ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


1.戒めという重荷を背負わせる


先週学びました箇所から、再びパリサイ人とイエス様の問答が始まりました。

イエス様は「わざわいだ」とパリサイ人を厳しく非難されました。

その中心にあった問題は偽善です。外側を良くすることで、

内側をごまかそうとする偽善の問題。

今晩の箇所においても、42節、43節、44節と、

「わざわいだ、パリサイ人」という厳しい言葉が続きます。

そして、その偽善の問題がさらに深く掘り下げられていくのです。

先週学びましたことは、日常を汚れたもの、非日常を聖なるものと

区別することで、汚れの中に生きている自分を

ごまかそうとする問題でありました。

伊豆半島には様々な新興宗教の大施設があります。

なぜあのようなものを造るのか。

教祖や宗教団体の権威付けであるとともに、

非日常の創出ということがあるのでしょう。

日常を全部帳消しにしてくれるような、聖なる空間、

ありがたい場所を造る。そうやって外側が聖められるような感覚の中で、

内側の汚れから逃れたような気持ちになる。

けれども、実際には私たちの内側は、そうやってごまかすことで

さらに汚れていくのです。


今晩の箇所においても偽善が問題になっていますが、

さらにその内容は深められていきます。

46節
「しかし、イエスは言われた。『おまえたちもわざわいだ。

律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、

自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。

わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、

彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ』」


イエス様がおっしゃっていることは、とても分かりやすい。

当時の律法学者たちは、旧約聖書の律法を現実の生活に適用するために、

非常に細かな規定を定めていました。

例えば「安息日を守って、これを聖なるものとせよ」

というモーセの十戒があります。

この戒めを実際の生活に適用するときに、

どのようにすることが安息日を守ることであり、

どのようにすると安息日を汚すことになるのか、具体的な説明が必要になる。

それを一手に引き受けていたのが律法学者たちです。

針仕事はどうなのか。文字を書くことはどうなのか。

種をまくことはどうなのか。

どの程度の距離なら歩いて良いのか。

そうやって一つの戒めについても細かな規定を積み重ね、

それを守るように教えていました。

一般の民衆は、そういう律法学者の教えを神のことばとして信頼し、

それに従おうとしました。それが信仰であり、聖さであると信じていたのです。


 そうやって重たい荷物を人々に担わせる。

しかし、誰もそんなものは担いきれないのです。

担えない重荷、守りきれない律法の規定を次々に民衆に教え、それでおしまい。

あなたがたは担えない重荷を民衆に負わせるだけで、

その担えない荷物をどうするのか、守れない律法をどうするのか。

民衆の心に寄り添う思いを一つも持ち合わせていない。

イエス様はそうおっしゃって、お怒りになられたのです。

 いや逆に、民衆が担えないものを負わせること自体に

意味があったとも言えるでしょう。

次々と律法の規定を聞かされて、一般の民衆は、

まったくその基準に及ばない自分たちを突き付けられる。

そのときに、彼らは律法学者に服従し、宗教指導者に

依存せざるを得なくなります。

人々をコントロールし、自分たちの地位を確立するために、

民衆には及びもつかない律法規定の数々を浴びせかける。

そういう教師としてのあり方が「わざわいだ」とイエス様は言われるのです。


 神学生時代、ある年配のクリスチャンが、

牧師についてこんな少し辛口のたとえ話をしてくれました。

ある人がパラシュートで降下していたところ、風に流されて木に引っかかり、

身動きが取れなくなってしまいました。

そこへ一人の人が通りかかったので、

「すみません。ここはどこですか」と尋ねると、

その人は冷静に「木の上です」と答えました。

すると、ぶら下がっている人が言います。「あなた、牧師でしょう」。

かなり辛口のたとえ話です。つまり、言っていることは正しい。

しかし、その正しさが、今困っている人を少しも助けていない。

そういう牧師への批判であり、また神学生の私に

「そういう牧師になるな」という忠告でもありました。



私たちが本当に自分の問題で苦しんで、どうしたら良いかと悩んで相談に行く。

そのときに「あなたはこれこれこうだから駄目なのです。

あなたはこういうところが駄目なのです」と言われて、

その指摘がどれほど正しかったとしても、

その正しさだけでは何の救いにもならない。

そういう駄目な私が、ではどうしたら良いのか。どうしたら救われるのか。

そのことを知りたい、そのことを求めているのです。

律法教師たちは、人々に

「だからあなたたちは駄目なのだ」

「あなたたちは律法を守れていない」

「私たちが教えなければ駄目なのだ」と言う。

しかし、それでは人々の重荷は少しも軽くなりません。

むしろ、自分ではどうすることもできない絶望が、

宗教指導者への依存へと変わっていきました。

ここに「わざわい」の深刻さがあります。

本来、神のことばは、人を神様のもとへ導くために与えられたものです。

ところが律法教師たちは、神のことばを語りながら、

結果として人々を神様から遠ざけてしまった。

神様により頼ませるのではなく、

「この先生がいなければ自分は駄目だ」と思わせてしまったのです。

神のことばを語る者が、そのことばによって人を神様へ近づけるのではなく、

かえって神様から遠ざけてしまう。

だからこそ、イエス様は「わざわいだ」と厳しくおっしゃったのです。



2.重荷を担ってくださる主

一方で、イエス様はどうだったでしょうか。

イザヤ書53章には、来るべきメシアについて、このように語られています。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」。

