一杯主の御業に参加し、そして主に委ねることができるのです。
大切なのは、自分がすべてを支えていると思わないことです。
私たち自身も神様に支えられ、愛する人もまた神様に支えられている。
そのことを信じながら、与えられた責任を精一杯果たしていくのです。
自分一人ですべてを背負い込むのではなく、主に委ねつつ、
その御業に加えていただく。できることをなし、
できないことまで抱え込まず、主に信頼して歩む。
それが、信仰によって生きるということです。
そして、主に信頼して生きる人は、周りの人を自分に依存させるのではなく、
その人もまた主に信頼して生きることができるように導いていくことができます。
希望はそうやって与えられるのです。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。

