ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。


1.「我」とは?

今晩の箇所には、ふしぎな出来事と教えが記されています。

14節「さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。

それは口をきけなくする悪霊であった。

悪霊が出て行くと、口がきけなかった人が

ものを言い始めたので、群衆は驚いた」。


口がきけないということは、恐らく耳も満足には

聞こえなかったのだろうと思います。

そのような男を主イエスがお癒しなさった。

その光景を見ていた人々は、14節の後半にあるように「群衆は驚いた」。

このベルゼブル論争のマルコ福音書における並行箇所を読んでいきますと、

イエス様の働きの噂を聞いた主イエスの実の家族・親戚の反応が記されています。

マルコ3:21
「これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。

人々が『イエスはおかしくなった』と言っていたからである」。


“イエスはついにおかしくなった”、と人々が言い出した。

この「おかしくなる」という言葉は、

ギリシャ語では「外に出る」という意味を持つ言葉です。

「自分の存在から外へ出てしまう」、という意味を持っています。

つまり主イエスの家族や周囲の人々が、イエス様のことを

「我を失っている」と感じたと、聖書はそのように語っているのです。

「我」とは何か、「私」とは何者か。人類がずっと問い続けてきた命題です。

近代哲学においては、17世紀の哲学者デカルトの

「我思う、故に我在り」という言葉がよく知られております。

それまで「神の御前にある我」という、創造主なる神様の御前にあって

確かに認められてきた“私”を、神様を出発点とせず、

“私”の側から確立しようとした近代哲学。

例えば、ここで牧師の話を聞いている「私」という存在が確かに実在すると、

どうやって証明できるか。もしかしたら夢を見ているだけかもしれない。

そもそも私という存在そのものが幻なのかもしれない。

そのように自己存在を追求しながら……、いやしかし、

こうやって「私とは何者か」と考えている自分が居ることこそが

自己の存在証明ではないか。

「考えていることこそが、“我が在る”ことの確かな表れである」、

このように「私」の側から自己存在の確かさを求めていくデカルトの姿勢が、

近代哲学の基礎となったのです。

しかしながら、そのようなデカルトに始まる近代哲学の行き詰まりというのは、

現代の社会を見る時に明らかなものではないでしょうか。

「私って何者なの。私は何のために生きているの」、

そういう自分探しの果てしない旅の中に多くの人々が迷い込んでいる。

そして人に評価されること、自分を満足させること、人の羨む生活を送ること。

そういう表面的な人との関係性の中に「私」を見出そうとする生き方。

結局「我、私」がどんどんあやふやになり、

一人一人の存在は不確かになっています。

いや、実は近代・現代社会というのは、

「我・私」を失った人間が集まることゆえに

成立していると言えるのかもしれない。

「私」を失った人間が絶え間ない“わたし”探しに生きる。

自分という存在の不安を利用することが商売になり、

また他者との依存的な関係性につながっていく。

一方イエス様の時代を考えました時に、どうでしょうか?

