ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記 -2ページ目

ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

ロックと聖書でマーケティングを語る、ロックな税理士 原 眞人の伊東市から発信する中小零細企業の社長のための、「経営」「財務」「税務」のお役立ち情報です。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

この火曜礼拝ブログは

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「周辺の人ルカ」ルカ1:1-4

1.福音書の著者性とルカ

 今晩から新たにルカ福音書を私たちに与えられる

神の言葉と信頼して学んで参ります。

ご存じのように聖書の中には4つの福音書がおさめられています。

福音書というのはイエス・キリストの生涯と教えを記録した

書物のことですが、更に細かく分類しますと

マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書を共感福音書と呼び、

ヨハネ福音書と区別します。

学んでいくと分かるのですが、共感福音書はその記録に

共通性が大きいのに対して、ヨハネ福音書は相当違います。

記されている内容も、登場人物も。

例えばイースターで学んだ12弟子のトマスは共感福音書では

名簿にしか名前が出てこないのにヨハネ福音書では

印象的なエピソードが色々と記録されている。 

なぜヨハネ福音書だけが大きく違うのかと言いますと、

ヨハネ書が一番最後に書かれた福音書であるということが主な理由です。

すでに3つの福音書が成立している。

そこでまた同じようにして福音書を書くのではなくて、

3つの福音書とは違う視点で、まだ書き記されていない

事柄に着目していったというのはごく自然なことであります。 

共感福音書においてもやはりそれぞれに個性があり、違いがあります。

例えばマルコ福音書というのは一番短い福音書であり

ページ数にすると40ページくらいで完結しますが、

マタイ福音書・ルカ福音書は70ページ近くのボリュームで

1.5倍以上の違いがあります。

マルコ福音書はこれだけ短いですのでイエス様の説教・教えについては

非常にシンプルにまとめられています。

マタイが何章にも渡って記している説教を

マルコは1・2節で済ませてしまうということがある。

一方で、マルコ福音書はイエス様の動作や行動に深い関心を払っていて、

イエス様の仕草や行動が細やかに記述されている、そういう特徴があります。

 一方でマタイは圧倒的にイエス様の言葉・教えに注目している。

こういうことはそれぞれの聖書記者の性格の違い、特徴の違いであるし、

また執筆の目的、対象となった直接的な読者の違いという他ありません。

このようにして四つの福音書がそれぞれの視点・特徴・背景・事情の中で

イエス様の生涯と教えを書き記してくれたことによって、

富士山は様々な方向から見ることでその全体像が分かるように、

人となられた神の御子キリストの全体像を分かりやすく示してくれると

言えるでしょう。

そういう意味で、福音書を読んでいく時にそれぞれの特徴を

学んでいくことは非常に重要なことですので、

ルカ福音書の基本的な事柄を最初にお話ししていきたいと思います。 

まずこの福音書がルカの名前を冠しているのは、伝統的に

ルカという人物が聖書記者であると考えられてきたからです。

福音書の著者問題は簡単ではありませんで、

例えばマタイ・ヨハネ福音書はそれぞれ12弟子のマタイ・ヨハネの名前を

冠しているのですが、果たして使徒マタイ・使徒ヨハネが

執筆したと言えるのかどうかは極めて微妙な問題です。

そもそも福音書の中で「私マタイがこの福音書を書いている」などという

記述は無く、基本的には伝承であり、現代の批評的な学者たちは

まったくマタイやヨハネの著者性を考慮することはありません。

マタイやヨハネの影響の中で書かれた、という緩やかな理解で

良いのではないかと思っています。

ではなぜ、必ずしもマタイやヨハネが書いたのではない福音書が

そのようにして呼ばれてきたのか?