人に重荷を負わせるのではなく、私たちの重荷をご自分が担ってくださる。

そして主イエスご自身も、マタイの福音書でこう招いておられます。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます」。

重荷を負って苦しんでいる者に、さらに重荷を加えるのではない。

「わたしのもとに来なさい」と招き、その重荷をご自分で担ってくださる。

それが私たちの救い主なのです。


 42節「だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、

うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、

正義と神への愛をおろそかにしている。

十分の一もおろそかにしてはいけないが、

これこそしなければならないことだ」。


パリサイ人たちは旧約聖書の律法に従い、

十分の一をささげていました。

それも主要な収穫物だけではなく、ミント、うん香、あらゆる野菜に至るまで、

きちんと十分の一を納めていた。非常に厳格であったのです。

それ自体が悪いわけではありません。

問題は、その厳格さが、いつの間にか神様を愛すること、

人を愛し正しく扱うことから離れて、

「自分はこれだけ正しく信仰を守っている」という

自分の正しさの証明になっていたことです。

神様に向かうはずの信仰が、いつの間にか自分自身を

誇るためのものになっていたのです。


 そうなると、さらにその先に、

「自分たちこそがこの信仰を守っている」という思いが生まれます。

自分たちの厳格な信仰が神殿を支え、ユダヤ人の信仰を支え、

ユダヤ社会そのものを支えている。

自分たちのように聖書に精通し、律法を厳格に教える者がいなければ、

この社会は立ち行かない。

彼らはそのような強い自負心を持っていたのでしょう。

そして、それは彼ら自身の内では、必ずしも悪意ではなかったと思います。

むしろ、「自分たちは神のために正しいことをしている」という正義感であった。

だからこそ、彼らは良かれと思ってイエス様を敵視し、

イエス様を排除しようとした。

しかしイエス様は、まさにそのあり方を「わざわいだ」とおっしゃるのです。

先ほどの律法教師たちの問題も同じです。

「私たちが教えなければ、この人たちは駄目になる」

「私たちが支えなければ、この信仰は成り立たない」。

そうやって、いつの間にか神様ではなく、自分たちが中心になっていきます。


私たちはどうでしょうか?

