ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


1.御名があがめられますように

主の祈りの学びが始まりました。

先週は「祈るときには、こう言いなさい。父よ」というみ言葉から、

祈りの言葉について、また、天の神様を真実に「父よ」と

祈ることの幸いについて学びました。

今晩は、2節にある「御名が聖なるものとされますように」

という御言葉を学んでまいります。


「御名」というのは、言うまでもなく神様のお名前のことであります。

旧約聖書を見ていきますと、神様はご自身のお名前を

「ヤハウェ」と名乗っておられます。

出エジプト記3:13・14「モーセは神に申し上げた。

『今、私はイスラエルの子らのところに行きます。

私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました」

と言えば、彼らは私に「その名は何か」と聞くでしょう。

私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。』。

神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある」という者である。』。

また仰せられた。『あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。

「わたしはある」という方が、私をあなたがたのところに遣わされた、と。』」。



モーセが神様に「あなたのお名前は」と尋ねましたときに、

神様は「わたしは、『わたしはある』という者である」

とお答えになりました。

これが、ヘブル語で「ヤハウェ」と呼ばれる主のお名前の意味であります。

ギリシャ語に訳すと「エゴー・エイミ」。

英語では「アイ・アム」。しかしながら、ユダヤ人にとって、

この神の名を口にするのは大変恐ろしいことでありました。

なぜか。それは十戒の第三戒に、このように教えられているからです。

「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」。

それで、せっかく教えていただいた神様のお名前を口にしなくなったのです。

発音しなくなった。

それほど、「私の名をみだりに唱えるな」という主の戒めを

厳格に受け止めたのです。

けれども、では、そうやって神様のお名前を口にしなければ、

第三戒の御心は正しく果たされたことになるのでしょうか。

そうではないでしょう。

例えば、新興宗教の悪しき手法が、近年しばしば問題になります。

「この壺を買わないと祟りがあります」というようにして、

神のお名前を語ることで人を脅し、金を巻き上げる。

そういう人たちがいます。

けれども、それは一部の宗教団体のいかがわしい話にとどまりません。

私たちだって気を付けていないと、自分のために、自分を正当化するために、

神様の名前を巧みに利用するということをしてしまうのです。

神の御名をみだりに唱えるな、とは、そうやって神の名を利用して

自分を富ませるようなことをしてはならない、ということです。

神のお名前を、そのお名前にふさわしく唱えなさい。

それが「御名が崇められますように」という祈りの意味であります。


今晩の箇所は、以前使っていた聖書翻訳では「御名が崇められますように」

と訳されていました。最新の翻訳である「新改訳2017」においては、

このところを「御名が聖なるものとされますように」と訳しています。

カトリックの方々が用いる主の祈りの翻訳においては、

以前から「御名が聖とされますように」という言葉でした。

「御名が崇められますように」と「御名が聖とされますように」。

この二つは、言葉としてかなり違う印象を受けます。

では、原語はどうでしょうか。ここにはもともと、

「崇める」と「聖とする」という二つの意味が含まれています。


そもそも「聖とする」「聖別」とはどういう意味でしょうか?