この時代使徒というのは大変な権威がありました。

使徒ヨハネ、使徒マタイが書いた。そのことが

この書物の権威づけに使われる面はあったのでしょう。 

しかしながら、マタイやヨハネの著者性を考慮しない

批評的な学者たちが、面白いことにルカ福音書における

ルカの著者性というのは案外受け入れているところがあるのです。

それは、ルカというのがマタイやヨハネのような

教会の中で第一級の人物では無かったからです。

もう一人マルコ福音書のマルコはペテロの直弟子でバルナバにも仕え、

パウロにも可愛がられ、イエス様の公生涯にも直接触れていましたので、

12使徒に次ぐような有名な弟子でありました。 

マタイ・ヨハネ、そしてマルコと比べてもルカというのは、

初代教会のリーダーたちの中で変な言い方ですが

明らかに格が落ちる、そういう存在だったわけです。

そのルカの名前をあえて福音書の著者として持ってくる

積極的な理由はほとんど無い訳です。

だからこそ、この福音書はルカ自身が書いたのではないか

と考えられています。

2.異邦人ルカ

 今、第一級の人ではないと申しましたが、

ルカの名前は新約聖書の中で3回出て参ります。

コロサイ4:14でパウロは

「愛する医者ルカとデマスがよろしくと言っている」

と書いています。

このコロサイ書の言葉から分かることは

まずルカが医者であったということ。

この時代においても医者という職業はインテリジェンスなものでありますが、

しかし初代教会において使徒の権威というのは絶大でありました。

特にルカは異邦人でありますから、医者であるということで

教会においてリーダーシップを発揮できるようなものではない。

特にその一つの要因として、ルカの名前が聖書中2度

デマスという弟子と共にギリシャ名で出てくることから、

彼はほぼ間違いなく異邦人でありました。

1世紀の教会の中で、異邦人クリスチャンの存在はまだまだ

弱いものであってその中心はユダヤ人。

ですから「あの異邦人クリスチャンは医者らしいぞ」、

その程度の扱いなのです。 

そしてまた別の個所では、パウロの絶筆と言われる

Ⅱテモテ4:11で、投獄されているパウロが愛弟子テモテに

「私のところに来て欲しい」と呼びかけながら

「ただルカだけが私の下にいるだけで、後は誰もいない」

という孤独を訴えている個所があります。 

弟子たちが誰も居なくなってしまったパウロの晩年の孤独の中で、

たった一人ルカだけが付き添っている。

パウロの特別な信頼、そしてルカの師に対する忠実、

それと共にパウロの主治医のようにして

寄り添う姿を読み取ることができます。 

ルカ一人で何かができたり、彼が独立して

「ルカ先生」と呼ばれるような存在ではどうも無かったようであります。

恐らく初代教会のルカに対する認識は

「パウロに寄り添う人、パウロの主治医」だったのだろうと思います。

つまり中心では無くて周辺の人、傍らに居る人であったと言えるでしょう。 

マタイ・ヨハネという初代教会一の人物、そしてそこに続く

マルコの書いたイエス・キリストに対し、

この福音書は傍らに居る人ルカ、中心では無くて

周辺の人ルカが書いた福音書である。

この視点にルカ福音書の魅力があります。

そして実は旧新約聖書中、ユダヤ人以外の執筆者というのは

ルカただ一人であると考えられています。

新約時代になってユダヤ民族の枠組みを超えて

福音が広がっていきますが、しかし聖書記者になる程の有力者は

ユダヤ人以外にはいなかったのです。

そういう中で、周辺の人・異邦人ルカが福音書を記したということの

特別性は幾ら強調してもしすぎることはありません。

このことがルカ福音書を学んでいく上で常に意識して

いかなければいけない視点です。 

ヘブル書やマタイ福音書と違い、ルカ福音書は異邦人

が記した福音書である。

マタイ福音書とは対照的です。それゆえの違いは

もう冒頭からはっきり出ています。

マタイ福音書はイエス・キリストの系図で始まります。

ユダヤにおいて大切にされていた系図を通して

信仰の父アブラハム、偉大なるダビデ王の家系に連なる

イエスがメシヤであることの説明をしていきます。

このようにメシヤとして相応しい系図を持っているこのお方が、

処女マリヤから生れたということにおいて

イエスが神の子であることの根拠としていく。ユダヤ人に向けの展開。 

一方、ルカ福音書は異邦人によって書かれた書物であり、

当然読み手もまた異邦人である。それゆえ歴史性が重んじられるのです。

クリスマスの物語でお馴染み、アウグストがローマ皇帝の時、

クレニオがシリヤの総督であった時にキリストが生まれたと、

歴史性を強調しながら、そのような歴史的事実の中に

イエスの処女降誕を語る事によってイエスが

神の子メシヤであることの根拠としていく。

ギリシャ人向けの展開です。


本文に入っていきましょう。

1節から

「私たちの間で成し遂げられた事柄については、

初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが

私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて

書き上げようとすでに試みています。

1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、

尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて

書いて差し上げるのがよいと思います。」


一読して福音書の書き出しとは思えないような記述です。

ルカは明らかにテオフィロという一人の人物に向けて

この手紙を書いているのです。

実は、使徒の働きの1:1を見ますとやはり

「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、

また教え始められたすべてのことについて書き記しました。」


と、つまりルカが福音書の続編として使徒の働きを

テオフィロに向けて書いていることが分かるのです。

なんとルカはこの壮大な第3福音書、および使徒の働きの二つを

テオフィロという一人の人物に向けて執筆している。

ではこのテオフィロという人物は何者なのか?

福音書と使徒の働きを宛てて書く程高貴な有力者であったのかと言えば、

どうもそうではないようです。

恐らく、このテオフィロというのは一異邦人

求道者であったのだろうと推測されます。 

4節でルカははっきりとこの福音書の執筆理由を書いている。

「それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、

あなたによく分かっていただきたいと思います。」、

「このようにして私が福音書をまとめることによって

あなたがイエス・キリストについての教えが真実であることを

知ることができるように。あなたがキリストの福音によって

魂の救いを得るように」


その思いが福音書に留まらない。

初代教会に与えられた聖霊の働き、使徒の働きの執筆にまでおよび、

こうして最終的にはパウロとほぼ同じ分量、

もっとも沢山の分量を書き記す聖書記者になった。

その動機は、一人の魂を愛し、その救いのために働く信仰者の姿である。

一異邦人求道者の救いを願った時に、異邦人・ギリシャ人が

読みやすいイエス様の生涯と教えをまとめた書物が必要だ。

さらに書き進めながら、イエス様亡き後の初代教会の姿。

特に教会において、どのように異邦人伝道が展開されるに至ったか?