「この家庭を支えているのは私だ」

「この職場は自分がいなければ回らない」

「この教会は、あの人がいなければ成り立たない」。

そうやって、自分や誰かの力がすべてを支えているように錯覚してしまう。

そうして、良かれと思って人を傷つけ、人を惑わし、

神様をも排除してしまうような過ちを犯します。

家庭も、仕事も、教会も、すべて神様の御手の中で支えられていることが、

容易に見えなくなってしまう。

主はイザヤ書50章2節でおっしゃいました。

「わたしの手が短すぎて贖えないのか。わたしには救い出す力がないのか」。

神様の御手が短いから、私たちが代わりに助けなければならない。

そのようなことはありません。


一方で、私たちが奉仕すること、献金することが無駄なのではない。

奉仕とは、困っている神様を助けることではありません。

お一人であらゆることがおできになる神様が、

私たちをキリストのからだの器官として選び、その御業の中に加えてくださる。

神様は私たちと一緒に、ご自身の御業を進めたいと願ってくださっているのです。

神様の御業に用いられることと、自分が神様の御業を支えていると思うことを、

混同してはいけないのです。


 しばらく前に、友人がお父上を亡くされて葬儀で帰京された際に、

親戚や友人から、これまで知らなかった様々な

家のエピソードを聞かれたそうです。

そうしましたら、亡くなったお父上のおじいさんが、

日本の有名な歌人・詩人である石川啄木にお金を貸していて、

まだ返してもらっていないことが分かったというのです。

それを知ってから、啄木の歌が違って聞こえるようになった、

と友人は言いました。

啄木が歌いました。

「友がみな、われよりえらく見ゆる日よ、花を買ひ来て妻としたしむ」。

周りの友人たちがみな自分より立派に見えて、

惨めな気持ちになった日に、花を買って家に帰り、

妻と一緒にその花を眺めて心を慰める、そういう歌です。

自分の曾祖父からお金を借りていた啄木の生活を知ると、

この有名な歌の背景に自分の曾祖父も少し関わっているように思えて、

歌の響きが違って感じられる。

自分が、啄木の詩にほんの少し関わっているような気がして、

それだけでもうれしい。良くわかることです。

ましてや私たちは、神様の救いの御業に実際に加えていただいている。

私たちの一つひとつの奉仕が、神様の愛の御業の中で用いられていく。

自分が神様を支えるのではありません。

神様に支えられながら、その御業に加えていただく。

神様も、私たちの参加を喜んでくださる。

一人より、あなたと一緒にやりたいと。ここに奉仕の喜びがあります。

私たちが神様の御業を支えているのではありません。

私たちは神様の御業のために、用いられているのです。

随分前に、こんな相談をいただいたことがありました。

非常に能力のある女性で、早くにご主人を亡くされ、

重度の障害を持つお子さんを、仕事をしながら

本当によく支えておられました。

その方が、「自分が死んだ後、この子はどうなってしまうのでしょう。

私がいなければ生きていけないと思うと、心配でたまりません」

とおっしゃったのです。

それは、障害を持つお子さんの親御さんにとって当然の不安でありましょう。

しかし、牧師である私に相談してくださったので、

よくお話を伺ったうえで二つのことを申し上げました。

一つは、「自分がいるから、この子は生きていられると思うことをやめましょう」。

もう一つは、「あなた自身も、自分の力で生きていると思うことをやめましょう」

ということです。

 私たちは、自分の力で自分を生かしているのではありません。

神様によって今日も生かされています。

そうであるならば、私たちの愛する人もまた、

私たちだけの力によって生きているのではない。

その人を本当に生かしておられるのも神様です。

できる限り愛し、支え、与えられた責任を果たしていくのは当然のこと。

しかし、その人の人生そのものまで自分が背負わなければならないわけではない。

主が支えてくださいます。主が責任を取ってくださいます。

私たちは精一杯主の御業に参加し、そして主に委ねることができるのです。

 大切なのは、自分がすべてを支えていると思わないことです。

私たち自身も神様に支えられ、愛する人もまた神様に支えられている。

そのことを信じながら、与えられた責任を精一杯果たしていくのです。

自分一人ですべてを背負い込むのではなく、主に委ねつつ、

その御業に加えていただく。できることをなし、

できないことまで抱え込まず、主に信頼して歩む。

それが、信仰によって生きるということです。

そして、主に信頼して生きる人は、周りの人を自分に依存させるのではなく、

その人もまた主に信頼して生きることができるように導いていくことができます。

希望はそうやって与えられるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


1.「日常」は「汚れ」なのか?                   

