1 「郡から万二千里」

 

それは『魏志』から始まった。

卑弥呼の邪馬壹国は、帯方から万二千里。

この帯方は「帯方郡」のことである。今のソウルあたりか。

『後漢書』にも万二千里

『梁書』にも万二千里

『隋書』にも万二千里

 

2 出発点の違い、『魏志』がコピーされたわけではない

 

ある人は言う。みんな『魏志』をなぞっただけではないか。

真似しただけではないか。

しかし、同じ万二千里でも出発点が少し異なる。

史書が執筆された順に並べると、

『魏志』では帯方郡であった。

『後漢書』では出発点は楽浪郡。今のピョンヤンの辺りか。

『梁書』では帯方郡。

『隋書』では、百済・新羅からとある。

 

さらに『隋書』では、『魏志』の紹介をする。

『魏志』では、帯方郡より万二千里ともいう、と。

『隋書』では引用はしたが、写していない。

 

微妙ではあるがズレがある。またかなり、「大まか」なとらえ方だ。(注一)

しかし、いずれにしても出発点はみな同じというわけではない。

出発地は時代に合わせて変わっていると言える。

(注一)邪馬壹国まで、ソウルからとピョンヤンからでは同じ距離にならない。百済からと新羅からでも同じ距離にはならない。「大まか」である。

 

『後漢書』は後漢の史書で魏(曹魏)より古い時代についての史書だ。

だが、『魏志』が先に書かれた。

実際の時間の流れからすると、出発点は楽浪郡が先で、そこから帯方郡に変わる。

曹魏の勢力圏が後漢と比べて拡大したことになる。象徴的だ。

やや列島に近づく。だが総距離は変わらない。

中国史書の距離は「大まか」だ。

 

出発点を時代順に並べる。

楽浪郡(後漢)⇨帯方郡(曹魏)=帯方郡(南朝梁)⇨百済・新羅(隋)

中国の勢力範囲の拡大・縮小、そして朝鮮半島の情勢や勢力の変化が反映している。

それにつれて、倭国への出発点も変化した。

当然のことながら、『後漢書』には帯方郡とは書けない。

後に帯方郡と呼ばれる地帯はまだその名では呼ばれていない。

『魏志』に百済・新羅とは書けない。

後に百済・新羅と呼ばれる国はまだ存在しない。

 

唐の時代に朝鮮半島は新羅によって統一された。

唐は七世紀後半には朝鮮半島から手を引いていく過程にあった。

唐の半島における勢力圏は縮小した。

だから『旧唐書』では、京師から万四千里。

明らかに場所が違う。京師は洛陽か。

そう、出発点が大きく異なる。これも象徴的だ。

だが、万四千里では倭国に達しそうにない。

距離はもっとある。長安ならばさらに遠い。

この問題は疑問として残しておく。

 

ただし、出発点が変化していることだけは確かだ。

楽浪郡⇨帯方郡=帯方郡⇨百済・新羅⇨洛陽(長安)

したがって『魏志』を写した、真似したわけではない。

『魏志』を写した、という見解はどこから生まれるのか。

ひょっとすると、中国の史書に対する不信感からではないだろうか。

 

ただし、後でも触れるが、確かに距離については「大まか」だ。

 

3 倭国も邪馬壹国も移動していない

 

また、この点は確認しておく。

到達点はみな同じである。

地理的状況は、東南大海中の山島に拠りて居住するである。

後漢や魏の時代から唐の時代まで。

「倭国伝」が書かれなくなるまで、移動は無し。

到着点は『魏志』を真似たのか。

そんなはずはない。

曹魏から使者が来た。二回。

隋からも来た。裴世清。

唐からもきた。高表仁。

到達点が違うはずがない。

違っていれば中国が気づくはずだ。記録に残されるはずだ。

変化がないということは、到達点は同じである。

『魏志』の真似ではなく、ただ動いていなかっただけだ。

 

記事の追加だ。大事な史書を見落としていた。

『旧唐書』百済國伝、『新唐書』百済伝だ。(注)

和訳がないので敬遠していた。

何と、百済国伝に倭国の位置が書かれているではないか。

倭國伝だけ見ればよいと思っていた。

漢文:百済國、……在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南、東北至新羅

西渡海至越州、南渡海至倭國、北渡海至高麗……

和訳:百済國は…京師の東六千二百里に在る…南に海を渡ると倭國に至る。

 

実際の方角は南南東だが、『旧唐書』でも定説の主張する「東」ではない。

百済は京師・洛陽のほぼ東だ。

方角は間違えていない。

表現方法も陳寿の『魏志』とはかなり異なる。

『魏志』を模したわけではない。写したわけではない。

よって、倭国の場所は動いていないといえる。

『魏志』から『旧・新唐書』まで。

少なくとも方角は。

(注)『旧唐書』百済國伝、『新唐書』百済伝 中国書局

 

ただし、距離はかなり大雑把ではないか。

ここでの距離から言うと、「百済から万二千」に六千二百を加えると、

倭國は京師から万八千二百里。

倭國伝の京師から万四千里とは異なる。

距離はかなり怪しい。

しかも、『新唐書』百済伝には、百済・京師間、「六千里」とある。

距離感は相当に不正確だ。

「大まか」というより、かなり「大雑把」だ。

 

4 短里か長里かの問題について

 

一里は75mから90m。

古田武彦氏は約75mとする。

天文学者の谷本茂氏も76m、77mとする。近い値だ。

『魏志』倭人伝については、そのぐらいが妥当だろう、と私。

75mから90mではなく、75mを倭人伝の「短里」とよぶことにする。

 

4ーーー1 短里の万二千里

 

75×12,000=900,000(m)

約900km。

帯方郡から直線距離で真南に進む。

沖縄島あたりに到達。

当然、ジグザグに進む。

真東に進む。

東京あたりに到達か。いや、名古屋あたりだろう。

「邪馬台国」・近畿説にも望みが出るのか。

 

4ーーー2 長里の万二千里

 

長里はどうか。

一里は400mから450m。

約435mという人が多い。

約435mを一里とする。

435×12,000=5,220,000(m)

約5,000km。地球一周の八分の一。

 

帯方郡から直線距離で真南に進む。

赤道を通り過ぎインドネシア南端から

オーストラリア北端に到達する。

ジグザグに進む。

フィリピンあたりか。

 

南を東に変えたい定説を念頭に真東に進んでみる。

日本海溝を大きく超える。

太平洋ど真ん中。天皇海山群の真上。

ジグザグに進む。

やはり日本海溝のはるか東の海上だろう。

 

明らかに長里はありえない。

短里が妥当だろう。

魏の時代に短里が制度として使われていたのか、私は知らない。

だが、陳寿は一里は75m。

これを短里と呼ぶなら、陳寿は「短里」を用いたのだろう。

少なくとも長里説は不適。

仮に、中国の距離認識が大雑把だとしても。

 

4ーーー3 安本美典氏の議論

 

定説派で「短里」派はいるのか。

安本美典氏がいた。氏は短里派だ。

『魏志』の「韓伝」「倭人伝」限定で短里とする。(注一)

だから卑弥呼は九州にいた、と語る(注二)。

『魏志』の「倭人伝」については安本氏と古田氏は意見が一致した。

「邪馬台国論争」は終了、「卑弥呼は九州」で決まり、と私。

しかし、同じ「倭人伝」短里派同士でも両者は意見を戦わせている。

ただ、安本氏は邪馬台国が三世紀後半には東遷したと考える(注三)。

この議論は真剣に行われなければならない。

九州にあった「邪馬台国」が近畿に東遷したらどうなるか。

郡からの距離は変わるだろう。

万二千里ではなくなるはずだ。

福岡市―大阪市間の直線距離、

約500km。で約6,700里。

郡から近畿まで、万八千七百里。

ジグザグに進めば軽く二万里は超えるだろう。

したがって近畿ではない。

万二千里は『魏志』、『後漢書』だけではない。

四世紀以降の『梁書(六二九年成立』から『隋書(六三六年成立』まで。

中心王朝が移動したとは言えないはずだ。

 

(注一)『邪馬壹国はなかった』新人物往来社 頁一四一~一四二

(注二)『邪馬台国への道』徳間文庫 頁四四、など

 

4ーーー4 実際の行程、短里でのジグザグ

 

短里で真東に進むと東京まで行き着く。

ならば、ジグザグで近畿に着く可能性が出てくるのか。

定説派に期待を持たせるようなことを述べてしまったのだろうか。

いや、それは違う。先の見方と別の見方だ。

『魏志』に書かれたジグザグで行く。

帯方郡からジグザグで狗邪韓国まで七千里。

残る距離は五千里。

対馬まで千里、壱岐まで千里、松浦半島まで千里、今の唐津市あたりか。

残るは二千里、約150km。

『魏志』では東南陸行五百里で伊都国、百里で奴国などと続く。

到底、近畿ヤマトには到着しない。

仮に松浦から150km真南に進むと有明海を突っ切って鹿児島県北端まで。

真東に直線で進んでも国東半島の中央。

少し南にずれると大分市。

邪馬壹国の位置は九州内部で決定。

よって長里ではなく「短里」であったことも決定。

邪馬壹国が厳密にどこなのかを探る情熱は私にはわかない。

あとは考古学などの仕事であろう。

邪馬壹国は近畿ではなく、九州であることが分かればそれでよし。

ヤマト王権の手の届く範囲ではなかった。

短里か長里かで大騒ぎする必要はなかったのではないか。

「7:3:2」、比の問題。あるいは、

12,000―7,000―3,000=2,000(里)、引き算の問題である。

ここでの距離は、「大まか」ではあるが、そんなに大雑把ではない。

 

しかし、『旧唐書』の六千二百里は、短里はもちろん、長里でもなさそうだ。

長里435mでも「京師から百済へ」到達できない。

別の尺度が必要になる。

「超長里」が必要だ。

不明としておく。

 

 

5 俀(倭)国の位置は『隋書』で決まり。

 

今度は到達点を『隋書』で再確認する。

『隋書』俀(倭)国伝にある地名は九州だけ。

阿蘇山、対馬、壱岐、筑紫、秦王国。

見慣れぬ秦王国。

ここは原文を示そう。

・・・又至竹斯国、又東至秦王国 其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也、

又経十余国、達於海岸・・・

 

問題は秦王国を通過した後、十余国を経て「海岸に達する」ところだ。

明らかに筑紫まで陸行、また秦王国までも陸行であることは間違いない。

そこからも陸行で「海岸に達する」とすれば、

陸行を続けて最終的に「海に到達した」と解釈するのが普通の読み方。

九州から出ていない。

また、水行した人が陸地に着いたとき、

「岸辺に着いた」とは言っても、「海岸に着く」とは言わない。

 

しかし、「海岸に達する」を何とか近畿と結び付けようとする定説派がいる。

定説派だけではないかもしれないが。

秦王国から先は水行し、瀬戸内海を通って「近畿の海岸」に到達。

摩訶不思議な解釈だ。

水行した様子、瀬戸内海を思わせる地名、風景などは全く描かれていないのに。

『日本書紀』のよく使う手口だ。

中国の倭国との遣使記事に、対馬、壱岐、筑紫など九州の地名は出てくる。

近畿の地名も瀬戸内海を思わせる地名は全く出てこない。

中国史書の遣使記事に九州の地名が出てくるとき、

『日本書紀』では必ず近畿の地名が「付け加え」られる。

「難波」、「飛鳥」など。

推古紀の裴世清の行程しかり、舒明紀の高表仁の行程しかり。(注四)

定説派はそれを「証拠」とし、その手口を真似て自説を展開する。

再度言うが、『隋書』に書かれた地名は九州のみ。

俀(倭)国は九州で決まり。

 

そして、新たに追加したように『旧唐書』百済国伝でも決まり。

倭国は九州。

(注四)裴世清、高表仁は近畿に行かなかったことについては、別稿で論じている。

 

6 古田武彦氏の千里は「大まか」がよい

 

氏の『多元的古代の成立(上)』の「魏・西晋朝短里の方法」での議論は注目を要する。

簡単に言うと、氏は百里代、十里代の場合と、千里代の議論をする場合とを区別する(注五)。

つまり、百里代、十里代の場合には、例え出発点と終着点が明記されていたとしても、その「不定性」は避けられない。「例えばA県とB県の間」と言うときにその県内の東西南北いずれの地点を測定地点に選ぶかによる誤差は大きい。

これに対して千里代の場合には、多少の誤差は大きな問題ではない。特に「『一対五(強)』(短里と長里)のいずれが妥当するか、といった大まかな設問に対しては、“判定上のちがい”が出てくることを恐れる必要はないように思われる」と述べている。

このやり方で氏は「魏・西晋短里」を押し出した。

私は、この議論に賛成したい。

(注五)『多元的古代の成立(上)』ミネルヴァ書房 頁五四~五五 傍線は引用者

 

これに対して、『邪馬台国はなかった』において、短里を基準にした上で、さらに正確に

卑弥呼の都する邪馬壹国の場所を突き止めようとした。

この場合には、「大まかではない」議論が必要とされたのだろう。

そこで島を半周するという議論が氏によって提起された。

「精密さ」を求めた結果であろう。

しかし、この議論が有効であったか否かについては疑問符が付く。

 

現在の地図を見ると、同じ千里と『魏志』に書かれていたとしても、狗邪韓国―対馬島、対馬島―壱岐島、壱岐島―松浦半島の距離は明らかに異なっている。

『魏志』の記述がもともと「大まか」なのである。

倭国、邪馬壹国は九州にあった。

このことは万二千里、七千里、千里、千里、千里、五百里、百里、五十里と「大まか」に受け止めたとしても九州を通り過ぎることはない。

短里で九州内に収まることも決まりである。

 

一 「郡から万二千里」

 

それは『魏志』から始まった。

帯方から万二千里。

この帯方は「帯方郡」のことである。今のソウルあたりか。

『後漢書』にも万二千里

『梁書』にも万二千里

『隋書』にも万二千里

 

二 出発点の違い、『魏志』がコピーされたわけではない

 

ある人は言う。みんな『魏志』をなぞっただけではないか。

真似しただけではないか。

しかし、同じ万二千里でも出発点が少し異なる。

史書が執筆された順に並べると、

『魏志』では帯方郡であった。

『後漢書』では出発点は楽浪郡。今のピョンヤンの辺りか。

『梁書』では帯方郡。

『隋書』では、百済・新羅からとある。

 

『隋書』ではさらに、『魏志』の紹介をする。

『魏志』では、帯方郡より万二千里ともいう、と。

『隋書』は引用はしたが、写していない。

 

微妙ではあるがズレがある。またかなり、「大まか」なとらえ方だ。(注一)

しかし、いずれにしても出発点はみな同じというわけではない。

出発地は時代に合わせて変わっていると言える。

(注一)邪馬壹国まで、ソウルからとピョンヤンからでは同じ距離にならない。百済からと新羅からでも同じ距離にはならない。「大まか」である。

 

『後漢書』は後漢の史書で魏(曹魏)より古い時代についての史書だ。

だが、『魏志』が先に書かれた。

実際の時間の流れからすると、出発点は楽浪郡が先で、そこから帯方郡に変わる。

曹魏の勢力圏が後漢と比べて拡大したことになる。象徴的だ。

やや列島に近づく。だが総距離は変わらない。

中国史書の距離は「大まか」だ。

 

出発点を時代順に並べる。

楽浪郡(後漢)⇨帯方郡(曹魏)=帯方郡(南朝梁)⇨百済・新羅(隋)

中国の勢力範囲の拡大・縮小、そして朝鮮半島の情勢や勢力の変化が反映している。

それにつれて、倭国への出発点も変化した。

当然のことながら、『後漢書』には帯方郡とは書けない。

後に帯方郡と呼ばれる地帯の支配はまだ行われていない。

『魏志』に百済・新羅とは書けない。

後に百済・新羅と呼ばれる国はまだ存在しない。

 

唐の時代に朝鮮半島は新羅によって統一された。

唐は七世紀後半には朝鮮半島から手を引いていく過程にあった。

唐の半島における勢力圏は縮小した。

だから『旧唐書』では、京師から万四千里。

明らかに場所が違う。京師は洛陽か。

そう、出発点が大きく異なる。これも象徴的だ。

万四千里では倭国に達しそうにない。

距離はもっとある。長安ならばさらに遠い。

この問題は疑問として残しておく。

ただし、出発点が変化していることだけは確かだ。

楽浪郡⇨帯方郡=帯方郡⇨百済・新羅⇨洛陽(長安)

したがって『魏志』を写した、真似したわけではない。

『魏志』を写した、という見解はどこから生まれるのか。

ひょっとすると、中国の史書に対する不信感からではないだろうか。

 

三 倭国も邪馬壹国も移動していない

 

また、この点は確認しておく。

到達点はみな同じである。

地理的状況は、東南大海中の山島に拠りて居住するである。

後漢や魏の時代から唐の時代まで。

「倭国伝」が書かれなくなるまで、移動は無し。

到着点は『魏志』を真似たのか。

そんなはずはない。

曹魏から使者が来た。二回。

隋からも来た。裴世清。

唐からもきた。高表仁。

到達点が違うはずがない。

違っていれば中国が気づくはずだ。記録に残されるはずだ。

変化がないということは、到達点は同じである。

『魏志』の真似ではなく、ただ動いていなかっただけだ。

 

四 短里か長里かの問題について

 

一里は75mから90m。

古田武彦氏は約75mとする。

天文学者の谷本茂氏も76m、77mとする。近い値だ。

そのぐらいが妥当だろう、と私。

約75mを一里とする。

それを「短里」とよぶことにする。

 

四―一 短里の万二千里

 

75×12,000=900,000(m)

約900km。

帯方郡から直線距離で真南に進む。

沖縄島あたりに到達。

当然、ジグザグに進む。

真東に進む。

東京あたりに到達。

「邪馬台国」・近畿説にも望みが出るのか。

 

四―二 長里の万二千里

 

長里はどうか。

一里は400mから450m。

約435mという人が多い。

約435mを一里とする。

435×12,000=5,220,000(m)

約5,000km。地球一周の八分の一。

 

帯方郡から直線距離で真南に進む。

赤道を通り過ぎインドネシア南端から

オーストラリア北端に到達する。

ジグザグに進む。

フィリピンあたりか。

 

南を東に変えたい定説を念頭に真東に進んでみる。

日本海溝を大きく超える。

太平洋ど真ん中。天皇海山群の真上。

ジグザグに進む。

やはり日本海溝のはるか東の海上だろう。

 

明らかに長里はありえない。

短里が妥当だろう。

魏の時代に短里が制度として使われていたのか、私は知らない。

だが、陳寿は一里75mの「短里」を用いたのだろう。

 

四―三 安本美典氏の議論

 

定説派で短里派はいるのか。

安本美典氏がいた。氏は短里派だ。

『魏志』の「韓伝」「倭人伝」限定で短里とする。

だから卑弥呼は九州にいた(注二)。

『魏志』の「倭人伝」については安本氏と古田氏は意見が一致した。

「邪馬台国論争」は終了、「卑弥呼は九州」で決まり、と私。

しかし、同じ「倭人伝」短里派同士でも両者は意見を戦わせている。

ただ、安本氏は邪馬台国が三世紀後半には東遷したと考える(注三)。

この議論は真剣に行われなければならない。

九州にあった「邪馬台国」が近畿に東遷したらどうなるか。

郡からの距離は変わるだろう。

万二千里ではなくなるはずだ。

福岡市―大阪市間の直線距離、

約500km。で約6,700里。

郡から近畿まで、万八千七百里。

ジグザグに進めば軽く二万里は超えるだろう。

したがって近畿ではない。

万二千里は『魏志』、『後漢書』だけではない。

四世紀以降の『梁書(629年成立』から『隋書(636年成立』まで。

中心王朝が移動したとは言えないはずだ。

 

 

(注二)『邪馬壹国はなかった』新人物往来社 頁一四一~一四二

(注三)『邪馬台国への道』徳間文庫 頁四四、など

 

 

四―四 実際の行程、短里でのジグザグ

 

短里で真東に進むと東京まで行き着く。

ならば、ジグザグで近畿に着く可能性が出てくるのか。

定説派に期待を持たせるようなことを述べてしまったのだろうか。

いや、それは違う。先の見方と別の見方でいくと、

帯方郡から狗邪韓国まで七千里、残るは五千里。

対馬まで千里、壱岐まで千里、松浦半島まで千里、今の唐津市あたりか。

残るは二千里、約150km。

『魏志』では東南陸行五百里で伊都国、百里で奴国などと続く。

到底ヤマトには到着しない。

仮に松浦から150km真南に進むと有明海を突っ切って鹿児島県北端まで。

真東に直線で進んでも国東半島の中央。

少し南にずれると大分市。

邪馬壹国の位置は九州内部で決定。

よって長里ではなく短里であったことも決定。

邪馬壹国が厳密にどこなのかを探る情熱は私にはわかない。

あとは考古学などの仕事であろう。

邪馬壹国は近畿ではなく、九州であることが分かればそれでよし。

短里か長里かで大騒ぎする必要はなかったのではないか。

「7:3:2」、比の問題。あるいは、

12,000―7,000―3,000=2,000(里)、引き算の問題である。

 

五 俀(倭)国の位置は『隋書』で決まり。

 

今度は到達点を『隋書』で再確認する。

『隋書』俀(倭)国伝にある地名は九州だけ。

阿蘇山、対馬、壱岐、筑紫、秦王国。

見慣れぬ秦王国。

ここは原文を示そう。

・・・又至竹斯国、又東至秦王国 其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也、

又経十余国、達於海岸・・・

 

問題は秦王国を通過した後、十余国を経て「海岸に達する」ところである。

明らかに筑紫まで陸行、また秦王国までも陸行であることは間違いない。

そこからも陸行で「海岸に達する」とすれば、

陸行を続けて最終的に「海に到達した」と解釈するのが普通の読み方。

九州から出ていない。

また、水行した人が陸地に着いたとき、

「岸辺に着いた」とは言っても、「海岸に着く」とは言わないだろう。

 

しかし、『海岸に達する』を何とか近畿と結び付けようという定説派がいる。

秦王国から先は水行し、瀬戸内海を通って「近畿の海岸」に到達。

摩訶不思議な解釈だ。

水行した様子、瀬戸内海を思わせる地名、風景などは全く描かれていないのに。

『日本書紀』のよく使う手口だ。

中国の倭国との遣使記事に、対馬、壱岐、筑紫など九州の地名は出てくる。

近畿の地名は全く出てこない。

中国史書の遣使記事に九州の地名が出てくるとき、

『日本書紀』では必ず近畿の地名が「付け加え」られる。

「難波」、「飛鳥」など。(注四)

推古紀の裴世清の行程しかり、舒明紀の高表仁の行程しかり。

定説派はそれを「証拠」として自説を展開する。

再度言うが、『隋書』に書かれた地名は九州のみ。

俀(倭)国は九州で決まり。

(注四)裴世清、高表仁は近畿に行かなかったことについては、別稿で論じている。

 

六 古田武彦氏の千里は「大まか」がよい

 

氏の『多元的古代の成立(上)』の「魏・西晋朝短里の方法」での議論は注目を要する。

簡単に言うと、氏は百里代、十里代の場合と、千里代の議論をする場合とを区別する(注五)。

つまり、百里代、十里代の場合には、例え出発点と終着点が明記されていたとしても、その「不定性」は避けられない。「例えばA県とB県の間」と言うときにその県内の東西南北いずれの地点を測定地点に選ぶかによる誤差は大きい。

これに対して千里代の場合には、多少の誤差は大きな問題ではない。特に「『一対五(強)』(短里と長里)のいずれが妥当するか、といった大まかな設問に対しては、“判定上のちがい”が出てくることを恐れる必要はないように思われる」と述べている。

このやり方で氏は「魏・西晋短里」を押し出した。

私は、この議論に賛成したい。

(注五)『多元的古代の成立(上)』ミネルヴァ書房 頁五四~五五 傍線は引用者

 

これに対して、『邪馬台国はなかった』において、短里を基準にした上で、さらに正確に卑弥呼の都する邪馬壹国の場所を突き止めようとした。

この場合には、「大まかではない」議論が必要とされた。

そこで島を半周するという議論が氏によって提起された。

「精密さ」を求めた結果であろう。

しかし、この議論が有効であったか否かについては疑問符が付く。

 

現在の地図を見ると、同じ千里と『魏志』に書かれていたとしても、狗邪韓国―対馬島、対馬島―壱岐島、壱岐島―松浦半島の距離は明らかに異なっている。

『魏志』の記述がもともと「大まか」なのである。

倭国、邪馬壹国は九州にあった。

このことは万二千里、七千里、千里、千里、千里、五百里、百里、五十里と「大まか」に受け止めたとしても九州を通り過ぎることはない。

短里で九州内に収まることも決まりである。

 

 

 

 年代ずらしなのか、虚偽報告なのか

 

 

はじめに ずらしとずれ

 

 ずらしとずれでは意味が違う。ずらしには意図が感じられる。ずらそうとする意識が背後にある。ずれは意識的にずらした結果のずれもあるが、無意識のうちにずれてしまったときにも起こる。この違いには注目しなければならないだろうが、日本書紀に起こっているずれは、ことごとくずらしの結果のずれであるといえよう。よって、この論考でのずらし、ずれは意図的なものという意味で使われる。書紀におけるここで対象となる議論は、ずらしが十年ほど過去に遡る、繰り上がることを意味している。