ここまで福音書を学んできて問題になっているパリサイ派、

律法学者たちの存在はユダヤ社会における神の代理人のようであった。

それはつまり彼らが、人々の「私とは何者なのでしょうか」

という問いに答えを与えられる存在だったということです。

当時のユダヤ人は、「我々は神の選びの民である。

そのことの証しは、旧約の律法を厳守している姿に表れている」

という「わたし」に対する明確な答えを持っておりました。

そういう意味で、現代の「わたし」を失った時代とは

正反対のようでありながら、しかし実は全く同じ性質を持っている。

ヨハネ福音書にありますように、長老のニコデモが夜遅く

イエス様を訪ねてきて教えを乞う姿。

実は教師たち自身も不安だったのです。

「我々は神の民である」と胸を張りながら、しかし現実は全く違います。

ローマの支配下に置かれて惨めな状況が続いている。

「私たちは何者か」その不安を抱えながら、

だからこそそれを打ち消そうと大きな声で

「我々は神の民だ!」と叫んだのです。そしてまた、

そのようなまやかしを“まやかし”とおっしゃるイエス様の存在を、

許容することができなかったのです。

聖書に戻りますが、並行箇所のマルコ福音書において、

このイエス様の働きを身内の者たちが

「あなたは我を失っている」と考えたことは非常に象徴的なことであります。

実際にはイエス様が我を失っているのではない。

親戚たちから見て、イエスという存在が自分たちの外に出て行ってしまった。

これまでイエスが属していると思っていた家族、

身内、親戚というコミュニティー、そこにある共通認識の外に

出て行ってしまうイエスへの非難。

それが「あなたは我を失っている。あなたは狂っている」

という非難だったのです。

家族として、親戚・身内・町の一員として共有すべき

「わたし」の内に留まらないイエス様への反発です。

同じような図式において15節で群衆の中の幾人か、

恐らくは宗教教師たちでありましょうが、彼らが言うのです。

「しかし、彼らのうちのある者たちは、

『悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』

と言った」。


ベルゼブルというのは悪霊の頭、サタンと理解して良いでしょう。

イエス様を批判する人々は「イエスはサタンにとりつかれている。

だからあんな不思議な業が出来るのだ。

こんなことは神の力ではありえない。あの怪しげな雰囲気を見ろ」、

そんな風に言っているのです。

自分たち、聖書の専門家とは明らかに違う

生き方をしている者は我々の外に出ている者。

そうするとこれはもう悪魔にとりつかれているとしか考えようがない。

私たちはこのような考え方をしやすい者であります。

自分の理解の及ばない人、自分の手に余る不可解な人、

自分たちの共通認識の外にある人をすぐに

「あの人はおかしい。自分たちの仲間ではない、外の人だ」

と排除して片付けようとする。

大切なのは、家族・身内・社会、このような中で持たれる

「我々」と呼べる認識の共有。

これを破っている人はサタンに属するとさえ言われてしまう。

主イエスの「我、わたし」はそういう人間の作る共通認識からはみ出していた。

主イエスがなさっておられたことというのは、

人々から見ると「気が狂っている」と思えるようなことだったのです。


ある人がこのように言いました。

「人生とは、私たちの価値を決めるポイント(点数)を

誰かが書き込んでいる大きなスコアボード(点数表)である。

そして誰かが自分のスコアボードに書き込んでくれる

点数に一喜一憂しながら生きる。

しかしそのことに気付いた時にはもう、私たちは採点する

多くの人々に自分の魂を売り渡してしまっているのである」。

私たちの周りにはたくさん、私たちのスコアボードに

点数を書き込もうとする人がいるのです。

それは意地悪な人ばかりではない。

むしろ「あなたは素晴らしい人だから良い点数をあげよう。

スコアボードを出してご覧」、そのような甘いささやき。

そうして良い点数をもらって私たちは大喜びするでしょう。

すると次に考えることは、今度は何点をもらえるだろうか。

また別の人は何点を取ったのだろうか。

そうやっていつの間にか、自分のスコアボードに

人々が書き込んでくれる点数に心を囚われてしまう。

私たちの心は人の評価によって支配されてしまうのです。

イエス様はここで、「悪霊にとりつかれている」と批判する人々に、

17節からたとえを用いて反論なさっています。

特に21節以下を読みましょう。

「強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、

その財産は無事です。しかし、もっと強い人が襲って来て

彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」。


ここに出てくる「強い者」とはサタンのことです。

そして、そのサタンよりも「もっと強い人」とは、イエス様ご自身です。

サタンは人を罪の力によって支配し、自分のものとして手放そうとしない。

しかしイエス様は、そのサタンの支配の中に乗り込んで行き、

打ち破り、そこに捕らわれている人を取り戻してくださる。

イエス様は、そのことを、武装した強い人の家に、

さらに強い者が乗り込んで行く姿にたとえておられるのです。

そう考えると、この「家」は、私たち自身に重ねて考えることができます。

罪の力に支配され、まるでサタンが「ここは自分の家だ」と言って

居座っているような私たちの心です。

しかしイエス様は、「違う。ここはお前の家ではない。

あなたは私のものだ」と言って、私たちを取り戻すために来てくださった。

私たちを罪とサタンの支配から解放し、

もう一度ご自分のものとして回復してくださる。

それが、ここで語られているイエス様の救いの姿なのです。





2.神が私たちを愛しているゆえに私たちに価値がある

伊東の名家出身の早川谷二郎が、アメリカに渡り

1890年サンフランシスコで洗礼を受け、

1897年、伊東で最初のキリスト教伝道者として帰国しました。

彼は伊東の名家の出でありますが、その信仰ゆえに排斥され、

山の中に小屋を建ててそこに十字架の提灯を掲げて、

日曜日に礼拝を行いました。

昼間は小中学校の英語の先生をし、夜は英語塾の私塾を開き、

英語を教えながら伝道をする。

山の中の粗末な小屋に仙人のようにして暮らしながら、

愛情を持って子どもたちを育み、そしてキリスト教をまっすぐに伝える。

お坊さんたちから公開討論会を挑まれて、

たった一人で悠々とお坊さんたちに対していく姿が、

伊東の若者たちの心を捉えます。