旧約聖書を見るとよく分かります。

旧約の民は、イエス・キリストの十字架の贖いをいただいて

おりませんでしたので、自分の家畜の中で最も良い、

傷のないものを選んで神様に献げたのです。

私たちは、献金するときにお財布からサッと千円札を

取り出すかもしれませんが、旧約の民のいけにえはそうではありませんでした。

最も良い家畜を選び分けて、これは神様に献げるものと決めたら、

その家畜に傷一つつけることがないようにと細心の注意を払います。

他の家畜とは異なる扱いをしたのです。これを聖別と言います。


「御名が崇められますように」と祈っておりますと、

私たちは「多くの人々が神様を崇めるように、礼拝するように」

と祈っているように受け止めやすいのです。

つまり、「私たちが神様を崇めることができますように」と考え、

祈りの主語を「私たち」にしてしまう。しかし、それでは

祈りの中心がずれてしまいます。

ここで私たちが意識すべきことは、「あなたの御名が崇められますように。

あなたが、ヤハウェが、崇められますように」ということです。

主語は「あなたの御名」、つまり「神様ご自身」なのです。


では、神の御名が崇められるために、私たちに何かできることがあるのでしょうか。

罪人である私たちがどんなに神を崇めても、それは本来、

神が持っておられる栄光にまったくふさわしいものではありません。

人間が神様にノーベル賞や国民栄誉賞をお渡ししたとして、

それによって神が栄誉を受けるのかと言えば、そうではない。

ですから、私たちが神を崇めると言うとき、

それは神をふさわしく神とすることです。

神様というお方を、その存在にふさわしく聖別するということです。

そして、それは本来、私たち人間がすることでも、

できることでもありません。

神様の聖さを守ることができるのは、ただ神様だけです。

「白さ」を保つことができるのは、白いものだけです。

私たちが白さを保とうと思って手を触れれば、

それでたちまち汚れがついてしまう。

ですから、私たちは神様の聖さが保たれるように祈るのみです。

いや、もっと言うならば、私たちが祈ることによって

神様の聖さが保たれるわけではありません。

神が聖いということは完全な事実であって、私たちの祈りの助けを

必要とするものではありません。

けれども、そのことをあえて祈るように、しかも主の祈りの最初の言葉として、

イエス様は私たちに与えてくださいました。

これは、祈りの本質にも関わることであります。


主の祈りを私たちが祈ることができる特別な恵みは、

これがイエス様によって与えられた祈りの手本である、

というところにあります。

つまり、これは私たちの内側から生まれた祈りではありません。

私たちの外側から与えられた祈りです。

例えば、もし私たちが祈りの模範を示そうとして祈祷文を作るとしたら、

祈りの初めに「御名があがめられますように」と祈るでしょうか。

そうは思えません。私たちは、それよりももっと大切な祈りがあると

考えるのではないでしょうか。

世界の平和、苦しむ人々の助け、それぞれの人生の支え、

守り、癒し。色々あるかもしれません。

しかし、「御名があがめられますように。御名が聖とされますように」

とは、なかなか祈らないのではないでしょうか。


私たちにとって、真っ先に必要な祈りとは何でしょうか。

それは、「神の御名が、神の御名としてふさわしく聖め分かたれていること」です。

けれども、そのことの意味は、私たちにはなかなか分かりません。

人生には、もっと大切に思えることが毎日たくさんあります。

目覚めた瞬間から、「あぁ、神様、助けてください」と祈る朝もあります。

「神様の御名がどうであろうが、私の抱えている問題が解決しない限り、

どうにもならない。神の御名云々よりも大切なこと、重要なことが、

この世の中には溢れている」。

私たちは、そう考えるのではないでしょうか。

けれども、神様を信じること、信仰することの本質は、

このような、ごく当たり前に思える考えから離れるところにあります。

私たちは、主の祈りを学びながら、祈りとは何かを学んでいます。

私たちの日々の生活の中に祈りの楔が打ち込まれることで、

私たちの世界観が変えられていく。

私たちの考え方が変えられていく。

そして、神の国が見えてくる。

私たちは、そのような祈りにおける信仰の成長へと招かれているのです。



2.神の最善に信頼する

8年前に、バッハが仕えたトーマス教会に行く機会が与えられました。

平日に、賛美礼拝、音楽礼拝のような機会がもたれていました。