 ずれの問題は『法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社1985年)の特に「遣隋使はなかった」などで古田氏によって提起された。「古田史学の会」ではこの「ずれ」をめぐって活発に議論が展開されている。特に、123号の服部静尚氏の論稿と156号の永井裕氏の論稿は古田史学の会で行われた議論のまとめとしても分かりやすく、参考にさせていただいた。(「古田史学の会」の会報の諸議論を参照のこと。)

あらかじめ私の視点を述べておくと、ずらしという場合には、問題となる事象が記述されている古い年代には「実在せず」、新しい年代、つまり十年から十二年後、ないし十四年後に「実在する」ことを意味する。したがって、反対に十年後から十四年後にも「実在しない」場合にはずらしとは言えない。その場合には、話が造作された、あるいは単なる虚偽記載といってよいであろう。

 

1 十年以上のずらし 

 

1―1-1 ずらしの実例 古田氏が「遣隋使はなかった」で指摘したずらし

 ただし、推古紀の中国との遣使記事はすべて1-1-2で扱うことにする。

 

(1)裴世清の肩書 

隋書には「文林郎」の肩書を持つ裴世清が、推古紀十六年(608年)八月には「鴻臚寺の掌客」とある。「鴻臚寺の掌客」は裴世清の唐時代の肩書なので、隋時代に対応する推古紀十六年には「鴻臚寺の掌客」は不可能。唐の時代は618年からなので、十年以上はずらしがある。

 

(2)「呉国」の存在

 唐書によると武徳二年から四年(619年から621年)にかけて唐が内乱状態に陥り、「呉」という国が存在していた。推古紀には、その十七年(609年)四月に百済人が呉国に遣使したが、呉国内乱のため入国できず助けを求めてくる記事を書いている。これも十年から十二年のずれがある。

 

(3)推古紀十六年(608年)八月、煬帝からの国書に「朕、寶(宝)命を受け」たとあるが、「寶命」は初代皇帝に相応しく、第二代の皇帝の煬帝には相応しくない。よって、「寶命」は唐の初代皇帝が622年に用いた言葉なので、ここにもずらしがある。ここでは十四年ほどのずらしである。

 

 氏はこれらが十年から十年強ずれている、遡っていると指摘された。これらは、素晴らしい発見であり、見事な指摘である。

 

1-1-2 古田氏によって挙げられた、推古紀の遣使記事のずらし

 十年ほどの遡り、繰り上げがある例

 

(1)推古十五年(六〇七年)七月、大礼小野臣妹子を大唐に遣わす。

 

(2)推古十六年(六〇八年)四月、妹子、裴世清と筑紫に。三十艘で迎える。

同年 九月、裴世清帰国、妹子再遣(高向玄理、恵穏ら)

 

(3)推古十七年(六〇九年)、妹子等大唐より至る。

 

(4)推古二十二年(六一四年)六月、遣犬上君三田鍬、矢田部造、大唐に遣わす。

 

(5)推古二十三年(六一五年)九月、犬上三田鍬ら大唐より百済の使いと帰国。

 

(6)推古三十一年(六二三年)七月、新羅使に伴い唐より福音、恵日帰国。これは遣使記事ではあるが、

主な遣使者の記事ではないので議論の対象からは除く。

 

1-1-3 ずらしなし 

 

(7)舒明 二年(六三〇年)八月、大仁犬上三田耜、大仁薬師恵日を大唐に遣わす。

(8)舒明 四年(六三二年)八月、大唐高表仁を遣わし対馬に泊まる。また耜、僧旻も帰国。

(9)同年 十月、唐国使人高表仁ら難波津に泊まる。船三十二艘で江口に迎える。

(10)舒明 五年(六三三年正月、大唐の客高表仁帰国。

 

 以上は、よく知られている書紀における推古紀から舒明紀における遣使記事である。これらのうち(1)から(5)まで推古紀では唐との遣使と記載されているが、中国の唐の時代ではなく隋の時代にあたる。

古田武彦氏は『失われた九州王朝』では推古朝が隋との間で遣使関係を結んでいたという説を採用していた。これは「古田旧説」とよばれている。しかし、『法隆寺の中の九州王朝』などでは旧説を撤回し、推古朝時代に遣隋使はなく書紀の書いた通りに「遣唐使」であったという主張に変更された。これが「古田新説」である。この転換の論拠になったのが、書紀においては幾つかの事象、上記1-1-1の(1)から(3)まで、が十年から十年強の年代ずらしが存在したという発見にあった。したがって、推古紀の上記1-1-2の(1)から(5)も十年強ずれていた、遡らされていたと推理し結論付けられることになった。

なお、舒明紀の(7)から(10)は、ずらしがないのでここでの議論は行わず、最後の3-4で述べる。

 

1-2 ヤマト王権の真実の遣使

 

1-2-1 推古朝の遣唐使があったとは論証されていない

 

 私は「古田旧説」にも疑問を持っていたが、この「古田新説」についても疑問が生じている。つまり、「1-1-1の(1)から(3)」は、十年から十年強ほど降らせると確かに、実在の出来事に行き着く。よって、ずらし説が成り立つ。しかし、これらの事例は推古紀の遣使記事ではない。遣使記事がずらされていることを意味したわけではない。

 さらに、遣使関係記事の「1-1-2の(1)から(5)までについては十年から十年強、新しい時代に降らせると西暦で619年から627年で唐の時代にあたるが、この時代日本列島からの遣使記事は倭国のものを含めても唐書類には皆無である。遣使記事が十年ほどずらされたといえるのだろうか。

これについては、氏は回答を用意していた。中国の史書の列伝に記載されるのはある地域を「代表する正統の王朝」だけで、この時代の主要王権は九州倭国であったため推古紀の遣使記事は隋書にも唐書にも記載されていない、と。(『失われた九州王朝』P.54~355)

 しかし、この議論は主要王権以外の勢力に対してハードルの上げすぎではないだろうか。卑弥呼の強力なライバルであった狗奴国は、主要勢力でないにもかかわらず、列伝の主役としてではないが魏志に卑弥呼の倭国、邪馬壹国と共に記録されていた。毛人の存在も宋書だけでなく旧・新唐書に記載されていた。さらに蝦夷国は通典や唐会要に記載されていた。これに対して推古朝の遣使記事は通典にも唐会要にも記載がない。狗奴国、毛人、蝦夷国よりも存在感が薄かったということになる。ということは、推古朝は中国と遣使関係を結んでいなかった、したがって遣唐使は送っていなかったと言えそうである。

 一般に、中国の史書はその存在を感知した地域、勢力があると、率直に何らかの形で記録を残してきたのではないだろうか。本稿の最後に述べるが、ヤマト王権(後に日本国として唐書の常連になる)が中国に感知されたのは咸亨元年(670年)が初めてであった。咸亨元年(670年)はこの意味で、書紀の中国との外交史を論じ、その真偽を確認する上での「絶対的な定点」である。

 

 

1-2-2 古田氏の論証方法への疑問

 

 さらに、氏の論議の運びは少々荒っぽいところがあると思われる。つまり、推古紀は十年強ずらした記事を載せるという「実績」、つまり「1-1-1の(1)から(3)」がある。隋の時代には遣唐使は送れない。だが十年強ずらすと唐の時代になる。唐の時代には遣唐使は送ることができる。推古朝が中国との遣使関係があったと日本書紀には書かれている。「1-1-2」がそれにあたる。よって、推古朝は遣唐使を送ったとされる。

 氏の議論では推古朝は唐の時代であれば遣唐使が送れるという可能性が指摘されたにすぎない。つまり、抽象的な可能性が指摘されたにすぎないと言ってもよい。あるいは、必要条件が満たされたに過ぎないともいえる。しかし「逆は必ずしも真ならず」であって、唐の時代であったからといって、必ずしも推古朝によって遣唐使が送られたことは証明されていない。十分条件が満たされていない。氏の場合の十分条件は、たかだか「推古朝には遣使記事があった」、しかも「その行き先が唐であった」というような書紀の記事を信用することでしか満たされないものなのである。

 

 

1-2-3 古田氏の『失われた九州王朝』の検討 

特に、孝徳紀の遣唐使と旧・新唐書について

 

 氏は『失われた九州王朝』の「古田旧説」で展開された議論の中で、幾つかのことについては「古田新説」で再論されていないし、その撤回も表明されていない。その重要な議論の一つが孝徳紀の遣使記事に関わる。「新説」でも撤回されていないものとして論を進める。

 孝徳紀白雉五年二年に、孝徳朝の使者が唐を訪ねた際に、唐の皇帝から「その地里」や「国の初めの神の名」などの質問され、「皆、問に答えた」という場面について氏は次のように語る。

 『旧唐書』日本国伝のはじめに記載された「或は曰う」「或は云う」「又曰う」として記された国号・歴史・地理の資料基礎があらわれている。そしてこのとき、例の「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず、故に中国これを疑う」という、唐朝側の第一回目の判断もまた、生まれたものと思われる。このように、『旧唐書』の記載は、『日本書紀』の記載と密に呼応し、唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている

   『失われた九州王朝』(角川文庫P369~371) 下線は筆者

 

 ここで古田氏が孝徳紀の遣使によって「唐朝側の第一回の判断もまた、生まれた」、さらに「唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている」と語るということは、ヤマト王権にとっては孝徳朝が中国に遣使し、中国に認識された最初であると解釈したに他ならない。すると、古田氏が孝徳紀以前の推古紀、舒明紀のヤマト王権による中国との遣使関係とか国交は無かったと判断できることになってしまう。氏は、推古朝が隋とは遣使関係にあったという「旧説」を撤回し、唐と遣使関係を結んだという「新説」を表明したが、遣「隋」使を遣「唐」使に変更したとしてもなお、孝徳紀についての解釈と自己矛盾をきたしてしまっている。もし、孝徳紀のこの解釈が撤回されていなければそうならざるを得ない。以下も「古田新説」で撤回されてなかったものとして述べていく。

 しかも、氏は旧唐書の「或は曰う」「或は云う」「又曰う」の記事が孝徳朝の遣使に関わると述べていた。そして、この記事のきっかけとなった日本からの使人が訪問した年こそ咸亨元年(670年)だったのである。私と古田氏とで見解は一致するはずであった。しかし氏は、旧唐書には書かれず、新唐書に書かれたこの年号を軽視する。氏が新唐書を読んでいなかったわけではないにも関わらず。読んでいた証拠は数々あるが、象徴的な事柄が旧唐書には無く、新唐書にあった「用明、目多利思北孤」についての氏の議論である。この年号を軽視、ないし無視したために、氏は「或は曰う」「或は云う」「又曰う」の主語が犬上三田耜、粟田真人、安倍仲麻呂、空海などだとされていた(『失われた九州王朝』角川文庫P361)。咸亨元年(670年)の時代から大きく前後し、670年に証人にはなり得ない人物たちであった。

 

 

2. 書紀のその他の様々なずらし

 日本書紀には、氏が挙げた以外にも数多くのずらしが存在している。

 

2-1 「隋煬帝(ずいようだい)」問題

 推古紀における誰にも語られていないずらしがある。これは最低で十八年のずらしといえる。

 

2-1-1 定説の遣隋使とそれに対する古田氏の反論、および遣唐使

 

 日本書紀にある推古天皇の時代は大部分が中国の隋の時代にあたる。よって書紀には隋ではなく唐・大唐・遣唐使が数多く出てくることはありえないはずだ。したがって、定説では唐と記録されていたのは誤りで、推古紀に書かれた年代にあったのは隋との遣使関係であったとする。しかし定説の中には、なぜ推古紀には唐、大唐の名だけが記されていたかについて、定説の中には日本書紀が執筆された時代が唐の時代であった、このため中国の王権一般という意味で書紀では「唐」が使われていたとする説がある。

 このことに異議を唱えたのが古田武彦氏であった。推古二十六年(618年)には「隋煬帝」という名が記述されていることから、推古紀を書く日本書紀の執筆者が「隋」を知らなかったわけではないと氏は指摘する。重要な指摘でもあるし当然の指摘でもあった。

 そこで、先に述べたように古田氏は、推古紀の遣唐使、唐、大唐などはあくまでも唐との外交関係を記載したものであって、推古紀は十年強ずらして、つまり遡らせて記述したものである。よって推古朝においては遣隋使はなかったという結論に達した。『失われた九州王朝』のいわゆる旧説からの大転換によって、新説が打ち出されたのであった。

 

 

2-1-2 訳、読み下しに現れる歴史観に注意

 

 少し横道にそれるが、定説では推古紀の唐は隋の誤りで、書記執筆時が唐の時代であったので「隋」とは書きにくい状況にあったため「唐」と表現してしまったなどの説の他にも気になる定説派の「動き」がある。これも注目するべきであろう。

 坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋氏ら定説の代表者による岩波文庫の『日本書紀(四)』では、「唐帝」に「もろこしのきみ」という読みがあたえられ、あたかも「中国一般」であるかのように訳(読み下し)がなされている(推古紀十六年六月の訳文)。つまり「唐」と「隋」の違いがあいまいになるように「工夫」が施されているのである。この個所では「唐帝」は「とうてい」、ないし「とうのみかど」とするべきであり、日本書紀の原文の文字とその意味あいを残し、史料の客観性を保持すべきであった。訳す(読み下す)という「公平な作業」のような装い中で、定説派のメッセージが明確に忍び込まされている。また、同じ推古十六年六月の記事には、小野妹子が唐の帝からの書を百済で掠め取られ、群臣に「何ぞ怠りて、大国の書を失うや」と責められる場面がある。この隋を指すはずの「大国」までもが「もろこし」というふり仮名がふられる。さらにこの徹底ぶりは推古紀に続く舒明紀、孝徳紀、斉明紀、天智紀にも見られ、すべての唐、大唐などに「もろこし」という読みがあてられている。これでは、「遣唐使」に「けんとうし」という読みは与えられないことになってしまうだろう。

 坂本、井上氏らは自分の論文の中で唐を「もろこし」と読み続けているのだろうか。そういう理由で井上氏の著作に目を通す中で見つけた文章に例えば、「・・・大化の改新の時には、の武徳の制をさらに採用して新たに展開された」、とあった(『井上光貞著作集』岩波書店刊行、第一巻、第Ⅱ部、第一章P.305)。この場合、読みは添えられていなかったが、井上氏はまさかこの「唐」を「もろこし」とは読んではいないであろう。したがって、日本書紀の推古紀から天智紀に至るまでの唐、大唐に「もろこし」という読みを与え続けたことに、ある種の作為が感じられる次第である。

 

 

 2-1-3 「煬帝」の問題点 隋書を見ながら書紀を書く

 

 それでは本題に戻ろう。今度の問題は「隋」ではなく「煬帝」である。日本書紀に隋の皇帝が「煬帝(ようだい)」と記されていたことには問題がないのであろうか。いや、それはそれで重要な問題が生じることになる。隋の二代目の皇帝は確かに「煬帝」として知られている。煬帝の本名は楊広(ようこう)であるが日本では「煬帝」の名で通っている。日本書紀の「隋煬帝」が基になっているのは明らかだが、先の推古紀の岩波文庫版と「もろこしのきみ」と読まれていた「唐帝」が、別の現代語訳では「煬帝」と記されているものもあるため、より一層「煬帝」が目立つようになっている(例えば宇治谷孟訳 講談社学術文庫P100)。おそらく訳者が読者にとって分かりやすいようにという親切心で「煬帝」にしたと思われる。そして定説の学者も教科書もこの名を使う。いや、非定説の学者も使う。このため推古紀の多くの読者は、隋の二代目皇帝の名はその生前から「煬帝(ようだい)」であったかのような「常識」が植えつけられることになるのであろう。

 しかし、歴史の真実は、推古二十六年(618年)に「煬帝」という人物は存在しない。いや、正確に言えば「煬帝」という名前は存在していなかった。存在しなかった名前を、推古紀は書き残してしまったのである。何という失態であっただろう。「楊広(ようこう)」、「楊帝(ようてい)」は存在していた。つまり、「煬帝」は「楊帝」、「楊広」の死後に唐によってつけられた諡号(おくりな、しごう)だからである。この諡号は636年成立の『隋書』に記されたものであった。したがって、636-618=18となり、最低でも18年のズレがある。つまり、日本書紀はその時点では存在しなかった名前あるいは記事を書いてしまったことになる。よって推古紀のこの個所は早くとも636年以降に、遅ければ720年に近い書紀完成前に執筆されたことになる。この場合には、720―618=102、よって100年近くのずらしである。いずれにしても、隋書を見ながら書かれたことは間違いないが、同時代の資料ではないことも明白である。

 隋書を見ながら書紀を書くという点では、古田氏も例えば、雄略紀の「遺詔」に隋の高祖の詔勅や遺詔を「借用」ないし「盗用」していると述べ、したがって当然、「『日本書紀』の編者は『隋書』を見ている」、と指摘している。(『古代は輝いていたⅢ「推古紀の対等外交」』P.208~209)

 

 

2-2 実は約400年ないしそれ以上のズレ 神功皇后紀の問題

    拙稿:「第四章」の再論でもあるが、書紀執筆者は西暦を知っていた。

 

2-2-1 下二桁の合致

 

 一般に古事記には対中国との外交記事は無い。しかし、日本書紀には突然、外交史が頻出する。

神功皇后記には魏(曹魏)への遣使記事は無い。神功皇后紀には遣唐使記事がある。すでに第四章第一節でも述べたことであるが、その要点の再録である。

 日本書紀に対して、外交史、中国との外交史に関しては特にこれは本当の歴史書には値しないのではないという私の思いが決定的になったのは神功皇后紀における遣使記事であった。神功皇后紀は神功皇后を卑弥呼と壹与に見立てていた。一般に「神功皇后が卑弥呼に比定されている」と言われる問題である。結論から言えばこれは比定でもなく、また魏志などからの引用だというだけでもなく、むしろ魏志からの盗用というべきであろう。よって、神功皇后紀の遣使記事を史実だと考える歴史家は皆無に近いだろうが、このてんを取り扱い論じている研究者はほとんど見ない。

神功皇后紀が史実ではないと私が思う理由を抉り出してみたい。このなかで書記の特に外交史における虚偽の史書造作の手法が見えてくる可能性もある。神功紀の遣使記事である。以下、日本書紀・神功皇后紀(宇治谷孟訳 講談社学術文庫P201~208)をもとに箇条書きにしたものである。

 

     ア. 神功皇后紀 39年 この年の太歳己未―――魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいと言って貢をもってきた。太守の鄧夏は役人を付き添わせて、洛陽に行かせた。               景初三年は西暦で239年

     イ. 神功皇后紀 40年―――魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。  

                         正始元年は西暦で240年

     ウ. 神功皇后紀 43年―――魏志にいう。正史四年、倭王はまた使者

の大夫伊声者ら八人を遣わして献上品を届けた。 

                         正始四年は西暦で243年

     エ. 神功皇后紀 66年―――この年は普の武帝の泰初二年である。普の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の太初十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。  

                         泰初二年は西暦で266年

              

 以上の神功皇后紀にはそれ自身で重大な問題を抱えていた。つまり、第一に、神功皇后紀で書記は、「魏志にいう」、「晋の起居注記す」などのように引用の形で語っている。ある国の歴史書から他国の出来事を紹介し、引用するのならありうるだろう。しかし神功紀は、自国の史書で自国の皇后のことを語っているにも関わらず、他国、中国の史書から引用しているのである。しかも、中国との外交記事のすべてが引用なのである。このような史書が他にあるのだろうか、

 さらに、神功皇后は卑弥呼と壹与の二人に擬せられている点も異様であるが、卑弥呼・壹与が神功皇后と同一人物だということが証明されない限り神功紀の外交史は偽作ということになるであろう。

 これに対しては、書記に対して弁護をする学者がいるかもしれない。神功紀は史実なのだが、この時代の日本側の歴史資料が備わっていなかった、あるいは失われていたので魏志と西晋書で補足したなどと。しかし、一度でもそのように他の資料から補足をした歴史書があったとするなら、他の個所でも同様の補足や修正、はたまた歪曲をしていないという保証はなくなってしまう。例えば、推古紀や舒明紀などの遣使記事にも何らかの作為があったのではないかと疑われることにもなる。

さらに、神功皇后紀の次の問題に注目してほしい。神功皇后紀の執筆者は西暦を知っていたのである。管見に入らずかもしれないが、私が見た限りでは、どの歴史研究者も神功紀の年号の「作為」について論じていないようである。この問題に気が付いていないはずはないと思うのだが。つまり、先の引用には参考のために西暦年も書いておいた。ア・イ・ウ・エを見てほしい。

・卑弥呼が初めて魏に使いを送ったのが景初三年、西暦でいうと239年であるが、上の引用のアで、神功皇后が魏に使いを送ったのが神功皇后紀の39年。

・魏から卑弥呼に遣使が送られるのは正始元年、西暦で240年、イで魏から神功皇后に遣使が送られるのが神功皇后紀40年。

・卑弥呼が再び魏に遣使するのが正始四年、西暦で243年、ウで魏に神功皇后が遣使するのが神功皇后紀43年、

・さらに、壱(壹)与が晋に遣使したのが泰初弐年は西暦の266年、エで神功皇后が遣使したのが神功皇后の66年である。

つまり神功紀の紀年は、西暦から百の位の2を取り去り、下二桁を合わせるという作為が行われているのである。しかも、西暦239年は「太歳己未(つちのとひつじ)」というように、ご丁寧に干支と西暦も合わせている。

まず、西暦の239年と神功紀の39年などの一致は偶然の一致だと考える人もいるかもしれない。一つの対応関係ならばそういえないこともないかもしれない。しかし、一致が4組もある。「239と39」、「240と40」、「243と43」、「266と66」。選ばれた遣使記事は4例。その4例ともになのである。神功皇后の治世は69年だとされている。同じ年に2回遣使を行うことは無いとすると、4組とも一致する確率は、1 / 69×1 / 68×1 / 67×1 / 66 = 1 / 20,748,024 。約2千万分の1である。宝くじの一等を当てるのよりは高い確率かもしれないが、ほぼ絶望的な数値である。しかもこの計算は1世紀の百年分を、下2桁を69までと限定して計算しているので、実際の確率はもっと下がるであろう。この意味で偶然の一致はありえないといえる。 

 ということは、書記の筆者は西暦の存在を知っていて神功紀を書いたことになる。これはほぼ確実なことであろう。では、次の問題であるが、書記の執筆者は西暦をどうやって知ることになったのだろう。私は上記のア、イ、ウ、エの神功紀年は偽作だと考えているが、仮に偽作かどうかは別にして、古代に西暦を知っているというのは日本では情報通を通り越しているように思われる。書紀完成の720年の時点であったとしても。

 

 

2-2-2 書紀執筆者が西暦を知ることは可能か 

 

 西暦は、Wikipediaによると、525年につくられたという。しかし西暦は、731年に『イングランド教会史』が執筆されて以降、徐々に広まっていったにすぎず、教会の中で広く使われ始めたのは10世紀以降、一般の人が使い始めたのがキリスト教文化圏であるヨーロッパでさえ16世紀からだと言われている。

 すると、まず確実なことは神功紀が書かれたのは525年以降であり、書記の完成した720年以前ということになる。ところが、Wikipediaによると西暦が世界に広まり始めるのは、早くても731年以後ということである。いかにして720年に完成した書記の執筆者は西暦を知り得たのか。私にとっての難問でもある。いや、難問であった。

 この難問を解く鍵は、景教(キリスト教の一流派であるネストリウス派)の広まりにある。中国には唐の初期の635年にペルシャ経由で伝えられたと言われている。当然、日本にも、流行したか否かにかかわらず、景教が伝わったことが考えられる。さほど流行らなかったようであるが。非公式の交流を通して知られることになった、それとも中国からの渡来人によって伝えられたなど、様々な可能性がある。すると、中国でも日本でも、創始者であるキリストの人物像、思想などについても語られ、その中にはキリストの誕生とその年代なども含まれていたであろう。キリストが「厩で生まれた」⇒「ウマヤドノミコ(=聖徳太子)」も景教を含むキリスト教文化の伝来に伴う発想から名づけられたのかもしれない。西暦の存在も、当然、キリスト教というサークル内では知られ流布していた可能性はある。ということは、神功紀の先の魏・西晋遣使記事は、景教が中国に伝わった625年以降に絞り込まれることになる。したがってもちろん神功皇后紀、少なくともその中国との外交史は同時代史として執筆されていたわけではない。

したがってこれをずらしという視点で見れば、625-239=386、約四百年のずらしである。

 

 

2-2-3 書紀執筆者たちの密談

 

 ヤマト王権の書記執筆者たちの中のインテリ高官や渡来人たちの会話である。

 

「こんな年号があるぞ。これを利用できないかな。」

    ―― 「そうだな、どうせ西暦なんか我々の中でもごく一部の人間にしか知

       られていないのだから、利用しようと思えばいくらでもできるだろ

       う。で、どうすればいいんだ。」

「神功紀の記事なんかどうせ架空なのだから、紀年も最初の2百の2を取り去って、下2桁にしたらどうだ。それらしくできるんじゃないか。」

    -―― 「だけど、西晋の壹与の記事まで入れると、皇后の歳が長くなりすぎ

       るぞ。在位年数は最短でも66年必要になるな。」

「ハハハ、そうだな。でも、もっと長く在位した天皇もいるじゃないか。神武天皇の在位は76年だぞ。それよりは少ない、問題ないよ。」

    ―― 「266年の後にも倭国の遣使記事があったら、神功皇后をもっと長

       生きさせなければいけなくなっていたかもな。」

「そうだな。でも、そんなのは無視することもできるよ。誰も西晋書なんか読まないさ。とはいえ、66年の遣使記事の直後に皇后が亡くなるのも不自然だから、在位は69年までにしておこう。」

