ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
この火曜礼拝ブログは
川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
1.御名があがめられますように
主の祈りの学びが始まりました。
先週は「祈るときには、こう言いなさい。父よ」というみ言葉から、
祈りの言葉について、また、天の神様を真実に「父よ」と
祈ることの幸いについて学びました。
今晩は、2節にある「御名が聖なるものとされますように」
という御言葉を学んでまいります。
「御名」というのは、言うまでもなく神様のお名前のことであります。
旧約聖書を見ていきますと、神様はご自身のお名前を
「ヤハウェ」と名乗っておられます。
出エジプト記3:13・14「モーセは神に申し上げた。
『今、私はイスラエルの子らのところに行きます。
私が彼らに「あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました」
と言えば、彼らは私に「その名は何か」と聞くでしょう。
私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。』。
神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある」という者である。』。
また仰せられた。『あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。
「わたしはある」という方が、私をあなたがたのところに遣わされた、と。』」。
モーセが神様に「あなたのお名前は」と尋ねましたときに、
神様は「わたしは、『わたしはある』という者である」
とお答えになりました。
これが、ヘブル語で「ヤハウェ」と呼ばれる主のお名前の意味であります。
ギリシャ語に訳すと「エゴー・エイミ」。
英語では「アイ・アム」。しかしながら、ユダヤ人にとって、
この神の名を口にするのは大変恐ろしいことでありました。
なぜか。それは十戒の第三戒に、このように教えられているからです。
「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」。
それで、せっかく教えていただいた神様のお名前を口にしなくなったのです。
発音しなくなった。
それほど、「私の名をみだりに唱えるな」という主の戒めを
厳格に受け止めたのです。
けれども、では、そうやって神様のお名前を口にしなければ、
第三戒の御心は正しく果たされたことになるのでしょうか。
そうではないでしょう。
例えば、新興宗教の悪しき手法が、近年しばしば問題になります。
「この壺を買わないと祟りがあります」というようにして、
神のお名前を語ることで人を脅し、金を巻き上げる。
そういう人たちがいます。
けれども、それは一部の宗教団体のいかがわしい話にとどまりません。
私たちだって気を付けていないと、自分のために、自分を正当化するために、
神様の名前を巧みに利用するということをしてしまうのです。
神の御名をみだりに唱えるな、とは、そうやって神の名を利用して
自分を富ませるようなことをしてはならない、ということです。
神のお名前を、そのお名前にふさわしく唱えなさい。
それが「御名が崇められますように」という祈りの意味であります。
今晩の箇所は、以前使っていた聖書翻訳では「御名が崇められますように」
と訳されていました。最新の翻訳である「新改訳2017」においては、
このところを「御名が聖なるものとされますように」と訳しています。
カトリックの方々が用いる主の祈りの翻訳においては、
以前から「御名が聖とされますように」という言葉でした。
「御名が崇められますように」と「御名が聖とされますように」。
この二つは、言葉としてかなり違う印象を受けます。
では、原語はどうでしょうか。ここにはもともと、
「崇める」と「聖とする」という二つの意味が含まれています。
そもそも「聖とする」「聖別」とはどういう意味でしょうか?