そこには、800年の歴史を持つ聖歌隊がありました。

そして、世界屈指のオーケストラであるゲヴァントハウス管弦楽団の

メンバーによって編成される、教会のアンサンブルがありました。

バッハの時代、最高の音楽は教会の中にありました。

現代は違います。最高の音楽を聴こうと思えば、

高いお金を払ってコンサートホールに行かなければいけません。

けれども、ライプツィッヒでは、今も世界最高水準の音楽が

教会の中に生きているのです。

それが礼拝の中にあることに感動しました。

そして、その最高の音楽を奏でる演奏者たちの姿が、

礼拝を献げる人々の目にはまったく映らないのです。

聖歌隊と管弦楽団は、会堂の後ろ、2階席にいます。

礼拝を献げている人たちの頭の後ろから、

ただ賛美の演奏だけが聞こえてくる。視覚的には見えません。

それは、会堂に場所がないから止む無くそうなっているのではなく、

見えない場所がふさわしいとされているのです。



人が注目を集めてはいけないのです。

どんなに優れた人でも、どんなに思いやりがあっても、

人間中心ではいけないのです。

私たちが礼拝に仕える心、礼拝で奉仕する姿勢は、

自分を神様の栄光の陰に隠すことです。

神様だけが崇められ、神様の輝きだけが表される礼拝式のために、

私たちは仕えるのです。

そこで人間の勝手な自己主張・自己中心が取り去られることによって、

私たち人間に与えられる喜び、力、希望を、

集められた一人ひとりが体験することができるのです。


詩篇121:1–4「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。

私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。

主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。

見よ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」



私たちの助けは、いつも天地を造られた主から来ます。

その主を貶める私たちの自己中心は、結局、自分で自分の首を

絞めるようなことではないでしょうか。

私たちはしばしば「あの人、悪気はないのだけれど」とか、

「良かれと思ってやったのですけれど」などと言います。

良かれと思って、悪気なくやった。

けれども、結果としては悪いことになってしまった。

そういうとき、私たちは「だから仕方ない。だから、やむを得ない」

と言い訳したくなります。

けれども、悪気なくやったから仕方ないのではありません。

むしろ、私たちはまさにそこにこそ、人間の罪の本質を

認めなければいけないのではないでしょうか。

「良かれ」と思って、神を押しのけ、良いことをしている気になって、

そうやって知らず知らずのうちに誰かを傷つけ、問題を生じさせてしまう。

そこに、人間の罪があるのです。


子育てを考えたときに、確信的に子どもを

傷つけようとする親は多くないでしょう。

むしろ多くの場合、「この子のために」と信じているのです。

けれども、その「子どものために良かれと思って」という気持ちが、

いつの間にか親の願いや不安を子どもに押しつけるものとなり、

かえって子どもを苦しめてしまうことがあります。

一番やっかいなのは、はっきりした悪意ではありません。

「良かれ」と思って、「悪気なく」、相手を支配してしまうことなのです。

子育てにおいても、教会の奉仕においても、

様々な事柄において問題になるのは、「良かれ」と思って、

良いことをしているつもりで、結果として神を押しのけて進む人間の罪です。

ですから、私たちは「悪意はない」とか「良かれと思った」などと

言い訳をしてはいけません。

それこそが罪の本丸だとわきまえて、悔い改めなければいけないのです。


神が神として聖め分かたれていてください。

これは、私たち自身にとっての切なる願いです。

しかし、それはまた、「願わくは、御名を正しく仰ぐことを許してください。

神様、あなたを正しく神様として聖別することを、私たちにもさせてください」

という、私たちを主語とした祈りにもつながってくるでしょう。

今、私たちに本当に必要なことは何でしょうか。

それは、神を神として仰ぎ、神に信頼して生きることです。

私が神ではないことを弁え、神様に従って生きることです。

私の良かれ、ではなく、神の最善に信頼することにほかなりません。


困難の中に置かれた方の切なる祈りに、

ご聖霊の豊かな働きをしばしば感じます。

なぜでしょうか?