異邦人が救われることの明確な印を書きとめていく必要性を覚えた。 

もちろん、これは直接テオフィロに宛てられていますが、

しかしテオフィロ以外の異邦人にも有益だと考えていたことは間違いない。

そして実際、そのように異邦人教会で広く用いられていきます。

それにしても、ルカが一人の魂を思いながら、

一人のためにこれほど大きな書物を書き記していった、

そのスピリットにおどきます。

このようなことは、正に周辺の人 ルカ、第一級の人物ではない

ルカだからこそ出来たと言えるのではないでしょうか。 

先程パウロの晩年、唯一彼に付き添ったのが

このルカであると申しました。

パウロの殉教に至る最後のローマでの投獄において、

あれほどのスーパースターパウロの下にルカ以外誰もいなかった。

これは不思議なことであります。

何か特別な事情があったと思われます。

そしてまた、ローマ当局の監視が厳しく

有力な弟子はもうそこに近づけないという事情があったのでしょう。

ルカは医者だったから、そして「この男ならまぁイイか」

と思える程度の立場の人だったからということもある。 

伝承をまとめて行くと、どうもルカは殉教せずに

生涯を全うしたようであります。

そのこともまた、命を狙われる程、目をつけられてしまう程の人物では無かった。

立場もそうですが、多分性格的にもリーダーシップを持つような

人では無かったのだと想像します。

そのルカが、いやそのルカだからこそ彼自信も思いもよらない

働きをすることができたのです。 

パウロがペテロが、マタイ・ヨハネが一人の異邦人求道者のために

福音書を、使徒行伝をまとめるなど考えることもできないことだからです。


3.その人しか出来きないこと

自分にしかできないことがある。

私の立場だからこそ出来ることがある。 

そのことを信じ、おろそかにしないものでありたい。

中心ではないから、ベテランでは無いから、立場が無いから、

育ちが違うから、皆にそのように認識されていないから、

そうやって私たちは直ぐに言い訳をするし、責任を回避するのです。 

でもそれであってはいけません。傍らに居る人、

周辺の人だからこそできることがある。

そこから何か大きなことをしようというのではありません。

周辺の人だからこそ大きなことをではない、

一人の存在、一人の魂をゆっくりと見つめ

じっくり関わることができた。そこから思いもよらないものが生まれた。 

何も出来なくなって、祈ることしかできないと言ってはいけません。

そうやって祈ることはその人にしかできない神様の使命である。

しゃべるのが下手だから手紙しか、メールしかできない、

のではなくそれがその人にできること。

神様が望んでおられることなのです。

このくらいしか、では無くて、それぞれがそれぞれに

しかできないことを重んじていく。そこに神の国は現れるのです。



インドの話しです。

一人の使用人が毎日水運びの仕事に励んでいました。

男はいつも2つのつぼを天秤棒の左右につけ肩にかけて

主人のために毎日水を運んでいました。

男が担いでいる二つの壺の内片方はひび割れがあったので、

いつも水を運んでいる途中で半分近くこぼれてしまいます。

もう片方のつぼは丈夫な壺で一滴の水も零すことはありませんでした。

ですから男は2つの壺一杯に水を入れますが、

主人の家についた時にはいつも一つと半分の水になっていました。

ひび割れたつぼは、役目を果たせない自分のひび割れを

情けなく思いみじめな気持ちをしていました。

2年が経ち、ひび割れたつぼはとうとう水運びをしている使用人に言いました。

「私は自分が恥ずかしい。私にはひび割れがあって

運ばれている内に毎日水がこぼれおちてしまい、

あなたの役に半分しかたっていない。それがとても辛いのです」、

それを聞いて水運び人はひび割れたつぼに優しく言いました。

「今度歩く時に、道端の花をよく見てごらん」。

そう言われて、次の日ひび割れたつぼは、毎日通る道に

美しい花が咲いていることに気づきましたが

ご主人の家に着いたときには、やはり水は半分しか残っていませんでした。

「やはり私は役に立たないつぼだ。情けない」

すると水運び人はこう言ったのです。

「気がつかなかったかい?道端の花は君の側にしか

咲いていなかっただろう。僕は君のひび割れを知ってから、

君の通る道に花の種を蒔いておいたのだ。

毎日そこを通るたびに君は水をこぼしていたのではない、

種に水をやり、花を育てていたのだよ。

僕は毎日その花を切り、ご主人の食卓に飾ってきた。

君のおかげでご主人は、きれいな花を眺めながら

毎日食事を楽しむことができるのだ」、

ひびの入った壺だからこその務めがちゃんとあった。

だから、ひびの入った壺が「僕が壺であることは無意味だ」

と考えるべきではなかったのです。

ひびが入っているからこその使命があった。

そしてまた、この話しで感動するのは、

水運びの使用人が、ひび割れたつぼが水をこぼすのを責めなかったこと。

「君はダメだ。僕がこんなにがんばっているのに、

僕の努力をムダにしているじゃないか」などと言わなかった。

彼は、その壺の個性が神様によって活かされると信じていたから、

最初から「ひび割れた壺などダメだ」という発想をしなかったのです。

 中心では無い、周辺の人だからこそ。先頭では無い、

寄り添う人だからこそ、完璧な壺では無い、

ひび割れた壺だからこそ。そのことを自分自身にも、

また隣人にも信じる者でありたい。

責めるのではなくて、生かすことを考えたい。

神様は皆さん一人一人を、そして皆さんのひび割れた

隣人を活かしたいと思っておられるのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「神の御心によって」ヘブル13:20-25