 

 神功皇后紀では、個々の記述は明らかに魏志や晋書に記載された事象を引用し、さらに神功紀年は西暦に変換され、その下二桁を神功皇后の年号とするという作為が行われていた。神功紀における対中国の国交記事は、魏志がなければ描写できなかったに等しいということになる。

 

 

2―3 斉明紀の蝦夷征討記事は530年~940年のずらし

    いや計算不能のずらし

    

 今度は斉明紀の蝦夷問題である。唐突に、またヤマトタケルの征討譚以上に濃密な蝦夷記事。極めて不自然である。後述の伊吉博徳書(いきのはかとこのふみ)をもっともらしく見せるためのプロローグとして以下のような記事から始められる。

 

2-3-1 斉明紀の蝦夷     

 

・斉明元年(655年)七月十一日 北(越)の蝦夷90人、東(陸奥)の蝦夷95人に饗応。       「越を北」として意識している。また「陸奥が東」である。この点は後にも触れる大事な点である。

 

・斉明元年の冬、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、朝(みかど)に物を貢いだ。

 

・斉明四年(658年)四月 阿倍比羅夫の遠征 船軍180艘を率いて蝦夷を討つ。秋田・能代2郡の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞う。渡島の蝦夷と共に饗応。   

    渡島=北海道は、後に見る続紀において蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、

これはありえないであろう。

  

・斉明四年七月四日 蝦夷200人余り、物を奉る。能代郡・・・津軽郡・・・の大領、少領に位を与える。能代郡の大領に詔して蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調査させる。

渡島同様に 能代、津軽は続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、

これも不可能である。

 

・斉明五年(659年)三月十七日 陸奥と越の国の蝦夷を饗応。この月に、四年四月と類似の記事あり。阿倍比羅夫が「船軍180艘を率いて蝦夷を討つ」、と。さらに、津軽の蝦夷120人を饗応。

180艘は斉明四年四月記事と偶然の一致か、それとも誤って二重に記載したのか。

 

・斉明五年十月三十日、伊吉博徳の書における蝦夷を伴った遣唐使記事である。

唐の天子:ここにいる蝦夷の国はどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷(あらえみし)、

一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けています。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:その国に五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:国に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

 

これに附随して、難波吉士男ひと(なにわのきしおひと)の書き記したものがある。

蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を天子に奉った。

 

 

2-3-2 外交史としての蝦夷記事

 

 斉明紀も唐の天子が語った通りに蝦夷を「国」と表記。「国はどちらにあるか」「国に五穀はあるのか」「国に家屋はあるのか」。博徳も「蝦夷の居住地は国ではない」という「訂正」を天子に求めていない。書紀の編纂者もそのまま「国」として記述してしまっている。蝦夷が「国」であるという認識は、唐や九州倭国ばかりでなく、ヤマトの王権も持っていたことになる。

さらに、独立の国家である蝦夷国を侵略するという認識もヤマト側は持っていた。景行紀の武内宿禰(たけしうちのすくね)の言葉が明確に語っている。「東国の田舎の中に日高見『国』(北上川上流か)があります。その国の人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

武内宿禰は、蝦夷が国をなしていることを認めたうえで、日高見「国」、蝦夷「国」を「攻略」するように提議している。したがって、蝦夷国との戦闘はヤマトによる蝦夷の居住地への侵攻・侵略であり、蝦夷の戦いはそれに対する防衛戦であると位置づけることができるのである。これは私だけの見解ではなく、日本書紀自身の認識である。さらに唐会要、通典にも「蝦夷国」が「倭国」と並んで記載されている。

そして国家間の最も不幸な外交関係、戦争へと突入することになったのである。

 しかし、蝦夷国が唐書類に記されたことで蝦夷問題が外交問題になり、また斉明紀が続日本紀の時代に近づいたことで斉明紀の記事を続紀がチェックする機能を果たしてくれるお蔭で、その弱点がより鮮明に見えることになる。

 

 

2-3-3 続紀における「越後」と「狄」に注目

      続紀からわかる、孝徳紀の51年のずらし

 

・文武元年(697年)12月18日 越後の蝦狄(かてき・えみし)に地位に応じて物を与えた。

・文武2年(698年)6月14日 越後国の蝦狄が土地の産物を献上した。

 

 宇治谷孟氏の訳者注(講談社学術文庫P16)によると、「北陸道方面では蝦狄、東山道方面では蝦夷と使い分け」と指摘されている。この使い分けは注目すべきである。この点をさらに続紀に基づいて見ていこう。

 文武紀では越後と狄とが結び付けられている。しかし、この結びつきは必ずしもいつもというわけではない。文武2年4月25日では越後の「蝦夷」106人に、身分に応じて位を授けた、とある。蝦夷とも呼ばれているからである。蝦夷は基本的には、方角いかんにかかわらず、一般的な用語であろう。しかし、あえて「狄」を使うときには、ことさら「北」が意識されていることは間違いない。言うまでもなく、狄とは中華思想における北方にいる化外の異民族・勢力という意味だ。先に斉明元年の冬の記事にも越が北として意識されていた。蝦夷征討が進んでいった後でも、出羽(日本海側の山形以北)の蝦夷が「狄」と呼ばれることが多い。反対に「狄」が太平洋側の蝦夷に使用される例は皆無である。ヤマト王権の日本書紀と続日本紀ではともに「狄」は厳密に北が意識されて使用されているのである。ところで、なぜ文武紀においては越後の蝦夷が「狄」であり「北」なのであろうか。書紀の記述に見られた侵攻のスピードから考えるともっと北の山形・秋田にあたる地域が「北」、「狄」になるべきだと考えられるだろう。

 文武紀では越後の蝦夷に「狄」が使われている。すると越後が「北」に見える地域、そこがヤマトの勢力の圏内、支配が完了した地域ではないだろうか。そのような視点で続日本紀を見てみよう。すると、元明紀では越後も完全にヤマト朝廷の支配下に組み込まれていない状況が記されていることが分かる。

 ヌタリ柵、イワフネ柵の造営は孝徳紀で述べられていた。大化三年(647年)にヌタリ柵(新潟市)、同四年(648年)イワフネ柵(村上市)を作るとある(注)。それにもかかわらず、文武三年(699年)にイワフネ柵造営が記述されている。どういうことか。これもずらしの一つであろう。次の元明紀で越後が蝦夷との主戦場になっていることを見れば、孝徳紀のずらしは明白であろう。699-648=51年のずらしになる。

(注)文武二年にはイワフネ柵を修理という記事がある。造作の前に修理があるという記述の奇妙さがある。また、続紀にはヌタリ柵については造営も修理も記事は無い。この点は柵、城柵、官衙の問題と合わせて、別稿で考察する。

 

 

2-3-4 元明紀の蝦夷との戦い

 

・元明紀:和銅二年(709年)三月五日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正5位下の佐伯宿禰石湯を征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両方から討たせた。  (下線は引用者)

 

 元明紀でも最初期における焦眉の課題は越後蝦夷征討であったことがわかる。「征越後蝦夷将軍」が存在しているのである。有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍であったのは、「服ろわぬ民」の蝦夷が存在したことを大前提とする。したがって、征越後蝦夷将軍が存在することの意味は容易にわかるであろう。つまり文武はもちろん、元明の時期、その初期においても、ヤマト朝廷は越後が制覇できていなかったことを表明しているのである。越後の全体なのか、越後の一部なのかは不明だが、「征越後蝦夷」将軍が存在するということは、越後のかなりの部分を指していると理解できる。少なくとも、ヤマト朝廷が越後を完全制覇できていないことを意味している。ヌタリ柵、イワフネ柵が必要になるわけでる。実際、文武紀にイワフネ柵が築造されており、元明天皇の要望も満たされている。続日本紀は日本書紀の誇大な日本列島早期征討劇が無かった、続紀が斉明紀で津軽はおろか出羽(山形)支配が遂行されていなかったことを告白しているのである。続紀と書記の齟齬である。どちらがより信じられるのかは明白である。

 

 ところで、蝦夷研究について定評を博す工藤雅樹・熊谷公男・中路正恒などの諸氏が無視・軽視する蝦夷関連の史資料がある。それが続日本紀の文武紀と元明紀であり、そこに書かれた「越後」と「狄」についてなのである。この定説派の学者たちは申し合わせたように、日本書紀の斉明紀まで論じた後で、文武紀、元明紀を跳び越えて宮城県の多賀城について論じ始める。文武紀、元明紀に蝦夷記事があるにもかかわらず。おそらくここに触れると定説の根幹の一つが崩れるから触れていないのであろう。(拙論:第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」)

 

 

2-3-5 越後が北に見える場所とは

 

 もしヤマト朝廷が越後・新潟の南部まで支配していたとする。その場合に新潟県内でターゲットとして考えられるのは、ヌタリ柵(新潟市)やイワフネ柵(村上市)の地であろうか。ヤマト王権が制圧しきれていないのは越後の北部であろう。ヌタリ・イワフネの地帯であると仮定しよう。そしてこの地域が北に見える場所はどこかを考えて地図を見る。群馬県、栃木県、新潟県南部であろうか。

さらに、ヌタリ・イワフネが北に見えるその位置から東を見てみる。茨城県とさらに福島県の南部である。文武・元明の時代に常陸国(茨城県)の大部分はすでにヤマトの支配下にはいっていたとすれば、この時点においては茨城北部や福島が陸奥(みちのく)であり、ヤマト朝廷のターゲットであった可能性がある。

 

 私が最近注目し始めたDNAの解析によると、古墳時代の末期・律令時代初期の東京日野市や三鷹市の人骨の解析からはかなり弥生系の血が混ざり始めてきたようである(注)。このことを私は、ヤマト王権の進行・侵攻が古墳時代の末期・律令時代初期までに関東地方まで進んできたことを意味することになると理解した。縄文系が主流の地に弥生系が侵入してくるとするならば、この弥生系の侵入者はヤマト王権だと考えられるからである。

 逆の言い方をすれば、関東のこれらの地域より東、また北への進行、侵攻はまだなかったともとれる。この地域の人骨のDNA解析は進んでいるのであろうか。

(注)分子人類学者・篠田謙一氏の著作による。この見解は2019年出版の『新版日本人になった祖先たち』(NHKブックスP.191~194)からのものである。

この分野の研究は日進月歩の状態のようで、2~3年前の見解は書き改められている

可能性は大きい。篠田氏の2022年出版の『人類の起源』中公新書なども参照のこと。

 

 氏の著作から私は、歴史学は考古学だけでなくDNAの解析などとも連携する必要が出てきているという思いを強くしている。氏のDNAの研究は考古学、歴史学との関係についても視野を広げることを求めているが、さらに言語学との連携の意思も強く感じられる。言葉は人の移動に伴って伝わっていくわけだから当然であろう。

  

 

3 「唐書的状況」を理解する必要性 および「ずれ、ずらし議論」の陥穽

 

3-1 「唐書的状況」

 

 拙稿の第八章「旧唐書と新唐書の間」で論じたことを繰り返す部分もあるが論じてみたい。

 旧唐書日本国伝では、当然のことであるが、倭国については通常の歴史書のように記述されており、何らの違和感も持たせない。中国は九州倭国とは長年の付き合いがあり、中国からの遣使も曹魏、隋(裴清)、唐(高表仁)と九州倭国に来ていた。九州倭国について中国は熟知していたと言ってよいだろう。

 これに対して、旧唐書日本国伝、新唐書日本伝は異様な記述の仕方であった。旧唐書には年代が書かれていなかったが、ほぼ同様の内容が書かれている新唐書には、咸亨元年(670年)のこととされている。両史書日本(国)伝の異様さを並べてみる。

・伝聞調の記述、「また言う」、「また云う」、「また曰う」という史書の体を為していないこと

 単なるインタビュー記事であるともいえる

・唐が日本国の使人の発言をことごとく「疑った」こと、そしてそれを唐が率直にその史書に書き記し

たこと

・したがって、中国が日本国について確認できたことは、「日本国は倭国の別種」ということ

・唐側が、日本国の人々の発言は「疑わしい」ので、日本国の実態がさっぱり掴めないでいる様子が

 伝わってくること  

これらの状況を私は「唐書的状況」と名付ける。

 

 

3-2 古代史家の「日本(国)伝理解」の不可思議さ

 

・日本(国)伝には九州倭国の人間の発言は存在しないということ。「また言う」、「また云う」、「また曰う」の主語は日本国の人間である。倭国伝ではないのだから当然ではないだろうか。それにもかかわらず、これらの発言の中に九州倭国の人間が混じっていたかのように解釈する研究者がいること。

・唐は「疑っている」のだから、「また言う」、「また云う」、「また曰う」として語られたどの内容も唐が確信を持って記述したわけではないし、唐の判断ではない。ところが古代史家たちは「自説の都合に合わせて」それらの中から一断片だけを抜き取り、それが歴史の真実であるかのように語りだす。日本(国)伝は定説派がほとんど論じないので、この解釈は非定説派に多い。

・日本の国名がこのときに出来ていたという見解もある。咸亨元年の日本からの使者の記事が「日本(国」伝」に入っていたとしても、この時点で「日本」という国名があったことを必ずしも意味しない。例えば、「縄文時代の三内丸山遺跡は青森県にある」場合の「縄文」、「三内丸山」、「青森」などの場合。現在では「縄文」時代の、また現在では「三内丸山」と呼ばれている遺跡は、現在では「青森」と呼ばれる場所にあるということに過ぎない。これらと同様に、咸亨元年の時点では掴めなかったが、あの時の使人は現在では「日本」と呼ばれている国から来ていたのだ。では「日本(国」伝」の記事に編入しておこう、このような経緯があったであろう。それにもかかわらず、「日本」という国名が出来たのは咸亨元年であったと断言する研究者がいること、など。

 

 

3-3 日本(国)伝が記述されるときの前提 臆見を交えて

    唐は日本に複数の王権が存在していたと見ていた

 

 唐は日本国の使人が九州倭国と同じ日本列島から来ているとはいえ、日本国は九州倭国とは異なっている、「別種」だと感じていた。九州倭国とは地理的状況が違う、王の系列も違いそうだ、など。この意味で、中国は日本列島には異なる王朝が九州以外にも存在する、いわば多元的なとらえ方をしたのであろう。「蝦夷国」も含めれば最低でも三カ国あることになる。これが日本国伝における記事の前提になっている。したがって、中国は日本国の使人に九州倭国や蝦夷国との関係を尋ねることになる。

「倭国ときみたちの国の関係は?」

「蝦夷国はどこにあるのだ?」

「多利思北孤って誰だ?」

 

 中国を初めて訪れた使人は面食らう。応える準備ができていないので、しどろもどろになる。「倭国ってどこの国だ?」、「蝦夷ってなんだ?」、「多利思北孤って誰だ?」などとうろたえる。この意味でも中国に疑われる。この時点が、ヤマトの勢力が王の系統を確立すること、国の歴史などを書き記すことの必要性を痛感させられたのではないだろうか。したがって、古事記、日本書紀を著わす契機になったのであろう。この過程で「ヤマトの王権は過去から一貫して日本列島の広範囲を統治してきた唯一の存在だ」という政治路線が固められていったのであろう。

 唐は日本に複数の国があることを前提に質問してくる。もし、倭国との関連を尋ねられたら、「倭国というのは我々の国の以前の名前だ」と答えよう。もし倭国が九州にあったと言われたならどうするか。打ち合わせ通りには答えない者もいて、ある者は「倭国は九州の大国で小国だった日本を併合した」と答える者もいた。逆に、「日本国が倭国を合併した」と回答したものもいた。その混乱ぶりが旧唐書と新唐書で全く反対の発言が記された理由ではないか。旧・新唐書にある蝦夷を思わせる山外の「毛人」についての記述があるのも、多元的立場に立つ唐側から問われて回答せざるを得なくなった結果だったのではないだろうか。

 そしてもちろん、王の名前も尋ねられた。王名についての回答はさらに悲惨なものであっただろう。隋に「対等外交」を仕掛けた多利思北孤は唐にとっても決定的に重要な王であった。王の名としては最優先で尋ねられたであろう。多利思北孤はどの王の次で、またどの王の前だ、などの質問もあったであろう。即座に回答する用意はない。これが咸亨元年のヤマト王権の状況ではなかったか。「用明、目多利思北孤(用明が多利思北孤と見なす)」(注)と回答したのは間違いなくかなりの時間が経ってからである。というのも「用明」という漢風諡号は淡海三船によって、700年代の後半に作成されたものだからである。咸亨元年の使人たちは、唐からの質問には、ほとんど全く答えられなかったであろう。

    (注)この読み方と意味については、第八章のコラム3 で考察している。

 

このような会話を通して中国の側は、どうも日本国の連中の言うことからは日本国の実態がつかめない、長く付き合ってきた九州倭国とは全く異なる、と感じることにもなる。再度言うことになるが、このような状況全体を私は「唐書的状況」と名付けたのである。

 

 

3-4 「ずれ、ずらし議論」の問題点

 

 ずれずらしの議論を終えるにあたって、破壊的なことを述べなくてはいけなくなった。すでに、本稿の最初に述べた疑問についてである。ズレの議論の目的は、例えば10年強ずらすことで、歴史の真実に到達すると考えられているわけだが、ヤマト王権の遣使の初回が、神功皇后、推古天皇でも舒明天皇の時代でもない、さらに孝徳天皇時代ですらない。また、斉明天皇の時代でもない。ヤマト王権、後に日本という名前を持つ国の遣使の最初は、咸亨元年(670年)であったということが押さえられない限り歴史の真実、少なくとも中国との外交史の真実は把握できないということ、それが私の述べたいことであった。その際に鍵になるのが「唐書的状況」を見据えることだと思われる。

 日本書紀のずらしは、10年強というような範囲を大きく超えているものも含め多数ある。また、ずらしが行われているのは推古紀に限られたことではない。このことから分かることは、少なくとも中国との外交史に関しては日本書紀から決別しなければならないのではないだろうか、ということである。つまり、年代ずらしは虚偽報告なのである。

 したがって、十年強の年代ずらしを発見した古田氏は、日本書紀の虚偽を発見したにすぎなかったといえよう。

 

 

 

日本書紀の壬申の乱と

古田武彦氏の『壬申の乱の大道」、『壬申大乱』について

 

はじめに

 

 結論から言えば、古田氏は壬申の乱については触れないままの方がよかったのではないだろうか。私の考えを言えば、日本書紀にしか書かれていない壬申の乱については、その真実は何か以前に、それが現実に起こった出来事なのか否かについても断定的に語ることはできないということである。日本書紀と氏の議論を検討しながら壬申の乱をめぐる問題について考えてみたい。

 古田氏の壬申の乱をめぐる考えは、主に次の二つに表明されている。

一つは、2001年1月22日の大阪市北市民教養ルームにおける講演、『壬申の乱の大道』である。私はInternetで見つけたもので、以後は『大道』と略記する。この講演からの引用は、章立ての通りに「一.初めに」から「七.壬申の乱」、そして「追加としての質疑応答・補足」などとして示す。

二つは、2001年10月25日出版の『壬申大乱』東洋書林で、以後は『大乱』と略記する。

 

 古代史一般について、私は以下の諸点などで氏の研究について賛同している。

・中国の史書を日本書紀に優先する姿勢。

・安易に文字の変更を行わず、同時代史に近い史料を優先し、原文を忠実に解釈すること。

・卑弥呼の統治する倭国が九州にあったという氏の主張、などなど・・・。

 

 また、日本書紀と定説による「壬申の乱」とそれに少し先立つ白村江の戦に対する氏の見解に賛成の部分を挙げると、 

1. 書紀の支離滅裂な記述についての指摘

『大道』“六〟 白村江後に防衛施設の築造などが敗戦後に、しかも唐軍が進駐し

ているときに対唐防御施設を築造することへの疑問の提示。これは定説によ

る日本書紀理解への批判である。

これらの施設は白村江戦以前のものという氏の指摘は大事である。年代鑑定

も正確に行われなければならない。

 

2. 白村江戦は九州倭国が参戦したもの、ヤマトの勢力は関りを持っていない。

白村江についての書紀の記事は倭国の事績を盗用・改変した可能性が大きい。 

白村江の様々な史料は中国からの渡来人、遣使者たちの中国における情報収

集、唐の史資料の入手、そして倭国などから入手した「禁書」に書かれた情報

などに基づいて記述された。

 

 

 しかし、幾つかの点で私は古田氏の説に疑問を抱いている。以下の1~7まではその主要なものである。

 

1.群評論争について

「郡評論争と北魏」について論じることの意味が不明、不必要ではないか

北朝と「郡」、および曹魏と北魏の関係

 

1-1 壬申の乱と郡評論争の関係とは(1)

 

 講演『壬申の乱の大道」は、「郡評」の問題から始まっている(「『大道』二、郡評論争と魏」)。それが何故なのか、これに私は戸惑う。「郡評」問題とは、簡単に言えば、日本書紀は「郡」一色であるが、それ以前の時代には日本各地で「評」が使用されていたことが出土した木簡などから判明した。ヤマト朝廷が確立し、大宝律令制定以降「郡」が使われるようになったのであるが、それより古い時代には「評」が使われていた。そしてそのことを日本書紀は隠したと古田氏は主張する。氏によると、その理由は「中国の北朝・魏は『郡』を採用していたため、日本書紀は北朝、また隋や特に唐に『オベンチャラ』を使った」、「我々も北朝側と深く関係を持っていました。そんな嘘のアピール」を行ったからだと言う。が、しかしこれは全く意味不明である。

 中国における北朝系が「郡」を採用していたというのはどういうことなのか。氏の考えを要約するとこうなる。

まず、①魏志倭人伝を引用していた書紀の神功皇后紀が「郡(帯方郡のこと)」を使っていた。神功皇后紀には確かにそのような記述がある。これによって、日本書紀は「郡」を使用していたことが示された。

そして、②北魏は魏の後継勢力を自認しているので同系統であると主張する。よって、北朝系の北魏、さらにその後継勢力である隋・唐も「郡」を使用した。

しかし、この①②によっては北朝では「郡」を使用したことは証明されていない。

たしかに北魏をはじめとした北朝や隋、唐は北朝系、言い換えれば鮮卑を中軸とする王権である

さらにまた、古田氏の『古代史の十字路』(東洋書林P168)でも郡評論争が取り上げられて、次のように述べられている。

 北朝系の唐が東アジアを征服した段階(北朝が南朝を滅ぼし隋が建国される)で、南朝は「偽朝」とされた。したがって「偽朝」から任命された倭王の「都督」は「偽都督」とされ、その配下の「評督」は「偽評督」とされた。その結果、「評督」の支配する行政単位である「評」も「偽評」とされた。それゆえ、史書(日本書紀・続日本紀)からも、歌集(万葉集)からも、文書(正倉院文書)からも、「評」は一切、除去されるのを原則とした。(地下や地方の金石文等に一部残存。)ヤマト一元史観を批判し、多元史観に立たなければいけない、この脈絡で「郡評論争」が持ち出されたのであろうか。

 

1-2  「郡」は南朝に繋がる曹魏のもの

 

ところが、三国時代の魏、つまり魏志の魏は漢民族の王権である。魏は言うまでもなく後漢の武将・高官であった曹操が「禅譲」によって樹立した王権であり、「曹魏」とも呼ばれる。これは当然のことながら漢民族の王権であった。神功紀に引用されていた帯方「郡」は魏志からの引用であるから漢民族のものであった。しかも、魏志の帯方「郡」ばかりでなく、後漢書には楽浪「郡」という使用例もあったのである。後漢書はもちろん漢民族の王権の史書である。その後、漢民族の王権は(西)晋・南朝に繋がっていく。この点については古田氏自身の『失われた九州王朝』(P316・第三章・二人の天子・角川文庫)は詳しく明確に指摘していた。

よって、神功紀で「郡」と記述されていたのは北魏、つまり北朝系のものではなく、漢民族(=後に南朝に引き継がれていく)のものであった。

 

1-3 北魏と曹魏

 

 北魏が曹魏とのつながりを持つとすれば、それは北魏が曹魏の後継であることを自ら主張したことによる。権力を掌握した者の主張は強く広範囲に及ぶ。しかも北魏の漢化政策は様々な面で徹底して行われた。漢文化を積極的に取り入れていったのである。したがって国名も「魏(魏志の曹魏と区別するために北魏と呼ばれる)」を名乗り、仏教文化・儒教文化を摂取する。それだけでなく、さらに言語も母語を放棄して漢語が採用されていき、服装文化も漢式に改めていったのである。(拙稿:第一章、第五節を参照)

したがって、魏志の曹魏は北朝ではなく、書紀が「郡」と記述したのは北朝に「オベッカ」を使ったわけではない。漢民族・曹魏がもともと「郡」を使用しており、まさしくそれを「引用した」、「盗用した」、今風に言えば「パクった」だけのことである。この点は確認しておく。

 

1-4  壬申の乱と郡評論争の関係とは(2)

 

 さらに、なぜ氏が「郡評」問題を『壬申の乱の大道』の冒頭で語りだしたかについては、その真意は定かではないが、もう一つの理由は、日本書紀を信じる定説派の学者を念頭に置き、『大道』“二〟の最後で次のように述べていることに関があるのだろうか。「中国の史書を問題にしなくても良い。我々は『古事記』、『日本書紀』を元にすればよい。そういうことを書いている学者がいるが、とんでもない。」書紀は疑われなければならない、と。