主に頼る以外に望みがない、そのような状況においてこそ、

祈りの真実が働くからです。神を神とする心が、

困難の中でこそ形作られるのです。

しかしながら、困難においてのみ、

私たちの頼るべきお方は神様なのでしょうか。

平時は、神様がいなくても大丈夫なのでしょうか。

そうではありません。順調な時も、逆境の日も、

どんな時にも私たちの頼るべきお方は主ただお一人です。

ですから、主の祈り私たちに教えています。

「主の御名が聖とされますように」、

神を神として崇める心を私たちにお与えください。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。



1.主の祈り

今晩から私たちは主の祈りの学びに入って参ります。

16世紀宗教改革以降のプロテスタント教会は

「十戒、使徒信条、主の祈り」、この三つを“三要文”と呼んで

特に重んじて参りました。三要文それぞれに特徴があります。

十戒というのはモーセを通して神がイスラエルの民に与えて下さった律法です。

私ども人間本来の姿、恵の中を生きる姿勢を現す言葉であり、

旧約聖書全体の要約と言っても良い大切な戒めです。

使徒信条は、紀元2世紀に生まれた信仰告白「古ローマ信条」を

土台にしているものでありまして、キリスト教会2000年間の歴史の中で

代々の教会が自分たちの告白として守り続けてきた信仰の言葉であります。

そして、今晩私たちが学びます主の祈り。この特徴は何であるか。

申し上げるまでもなく、主イエス様が教えて下さった

祈りであるということです。主の祈りは、

このところともうひとつマタイ6章と二箇所に記されております。

二つの主の祈りを比較すると、所々に違いがあいます。

なぜ二つの主の祈りが違うかという問題を理解する上で、

イエス様がこの祈りを教えられた背景が重要になって参ります。


マタイ福音書における主の祈りの箇所を見ていきますと、

今晩わたしたちが見ているルカ福音書と明らかに違う文脈の中で

主の祈りが教えられていることに気がつきます。

マタイ福音書では、イエス様が宗教教師たちの祈りの間違いを

繰り返し指摘なさるのです「人々に見せるような祈りは違う。

言葉数が多いばかりの祈りは違う。

あなたたちが願うことなどとっくに神はご存知だ、そんな祈りは不要だ」。

このように宗教教師たちの祈りを厳しい言葉で否定されるのです。

その上で「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」、

とおっしゃって祈りの手本を示してくださったのが主の祈りであります。

一方ルカ福音書の主の祈りが教えられた文脈は違います。

1節「さて、イエスはある場所で祈っておられた。

祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。

『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、

私たちにも祈りを教えてください。』」。


イエス様が一人お祈りをしておられると、

イエス様の祈りの姿を見ていた弟子たちは、

自分たちもイエス様のように祈られるようになりたいと願い、

「祈りを教えてください」と頼むのです。

特に「ヨハネが弟子たちに教えたように」とある。

バプテスマのヨハネは弟子たちに祈りを教えていました。

ヨハネに限らず当時の宗教教師は弟子に

祈りの言葉を教えることをしていたのです。 

イエス様はそのような弟子たちの求めに応じて、

「祈るときには、こう言いなさい。」とおっしゃって

主の祈りが始まるのです。

マタイ福音書ではイエス様は、宗教教師たちの祈りの間違いを指摘しながら、

具体的な祈りの言葉として主の祈りを教えてくださった。

一方、ルカ福音書においては、弟子たちの側からの求めに応じて、

教えられた祈りの言葉である。このような文脈としての違いがあるので、

文言の微妙な違いも生まれてきているのです。


ではマタイバージョンとルカバージョンと、どちらが正しい主の祈りなのか。

どちらがオリジナルバージョンなのかと考える訳ですが、そういうことではない。

2節を見ると

「そこでイエスは彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。』」、

マタイ福音書を見ると「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」、

“こう”言いなさい・祈りなさい、と書いてある。

両福音書で言われたイエス様の「こう」という言葉は、

一字一句厳格に間違えることなく“このとおりに”という意味ではありません。

「こんな風に祈りなさい」という大らかなニュアンスを持った言葉です。

つまりイエス様が示されているのは一つの祈りのサンプルなのです。

同じイエス様の生涯を記したルカとマタイの福音書で、

主の祈りが教えられているシュチエーションが異なっている。

ですから、恐らくどちらが正しいのかということではないのでしょう。

イエス様は主の祈りをたった一度だけ教えられたのではない。

しばしば弟子たちに教えておれたのだと思います。 

色々な状況において、マタイバージョン、ルカバージョンに限らず、

似たような言葉で、しかし少しずつ違う言葉も使って

教えておられたと思います。


教会に来られて、皆さんが共通して持たれる疑問は

「どうやってお祈りしたらよいのだろう。何を祈ったらよいのだろう」

ということです。色々なことはありますが、一番大切なことは、

お祈りは神様との会話であるということ。

神様とおしゃべりなんかして良いの、と驚かれるかもしれません。

確かに聖なる、義なる神様と罪びとである私たちが

おしゃべりをするというのは不遜なこと、許されないことである。

そういう許されないことが許されているのは、

イエス様が私たちの罪のために十字架に死んでくださって、

私たちに神様の義を与えてくださったからです。

ですから、お祈りの最後に

「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言うのです。

神様と私たち人間の間にあった断絶を取り払ってくださったイエス様ゆえに、

私はこうやって神様とお話しすることが出来ます。

そのことだけ覚えたら後は自由に神様とお話したらよい。

歩きながらでも、お風呂の中でも、いつでも自由に話せるし、

神様はそういう私たちとの会話を喜んでくださるお方である。 

そうは言っても、何を神様と話したらよいのか分からない、そういう面がある。

こういう風に話したらよいよ、お祈りしたら良いよとイエス様は教えてくださった。

教えてくださったけれども会話だから、いつもちょっとずつ違う。




2.生きている主の祈り

高校の時の英語の先生が私たちのクラスでは評判が悪かったのです。

なぜかと言いますと、一つの英文を訳す時に、毎回毎回英訳が変わっていく。

生徒の立場では、一つの英文の訳をノートにちゃんと残しておきたい。

テストに出た時に間違いなく書けるように。

それで書きとれなかった所を「先生、もう一度お願いします」と頼むと、

先ほどと言葉が違う。

それで「あの先生の英語はいい加減だ」と生徒には不評だった。 

けれども、ある英語が良くできる生徒が反論したのです。

「いや、あの先生の英語は生きているのだ。

本来言葉とはそういうものではないか。

毎回毎回同じ日本語に訳すなどというのはかえって不自然だ」

その言葉を聞いてなるほどなぁと思いました。


マタイ福音書の主の祈りが正しいのですか?


それともルカですか?

