■ そのルールは今の自分に必要なのか?

 

前回の続き。

 (前回) 神にSOSを求めるのだ … 「神様助けて」の一言から神との関係が始まる

 

私のPCでメール送受信ができなくなったトラブルは、

メールソフトをサンダーバードに変えることで解決しました。

 

と思っていたのに、別の問題が浮上。

 

サンダーバードって……くっそ重い!!!!((>д<))

 

開くのに90秒以上かかるんですけど。

私のPC性能が低いせいかもしれないけど、それにしても重すぎる。

ちょっと新着メールを確認したいだけなのに90秒以上かかるとイライラする。

 

 主に望みをおく人は新たな力を得

 鷲(わし)のように翼を張って上る。

 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

 

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 40章31節

 
サンダーバード(雷鳥)は、キジ科の鳥です。
どうやらキジがワシのように翼を張って上るのは無理があったようです……

 

なので神様に相談した結果、

私自身のメール運用ルールを根本から変えることにしました。

 

・ タブレット端末にメールアプリを設定して、新着メールはタブレットで確認する。

・ 返信したい時など、PC操作が必要な時だけサンダーバードを開く。

 

これですっきり解決しました、アルハムドリッラー(神に称えあれ/おかげさまで)。

しかも解決しただけでなく、PCを立ち上げる回数も減らせました。

 

よく考えてみたら、ルーン魔女業を廃業して以降、

メール返信する機会は激減していますから、

PCで新着メール確認することにこだわる必要はなかったのでした。

 (参考) ……で、何のためにこれをやってるんだっけ??(´・ω・`)

 

メールソフトのトラブルをきっかけに、

私自身の不要ルールに気づいて見直しができたことに感謝です。

こういう機会でもなければ、漫然といままでどおりのことを続けていたでしょう。

 

今回は、私のルール見直し過程で思い浮かんだ聖書個所などを見ていきます。

 

【今回のもくじ】

 

・ そのルールは今の自分に必要なのか?

・ 旧い約束、新しい約束

・ 神の律法は、人が幸いに生きるためのもの

・ ルールの目的を常に意識すべし!

・ ルールが変わっても、神は永久不変

 

 

■ 旧い約束、新しい約束

 

どんなルールも、何かの目的があって作られています。

ルールは目的達成のための手段です。

ルールを守ることを目的にしてはいけません。

 

たとえば交通ルールは、スムーズで安全な交通を実現し、

事故リスクを最小化するのが目的のルールです。

だから交通事情の変化に応じて道路交通法は適宜改正されてゆきます。

 

冠婚葬祭マナーなどの社会ルールなども、

そのルールを守ることで無用なトラブルを防げるメリットがあるから存在しています。

20年ほど前はネチケットと呼ばれていたインターネット利用マナーなどもそうですね。

 

ルールは目的達成を助けるためのものですから、
そのルールが作られた時の状況と、現在の状況が違っているならば、
旧いルールは破棄するか改定するかして、新しいルールを適用するのが筋ですね。
 
キリスト教の聖書は、「旧約聖書」と「新約聖書」から成っています。
 
旧約聖書 → 神と人の、旧い約束 (救い主メシアを待ち望む時代)
新約聖書 → 神と人の、新しい約束 (救い主メシアがイエスとして顕現した時代)
 
旧約聖書の時代(つまり紀元前)からずっと待望されてきた救い主メシア(キリスト)が、
2000年ほど前のパレスチナにイエスとして生まれてきた。
その時点で、神と人とのパワーバランスが大きく変わります。
 
救い主メシアを待っている状況でのみ有効・有用だったルール(律法・戒律など)は、
救い主メシアが来たなら、廃止または改定されることになります。
あるいは旧ルールの立ち位置が変わり、意味付けが変わります。
 
イエスキリストが復活して昇天した後、
聖霊というかたちで神が私たちと共にいます今の時代に、
旧約聖書はもう不要なゴミで、新約聖書だけを受け入れればいいかというと、
そんなことは断じてありません。
 
旧約聖書も新約聖書も、神の御心を人間の言葉で表したものです。
聖書の源は神、中心にいますのは常に神です。
 
表面的な儀式作法としての旧約律法はすたれても、
旧約律法のコア部分=神の御心がすたれることはありません。
 
だからイエスはこう言います。
 
 わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
 廃止するためではなく、完成するためである。
 はっきり言っておく。
 すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、
 律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 5章17、18節
 
救い主キリストが来たからもう旧約聖書は要らないってことじゃないです。
約束の救い主が約束通りに来て、罪からの救いを実現してくれたことで、
旧約聖書の内容=神の御心をいっそう深いレベルで理解できるようになったのです。
 
私の中では、イエスキリストを信じる前よりも、信じて救われた今の方が、
より旧約聖書の重みが増しています。
旧約聖書は、新約聖書の参考文献ではないです。
旧約聖書は「旧い約束」という位置づけではありますが、
いま生きておられる神の御言葉であることには変わりないし、
永遠にいます神の言葉に旧いも新しいもないのです。
 

 草は枯れ、花はしぼむが

 わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

 

 ――旧約聖書『イザヤ書』 40章8節

 
 
 

■ 神の律法は、人が幸いに生きるためのもの

 
神は何のために古代ユダヤ人に律法というルールを授けたのか。
規則で縛りあげるためか?
神ヤハウェへの服従を強要するためか?
 