37節「イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、

自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。

そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた」。


久しぶりにパリサイ派の人々が登場します。

すでに彼らはイエスを殺害することを思い定めておりましたが、

この所におけるイエス様との激しい議論は、

彼らのそのような思いをさらにエスカレートさせる

決定的な出来事になっていきます。

39節でも面と向かって「あなたがたパリサイ人は」とおっしゃっていますし、

42節・43節・44節と重ねて「わざわいだパリサイ人」

と激しく彼らを非難される。当然53節にあるように

彼らは激しい敵意をイエス様に向けたのであります。


それはパリサイ人に対する憎悪を爆発された

ということではもちろんありません。

ここでパリサイ人たちと展開される議論、この場所が

イエス様が戦っておられるサタンの働きの核心の部分であったということです。

ですから私たちはこの箇所を通して、私たちの内側にある罪の問題。

その場所に縛られてしまうサタンの働きの根深さ、

そこに備えられている解放の道筋を読み取っていかなければいけないのです。


ことの発端は38節の出来事にありました。

「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いを

なさらないのを見て驚いた」。


ここで手洗いが問題とされていますことは、

もちろん衛生面を気遣ってのことではありません。

宗教儀式としての手洗いのことが言われています。

マルコ福音書の並行記事を見ますと、

「ユダヤ人は手を良く洗わないでは食事をしなかったし、

市場から帰ってきた時には体をきよめてからでないと食事をしなかった」

という但し書きがなされています。

汚れた手でパンを食べてはならない、食事をしてはならない、

これはユダヤ社会における常識でありました。

例えば新約聖書が書かれたギリシャ語で「汚れた手」と言われる時に、

「汚れ」という単語は「コイノス」、これは「日常的」と言う意味の言葉です。

汚れた手、というのは「日常的な手」である。

これは宗教指導者たちの聖書理解に繋がる事柄であります。

当時のユダヤ社会、その宗教感は「日常」=「汚れ」だったのです。


これはしかしユダヤ社会に限ったことではありません。

例えば日本においても、「日常生活」を「世俗の生活」などと表現いたします。

今晩、私たちがこのように神様の御前で礼拝を捧げる時間、

この時間は非日常、聖別された時。非日常的であるから聖い。

そこで生まれてくるのは、日常を消すことの中に

聖さが生まれてくるという発想です。

特にユダヤ人が汚れを聖めるということで重んじたのは、

市場から帰って来た時のことです。

市場、今でいえばスーパーマーケットのようなものですが、

そこから帰って来た時には手だけではすまない。

体全体を聖めないと食事をしない、これもまたユダヤ人の常識でありました。

なぜ市場から帰ってくると汚れるか。

市場というのはお金がやり取りされる場所です。

勿論働いて財産を得ることは悪いことではありません。

しかしお金が絡む時に私たちの心には、しばしば

汚れた思いが忍び寄ってきやすい。

市場でありますから、価格交渉をする訳です。

売り手は少しでも高く売ろうとするし、買い手は安く買おうとする。

そこで駆け引きが始まる。ユダヤ人は今も昔も商売上手でありますから、

常に激しいやり取りがある。

そういう所で自分たちの汚れを痛感するのです。


そうすると、このままの自分では食事を取ることが出来ない。身を聖めなければ。

この感覚というのはどこか共感できる所があるかもしれません。

日常というのはこういう所がある。

生きていく為に綺麗ごとではすまない事があって、

教会で過ごしている時のように澄ましてばかりもいられない。

そうやって一週間の日常生活の中で汚れた自分を礼拝で聖めて頂いて、

また新たな生活に出ていくという感覚。

そういう所で彼らが市場に行った後は必ず聖めの儀式を入念にしていた。

よく分かるようであるのですが、しかしそこで一つの疑問が生じます。

では彼らは市場に行かなければ汚れていなかったのだろうか?

そこで激しいお金のやり取りをしていなければ自分たちは聖かったのか?


私たちも同じです。家族を養っていかなければいけない。

会社を潰す訳にはいかない。自分にも責任がある。

そういう思いで、神様に見せられない生き方をした、

その自己嫌悪の中で聖めを求める。

しかしながら、そういう所に一つの落とし穴が待っている。

ではそういう人が定年退職して職場から解放され、

もうあのようなことはしないで済むようになった。心穏やかに生きられる。

そうなったから、もう自分は聖い生活を送ることが出来ている。

もう神様の御前に自らの汚れを恥じる必要が無くなった。

そのように考える時に、私たちは聖さ・汚れの本質を見失っているのです。


市場に行って汚れたと自覚する時、それは、

「市場に行かなければ私は汚れていない」という傲慢と隣り合わせです。

「日常は汚れている」という思いは、「日常から離れている今の私は聖い」

という誤解と表裏一体なのです。

今晩、このように主の御前で礼拝を献げている私たち一人一人の心も、

まさに問われているのではないでしょうか。

このような宗教指導者たちに対する主イエスの言葉は、非常に厳しいものでした。

39節からです。

「すると、主は彼に言われた。『なるほど、あなたがたパリサイ人は、

杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。

愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか』」。

「愚かな者たち」と、イエス様は激しくお怒りになっておられます。

なぜでしょうか。彼らが外側ばかり、うわべばかりを整えながら、

内側の問題には目を向けようとしなかったからです。

あなたたちは自分の聖さを主張する。自分の正しさを主張する。

神の律法を守っていると言う。しかし、それは外側だけではないか。

あなたたちの心は、神様から遠く離れているではないか。

イエス様はそう言われるのです。


きよめについての戒めも、まさにそうです。

市場に行かなければ聖いのでしょうか?

神殿から帰ってきた時には聖いのでしょうか?

祈っている時だけは聖いのでしょうか?

食事の前に手を洗えば、それで聖くなるのでしょうか?

