伊豆夢(イズム)こと
ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。
この火曜礼拝ブログは
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川奈聖書教会・火曜礼拝における
山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり
オリジナルの説教とは多少、
異なることをご理解下さい。
■「先達の信仰に倣う」ヘブル13:7-16
1.信仰の指導者
いよいよヘブル書も最終盤という所ですが
7節から
「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、
覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、
その信仰に倣いなさい。」
ここでヘブル書は
「信仰の指導者たちの言葉、生涯を覚えていなさい」と教えています。
ご承知のようにヘブル書は1世紀末に記されたものです。
そうするとこの時代のキリスト者たちがこういう風に
言われて思い浮かべる指導者とは誰であるか?
すでにペテロやパウロなど使徒たちのほとんどは
地上を去っていたと思います。
ただ一人使徒ヨハネだけは1世紀末まで生きましたが、
そのほかの第一世代と言える指導者たちは
すでに皆殉教の死を遂げている。
ですから、このように言われて初代教会の信徒たちが
思い起こすのは第一には使徒たちのことであったと思います。
でもそれだけではない。ヘブル書があの信仰者列伝において
旧約の始まりから名を挙げて語っていったのです。
つまりそれは、初代教会が新約の時代、
キリストの十字架と甦り以降の信仰者たちと、
旧約の信仰者たちを別の物、異質な存在としては
認識していなかったということです。
当然のように旧約の聖徒たち、預言者たちを、
かつての指導者、尊敬すべき信仰の先輩として認め、
その系図に連なる自分たちとして認識していた。
このことは非常に重要なことであります。
私たちのことを考えたときにどうでしょうか?
「神の言葉をあなたがたに話した指導者たちのことを覚えていなさい」
こういわれて皆さんは誰を思い出すか。
荒井先生や川嶋先生を思い出される方がいるでしょうし、
またそれぞれの信仰の歩みの中で導かれた
かつての牧師や伝道者を思い起こされるでしょう。
それは大切なことでありますけれども、しかしここで
ヘブル書が「覚えよ」と言っている言葉はもっと
ずっと奥行きの深い、何百年、何千年、そういう単位での
「覚え」また「思い起こせ」という意味を持っているのです。
私たちプロテスタント教会の伝統は聖書に帰る。
これが宗教改革・プロテスタントの大原則です。
しかし一方において、そのようなプロテスタント教会の
伝統の弊害として、「根なし草」のような脆さを露呈することがある。
キリスト教会の2000年の歴史・伝統に深く根ざしている
正教会やカトリック教会の強みから学ぶこともたくさんある。
例えば私たちが「アウグスティヌス」と聞いて、
果たして「神の言葉をあなたがたに話した指導者のひとり」
として思い起こすことができるのか。
2.食物の規定によらずに
プロテスタントの信仰というのはどうしても
歴史を否定する方向に向かいやすい。
これは一面においては正しいと思います。
日ごとの悔い改め、改革され続ける教会、
これが宗教改革の心であって、だからこそ
常に神の言葉である真理に聞き続け、
学び続けていく姿勢が生まれてくる。
けれども、それゆえあまりにも安易に過去を否定してしまう。
神の言葉を取り次いできた、神の信仰に生き続けてきた
信仰の先人たちを軽んじてしまう。
キリスト教会に見るところがあるのは記憶の中で
「誰誰先生」とさかのぼれるせいぜい50年、70年程度。
あとの1950年間は間違った教会の歩みであった、
というような初代教会と現代の教会の間が
すべて空白になっているような感覚。
宗教改革をも容易に否定してしまうような
新興プロテスタントの感覚、これは恐ろしい間違いだと思う。
少なくとも初代教会はそうやって旧約の聖徒たち、
指導者たちを軽んじるようなことはしなかったのです。
ここでヘブル書は何を教えているのでしょうか?
7節で、信仰の先人の言葉と証しを重んじることを教え、
そして8節で
「イエス・キリストは、昨日も今日も、
とこしえに変わることがありません。」
とキリストの普遍性が語られている。
一読してこの8節は非常に重たい言葉です。
しかし、あえて立ち止まらずに9節を見ますと
「様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。
食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。
食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。」
ここにまた信仰の言葉として非常に印象深いことが語られています。
「食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです」
このところは宗教改革者マルチン・ルターによる
ドイツ語訳聖書の言葉が良く知られています。
ルターはこのところを
「食物の規定によってではなく、恵みによって
心を強めるのは素晴らしいことです」
もしくは「すてきなことです」と訳したのです。
ルター自身の喜び、幸せが読み取れるような訳です。
「私は何を喜んで生きているのか?
