「神の御心によって」ヘブル13:20-25 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「神の御心によって」ヘブル13:20-25

1.1つの魂の重さをかみしめる

一年をかけて学んできましたヘブル書を今晩で学び終えます。

ヘブル書を総括する御言葉に耳を傾けて参りましょう。

まず
24節
「あなたがたのすべての指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく。

イタリアから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

13:25
恵みがあなたがたすべてとともにありますように。」


ヘブル書というのは手紙でありますから、

この24節の言葉は古代の教会における手紙における末尾の挨拶です。

教会の指導者、および信徒たちによろしくと伝える。

問題はその後「イタリアから来た人たちが、よろしくと言っている」、

ここは翻訳上の問題がありましてこのように

「イタリアから来た人、イタリア出身者がよろしくと言っている」

と訳することも

「イタリアにいる人たちからよろしくと言伝られている」

そういう風に訳すこともできる言葉です。 

このことはヘブル書の解釈にかなり大きな影響を及ぼす

問題でありまして、「イタリア出身者がよろしくと言っている」

ということですと、この手紙の執筆者の教会の中に

イタリア出身者が居て、彼らが「よろしく」と言っている。

ということは、この手紙はイタリアにある教会に宛てられた

手紙であるということになるわけです。

 一方「イタリアにいる人たちがよろしくと言っている」

ということですと逆のこと、つまりこの手紙の執筆者は

今イタリアにいて、手紙の宛先になっている教会に

繋がりがあり今はイタリアに住んでいる人たちがいたことになる。

「イタリアからよろしく」という、そういう意味になる。 

イタリアというのはローマのことであります。

先週ローマの大火をきっかけに起こった

ネロの迫害ということを少しお話ししました。

迫害の中心地ローマ、ここでペテロもパウロも殉教した。

「そういう場所から発信された手紙か?」、

「そういう場所に向けて送られた手紙か?」、

これはかなり大きな意味の違いを持っていることになります。

そのことと関連して

23節「私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。

もし彼が早く来れば、私は彼と一緒にあなたがたに会えるでしょう。」


先週の説教でパウロの愛弟子テモテのことを話しました。

テモテへの手紙はパウロの最晩年に執筆されたもので、

パウロはあの手紙を書いて間もなく殉教したと考えられております。 

自分の死が近づいていることを感じながら、自分の亡き後

志しを継承してくれるテモテがエペソ教会の牧師として苦戦している。

そこで、心を込めて手紙を書き送ったがテモテへの手紙です。 

このヘブル書においてテモテの名前が記されている時に

パウロはすでに殉教していたと考えられます。

その後、もしくはその頃テモテも捕えられ投獄されていたようであります。 

初代教会に衝撃走ったはずであります。

ペテロが死に、パウロが死に、12弟子のほとんど殺され、

そういう中で次世代を担うテモテまでもが…。

しかしテモテは神様のお取り計らいの中で釈放された。

素晴らしいニュース。もし彼が早く来てくれれば

私は彼と一緒にあなたがたに会えそうです、

そんな風にヘブル書の著者は書いているのです。

テモテは15年近くエペソ教会の牧師をしたようでありますので、

恐らくテモテが投獄されたのはエペソの町であったと考えられます。

沢山の信徒たちがテモテ先生のために祈っていて、

そしてここでヘブル書の著者はテモテが釈放された

ニュースを知らせています。

さらに、テモテ先生と一緒にあなた方の教会に行けるかもしれない。

そうすると恐らくこれは、迫害がもっとも厳しい

ローマに向けられた手紙である可能性が高いと思います。 

先の見えない困難の中にある教会、特にも迫害の中心地

ローマにある教会をヘブル書の著者はずっとここまで励まして来て、

最後にエペソでテモテが助かったというニュースを書き送り、

テモテ先生と一緒にあなたたちのところに行けるかもしれないよと、

そうやってローマ教会を励ましているのです。 

新改訳が訳すように

「イタリアから来た人、イタリア出身の信徒たちが、

あなたたちによろしくと言っている」、