結果、近代伊東の新時代を担う若者たちが大勢キリスト者になりました。

伊東町の第二代町長は、早川の愛弟子のクリスチャンでありました。

木下杢太郎という、伊東が輩出した偉人。

作家であり、医学者であり、芸術家であり、

そして切支丹史研究家として知られる大天才。

彼も早川谷二郎に多大な影響を受けて、その文学の中に、

信仰をもってアメリカから帰ってきた早川が、

酒や賭け事・女遊びに興じる町の人々に、神の預言者として正義を語る、

その姿を題材にした作品をいろいろ残している。

特に早川谷二郎の姿を題材にした、

木下杢太郎の『柏屋傳右衛門(かしわやでんえもん)』という作品があります。

早川谷二郎をモデルとしたアメリカ帰りの伝道者・広吉は、

酒・遊興・金銭欲を基盤とする伊東の街の生活様式に対し、

聖書に基づく倫理を提示します。

街の名士である父親に対して「財産と真理は両立しない」と

悔い改めを迫る広吉の言動は、家や街の共同体の秩序を揺るがし、

家業や面目といった「家の論理」と対立します。

広吉は、秩序を乱す存在として伊東の街で排斥されながら、

しかし一方“古い伊東”からの変化を求める若者たちの支持を集め、

神の真理に基づく新たな連帯を伊東に生み出していきます。


大木英夫という神学者が、「世界は教会になりたがっている」

という印象的な言葉を残しました。

イエス・キリストの示された愛や義、悔い改め、

つまり福音によって結び合う教会の共同体のあり方は、

実は社会が求めているものと一致しているというメッセージです。

事実、早川は伊東の古い人々からは徹底的に排斥されつつも、

古い慣習にとらわれず天に目を向けるその新しい生き方が、

130年ほど前の伊東の若者たちに決定的な影響を及ぼしたのです。

確かに、「世界は、社会は、教会になりたがっている」、

そういう面がある。明治期のこの伊東においてさえそうだった。

「私は何者なのだろう」そういう不安を皆が抱えながら、

だからこそ「大丈夫だ・大丈夫だ、私たちはこの町の仲間だ」

「私たちはこの家の一員だ」とごまかし合うのです。

お互いがお互いの望む「私」であることと引き換えに、

「あなたは私たちの仲間である」とのお墨付きをいただく。

もしその輪の外に出るならば、「あの人は狂っている」と排斥されてしまう。

そのことが恐ろしい。

しかしイエス様は28節で言われました。

「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」

神の言葉に従って生きる。

神の家族として、イエス様のお言葉に生きることで結び合う関係性。

宗教改革者マルチン・ルターがこのように言いました。

「神は私たちに価値があるので愛されるのではない。

神が私たちを愛しているゆえに私たちに価値があるのだ」。

私たちの値打ちはどこに始まるのか?

教会という家に共に住まう家族が「我々、私たち」と呼び合える根拠は

どこにあるのでしょうか。

私たちが誰かを、この家の住人として相応しいかどうか評価するのではない。

ここは神の家なのですから、神様が一人一人を認めてくださる。

神様によって呼び集められた者たちの集い、それが教会である。

お互いに神様の主権を認め合う、尊重し合う。

それゆえに、神様の眼差しだけをすべてのメンバーが尊ぶのです。

先ほどのルターの言葉にあるように、

何かができるから認められ愛されるのではない。

無条件にイエス様が私たちを神の家族として受け入れてくださった。

だから私たちに価値があるのです。

理由は分からないけれど、神様は私をご自身の家族として、

神の家に住まわせてくださった。

そして同じように、あの人を、この人を、神様は家族として受け入れ、

神の家に住まわせてくださった。

神様の選び、神様のご愛をお互いに認め合う関係、

それがイエス様がサタンからご自分の家を取り戻してくださった

教会に生きるということです。

ただ神様の選びに信頼して、それだけで結び合うことのできる

教会の交わりに生きられるのが、なんと素晴らしいことか。

だからこそ、他の何も私たちの関係性の接着剤にならないように。

神様を重んじること。神様の御言葉、御心に生きることによって

結び合う軽やかな関係性。

そして本当に強固な交わりを、私たちの教会に現し、

そして広げていくものでありたいのです。



大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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オリジナルの説教とは多少、

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1.執り成しの祈り


6回に分けて「主の祈り」を学びました。

その続きである今晩の箇所には、イエス様のたとえ話が語られています。

このたとえ話が、主の祈りの次に記されていることの

連続性を覚える必要があります。

もう一度5節から8節までをお読みします。


「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、

その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。

『友よ、パンを三つ貸してくれないか。友人が旅の途中、

私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』

すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。

『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、

子どもたちも私と一緒に床に入っている。

起きて、何かをあげることはできない。』

あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、

起きて何かをあげることはしないでしょう。

しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、

必要なものを何でもあげるでしょう」。



話としては非常に分かりやすいたとえです。

夜中に友達がパンをくれとやってきた。

あまりしつこく頼むものだから、放っておくとうるさくて仕方がない。

あげる物を早くあげてしまった方がよっぽどイイ。

面倒なことは早く終わらせたい、と友達の願いを聞き入れた、

そういうストーリーです。

このようなたとえ話が主の祈りの続き、

つまり祈りの教えとして語られているのです。

このたとえ話を、私たちの祈りに当てはめて考えたらどうなるでしょうか?