この点については、その後の『大道』五で、家永三郎氏との論争に関わったことを回想して、「家永氏が天武紀・持統紀は信用できる」と述べたのに対して、古田氏は「日本書紀はすべて信用できない」と応答している。「書紀は信用できない」という一つの事例として「郡」、「評」の問題が語られたのであろうか。(書紀が信用できるか否かという問題は後に7.で改めて触れる。)

壬申の乱に関して言えば、天武紀・持統紀の嘘、例えば「吉野は奈良ではなく吉野ケ里の吉野」などを発見し、その嘘の裏にある真実を発見したと自負する古田氏が、「日本書紀は疑って読む」、「そのような姿勢から隠された真実を抉り出す」という必要性を示そうとしたのではないか。その一例が「郡評」問題であった。そうであったとすれば、古田氏の目論見は大きく外れることになった。「郡」は北朝の専売特許ではなかったからである。

 

1-5  「評」は南朝と関わるのか

 

 さらに古田氏は反対に、中国の南朝は「郡」ではなく「評」を使っていたことを示さなければいけなかった。ヤマト朝廷が「評」を使わず「郡」を使ったことが「北朝の唐に対するオベッカ」であると語るのであれば当然ではないだろうか。南朝は「評」を使っていた、と。しかしそれについては氏によって語られていない。事実として、中国の史書に漢民族の南朝系が「評」を使った形跡はあるのだろうか。しかし、すでに述べたように南朝に引き継がれていく曹魏の魏志も後漢の後漢書も、既に「郡」を使っていたことは間違いのないところである。

 

1-6  「評」の由来とは

 

 今後の検討課題を一つ付け加えると、「評」についてはwikipediaの説として高句麗(『北史』、『隋書』)や新羅(『梁書』)などの朝鮮半島由来の制度という議論がある。新井白石・本居宣長・白鳥倉吉らも「評」は古代朝鮮語に由来すると考えていた。それが事実とすれば、「評」が朝鮮半島からいつ、どのような経緯で日本列島に伝わり定着して、出土する木簡や、古文献にも痕跡をとどめるに至ったのかということは調査・研究されなければならないだろう。そうなれば、「評」と「郡」は中国の南朝と北朝の問題とは無関係ということになろう。「郡」と「評」は中国の王権の問題ではなく、朝鮮半島と日本列島の問題であるかもしれない。木簡からは記紀が執筆された時代よりも古い時代の「評」、そして日本書紀には「郡」。ここにはいかなる問題があるのだろうか。「郡」と「評」の使い分けは今だに謎のままではないだろうか。「評」木簡の出土状況や年代の特定など今後の考古学的な成果を待たれるところである。

 

 

2. 万葉集の歌と前書きについて

『大道』“七”

 

2-1  歌の前書きと史料批判

 

 「歌そのものは第一次資料(直接史料、同時代史料)」であり、「前書きや後書きは第二次史料(間接史料、後代史料)」というのが『古代史の十字路』の立場(東洋書林P8~9)であった。つまり、古田氏によれば、歌が第一次史料であるのに対し、万葉後期に属する大伴家持などを除けば、より古い歌の前書きなどは後代に書き添えられた第二次史料にすぎないと述べていた。言いかえると前書きなどは資料批判抜きに信じることはできないということであった。しかしながら、この『大道』“七”ではそれがかなぐり捨てられている。この歌の前書きに「天皇御製の歌」とある。氏は、何の断りもなくこの歌が天武天皇の歌だと断定している。

 そして、『大乱』でも同様に、いきなりこの歌が天武天皇の歌として議論が始められている(『大乱』P145)。この点は『大道』と同様であった。

天武の時代の万葉歌は新しい時代に属するのだろうか。そうではない。

 

万葉の第二十五歌 

みよしのの みみがのみねに ときなくぞ ゆきはふりける 

まなくぞ あめはふりける そのゆきの ときなきがごと そのあめの 

まなきがごと くまもおちず おもひつつぞこし そのやまみちを

 

 氏の言うように、吉野などの地名は九州の地名だったという説は興味深い。しかし、この歌が天皇の歌であったという保証はない。天武の作歌であったということはなおさら言えない。氏自身が主張をしていたにもかかわらず、前書き批判を遂行しなかった一例である。

 前書き批判を遂行した例である。万葉集第二歌は堂々と舒明天皇の名で載せられているが、『古代史の十字路』ではこの万葉第二歌について古田氏は次のように指摘する。この歌は近畿ヤマトの歌でもないし、舒明天皇の歌でもなく、さらに歌の香具山は大分の鶴見岳だという斬新な、しかし説得力のある解釈を打ち出していた。第二歌は舒明天皇の歌と題されていたにもかかわらず、資料批判の結果、舒明天皇歌ではないとされた。

 ところが第三歌は前書き批判抜きに舒明歌だとされている。

二十五歌に戻って言えば、その前の第七歌から二十歌まで天智天皇歌や額田王歌がそれぞれ幾つか並べられており、さらにそれらに続けて二十一歌に天武天皇名の歌も置かれている。だから二十五歌も天皇御製というだけで天武作であろうと推測されたのであろうか。しかし、第二歌への史料批判精神に比べると、この歌については甘すぎる「史料批判」になっている。

 そもそも万葉歌の配列が現行の万葉集のままで正しいのかという大きな問題がある。氏の万葉歌論の立場としてだが、例え作歌者名が書かれていたとしてもそれを信じることに慎重な古田氏が、なぜ「天皇御製」とだけしか書かれていない第二十五歌を天武天皇の作だと決めることができたのであろう。それゆえ、もしこの歌が天武のものでないとすればこの歌を根拠に氏の展開する「壬申の乱との関り」も希薄になり、氏の主張は懐疑の眼に晒されることになる。

 

2-2  第二十五歌と壬申の乱の関係やいかに

 

 ここで若干うがった見方をするが、この歌が壬申の乱に関わるとすれば、それは古田氏が想定する壬申の乱の重要な地名、「ヨシノ」にあるのだろう。日本書紀の壬申の乱で主要舞台の一つである奈良の「吉野」、持統紀に三十一回も登場する「吉野」行幸、そして氏のキーとなる場所「吉野」ケ里。この三つの「吉野(ヨシノ)」が氏の頭の中で連想的に結合された。そして佐賀の「吉野ケ里」が壬申の乱の最も重要な裏舞台、あるいは天武と郭務悰による密約の場になったのである。

 私の推理が当たっているか否かはあまり重要ではない。後に、4の『大道』“七”で述べるように郭務悰ら唐軍は筑紫に来ていないというのが私の見解であるからだ。天武と郭務悰との密約などは存在しえない、というのが私の見方である。日本書紀とそれに依拠した古田氏の壬申の乱についての構想はどちらにしても端から成立していないのである。

 

 実際問題として、この歌と壬申の乱が重要な関わりを持つなどとは他の誰も想像できないであろう。またこの歌の作歌者は様々に考えられる。九州倭国の王の歌であったかもしれない。またはその官人、あるいは一般の人民であるかもしれない。あるいは作歌者はヤマトの大王、豪族、一般庶民であったかもしれない。あるいは東国の人であったかもしれない。不明瞭である。しかし、いや、だから、というべきであろうか。この歌は不明瞭ゆえに歴史を生き延びてきたとも言えるであろう。書紀の「万世一系論」の論旨に合わない内容で、しかも具体性を帯びた出来事が歌に謳われていたとしたら、闇に葬られてしまったかもしれないからである。

 いずれにしても私は古田氏の『古代史の十字路』における歌論に強く魅了されていただけに、ここでの氏の歌論には残念な思いが強く残るのである。

 

 

3. 九州一元論への道

 九州倭国とヤマト王権の関係 舒明=「中皇命の家来」という発想法

『大道』“三〟

 

3-1  前書きへの資料批判問題再び

 

万葉集巻1 三番歌

〔前書き〕天皇、宇智の野に、遊獮したまう時、中皇尊が間人連老をして獻らしめたまう歌

 

やすみしし わごおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには 

いよりたたしし みとらしの あづさのゆみの かなはずの おとすなり 

あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの 

あづさのゆみの かなはずの おとすなり 

           (古田氏は「かな」を「なか」とする)

 

 ここでの議論もまた歌から始められている。日本書紀以外の壬申の乱の資料がいかに少ないかを物語っている。私ならばここで「資料不足につき壬申の乱についての探求は困難」ということで断念するところを、古田氏はさらに「壬申の乱の真実」に向かっていく。前書きにある天皇は唐突に舒明天皇だと、再びここでも指定されている。というのもこの歌の直前の第二歌が舒明天皇の歌であったからである。その流れでこの歌に登場する天皇は舒明天皇だと考えられたのであろう。同じ天皇歌がひとまとまりにされているのだろう、と。いずれにしても、前書きへの資料批判が無いことはここでも氏自身の原則に反することになる。

 さらに、私にはこの歌の解釈はできないのだが、少なくともこの歌は舒明天皇の時代のものとすれば、壬申の乱とは全く関係が無い。壬申の乱は天武紀の事件である。氏はなぜ壬申の乱を論じる『大道』で本歌について論じたのであろうか。

 

 

3-2  三番歌が取り上げられた理由

 

 氏は九州倭国を本家、近畿天皇家を分家とする考えを持っていた。その点をここでも再確認しようという意図があったのかもしれない。つまり、この歌の中の登場人物の身分、位取りに意味を持たせようとしていることは明らかであろう。

 この歌の登場人物は古田氏の解釈によれば四人である。

一人は天皇、つまり舒明天皇、歌の中では大王・おおきみ。

二人目は、中皇命(なかつすめらみこと)、天皇が仕える九州倭国の天子、歌の中では朝(=「あした」ではなく、帝・みかど)。

三人目は、中皇命の后、歌の中では夕(「ゆうべ」ではなく「后きさき」)。

そして四人目は、間人連老(はしひとのむらじおゆ)、大王・天皇に仕え、歌の中では「我」・「わご」として登場する。

 以上が氏の解釈による登場人物と身分である。

しかし、万葉が編纂された時代は天皇の地位が強固に確立され始めた時代の八世紀後半である。つまり天皇が至高の存在と考えられるべき時代に「天皇、おおきみ=大王」の上位に「朝(みかど)=皇命(すめあらみこと)」が存在するという歌が堂々と人目に付く形で残ることはないであろう。これが氏の解釈についての疑問の一つである。

 さらに、歌の逐語訳は私にはできないが、登場人物は次の三人も可能という解釈も成り立だろう。

一人は大王(何天皇なのかは不明)。

二人目はその妃・「中皇命」。一般には、「中皇命は皇后・大王の后」と解する説もある。その解釈の方がより無難だと思われる。この方が、氏が心配した、九州倭国の天子=中皇命が老に作歌を依頼するためだけでここに登場するという事態を防ぐことができる上に、さらに雌雄両性を具有した人物が歌に登場することも回避できる。また、登場人物を減らして、歌の煩雑さを回避することもできる。

そして三人目が作歌者の間人連老。彼は歌の名人だったのであろう。

 また、氏の語るように「中皇命」の「中」が地名で「那珂川・那珂郡の那珂」だとすると九州王朝の皇命に相応しい広大さを持っていない。特定の地域に限定されてしまっている。まるで、倭国の女王=卑弥呼が「邪馬壹国の女王」、日本の首相が「東京の首相」とされているような不自然さである。

 この歌からはいつの時代かは特定できないが、ある天皇ないし王がいてその妃が官人・歌人の間人連老に歌を詠ませたというシチュエーションは考えられる。以上、九州王朝の天子はこの歌には登場しない方が無難ではないか。

 先にも述べたように、この歌の正しい解釈は不明であるが、古田氏が「中皇命」を「九州王朝の天子」と解釈することで九州倭国の天子がヤマトの天皇、ここでは舒明天皇を家来にするという関係を導き出そうとする意図は明確に読み取ることができる。

 

 

3-3  九州倭国の天子と近畿の天皇

     多利思北孤と用明

 

 さて、ここでの「中皇命と舒明天皇」の関係は例の「多利思北孤と用明天皇」の関係とそっくりである。氏がこの歌に見たもの、それは「九州の天子とヤマトの天皇」の関係性が歴史資料として万葉歌という形で文字に残されていた、ということであったにちがいない。

 すでに別のところで述べたことであるが、定説によっては語られることがほとんどない問題でもあり、反定説としての古田氏が取り挙げながら氏が大きな誤解をしていたために、これまでは正しい解釈が行われたことがほとんど無かった新唐書の「用明、目多利思北孤」という一文についてである。少し長くなるが、あえて振り返っておこう。

 古田氏の解釈では、「目」は「サッカ」あるいは「サカン」と読み、意味は「補佐官」とか「家来」だという。すると全体の意味は「用明は多利思北孤の家来だ」という意味になるとされる。

 しかし、この解釈には問題が二つある。まず、上の文は古田氏のように「目」を補佐官・家来」と解釈できたとしても、「用明、副官・家来は多利思北孤である」と読むほうが自然である。氏は用明を九州倭国王の家来と読みたいという期待・願望があったためにこの文の意味を取り違えていたと言えないだろうか。古田氏の読み方には無理があった。

 さらに、新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」(これをⒶとする)の一文には唐関係の史書類などに類似表現が存在していたが、氏の解釈はこれらの異本の文の読み方に照らしてみても無理がある。以下は、異本からのものである。

①北宋版『通典』               倭王姓阿毎、名自多利思北孤

②『唐類函』所蔵の『通典』          倭王姓阿毎、名目多利思北孤 

③松下見林『異称日本伝』所載の『通典』    倭王姓阿毎、名目多利思北孤

④松下見林『異称日本伝』所載の『通典』    倭王姓阿毎、名曰多利思北孤

⑤直隋開皇末、始與中国通『新唐書』      用明、亦曰目多利思北孤      

 

これらの表現は、次の隋書の一文を元にしている可能性がある。

隋書開皇20年                俀王姓阿毎、字多利思北孤 

                      (これをⒷとする)    

  

 Ⓑには阿毎という人と、それとは異なる多利思北孤の2人の人間がいるわけではない。同一人物の「姓」と「字」に他ならない。意味は「俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤である」と容易に読むことができる。

 上の①、②、③、④は「俀(倭)王姓阿毎」が共通しているので「隋書系の資料」と名付けてもよいであろう。そして①から④のどれも、同一人物の姓と字(あざな)であると考えることができる。

ところで、①から④までには文字の違いがある。①は「自」、②と③は「目」、④は「曰」の部分である。どれも文字が似ている。ひょっとしたら、いずれかが正しく、いずれかが誤りだったのだろうか。そう考える研究者は少なからずいる。中国の史書には誤字などの間違いが多い。ここでもそのたぐいの誤字が現れたに違いない、と。ここでの場合は、例えば「目」が正しいと考え、「目」を「「サカン(家来・副官)」と読んでしまうと他の「自」、「曰」は誤りと捉えることになる。字の間違えは正しようがない場合が多い。特に固有名詞などはそうであろう。新唐書の天皇名では、敏達天皇が「海達」になるなどの例がある。持統天皇も「総持」とするなどの誤りが多い。同じ持統天皇が宋史では「持総」と表記されたりもする。もし、中国側が日本書紀にあるこれらの名を知らなければ、「そんな人物がいるのか」、「誰だろう」、ということにはなる。実際、知らなかったであろう。しかし、それでも済ませてしまうことができる。中国の官人たちにとって、日本の過去の天皇名はさほど重要な関心事ではなかったであろう。しかも、天皇の漢風諡号などは8世紀後半以降になってからできたものである。したがって、それ以前の敏達、持統などの天皇名は中国側にその後伝えられたのであろう。おそらく一気に。同時代を生きた天皇の名前ではないのであるから、仮に字の間違いがあったとしても、中国は「そういう名の天皇がいたのか」で済ませることはできる。文章の流れは掴むことができるからである。

 おそらく科挙に合格した中国の官人たちは日本の受験などには合格できないであろう。「一字一句正確に」というのが日本の試験の性格である。日本人にとっては、特に天皇の名前を間違えることなど、試験の答案でない場合でも決して許されるものではない。「常識」の欠如だと言われてしまうであろう。そして、日本の優れた古代史研究者たちは、中国の史書の誤字に対して寛大ではなかった。「こいつらはこんな字の間違いを犯している。きっと、魏志の「南」も「東」の間違いだったのではないか。方角すら理解できない連中だ。誤字や間違いが見つかったらドンドン訂正しよう!」このような雰囲気を研究者たちの間に醸成したので

はないだろうか。そして、「巧みな修正ができる者が優れた歴史家である」、という環境まで生み出したのではないだろうか。

 この点にさらに付言すれば、定説が中国の史書の文字訂正を平気で行う風潮が作り出されたのは、新唐書や宋史などの天皇名の誤字の多さが最大の原因、あるいは遠因かもしれない。これが、古代史研究者たちの誤字探しに始まり、さらに中国人は方向感覚も持っていないなど、明らかに内容までにも手を加え改変するところまで進む。「南」と東」のように誤字ではないものまでも変更する、しかも自分の都合に合わせた「我田引水的」文字改訂が行われる風潮を創り出したのではないだろうか。これでは史資料の意味をなくしてしまうことになる。

  

 

3-4  「自」、「目」、「曰」の読みと意味

 

 本題に帰ろう。しかしである。もし字の間違いがあって、そしてそれが原因で文章の意味が取れなかったとする。このとき、科挙に合格した中国の優れた官人たちはそれを放置したのであろうか。ここでの問題に立ち返って考えてみよう。①から④のすべての文書は中国の史官たちにとっては意味が取れるものだったのではないか、と。だから、「自」、「目」、「曰」というように字の違いがあっても放置され、歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。これらの文字の違いは固有名詞の場合とは意味あいが違う。したがって、①から④までは、これらの字のままで意味が分かるように読まなければいけないだろう。新唐書の天皇名には誤字が多いとして片づけられて済む問題ではない、と。そして、字の違いがあったとしても、意味の通るものとして理解すること、それが私たちの果たすべき責務になる。

 もし、古田氏がこれらの異本の存在を知り、それらの文字を替えずに解釈するとしたならば、氏はどのように対処したであろうか。第一次資料である中国の史書は理由もなく文字を変更してはならない、原文のままに読む。これが古田氏の信念であり、方法であった。氏の回答は分からないが、氏の提示した方法で考えてみよう。

すると、①から④のいずれも文字を変更せずに意味が理解できるのである。次のような読み方と意味になる。

 

①は「倭王の姓は阿毎、名は自から多利思北孤とする」

②、③は「目」を「もくする」と読み、意味は「見なす」である。「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤だと目する(見なす)」

④は「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤と曰う」

よって、「自」、「目」、「曰」はどの字も間違いではなかったし、読解可能であった。だから、これらすべての文字が歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。

したがって、A「用明、目多利思北孤」は「用明を多利思北孤と見なす、と曰う」、

⑤の「用明、亦曰目多利思北孤」は、「用明をまた他利思北孤と見なすと、曰う」、という意味

になる。

  

 

3-5  「唐書的状況」

 

 ところで、Aや⑤における漢風諡号の「用明」などと回答できたのは、漢風諡号がつくられた八世紀後半以降ということになる。咸亨(かんこう)元年、670年の時点でこのような回答ができるわけはない。また、この670年の時点で「日本(国)伝」に王の名が記されていなかったということは、倭風諡号さえでき上っていなかったとみなすしかないだろう。したがって670年時点での唐と日本国の使者の会話は奇妙なものとなっただろうと推測できる。

中国側は九州倭国の王の名前は知っていたはずだ。特に多利思北孤のことはよく知っていた。隋書で「対等外交」を仕掛けてきた人物で隋書にも載っているが、その隋書を書いたのは唐自身だからである。しかし、唐は歴代の日本の王については知らない。その様な背景があってここでの会話は行われているのであろう。日本国のことなど何も分かっていなかったのである。そして日本国の使者は唐の発する質問に対して670年時点では満足に回答ができなかった。したがってそのことも唐に疑われる原因になったと思われる。唐は多利思北孤はどの時代の誰の次、誰の前の王であったかなども知りたがったのであろう。どうも倭国の王の系列とは違うようだ。国土の位置や広さなども随分違う。そのような感覚を唐が抱いたのが咸亨元年、670年の時点での状況であったのである。私は、この状況と日本(国)伝において日本国の使者の発言を「唐が疑う」という状況とを合わせて「唐書的状況」と名付ける。

そして八世紀後半以降のいずれかの時期に、日本国の正規の遣唐使が「多利思北孤は用明に当たる、用明と見なす」と回答し、それが新唐書日本伝に記載されたのであろう。

 古田氏の構想する「中皇命と舒明天皇」の関係性は「多利思北孤と用明天皇」と同様の関係性の第二弾である。万葉歌の中に文字資料として「九州倭国の天子とヤマトの天皇の主従関係」の証拠を見つけた、これが氏の解釈の根底にあったと思われる。九州が本家、ヤマトは分家という想定、この枠の中から出てきたのが氏による「目多利思北孤」の読みと意味の解釈であった。そのような誤りの原因は、氏が旧・新唐書の「唐書的状況」を把握できていなかったことに起因していると考える次第である。この同じ「唐書的状況」を把握できていなかったことが原因で、古田氏がヤマト王権が中国といつから遣使関係を結びはじめたのかを把握できていなかった点については、拙稿の「第八章 コラム6」で述べている。

 

 

4.  唐軍・郭務悰は筑紫に来たのか

書紀の郭務悰と古田氏の『大道』、『大乱』における郭務悰 

『大道』“七〟

 

 日本書紀と古田氏の壬申の乱についての最大の疑問点である。それは、郭務悰は白村江戦後に筑紫に来ていたのか、さらに郭務悰らが筑紫に来ていた時期の前後に壬申の乱が起こったと言えるのであろうか、という点である。いや、書紀や古田氏にとどまらない。ほとんどの古代史研究者は、「郭務悰ら」の筑紫への到来を前提にして議論を展開している。定説、非定説を問わず、一種の「常識」になっているようだ。この点、右に倣えで「日本書紀を信じている」。日本書紀の魔力であろうか。したがってこう言い換えよう。この「郭務悰らが白村江戦後に来筑している」という「常識」は歴史の真実であろうか、と。定説の元となっている日本書紀と、非定説の代表、古田氏の見解を検討することによって考察してみたい。

 

4-1 日本書紀の郭務悰

 

 日本書紀によると、天智天皇の時代に白村江戦に敗北しその後、郭務悰らの筑紫への派遣(が記されている。戦勝国としての軍団の派遣であろうか。二千人が二回などの、合計六回、筑紫に来ている。以下、これらを来筑と呼ぶ。さらに、壬申の乱の直前に当たる、天智四年十二月、天智天皇が崩御する。そして、天武紀元年春三月十八日、郭務悰は筑紫に滞在していた。「朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇(天智)のお崩れになったことを郭務悰らに告げさせた」、と。ここに言う朝廷とは大友皇子の居る近江朝廷のことである。そしてこの年の五月三十日には郭務悰らは帰途に就きその後、郭務悰記事は無くなる。ここから唐軍全体が壬申の乱以前に筑紫から撤退したという説も生まれることになる。

 

 ところで、まず日本書紀の郭務悰来筑は不自然極まりない感覚が漂う。日本書紀の立場は、白村江に参戦したのはヤマト王権だったはずだ。何故、郭務悰らはヤマトや近江の近くではなく、筑紫で止まったのだろうか。もし、郭務悰の来筑の目的が戦勝国として敗者であるヤマト王権の制覇であり、さらに戦後処理のためにヤマト王権の政治責任者と面会する必要がある。そのためには政治の中心地を訪れなければならないはずだ。これではまるで、第二次大戦後のマッカーサーの進駐軍が、札幌に来た、仙台に来た、名古屋に来たというのと同様に不自然だ。しかも、近代、現代のように交通は簡便ではない。数十年後の遣唐使記事でさえ、例えば多治比真人は九州(大

宰府か)と奈良の間の移動に、約1カ月と20日ほどかけている。粟田真人は、休息もあったのであろうか、さらに移動に日数をかけている。しかも、瀬戸内海を航海する熟達者が先導した上での日数であっただろう。唐が瀬戸内海を何日で移動できるというのだろうか。筑紫とヤマトでは隔絶しすぎている。

 そして、郭務悰の訪問地が筑紫であったとすれば、近畿中心の王権の立場からすると、列島の政治の中心が制圧されたとはとても言えないし、政治的責任者、首脳たちが郭務悰に面会する必要すらないことになる。したがって、郭務悰の来筑はもともと意味をなしていない。これは書紀執筆者たちが、白村江戦は九州倭国による戦争であったことを自覚しており、図らずも唐軍を筑紫までにとどめてしまったのであろうか。何とも間の抜けた話ではないか。

 それはおくとして、本題に戻る。まず、日本書紀を信じる限り、郭務悰らは壬申の乱の時点では帰国しており、筑紫にはいない。したがって、郭務悰らは壬申の乱を直接、体験はできなかったことになる。とは言っても次のように言える。「郭務悰らは日本列島については九州の状況から近江朝廷までの地理的状況と日本列島の政治的状況は把握できていた」ことになる、と。郭務悰らは壬申の乱の直前までは列島に陣を張っていた、さらに近江朝廷の天智天皇との一定の交流があり、さらに大友皇子さえも郭務悰に天智の死亡報告をしているからである。

 しかし、これは先に述べた、日本国伝の唐は日本列島内の状況を十分把握できていなかったこと、つまり「唐書的状況」とは矛盾することになる。したがって、「唐書的状況」を前提として考えるならば、郭務悰が来筑したということは史実とは認められないことになる。

 

 

4-2 古田氏の郭務悰

 