確かに、私たちの日常は汚れに満ちています。

だから神様と交わるためには、日常を離れ、汚れをきよめなければならない。

この考え方には、なるほどと思わせるものがあります。

しかし裏を返せば、「きよめの儀式をすれば私はきよくなる」

「祈ればきよくなる」「人の悪口を言わなければきよくなる」

ということになります。そこに私たちの高慢が現れるのです。

日常の中にある負い目が、非日常における傲慢を生む。

外側をどれほどきれいに整えても、私たちの内側にある問題は、

それだけでは何も解決しません。

それどころか、外側を整えることで「自分はきよくなった」と思い込むなら、

内側の汚れは見えなくなり、かえって深くなっていくのです。


ですから41節。

「とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、

あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります」


イエス様は、「内にあるものを施しに用いなさい」とおっしゃいます。



2.内にあるもの

では、この「内にあるもの」とは何でしょうか。

私たちが外側をよく見せようとするのは、結局のところ、

自分の内側をよく見せたいからです。

自分の本性、自分の内実、本当の自分。そこが一番大切だということを、

私たちは分かっている。

だからこそ、それをよく見せるために外側を整えようとするのです。

極端なことを言えば、人のために犠牲となり、自分の命まで投げ出した人は、

イエス様以外にも歴史上たくさんいます。

しかし、自分の胸に手を当てて考えてみれば分かります。

人間には、自分を正しい者として示すためであれば。

自分を愛に満ちた人間、義なる人間として示すためならば、

どんな犠牲でも払える。命をかけてでも自分をよく見せたい。

自分で自分の正しさを証明したい。

この自己義認の欲求は、とてつもなく強いものです。


イエス様の十字架が素晴らしいのは、人々のために命を捨てられた、

その行為の大きさだけではありません。

私たちは、良いことをする時でさえ、それを自分のために

用いてしまうことがあります。

人を愛することも、犠牲を払うことも、

「私は正しい人間だ」「私は愛のある人間だ」と、自分の価値を確かめ、

自分をよく見せるためのものになってしまう。

しかし、イエス様の十字架は違いました。

イエス様は十字架において、ご自分のために何かを得ようとはされませんでした。

ただ私たちが救われるために、ご自分を献げてくださった。

そこには、自分を義とするためではなく、

ただ私たちを愛する愛がありました。

ですから、イエス様が「内にあるものを施しに用いなさい」と言われる時、

それは単に、外側にもう一つ善い行いを加えなさい、

ということではないのでしょう。

外側を整えることによって自分の内側をよく見せようとする、

その生き方の方向そのものを変えなさい、ということです。

私たちは、外側の行いによって自分の内側を満たそうとします。

良いことをして、自分は正しいと思いたい。

人から認められて、自分には価値があると思いたい。

しかしイエス様は、その方向を逆にされる。

自分の内側を満たすために外側を整えるのではない。

むしろ、自分の内にあるものを人のために差し出していく。

自分の正しさも、自分の評価も、自分の価値さえも、

自分で守り、積み上げようとすることを手放して、神様に委ねていく。

その時、私たちが必死になって自分をきよく見せようとしなくても、

神様ご自身が私たちをきよめてくださる。

イエス様は、そのような生き方へと私たちを招いておられるのです。

3.聖い場所を出て

ピリピ2:6以下にこのように教えられています。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。

人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、

実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、

すべての名にまさる名をお与えになりました」。


私どもへの愛ゆえにイエス様はご自分を無にされた。

自分を無にする、自分を手放されたということです。

そこまで愛に生きられた御子キリストを、神様が高くあげられ、

全ての名に勝る名をお与えになられた。

内側を献げた時に、手放した時に、それまで私たちが

何とかしなければと執着していた場所を神様ご自身が責任とってくださる。


イエス様が2000年前、神の姿を捨てて人となり、

馬小屋に、貧しい夫婦の子としてお生まれ下さった。

神殿の聖さにではなく、人々の日常の営みのただ中に入ってきて下さった。

そのように、内側にも責任を負ってくださる神様に信頼して、

外側も内側も献げて飛び込んでいくこと。

そして、そのキリストに従うということは、私たちもまた、

聖い場所にとどまって人々を外から眺めるのではなく、

その人々のただ中に入っていくということではないでしょうか。


聖い場所に立って、汚れた人に救いの手を差し伸べるのではありません。

あちらとこちら、私たちが無意識に引いている一線を乗り越えて、

私たちがあちらの人になって、そこに用意されている

神様のプレゼントとしての義に共に与っていく姿勢。

そういう教会として、キリスト者として生きることが求められている。


日本の近代キリスト教は、明治以来、旧士族に始まり、

知識人をはじめとするインテリ層を中心に根を下ろしてきたと言われています。

実際、東京大学の総長や総理大臣など、日本社会の最前線に立つ人物の中にも、

キリスト教と深い関わりを持った人々が少なくありませんでした。

それほど社会の指導層にまで影響を与えてきたにもかかわらず、

日本のクリスチャン人口は極端に少ない。

その要因について解明することは簡単ではありません。

ただ、教会の側に問われる一つのこととして、

この「こちら」と「あちら」という区別があるのではないかと思うのです。

聖なる者である私たちが、世俗の人々に救いの手を差し伸べてあげる。

こちら側にいる私たちが、あちら側にいる人々を何とかこちらへ連れてくる。

そのような構図が、知らず知らずのうちに教会の中に生まれてはいないでしょうか。

人々が教会に感じる敷居の高さ。

その中には、私たちキリスト者が悔い改めなければならない

ものもあるのではないでしょうか。


聖なる場所に身を置くことによって、自分まで聖い者であるかのような

傲慢に陥るのではない。

私たち自身が世俗のただ中に生き、そこでただイエス様の十字架によって

与えられる救いと義により頼むほかない一人の罪人として生きるのです。

「あちら側」の人をこちらへ呼び寄せるのではなく、