けれども祈りの言葉とはそういうものではありません。 

会話ですから生きています。

毎回お決まりの言葉を呪文のように唱える物ではありません。 

それゆえ祈りのお手本も少しずつ違いがある。

生きたお手本であります。


おまじないのような主の祈りにならないこと。

祈りとは、生きた自由な言葉であって良い。それが自然である。

それゆえ、主の祈りも一つの決まった形がある訳では無いことを

覚えて頂きたいと思います。

3.アマチュアリズム

更に、2節でイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」とおっしゃいました。

ここで日本語には訳されていませんが、

原語を見ると「あなた方はこう言いなさい」とあります。


ここで言われる「あなた方」とは、お祈りを教えてくださいと

頼んだ弟子たちのことです。弟子たちはイエス様に頼みました。

私たちも祈りを学びたいです。知りたいです。

ヨハネの弟子たちもちゃんと祈りを知っている、

でも私たちはまだお祈りを教えてもらっていません。

先ほど申し上げたように、当時宗教教師に弟子入りすると、

先生が弟子たちにお祈りを教えてくれたのです。

だから、宗教教師の弟子たちはちゃんとお祈りができた。

でもイエスの弟子たちはそれが出来なかったのです。


劣等感のようなものがあったのかもしれない。

そういう弟子たちに「お前たちは、こう祈ればよい」

とイエス様は教えてくださった。

そこで教えられた言葉はごくごく平易な言葉。

当時の宗教教師たちが祈るような、長い、難しい

専門的な言葉がちりばめられた、そういうものではありません。


私が神学校に入学し、ギリシャ語を学びはじめて、

直ぐに主の祈りをギリシャ語で暗記させられました。

つまり、ギリシャ語の勉強を始めたばかりの者であっても

主の祈りの言葉は分かりやすい。簡単な言葉なのです。


宗教の専門家が幅を利かせる時代の中で、

イエス様は素人集団の弟子たちに、誰でもが分かる言葉で祈りを教えられた。


ある牧師が、「神学のアマチュアリズム」という課題を提唱されました。

しっかりと専門的に聖書を学びながら、しかし誰にでも通じる

心を持っているのが真のアマチュアリズムである。

最近の牧師たちは、神学のアマチュアリズムを失っているのではないかと

問題提起をしておられたのです。

例えばC.S.ルイスという中世英文学の大家が、

ナルニア国物語のような子どもたちのファンタジーの世界を見事に描いていく。

そういう優れたアマチュアリズム。

一方で、細分化・専門化された神学の流れにおいて、

専門家の話しを聞けば聞くほど、いよいよ訳が分からなくなる面があります。

森を調べていて、段々ピントが絞られていく。

やがて一本の木に集中し、更にその木の一部分を虫眼鏡で観察する。

やがて更に、その一部分に顕微鏡で焦点を当て、

どんどんと詳細に調べている内に、一体そのミクロの世界が

森全体と何の関係があるか見失ってしまう。

こういうことが、様々な領域で起こり、神学でも起こります。神

学の難しい厳密な探求が、私たちの人生・救いと何の関係があるか、

分からなくなってしまう。


 イエス様は専門家ではなく素人を、

アマチュアを選んで12弟子とされ、教育されました。

一部の専門家から神への祈りの特権を奪い返し、民衆に解放して下さった。

主の祈りという子どもでも分かるような祈りの言葉を与えて、

神様との交わりの道を開いてくださったのです。 

しかしやがてイエス様のお心に反して、

キリスト教会の歴史は再び御言葉・祈りの専門家を生み出してしまいます。

一般民衆の分からないラテン語で神を語り、神に祈るようになっていった。 

そこで起こった16世紀宗教改革。母国語での説教、母国語での礼拝、

母国語の聖書翻訳、母国語の賛美。そうやってすべての人が

神様を礼拝し神様と交わることの特権を、民衆の手に返していくたルターの運動。 

けれども先ほどの指摘があたっているならば、

現代キリスト教会はまたしても神との交わりを専門家の特権とし、

また専門家に丸投げするようなところに入り込んでいないか。

福音を語ること、隣人のために祈ることを、

「私は牧師ではない、伝道者ではない、一信徒です」

という言い訳することはできません。

イエス様が強いて求めておられるのはアマチュアリズムに徹した弟子。

即ち、イエス・キリストの福音をしっかりと携えながら、

この世の人々と心を通わせ合い、人々の生活のただ中に

御言葉と祈りを注ぎ出していく。そのような弟子を求めておられる。

そのために、私たちの祈りの言葉として「主の祈り」与えて下さったのです。

そうして最初に何を祈るか。

「父よ!」、お父さん、これがお祈りの最初の言葉です。

子どもが最初に何の言葉を覚えるのでしょうか。

パパやママ、でありましょう。天の父を「パパ」と呼ぶ、

それこそ1歳・2歳の子どもでもお祈りができる。祈りとはこういうものだ。


 小さな子どもが恐怖を覚えたときに「パパ、ママ」と反射的に叫ぶ。

これほど真実に近い言葉があるでしょうか。

内面と言葉が一致した真実の言葉。

神様に「パパ・お父さん」と声をあげる。そこに祈りが始まるのです。

「父よ」、真実にこの言葉が祈れるようになったら、

そこで私たちの人生は180度変わるでしょう。 


存在に根差した言葉。祈りも説教も賛美も、みんなそうです。

それぞれの実存、人格に根差した信仰の言葉がそこにあるかどうか。

教会の命に関わることであります。

音楽を学んでいく時に、最初はみんなテクニックに目を奪われます。

完璧な、鮮やかなテクニックに憧れ、そうした音楽に心を惹かれます。

そうやって、表面的な事柄から学び始め、

やがて音楽の本質的なものに気が付けるかどうかが問われるでしょう。

プロの音楽家の演奏は感動し、アマチュアのそれはつまらない、

そんなことはありません。もちろん技術的な差は歴然とありますが、

アマチュアの方の演奏に心から感動することがあります。


逆に、プロの音楽家の鮮やかな演奏に失望することもあります。

AIの時代になって、人間とは人格的な存在であるという、

当たり前のことがはっきりと感じられるようになりました。

将棋や囲碁では、もはや人間はAIに勝つことはできません。

その実力差は圧倒的です。しかし、日本では将棋ブームが続いています。

なぜでしょうか。達人たちが研究を重ね、努力を重ね、

一局に臨む。そこで、力と力がぶつかり合い、

だんだんと時間が無くなってきて焦りが生じたり、

追い詰められて驚くべき手が見つかる。

名人と言える人が考えられないミスをする。

そういう競技者の人格・人間性を、将棋というゲームを通して

感じ楽しむのです。

AIが演奏する完全なオーケストラの音楽を聴きに、

コンサートホールに集まる人はいません。

様々なバックグラウンドを持ち、生涯をかけて努力してきた音楽家たち。

そして音楽家一人一人に生活があります。

悩みがあり、苦しみがあり、傷があり、目標があり、希望がある。

そういう人間が奏でる音楽が、聴く人の心に響くのです。

完全を装う人間の見事な演奏に、何の意味があるでしょうか。


説教も同じです。痛みや弱さや、欠けのある私が、

神様に祈り御言葉と向き合い、ご聖霊の助けの中で

語る説教が皆さんに響くのです。自分という存在・人格から離れた、

繕った正しい言葉では、会衆に届かない。

そういう意味では、AIというのはまったく無力である。


子どもたちの素直な祈り。困難の中にある方の必死の祈り。力があります。

ご聖霊が働く祈りです。

それは、その人の存在に根差した、真実の祈りだからです。

今、お一人一人が置かれている状況。

その場所で、ありのままで、神様に「お父さん」と祈ること。

全ての思いを祈りにおいて神様の注ぎだすこと。

色々、私たちの心をごまかすことができる。

ごまかすための便利なものがたくさんある。

でもそういうごまかしに手を出さず、「父よ」「主よ」と祈りにおいて、

私たちのすべての思いを注ぎだすこと。

これが祈りの始まりであり、また祈りの完成です。

皆さんお一人一人の心を祈りによって主に注ぎだしてください。

主は必ず答えてくださいます。

神様だけが与えられる平安が、皆さんの心を満たすでしょう。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