食べ物のことに振り回されてはいない」という。
ここで言う「食べ物」とは、直接的には
食べ物に関する旧約聖書の様々な律法の規定です。
律法を守る、食べ物の決まりごとを守る。
そういうことで喜んだり、高慢になったり、
人を見下げたり、落ち込んだり。私はそんな人生ではない。
私がいかなる者であろうとも、愛したもう神の恵みの中に
強められ生かされている。本当にそれは幸せなことだ。
マルチン・ルターは非常に厳しい厳格な父親に育てられ、
それゆえこの厳格な父親に神の姿を二重写しに
して見ていたと言われます。
修道士の道に入って、ずば抜けた厳格な修道士生活を送り、
彼自身が後にこのように書き残しています。
「本当のところ、私は敬虔な修道士であった。
私は非常に厳格に修道会の戒律を守ったので、
次のように言うことができる。
『もしこれまでひとりの修道士でも修道士生活によって
天国に入ったのなら、私もそこに入れるだろう。』と。
もしもう少し長く修道生活が続いていたなら、
私は徹夜、祈り、朗読、その他の務めで自らを苦しめさいなみ、
そのため死んでしまっていたことだろうから。」
これほど徹底して苦行を重ね、それでも彼は
自分の霊魂の汚れがきよめられてはいないと感じていました。
あの父ハンスのような、いやそれ以上に厳格で染み一つ
見逃すことの無い正義の神の前に、自らの罪と滅びを
思わずにはおられなかった。
そのようなルターがローマ書を学ぶ中で、聖書が教えている
神の義とは、私たちの汚れを見逃さず裁きにかける義では無く、
罪人である私に神様がお与えにくださる贈り物としての義。
すなわち恵みとして一方的に与えられる
十字架の恵みであると悟るのです。
ルターはこのように言いました。
「神の義とは、この方が義である義ではなく、
われわれがこの方により義とされる義と解されねばならない。」
ルターはこの福音に、この喜びに生涯をかけたのです。
生まれてからずっとハンスという父を通して
裁きの神の前に震えおののき、何とかして裁きの神に
認められ魂に平安を得たいともがいてきた。
良い子と認められるために良い子を演じて、
良い子になり切ろうとして徹底的に努力し。
でもそうすればするほど良い子ではない
自分の姿が露わになって苦しんだ。
けれどもそういう中で神様のご一方的な恵みにおいて
「お前は私の愛する子である」と認めていただける
信仰義認の恵みに出会うのです。
そうした時に、私はどう食べるか、何を食べるかではない。
神様の恵みによって心強められる幸いを、
このヘブル書の著者の言葉に重ねないではおられなかったルター。
ここでヘブル書が神の恵みに生かされることと
食事のことを対比した理由は明らかで、食事が
私たちの日常生活に深く根ざしたものだからです。
様々な宗教を見渡した時に、食事についての規定を
定めている宗教というのは非常に多い。
そこで聖書は「食物に気を取られた者は益を得ない」と教えました。
3度3度の食事にまで神経を使い、先程のルターのように
徹夜してでも宗教的正しさを追求し、そうやって
生活の細部にまで目を光らせて生きても益を得られない。
現代は何でも極端の時代だと思います。
食ということについてまったく無頓着の人もいれば
とことんこだわる人もいる。
健康に気を使い、食について考えることは大切なことです。
けれども、それは人生を豊かに生きるための手段に過ぎません。
手段が私たちの人生に益をもたらすのではありません。
食事に心を傾け健康を得たら私たちの人生が
幸せになる訳ではないのです。
問題は、健康な体をもってどのように生きるのか、
目的こそが問われるべきです。
けれどもしばしば、私たちの人生において
手段が目的にすり替わり、いかに健康に生きるかに夢中になってしまい、
健康を得ることで幸せになれると錯覚してしまうことがあります。
そうやって健康を得ることが目的化し、
健康を追求するための生涯になってしまって
その生き方は益をもたらすでしょうか。
ルターは、正しさを追求するような人生から解放された喜び。
神の恵みの中に生かされている喜びを語った。
この喜びは、何かが足りないから得られない喜びでは無いし、
状況が変わらないと、もっと努力しないと、誰かが何かを
してくれないと得られない喜びでは無い。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません」
とヘブル書は語りました。
私たちの生活は日々変化します。
確かな大地の上で生活しているつもりでいて、
しかし動かないはずの大地が大きく揺れ動き
様々な物が壊れてしまう。失われてしまう、それが私たちの人生です。
外側のことだけではありません。
私たちの内側も日々変化します。
その日その日の体調によって。周囲の人の言動によって。
年齢の変化によって、コロコロと変わっていってしまう。
そのように内も外も同じではいられない私たちの人生に、
昨日も今日もいつまでも変わらないキリストは
どのような意味を持っているのでしょうか。
私たちは今、神の恵みの中に生きられるということです。
私たちは今日、神様の恵みを選択することができる。
ペテロも、パウロも、ルターも、アウグスティヌスも、
そして私たちに対しても変わらない。
イエス様はいつも同じである。
変わらないイエス様を変わらずに見つめ続ける、
信じ続けることは難しいことです。