私たち、自分のことばかり考えるような者であっても、

それでも必死に頼んでくる友人がいれば無下にはできない。

そうであるならば、天の父が必死に祈り求める者の祈りを、

聞いてくださらないはずがない、そういうことになるでしょう。

そしてイエス様は9節で言われます。

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。

そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます。

だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、

たたく者には開かれます」


聖書を読んだことが無い方でも知っている、

非常に有名なイエス様のお言葉です。

“本気で求めれば、必ず手に入るんだ。だから諦めてはいけない”、

そんな風に一般的な意味で読まれるのでしょうか。

しかしこの御言葉は、先ほどから申し上げているように

主の祈りの続きで語られているイエス様の説教でありますから、

祈りという文脈で読まれるべき箇所であります。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見出します。

たたきなさい。そうすれば開かれます」

とイエス様はおっしゃっておられる。

しかし不思議なことにイエス様は、ここで何を祈り求めるのか、

何を探すのか、何を叩くのかについては触れておられないのです。

それゆえに、この言葉を信仰をお持ちでない方が

思い思いに自分の人生の目標と重ね合わせて座右の銘になさるのでしょう。

けれども、イエス様は、求める行為、探す行為、たたく行為

そのものを推奨されているわけではないのは明らかです。

何でも良い、求め続ける人、探し続ける人、たたき続ける人は素晴らしい、

そういうことではありません。

求める、探す、たたく、このように表現される祈りの目的は、

これまでの主の祈りの文脈の中ではっきりとしている。

だからもはや「何を」という目的については省かれているのです。


13節の最後で主はこのように言われた。

「それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに

聖霊を与えてくださいます」


ここまで読んで、イエス様が私たちにこのように

切実に願い求めるよう教えてくださったものが

ご聖霊、主の御霊であることが分かります。

イエス様は先ほどの友人のためのパンを求めるたとえを通して、

ご聖霊を必死に願い求める祈りを教えておられたということです。


このたとえを読んで分かるように、

ここで執拗にパンをくれと求めた友人は、

自分自身がお腹が減って困っていたのではありません。

お腹を空かせていたのは、故人の友人です。

急に訪ねてきた友人がお腹を空かせている。

でもその人にあげるパンが無いものだから、

この人は夜中に“友人のためにパンをくれ”と求めに行った。

旅の友人が訪ねて来た時に、この人自身が

「もう夜中だから勘弁してくれ」と断ってもよかった。

けれども旅の友人を受け入れ、別の友人のところへ

真夜中にパンを恵んでもらいにいくのです。

困窮している友人を放っておけない。

この姿を祈りに当てはめるならば、これは執り成しの祈りと言えるでしょう。

旧約時代、罪に沈む同胞のために、自分のことのようにして

神に執り成し祈った祭司。

イエス様は真の祭司として地上に来てくださった。

人の姿でいらしたのは、私ども人間を代表するためでありました。

そうやって神が人となられ、人の代表として自らをいけにえにして、

私どもの罪を神様に執り成してくださいました。

十字架上で、ご自分を十字架に打ち付ける人々のことをも神様に祈られた。

真夜中に突然来た友人のために、パンを求めて執拗に扉をたたく人の姿から、

イエス・キリストを連想することができるでしょう。

イエス・キリストは、私たちのために、このようにしつこく食い下がって、

天の神に執り成してくださるお方である。

これは一つ、このたとえ話の意図であり、またイエス様のご生涯を通した

とりなしの祈りの手本と言えるでしょう。




2.命のパンを差し出す

もう少し、別の見方もできると思います。

公民権運動で有名なマーティン・ルーサー・キング牧師が、

この箇所から「真夜中に戸をたたく」という有名な説教をしています。

キング牧師は、自分たちが生きている時代を「真夜中」と表現しました。

黒人であるというだけで差別され、同じ学校に通うことも、

同じ店に入ることも、同じ席に座ることも許されない。

貧困の中で苦しむ人々がいる。戦争によって命を奪われる人々がいる。

このような真夜中の暗闇の中で、人々が教会の戸をたたいている、と言うのです。

『人々は、差別からの解放を求め、正義を求め、自由を求め、

平和を求めています。生きるための助けを切実に求めています。

教会はその声を聞かずに、戸を閉ざして眠っていてはならない。

苦しんでいる人々の現実に目を向け、その求めに

具体的に応えていかなければならない』


とキング牧師は、空腹に苦しむ友人のために立ち上がることを、

キリスト者の責任として訴えました。


しかしキング牧師の説教は、教会の務めは、

そのようにして友人が求める物を渡すことでは終わらない、と言うのです。

人々がさらに希望のパン、愛のパン、信仰のパンを求めているとも語ります。

差別や貧困に苦しむ人々の現実の求めに応えながら、

その働きを通して、またそれとともに、罪に赦しを、絶望に希望を、

孤独に愛を与える命のパンを差し出していく。

社会の不正義に苦しむ人を助けることと、

その人を本当に生かすキリストの命へと導くこと。

様々な苦しみの中で教会の戸を叩く人々に応える私たちの務めは、

その両方にあるとキング牧師は語るのです。


確かにイエス様は私たち罪深い人間のために十字架にかかり、

十字架上において執り成しの祈りを献げてくださったお方です。

そのような救いを頂いた私たちが、パンを求める隣人のために、

必死に求める者になるのは当然のことでありましょう。

一万タラント・6000億円赦してもらった者が、

100デナリ・100万円赦すのは当然のこと。

赦された者は赦す者になる、愛された者は愛する者になる、

生かされた者は生かす者になる。

命をお救いいただいた私たちは、隣人の命のために求め、

探し、たたく者になるのです。

そこで何を求めるか?