 古田氏の見解は書紀のこの矛盾をさらに大きくする。書紀以上のことを語ってしまっているからだ。一つは天武元年五月三十日の「郭務悰らは帰途に就く」は唐軍全体の撤退を意味しない。唐軍は変わらず筑紫を占領していたという立場を採る。

 氏は「わたしには中国(唐)人という『国際場裏の達人』が“あとのことを”何も考えず、『空手』でただ帰国してゆく。それほど“無邪気”で“無計画”な人々であるとは、到底思うことができないのである」と語る。第二次世界大戦後の米軍と同じで戦勝国としての優位性を簡単に放棄するほど大国は決して甘くはないとする(『大乱』 P75~76)。

すると、唐軍は壬申の乱の時点でも筑紫に駐留していたことになる。だから氏は言う。郭務悰らは「『倭国=九州』内の「国内情勢について十二分にキャッチしていた」、と。

 そして氏はさらに第二に天智と郭務悰、両者の交友関係をさらに書紀以上に強調している。古田氏にとって倭京は筑紫である。書紀によると天智は倭京に出向いたとされているので、天智と郭務悰は筑紫で直接会って親交を深めていた可能性があると指摘する。だから、郭務悰が天智崩御に際して木彫りの阿弥陀仏を贈ったのだ、と。さらに『大道』では、倭国敗戦の原因が近畿天皇家(天智天皇派)が唐と内応していた可能性があるとことにあるのではないか、したがって郭務悰としては「近畿天皇家に足を向けては寝れない」と感謝の念を抱いていたとまで語っている(『大道』“追加・懇親会〟の最後)。天智との深い交流を通して郭務悰らは九州倭国だけではなく、ここから近江までの政治状況を「キャッチしていた」ことになるのである。書紀の描く以上に深くかつ正確に。

 その上さらに第三に、氏によると郭務悰が近江朝廷への反乱を企図する天武の側とも交友関係を結んでいたということにより、列島内の政治状況を「十二分どころでなく十三分、十四分、あるいはそれ以上にクリアーにキャッチしていた」という状況が生み出されていたことになる。郭務悰らがこれらの事態を唐に報告しなかったとすれば話は別だが、それはありえない。すると、これは「唐書的状況」とはより一層、鋭く対立し矛盾を深めることになってしまうのである。郭務悰が列島内の諸勢力と交流を深めたと氏が語れば語るほどこの矛盾はますます鋭くなっていくと言えよう。

 以上から、私は郭務悰が列島には来ていなかったと考える。すると、日本書紀は郭務悰の来筑を記したことで歴史を創作したのだが、さらに古田氏は書紀を信じた上にさらに新たな創作物を付け加えてしまったという結論を導かざるを得ないことになる。

 

 

4-3 外交問題になった壬申の乱

 

 そして、書紀も古田氏も壬申の乱の前後の時期に郭務悰らの唐軍を日本列島に滞在させてくれたお蔭で、内政問題であるはずの壬申の乱を中国との外交問題にもしてしまったと言える。このことが私にわずかではあるが「壬申の乱」について語る機会を与えてくれることになった。そして日本書紀の弱点、アキレス腱は外交問題である。中国の史書が書紀をチェックする役割を果たしてくれるからであるが、このチェック機能は極めて有効だということがこれまでの拙稿の幾つかで証明されてきたのである。

 

 

4-4  「唐書的状況」と古田氏の唐書類への誤解

 

 私は、唐が日本の国内情勢を全く把握できていなかったことを旧・新唐書日本(国)伝から読み取り、拙稿「旧唐書と新唐書の間」にまとめた。要点はこうである。例えば、旧唐書では日本国は「旧小国、倭国の地を併せた」、つまり日本国が倭を併呑したのだと言われている。これに対して新唐書では「倭が日本を併せるところとなる」、と言われている。これらの真逆な主張などを含む日本からの使者が語ることが、「・・・と言う」、「・・・と云う」、「・・・と曰う」などと、伝聞調で、しかも並列的・羅列的に記述されていた。そして日本国人の発言のどれも真実としては把握できない、したがってこれらの発言を「唐は疑う」と記していたのである。これは唐が日本列島内の状況把握がほとんどできていなかったことを示しており、それが旧・新唐書の語る真実であった。このような形でも「唐書的状況」は現れている。

しかし、古田氏は旧唐書の日本国伝を根拠にして、九州倭国が「自ら日本国へと名を変えた」という一文のみを取り出して「それが歴史の真実と合致している」、とまで述べてしまっていた(『失われた九州王朝』 角川文庫1979年 P.359から361)。日本国伝に九州倭国の人間が登場して発言することは無いし、ヤマト王権の人間が九州倭国の代弁をしてくれるはずもない。古田氏の旧・新唐書日本(国)伝に対する誤読・誤解の影響がここにも及んでいると言わざるを得ない。

 

 

4-5  『共同研究』王小甫氏の郭務悰来筑への見方

 

 さて、『共同研究』の王小甫氏も旧・新唐書の上記の表現に着目し、唐朝中国の倭国についての理解には「限界があった」と認めたうえで、さらに唐が郭務悰らを日本に派遣することが不可能であったと述べ、その理由を三つ挙げている。引用は、『「日中歴史共同研究」報告書1』 勉製出版からのものである。以下、『共同研究』とする。

 ①まず、唐書にはその記録がないことが挙げられている。白村江という大きな出来事に関わる問題であるから、記事がないということは大問題であろう。当然の指摘である。唐が倭国の状況を把握できていないこともあり、「倭国を経略できるとは考えていなかった」。(『共同研究』P136)

 ②白村江の後、唐と新羅は対高句麗戦を意識しており、倭国のことに対応することなど考えることができなかった(『共同研究』P136)。私見を加えれば、唐の前身の隋が滅んだ一要因は、高句麗攻略不成功にあったという点を忘れてはならないであろう。新羅と手を組んでいる白村江後の状況は唐にとって高句麗を打倒する絶好のチャンスであったと言えよう。

 ③さらに、668年に対高句麗戦勝利後には高句麗の領地分割などをめぐって、今度は新羅との新たな争い・葛藤が起こることになり、倭国への対応は最重要課題にならないままであった、などと述べている。(『共同研究』P139)

これらの認識は大変重要である。

 

 

4-6  本節のまとめ:壬申の乱についての古田説

 

 以上、日本書紀と古田氏による郭務悰来筑に基づくストーリーはほとんど成り立たないことになる。さらに、当然のことながら、日本書紀の郭務悰らの来筑記事も実態の無いものになるばかりでなく、定説によって語られている、郭務悰来筑に合わせて「慌てて築いたと一般的には理解されている対唐防衛施設」としての大野城、水城などの存在理由についても再考を迫られることになるであろう。この問題について言えば、これらの施設は古田氏の言うように、白村江戦を準備するにあたって九州倭国によって築造された防衛施設であったとも考えられるし、また白村江とは別の理由によって築造された可能性も考えられる。

 そしてこの問題を考えるときには、特にこれらの施設の築造年代の特定が重要である。これによって築造者や築造目的も変わってくることになるだろう。考古学の進展に期待したい。

 

 

5. 郭務悰と天智派および天武派の関係

『大道』“追加・懇親会〟

 

 以下は、郭務悰らの唐軍が来筑していなかったとしたら全くの無駄な議論になってしまう。そいう類の話である。壬申の乱が事実あったとして、書紀が語るような出来事として実在していたしていたと考えてみても古田氏の説には不合理がある。

氏によれば、先にも触れたように、郭務悰は天智と倭京(古田説では筑紫)で会って親交を深めていた。だから、天智天皇が亡くなったときに郭務悰は木彫りの阿弥陀仏を贈っている。(『大道』“七〟)

 氏は言う。書紀を信じる限り、天智は郭務悰に会っていない。しかし、天智は倭京には行っている。この倭京が筑紫であるならば、このときに会っている可能性はある。「やはり二人は会っていて深い交わりを生じていたから、冥福を祈る阿弥陀仏を作った。そう考えるのが人間の情として自然である」、と。

 また、先に触れたように『大道』(追加・懇親会)では、倭国敗戦の原因が近畿天皇家(天智天皇派)が唐と内応していたことにあるのではないか、よって郭務悰としては「近畿天皇家に足を向けては寝れない」とまで氏は語り、郭務悰と天智派との友誼関係を述べていた。また日本書紀でも大友皇子は天智天皇が亡くなったことを筑紫の郭務悰に直接、報告したことになっていた(天武紀元年3月18日)。

 ところが他方で同じ郭務悰は反天智派である天武が天智の後継者の大友皇子に対して反乱を起こすことを了承し「ヨシ」と言ったとしている。先の『大道』“七〟で取り上げた第二十五歌が、天武の歌であり、天武が郭務悰から天智後継者に対する反乱を認める暗号的な歌だと言う。この郭務悰の節操のない態度、矛盾した態度をどのように説明し、正当化できるのか。このような郭務悰の振る舞いは「人間の情として自然」ではない。政治家が得意とする二枚舌やご都合主義として済ませるのであろうか。

  

 

6. 筑紫君薩夜麻と大分君恵反

『大道』“追加・懇親会〟

 

6-1  大分君恵反の介在とは

 

 『大道』と『大乱』の間には若干の気になる違いがある。それは一つの「問題」といってもよいかもしれない。『大道』では天武は「淑人(よきひと)」の郭務悰に会いに行き、近江朝廷に対する戦闘行為について「ヨシ」という返事をもらっている。これに対して『大乱』では、天武が郭務悰に「ヨシ」の返事をもらうに先立ち、大分君恵尺(おおきたのきみえさか)が重要な役割を果たしているような形に変更されている。

 大分君恵反とは何者か。日本書紀に描かれた大分君恵反はさほど重要な役割を担ったわけでもない。まず、天武の指令で駅鈴を求めて動くために五回だけ名が出ている(天武紀元年6月24日)。そしてあと一回は高市皇子の供をして天武のもとに駆け付けた場面だけである(同年同月26日)。壬申の乱の主役は明らかに高市皇子であった。恵反は特に目立った活躍もしていない。

 ところが古田氏によると、大分君恵反について「彼が壬申の乱で活躍していることは有名」だとされている。何故、彼の存在がクローズアップされなければならないのか。『大乱』における恵反についての古田氏の筆致は一種、ドラマティックな小説のような響きをもつ。以下は古田氏の描いた恵反のストーリーに関する私の味気無い箇条書きである。(『大乱』P194~195より)

・大分君恵反の本拠は「大分・おおいた」

・九州の陸地とともに「九州内の水軍」それも瀬戸内海の西域が彼の勢力圏内に

入っていた

・白村江に参戦した他の倭国の王たちとは異なり、天智や鎌足らに同調して対唐戦闘態勢から離脱し、参戦しなかった。よって近畿に出兵するだけの「能力」を所有していた

・天武は、有明海に展開する唐の一大船団群とそれを“補佐”する大分君恵反配下の船団を眼下に見ながら、『列島内、新唐勢力』の筆頭が、この大分君恵反であることを確認

・これにより天武は唐軍の力を借りる決意をする

・その上で、天武は郭務悰から「ヨシ」の一言を得た

・この唐軍・恵反の協力を得た天武は「虎が翼を得た」と評されることになる

 

 日本書紀の恵反と古田氏の『大乱』における恵反の違いの大きさは明らかである。これは何を意味するのであろうか。恵反が強大な戦力を持っていたなどということは何を根拠に語ることができるのだろうか。古田氏は資料があれば提示しなければいけなかったであろう。

 大分君恵反が強大な勢力を保持するという構想が描けた理由は、単に恵反が大分出身の一王侯であったというだけのことのように見える。「おおいたのきみ」。この名前に飛びついた。この点では書紀の記載を信じた。氏は書紀を疑っていない。しかし他方で、恵反が壬申の乱で重要な役割を担ったにもかかわらず、それを書紀は隠した。だから氏は書紀をこの意味で疑ったと考えるのであろうか。しかし、これは本当に書紀を疑ったと言えない。書紀の登場人物の「実在」については信じていると言える、そして書紀のみに書かれた人物の「名前」を都合よく使用した。

 同様のことが書紀のみに登場する筑紫君薩夜麻についても言える。彼が九州王朝の天子にまで格上げされたのも「筑紫の君」が根拠になっているだけであっただろう。

 

 

6-2 九州王朝の実在と九州王朝一元論

 

 私は九州王朝が存在したのは史実だと考えている。その根拠を簡単に言えば、倭国は卑弥呼以来、帯方郡(魏志・梁書・隋書)・楽浪郡(後漢書)から万二千里、京師から万四千里(旧唐書)のところにある。郡から七千里で狗邪韓国、そこから対馬・壱岐・松浦まで千里ずつで都合三千里。残り陸上行程で二千里。どう頑張っても九州を出ることはできない。また、どの史書でも倭国は新羅・百済から東南大海中に在る。方角も九州方向である。そして、中心王朝の移動は、中国の史書に照らし合わせる限り、ヤマト朝廷の確立までは行われていない。初めて中国にヤマトの王権が正式の王権として承認されたのは、大宝三年(703年)に遣唐使粟田真人が唐に到着して以降のことであった。九州王朝の実存在は、中国の史書の保証だけで充分である。(その詳細については、別稿「万二千里の真実」で語る予定である。)

 しかし、九州王朝が実在したということと「大分君恵反の影響力の大きさ」などを通して、九州王朝が白村江以降も長く影響力を保持し続けるということ、あるいはその後のヤマト朝廷の確立に重要な影響を残すということとは別のことであると考えている。古田氏にとって『失われた九州王朝』における、九州王朝の実在と「滅亡」説では何が不足であったのだろうか。

 

 

7.古田氏による「日本書紀への懐疑」の意味 

『大道』“五”

 

7.1  日本書紀を信じることと疑うこと

 

 冒頭で述べたように、古田氏は壬申の乱については触れない方がよかったのではないだろうか。氏は、天武紀における壬申の乱が異常に詳しすぎるので逆に、「うっかり手を出すと大やけどをする。やばい!警戒心を深くずっともっていた」と語っていた(『大道』“追加・懇親会〟の最後)。氏はこの意味で日本書紀を疑っている。そこで、家永三郎氏と議論したことを回顧して氏は書いている。

 家永:「天武紀・持統紀の書紀は信用できる」

 古田:「日本書紀は天武紀・持統紀も信用できない」

 

 しかし氏は、史資料が無いから万葉歌に頼りつつ、また「信用できない」と語った日本書紀の天武紀を最大の資料として『壬申の乱の大道』を講演し、『壬申大乱』を執筆してしまった。そして、唐書類の誤読から「大やけどをする危険を抱え込んでしまった」のではないだろうか。氏は、自身の構想力によって壮大なストーリーを創作してしまった。日本書紀の何かを信じない限り、氏は壬申の乱については何も語れなかったはずである。氏は日本書紀の何がしかは信じたのである。日本書紀を批判的に摂取すれば資料はそろう、と氏は考えたのであろうか。

 『共同研究』の王氏も言う。日本書紀に書かれていたとしても、「総じて、唐朝中国の史籍に全く記載がないということを考えると、唐朝と倭国の関係における重要な問題について倭(注)の一方的な言葉だけを鵜呑みにすることはできない」(『共同研究』P136)、と。私はこれに賛成する。結局、古田氏は日本書紀に基づいて壬申の乱について考察してしまった。

    (注)ここでの「倭」は日本書紀を書いたヤマト朝廷のことである。

       九州倭国ではない。この点など、『共同研究』の問題点については、

       本稿の最後で私の見解を述べる。

 

 私は、「日本書紀が信用できない」、と語る日本史研究者の主張も基本的に信用していない。そのような研究者たちも書紀の何らかの記事に基づいて議論を行っているからである。書紀のある部分を史実と認定することで議論が展開されていくからだ。そういう論者たちの書物を読むとき、「そこを疑うのに、これは信じられるのか!?」という驚きの連続を私は体験してきた。「そこを疑う理由」が示されない場合もあるが、それ以上に「ここを信じる理由」が明示されることはさらに少ない。

 古田氏の場合には、書紀の中に九州王朝の事績が発見されそれによって整合的なストーリーが描ければ、日本書紀は立派な史資料になると考えている。その代表的先行例が景行紀の九州征討譚であり、さらにまたその第二弾が壬申の乱であったと言えそうである。

 私は、大化の改新であれ壬申の乱であれ、「日本書紀にしか書かれていない事項、その中の内政問題については評価を下すことはできない」という態度を貫く。

 

 

7.2 古田氏が日本書紀を何らかの形で信じていること

 

「壬申の乱」というテーマにおける例を挙げる。

 1.「壬申の乱があった」ことを信じている

 2.しかも、「天智天皇派と天武天皇派の争いである」ことも信じている

 3.「郭務悰ら唐軍が来筑していた」ことも信じている

 4.場所はどこであれ、書紀に書かれた「吉野」を信じている

 5.持統(実は天武)の「吉野行幸が三十一回であること」も信じている

 6.書紀にのみ登場する「筑紫君薩夜麻」の存在を認め、しかも九州倭国の天子と

   しての地位を与えている。また書紀にのみ登場する「大分君恵反の存在」を活

   用している

 

 壬申の乱のような、何がしかの戦闘状況が史実として存在していたとして、古田氏とは異なるストーリーはいかようにでも描くことができるだろう。その例である。

・近畿の諸豪族間の最後の主導権争いの様子をモデルにしたもの

その中の二大勢力が近江とヤマト(飛鳥など)を拠点にして争った

・あるいは、衰退してゆく九州倭国の残存勢力と、ヤマトの諸王の争いであった

 戦闘の場所は中国地方であった

・筑紫、備前、ヤマト、美濃、越前などもっと広範囲の諸豪族が参戦、相互に敵対

 し、あるいは糾合し、最終的にヤマトが勝ち残った・・・など

 

 

最後に  

いくつかの関連事項

 

最後に -1  続日本紀における壬申の乱

 

 私は、続日本紀は基本的に史資料としてより信用している。実存在していなかった可能性が大きいヤマトタケル・聖徳太子などのような人物が記述されることはなかったであろう。さらに、奈良・平安時代には、その有効な史料の数や質は限られているとはいえ、並存する文献資料が存在するようになり、相互にチェックできるようになるからである。

 しかし、他方で続日本紀でも大化の改新や壬申の乱の功績による褒賞などの記事が見受けられるが、そのためこれらの書紀における出来事が歴史上の実在の出来事であったかのように見る向きもある。しかし、わたしはこれらの出来事については疑いの目を向けている。続日本紀はあからさまに日本書紀の記述内容を否定できる立場にはない。日本書紀こそ天皇家の「万世一系」の路線を敷いた書物であり、奈良・平安王朝の拠って立つ基盤を確立するための絶対不可侵の書だからである。続日本紀に見られる「過去への万世一系」の物語は、書紀を正当化するために必要であり、またそのような記事が度々登場している。また、貴族らの褒賞などについては、奈良朝を支える貴族階級などに栄誉を与え、また彼らの由緒を定める必要があったためであろう。そのため、大化の改新や、また壬申の乱の記事も度々現れるのである。この意味での続日本紀は疑われるべきである。

 とは言え、わたしは学問としての古代史研究の文献資料は日本では続日本紀からではないかと考えている。拙稿第十章の蝦夷論では続日本紀が日本書紀の虚偽性に対するチェック機能を立派に果たしてくれていた。このような役割も続紀には期待できるのである。

 

 

最後に ―2  『日中歴史共同研究』の問題点

 

 ところで、『共同研究』は非常に重要な認識を示しているが、大きな弱点も持っている。

 中国の歴史研究者と日本の歴史研究者の交流がさらに進み、より真実の解明が進むことを期待しつつ、幾つかの問題点を挙げておく。

一つは、「倭国が日本国になった」という前提で話が進められている。

二つは、一と関連するが、倭国と日本国を同一視し、ヤマトの「天皇」、斉明、天智などを倭国の王として語っている。

三つは、日本書紀を信じた記載、大化改新などは書紀に記された事柄が史実であったかのように取り扱われている。

四つは、共同研究に参加した日本側の参加者が定説派のみであったことによる議論の制約があり、このために上記三つの見解についての異論が本書のどこにも展開されていない。

 ここでの問題点を次のようにいうこともできる。中国側の研究者は、倭国や日本国について唐が把握していた事柄については唐書類をもとに語る。逆に、唐が把握できていなかった事柄で、日本書紀のみに書かれたことは、「郭務悰の来筑を除き」、日本書紀や定説派の主張のままに記述している。あるいは、『共同研究』に参加した日本側研究者から主張された事柄に抵触しない範囲での記述が行われている。中国の研究者は、旧・新唐書日本(国)伝が日本の遣使者側から発せられる言葉を真実としては承認していなかったという認識を持っているが、その点を日本側研究者に強く主張する必要があったと思われる。

 

 今後、非定説・反定説の研究者も参加する『共同研究』が行われることを切に希望したい。この『共同研究』の諸議論については稿を改めてさらに検討したい。

 

 

1. はじめに

 

 朝鮮半島の歴史は新羅本紀・百済本紀・高句麗本紀の本紀系、新羅遺事・百済遺事・高句麗遺事の遺事系の2系統がある。しかし、その元の史資料は紛失し後世に復元されたもので、本紀系は1145年、遺事系は1270年~1280年の復元であったと言われている。その際、紛失した史実を中国の史書や日本書紀などに依拠していたと言われているため、同時代史とは言えない弱みを持つ。そこで私は、これまで史資料として参考にする必要はないという「直感」により軽視してきた。特に、白村江戦前後の記録については。

 しかし、天智紀における白村江の戦いを論じるために朝鮮半島の歴史やそれに関わる中国の唐書類も必要となるだろうということで、新羅・百済について、また旧・新唐書の白村江関連の記事について改めて目を通した。そして、私の「直感」は一面、当たっていた。しかし、他面で黙認できないものがあることも確認された。より具体的な形で言えば、一方の百済本紀は特に参考にしなくてもよいという軽微な問題であった。つまり、白村江戦について論じる際の参考資料は、旧・新唐書で十分であり、したがって百済本紀倭人伝は参考にする必要のないことを確認したのである。

他方、新羅本紀は逆に看過できない問題点がるあということが確認された、あるいは正確に言うと、むしろそれらは虚偽の歴史であるということが確認されたのである。これらの点について論じてみたい。どういう問題か。それは私の論考、「旧唐書と新唐書の間」で論じられた問題、倭国と日本国の関係やいかにという問題にも関わる。

 

参考資料

三国史記倭人伝  佐伯有清編訳          岩波文庫

旧唐書 百済国伝、劉仁軌伝 倭国伝、日本国伝   中国書局

新唐書 百済伝、劉仁軌伝 日本伝         中国書局

「日中歴史共同研究」報告書Ⅰ           勉誠出版

 

 

 

 

2.百済本紀、白村江戦についての記述は旧唐書の丸写しである

 

百済の史資料 下記A

A.百済本紀倭人伝〔76〕義慈王、竜朔2年(662年)7月条

漢文:「劉仁軌及別帥杜爽扶余隆、帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以会陸軍同趨周留城、遇倭人白江口、四戦皆克、焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水為丹」

訳文:「劉仁軌及び別帥杜爽・扶余隆、水軍及び粮船を帥い、熊津江より白江(注)に往き、以て陸軍と会し、同じく周留城に趨る。倭人と白江に遇い、四戦して皆克ち、その舟四百艘を焚く。煙炎、天を灼き、海水、丹(あか)く為れり。」

 

唐の史資料 下記B.及びC.