1.1つの魂の重さをかみしめる

一年をかけて学んできましたヘブル書を今晩で学び終えます。

ヘブル書を総括する御言葉に耳を傾けて参りましょう。

まず
24節
「あなたがたのすべての指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく。

イタリアから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13:25
恵みがあなたがたすべてとともにありますように。」


ヘブル書というのは手紙でありますから、

この24節の言葉は古代の教会における手紙における末尾の挨拶です。

教会の指導者、および信徒たちによろしくと伝える。

問題はその後「イタリアから来た人たちが、よろしくと言っている」、

ここは翻訳上の問題がありましてこのように

「イタリアから来た人、イタリア出身者がよろしくと言っている」

と訳することも

「イタリアにいる人たちからよろしくと言伝られている」

そういう風に訳すこともできる言葉です。 

このことはヘブル書の解釈にかなり大きな影響を及ぼす

問題でありまして、「イタリア出身者がよろしくと言っている」

ということですと、この手紙の執筆者の教会の中に

イタリア出身者が居て、彼らが「よろしく」と言っている。

ということは、この手紙はイタリアにある教会に宛てられた

手紙であるということになるわけです。

 一方「イタリアにいる人たちがよろしくと言っている」

ということですと逆のこと、つまりこの手紙の執筆者は

今イタリアにいて、手紙の宛先になっている教会に

繋がりがあり今はイタリアに住んでいる人たちがいたことになる。

「イタリアからよろしく」という、そういう意味になる。 

イタリアというのはローマのことであります。

先週ローマの大火をきっかけに起こった

ネロの迫害ということを少しお話ししました。

迫害の中心地ローマ、ここでペテロもパウロも殉教した。

「そういう場所から発信された手紙か?」、

「そういう場所に向けて送られた手紙か?」、

これはかなり大きな意味の違いを持っていることになります。

そのことと関連して

23節「私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。

もし彼が早く来れば、私は彼と一緒にあなたがたに会えるでしょう。」


先週の説教でパウロの愛弟子テモテのことを話しました。

テモテへの手紙はパウロの最晩年に執筆されたもので、

パウロはあの手紙を書いて間もなく殉教したと考えられております。 

自分の死が近づいていることを感じながら、自分の亡き後

志しを継承してくれるテモテがエペソ教会の牧師として苦戦している。

そこで、心を込めて手紙を書き送ったがテモテへの手紙です。 

このヘブル書においてテモテの名前が記されている時に

パウロはすでに殉教していたと考えられます。

その後、もしくはその頃テモテも捕えられ投獄されていたようであります。 

初代教会に衝撃走ったはずであります。

ペテロが死に、パウロが死に、12弟子のほとんど殺され、

そういう中で次世代を担うテモテまでもが…。

しかしテモテは神様のお取り計らいの中で釈放された。

素晴らしいニュース。もし彼が早く来てくれれば

私は彼と一緒にあなたがたに会えそうです、

そんな風にヘブル書の著者は書いているのです。

テモテは15年近くエペソ教会の牧師をしたようでありますので、

恐らくテモテが投獄されたのはエペソの町であったと考えられます。

沢山の信徒たちがテモテ先生のために祈っていて、

そしてここでヘブル書の著者はテモテが釈放された

ニュースを知らせています。

さらに、テモテ先生と一緒にあなた方の教会に行けるかもしれない。

そうすると恐らくこれは、迫害がもっとも厳しい

ローマに向けられた手紙である可能性が高いと思います。 

先の見えない困難の中にある教会、特にも迫害の中心地

ローマにある教会をヘブル書の著者はずっとここまで励まして来て、

最後にエペソでテモテが助かったというニュースを書き送り、

テモテ先生と一緒にあなたたちのところに行けるかもしれないよと、

そうやってローマ教会を励ましているのです。 

新改訳が訳すように

「イタリアから来た人、イタリア出身の信徒たちが、

あなたたちによろしくと言っている」、

つまりローマ教会を私たちはいつも覚えているよという励ましの言葉です。 

聖書の中にはエペソ書、ピリピ書、コリント書、