つまりローマ教会を私たちはいつも覚えているよという励ましの言葉です。 

聖書の中にはエペソ書、ピリピ書、コリント書、

様々な教会に宛てられた手紙が納められているのですが、

そうした書簡は恐らくコリント教会という

一つの教会に宛てられたのではなくて、コリントの町にある

複数の教会で輪読されることを元々想定して

書かれていると言われています。

かなり広い範囲で沢山の教会、信徒たちに読まれることを

もともと意図して書かれているのです。

そういう意味では、このヘブル書も一つの教会に宛てられた

ということではないと思いますが、しかし一方において

ヘブル書の著者はかなりピンポイントで、あのような状況にある、

あの人たちに読まれる、と読者を想定して

書いたのではないかと思えるのです。

もう天に召された宮村武夫先生が川奈教会で

ご奉仕をしてくださった時のことを良く思い出します。

教会学校の子どもたちのためにこのような話しをしてくださいました。

宮村先生がまだ神学生だった二十歳前後の頃のこと、

ある教会で子ども向けの特別集会を計画なさったそうです。

楽しいプログラムを用意し、チラシを作り、ポストに投函し、

知り合いに声をかけ一生懸命準備を為さいました。

いよいよ当日。何人来てくれるか、楽しみにして

待っていたのですが結局来てくれたのはたった一人だけだったそうです。

それでも一人来てくれたので用意していた集会を始めます。 

一生懸命聖書のお話をして、人数はたった一人だけれども

それでも聞いてくれる一人がいることを感謝して、

充実した思いを味わっておられたそうです。

けれども、聖書のお話しをしている途中でなんと

そのたった一人来てくれたお子さんのお母さんが教会に迎えに来て

「さぁ帰るわよ~」と呼ぶと、その子が「は~い」と返事をして帰ってしまった。

そういう若き日の先生の苦い体験談でした。 

そしてそのエピソードを通して宮村先生が学んだことを

子どもたちにこのようにお話しくださいました。

「私はその時、神様にとっても大切なことを

教えて頂きました。0と1というのは決定的に違うです。

1と1万というのは大して違いありません。

けれども0と1は全然違う。まったく違うんです。

皆さんは、1を大切に出来る人になって下さい。

ここに10人のお友達が集まっていますね。

けれども、それは大切な一人一人が集まって

10人居るということであって、0ではない皆さん一人一人が

居てくれるということが大切なのです。

そのことを忘れないで下さい。」

こういうお話でした。 心に残る話しでありました。 


ヘブル書という書物はとても難しい。説教の準備も大変だし、

聞く皆さんも一年間大変だったと思います。

でも何か深く心捉えられる響きを持っている書物でありました。

それは、0と1の違い。1の重さを噛み締めつつ

書かれた手紙であるからです。

迫害で苦しんでいるあの辺の教会、

あの辺の信徒1000人を励まそうとしているのではなくて、

出口の見えない迫害の中で耐え忍んでいるあの教会に、

あの人に、そうやって書かれた手紙である。

それはパウロの書簡を読んでも正にそういう思いが読み取れる。 

一つの魂を愛する、そのためにヘブル書の著者は

大祭司キリストの恵みと力を語り、そしてまた

旧約の始まりから歴代の信仰者たちの姿を解き明かし、

解決の見えない問題の只中でなお望みえる信仰の力を語った。

それは首都ローマで教会が倒れてしまっては困るからではないし、

あの人たちが教会を離れてしまうと都合が悪いからではない。

魂を愛して、その1の重さ。御子キリストを犠牲にしてまでも

救い出さないではおられなかった1つの魂の重さをかみしめながら、

筆をとりこの手紙を書きあげたのです。

 
2.イエス・キリストを通してのみ

人一人の命の重さ。神様が見出して下さっている特別な価値。 

それをどのようにして私たちは計るのでしょうか。

大変な能力を持って、様々な責任を担い、多くの人々から必要とされ、

この人が居なければと思われている自分。 

だからあの人はヘブル書を書き送ってきた。

だからあの人は私に配慮せざるを得ない。 

そうやって自分の命を計ってみて「重たい」と喜んだものは

あっという間に失われるでしょう。

しばらくしてその人が能力を失い、責任を失い、

必要としてくれた人々が去り、他の人が替わりを立派に務め、

そうやって不要な人間になっていく時に、

その人の命の重さがゼロになってしまう。

もう生きていても仕方が無い、私の存在など何の意味も無い、

死にたい、惨めだ、そう思いながら死ぬことさえできない。

 