1.マルタの取り乱し



すでに確認しましたようにイエス様一行は

エルサレムに向けて旅を続けておられます。

十字架のエルサレムを目指して旅を続けるイエス様。

ですから38節を見ますと

「さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。

すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。」

と記されております。

「一行が進んで行くうちに」、このひとつの言葉が持つ響きは

現代の私たちにはなかなか分からないものです。

聖書がしばしば「旅人をもてなしなさい」と命じている。

それは、旅をするということが現代においては

考えられないほどの危険を伴ったからです。

厳しい状況にある人のひとつの代表として旅人があげられ、

そういう困難の中にある人を愛し

助けの手を差し出すようにと命じられているのです。 

疲れ果て、着物は汚れ、空腹の中にあるイエス様一行を、

マルタという女性が迎え入れた。

マルタというのは「女主人」という意味を持つ言葉です。

この家の主がマルタであった。

マルタは主人として家をあげて旅を続けるイエス様一行を

迎え入れもてなすのです。

そんな中で39節にありますように

「彼女にはマリアという姉妹がいたが」、と妹マリアが登場するのです。

 ここには記されていませんが、ヨハネ福音書11章を見ますと

マルタとマリアの姉妹、さらにはラザロという男兄弟の三人が

仲良く暮らしていた様子が記されている。

恐らくマルタが長女、マリアが妹、そしてラザロが

一番年下の弟であったと言われます。

イエス様はこの三人の兄弟と特別親しい関係を持ってらっしゃったことが

聖書の幾つかの記事から分かります。

恐らく、エルサレムに行かれる時には

いつも彼らの住むベタニヤの街に立ち寄る、

そういうイエス様の愛された家族であったのでしょう。 

女主人マルタは張り切ってイエス様一行をもてなすために準備に励みます。

しかしそこでひとつの問題が起こるのです。

39節「彼女にはマリアという姉妹がいたが、

主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。」

マルタの妹マリアが主の足元に座って御言葉に耳を傾けていた。

ここに「聞き入っていた」と記されています。

イエス様一行をもてなすために張り切っている

お姉さんマルタのことがまったく目に入らないほどに

イエス様のお言葉に聞き入っていた。

そういう妹の姿を見てマルタは40節

「ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、

みもとに来て言った。」


新改訳聖書は「心が落ち着かず」と訳しています。

少し古い翻訳ですが口語訳聖書を見ますと

「マルタは接待のことで忙しくして心を取り乱し」と訳されています。

40節の中ごろからのマルタの言葉は、心を取り乱して

発せられた言葉であったというのです。

「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、

何ともお思いにならないのですか。

私の手伝いをするように、おっしゃってください。」


かなりきつい響きをもった言葉だったと思います。 

そしてこのマルタの取り乱す思いは私たちに良く分かる。

この物語が良きサマリヤ人の次に記されているというのは

面白いことであります。

古代の旅人の苦労。飢え・疲れ・汚れ、私たちが思う以上に

ベタニア村に到着されたイエス様一行は疲れてらっしゃったと思います。

そういう中で、彼らのために一生懸命奉仕するマルタの姿は、

傷ついたユダヤ人の旅人を隣人として世話するサマリヤ人と重なりあうのです。

 一方、そういうイエス様の痛みが見えず、手伝いのひとつもせずに

話しに聞き入るマリアの姿はどうか。

傷ついたユダヤ人を見捨てた祭司・レビ人というのは

言い過ぎかもしれないけれど、

でも良きサマリヤ人の話しに準えたときにどうなのか。

マルタは自分の行為の正しさに確信を持っていました。

今自分は疲れ痛んでいるイエス様と弟子たちに仕えるべきだ。

今こそ真実の隣人愛を実行するときだ。

そして当然それは自分だけではない。

マリアと私、姉妹2人で力を合わせるべきことなのです。

しかしそういうマルタの正しさに目を向ける人がいない。

無視されている。そこで彼女は取り乱したのです。




2.責任者は誰か

この時のマルタの怒りは誰に向かっていたのでしょうか。

もちろん、何の手伝いもせずイエス様のおそば近くで

暢気に話を聞いている妹への怒りがあったでしょう。

でも恐らく一番はマリアに対してではない。

主イエスに対しての怒り・苛立ちであったのです。

ですから40節でマルタはマリアに直接怒りをぶつけなかった。

「イエス様、妹が私の手伝いをしないのをご覧になって

何ともお思いにならないのですか!」、

「イエス様マリアを注意してください」と言いながら

マルタの本音はマリアを叱らない、