イエス様は主の祈りにおいて、

「日ごとのパン・日用のパン」を求める祈りを教えてくださいました。

私たちの生活の現実に目を向けて、祈る言葉を与えてくださったのです。

ですから、私たちは「聖書の話し以外は知りません。神様のこと以外、

興味はありません」という態度を他者に対してとるべきではない。

一人一人が生きる上で抱える様々な悩みや痛みを、我が事として感じながら、

一緒になって必死に求める心が求められます。

けれども、それをもって私たちが隣人の求めに応えた

満足してしまうのはどうでしょうか。

困っていた友人は、自分の求めている問題が解決して、良かった良かった、

さようなら、と言うかもしれない。

でもそれで、私たちも「人の役に立って良かった」と終わりにはできない。

なぜならば、私はより深刻な、より根源的な人の問題を知っているからです。

本当の飢え渇き、欠乏を知っている。

それを放置して、人が求める物に応えて喜んでいてはいけないでしょう。

3.金持ち、貧乏

20世紀の教会の中に生じた一つの運動として「解放の神学」があります。

独裁者のもとに、また不条理な強国の横暴によって

虐げられている人々を救い出し解放していく。

そういう社会的な働きの中にイエス・キリストの救いを

イコールとして認めようとした「解放の神学」、

というムーブメントがありました。

確かに国家の闇を正しく見抜き、国家の暴走や悪に立ちはだかる、

預言者としての教会の使命があります。

しかしながら、「解放の神学」がいうところの

「社会的不条理の解放イコール福音」という主張は、

やはり聖書の教えにかなっていない。

福音によって救いに与った私たちが、聖められ

神様の御心にかなった者へと創りかえられていく。

その過程の中で、社会の中に神様の御心にかなわない痛みを見出すならば、

それを取り除いていく、間違いを正していく、

そういうキリスト者としての生き方が生まれてくるのです。

「社会的問題からの救い、イコール、魂の救い」ではありません。

魂の救いがあるからこそ、私たちはこの世の隅々、

あらゆる領域に救いがもたらされるようにと生きるようになる。

そうした時に、この世に様々な求めがある。

私たちの隣人が必要としている、求めている、

探しているものは様々でありましょうが、

そこで根本的に必要とされているものが何であるのか。

それは、イエス様が13節で教えてくださったように、

神の御霊、聖霊に他ならないことが分かる。

私たちに本当に足りないものはなにか。

私たちの飢え渇きの根本的な要因は何か。

神の霊、聖霊なんだと聖書は教えています。

人間は土地のちりで形造られ、そして神の息・聖霊を

吹き込まれることによって生きものになった、と聖書に教えられています。

しかし私たち人間は、聖霊以外に自分を生かす命があると直ぐに信じて、

サタンの誘惑に陥ってしまいます。

今私たちの内に、聖霊を切に願い求める思いがあるでしょうか。

もっと他の事。あのこと、このこと。

私たちの関心事は、神の霊とは全く違う場所に向いている。

でもそうやって、私たちが願うものをどんなに手に入れても、

決して満たされません。

もうよくわかっているはずなのに、それでも求めてしまう。

期待してしまう。そういう自分を止められません。それが罪の性質です。

私たちの教会がこども食堂や、教会塾や、

様々な形で地域の方々にお仕えする活動をしています。

教会はその歴史の始まりから、食物としてのパンを提供しながら、

命のパンを届ける務めを果たしてきたのです。

ある説教者が言いました。

「お金の無い人は貧しい。しかし、お金しか持っていない人はもっと貧しい」。

本当にそうではないでしょうか。

岩淵まことさんというクリスチャンシンガーが、

とても興味深い歌を歌っていました。人間を四つに分類している、こんな歌詞です。

「金持ち、金持ち」「金持ち、貧乏」「貧乏、金持ち」「貧乏、貧乏」。

お分かりになるでしょう。

最初の言葉は持っている財産を、後の言葉は魂の豊かさを表しています。

つまり、財産もあり魂も豊かな人。財産はあるけれど魂は貧しい人。

財産はなくても魂は豊かな人。そして、財産もなく魂も貧しい人です。

先ほどの説教者の言葉

「お金の無い人は貧しい。しかし、お金しか

持っていない人はもっと貧しい。」。

教会は「金持ち・金持ち」になれる場所ではないけれど、

しかし確実に「貧乏・金持ち」になれる場所です。

「貧乏・金持ち」というのは、どんな境遇でも満たされて、

感謝して、喜んで生きられる人のことです。

どちらかといえば「金持ち・金持ち」が良いと思われるかもしれない。

でもそこには落とし穴があります。

「金持ち・金持ち」は「金持ち・貧乏」に直ぐに変わってしまいやすい。

やがてルカ16:13を学ぶ時にイエス様はこのように言われます。

「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。

一方を憎んで他方を愛することになるか、

一方を重んじて他方を軽んじることになります。

あなたがたは神と富とに仕えることはできません」。

両方あったら良いなと思うけれど、私たちはどちらかに偏ります。

ですから、選ばなければいけない。どちらを望むのか。

どちらが欲しいのか。

そこで、本当に価値あると信じるものを見抜く信仰が問われます。

お金が人を幸せにはしません。

たった一度の人生、お金を追い求めることがどんなに空しく、

また人生を無駄にするものかを知ってください。

ご聖霊が私たちの内に満たされて、神様が人間をお創りくださった

あの姿を回復することができたら。

アダムとエバが、エデンの園で祝福の内を生きていた時に、

素晴らしい被造世界のもとで満たされていたのです。

お金など、暮らし向きの充実など必要ありませんでした。

それは今も変わらないこと。


パンを求めている人がいます。お腹を空かせている人がいる。

その人たちに当たり前に、パンを提供する教会・キリスト者でありたい。

そしてパンを通して、まことに飢えることのない、渇くことのない命の食物。

イエス様の福音と、そして聖霊なる神様の満たしに導いていく教会。

イエス様が私たちのためにそれを与えるために

血の汗を滴らせてくださったように、私たちも隣人の真の救いのために

祈り仕える者でありたい。

そのためにまず、私たち自身が、本当に自分に今必要なものが何かを

もう一度確認したいと思うのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。
伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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1.サタンの誘惑の恐ろしさ