私たち自身が「あちら側」に立ち、そこで人々と共に救い主キリストを仰ぎ見る。

それが、私たちに与えられている信仰者としての姿ではないでしょうか。


少し音楽の話をして終わりますが、テレマンという、

バッハとほぼ同じ時代を生きた、ドイツ・バロックを

代表する大作曲家がおります。

バッハは、宗教的な超越性を音楽によって表現した作曲家と言われます。

音楽を通して神の言葉を語ることに生涯を捧げた人物です。

それゆえ、バッハの音楽には独特の厳粛さがあります。

神の聖さ、愛、そして慰めが、その音楽からあふれ出してくる。


一方、テレマンの音楽は、宗教音楽でありながら

「世俗的」と評されることがあります。

「世俗的」という言葉には、ともすると軽々しさという否定的な響きが伴います。

しかし私は、テレマンの持っているこの世俗性こそ、

今の日本の教会が学ぶことのできるものではないかと思うのです。

ある音楽学者はテレマンの音楽について、彼は聖職者の口調ではなく、

友達同士、兄弟同士のような親密さの中で神を証しした、と評しています。

つまり、聖職者が高いところから「あなた」に語りかけるのではない。

友人が隣に座って「きみ」と語りかける。

そのような響きを、テレマンの宗教音楽は持っているというのです。


人々から離れた聖なる場所から神様を語るのではない。

友人として、仲間として、同じ一人の人間として、その人の隣に生きる。

そして、自分自身もまた神様の義によらなければ立つことのできない者として、

ただイエス様の十字架を仰ぎ見る。

「あちら側の人」にキリストを教えるのではなく、

「あちら側」に自分も立って、一緒にキリストを仰ぎ見るのです。

ひたすら神様から与えられる義を受け取り、イエス様の十字架だけを仰ぎ見、

握り締め、すがって生きていく。

そのような証し人として、私たち一人一人の歩みを

全うさせていただきたいと思います。



大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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異なることをご理解下さい。


1.あなたの目が健やだったら                       


先週は預言者ヨナと悔い改めたニネベの町、


そしてソロモン王とその知恵に驚いたシェバの女王について

イエス様が言及される箇所を学びました。

ローマに抑圧されるイスラエルにとって、

ヨナのもたらした神の裁きの言葉の前に、異邦の王様から家畜までが

一斉に跪いたニネベの物語。

そして神の知恵の言葉を語るソロモン王の前に、

遠くシェバの女王が感嘆したという物語は現実の惨めさを忘れられる

慕わしい過去の栄光でありました。

しかしながら神様がヨナの物語を通して、

シェバの女王の物語を通して語っておられることは

そのようなユダヤの栄光ではありませんでした。むしろその逆。

欠けの多い預言者ヨナの言葉、ソロモン王の言葉であっても、

彼らを用いられる神様のご主権が働くならば、大栄光があらわされる。

ユダヤ人の愚かさに勝る主のみ力、そして徹底的な悔い改めの姿を見せた

異教徒たちの信仰。そういうことを聖書は教えていたのです。

けれども、そうやって与えられた旧約聖書の影を、

イスラエルは正しく見つめることが出来ませんでした。

それらの影の本体であるキリストを見抜くことが出来ず、

影から自分勝手な本体を想像し、期待し、真の救い主を排斥したのです。

そういうユダヤ人たちに対してイエス様は34節にあるように

「あなたの目が健やだったら」とおっしゃられるのです。


33節から学んでいきましょう。

「だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。

燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです」。


入って来た人たちのために、とありますから

家に入ってくる人が想定されています。

古代の夕暮れというのは現代人には想像がつかない深い闇に覆われます。

ましてや室内であれば何も見えない。

客人が家に迎えるのであれば明かりは欠かせません。

そうやってせっかく灯して客人を招きいれようとする明かりを、

わざわざ穴蔵の中や升の下に置いてしまう人などいないであろう、

とイエス様はおっしゃっている。一つの例えばなしであります。



そうして34節で

「からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、

目が悪いと、からだも暗くなります」


と言われたのです。

あなたの目が健やかなら、この健やかという言葉は他の翻訳では

「あなたの目が澄んでいれば」と訳されます。

これは先週学んだ29節にありました「この時代は悪い時代です」

とイエス様が嘆かれた「悪い時代」、この言葉と対になっていると思われます。

しるしを求めるユダヤ人。

すなわち、ヨナ・ソロモンのメッセージを、自分たちの栄光の物語に置き換えて、

過去の栄光を再びと期待するユダヤ人です。

そうやって神のみ言葉の真意を無視し、自分たちの思いを

満たすための物語に変えてしまう人々の姿を

「悪い時代」とイエス様は嘆かれました。

彼らの目は曇っていたのです。影から本体に至るのではない。

影から自分中心の勝手なものを想像してします。

もし彼らの目が澄んでいて、神様が与えてくださった影を

正しく見抜くことが出来たら。

そうやって、神様が与えてくださるものを正しく見抜く目、

澄んだ目を持つことが健やかさであるということです。


日曜日・月曜日と同盟教団の教団史編纂委員の皆さんが来てくださり、

熱心に伊東の宣教の歴史に耳を傾けていただき感謝をしました。

元々、同盟教団のアンナ・セットランド宣教師によって

伊豆に最初に設立されたのは、今は日本基督教団に属する伊東教会です。

月曜日は、伊東教会にお邪魔して90代半ばの最古参の信徒さんに、

古い伊東教会の様子を色々教えて頂きました。

私は長年に渡って調べているテーマがあって、セットランド宣教師が

130年前伊東で伝道を始めた時に、石や棒を投げつけられて迫害を受けました。

そのセットランド先生に、自分の隠居所を提供して

伝道の拠点としてくれた千葉医師という方がいたのです。

この千葉医師について、調べてきて、彼の誕生から

色々のことが分かってきたのですが、一つどうしてもわからないことがある。

千葉医師の奥さんは、伊東教会が設立されて最初の受洗者名簿に

名前が記載されます。

しかし、千葉医師自身の信仰の有無は分からない。

セットランドと出会う以前に、幾つかキリスト者との接触が

あったことは分かっています。

彼がキリスト者であったのか?