またマルタを評価しないイエス様の間違いに対する怒りであったのです。 

しかしそのようなマルタの言葉に対してイエス様は

41節「主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを

思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。

マリアはその良いほうを選びました。

それが彼女から取り上げられることはありません。」


このようにお答えになられました。

私たちはこの物語をどのように読んだら良いのでしょうか。

答えは簡単ではありません。 

ひとつのよく聞かれる解釈は賜物の違いとしての整理です。

マルタは働き者で気が利いて、もてなすことの素晴らしい賜物があった。

彼女していることは正しい。

ただ、マリアの性格・賜物は別のところにある。だから、

マルタのもてなしは良いことだけど、マリアを叱るべきだ

というその考え方には過ちがある。 

マルタのような人が居ないと困るし、マリアのような人も必要だ、

とそういう解釈はこの物語をすっきりと整理してくれるように思うのですが、

しかしイエス様の言葉を読んでいったときに

どうしてもそうは聞き取ることができないのです。 

イエス様はマルタに対して

「お前は自分の賜物を生かしてよくやっている。

マリアも自分の賜物の中で良きことをしているんだ。両方の賜物が必要だ」

とはおっしゃっておられない。

「マルタ、どうしても必要なことはひとつだ。

しかしお前は色々なことを心配し、気を使い、

本当に必要なことのことを見逃している。

マリアはそれをちゃんと弁えているよ」

そういう風におっしゃっているのです。



以前、ドイツに行くので色々調べていて、

興味を持ったのがドイツ人の労働時間です。

これはドイツに限らないことですが、先進国では法律で

かなり厳格に労働時間が規制されている。

ドイツでは、平日1日当たりの労働時間は8時間を超えてはならない。

繁忙期にはそれを最長10時間まで延長できますが、

しかし半年間の一日平均労働時間は8時間を超えてはいけない。

つまり繁忙期、労働時間が増えた分、必ずどこかで労働時間を減らして

バランスをとらなくてはいけない。

他には、年間最低24日間の有給休暇を必ず消化させなければいけない。

病欠は有給休暇にカウントせずに有給で休めるようにしなければならない。

ドイツには、こういう労働に関する決まりが細かくあって、

労働基準監督署の抜き打ち検査がしばしばあるのです。

違反が見つかるとその会社や管理職が処罰され罰金刑、

悪質であれば禁固刑もある。

ですから本当に一日8時間労働というのが守られている。

夕方の5時くらいに駅が帰宅する人で混み合ってくるのです。

どうしてそれほど労働時間が少なくて、経済大国として成り立つのか。

長時間労働が当たり前の日本人にとっては、中々理解が難しい。

休むこと、働くこと、そんなことを考えさせられました。

私はドイツに居たら、恐らく禁固刑になると思います。

とはいえ、気分転換は得意で、いつも張りつめているわけではなく、

楽しくやっています。

長時間の労働というのは、本当に良くないことです。

心身を疲弊させ、恵みを見えなくさせる危険性があります。

一方で、疲れというのは、過度の労働時間だけから来るものではありません。

担う責任の重さから来る面もあります。

私自身のことを考えても、本当に重さを感じるのは、

仕事量よりも責任です。川奈聖書教会において担う牧師としての責任。

この教会に集う方々や同労者に対する責任。

私が大きな判断ミスをしたら、また愚かな過ちを犯したら、

どれだけの方を苦しめてしまうか。

なにより、イエス様のお名前に傷をつけてしまう。

そういうところでの責任感は、私なりに持っています。

しかしながら、本当に幸いなことに、教会には

私以上の責任者がいてくださいます。

この教会の本当の牧者はイエス様であられます。

そして、この教会に集うすべての方々に対して、

またこの教会の歩みに対して、すべての責任を

主なるお方が担ってくださるのです。私は、

この大牧者なるお方のお手伝いをさせていただいているだけの者です。

もちろん、なすべきことをきちんとなすのは当然です。

しかし、「私が間違えたら、私が失敗したら、教会が倒れてしまう」、

そんな心配をする必要はありません。

主なる神様の教会ですから、私たちは最善を尽くして主にお従いし、

後は主に委ねたらよいのです。主が責任を取ってくださいます。

私たちの疲れというのは、不必要な力みから生じる面があります。

いつの間にか傲慢になって、自分が全部背負っているように勘違いし、

過度に力を入れて歩んでしまう。

そういう勘違いに気づいて、真の牧者が誰であるのかを確認すること。

そして、不必要に入った力を抜いて、神様にお仕えする者であることを覚える。

そうやって、私たちは疲れをため込まない歩みができるようになります。

3.安息から安息

神様は天地創造において6日間の創造の業を終えられ7日目に休まれた。