主の祈りを時間をかけて学んできましたが、今日で終わります。

礼拝でこうして主の祈りを丁寧に学ぶ機会はなかなかありませんから、

有意義な機会になったことを感謝しております。

主の祈りは、前半が神様に関する祈り、そして後半が私たちの

生活に根差した祈り、二つに分かれています。

ルカ福音書で言いますと、2節に「父よ」という神様への呼びかけ。

そして「御名が聖なるものとされますように」、

さらに「御国が来ますように」という三つの神様を中心とした

祈りがありました。

そして後半に当たる

3・4節、「私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください」、

「私たちの罪をお赦しください」。

そして今晩学ぶ「私たちを試みにあわせないでください」

という生活に根ざした三つの祈りが教えられている。

神様に関する祈り、生活の祈り、どちらも重要です。

ただし順番には意味があります。

いくら私たちが熱心に祈ったとしても、

祈る対象がずれていたら意味のない、空しい祈りになってしまいます。

ですから、私たちの日ごとの祈りが祝福されるために、

祈るべき方向を定めるということが重要である。

祈るべきお方が分かると、水が高い所から低い所に流れていくように、

私たちの祈りの恵み祝福が流れ始めます。

私たちの父である天の神様を仰ぎ見、神が神とされることを祈る。

そうして祈りの対象が明確となり、私たちの生活を御手に

収めておられる神様が分かると、祈りはどんどん豊かにされていきます。


今晩の祈りは4節の後半「私たちを試みにあわせないでください」。

ここで「試み」と訳されている言葉は「誘惑」という意味の言葉であります。

誘惑と聞くと、私たちはすぐに創世記の一番初め、

蛇がエバを誘惑した場面を思い浮かべるでしょう。

神の言葉に従うことしか知らなかったエバに、

蛇は巧妙な言葉を用いて近づき、そして神に逆らわせました。

「神の言葉以外にも真理がある、真実がある」と思わせることに成功するのです。

私たちが毎週祈る主の祈りにおいては

「試みにあわせず、悪より救い出したまえ」とあります。

マタイ福音書の主の祈りにおいてそのように教えられているからです。

意味としては同じことが教えています。

試みにあわせないでくださいという祈りは、

すなわち悪からお救いくださいという祈りでもある。

あのアダムとエバが誘惑に遭った場面で、

“悪”とは漠然とした感情とか得体の知れない存在では無いこと。

蛇・サタンという実態があり、意思のある力であったことがわかります。

当然、“試みにあわせないで”という祈りも、

そこにはっきり悪を行使する対象者を見据えるべきものであります。

「悪」と言うと、そこいらに悪の実が落ちている。

そこに足を踏み入れなければ、触れなければ良いような印象を受けます。

けれども実際に悪は強い意志を持っています。力があり巧妙です。

“悪”そのものが考え、動き、攻撃をしかけます。

私たちを虜にしようとしているサタンという悪の主体がいる。


マルチン・ルターは主の祈りの説教の中で、

試み・誘惑の問題について語る中で、私は悪魔からの攻撃を

前から後ろから、右から左から受けている、と言うのです。

そして、「それは自分が富んでいることかもしれないし、

貧しさにあることかもしれない。病気もそうかもしれない」。

このように、悪魔の攻撃の切り口を具体的に数えていきます。

使徒パウロも「私たちは四方八方から苦しめられます」と語りました。

悪というのは私たちの人生で、たまたま偶然出会ってしまう

躓きの石ではありません。

常に悪しき者は、私たちを躓かせるために攻撃をしかけている。

誘惑と聞くと、性的な誘惑、お金の問題というのも勿論

悪魔の誘惑に用いられるわけですが、それだけではない。

豊かさ、貧しさ。怒り、笑い、不安、楽しみ、不景気、好景気、

あらゆる事柄を用いてサタンは私たちの心を神様から引き離そうとする。

まさに四方八方から攻め立てられるのです。

神様が私たちをごらんになった時に、私たちの日々の生活が

どんなに危ういものか。

誘惑からの守りを祈らずして生活するなど考えられない。



子どもの頃、大人たちから盛んに道路の歩き方について注意を受けたでしょう。

自分が子どもの時は、なぜそんなことを口うるさく言われるのか、

理解できないのです。

しかしいざ自分が大人になり、親になってみると、

子どもたちが道を歩くことの恐ろしさを痛感するのです。


四方八方からサタンに狙われている、などと聞くと、

ちょっと恐ろしいような思いがするかもしれません。

実際、私たちが信仰を頂き、神の聖さを知るキリスト者とされた時、

この世の誘惑の大きさに驚くような経験をしばしばするものです。

神の恵みの豊かさに目が開かれることは、

同時にサタンの誘惑の恐ろしさに気づくことでもあるからです。

ですから、イエス様が試み・誘惑にあわせないでください、

との祈りの言葉を与えてくださったのは、