キリスト者になったのか?

私は、つまり千葉がキリスト者であったという記録を探しているわけです。

それで、90代半ばの伊東教会の信徒さんに、

千葉武人のことで何か信仰の有無について、聞いていることは無いか伺いました。

そうしたら、予想しない返事が返ってきたのです。

それは、130年前の伊東教会創設期よりは数十年後のことなのですが、

当時の教会は誰が洗礼を受けていて、誰が受けていないか。

そういうことはあまり深く考えていなかった。

とにかく、皆が喜んで教会に集まってきて、礼拝を喜び、

兄弟姉妹との交わりを楽しみ。

その教会の輪の中にいる人たちが、誰が洗礼を受けていて、

誰が教会員であるということを、今のように考える発想が無かった。

この教会は特にそうだった。

ですから、受洗者名簿というのは残っているけれど、

厳密では無いと思うというお話しでした。


洗礼というのはとても大切です。

実際、その高齢の姉妹がそのようにおっしゃりながら、

その方が洗礼を受けられた年にも、年間20人以上の方が

洗礼を受けておられた。洗礼を大事にしていたのです。

でも、それだけが教会における絶対的な価値観ではなかった。

教会を、礼拝を喜ぶ人々の無条件の輪が存在していた。

だから千葉医師がキリスト者であったかどうか分からないでしょうね、

というお答えは「なるほど」と唸らされるものでした。

ここにも澄んだ目があるなと、深く教えられる機会でした。


どうしても私たちは自己中心に物事を見てしまうのです。

勝手に自分の理想を相手に押し付けておいて、

自分の願うとは違う行動を相手が取ると、腹を立て怒るのです。

「あなたはこうであるべきだ。あなたはこういう人間であるべきだ」

と自分の理想どおりに振舞うことを押し付けてしまう。

逆に、そうやって押し付けられる相手の理想に適った自分であろうとして

苦しんでいるところが人間の内にはあります。

あなたの理想に適う私を演じ続けるから、あなたも私が欲しいものを

与え続けてくださいねという「共依存関係」は、

日本社会に根深い課題であります。

いや、それは本質的に、誰かと私の話しではないのです。

私たち自身が、自分のありのままの姿を受け入れられない。

自分の実情とは違う自分にあこがれて、

自分自身を苦しめたり、抑えつけたりしてしまう。

こういうことは教会においても常に注意していないといけません。

牧師や役員が望む信徒像の押し付け、信徒や役員が望む牧師像の押し付け。

そういうことの中で私たちの目は濁り、不健全になり、不健康になります。

私たちが望む相手とはちょっと違うかもしれない。

自分の理想とは異なっている相手をそのまま受け止め、受け入れ合い、

愛しあっていく。

その根拠は、神様があなたを喜び、神様が私を

愛してくださっているという事実です。

私たちは、関係性の中に神様のご主権を認めることを大切にしなければいけない。

私たちの理想をはるかに超えて素晴らしい計画を持っておられる神様に信頼して、

澄んだ目を持って隣人を受け入れ、澄んだ目をもって神様を見上げていく、

そういう信仰が教えられているのです。

2.からだの明かりは目

この時代の人々は、神様によって家の中へ招かれていました。

神様の光はすでにともされ、救い主イエス・キリストは

彼らの前に立っておられたのです。

けれども、彼らはその光の中に入ろうとはしませんでした。そ

れは、光が足りなかったからでも、明かりが隠されていたからでもありません。

その理由が、今学んだ34節に示されています。

イエス様は、「からだの明かりは目です」とおっしゃいました。


ここでは、明かりが二つの側面から語られています。

33節で語られていたのは、家の中にともされ、

入って来る人たちを照らす明かりです。

そして34節で語られているのは、その光を受け取る私たちの目です。

家の中がどれほど明るく照らされていても、目を閉じていたら、

その人には何も見えません。また、目が濁っていたら、

そこに光があっても物事を正しく見ることができません。

つまり、問題は光の側にあるのではなく、

その光を受け取る人間の目の側にあるのです。

目は、自分自身で光を生み出すものではありません。

外から与えられた光を受け入れ、その光によって周囲のものを見るのです。

目が健やかであれば、そこにある光を正しく受け入れることができ、

その人の全身は明るくなります。

どこに何があるのかが分かり、どちらに進めばよいのかも分かる。

しかし、目が悪ければ、どれほど明るい場所に立っていても、

その人の全身は暗闇の中に置かれてしまいます。

進むべき道が見えず、つまずき、自分がどこにいるのかさえ

分からなくなってしまうのです。


 神様の光であるイエス・キリストは、すでに彼らの前におられました。

ヨナにまさる方、ソロモンにまさる方が、神のみことばを語り、

救いを示しておられたのです。

それなのに、この時代の人々は、その光を光として認めることができませんでした。

自分たちの願いや期待によって目が濁っていたからです。