旧約聖書を見るとよく分かります。
旧約の民は、イエス・キリストの十字架の贖いをいただいて
おりませんでしたので、自分の家畜の中で最も良い、
傷のないものを選んで神様に献げたのです。
私たちは、献金するときにお財布からサッと千円札を
取り出すかもしれませんが、旧約の民のいけにえはそうではありませんでした。
最も良い家畜を選び分けて、これは神様に献げるものと決めたら、
その家畜に傷一つつけることがないようにと細心の注意を払います。
他の家畜とは異なる扱いをしたのです。これを聖別と言います。
「御名が崇められますように」と祈っておりますと、
私たちは「多くの人々が神様を崇めるように、礼拝するように」
と祈っているように受け止めやすいのです。
つまり、「私たちが神様を崇めることができますように」と考え、
祈りの主語を「私たち」にしてしまう。しかし、それでは
祈りの中心がずれてしまいます。
ここで私たちが意識すべきことは、「あなたの御名が崇められますように。
あなたが、ヤハウェが、崇められますように」ということです。
主語は「あなたの御名」、つまり「神様ご自身」なのです。
では、神の御名が崇められるために、私たちに何かできることがあるのでしょうか。
罪人である私たちがどんなに神を崇めても、それは本来、
神が持っておられる栄光にまったくふさわしいものではありません。
人間が神様にノーベル賞や国民栄誉賞をお渡ししたとして、
それによって神が栄誉を受けるのかと言えば、そうではない。
ですから、私たちが神を崇めると言うとき、
それは神をふさわしく神とすることです。
神様というお方を、その存在にふさわしく聖別するということです。
そして、それは本来、私たち人間がすることでも、
できることでもありません。
神様の聖さを守ることができるのは、ただ神様だけです。
「白さ」を保つことができるのは、白いものだけです。
私たちが白さを保とうと思って手を触れれば、
それでたちまち汚れがついてしまう。
ですから、私たちは神様の聖さが保たれるように祈るのみです。
いや、もっと言うならば、私たちが祈ることによって
神様の聖さが保たれるわけではありません。
神が聖いということは完全な事実であって、私たちの祈りの助けを
必要とするものではありません。
けれども、そのことをあえて祈るように、しかも主の祈りの最初の言葉として、
イエス様は私たちに与えてくださいました。
これは、祈りの本質にも関わることであります。
主の祈りを私たちが祈ることができる特別な恵みは、
これがイエス様によって与えられた祈りの手本である、
というところにあります。
つまり、これは私たちの内側から生まれた祈りではありません。
私たちの外側から与えられた祈りです。
例えば、もし私たちが祈りの模範を示そうとして祈祷文を作るとしたら、
祈りの初めに「御名があがめられますように」と祈るでしょうか。
そうは思えません。私たちは、それよりももっと大切な祈りがあると
考えるのではないでしょうか。
世界の平和、苦しむ人々の助け、それぞれの人生の支え、
守り、癒し。色々あるかもしれません。
しかし、「御名があがめられますように。御名が聖とされますように」
とは、なかなか祈らないのではないでしょうか。
私たちにとって、真っ先に必要な祈りとは何でしょうか。
それは、「神の御名が、神の御名としてふさわしく聖め分かたれていること」です。
けれども、そのことの意味は、私たちにはなかなか分かりません。
人生には、もっと大切に思えることが毎日たくさんあります。
目覚めた瞬間から、「あぁ、神様、助けてください」と祈る朝もあります。
「神様の御名がどうであろうが、私の抱えている問題が解決しない限り、
どうにもならない。神の御名云々よりも大切なこと、重要なことが、
この世の中には溢れている」。
私たちは、そう考えるのではないでしょうか。
けれども、神様を信じること、信仰することの本質は、
このような、ごく当たり前に思える考えから離れるところにあります。
私たちは、主の祈りを学びながら、祈りとは何かを学んでいます。
私たちの日々の生活の中に祈りの楔が打ち込まれることで、
私たちの世界観が変えられていく。
私たちの考え方が変えられていく。
そして、神の国が見えてくる。
私たちは、そのような祈りにおける信仰の成長へと招かれているのです。

2.神の最善に信頼する
8年前に、バッハが仕えたトーマス教会に行く機会が与えられました。
平日に、賛美礼拝、音楽礼拝のような機会がもたれていました。
そこには、800年の歴史を持つ聖歌隊がありました。
そして、世界屈指のオーケストラであるゲヴァントハウス管弦楽団の
メンバーによって編成される、教会のアンサンブルがありました。
バッハの時代、最高の音楽は教会の中にありました。
現代は違います。最高の音楽を聴こうと思えば、