安息日が労働の、一週間の最後にあったのです。

けれども今私たちは、イエス様の甦られた日を

“初めの日”として覚え、礼拝します。

最近は月曜日から始まるカレンダーがたくさんありますが、

キリスト者は一週間を月曜日からはじめません。

日曜日、主の安息日から一週間を始める。

それでは、神様の天地創造の順番と異なるではないか。

神様は最後に休まれたではないか、と思われるでしょう。

では、神様は天地創造をなさる以前は、どうしておられたのでしょうか。

神様は永遠の始まりから、三位一体の神として安息の中におられたのです。

父・子・聖霊の愛の交わりの中で、神様は満ち足りておられました。

つまり神様は、安息の中から天地創造の業を始められ、

そして7日目にまた安息の中に戻られた。

安息から始まり、安息に戻られる、これが神様のリズムです。

何かをするから休息が得られ、なすべきことをしたからご褒美が得られる。

そうではない。私たちはいつも安息から始まる。そこに基準があります。 

神様の恵み、祝福、ご愛をいただいて、その恵みの中でなすべき務めをはじめ、

そしてまた安息に戻る。主の日に始まり、主の日に帰るのです。

4.私たちの愛の業はどこに始まるのか

聖書に戻りましょう。マルタはイエス様をもてなした。

別の訳では「接待」、英語ではサービスです。

疲れ果てたイエス様一行にサービスした。

イエス様には自分のそうした奉仕が必要であるとマルタは思ったし、

マリアも一緒にそうすべきだと思った。

けれども、マリアはイエス様にサービスしなかった。

逆にイエス様の話しに聞き入っていた。

つまりマリアはイエス様のサービスを受けていたのです。 

ある説教者が非常に興味深い想像をしていました。

この時、マリアはイエス様からどんな話しを聞いていたのか。

もしかして、先週学んだ、良きサマリヤ人のたとえ話を

聞いていたのかもしれない。

神を愛し、隣人を愛する、その教えをこの時マリアは

聞いていたのかもしれない、何とも言えない想像です。 

このマリアがイエス様の足元に座ってみ言葉に聞き入っていたというのは、

これはぼんやりイエス様の話しを聞いていたということではない。

実はこれは、当時教師にものを教わるときの正式な形・姿勢でありました。

もちろんそれは男性だけに許されたことであったのですが、

マリアはこの時聖書を正式に学ぶ、ラビに教えを請う

その姿勢を持って真剣にイエス様の言葉を聴いていたのです。

一方マルタは良かれと思って、イエス様には私のサービスが必要だと思って、

一生懸命お仕えした。お仕えしながら、しかしその業が認められない、

評価されないことの中で、あっという間にマルタの心は空っぽになってしまった。

愛に生きるための燃料が尽きてしまったのです。

そこでイエス様がおっしゃっていることは、

“私たちはどこから始まるのか”という問いです。

私たちの愛の業はどこに始まるのか。

何かをするからご褒美として恵みをいただけるのか。そうではない。

神の言葉からしか愛の業は始まらない。

神を愛し、隣人を愛する、愛の人としての生き方は神の言葉を

いただくところからしか始まらないのです。

このマルタ・マリア・ラザロの家において、

本当にサービスを提供していたのは誰か。

サービスを必要としていたのは誰なのかを見抜かなければいけないのです。

確かにイエス様は旅の疲れ、汚れ、空腹を抱えておられたでしょう。

でも、そこで更に大きな疲れ、汚れ、空腹を抱えている

自分自身に気がつかなければいけない。

イエス様に仕えるよりも、まずイエス様に仕えていただく

必要がある私であること。

イエス様から命のパンをいただく、命の水をいただき、

心を満たし心を聖めていただかなければ直ぐに倒れてしまう

自分であることに気がつかなければ。

そうでなければ愛は業は始まらない。

ある人は「お祈りする時間があるなら、聖書を読む時間があるなら、

それを社会奉仕活動に使ったほうが良い」と言います。

「礼拝のために数時間を費やすより、

その時間を隣人愛に用いることがキリストの心ではないか」

という人もいます。けれどもそれは傲慢です。

私たちにはまず神の言葉、神の福音が必要なのです。

とにかくまずみ言葉に聞き入り、祈ること。礼拝を献げること。

そこから力を得て、良きものがはじまっていくのです。

逆に、祈りや御言葉を軽んじて、良いことをしているつもりになって、

けれどもそういう人間の業が裏目に出ることがいくらでもあるでしょう。

安心して休みなさい。安心して私からまず食べなさい、

飲みなさい。そうおっしゃってくださる神様の御許にまず休むものでありたい。

重荷を下ろすものでありたい。

「必要なことは一つだけです。」、私の御言葉さえちゃんと受け取っていれば、

後は何の心配も無い。

ご自信の十字架の福音に対する核心の中で語られた

この言葉を私たちも信仰を持っていただき、

安息から安息にいたる歩みをはじめたいと願うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。