自分たちの望む救い主の姿にこだわり、神様が実際に遣わしてくださった

救い主を見ることができなかった。

光は目の前にあるのに、その光を受け入れる目がなかったために、

彼らの全身も、その内側も、暗いままだったのです。

ですから、大切なのは、神様にもっと別の光を求めることではありません。

すでに与えられている神様の光、イエス・キリストを、

澄んだ目をもって見つめることです。

私たちの目が濁り、キリストの光を受け入れることができなくなれば、

私たちの考えも、判断も、生き方も、すべて暗くなってしまいます。

しかし、私たちの目が健やかであり、

イエス・キリストの光を素直に受け入れるなら、

その光は私たちの内側にまで届き、全身を明るく照らしてくださるのです。

3.行為自体が目的

ある牧師が友人牧師に

「家の子どもは遊びが好きで好きで、どうしようもない。

遊び出したら夢中になって時間も分からなくなる。

ちょっと時間があれば、遊びに出かけてしまう。遊ぶために生きている・・・」、

そういう風に話しをしたそうです。

そうしたら、話しを聞いていた友人牧師が目を輝かせて

「素晴らしいことだよ。夢中になって遊ぶことができる心こそ、

礼拝者の心そのものではないですか」と答えたというのです。

このエピソードは示唆に富んでいます。

礼拝と遊びの共通点というのは、その行為自体が目的であるということです。

何かを得るための手段や方法では無い。

遊びというのは、それ自体究極的な目的であり喜びです。

同じように礼拝というのも、礼拝それ自体が究極的な目的・喜びなのです。

大人は、健康になるために、体を鍛えるために、友達を作る為に、

仕事にプラスになるから、そうやって何かに取り組む理由づけ、

動機付けを必要とします。

けれども子どもたちは、体を鍛えようと思って遊ぶわけではありません。

自分の将来のためにとか、人間関係の構築のために遊ぶなどと考えない。

遊ぶこと自体が目的であり、喜びとして完結しているのです。

私たちが神様を礼拝するとは、正にそういうことです。

今、こういう問題があるから、礼拝に出席して神様から力をいただいて…。

もちろん結果としてそういう恵みを礼拝式がもたらすということはある訳ですが、

その為に礼拝に通ってということであれば、

そこで私たちの目はやはり澄んではいないのではないか。

濁った目で神を見つめ、神を利用しようとしているのかもしれない。


礼拝にお出でになる動機は様々であってよいでしょう。

問題を抱え、その解決を願い、慰めや励ましを求めて教会に来始める。

もちろん、それでよいのです。

けれども、自分の願いがそのままかなえられ、満足することによって

信仰に至るわけではありません。

むしろ、願っていたものとは違っていても、

それをはるかに超えるものを神様が与えてくださることを知り、

信仰へと導かれていくのです。

ところが、「神様にはこういうお方であってほしい」と自分の願いを押しつけ、

その願いをかなえていただくために礼拝し、

クリスチャンらしく生きようとするなら、礼拝も信仰も、

自分の目的を果たすための手段になってしまいます。

そうなると、信仰生活はどこかで綻び始めるでしょう。

「信仰を持っているのに、なぜうまくいかないのか。

礼拝したのに、なぜこんなことが起こるのか。教会の人たちは、なぜこうなのか」。

そのような思いが次々と生まれ、最後には、

「こんな思いをしてまで礼拝に行く意味があるのだろうか」

と考えるようになってしまいます。

 夢中で遊ぶ子どもたちの目は澄んでいます。

遊ぶこと自体を喜んでいるからです。

しかし、別の目的や下心を持ちながら遊ぶ振りをする大人の目は、濁ってしまう。

同じように、礼拝にさえご利益を求めるとき、

私たちの目も濁ってしまうのです。

「あなたの目が健やかなら全身も明るくなります」。

光なるイエス様を一心に見つめるなら、私たちの全生活が

その光によって照らされます。

それは、信仰によって現状を自分の望むように変えてもらう

ということではありません。

私たちの生活にも、からだにも、なお多くの課題があります。

それでもイエス様を一心に見つめるなら、

今置かれている状況の中に神様の恵みを見いだし、

その光の中を歩むことができるのです。

私たちは、澄んだ目をしているでしょうか。

神様が招いてくださった礼拝という素晴らしい遊びに、

全力で加わっていきたいと思います。

ともに呼び集められた方々と心を合わせ、賛美し、祈り、みことばを聞き、

ささげ物をし、祝福の約束をいただく。何かを得るためではありません。

このような時を神様とともに過ごせること自体が、

私たちに与えられた大きな恵みであり、喜びなのです。

そして、この喜びに生涯をかけて加わりながら、新しい友を迎え、

その輪を広げていくようにと、私たちは招かれています。

今、澄んだ目をもってそれぞれの歩みへと出ていきたいと思うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。