様々な教会に宛てられた手紙が納められているのですが、

そうした書簡は恐らくコリント教会という

一つの教会に宛てられたのではなくて、コリントの町にある

複数の教会で輪読されることを元々想定して

書かれていると言われています。

かなり広い範囲で沢山の教会、信徒たちに読まれることを

もともと意図して書かれているのです。

そういう意味では、このヘブル書も一つの教会に宛てられた

ということではないと思いますが、しかし一方において

ヘブル書の著者はかなりピンポイントで、あのような状況にある、

あの人たちに読まれる、と読者を想定して

書いたのではないかと思えるのです。

もう天に召された宮村武夫先生が川奈教会で

ご奉仕をしてくださった時のことを良く思い出します。

教会学校の子どもたちのためにこのような話しをしてくださいました。

宮村先生がまだ神学生だった二十歳前後の頃のこと、

ある教会で子ども向けの特別集会を計画なさったそうです。

楽しいプログラムを用意し、チラシを作り、ポストに投函し、

知り合いに声をかけ一生懸命準備を為さいました。

いよいよ当日。何人来てくれるか、楽しみにして

待っていたのですが結局来てくれたのはたった一人だけだったそうです。

それでも一人来てくれたので用意していた集会を始めます。 

一生懸命聖書のお話をして、人数はたった一人だけれども

それでも聞いてくれる一人がいることを感謝して、

充実した思いを味わっておられたそうです。

けれども、聖書のお話しをしている途中でなんと

そのたった一人来てくれたお子さんのお母さんが教会に迎えに来て

「さぁ帰るわよ~」と呼ぶと、その子が「は~い」と返事をして帰ってしまった。

そういう若き日の先生の苦い体験談でした。 

そしてそのエピソードを通して宮村先生が学んだことを

子どもたちにこのようにお話しくださいました。

「私はその時、神様にとっても大切なことを

教えて頂きました。0と1というのは決定的に違うです。

1と1万というのは大して違いありません。

けれども0と1は全然違う。まったく違うんです。

皆さんは、1を大切に出来る人になって下さい。

ここに10人のお友達が集まっていますね。

けれども、それは大切な一人一人が集まって

10人居るということであって、0ではない皆さん一人一人が

居てくれるということが大切なのです。

そのことを忘れないで下さい。」

こういうお話でした。 心に残る話しでありました。 


ヘブル書という書物はとても難しい。説教の準備も大変だし、

聞く皆さんも一年間大変だったと思います。

でも何か深く心捉えられる響きを持っている書物でありました。

それは、0と1の違い。1の重さを噛み締めつつ

書かれた手紙であるからです。

迫害で苦しんでいるあの辺の教会、

あの辺の信徒1000人を励まそうとしているのではなくて、

出口の見えない迫害の中で耐え忍んでいるあの教会に、

あの人に、そうやって書かれた手紙である。

それはパウロの書簡を読んでも正にそういう思いが読み取れる。 

一つの魂を愛する、そのためにヘブル書の著者は

大祭司キリストの恵みと力を語り、そしてまた

旧約の始まりから歴代の信仰者たちの姿を解き明かし、

解決の見えない問題の只中でなお望みえる信仰の力を語った。

それは首都ローマで教会が倒れてしまっては困るからではないし、

あの人たちが教会を離れてしまうと都合が悪いからではない。

魂を愛して、その1の重さ。御子キリストを犠牲にしてまでも

救い出さないではおられなかった1つの魂の重さをかみしめながら、

筆をとりこの手紙を書きあげたのです。

 
2.イエス・キリストを通してのみ

人一人の命の重さ。神様が見出して下さっている特別な価値。 

それをどのようにして私たちは計るのでしょうか。

大変な能力を持って、様々な責任を担い、多くの人々から必要とされ、

この人が居なければと思われている自分。 

だからあの人はヘブル書を書き送ってきた。

だからあの人は私に配慮せざるを得ない。 

そうやって自分の命を計ってみて「重たい」と喜んだものは

あっという間に失われるでしょう。

しばらくしてその人が能力を失い、責任を失い、

必要としてくれた人々が去り、他の人が替わりを立派に務め、

そうやって不要な人間になっていく時に、

その人の命の重さがゼロになってしまう。

もう生きていても仕方が無い、私の存在など何の意味も無い、

死にたい、惨めだ、そう思いながら死ぬことさえできない。

 