そのような私たちのことをよくご存じであるからです。

そしてイエス様ご自身が、毎朝毎朝、朝早く出て行かれ、

一人で父なる神様に祈りをささげておられた、

その姿を聖書は記しているのです。

イエス様でさえ、いやイエス様だからこそ、この世を歩む上で

父なる神への祈りは欠かせないということを弁えておられた。

忙しさの中で時に祈りを忘れ、この世の歩みに夢中になる

私たちの姿というのは、子どもが親の注意の意味を弁えずに

道路を走り抜けるような姿ではないでしょうか。

2.聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ

例えば先週学びました「赦し」一つとっても、

私たちが誘惑から守られることの祈りの切実さを思い知らされます。

自分自身が信じ難いほどに赦されていながら、少しも赦せない私たち。

こういう時に、私たちに理不尽な行為をする他者の振る舞いが誘惑となる。

赦しの心に生きられない自分を正当化したくなる誘惑です。

本当に悪しきもの誘惑というのは巧妙なのです。

マルチン・ルター、そしてジャン・カルヴァンという宗教改革者たちは、

中世の教会の反省に立って様々なことをシンプルに致しました。

七つあった秘跡を、洗礼・聖餐の二つの聖礼典だけに絞った。

教会堂の様々な芸術を捨てて、ただ十字架だけが掲げられる会堂、

カルヴァンに至っては十字架を掲げることさえも躊躇するほど、

とにかくシンプル、すっきり身軽な信仰の形を作り出していく。

それはひとえに人間の弱さ故、自分たちの本来守るべき

たった一つの場所を失ってしまうことがあってはいけない。

そこで生まれた宗教改革・プロテスタント教会の大原則を、

ルターはこのように表現したのです。

「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」、

皆さんこう聞いていかがでしょうか。

「~のみ」という言葉が三つ使われている。

こういう時に「のみ」という言葉は使わないのではないでしょうか。

「聖書と、信仰と、恵みのみ」と言うなら良い。

けれども「聖書のみ」、けれどもそれだけじゃない。

「信仰のみ」、さらに「恵みのみ」。

言葉として矛盾しているように思うわけですが、

しかしこういう所にルターの深い神学・信仰があるのです。

中世カトリック教会という絶対化された宗教の暴力にさらされ、

そこに立ち向かったマルチン・ルターは、自分自身の経験として

宗教を利用した暴力の恐ろしさをよく知っていたのです。

「聖書のみ」、誰も否定し得ないことのようだけれども、

しかし中世カトリック教会は一般民衆が誰も知らない

ラテン語以外に聖書を翻訳することを禁じ、

そして聖書の言葉を独占することで自らの権威を絶対化した。

「聖書のみ」を逆手にとって、神の座に座り込んだ中世の教会の姿を通して、

聖書を通してさえ攻撃を加えるサタンの恐ろしさをルターは見抜いていた。

それゆえ、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ、

この三つが有機的に結合するところにのみ

イエス・キリストの真実があらわされると説いたのです。

すなわち、聖書において啓示される信仰、その恵みです。

聖書というのは言うまでもなく、神様が私たち人間に

一方的に与えてくださった啓示の書です。

恵みというのは、分不相応な者に一方的に与えられる祝福のこと。

信仰とは、そのような神様の恵みを受け止めるための

管のようなものであり、やはりこれも神様からの

賜物であると聖書は教えています。

つまりルターが語っている、私どもプロテスタント教会の三原則、

「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」とは、

全てにおいて神からの一方的な賜物を指しているということが分かるのです。




3.「弱い時に強い」

 私たちは神様から頂いた物、賜り物で勝負する。

それ以外に武器はない。頂き物に頼るなんか

情けない話のようでありますが、決してそんなことはありません。

受けるということは幸いなことなのです。


イエス様が「わたしが与える水を飲む人は、

いつまでも決して渇くことがありません」と言われましたが、

私たち家族は日々

「牧師家庭に与えられるお菓子は決して尽きることが無い」

ということを経験しております。

常に常に、頂き物の美味しいお菓子が備えられています。

ですから娘はお菓子の箱を見ると「どこで買ったの」とは聞きません。

「これ誰に頂いたの」と、頂き物であることを前提に聞いてくるのです。

それほどまでに支えられ、生かされている。


パウロは第二コリント12章ではっきりと語りました。

「私が弱いときにこそ、私は強いからです」。

四方八方から苦しめられ、悪しき者に狙われ、

そういう誘惑の中におかれている私たちが神に救いを祈るということは、

その勝利する力を神に求めるということです。

私たちが強い時とは弱い時である。