最近、安楽死に関するニュースを見ることが増えています。

非常に厳しい重大な問いに私たちはキリスト者として

向き合っていかなければいけない時代であります。 

ヨーロッパの幾つかの国ではすでに安楽死が合法化されている。

もちろん条件があって、回復の見込みがない。

激しい苦痛を伴いそれを和らげる手段がないなど、

医療者の厳しいチェックや本人の意思確認がされた上でのことであります。 

助かる見込みがない上に、耐え難い痛みばかりが襲う命。

苦しみだけの日々をなぜ生きなければいけないのか。

今、安らかな死を選択する権利が人間にはあるはずだ。

報道を見る限り、肯定的な意見が日本でも増えているようであります。

「その通りだ。生きることは義務ではないはずだ。

日本もこのようになっていかなければいけない」、

私たちはキリスト者として何と応えるでしょうか。

安易なことは言えません。

一人一人が信仰の良心を働かせて問うていかなければいけない。

21節でヘブル書はこのような渾身の言葉を書き記しています。

「あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、

みこころを行わせてくださいますように。

また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、

私たちのうちに行ってくださいますように。

栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。」


神様が御子キリストを通して御心に適うことを私たちの内に行ってくださる。


そのことによって今度は私たちが御心を行う者としてくださる。 

パスカルが言いました。

「イエス・キリストを通してのみ神を知るだけではなく、

イエス・キリストを通してのみ自分を知る。

イエス・キリストを通してのみ生と死を知る。

イエス・キリストを除いて、私たちは、自分の生、自分の死、神、

と自分自身は何なのかを知ることはできない。」


正にそうであると思います。初代教会が、

ローマの教会がおかれていた状況も究極的なものであった。

何のためにキリストを信じて生きるのか。

信仰を貫き、正しく生きて、しかし迫害がおさまる訳ではない。

どんどん苦しみが増していく。

その中で、キリストを信じ教会を守ることに何の意味があるのだろうか。 

しかしそのような中でこそ、教会を生かし、

キリスト者一人一人をご自身の愛する子として

生かしてくださっている神様のご主権が現れるのです。

わざわざ御子キリストを犠牲にしてまでも教会を聖め、

私どもを生かしてくださった神の御心がそこに現れる。 

そうした時に、私たちには分からないけれど、

でもそこに教会を守り、信仰を貫くことの意味があること、

価値があることを認めざるを得ない。 

もう生きる必要は無いと思えるような自分、

また他者の姿。しかしそう思う時に、そのような私を確かに

生かしておられる神様がおられる。

生かしたもう主の御心、ご主権に対する恐れを忘れる

ことができないのがキリスト者である。 

そこでこそ、神様が認めてくださっている

ゼロと一の違いとしての1の価値。

一つの魂の重さが私たちに分かるのです。



3.神の御心によって

傲慢の罪を離れましょう。私にはこんな価値があるのだ。

私の言葉はこんなに正しいのだ。

私は…。そうやって神を必要としない“私”に陥っていくことと、

私なんかダメだ。私なんかどうしようもない。

私には生きる価値も意味も無い。ダメな人間だ。

そうやって自分を否定することと、それはどちらも神を軽んじ、

自分を神とする傲慢の罪です。 

人はいつもその間を行ったり来たり、堂々巡りをしている。 

そうじゃない。

平和の神はイエス・キリストを通して

あなたの内に完全なご自身の御心を現された


と21節に書いてある。

それはつまり、神の一人子を失ってでも救うべき

私たちの命・魂の価値を現されるという

神の御心の成就を言っているのです。

そうやって私たちが神の完全な御心を体験した時に、

今度は私たちも自分自身の命をキリストを通して

現された神の御心に適って生かしていくようになる。

そうでなければいけない。 

自分にはこういう役割があるから、あの人はこういう人だから、

そういう自分を神とした価値判断では無くて、

ゼロでは無い1であることの決定的な魂の重さ。

そのことを自分自身に、そして隣人に向けて行く。 

それは年齢も性別も能力も、信仰のあるなしも、

献金の大小も関係ない。

ただ神の御心が完全にあらわれることを願って

なされる信仰の応答です。

来週から福音書の講解説教を始めます。

もっとキリストを知るための学びであります。 

コリント8:2
「人がもし、何かを知っていると思ったら、

その人はまだ知らなければならないほどのことも

知ってはいないのです。」


とパウロは語りましたが、せめてキリストを全然知らない

私たちであることを弁えて、あなたを教えて下さいとの祈りをもって

一からイエス・キリストを学んで参りたい。

そしてキリストを知ることによって、

私たちの命の重さを、隣人の魂の重さを発見していきたい


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。