旧約聖書には、モーセの十戒を中心とした、神の律法が収められています。
モーセの十戒は人間モーセが考案した十戒ではなく、神がモーセに授けた十戒です。
 
【モーセの十戒】    (出エジプト記 20章)
 
(1) 主が唯一の神である
(2) 偶像崇拝禁止
(3) 神の名をみだりに唱えてはならない
(4) 安息日を守れ
(5) 父母を敬え
(6) 殺してはいけない
(7) 姦淫をしてはいけない
(8) 盗んではいけない
(9) 隣人について偽証してはいけない
(10) 隣人の財産をむさぼってはいけない

めちゃくちゃなことは命じてませんよね。
ごく当たり前のこと、人間として生きるための基本を10箇条にまとめているだけですね。
 
神ヤハウェの律法の目的は、「神に従う民が幸いを得ること」です。
旧約聖書『申命記/しんめいき』で繰り返しそう語られています。
 
 イスラエルよ。
 今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。
 ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、
 主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、
 わたしが今日あなたに命じる
主の戒めと掟を守って、
 あなたが幸いを得ることではないか。
 
 ――旧約聖書 『申命記』 10章12、13節
 
主の律法を守らない奴は幸せにしてやらねーぞ!
と意地悪を言っているのではありません。
 
旧約聖書の律法の内容は、古代ユダヤ人にとっては画期的かつ人道的な内容でした。
現代日本でそのまま適用するには不適切な内容のものがたくさんありますが、
3000年前の中東エリアにおいては、最先端のすばらしいルールだったのです。
 
たとえば神ヤハウェは、人身御供を断固否定しています。
中東でも日本でも、自然災害や疫病や不幸が続くと、それを神の怒り・祟りだと考え、
神をなだめるために、生贄として人間を犠牲にする習慣がありました。
神ヤハウェはそういう習慣を全否定して、厳しく禁じています。
 
古代人の神観念……
「神は癇癪もちできまぐれで感情コントロールができない馬鹿だから、
人間が命がけで馬鹿だけれど力強い神々の機嫌をとって、
なおかつ人間に都合よく働いてくれるよう誘導しなければならない。」
 
そういう間違った神観念から人々を救うために、
神ヤハウェはモーセを通じて各種律法を授け、守るように厳しく命じたのでしょう。
 
 
■ ルールの目的を常に意識すべし!
 
しかし時代が下るにつれて、人心が堕落し、律法本来の目的が忘れ去られてゆきます。
律法に込められた神の御心を問うこともしなくなります。
ユダヤ人王国は滅亡して異民族の属領となります。
ただただ形骸化したルールとしてのユダヤ律法が中途半端に伝えられてしまいます。
形骸化した律法は、人々を縛って不幸にするだけの呪いになってしまいました。
 
その最たるものが「安息日」の規定かもしれません。
モーセ十戒の4番目。
7日に一度、人間的な仕事・私事を完全オフして休息する日。
 
安息日は、天地創造の7日目に神が休息したことを覚える神聖な日なのですが、
実際的な目的としては、仕事を休んで人も家畜も元気を回復するためでしょう。
弱者が休みなくこき使われるのを防止するため。
弱い立場の者の過労死を防ぐための安息日。
 
 あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、
 七日目には、仕事をやめねばならない。
 それは、あなたの牛やろばが休み
 女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである。
 
 ――旧約聖書 『出エジプト記』 23章12節
 
しかしイエスの時代には、頭のかたい宗教エリートが安息日の目的を神に問うことなく、
安息日の規定を字面通りに守ることしか考えていませんでした。
安息日はあれも禁止、これも禁止、禁止、禁止……面倒くさいDAYになっていました。
 
イエスは安息日に病人を癒して非難され、
安息日に悪霊払いをして批判されます。
「こいつは神の安息日を守っていないから神を冒涜する者だ、
悪霊ベルゼブルと結託しているんだ」と。
 
安息日をお定めになった神の御心と目的を考えることをしないで、
安息日の規定を完璧にきっちり守ることが神の御目にかなうことだと信じられていた。
イエスの時代のユダヤ教は原理主義(マニュアル思考)が支配的だったようです。
 
しかし、こういう筋違いなルール運用に縛られていたのは古代ユダヤ人だけではない。
目的を見失ったルール(常識、慣習)の押し付けは、今の時代でも見られますよね。
企業、学校、家庭、私個人の中にもきっとあるし、あなたの中にもあると思います。
 
古代ローマ風呂がテーマの映画『テルマエ・ロマエ2』で、
日本のおじいちゃんが湯船で『与作』を歌っているシーンがあります。
ヘイヘイホー♪ ヘイヘイホー♪
おじいちゃんは湯船でいい気分になったから、好きな歌を歌っているだけです。
しかしそれを見た古代ローマ人は、ヘイヘイホーが癒しの呪文だと勘違いして、
「湯船につかる時にはヘイヘイホーと唱える」というルールを作ってしまいます。
 