B.旧唐書百済国伝 列伝149上

「劉仁軌及別帥杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江以会陸軍、同趨周留城、仁軌遇扶余豊之衆於白江之口、四戦皆捷、焚其舟四百艘、賊衆大潰」

 

.旧唐書劉仁軌伝 列伝34

「仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江口、四戦捷、煙其舟四珀艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」

 

 (注)日本でいう白村江は、旧・新唐書では白江とされている。白江口、白江之口は白江の河口のことであろう。また、『日中歴史共同研究』(王小甫氏論文P136~137)でも白江、白江口が使われている。中国における用語なのであろう。

 

 A.の「帥い(ひきい)」や「克つ」がB. Ⅽ.で「率い」や「捷つ(かつ)」に変わるなど、若干の文字の違いはあるが、完全にと言ってよいほど同じ文になっている。A.の日本語訳があれば、B、Ⅽの日本語訳が不要なことからもそのことは分かる。もし、唐の史書と同じ表現、同じ内容だから百済本紀倭人伝は信用できると考える人がいるとしたら、言葉は悪いが「それは少しオメデタイ」と思われる。

 

 勝者と敗者で同じ表現になるとは何を意味するのであろうか。百済本紀の完成(再完成)が1145年、旧唐書の完成が945年。百済本紀は旧唐書を参考にすること、いや、写すこさえともできたのである。

 また写したことの決定的な証拠がある。百済本紀倭人伝〔76〕は百済の史書であるにもかかわらず、白村江戦の主体が百済の戦闘の相手である唐の劉仁軌と扶余隆になっており、したがってその記事の主語も劉仁軌などになっていた。さらに「四戦皆克」という表現。これでは、百済の史書が劉仁軌ら中国の側のいわば「武勇伝」を記述したことになってしまっている。百済が自国の立場から描写した内容では全くない。百済の主体性が全く感じられない描写である。百済やその友好国倭国の立場からすれば「四戦皆敗」、つまり「四戦皆敗れる」でなければいけない。したがって「四戦皆克」などは唐側からの筆致であり、その最たる例と言えよう。内容的にも刊行年代から見ても、旧唐書が百済本紀倭人伝をコピーしたのではなく、百済本紀倭人伝が旧・新唐書のコピーに過ぎなかったということは明白である。

 最初に述べたように、白村江の史実を探る最重要な史資料は百済本紀ではなく旧・新唐書であったということになる。したがってまた、白村江を論じる研究者が、百済本紀をもとにしてその引用を行うことは大きな誤りとは言えないが、その原典が旧唐書にあったことを知っておかなければいけないことになる。したがって百済本紀から引用がなされる場合には、それが一種の「孫引き」だと自覚しなければいけないだろう。

 

 

3.新羅本紀における倭国と日本国についての記述は

旧・新唐書からの「歪曲された」、「断片の切り取り」である

 

 新羅本紀倭人伝〔55〕にこうある(注)。

漢文:倭國更号日本自言近日所出以為名

訳文:「倭国、更めて日本と号す。自ら言う日出づる所に近し。以に名を為すと。」

 さらに、新羅本紀日本伝〔149〕にもこうある。

漢文:倭國更号日本自言近日所出以為名

訳文:「倭国、更めて日本と号す。自ら言う日出づる所に近し。以に名を為すと。」

 全く同じ文章が現れている。

(注)新羅文武王10年の記事であるが、唐の元号は咸亨元年、西暦では670年である。

 

1 唐書類との類似点

 ここでの文章表現は明らかに旧唐書日本国伝、新唐書日本伝に似た表現である。

旧唐書日本国伝にこうあった。

「日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは曰う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは云う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また云う、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり限界となし、山の外はすなわち毛人の国だと。」

また、新唐書日本伝にはこうある。

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは云う、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。」

 

 まず、似ている点のうち問題のありそうな点を挙げてみよう。すぐ気づくことは「倭国が自ら言う」という表現形式である。これは偶然の一致であろうか。さらに、内容的に見ると「日出づる所に近いので日本国に名を変えた」という点も、旧・新唐書の一文にあるので類似点と言えよう。

 すでに「旧唐書と新唐書の間」でも述べたように、旧・新唐書の日本国伝は極めて奇妙で他には例を見ないような歴史書であった。日本国人の言うことが事実かは分からないが、とりあえず伝えられたことを羅列的に書き記したというものになっている。つまり「伝聞調」、言い換えると英語などでの直接話法・間接話法に当たる表現法で記述され、しかもそれらを中国は「疑っていた」のであった。極めて特殊な文章表現であったし、特殊な史書であった。そのような記述をする史書が他にあるのだろうか。無いであろう。そのような史書に似ているなどということがあってよいのだろうか。新羅本紀がオリジナルな史書とはとても言えない。記述された年代を考慮すれば、唐書類が新羅の史書を模倣したということは考えられない。新羅本紀が旧・新唐書の真似、「コピーならぬコピー」と考えて差し支えないであろう。

 

2 唐書類との相違点

 

 旧唐書と新羅本紀には大きな違いがある。旧唐書では倭国伝と日本国伝とは別々に章立てされていた。別国扱いである。だから旧唐書日本国伝では「日本国は倭国の別種」と明言されていた。倭国と日本国とは、高句麗国、新羅国、百済国が別国であるように別国だったのである。したがって記述された内容も大きく異なっていた。それに対して、新羅本紀は倭国と日本国とを章立てとしては区別しながら、内容としては全く同じ文言であった。一字一句違わずとはこのことである。結果として「倭国と日本国は同じ国」、つまり「倭国=日本国」だと断定してしまった。したがって、新羅本紀は「倭人」と「日本」と二つに章立てをする必要は全くなかったのである。新羅本紀は倭国伝と日本国伝を別々に章立てするという形式面だけ旧唐書を真似たのである。

 

 ところが、形式の上では似ているのに内容を精査すると重要な意味を持つ相違点がある。新羅本紀の倭人伝に該当する記事は旧唐書の倭国伝には存在しない。類似の記事があるのは旧唐書の日本国伝である。旧唐書では「日本国は倭国の別種」であった、つまり別国であったので、倭国が日本国になったと記述されるはずがない。両国を同一のものとして論じることはできない。これは、新羅本紀編者による大きな「誤解」、「曲解」に基づく記述である。

 

3―3 誤解を生む「新羅本紀」

 

 また新羅本紀は、新羅の文武2年、唐の咸亨元年(670年)に倭国が唐に遣使したかのような「誤解」を生むものになっている。倭国の遣唐使は、通典、唐会要などに記録された659年が最後だからである。したがって670年に倭国が唐に遣使したということは歴史の真実ではない。

 さらに、この記述は別の大きな「誤解」を生じさせる可能性を持っている。新羅本紀の倭人伝でも日本伝でも「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと」記述されることによって、倭国と日本国は同一・「同種」の国であり、名前を変えただけだという「主張」を明確に打ち出してしまっている。旧・新唐書が疑い、そして決断しかねていた「倭国=日本国」の問題をあっさり決めつけてしまったのである。旧唐書に書かれた「日本国は倭国の別種である」を無視する「定説」、「世論」の形成に一役買っている。

 これはヤマト王権、後の日本国側の使者が「自己主張」したことと軌を一にしたもの、ヤマト王権側が唐や新羅などの海外に対して主張したかったことそのものであったと思われる。新羅本紀は旧・新唐書の日本国伝の文脈を考慮せずに、日本の遣使者の様々に主張されたその中の一文のみを切り取って史書を記してしまったのである。これはひょっとして、新羅が長年の国交の中でヤマト王権の自己主張を鵜呑みにした結果であった可能性もあるが、または日本国の自己主張の強さにあえて反対はしなかった結果なのかもしれない。これが新羅本紀倭人伝・日本伝の本質ではなかろうか。

 

 

4.旧・新唐書日本(国)伝の真実と新羅本紀の影響

 

 「旧唐書と新唐書の間」の議論を振り返りながら、再度、大事な点だけをクローズアップさせておきたい。まず、ヤマト王権・日本国の使人が語ったのは「新羅本紀」に記された一つの発言だけではなく様々な発言をしていた。「また言う・云う・曰う」などの表現がそのことを示していた。そしてさらに、それらの発言を唐は正しいものとして理解したのではなく、「疑った」のである。新羅本紀は以上の通り、日本古代史における日本での定説的な唐書理解とも呼応し、共鳴しあっている。つまり、万世一系の天皇家は「神武天皇以来、途切れることなくヤマトで統治していた」と記述する日本書紀、そして日本書紀を拠り所にする定説を補強するものになっている。ここでは、「ヤマトを拠点とした倭国が日本国に名を変えただけである」という定説的主張を増長する拠り所にもなりうるものである。いや、定説ばかりではない。古田武彦氏も「日本国の成立が670年であり、その典拠は『新羅本紀』にあると述べている(例えば、『邪馬壹国から九州王朝へ』新泉社 P229)。

新羅本紀の様々な方面への影響力は大きいが、古田氏の場合にもその影響が現れている。旧唐書日本国伝の様々な発言の中から古田氏にとって好都合な解釈、「(九州)倭国が自ら日本国に名を変えた」だけを抽出してしまった。旧唐書日本国伝解釈と『新羅本紀』解釈とが相互に補強しあっているのだろうか。(この点について、詳しくは拙稿「旧唐書と新唐書の間」を参照のこと。東京古田会ニュースNo.211~212)

 

 旧・新唐書の日本(国)伝における真実は次の四点だけである。

一つは、唐は旧唐書倭国伝に見るように倭国のことをよく知っていたのとは対照的に、日本国伝では日本国の出自などはさっぱりわからない、倭国と日本国の関係がどうなのかも不明だ、ということであった。

二つは、日本国伝に倭国の人間が登場し発言することはない。

三つは、日本国=ヤマト王権の使者の中に「倭国が日本国を併合した」(旧唐書)と主張した者もいたし、それとは真逆に「日本国が倭国を併合した」(新唐書)などと言う者もいたということは史実であっただろう。しかし、その発言内容のどれが史実であるかは不明というのが唐の見解であったのである。それゆえ、中国はどの発言をも「疑った」。そして、それらの疑いを晴らしたということはその後の中国の史書でも一切語られていない。

四つは、日本国の名前がいつの時点に誰によって名付けられたのかは、残念ながら不明だということである。旧・新唐書日本(国)が咸亨元年(670年)から始まったからといって、「日本国」名が670年には出来ていたという保証にはならない。例えば、三内丸山遺跡は青森県にあるといっても、縄文時代に青森県が存在したことにならない。三内丸山遺跡は「今でいう」青森県と呼ばれる地域にあったということが省略を含め便宜的に述べられたものである。それと同様に唐からすれば、「咸亨元年に訪問してきたあの人たちは、『今でいう』日本国の使者であったのか、では日本国伝に咸亨元年の事柄として記録しておこう」となったのであろう。

 実際には、すでに「咸亨元年(670年)以前に日本国という名前は既に存在していたのかもしれない。誰によって名付けられたのかは不明だとしても。あるいは咸亨元年より後に名付けられたのかもしれない。誰が日本と名付けたかは不明だが。例えば大宝3年(703年)の遣唐使の時代、ヤマト朝廷が確立された時代には日本国名はできていた可能性は大きい。もっと後かもしれないが。遅くとも日本書紀が刊行された720年の前には「日本」の名は使われ始めただろうとしか言いようはない。誰が名付けたのかは別として。

 残念ながら、唐書類からは「日本国と倭国の関係はいかに」、また「日本国名はいつから使われるようになったのか」という問題の真実を探ることはできない。したがって、これらの問題を唐書類から断片的に、しかも歪められた形で引き写した新羅本紀に求めることはなおさらできることではないのである。

 

5.結論

 

 したがって、百済本紀は倭人伝・日本伝についての限定付きであるが、「孫引き」には使える。しかし、新羅本紀は全く参考にできない。いや、参考にしてはいけないというのが私の考えである。

 

 

 

 

 

日本書紀における蝦夷記事を続日本紀の視線から検証する

 

はじめに

 

 日本書紀は正史の資格を持たないこと、続日本紀からが正史であることについては以前にも述べた。したがって世に『六国史』と言われている史書類から日本書紀を差し引き『五国史』とすることも提案してきた。私の論考は第九章まではそのことを論証するために費やされてきた。第十章ではこの点をさらに明確にするために、蝦夷をめぐって日本書記と続日本紀を直接に対決させ、日本書紀が信頼するに足る書物ではないことを証明してみたい。以下、日本書紀を書紀、続日本紀を続紀と略すことがある。

 「民族的・文化的カテゴリー」としての蝦夷について論じることは、私の現在の力量ではとても及ぶものではない。縄文人と弥生人の関わり、蝦夷と熊襲・隼人との関係、宋書にある毛人、またアイヌ民族との関わりの有無など、触れなければいけない問題は多い。また、東北における続縄文・擦文文化、そしてまた古墳文化の展開や三角縁神獣鏡の発掘など考察すべき課題は多い。今後、解明されることを期待しつつ、本章の中ではその一部にだけ簡単に触れるにとどめたい。

ここでの私の主要な課題は「政治的カテゴリー」としての蝦夷に限定して考察することにある。この場合の蝦夷は、「ヤマト王権、ヤマト朝廷の支配に従わない人々・勢力」という意味である。この課題は端的に言って、日本書紀で描写された蝦夷は続日本紀で記述された蝦夷と相容れないものになっていることを示し、さらに定説が書紀と続紀とが何らの不整合もないかのように扱い、論じている問題に切り込むことにある。また、後にも述べるように、蝦夷の問題は「外交史」の問題として理解されるべき問題を孕んでいること、そのことから書紀の「外交史」全般への懐疑をさらに鮮明にすることにある。「外交史」は書紀にとって、いわばアキレス腱なのである。

           

 

第1節 書紀対続紀の第一ラウンド 

遣唐使の渡航期間から検討する

 

第1項 書紀の遣唐使記事、往復にかかる時間

 

 日本書紀は以下の2つの遣使記事については年・月・日も記述している。

1.孝徳紀の遣唐使記事 

  孝徳紀 白雉4年(653年)5月12日 

吉士長丹(きしのながに)ら121人が一つの船で出航。大唐へ。

      白雉5年(654年)7月24日 西海使の吉士長丹らが百済・新羅の

走使と共に筑紫に着いた。

 

1年2カ月で往復である。到着地点は筑紫となっているが、出発地点がどこかは不明。仮に筑紫出発とすると、筑紫と唐を往復するのに1年2カ月となる。後に述べる続紀の多治比真人が九州から奈良まで片道に1カ月23日かかっているので、これを参考にすると筑紫と近畿奈良の往復が3カ月16日。よって、近畿奈良と唐の往復は1年5カ月と半月になる。

 

2.斉明紀に載る「伊吉博徳の書に見る遣唐使記事」

伊吉博徳の書による、斉明5年(659年)の記事

斉明7月 3日     難波から出発 

  8月11日    筑紫の大津の浦(博多湾)を出る

9月13日    百済の南の島(島の名は知らぬ)

    14日4時  大海に出る

    16日夜半  越州会稽郡須岸山

    22日    余(女偏に兆)県

閏10月 1日    越州の州衙に着く   

    15日    長安(天子が洛陽に居るので洛陽へ)

    29日    洛陽

30日    天子にお目にかかる 

  

以上、異常に詳しすぎる旅程の記録である。これでまた馬脚を露呈することになる。天子にお目にかかった年・月は通典の慶顕元年(659年10月)と合致させているように見える。

 片道4カ月弱、渡航日数が短すぎる。船が速いのか?斉明紀の片道にかかった時間は4カ月弱とすると、往復にすれば8カ月弱、滞在期間を考慮しても往復10カ月ほどであろう。西都と言われる長安の方が、東都と言われる洛陽より遠い。長安・洛陽間は14日。長安・洛陽間を往復で約1カ月のロスが無ければ、日数はさらに少ない。1カ月を差し引いて、往復9カ月になる。

 ところで、この資料には理解に苦しむ問題がある。閏10月があるということは、通常の10月がその前にな

ければならない。ここには通常の10月の29日間か30日間の旅程記事が無い。1カ月の間、何も記すことが

ないのは不自然である。また、通常の10月に書くべきことが無かっただけだとすると、同じ越州の中の移動(越

州会稽郡須岸山から越州の州衙までの移動)に9月16日から通常の10月をはさんで閏10月1日まで1カ月

半ほどかかったことになり、こちらも不自然である。

 また、通典の10月が通常の10月であるならば、実は書紀と通典の日にちは食い違っていることになり、さ

らに往復9カ月に通常の10月の1カ月加えたとしても、往復に10カ月しかかからない。孝徳紀の日数よりも

かなり短いことになる。

 以上の日本書紀の記事を念頭に置きながら、次に続日本紀の記事と見比べてみよう。

 

 

第2項 続紀の遣唐使記事 往復にかかる時間

 

1. 粟田真人の遣唐使

  大宝2年(702年)6月29日   九州から出発

  慶雲元年(704年)7月 1日   真人帰国

 往復約2年、703年唐到着の記事は続紀には無い。奈良から九州間が片道1カ月23日、往復3カ月16日。帰国の到着地が九州とすれば、奈良から唐の往復に2年3カ月と半月。帰国地が奈良だとすると、奈良と唐の往復は約2年2カ月

               

2. 多治比真人県守の遣唐使

  霊亀2年(716年) 8月20日  大宰府から出航

  養老2年(718年)10月20日  帰朝(大宰府か)

            12月13日  帰京

 往復2年2カ月。九州から奈良 片道1カ月23日、往復2カ月16日。よって、奈良と唐の往復は2年5カ月と半月

 

3. 多治比真人広成の遣唐使

  天平5年(733年) 4月 3日  出発

6年(734年)11月20日  種子島に帰る

    7年(735年) 3月10日  天皇に拝謁

 出発地は不明。奈良発・奈良着として往復1年11カ月強。出発が九州の場合には往復は2年1カ月。

 

4. 藤原清河の遣唐使 副使、吉備真備・大伴古麻呂

  天平勝宝4年(752年)3月3日  天皇に拝謁、節刀を授かる

      6年(754年)正月16日 古麻呂、鑑真を伴い帰国

 出発の日は書かれていない。拝謁の日に近いと仮定。帰国の地点が書いていないので奈良着とすると往復1年10カ月。帰国地点が九州だったとすれば1カ月23日を加えて約2年。

 

天候や潮流など運航に関わる条件は不明のためおおよその目安ではあるが、ここまで続紀の往復にかかる時間は平均で2年強と言えるだろう。

               

 

第3項 書紀と続紀の旅程の比較 まとめ

 

 以上、書紀の斉明紀、伊吉博徳の書の遣唐使の異様な速さは、書紀がいかに不可能なことを記述しているかを私たちに示してくれている。孝徳紀の1年6カ月でさえ、時代を考えればかなり速い移動速度であった。そしてこの書紀における遣唐使記事の怪しさは、中国への遣使を含む交流の欠如を物語っている。遣唐使の時代にも中国への旅程を正確に把握できていないヤマトの勢力が遣隋使や、遣宋使、遣魏使の実績もなかったことを示していると言えるであろう。また当然、博徳書に書かれている蝦夷を伴った遣使記事についての怪しさも予想させる。

日本書紀を信じている人々は、書紀の時代の方が続紀の時代よりも科学技術が発達し、ヤマトの勢力は高速艇を駆使していたことを証明するか、続紀の方が信ずるに足る史書であることを認め、書紀と決別するのかを決断しなければならないだろう。

 

第2節 書紀対続紀の第二ラウンド

侵攻の速度から検討する

 

第1項 書紀における蝦夷記事

 

1. 崇神紀10年9月9日 有名な「四道将軍」についてである。崇神記にも類似の記事がある。Wikipediaによると、崇神天皇が実在していたとすれば3世紀末から4世紀初頭のことである。

崇神朝は、大彦命を北陸(古事記では越の國)、武渟川(タケヌナカワワケ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わす。「もし教えに従わない者があれば兵を以って討て」と詔。 

 崇神紀における「教えに従わない者」が蝦夷のことだとすると、随分広い範囲に教えに従わない蝦夷がいたことになる。九州(西海)、北陸、東海に蝦夷、丹波にも蝦夷。すべてが蝦夷だと言えるわけではないであろう。

 

崇神紀11年4月28日:四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。 

4世紀初頭までに、大彦と武渟川別が会津まで遠征できたのかを検証してみなければいけない。

 

2. 景行紀の蝦夷と日本武尊 景行記にも類似の記事あり。

景行天皇が実在したとすれば、崇神天皇の2代後なので、在位は4世紀中ごろか。

 

景行紀25年2月12日 天皇は武内宿禰を北陸と東方へと視察させる。

景行紀27年 武内宿禰:東国の田舎の中に日高見國があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。

 景行紀27年10月 日本武尊、駿河(焼津)、相模、馳水(走水=東京湾)、上総、陸奥国、玉浦、蝦夷の支配地、蝦夷服従、日高見国、常陸(新治・筑波)、甲斐国、

日本武尊:蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国、越国だけが少し王化に服しない。 

 ヤマトの勢力は越国に苦戦している。後に述べる、700年代初頭の文武紀・元明紀における越後での苦闘を表明しているかのようである。

 

吉備津彦が越へ、日本武尊は甲斐、武蔵、上野、薄日坂(薄井峠)、信濃へ

景行紀(不明の年) 日本武尊の死

景行紀40年6月  辺境の蝦夷がそむいて辺境が動揺した。

 

3. 古事記の敏達記には蝦夷記事は無い。

敏達紀の蝦夷 

敏達紀10年(549年)閏2月 蝦夷数千が辺境を侵し荒らした。その首領の綾糟らを召して詔りする。「思うにお前たち蝦夷らを景行天皇の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者であるものは殺そうと思う。」

綾糟:今から後、子々孫々に至るまで、清く明るき心を以て、常にお仕えいたします。

もし、誓いに背いたら、天地の諸神と天皇の魂に、私どもの種族は絶滅されるでしょ

う。

 綾糟の所在地は不明。この時期までに、ヤマト側が綾糟の居住地に侵攻し支配をしていたことが前提の記事である。

 

4.雄略記に蝦夷記事は無い。

雄略紀:蝦夷500人反乱、小競り合い、娑婆湊(さばのみなと・広島県か)で合戦になり、ことごとく殺す。

 広島に東北の蝦夷が移住させられたのであろうか。その場合、東北のどの地域の出身者たちなのか、その反乱の原因は何か、詳細は不明。

 

5.孝徳記・紀に蝦夷記事は無い。

 

6.斉明記に蝦夷記事は無い。 

斉明紀の蝦夷     

 以下、ヤマトタケルの征討譚以上に唐突に、しかも異様に濃密な蝦夷記事があり、極めて不自然な感じは否めない。おそらく、博徳書をもっともらしく見せるための準備であろう。

 

 斉明元年(655年)7月11日 北(越)の蝦夷90人、東(陸奥)の蝦夷95人に饗応。

 越を北として意識している。また陸奥が東である。この点は後にも触れる大事な点である。

 

 斉明元年の冬、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、朝(みかど)に物を貢いだ。

 

斉明4年(658年)4月 阿倍比羅夫の遠征 船軍180艘を率いて蝦夷を討つ。

秋田・能代2郡の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞う。渡島の蝦夷と共に饗応。   

 渡島=北海道 続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、これはありえないであろう。

  

斉明4年7月4日 蝦夷200人余り、物を奉る。

能代郡・・・津軽郡・・・の大領、少領に位を与える。能代郡の大領に詔して蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調査させる。

 渡島同様に 能代、津軽は続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、これも不可能である。

 

斉明5年(659年)3月17日 陸奥と越の国の蝦夷を饗応。この月に、4年4月と類似の記事あり。阿倍比羅夫が「船軍180艘を率いて蝦夷を討つ」、と。さらに、津軽の蝦夷120人を饗応。

180艘は斉明4年4月記事と偶然の一致か、誤って二重に記載したのか。

 

また、先の閏10月30日の蝦夷の居住地は「(ヤマトの)国の東北の方角にあります」と、東北にまで侵攻したことを意識させようとしている(注1)。東北あるいは都加留(津軽)などの地理的描写は、先に引用された中国の通典などの史書には記述がない。推古紀、舒明紀の難波津、飛鳥の再現である(注2)。斉明紀の時点でヤマト王権が東北に侵攻することは不可能なことを、後に続日本紀に語ってもらう予定であるが、斉明紀において津軽はなおさら不可能。青森への進軍は源氏のなしたことであった。斉明天皇に「そなた様は源氏であられますか?」と尋ねたいところである。

    (注1) 閏10月30日の伊吉薄徳の書は、蝦夷を伴った遣使者と唐の天子

        との対話を載せている。対話全体は後の第3節第2項で引用する。

    (注2) 第4章「書紀における中国との外交記事を検討する」を参照のこと

 

第2項 続紀における蝦夷記事

 

 日本書記の時点で山形、秋田、宮城、岩手、さらに津軽(青森)まで勢力を伸ばしていたと語られているヤマト王権。しかし、そのような「大胆な構想」を念頭に日本書紀は執筆され、それを史実として鵜呑みにする定説史家が数多く存在している。日本後記(後期と略すこともある)における平安時代、桓武天皇紀の9世紀初頭に坂上田村麻呂が登場して初めて蝦夷との抗争は一応の終止符を打つ、しかも岩手県の胆沢の周辺で。これに対して、そのおよそ1世紀前、続紀における文武紀・元明紀時点ではヤマト朝廷は越後の辺りで苦闘している。この後記・続紀の語ることが歴史の真実ではなかったのか。日本書紀との不整合は明らかである。様々な疑問が生まれてくる。日本古代史研究は何と素人風の不可思議な「古代史サークル活動」をしているのだろうか。定説は、続紀が語る記事の存在すら認めたくないのであろうか。書紀の馬鹿げた侵攻範囲、およびその侵攻速度を自明のこととして研究すると、続紀の文武紀・元明紀は見落とされてしまうことになるのだろうか。これも一種のスコトマ(scotoma (注))なのだろう。

    (注) スコトマ:先入観や関心にとらわれていると、現に存在しているものが

      見えなくなったり、影の薄いものになる現象。

 

以下、続日本紀の文武紀・元明紀における対蝦夷抗争を見ておこう。

 蝦夷についてある程度正確な文書による史資料は何かと言えば、続紀・後記の文武紀から桓武紀までのものであろう。『常陸国風土記』、『陸奥国風土記』は参照しないのか、という声に対して私はこう応えたい。伝説上の日本武尊が活躍する点で両風土記は史資料としては活用できないと考えている、と。例えば、『常陸国風土記』が編纂されたのは養老5年・721年であった。中央から常陸国守が700年以降は派遣されていたが、藤原不比等の三男の藤原宇合(うまかい)が常陸国守として派遣されていたのが養老3年・719年。『常陸国風土記』には当然、中央の息が特に強力にかかっていたものと受け止められるべきである。『陸奥国風土記』はさらに後代の編纂であり中央の意向から独立に編纂されたということは期待できないからである。

 

1.続紀における「越後」と「狄」に注目

 

文武紀:文武元年(697年)12月18日 越後の蝦狄(かてき・えみし)に地位に

応じて物を与えた。

 

    文武2年(698年)6月14日 越後国の蝦狄が土地の産物を献上した。

 

宇治谷孟氏の訳者注(講談社学術文庫P16)によると、「北陸道方面では蝦狄、東山道方面では蝦夷と使い分け」と指摘されている。この使い分けは注目すべきである。その理由はすでに指摘してきたが、さらに続紀に基づいて見ていこう。