なぜならば、私たちが本当に恐れを感じ、無力感を味わい、

自分自身ではお手上げと思う時こそ、

そういう空っぽな私たちの内に神様の力が大胆に注がれていく。


 実際そうではないでしょうか。

色々な困難に皆さんが直面される。

そういう時に信仰者ならではの不思議な安定感のようなものがある。

特に何か解決策があるわけではないし、見通しが立っているわけでもない。

しかし、そういう現実の中でよろめきながらも立ち続けることができる。

信仰の力によって立ち続けられる。

そういう強さを得ていかれることが信仰の成長なのです。

そういう方は倒れそうでも倒れません。

主がその方を支えておられるからです。

「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

と神に祈り求める信仰の姿勢。

そういうものが身についてくると、キリスト者というのは

本当に強くなってくる。

一方でその逆もあるでしょう。

強い時にこそ弱いという人の本性が見えることもあるのです。

星野富弘さんが歌いました。

「強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 

真実に近いような気がする」、本当にそうだと思います。

人というのは創られたその時から、神の息吹によって

生きるものと定められていたのです。

その神の息吹無しには生き得ない自分の姿を受け止めていく時に、

私どもの内に本当の強さ。

誘惑に打ち勝ち、悪しき者に勝利する強さが備わってくるのです。


 柏木哲夫という日本におけるホスピス医療の第一人者、

クリスチャンドクターが著書の中で書いておられる一つのエピソードです。

「次に、私が実際に体験した例をお話しします。

クリスチャンで今年の正月過ぎに亡くなった方のことです。

私は一週間に一度回診をして、患者さんとときどき川柳のやりとりをしますが、

この患者さんも俳句や川柳にたいへん関心を持っていて、

辛い時にユーモアでスーッと吹き飛ばすことをしていました。

暮れの回診の時に、その方はこう言いました。

「先生、仕方ないけど、やっぱり死にたくないのです」

「それはそうでしょう」

その後でポツンと、

「今までずいぶん先生と俳句や川柳の交換をしてきましたが、

やはり今の私にとっては川柳のほうがいいようです」と言いました。

「そうですか。どうしてですか。」

「俳句は季節とか春夏秋冬とか、四季がある。

川柳には四季(死期)がありませんから」

私はそのことばに感動しながら言いました。

「そうですね。川柳には四季(死期)はありませんね」

そうして患者さんは最後の外泊に出て行きました。

ところで、いつも私たちのやり取りを聞いていた奥さんも

川柳に目覚めたようで、外泊から帰って来たときに

「先生、私も一句できました」と、ちゃんと短冊に書いていたものを

見せてくれました。

「癌細胞 正月ぐらいは 寝て暮らせ」

ご主人は弱っていて、外泊は出来たのですが、本当に寝正月だったのです。

奥さんはご主人の体にある癌細胞に語りかけて

「癌細胞、おまえは今までずっと増殖し続けて、

やがて私の愛する主人のいのちを奪おうとしている。

それはもう二人とも受け入れて、仕方がないのだけれども、

この最後の正月、その間だけ、せめて癌細胞よ、寝てくらしてくれよ」

という、何とも言えないいたわりとペーソス(哀愁)が

5・7・5に詰まっています。

すばらしい句なので、旦那さんも私も笑って「良い句ですね」と言いました。

ところがその後何か熱いものがこみあげてきて、

私だけがポロッと不覚にも涙を落としてしまいました。

そうすると患者さんが「先生、ありがとうございます。

私のために涙を落としてくれて、とてもうれしいことです」と言ってくれました。」

ここには独特の世界があります。

ご夫妻にとって耐えがたい苦しみ・悲しみの時だったはずですが、

しかしそこには何とも言えないユーモア、また哀愁がある。

目に見える「強さ」があるわけでは無いかもしれない。

しかしこのような状況でなおユーモアに生きられるというのは、

自然体を貫ける大変な強さとも言えるのではないでしょうか。

何万人もの死に立ち会ってこられた柏木先生が思わず涙をこぼす、

そういう人の真実の姿の中に

「弱い時に強い」と教えられる信仰の与える強さ。

それはこの世が誇る強さとは全く異質な、静かな、

天の父によって支えられる者から滲み出る

真の強さがあらわされているのではないでしょうか。


 誘惑にあわせないでください。

この祈りを握りながら、私たちの見通しとは無関係の所で

父なる神の下にある加護に信頼して、

安心して一週間の歩みに出ていきましょう。

ただこの祈りだけを忘れることが無ければ、

私たちは倒れてしまうことが無い。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。


Peace, Love and Understanding

今、ここにある幸いに感謝しよう。