 
私たちの現実生活の中にも、
目的不明のヘイヘイホーがたくさん紛れ込んでいると思います。
 
「それって本当に必要なの?」
「それって何のためにやってるの?」
 
そういう疑問がわいてきたら、さらにつきつめていきましょう。
謎ルールの目的を再確認した結果、
「とくに意味のないヘイヘイホー」だと判明したら、それを廃止していい。
 
これは神事でも同じです。
人間が幸いに生きるためには、神様の御言葉の真意や、律法の目的を常に考え、
状況に応じてアジャストする必要があります。
神の本質さえ外さなければOK、本質以外のことは柔軟に変化・省略してもOKなのです。
 
■ ルールが変わっても、神は永久不変
 
神様は、マニュアル思考しかできない奴隷ロボットとして人間を創造したのではないです。
人間が神の似姿として幸いに生きることを望んでおられます。
 
人が幸いに生きるための指針として各種律法・戒律・ルールがあるはずです。
人がルールの奴隷になってしまうことは、神様の御心ではないし、
ルールの奴隷になって苦しむ人を神様はどうにか救おうと、今も働いておられます。
 
ルールの目的、内容に疑問を感じたら、いったん立ち止まって考えるべきです。
このルールはいったい何を目的としているのかと。
 
 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。
 人の奴隷となってはいけません。
 
 ――新約聖書 『コリントの信徒への手紙 一』 7章23節   ※身代金=イエスの十字架の死
 
人間の支配者層が都合よく作ったルールもたくさんありますよね。
人間を支配していいのは神様だけです。
人が人の奴隷にならないためにも、
ルールの目的を定期的に確認する作業をサボってはダメです。
 
イエスは自分の目的について、
律法を廃止するためではなく、完成させるために来た」と語っています。
「律法の完成」とは、律法を定めた神の御心を達成することという意味だと思います。
神の御心=神に従う人が幸いを得ることです。
 
だからイエスは、イエスを神の子と信じた人々の罪を引き受けて、
命を得させる救い主メシア(キリスト)として、十字架に掛かる道を選ぶことになります。
 
神の律法を完成させるために来たイエスは、
十字架にかかって死にますが、三日目に復活します。
人間界で、死からの復活が実現された=「命が死に勝利した」ということになります。
 
イエスを神の子と信じて受け入れた人は、
「死」という主人から解放されて、
「命」という主人のもとで生きる者となります。
 
命の源は神です。
「命」という主人のもとで生きる=神に従って生きるということですね。
神に従う者を導く神の言葉として、旧約聖書、新約聖書がある。
 

 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い

 飢えを満たさぬもののために労するのか。

 

 わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。

 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

 

 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

 聞き従って、魂に命を得よ。

 

 わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。

 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。

                           

 ――旧約聖書 『イザヤ書』 55章2、3節

 
聖書は神事のルールブックではないし、神の取扱説明書でもないです。
聖書をとおして神の御心を知り、「あなたが幸いを得ること」が目的です。
 
あなたの幸い……エゴの欲望がポンポン叶う竜宮城を得ることではないです。
人間の最大の幸福は、「神と共にいること」です。
人の創り主である神と共にいるとき、魂に命を得ることができます。
 
神と共に生きるという幸いを得ようとして、
聖書その他の聖典・教義・戒律・儀式……そういうルールに盲従する必要はないです。
むしろ盲従してはダメ。
 
もちろん特定のルールに従うことで、真の神との絆を実感できるなら、
それは自分に合っているものだから、そのまま続ければいい。
でも、それらのルールが神との絆を弱める原因になっているなら、やめればいい。
 
「ルールに従え!」「ルールなんか無視しろ!」……どっちも正しくありません。
どのルールに従い、拒否するか、アレンジするか、各人で神と相談して決めることです。
たとえば私は、聖書全編が誤りなき神の御言葉という説は採用していません。
何事も、権威ある説を妄信しないで、各自でよく考えて判断すべきです。
 
私は実用主義者ですから、
「真の神を知り、神に従って生きるという大目的さえブレなければ、
その他のことはどうでもいい」
と考えます。
 
私は心身ともにスタミナが弱いので、枝葉のルールにかかずらう余裕がないのです。
ルールの根幹である神様にのみ集中したいのです。
もしルールの根幹に神がいないならば、
それは人間が勝手に作った偶像ですから、私は従いません。
 
それに、どんなすばらしいルールにも寿命があります。
草は枯れ、花はしぼむのと同じく、ルールも廃止されたり改定されたりします。
 
時代風土が変われば常識基準もころっと変わる。
権威あるものは新たな権威によって覆される。
私はそういう不安定なものに隷属したくありません。
 
 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 24章35節、マルコ書13:31、ルカ書21:33
 
私は永久に揺るがない神を絶対基準として、これからも生きていきたいです。
 

 

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
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 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
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