イエス様が変わらなくても私たちの方が変わってしまうから、
同じイエス様が違って見えてしまう、そういうことが起こるのです。
だからこそ、ヘブル書は勧めている。
信仰の先人たちの言葉を聴き、その生きざま、死にざまを良く見なさい。
聖書が教える3000年、4000年の人類の歴史。
様々なことが起こった、ありとあらゆる出来事が記された聖書の歴史。
この中に私たちの人生が全て入っている。
私たちの人生の出来事が詰まっている。
3.代理経験
私たちの人生は何歳になっても「はじめて」の連続です。
はじめて幼稚園にあがり、はじめて中学校に行き、
はじめて成人し、はじめて転職し、はじめて退職し、
はじめて老いを経験し、はじめて死ぬ。
人生がたった一度であるということはそういうこと。
ですから、私たちはどこかで自分の人生の苦労の特別性。
私はこういう事情を抱えているから、特別に大変だ、特別に苦しいのだ。
そう訴えたくなる。
現代人には代理経験が不足していると言われます。
代理経験というのは本を読み、先人の話しを聴き、
そうやって歴史に触れることで自分が実際には経験していないこと、
できないことを代理的に経験させていただくということ。
これは色々な情報を集めたり、情報を得ることとは少し違う。
インターネットで検索すればありとあらゆる情報が得られます。
けれども、そういう情報は代理経験としてはあまり機能しない。
戦争の時代を生きられた方の証言を直接聞くことと
ネットで戦争の情報を得ることには違いがある。
丁寧に調べ研究し書かれた良質の書物で知る歴史と
ネットで得られる情報には違いがあるでしょう。
そういう意味で、聖書以上に有益な代理経験を
与えてくれるものはありません。
私たちが初めて経験する人生の様々な事柄が全て、
聖書の中に記されている。
そういう信仰者の生き方、死に方を見て行った時に、
そこに自分自身の人生の繋がりを見出していった時に、
私たちは道なき道をはじめて歩む開拓者では無いことが分かる。
すでに幾多の先人達が歩き、ならし、備えて行ってくれた道を歩んでいる。
孤独の中にある時、でもあなたの経験している孤独は誰も知らない、
誰も分からない、私だけの孤独ではない。
病で、老いで体を弱くする時に、でもその痛みは
悲しみは私だけのものではない。
人との関係に疲れ果て、世の理不尽に振り回され、
先行きの見えない不安に苛まれ、しかしそれは
あなただけの苦しみでは無い。
同じ場所を通り、そこにも恵みを発見していった幾多の先人達がいる。
イエス・キリストは確かに昨日も今日もいつまでも変わらず、
ご自身に信頼する者をそのようにして養い支えてきてくださった。
4.キリストにあって結び合わされた血のつながり
作家で精神科医でもある加賀乙彦さん、昨年亡くなられましたが、
58歳の時にカトリックの洗礼をお受けになられました。
人生も段々後半戦に差し掛かる年齢の中で何が変わったか。
加賀さんは聖書の読み方が変わったとおっしゃっている。
以前は読んでも読まなくてもよい一冊の本に過ぎなかった。
しかし今は自分と血の繋がりがある、言ってみれば
ご先祖様の古文書のような気がしてきたというのです。
非常に興味深い感想です。血の繋がりが出てきた。
先祖代々の宝物が伝わるような名家の先祖たちの記録。
それはその家に関係の無い人には詰まらない古文書であっても、
その家系にある人には大切なメッセージでありましょう。
聖書に記された歴代の信仰者たちが私たちの先祖として、
血のつながりがある者としてキリストにあって結び合わされ、
そして彼らと同じ恵みに与っていくことが許されている。
だからこそ
16節
「善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。
そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」
恵みを等しくする者であるからこそ、苦しみも一つにする。
変わらないイエス様の恵みに生かされている私たちは、
私たち自身のいただいている恵みを喜びを持ってお渡ししていく。
12節でイエス様は「門の外で苦しみを受けられた」と書いてあります。
門というのは、これは町を取り囲む城壁のこと。
門の外とは、町の外ということです。
人々の生活の場から排除された、厄介だ、迷惑だとされた、
そういう場所に出て行って共に苦しみを受けてくださり、
そこを恵みの場に変えてくださった。
だから
13節
「ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、
宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
私たちも宿営の外、門の外に出て行こう。
内側の人である私たちが、その人を憐れむのではない。
私たちも門の外に出て行って、他者の苦しみに寄り添っていこう。
それは、イエス様がまずそのようにして
私たちの先祖に関わってくださり、そして門の外に居る
悲しみの時に私たちの傍らに寄り添ってくださったから。
だから、私たちは門の外におられるキリストに習って出て行く。
内側の論理を捨てて、外側に。
大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。
Peace, Love and Understanding
今、ここにある幸いに感謝しよう。