文武紀では越後と狄とが結び付けられている。しかし、この結びつきは必ずしもいつもというわけではない。文武2年4月25日では越後の「蝦夷」106人に、身分に応じて位を授けた、とある。蝦夷とも呼ばれているからである。蝦夷は基本的には、方角いかんにかかわらず、一般的な用語であろう。しかし、あえて「狄」を使うときには、ことさら「北」が意識されていることは間違いない。先に斉明元年の冬の記事にも越が北として意識されていた。文武紀以降でも、出羽(日本海側の山形以北)の蝦夷が「狄」と呼ばれることが多い。言うまでもなく、狄とは中華思想における北方にいる化外の異民族・勢力という意味だ。ところで、なぜ越後の蝦夷が「狄」であり「北」なのであろうか。書紀の記述から考えるともっと北の山形・秋田に進むべきだと考えられるだろう。

蝦夷研究について定評を博す研究者たちが無視・軽視する蝦夷関連の史資料がある。それが続日本紀の文武紀と元明紀の「越後」と「狄」についてなのである。文武紀では越後の蝦夷に「狄」が使われている。すると越後が「北」に見える地域、そこがヤマトの勢力の圏内、支配が完了した地域ではないだろうか。そのような視点で続日本紀を見てみよう。すると、元明紀では越後も完全にヤマト朝廷の支配下に組み込まれていない状況が記されていることが分かる。先に見たように、ヤマトタケルが「信濃国、越国だけが少し王化に服しない」と語った事情は、この文武紀・元明紀における状況の反映とその描写であった可能性がある。時代は大きくずらされているが。

 

元明紀:和銅2年(709年)3月 5日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正5位下の佐伯宿禰石湯を征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両方から討たせた。

 

元明紀でも最初期における焦眉の課題は越後蝦夷征討であったことがわかる。「征越後蝦夷将軍」が存在しているのである。有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍であったのは、「服ろわぬ民」の蝦夷が存在したことを大前提とする。したがって、征越後蝦夷将軍が存在することの意味は容易にわかるであろう。つまり文武はもちろん、元明の時期においても、ヤマト朝廷は越後が制覇できていなかったことを表明しているのである。越後の全体なのか、越後の一部なのかは不明だが、「征越後蝦夷」将軍が存在するということは、越後のかなりの部分を指していると理解できる。少なくとも、ヤマト朝廷が越後を完全制覇できていないことを意味している。続日本紀は日本書紀の誇大な日本列島早期征討劇が無かった、続紀が斉明紀で津軽はおろか出羽(山形)支配が遂行されていなかったことを告白しているのである。続紀と書記の齟齬である。どちらがより信じられるのかは明白である。このことには度々触れる。

 

2.越後が北に見える場所とは

 

しヤマト朝廷が越後・新潟の南部まで支配していたとする。その場合に新潟県内でターゲットとして考えられるのは、渟足柵(ヌタリさく・新潟市)や岩船柵(イワフネさく・村上市)の地であろうか。ヤマトが制圧しきれていないのは越後の北部であろう。渟足・岩船の地帯であると仮定しよう。そしてこの地域が北に見える場所はどこかを考えて地図を見る。さらに、渟足・岩船が北に見えるその位置から東を見てみる。茨城県とさらに福島県の南部である。文武・元明の時代に常陸国(茨城県)はすでに支配下にはいっていたとすれば、この時点においては福島が陸奥(みちのく)であり、ヤマト朝廷のターゲットであった可能性がある。北方向が新潟市・村上市、東方向が福島県、両方を満たすのは新潟県南部や群馬県、栃木県の地帯という可能性がある。つまり、そこまで文武の時代、そして元明の初期段階にはヤマトの支配権内に入っていた可能性は大きいと言えるだろう。

 

しかしその後、元明紀では対蝦夷で急展開が起こっている。

 

和銅2年7月 1日:従五位上の上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に任じた。諸国に

銘じて兵器を出羽柵に運び遅らせた。

 

和銅2年7月13日:越前・越中・越後・佐渡の4国の船100艘を征狄所に送

らせた。

 

 わずか4カ月ほどの間に越後は後方支援の拠点に算入され、出羽にも柵が造営された様子が記述されている。ということは、越後地域の渟足・岩船を含めた越後全域がヤマトの支配下に入り、出羽国、つまり日本海側の山形の方面にターゲットが移り、そこの蝦夷が今度は「狄」と呼ばれる時代が訪れるのである(注)。

 元明紀以降、出羽の服ろわぬ(まつろわぬ・服従しない)人々が狄と呼ばれている事例である。

    (注) この急展開がなぜどのようにして可能であったのかについては今後検討

されなければならない。後日、語ってみたい。

 

    元明和銅5年(712年)9月23日:北辺の夷狄(えみし・いてき)は遠く離れていて・・・皇民は(公民)は煩わされることが無くなりました。・・・ここに一国を置き国司を任じて・・・初めて出羽国が置かれた。(注)

(注) ここで、出羽国の設置が和銅5年ということは、和銅2年に出羽柵が

できてから3年後であり、柵ができることは国の設置に先行して行われてい

るいることを確認しておく。

 

    元正霊亀2年9月23日(716年):巨勢朝臣麻呂が言上。出羽国を建てて数

年、官人や人民が少なく、狄徒もまだ慣れていない。しかしその土地はよく肥え

ており田野は広大で余地がある。どうか近くの国の民を出羽国に移し、凶暴な敵

を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたい。

    

さらに、元正養老7年9月17日(723年)には、出羽の国司・多治比真人の言上の中に、「愚かな夷狄」の文字が見え、また聖武天平9年4月(737年)の記事によると、服ろわぬ民は陸奥・宮城県側では蝦夷、出羽側は夷狄と呼ばれている。出羽地方が含まれるときには、蝦夷は狄を含む言葉「夷狄」が使われることが正史に度々、登場している。そして日本後紀に移るが、桓武延暦16年2月13日(797年)には、蝦夷・「狄人」という用語も見られる。この場合も、蝦夷は陸奥が、狄人は北・出羽が意識されているのである。

 

 さて、元明紀に戻ろう。元明朝の後半で岩船(村上市)を含む越後全域はヤマトの支配下に入ったようだが、そこで改めて和銅2年7月の時点における蝦夷の勢力圏を岩船柵から眺めてみよう。北が出羽の山形、そこの住人が北狄、東が陸奥の福島から宮城県中部の仙台市、また多賀城などが広がり、そこの住人が東夷ということになる。実際の地図でも確認してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

村上市は多賀城とほぼ同じ緯度

 

 

  ちなみに、続日本紀や日本後紀(後紀とすることがある)の事例を見ると、陸奥国・太平洋側の蝦夷を「狄」と呼ぶ例は皆無である。この意味で続紀・後紀は蝦夷が住む方位を正確に述べる意思を持っていたようなので、方位が意識されている場合には、「夷狄」、「蝦夷」を「えみし」とは読まず、例えば「夷狄」を「いてき」、「蝦狄」を「かてき」というように読み方を区別することが必要と思われる。

 

3.上毛野氏・下毛野氏の活躍

これと関連しているのが、蝦夷征討における上毛野氏・下毛野氏の役割である。つまり、この時代の対蝦夷の最前線にあたるのが群馬県・栃木県なのである。続日本紀を見ると下記の通り、上毛野氏・下毛野氏が目立っている。

 和銅元年(708年)3月13日の官職任命:従四位下・下毛野朝臣古麻呂を式部

卿、従五位下・上毛野朝臣安麻呂を上総守に、従四位下・上毛野朝臣小足を陸奥守に

任じる

 和銅2年(709年)正月9日の位階授与:正六位上・上毛野朝臣荒馬に従五位下を

授ける

 和銅2年7月1日の官職任命:上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に任じる

上毛野、下毛野を拠点とする豪族を上毛野氏、下毛野氏と名付けた可能性は大きい。これを機に両氏族は中央の官人にも取り立てられるようになる。(注)

   (注)天平元年(729年)2月17日には上毛野宿奈麻呂が、長屋王の呪詛事件(長屋王は同年2月12日に自殺に追い込まれる)に加担したとして流罪に処せられ勢いを失うが、その後も一族が中央官人の地位を一定程度、占めている。

蝦夷研究で著名な中路正恒氏は、中央官人ではない上毛野氏・下毛野氏がとりわけ初期蝦夷征討で活躍していることを指摘している(注)。これは重要な指摘と思われるが、その理由とはまさに上・下毛野氏が蝦夷との最前線に位置する氏族であったからに他ならないからである。他の時期に比べて特にこの時期に、上毛野氏・下毛野氏の存在感は際立っている。

      (注)『古代東北と王権「日本書紀の語る蝦夷」』中路正恒 

講談社現代新書 P.73    

          

4.遠流の地と戦闘の最前線 

  資料が限られているので、蝦夷とヤマト朝廷との戦闘の最前戦がどこかを考える手掛かりとして、次いで流刑地について考えてみたい。それほど明確なものは見えてこないが。

聖武神亀元年(724年)3月1日(日付は誤りとされている)

 

 流罪人の遠近の規定を次のように定めた。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の六国を遠とし、諏訪・伊予・を中とし、越前・安岐を近とした。

 中・近地帯はもちろん、遠の地帯も政治的な支配として安定期に入ったということを意味しているであろう。政治的に不安定な地域に流刑者を置くことはできないであろうからである。反対に見ると、蝦夷の勢力圏はヤマト朝廷が遠流地に指定した外延部の少なくとも一回りは外側ということになる。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の6国は半島などの最果ての土地・孤立した島の他に常陸国が入っている。そして越後は遠流地には入っていない。また、上毛野、下毛野が入らないのはそこが戦闘の最前線だからであろう。

 しかし、これはある程度の目安であるにすぎない。常陸国などはある面ではいまだ不安定であるという様子が語られている。

    神亀2年(725年)3月17日 常陸国の百姓で蝦夷の裏切りで家を焼かれ、

財物の損失が9分以上の者には3年間の租税免除、4分以上の者には・・・

 この事件が常陸国のどの地方かは記述がないが、このようにこの時期の常陸国も南北に長いので北に行けば行くほど不安定さは増すかもしれない、

5.兵士の徴発地域から考察する

一般的な理解・解説によると柵、城柵は蝦夷の地に打ち込んだヤマトの拠点ということになろう。ヤマトの支配権内に入った常陸国内でさえ不安定要素を抱えているということは、敵地・賊地内に造作した柵が危険にさらされていることは明らかである。渟足柵、岩船柵を形成する時期は、少なくとも北部越後はまだ敵地なのである。したがって、越後国から兵士を徴発することはできないであろう。兵士の徴発は越後より西・南ということになる。

この意味で、元明和銅2年(709年)3月5日の次の記事は当然であろう。

陸奥・越後2国の蝦夷は野心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。そこで使者を使わして、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発する。

もとより遠方の国が徴兵の対象にはならないが、越後での戦いなので兵の徴発国に越後は入らない。よほどの緊急事態でも生じない限りは、徴兵・徴発は信濃・上野・越中などの隣接国までであろう。

以上の通り、文武・元明の時代には、陸奥国・出羽国どころか、越後の蝦夷対策が必要な時代であり、ヤマト朝廷が支配権を確保していた進軍の最前線は越前・信濃・上毛野・下毛野・常陸などであったということは確認できたと思う。  

上記の2における地図を裏付けるものにもなろう。

 

第3項 続紀対書紀のまとめ

1. 軍配は続紀に上がる

 すでに決着がついた感があるが、ここでは簡単に続紀の方が歴史の真実に近いということを再確認しておこう。書記によれば、ヤマトの王権は崇神紀ですでにオオヒコの尊らが会津まで進軍していた。景行紀ではヤマトタケルの活躍によってヤマト王権は房総半島から常陸の国に進軍したように見せている。定説としては最も慎重と思われる熊谷公男氏なども常陸国風土記を頼りに常陸国制覇を主張するばかりでなく、陸奥国風土記を手掛かりにしてヤマトタケルの陸奥への侵攻までも主張している。その流れからすれば書記の斉明紀で津輕まで勢力圏にしていたかのような記述も真実だと語られることになる。書紀の記述からの脈絡では首尾一貫していると言えるだろ。

 しかし、続日本紀は書紀のこの誇大宣伝がいかにまやかしであるかを明確に示している。文武朝は越後が完全に制覇しきれていなかったことを告白していた。元明朝では「征越後蝦夷将軍」まで登場させていた。蝦夷征討が着実に南西から北東に向かって、しらみつぶしに着実に進んでいくことはなかったにしても、書紀では会津や秋田、能代、津軽まで征服していたヤマト王権。続紀では後退に後退を重ねたのであろうか。ついに南西の越後まで後退し、そこが戦闘の最前線になった。これはありえない。もしそうであれば、この間に敗北の歴史があったということになるはずだが、そのような記述はより正直な続紀においても一切、存在していない。続紀がより真実を語り、逆に書紀が「話を盛っていた」のである。文武天皇の時代が始まる時点では、ヤマトの勢力圏は越後南部・上毛野・下毛野・常陸を結ぶ線を境界線にしていたと言えるだろう。

 さらに、すでに述べたように続日本紀は斉明紀の時点でヤマト朝廷による津軽進出、侵攻が無理であることを示していた。さきにも触れた、平安時代に入ってからの桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が登場して蝦夷征討劇は完成する。延暦21年(802年)のことである。その最終到達点はどこであったか。そう、岩手県の胆沢であった。しかも東北はまだ全く安定支配がされていないことが記されている。桓武天皇・延暦23年(804年)11月22日の出羽国の言上である。

  秋田城は建置以来40余年経っていますが、土地は瘦せて穀物生産には不適当です。

  さらに北方に孤立しており、近隣に救援を求めることができません。伏して、今後永

く秋田城を停廃して河辺府を防御の拠点とすることを要望します。

 田村麻呂の活躍によって、反乱軍の首領とされた阿弖流為や母礼らが処刑された後も秋田城はいつ襲撃されるかわからない状況下にあり、「防御」が必要であったのである。

 以上で、書紀の蝦夷征討の記事は史実として語られるべきではない、ということを示せたと思う。

2. 定説が文武紀・元明紀を無視する理由

蝦夷の通説的扱い、つまり記紀に依拠する蝦夷論は明らかな破綻をきたすことになる。

 工藤雅樹氏の蝦夷論は考古学的知見から蝦夷を論じている点で学ぶべきことは多い。しかし氏の議論には飛躍がある。書紀の斉明紀における安倍比羅夫の記事(第3節・第1項6)について、「根拠のないことをわざわざ記したとも思われない」(注1)とこれを擁護している。さらに、伊吉薄徳の書における蝦夷を伴って唐に遣使した際の、唐の高宗との対話を引用しながら、斉明朝の時点で、つまり659年前後の時点で、ヤマト王権がすでに津軽を含む東北に進出していたことを承認する(注2)。そこから、文武紀・元明紀の越後における蝦夷との抗争には全く触れずに、一気に多賀柵(一般には724年築造とされている)に向かう(注3)。先に触れた中路氏もこの点は同様であり、両氏ともに文武紀と元明紀については素通りしてしまっている。

おそらく、文武紀・元明紀について語り始めるとヤマト王権の侵攻度合いに不整合が生じることになり、不都合だからであろう。つまり、早く戦線の最先端を北上させないことには、定説の拠り所としている日本書紀の侵攻の速さに乗り遅れるからである。「いつまでも越後あたりでグズグズすることはできない」、「文武紀・元明紀は避けて通ろう」ということであっただろう。

これを私は定説による「文武・元明隠し」と名付けることにする。

(注1) 『蝦夷の古代史』 工藤雅樹 平凡社新書 2009年 P.104

(注2)  同上書、P.112~113

     (注3) 同上書、P.118

第3節 唐に「国」として理解された蝦夷

ヤマトは蝦夷国に侵略戦争を仕掛けていた

 蝦夷の唐への登場の場面から考えてみたい。それは、通典、冊府元亀では蝦夷は倭国と共に蝦夷国として記述されていることにかかわる。

  通典、巻185,辺防1、土門編

   蝦夷国は海東中の小国である。その使いは鬚の長さ4尺、弓矢を巧みに使う。首に矢立を挿し、瓜を載せた人を40歩の距離に立たせ射るも、当たらないことがない。大唐顕慶4年(659年)10月に倭国の使人に随い朝貢する。

  冊府元亀、外信部、漢997,状棒貎門

   顕慶4年、蝦夷国遣使の人が朝貢する。その鬚の長さ4尺。

 

第1項 蝦夷「国」の存在

 通典などに残された蝦夷記事はあまりにも記述内容が少なすぎるので、特に論じるべきことはなさそうなのだが、注目すべきことが2点ある。蝦夷の唐への登場は「国」としての扱いを受けたもの、つまり蝦夷「国」としてのものであり、倭「国」に伴われてのものである。倭国と並ぶ一つの「国」としての遣使であった。しかも、儀礼を尽くし、朝貢という名の正式の遣使であったということは特筆すべきである。

 この点では、咸亨(かんこう)元年(670年)の日本国の使者に対する扱いとは明らかに異なる。日本国の主張が大幅に受け止められている新唐書においてさえも、上表文も貢物も持参しない単なる唐への来訪に過ぎなかったかのように描写され、さらに旧唐書では単なる「そこの人(其人)」扱いであった。その上、日本国の使者の発言はことごとく疑われていた。蝦夷国の扱いとは大きな相違点である。倭国という中国外交史上、実績を積んできた国に伴われてきた蝦夷は「その身元も保証され、国としての処遇を受けた」ということになろう。九州倭国もまた、蝦夷を国として承認していたことを意味している。

すると、日本書紀や続日本紀に記されたヤマト王権・ヤマト朝廷と蝦夷との戦闘場面などは、いわば「国家間の紛争」ということになり、「外交問題」だと言えるであろう。列島内のことはヤマト王権・ヤマト朝廷、あるいは日本国内部の問題だ、そのように語るのがヤマト側の立場であろう。しかし、それは歴史の真実とは言えないのではないか。そして書紀における外交問題の記述は、書紀にとっては新たな墓穴を掘ることにもなる。「外交問題」は書紀の最大の弱点である。書紀自身も、以下のように蝦夷「国」の存在を語ってしまっている。

斉明5年10月30日、伊吉博徳の書における蝦夷を伴った遣唐使記事である。

唐の天子:ここにいる蝦夷のはどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷

(あらえみし)、一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けていま

す。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:そのに五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

これに附随して、難波吉士男子(なにわのきしおびと)の書き記したものが

ある。蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を

天子に奉った。

 斉明紀も唐の天子が語った通りに蝦夷を「」と表記。「はどちらにあるか」「に五穀はあるのか」「に家屋はあるのか」。博徳も「蝦夷の居住地は国ではない」という「訂正」を天子に求めていない。書紀の編纂者もそのまま「国」として記述してしまっている。蝦夷が「国」であるという認識は、唐や九州倭国ばかりでなく、ヤマトの王権も持っていたことになる。

さらに、独立の国家である蝦夷国を侵略するという認識もヤマト側は持っていた。景行紀の武内宿禰(たけしうちのすくね)の言葉が明確に語っている。「東国の田舎の中に日高見『国』(北上川上流か)があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

武内宿禰は、蝦夷が国をなしていることを認めたうえで、日高見「国」、蝦夷「国」を「攻略」するように提議している。したがって、蝦夷国との戦闘はヤマトによる蝦夷の居住地への侵攻・侵略であり、蝦夷の戦いはそれに対する防衛戦であると位置づけることができるのである。これは私だけの見解ではなく、日本書紀自身の認識である。そして国家間の最も不幸な外交関係、戦争へと突入することになった。

 

第4節 毛人と蝦夷 

二つの毛人記事から

第1項 史書の毛人

 毛人の問題にも少し触れておこう。毛人を蝦夷だとする説は多い。これは正しいと言えるのか。検討してみたい。

毛人が史書に登場するのは、まずその1つが宋書の倭王武の上表文である。「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。…。」

さらに旧唐書日本国伝、新唐書日本伝にも毛人が出てくる。新唐書では、例の咸亨(かんこう)元年(670年)の記事の最後に、「その国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人だと云う。」旧・新唐書の内容を区別する必要はないので、唐書の毛人と呼ぶ。これが2つ目の毛人である。

宋書の倭王武は九州倭国の王であることを私は度々述べてきた。したがって、宋書の方角、北・西・東は九州の或る地点からのものである。もとより倭王武の上表文は南朝宋に対して倭国の実績を誇る内容になっているため、誇大である可能性が大きい。その点を考慮に入れなければならないが、まず海北は朝鮮半島のことであろう(注)。西は九州西部だろうか。東は九州東部・中国・四国になろう。東はとても東北はおろか、東日本にも達しないであろう。すると、私たちが今日もっている「蝦夷=東北の住人」という観念とは異なっている。

(注)九州から見れば、海北は朝鮮半島である。近畿からの海北には妥当な場

所は存在しない。また、そうであるからには、倭王武は九州に拠点を置い

ていたことが分かる。

第2項 毛人とは何か

さて、毛人とは何であろうか。倭王武の言う毛人であるが、彼らは多毛であったのだろうか。すると、倭王武は毛深くはなかったことになるだろう。多毛の人間が毛深い人間を多毛という特徴づけはしないはずだ。倭王武は毛深くなかった(薄毛だった)のではないか。自然人類学の埴原和郎氏によれば(注)、多毛は旧モンゴロイド、おそらく縄文系、そして薄毛は新モンゴロイド、おそらく弥生系である。私たち現代に日本人は両者の混血であることは間違えないであろう。どちらの形質が色濃く出ているかは個人差があるが。さらに、九州とその東ということは宋書の毛人は、いわゆる蝦夷ではなく、熊襲・隼人との関係で探る必要が出てくる。蝦夷と熊襲は古来日本に住んでいたネイティブ・ジャパニーズで同種であったかもしれない。近年のDNA鑑定によっても、日本列島に住む住民のうち、北と南に住む人々のものが類似しているようである。もともと列島に住んでいた旧モンゴロイド系の人々が、後に大陸から渡ってきた弥生系の新モンゴロイド系の人々により南北に押しやられていったという過程があった可能性は大きい。

あるいは、毛人というのは単に髭剃りの習慣がなかったという可能性もある。また、ヤマト王権によって「王化に服さない人々」に対する別称、蔑称であったかもしれない。つまり単なる差別を誇張する「政治的カテゴリー」だった可能性もある。戦前の戦争に反対する人々が「赤」と呼ばれたように。

いずれにしても重要なことは、宋書における毛人は東北の住人、つまりいわゆる蝦夷ではない。この点は確認しておこう。

(注) 『日本人はどこから来たか』 埴原和郎

 小学館創造選書 1984年 第2刷 P.50~52

第3項 誤った結び付けによるトリック

これに対して、唐書の毛人について見ておこう。これは唐書の日本(国)伝に載るものであった。そして旧・新唐書の日本(国)伝はヤマト王権の自己主張が多く取り込まれていた(注)。その自己主張の一つである。新唐書日本伝は語る。「その国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人であると云う。」

    (注)拙稿、第八章「旧唐書と新唐書の間」も参照のこと

唐書では「東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人」と言われているが、ここに書かれたのは唐の認識ではなく、使者の日本人が語った内容である。「と妄りに誇っている」、「と云っている」ということが唐の認識である。私は、この「毛人」は明らかにヤマトの使者が宋書の「毛人」のことを知って語ったものだと考えている。倭王武が述べた「東は毛人」にふさわしいのがヤマトに居る我々の状況に近い、利用できる。これがヤマトの官人の発想ではなかったか。

言いかえると、唐書の東・北は日本国が「自己主張した」とおりヤマトから見た方角である。「東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人」という場合に想定される地域は、日本アルプスの東ないし北を指すことになる。倭王武の東をさらに東に平行移動させなければいけないであろう。斉明紀における伊吉博徳の書では東北、津軽が意識されていたように、書紀では「毛人」=「蝦夷」であり、蝦夷は東北方面に存在しなければならない人々であった。したがって、同じ「毛人」であっても、宋書と唐書の二つの書物に載る毛人は別々の存在として論じなければならない。

ところで、唐書に語られた誇大な自己主張にもかかわらず、東と北の大山が日本アルプスだとすると、その山外は毛人の世界であって、まだ征服されていないことを意味している。すでに見てきた通り、文武・元明の時代に、ヤマト朝廷は越後までしか進軍できていなかった。このことに符合してしまっている。したがって670年とされる唐書の毛人記事の東北の毛人はヤマトの王権によって征討されてはいなかったのであるが、唐書の自己主張においてもそのことを自ら認めるという不都合が生じている。

もし逆に、東北の毛人=蝦夷が670年の時期にすでに征討されていたとすれば、それはヤマト王権・書紀編者たちの単なる願望の中にあったものに過ぎなかったであろう。

また書紀からは離れるが、定説のように宋書の倭王武を雄略天皇に比定する立場からは、蝦夷・毛人の所在地はおそらく崎玉古墳群の稲荷山古墳よりもさらに北東の方向がイメージされることになる。定説ではすでに雄略朝において、稲荷山古墳の地帯はヤマトの勢力圏内に編入されており、そこでは国造(くにのみやっこ)がいたという日本書紀を基に学説を唱えているからである。この場合には、倭王武を雄略天皇と見なす立場からすれば、近畿ヤマトを中軸に据えるとになるので「東の毛人」は関東や東北ということになり、いわゆる書紀の描く東北の「蝦夷」と重なることにもなる。