高いお金を払ってコンサートホールに行かなければいけません。
けれども、ライプツィッヒでは、今も世界最高水準の音楽が
教会の中に生きているのです。
それが礼拝の中にあることに感動しました。
そして、その最高の音楽を奏でる演奏者たちの姿が、
礼拝を献げる人々の目にはまったく映らないのです。
聖歌隊と管弦楽団は、会堂の後ろ、2階席にいます。
礼拝を献げている人たちの頭の後ろから、
ただ賛美の演奏だけが聞こえてくる。視覚的には見えません。
それは、会堂に場所がないから止む無くそうなっているのではなく、
見えない場所がふさわしいとされているのです。
人が注目を集めてはいけないのです。
どんなに優れた人でも、どんなに思いやりがあっても、
人間中心ではいけないのです。
私たちが礼拝に仕える心、礼拝で奉仕する姿勢は、
自分を神様の栄光の陰に隠すことです。
神様だけが崇められ、神様の輝きだけが表される礼拝式のために、
私たちは仕えるのです。
そこで人間の勝手な自己主張・自己中心が取り去られることによって、
私たち人間に与えられる喜び、力、希望を、
集められた一人ひとりが体験することができるのです。
詩篇121:1–4「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。
私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
見よ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」
私たちの助けは、いつも天地を造られた主から来ます。
その主を貶める私たちの自己中心は、結局、自分で自分の首を
絞めるようなことではないでしょうか。
私たちはしばしば「あの人、悪気はないのだけれど」とか、
「良かれと思ってやったのですけれど」などと言います。
良かれと思って、悪気なくやった。
けれども、結果としては悪いことになってしまった。
そういうとき、私たちは「だから仕方ない。だから、やむを得ない」
と言い訳したくなります。
けれども、悪気なくやったから仕方ないのではありません。
むしろ、私たちはまさにそこにこそ、人間の罪の本質を
認めなければいけないのではないでしょうか。
「良かれ」と思って、神を押しのけ、良いことをしている気になって、
そうやって知らず知らずのうちに誰かを傷つけ、問題を生じさせてしまう。
そこに、人間の罪があるのです。
子育てを考えたときに、確信的に子どもを
傷つけようとする親は多くないでしょう。
むしろ多くの場合、「この子のために」と信じているのです。
けれども、その「子どものために良かれと思って」という気持ちが、
いつの間にか親の願いや不安を子どもに押しつけるものとなり、
かえって子どもを苦しめてしまうことがあります。
一番やっかいなのは、はっきりした悪意ではありません。
「良かれ」と思って、「悪気なく」、相手を支配してしまうことなのです。
子育てにおいても、教会の奉仕においても、
様々な事柄において問題になるのは、「良かれ」と思って、
良いことをしているつもりで、結果として神を押しのけて進む人間の罪です。
ですから、私たちは「悪意はない」とか「良かれと思った」などと
言い訳をしてはいけません。
それこそが罪の本丸だとわきまえて、悔い改めなければいけないのです。
神が神として聖め分かたれていてください。
これは、私たち自身にとっての切なる願いです。
しかし、それはまた、「願わくは、御名を正しく仰ぐことを許してください。
神様、あなたを正しく神様として聖別することを、私たちにもさせてください」
という、私たちを主語とした祈りにもつながってくるでしょう。
今、私たちに本当に必要なことは何でしょうか。
それは、神を神として仰ぎ、神に信頼して生きることです。
私が神ではないことを弁え、神様に従って生きることです。
私の良かれ、ではなく、神の最善に信頼することにほかなりません。
困難の中に置かれた方の切なる祈りに、
ご聖霊の豊かな働きをしばしば感じます。
なぜでしょうか?
主に頼る以外に望みがない、そのような状況においてこそ、
祈りの真実が働くからです。神を神とする心が、
困難の中でこそ形作られるのです。
しかしながら、困難においてのみ、
私たちの頼るべきお方は神様なのでしょうか。
平時は、神様がいなくても大丈夫なのでしょうか。
そうではありません。順調な時も、逆境の日も、
どんな時にも私たちの頼るべきお方は主ただお一人です。
ですから、主の祈り私たちに教えています。
「主の御名が聖とされますように」、
神を神として崇める心を私たちにお与えください。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。