最近、安楽死に関するニュースを見ることが増えています。

非常に厳しい重大な問いに私たちはキリスト者として

向き合っていかなければいけない時代であります。 

ヨーロッパの幾つかの国ではすでに安楽死が合法化されている。

もちろん条件があって、回復の見込みがない。

激しい苦痛を伴いそれを和らげる手段がないなど、

医療者の厳しいチェックや本人の意思確認がされた上でのことであります。 

助かる見込みがない上に、耐え難い痛みばかりが襲う命。

苦しみだけの日々をなぜ生きなければいけないのか。

今、安らかな死を選択する権利が人間にはあるはずだ。

報道を見る限り、肯定的な意見が日本でも増えているようであります。

「その通りだ。生きることは義務ではないはずだ。

日本もこのようになっていかなければいけない」、

私たちはキリスト者として何と応えるでしょうか。

安易なことは言えません。

一人一人が信仰の良心を働かせて問うていかなければいけない。

21節でヘブル書はこのような渾身の言葉を書き記しています。

「あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、

みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、

私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」


神様が御子キリストを通して御心に適うことを私たちの内に行ってくださる。


そのことによって今度は私たちが御心を行う者としてくださる。 

パスカルが言いました。

「イエス・キリストを通してのみ神を知るだけではなく、

イエス・キリストを通してのみ自分を知る。

イエス・キリストを通してのみ生と死を知る。

イエス・キリストを除いて、私たちは、自分の生、自分の死、神、

と自分自身は何なのかを知ることはできない。」


正にそうであると思います。初代教会が、

ローマの教会がおかれていた状況も究極的なものであった。

何のためにキリストを信じて生きるのか。

信仰を貫き、正しく生きて、しかし迫害がおさまる訳ではない。

どんどん苦しみが増していく。

その中で、キリストを信じ教会を守ることに何の意味があるのだろうか。 

しかしそのような中でこそ、教会を生かし、

キリスト者一人一人をご自身の愛する子として

生かしてくださっている神様のご主権が現れるのです。

わざわざ御子キリストを犠牲にしてまでも教会を聖め、

私どもを生かしてくださった神の御心がそこに現れる。 

そうした時に、私たちには分からないけれど、

でもそこに教会を守り、信仰を貫くことの意味があること、

価値があることを認めざるを得ない。 

もう生きる必要は無いと思えるような自分、

また他者の姿。しかしそう思う時に、そのような私を確かに

生かしておられる神様がおられる。

生かしたもう主の御心、ご主権に対する恐れを忘れる

ことができないのがキリスト者である。 

そこでこそ、神様が認めてくださっている

ゼロと一の違いとしての1の価値。

一つの魂の重さが私たちに分かるのです。



3.神の御心によって

傲慢の罪を離れましょう。私にはこんな価値があるのだ。

私の言葉はこんなに正しいのだ。

私は…。そうやって神を必要としない“私”に陥っていくことと、

私なんかダメだ。私なんかどうしようもない。

私には生きる価値も意味も無い。ダメな人間だ。

そうやって自分を否定することと、それはどちらも神を軽んじ、

自分を神とする傲慢の罪です。 

人はいつもその間を行ったり来たり、堂々巡りをしている。 

そうじゃない。

平和の神はイエス・キリストを通して

あなたの内に完全なご自身の御心を現された


と21節に書いてある。

それはつまり、神の一人子を失ってでも救うべき

私たちの命・魂の価値を現されるという

神の御心の成就を言っているのです。

そうやって私たちが神の完全な御心を体験した時に、

今度は私たちも自分自身の命をキリストを通して

現された神の御心に適って生かしていくようになる。

そうでなければいけない。 

自分にはこういう役割があるから、あの人はこういう人だから、

そういう自分を神とした価値判断では無くて、

ゼロでは無い1であることの決定的な魂の重さ。

そのことを自分自身に、そして隣人に向けて行く。 

それは年齢も性別も能力も、信仰のあるなしも、

献金の大小も関係ない。

ただ神の御心が完全にあらわれることを願って

なされる信仰の応答です。

来週から福音書の講解説教を始めます。

もっとキリストを知るための学びであります。 

コリント8:2
「人がもし、何かを知っていると思ったら、

その人はまだ知らなければならないほどのことも

知ってはいないのです。」


とパウロは語りましたが、せめてキリストを全然知らない

私たちであることを弁えて、あなたを教えて下さいとの祈りをもって

一からイエス・キリストを学んで参りたい。

そしてキリストを知ることによって、

私たちの命の重さを、隣人の魂の重さを発見していきたい


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。

伊豆夢(イズム)こと

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この火曜礼拝ブログは

川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「最上のわざ」 ヘブル13:17-19

1.魂の見張り人

先週学びました個所においては

「神の言葉をあなたがたに話した指導者たちのことを思い出しなさい」

と勧められておりましたが、今晩の17節にはこのように記されています。

「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい」

信仰の歴史・系譜の中で、神の恵みを

味わい知ることからはじめて、そして今与えられている

み言葉の取り次ぎ手、信仰の導き手に従うことの勧めです。 

こういう御言葉というのはひと昔前であれば

ごく当たり前の言葉として牧師が語ることができたのでありますが、

現代はまったく事情が違う。

宗教が様々な社会問題を巻き起こす時代、

「牧師の言うことを聞き服従せよ」などと真正面から

言ったら大変なことであります。

パウロが愛弟子テモテに書き送った晩年の手紙、

テモテへの手紙には若き牧会者テモテのエペソ教会での苦労を思い

励ましと慰めに満ちた言葉が記されています。

内も外も問題が山積し教会の歩みが行き詰っていく。

そういう中で、教会員の不満のはけ口はテモテに向かっていくのです。

テモテだからダメなのではありません。

パウロでもペテロでもどうしようもならない

の時代だったのです。

けれども、やり場の無い怒りを誰かにぶつけないではおられない。

そうした時に若い経験の少ない牧師テモテに、

自分たちの苦しみの原因を見出したくなってしまう

人間の弱さがあるのです。 


ヘブル書が1世紀末にどのような教会に宛てられて書かれた

手紙であるのかははっきりとは分かりません。

ユダヤ人キリスト者が多い教会に向けられたことは

確かであろうと思いますが、それ以上のことは分からない。

しかしいずれにしても、教会がおかれていた状況、

そしてその教会の牧者がおかれていた状況は

テモテ書のそれと似通っていただろうと思います。

「指導者の言うことに従い、服従せよ」と教えられているということは、

つまり教会のメンバーが指導者に従えなくなっている、

服従出来なくなっている。

そういう中でヘブル書はこの教会のリーダーたちを

「この人たちは神に申し開きをする者として、

あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。」、

新共同訳聖書はこの17節の「見張りをしている」という言葉を

「心を配る」と訳しています。

そちらの方が牧師の心を適切に現していると思います。

実はこの言葉には「寝ずの番」というニュアンスが含まれておりまして、

古代教会においては牧師は午前2時から数時間おきに

祈りの時間が定められておりました。

そうやって、人々が眠っている時間にも目を覚まして

教会の信徒のために牧師は祈っていた。 

パウロ自身も自らが建て上げた教会の信徒たちのために

眠らずに過ごした、眠られない祈りがあったことを書いています。

そのようにして心を配っていたということです。

「悪いことをしていないか」と疑いとしての見張りではない。 

いつ信徒たちに襲い掛かるか分からない狼・サタンの攻撃に備え、

皆が眠っている時にも、魂の見張り人として

信徒たちを祈りにおいて守っている。

そうやって、地上における信徒たちの魂を守りながら、

やがてかの日には神様の御前で彼らのことを弁明するというのです。

その時には17節の後半

「ですから、この人たちが喜んでそのことをし、

嘆きながらすることにならないようにしなさい。

そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」

神様の御前にあって信徒たちを弁明する。

そこで、内心「この人は弱ったな」と思いながら、

でも家の教会の信徒だから何とか受け入れてもらえるように

神様に申し上げなければ…、

そういう牧師を悩ませるような者になってはいけない。

牧者が胸を張って

「主よ、この人は私が委ねられた教会でこれこれのような

信仰を生活を送り、今見事に御前に凱旋してきたものです!」

とそう喜んで神様に伝えられるような歩みをしないといけません。

そういう戒めの言葉です。


2.やり場のない怒りの標的

このように言われているということは、

やはり裏を返せば牧師が胸を張って神様の御前に

信徒たちを弁明することが難しい状況だったということです。 

なぜでしょうか?

信徒たちが眠っている時間にも祈りのバリヤーのようにして

彼らを守っている牧師の言葉を彼らはどうして聞けないのか?

従えないのか?

ここまでしてもなお状況が良くならないばかりか、

かえってローマ帝国の迫害は激しさを増し、

そしてまた教会内にも色々な問題が起こっている。

「熱心なのは分かる。でももうこの牧師には我慢ならない」

そういう思いだったかもしれません。 

私たちは正しいことをしているのだから、

当然その結果は良いものであるべきだと考えます。

頑張ったのだから相応の結果が出なければこまる。

しかし実際のところ、正しいことをしていても結果が出ない時がある。

正しくても成果が上がらないばかりか

マイナスに向かっていくようなことがある。

そうするともう直ぐに我慢できなくなってしまうのです。


例えば信徒の皆さんの中に、家庭の中で一人だけ

クリスチャンという方々がいらっしゃいます。

そうすると「また教会か」と言われたり、

何かの折に「お前が教会なんか行っているからだ」

と言われたりするわけです。 

そういうことは辛いことでありますけれども、

しかしどこかで当然のことと受け止める必要がある。 

新興宗教に奥さんがはまってしまって、

家庭のこと、旦那さんのことを放り出して

宗教に入りびたりというようなことがありますが、

教会においてはそういうことはありません。

教会に通い信仰を持つようになると旦那さんのこと、

奥さんのことをより深く、真実に愛せるようになる。

家庭のことを、家族のことおろそかにできなくなる。

家庭だけではない、仕事や友人関係、様々なところに

良い影響を及ぼすでしょう。それが信仰が私たちを導く方向性です。 

それでも、やはり何か生活の中に不満が生じると

「教会なんか行くからだ」と言われてしまうことがあるのです。

人生には説明のつかない、理由の見つからない困難や苦しみ。

どうしようもできないような痛みが存在している。

ただ我慢しているほかない困難。辛いものです。

そういう時に、何か「あれが悪い」と言えるものを

見つけて気持ちを楽にしたい。そういうことがあるでしょう。

そのような状況で教会、信仰者というのはいつも

やり場のない怒りの標的にされてきた。

それは初代教会から今に至るまで続く現実です。

 
A.D.64 年 6 月 18 日、ローマで大火事が発生し

大変な被害をもたらします。



この大火については諸説ありますが、人々のやり場のない不満は

皇帝ネロに向かっていく。

このローマの大火が皇帝ネロがローマの都を

自分の思い通りに造り直すために引き起こした

という噂が広がっていくのです。

そこで焦ったネロは自らへの不満の矛先をかわすために、

この大火の下手人がキリスト教徒であるとのうわさを流し、

徹底的にキリスト者を痛めつけたのです。

有名なネロの迫害の始まりです。

この迫害下でペテロもパウロも殉教したと言われています。 

教会は、キリスト者は、こうやって歴史的に

人々の苦しみや不満の矛先の向かう場所として

理不尽に苦しめられてきた。

ですから、皆さんが家庭で職場で、キリスト者であるがゆえに

このような目に合う時に、それは苦しいことであるけれども、

でも思いがけないことと思ってはいけない。


ずっとヘブル書で学んでいるように私たちの信仰の先祖たち、

アブラハムからはじまって2000年のキリスト教会の先人達まで

皆が経験してきたことである。 

3.思いもかけない道を立派に歩むこと

なぜキリスト者がそのような目に合うのか?

それは、私たちの主なるお方、教会の頭であるお方が

まさにそのような目に合われたからです。 

イザヤ書53章苦難のしもべと呼ばれる有名な箇所に

このように来るべきメシヤの姿が描かれています。

「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほど

さげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。

私たちは思った。彼は罰せられ、

神に打たれ、苦しめられたのだと。」


イエス様はまさに私たち人間のどうしようもない

苦しみをすべて身に受けられ、理不尽に痛めつけられ殺された。

そのことをしかし、理不尽と思わずご自身の使命として

正面から受け止めてくださった。

 私たちの信仰はご利益信仰ではありません。

神様を信じると私の望みが、願いが叶う。

そういう低俗な話では無い。

クリスチャン作家の三浦綾子さんがこのようにおっしゃっています。

「自分でえらんだ道を歩くことは、快いこと。

でも、思いもかけない道を立派に歩むことは、

さらにすばらしいことかも知れないよ」

どうしたら思い通りの人生が歩めるかでは無くて、

自分の思い通りにならない人生をどのようにしたら

良きものとして受け止めていけるか、

これが人生の本当の課題です。

私たちが聖書からいただく信仰は、まさに思いもかけない道を立派に、

雄々しく歩んでいける人生の力である。 


ですから、解決しない問題、正しく歩みながら

苦しみが増していくような、困難が深まっていくような状況の中で、

神様が与えてくださった指導者の言葉に従い服従する。

それはもちろん、正しく神の言葉が取り次がれていることを

前提としているわけですが、み言葉に服従するという

姿勢は軽んじられてはいけない。

何でも言える、誰でもが自由に言葉を発せられる、それは大切なことです。

でもその自由が、わがままのための自由になってはいけない。

自由を神様が与えてくださった。それを正しく管理する。

すなわち私たちの救い主なるお方に喜びをもって従い

応答していくために、その自由を用いるということです。

4.最上のわざ

ヘブル書が宛てられた時代の教会であれば、

彼らの正しい信仰はしかしこのあと200年何の成果も現さないのです。

ひたすら耐えて耐えて耐え忍ぶばかりでありました。

ようやくのこと4世紀になって、コンスタンティヌス大帝により

キリスト教が国教化され迫害が止みます。

3百年かけてようやくこの時の種が実を実らせた、

ということができるのかもしれない。 

けれども一方でどうでしょうか。

そうやってこれまで迫害の対象であったキリスト教が

ローマ帝国の政策転換により、一転して国家から保護され

推奨される宗教となる。

ここからキリスト教会は堕落という新たな問題と

向き合っていくようになります。

熱心な教会の指導者たちは、国家に優遇され緊張感を失い

堕落していく教会に見切りをつけ、

あの迫害時代の教会の純粋な信仰を求めて

砂漠に出て行き、自給自足の厳しい生活の中で

祈りと御言葉に励んだのです。

彼らは砂漠の修道士と呼ばれました。


皆さんが信仰生活を続けながら、色々な課題を抱えておられるのです。

健康の問題、お仕事の問題、家庭・家族の問題、

精神・心の問題、人間関係の問題、老いの問題。色々です。

そういう中で祈りつつ問題の解決を願う。

もっとこういう風になるように、と願う。

そのような皆さんの願い・祈りが聞き届けられた時に、

私たちの信仰の歩みがついに報われるのでしょうか?

もしそうならなかったら。願った通りにならなかったら、

それは徒労であり、間違った導きであり、勘違いなのでしょうか。


ヘルマン・ホイヴェルス神父、このかたは

上智大学の学長をなさった方ですが、ホイヴェルス神父が

故郷南ドイツに帰ったとき、友人からもらったそうであります、

「最上のわざ」という素晴らしい詩があります。

 「この世の最上のわざは何? 楽しい心で年をとり、

働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとへ行くために。おのれをこの世につなぐくさりを

少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

それは祈りだ。手は何もできない。

けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と。」


ヘブル書の著者は信徒たちに、聴き従うことを求めた

だけではなく18節で

「私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を

持っていると確信しており、何事についても正しく

行動したいと思っているからです。」


祈ってください、正しい信仰に留まれるよう私たち指導者、

牧師たちのために祈ってくださいと頼み、

更にもう一度重ねて

19節
「なおいっそう祈ってくださるよう、お願いします。」


と書き送っている。 

何事においても正しく行動できるよう祈って欲しい。

教える者も聞く者も、互いに教え合い祈り合い、

信仰の正しさに留まっていこうと励まし合って

ヘブル書がいよいよ閉じられていきます。

私たちの信仰生活、教会生活に相応しい成果、

実りを追い求めわがままになる歩みでは無く、

最上の業を喜べる信仰。御言葉に服従し聞き従う時に、

その時その時に神様が備えてくださっている最上の業がある。

その務めを果たしバトンを受け継いでいく。

イエス・キリストが再び来られる日を信じて、最上の業に励むのです。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。