第4項 2つの毛人は意味が違う

ただし、これだけは言える。すでに第2節で述べた通り、ヤマトの王権による早期の東国支配は不可能であった。唐書における日本国の使者によって語られた「毛人」は倭王武によって語られた「毛人」を念頭に置いているのだが、宋書の「毛人」は九州倭国の王の発言である。ヤマトの王権が九州倭国の事績を知り、さらに書紀に書くことができる可能性は3つある。1つは、伊吉薄徳の書などが九州倭国から入手した文書を基に改ざんした、つまりいわゆる「禁書」の一つが基になっていた場合。2つは、唐の時代に日本国の人たちは、宋書を読むことが出来た。実体験ではないにもかかわらず、宋書記事を基にして「毛人」記事は書けるのである。3つは、670年以降、日本国は使者を唐に送るようになる。その際に様々な情報を得ることが可能である。主に、九州倭国の遣使実績から必死に学び取ることができたであろう。

これらの情報からヤマトの官人たちは、720年の日本書紀が完成するまでに間に合わせることはできた。そのことによって、唐書の毛人は東や北の蝦夷と同一視されることになったのである。

しかし実際には、史実においてはと言い換えてもよいが、倭王武は九州の王であった。すると宋書に載る毛人の所在地は、定説が語るものよりも西に大きく平行移動され九州周辺部ということになろう。したがって言葉として同じ「毛人」であっても、倭王武の毛人と唐書の毛人とでは意味が異なっていたと言えるであろう。

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コラム

第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」をDNAから蝦夷問題を考察する

 

 

第1節 拙稿・第十章を振り返る

 

拙稿の第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」での重要な問題提起の一つは、続日本紀の元明紀(元明天皇在位707年~715年)の記事を定説がことごとく無視していた、あるいは読まなかったことにしていた問題に関わる。定説派(注)によって無視された箇所については記述がないため引用することは不可能である。ここで簡単に、第十章の要点を振り返ってみよう。

   (注)定説の立場から蝦夷研究をリードする、工藤雅樹氏、熊谷公男氏、中路正恒氏の議論など。第十章を参照。

 

日本書紀によると斉明天皇在位は斉明元年から6年まで(西暦では655年~661年)と言われる。その斉明4年(659年)4月に、安倍比羅夫が船軍180艘を率いて蝦夷を討った、秋田・能代の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞うた、などと書かれている。

さらに斉明5年(660年)10月30日、伊吉博徳書(いきのはかとこのふみ)における蝦夷を伴った遣唐使が唐の皇帝(天子)と対談する。

 

唐の天子:ここにいる蝦夷のはどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷

(あらえみし)、一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けていま

す。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:そのに五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

 

これに附随して、難波吉士男人(なにわのきしおびと)の書き記したものがある。

 

蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を天子に奉った。

 

斉明天皇の時代の日本書紀におけるこれらの記事は、元明紀の記事を無視する定説派によって繰り返し引用されている。これらに基づいて、「蝦夷は東北に居る」、「津軽までもがヤマト王権の手が及んでいる」、これらのことが自明の事実であるかのように何人もの定説派研究者によって主張されてきている。

 

しかしながら、書紀で設定された斉明天皇紀から50年ほども後の時代の続日本紀に記された元明紀には次のようにあるので見比べてほしい。

 

和銅2年(709年)3月 5日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。

そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士

などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大

輔・正5位下の佐伯宿禰石湯征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両

方から討たせた。(下線は引用者)

 

この奈良遷都(710年)が行われる前年の記事は、定説によって一貫して無視されてきている。私はこれを「定説による元明紀隠し」と名付けたのだが、元明紀のこの記述は定説によってなぜ隠されなければならなかったのか。理由は明白である。

ヤマトの王権による蝦夷征討は、元明天皇の時代に越後さえ完遂できていなかったとしたならば、斉明紀で津輕の蝦夷を討伐し、さらにヤマト王権に朝貢させ饗応するなどが空想物語に過ぎなかったことを認めざるを得ないからである。つまり、定説派は「実は、斉明天皇の記事はヤマト王権による単なる空想の産物・願望のなせる技にすぎませんでした」と認めるしかなくなる。日本書紀の立つ瀬はなくなってしまうであろう。日本書紀の大部分を史実として語る定説にとって、斉明紀さえ疑われてしまうならば日本書紀そのものへの懐疑が勢いを増すことになる。もちろん研究者によって日本書紀の何を信じるかは異なるが。

さらに付け加えれば、次の㋐、㋑、㋒、㋓も元明紀と明らかに矛盾する。

㋐崇神紀の記事によるとオオヒコの尊が「服ろわぬ民(まつろわぬたみ・蝦夷と言われてはいないが)」征討のため遠征し、会津で息子と再会する、つまり彼は会津までを平定したことになっている。

㋑景行記・景行紀(4世紀前半から中期とされている)におけるヤマトタケルの蝦夷征討譚の進行・侵攻も架空物語であったと認めざるを得なくなるであろう。関東地方から陸奥までの征討を匂わせているが、4世紀の時点で関東制覇さえ大げさであろう。ヤマトタケルについては定説派の中でも架空の物語に過ぎないと一蹴する論者も多い。

そしてさらに、日本書紀からは離れることになるが、しかし定説の中ではほぼ史実とされている事柄がある。

㋒雄略天皇の時代(発掘された鉄剣銘にある辛亥年から471年ごろと想定されている)を埼玉稲荷山古墳と結び付ける物語、というよりも定説派による古代史捏造の画策も無理筋であると認めざるを得なくなるからである。5世紀後半に関東はヤマト王権の勢力圏に取り込まれていたことになったはずだ。

8世紀初頭の元明紀で「征越後蝦夷将軍」が存在し、越後が対蝦夷戦の最前線であるという記事、また兵士の徴発も「遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中など」から行われていることにも注目しなければならない。兵士の徴発は、越後に近く、政情が安定している国々という条件が必要とされる。越後は対象外になっていた。

逆に見ると遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などはこの時代までにヤマト朝廷の安定した支配圏内に入ったことを意味するだろう。

また、さらに付け加えておかなければならないことがある。

㋓日本書紀の大化期に造営されたと記されている蝦夷対策のための城柵が二つある。一つは孝徳天皇の大化3年(647年)のヌタリ柵。新潟市造営と推定されている。もう一つは大化4年(648年)のイワフネ柵。新潟県村上市と推定されている。この記事を信じれば元明天皇の時代まで約60年もの間、新潟県内で蝦夷討伐が完遂できていないという体たらくは定説派にとっては認めがたいことになろう。

ところで、ヌタリ柵、イワフネ柵は共にその遺跡は見つかっていない。それらの造営は史実であったのだろうか、それともまだ発見されていないだけなのだろうか。万一、両柵の造営が史実であったとしても、元明紀の「征越後蝦夷将軍」が存在していた時代の造営と考えた方が理に適っているだろう。佐伯宿禰石湯(いわゆ)将軍としても越後蝦夷征討の拠点が欲しかったであろう。

いずれにしてもこれは語っておかなければならないだろう。斉明紀の伊吉博徳書の壮大な津軽までの蝦夷征討劇などと合わせて㋐、㋑、㋒、㋓の事柄とは、後の続日本紀の元明紀記事との間に齟齬をきたしているのである。以上の点から、私は斉明紀などの蝦夷の記述は真実の歴史の価値がないこと、さらに、唐の時代の史書類に登場する蝦夷に関する記事も、ヤマト王権とは無関係であることを論証していたのである。

 

 

第2節 拙稿を裏付けるDNA論

 

Ⅰ. 遺伝子解析に注目する

私は、続日本紀と日本書紀のどちらをより信頼できるのかと問われれば、迷わず続日本紀をより信頼すると答える。ところで、ヤマト王権による蝦夷征討が元明紀においては越後を主戦場にするということは史書という文献上の事柄にすぎない。私は、この史資料を裏付ける実証的な証拠が欲しいと考えていた。例えば、ヌタリ柵、イワフネ柵などをはじめとする城柵などの考古学的資料の発掘を待つなどが必要だろうと考えてきた。しかし、現在までにヌタリ柵(新潟市と言われている)、イワフネ柵(新潟県村上市と言われている)などの痕跡は見つかっていない。現在のところ、元明紀などの出来事を考古学に裏付けの役割を期待することはできない。

ところが私は最近、遺伝学上の研究の進展が蝦夷問題を解明する上で一つの重要な役割を果たしてくれるのではないかと考えるに至った。その手掛かりを与えてくれたのが「分子人類学」の篠田謙一氏による以下の諸著作であった。

 『ホモ・サピエンスの誕生と拡散』 洋泉社    2017. 6.19     篠田A

 『新版 日本人になった祖先たち』 NHK出版 2019. 5.15 第2版  篠田B

 『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「・篠田C大いなる旅」』中公新書 

                           2022.11.20 第7版  篠田C

       (以下、便宜的に各著作を篠田A・篠田B・篠田Cと呼ばせていただく。)

 

氏の著作などによって私が理解した限りでの遺伝についての基本事項である。

遺伝子についてである。Y染色体は、脈々と父親から息子へと受け継がれていく。Y染色体は男性のみが保有しているからだ。言いかえると、息子のY染色体は必ず父親から受け継いだものになる。

また、ミトコンドリアDNAは、脈々と母親から子へと受け継がれていく。受精卵の中で、父親からのミトコンドリアは消失するためである。つまり、母親の血統が分かるのである。

この点について蝦夷征討問題を論じる視点からすると、女性の系統・血統が追跡できるということは、父親の系統・血統以上に有難いことである。男性の移動は必ずしも移住・定住を意味しない。戦闘などに加えられることで移動するばあいもあるからである。これに対して女性の移動があった場合は、それは移住・定住であり、戦闘が集結し平安な時代の到来を示すであろう。つまり、これはヤマト朝廷による蝦夷征討が完了し、かなりの年月が経ったことを意味しているのである。

 

そして私は、以下の論考では次のことを前提にしている。

① 蝦夷と呼ばれた人々は縄文系の遺伝子を持ち、ヤマトの勢力は弥生系渡来人の遺伝子を色濃く持っている。その上で、篠田氏の考えを元にヤマトの蝦夷攻略のプロセスについて考察を加えていくことになる。

その際に、次の点も考慮しておかなければいけないであろう。

② 弥生系のY染色体も、ミトコンドリアDNAも共に増えていない状態があったとすれば、弥生系の人々の移動は全くなかったことを意味する。

③ 弥生系のY染色体だけが増えて、ミトコンドリアDNAが増えていない場合には、男性だけが移動し、女性は移動していないことを意味する、と。この場合には、ヤマトによる安定支配がまだ確立されていない状態、時期や場所によっては戦闘状態にあったと考えてよいであろう。したがって、弥生系の女性の移動、定住も限定的であろう。

④ 反対に弥生系のミトコンドリアDNAも増え、現代と同程度の構成に近づく、あるいは同程度になったとすれば、弥生系の女性が多数移住して定住してかなりの年月が流れたことを意味するだろう。

 

以上のことから、第1節で見た日本書紀と続日本紀における蝦夷征討の進行状況と、さらに遺伝子解析の成果とを照らし合わせてみよう。

 

Ⅱ. 日本列島における各時代の遺伝子解析

① 旧石器時代

火山国日本は土壌が酸性を帯びているため人骨の保存には不利で、日本列島における旧石器時代の人骨は少ない。よって遺伝子の解析は進んでいないが、「間違いなくいえることは、縄文人が旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団によって形成された」こと、「列島の内部では、地域によって遺伝的に異なる多数の集団が居住していた」と推測されている。

 

② 縄文時代

貝塚のお蔭で人骨の保存状況は良くなる。縄文人のミトコンドリアDNAは20種を超えている(篠田A.P136)。ということは縄文人とは、そう考えられる向きもあるが、単一の人種だと想定してはならない。むしろ、様々な方面から日本列島に集まってきて居住していた人々の集団が縄文人と呼ばれているだけということになる。人種として単一・単色であったわけではない。

ミトコンドリアDNA解析による縄文人の代表的遺伝子タイプ(ハプロタイプと呼ばれている)からは黒竜江・沿海州方面から北海道を通るコース(篠田A、P136)。から列島に到着した人々がいる。というのもこの遺伝子タイプが北海道と東日本で最多なため、北海道から流入したことがわかる。これに対して九州の縄文人にも少し異なる遺伝子タイプの系統が見られることから、朝鮮半島を経由した人々の進入も考えられる(篠田B、P204)。

他方、これらとは別の異なった遺伝子タイプがあり、これは西日本と琉球列島で多数みられることから、中国大陸の南部沿海地域から西日本に進入して東に向かったと推測される。

 

アフリカから出発したホモ・サピエンスが様々な方向に拡散していき、様々な遺伝子の変異を行いながらその幾つかの集団が再び日本列島に集まってきたようである。そして、日本列島に集まっても彼らの眼前に広がる太平洋によって先に進むことができないため、様々な遺伝子類型を持つ人々が日本列島で交雑し独特な集団が出来上がっていった。これがいわゆる縄文人である。したがって、この縄文人と似た人々を世界のどこに探しても見つかることはない。「縄文人は日本で生まれた」(篠田A、P160)と氏は言う。名言であろう。

ちなみに他分野、例えば日本語の独自さ、世界に類例を見ない縄文土器・土偶の誕生などを見るとき、これらと類似なものを他のどの世界に求めても見つけられない。これらも縄文人と同様に日本列島で生まれたものであろう。遺伝研究の成果が及ぼす範囲は広いと思われる。氏の視野は広い。この点も感銘を受けた。氏は語る。古代の遺伝子解析は「考古学、歴史学、言語学などの分野にも大きな影響を与えていくことでしょう。」(篠田C、P170)

 

③弥生時代

その後、2千数百年前に渡来系弥生人が東北中国や朝鮮半島からやってきて在来の縄文人との交雑が始まる。主に九州北部への渡来であっただろう。(篠田A.P170)

 

ところで、ここで氏による興味深い指摘がある。「縄文人と弥生人はどのように出会ったのか?」という問題である。氏によれば、縄文人と弥生人との出会いは平和的なものであったとされる。まず、縄文系の数が圧倒的で、弥生系の渡来は少人数ずつであった。

また、狩猟・採取を基本とする縄文人と、農耕を主とする弥生人とでは、他者の生活領域を侵害することなく、住み分けができた。

さらに、縄文人自身が多様な集団であったために異なる種類の人々を容易に受け入れる素地があった。以上によって平和な出会いであったというのが氏の考えである。そして氏は言う。「現代を除けば、弥生時代は日本列島の中で、もっとも遺伝的に多様なひとびとが暮らしていた時代だったのです。」(篠田C、P219)

ところで交雑が始まって以降、弥生系の遺伝要素が縄文系を凌駕するという事態が起こっているが、これはなぜであろうか。それは稲作を中心とした農耕を生業とする弥生系の人口増加が速かったため弥生系が優勢になっていったと考えられる。決して弥生系が縄文系を攻撃し追いやったということを意味してはいないということも興味深い指摘であろう。

私はそうであったことを願いたいのだが。少なくともこの時代は。

 

歴史時代の遺伝子情報

④ 古墳時代

この時代が今回のテーマにとっての最重要のポイントである。

縄文時代には全体として縄文系の集団が暮らしていたところに、北部九州方面に渡来してきた弥生系の人々が次第に東の方へと移動してくる。しかし氏の調査によれば、①古墳時代の関東地方はまだ縄文系中心であった。「古墳時代に至ってもなお、渡来系弥生人との混血は全国に及んでいなかった可能性があります。東京の日野市と三鷹市の古墳時代に遺跡から出土した複数の人骨にミトコンドリアDNAの解析をおこなったところ、渡来系弥生人由来と思われるハプログループは多数を占めてはいませんでした」と述べられている。(篠田A.P172)。つまり、この段階では少なくとも弥生系の女性が関東地方に移住・定住する段階ではなかったということを意味するであろう。

さらに、篠田Bでは、7世紀の関東地方には渡来系弥生人の遺伝的な影響が強く伝わってい

るわけではなく、在来の縄文系の人々も一定存在するということを示しているようにも見

える。ところが、縄文系と弥生系の交雑が過渡的段階であったという氏の指摘からも分かる

通り、判定の難しさがあると言えよう。そのすぐ後で氏はこうも言う。「ただし、三鷹の遺

跡の予備的なゲノム解析の結果は、彼らが現代日本人の範疇に入っていることを示してい

るので、この遺跡に関しては、すでに現代日本人に近い遺伝的な特徴を持っていることにな

ります。」(篠田B、P191~192)。篠田A(2017年出版)と篠田B(2019年

出版)との若干の差、つまりわずか2年の間にゲノム解析の前進が見られたためなのだろう

か。いずれにせよ、私の解釈としては、7世紀の古墳時代末期、あるいは古代律令制の開始

期にあっては関東地方までヤマト王権の支配が進みつつあり、弥生系遺伝子を保有する女

性の移住と定住が限定的ではあるが、関東地方まで進んできたということが示されている

のであろう。

ところで、古墳時代における弥生系の東への進行は平和的に行われたのであろうか。農業生

産力の発達などに伴う階級分化により強者が弱者を支配する社会の到来はそれを許さなくなってしまったのではないだろうか。それを象徴するのが景行紀における武内宿禰の言葉であった。「東国の田舎の中に日高見国(北上川上流か)があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

私の推測である。武内宿禰の言葉は古墳時代最終の時代の7世紀の終わりから8世紀の始

めにかけての時代状況を反映したものではなかっただろうか。この時代に弥生系による縄

文系への戦闘が開始され不幸な関係が始まった、そのように私は解釈している。そして、私

の第十章の推定では、元明天皇の時代にはヤマト王権の東への進行ないしは侵攻の完遂は

遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中までであり、それ以東、以北は戦闘の最前線だったの

である。

ところで篠田氏は古代律令制をどの時期に想定しているのであろうか。私見では大宝    律令の制定以降となるが、一般には早ければ「大化の改新(645)」が律令への出発点とされるであろう。あるいは白村江の敗戦(663)が律令制に移行する契機になったと考える研究者もいる。一歩譲って、仮に律令制は7世紀中ごろの開始と解釈してみる。それでも関東地方には縄文系が優勢な地域があったことになる。したがって、戦闘が始まっていたとしてもその終結は迎えられず、ヤマトの王権による安定支配は確立されていない地域が存在していたことになるだろう。遺伝子解析の研究がさらに進むことに期待したい。

 

⑤ 奈良・平安時代については人骨が集まらないという問題が生じる。仏教の影響で火葬が一般化し、DNA解析に耐える人骨が少なくなる。

このことは、蝦夷征討が最も激しく行われる時代のDNA解析が期待できず、この面からの続日本紀などの文献史料の史実確認を困難にする。奈良・平安時代の蝦夷討伐と在来縄文人と渡来弥生人との混血のプロセスは進んでいった時代ではないだろうか。遺伝子の解析可能な人骨が発掘されないので証明はできない。ストーリーを描くことができるだけである。

この時点では、弥生系が縄文系を攻撃し、縄文系の領土に侵攻する極めて不幸な局面が生ま

れ恒常化した時代と言えよう。征服した蝦夷の土地に他の地方から多数の人民(良民)を移

住させる。反対に、蝦夷を強制的に他の地方に移住させる。これらは続日本紀・日本後記な

どを通してみられるヤマト朝廷の蝦夷政策であった。このことを通じて着々と混血は進ん

でいったのであろう。

 

⑥ その結果として、鎌倉時代の関東では現代の基本が出来上がる。(篠田A,P174)

奈良時代・平安時代は火葬が増えたため遺骨の分析がしづらくなってしまったが、鎌倉時代の鎌倉市で土葬された遺骨が多数、発掘されている。「鎌倉時代の人骨のミトコンドリアDNAを調べたところ、そのハプログループの構成は、現代人とほぼ同じである」ことが分かった。「古墳時代までは縄文系の人々が主体だった関東も、鎌倉時代になるとほとんど弥生人たちと融合しあったといえそうです。」

するとやはり、古墳時代と鎌倉時代をつなぐ奈良・平安時代の遺伝子解析が進まないという

問題は極めて残念なことである。

とは言え、以上のことからも斉明紀のような「秋田・能代・津軽蝦夷の征討」は架空の物語

に過ぎなかったことは明らかである。そして今後、遺伝子解析が進むことによって定説のよ

って立つ基盤はさらに脆弱になっていくことであろう。

 

⑦ 江戸時代 江戸時代の人骨は語る

ミトコンドリアDNAの観点から言えば、当時、東北や信州に住んでいた人たちは、すでに

現代の日本人と同じタイプのミトコンドリアをすべてもっていた。

当然のことながら、東北まで女性の移動・定住が進んでいたことになる。

 

 

第3節 まとめ

日本書紀と定説による見解、続日本紀の要点、DNA解析を時代順に並べたものが次の表である。この表からも分かる通り、続日本紀と現段階におけるDNA解析とは矛盾せず、相補的でもある。これに対して、日本書紀とそれに基づいている定説派の主張は、続日本紀と矛盾しているばかりではない。DNA解析から見てもかけ離れていたのである。

 

 

 

 

 

 

新羅史・百済史の史料価値について

その問題点

 

1. はじめに

 

朝鮮半島の歴史は新羅本紀・百済本紀・高句麗本紀の本紀系、新羅遺事・百済遺事・高句麗遺事の遺事系の2系統がある。しかし、その元の史資料は紛失し後世に復元されたもので、本紀系は1145年、遺事系は1270年~1280年の復元であったと言われている。その際、紛失した史実を中国の史書や日本書紀に依拠していたと言われているため、同時代史とは言えない弱みを持つ。そこで私は、これまで史資料として参考にする必要はないという「直感」により軽視してきた。

しかし、第十一章において白村江の戦いを論じるために朝鮮半島の歴史やそれに関わる中国の唐書類も必要があるだろうということで、新羅・百済について、また旧・新唐書の白村江関連の記事について改めて目を通した。そして、私の「直感」は一面、当たっていたが、他面で黙認できないものがあることも確認された。明確な形で言えば、一方の百済本紀は特に参考にしなくてもよいという軽微な問題であった。つまり、白村江戦について論じる際の参考資料は、旧・新唐書に限られ、したがって百済本紀倭人伝は参考にする必要のないことを確認したのである。

他方、新羅本紀は逆に看過できない問題点がるあということが確認された、あるいは正確に言うと、むしろそれらは虚偽の歴史であるということが確認されたのである。これらの点について論じてみたい。どういう問題か。それは私の論考、第八章で論じられた問題にも関わり、倭国と日本国の関係やいかにという問題である。

 

参考資料

    三国史記倭人伝  佐伯有清編訳          岩波文庫

  旧唐書 百済国伝、劉仁軌伝 倭国伝、日本国伝   中国書局

  新唐書 百済伝、劉仁軌伝 日本伝         中国書局

     

 

 

 

 

 

2.百済本紀、白村江戦についての記述は旧唐書の丸写しである

 

A.百済本紀倭人伝〔76〕義慈王、竜朔2年(662年)7月条

漢文:「劉仁軌及別帥杜爽扶余隆、帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以会陸軍同趨周留城、遇倭人白江口、四戦皆克、焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水為丹」

和訳:「劉仁軌及び別帥杜爽・扶余隆、水軍及び粮船を帥い、熊津江より白江(注)に往き、以て陸軍と会し、同じく周留城に趨る。倭人と白江に遇い、四戦して皆克ち、その舟四百艘を焚く。煙炎、天を灼き、海水、丹(あか)く為れり。」

 

B.旧唐書百済国伝 列伝149上

「劉仁軌及別帥杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江以会陸軍、同趨周留城、仁軌遇扶余豊之衆於白江之口、四戦皆捷、焚其舟四百艘、賊衆大潰」

 

.旧唐書劉仁軌伝 列伝34

「仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江口、四戦捷、煙其舟四珀艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」

 

     (注)日本でいう白村江は、旧・新唐書では白江とされている。白江口は白江の河口のことであろう。

また、『日中歴史共同研究』でも白江、白江口が使われている。

P136,137。中国における用語なのであろう。

 

A.の「帥い(ひきい)」や「克つ」がB. Ⅽ.で「率い」や「捷つ(かつ)」に変わるなど、若干の文字の違いはあるが、完全にと言ってよいほど同じ文になっている。

A.の日本語訳があれば、B. Ⅽ.の日本語訳が不要なことからもそのことは分かる。

 

新唐書百済伝、列伝145と新唐書劉仁軌伝、列伝33にも表現は異なるが、同様の記事がある。こちらの引用は省く。

 

これは何を意味するのであろうか。百済本紀の完成(再完成)が1145年、旧唐書の完成が945年。百済本紀は旧唐書を参考にすること、いや、写すこさえともできたのである。

また写したことの決定的な証拠がある。百済本紀倭人伝〔76〕は百済の史書であるにもかかわらず、白村江戦の主体が百済の戦闘の相手である唐の劉仁軌と扶余隆になっており、したがってその記事の主語も劉仁軌などになっていた。これでは、百済の史書が劉仁軌ら中国の側のいわば「武勇伝」を記述したことになってしまっている。百済が自国の立場から描写した内容では全くない。百済の主体性が全く感じられない描写である。友好国倭国の立場からすれば「四戦皆敗」であり。したがって「四戦皆克」などは唐側の筆致であり、その最たる例を示していると言えよう。

内容的にも刊行年代から見ても、旧唐書が百済本紀倭人伝をコピーしたのではなく、百済本紀倭人伝が旧・新唐書のコピーに過ぎなかったということは明確である。最初に述べたように、白村江の史実を探る最重要な史資料は百済本紀ではなく旧・新唐書であったということになる。したがってまた、白村江を論じる研究者が、百済本紀をもとにしてその引用を行うことに私は違和感を感じる次第である。百済本紀から引用がなされる場合には、それが唐書類からの孫引きだという自覚をもたなければいけないだろう。

 

 

3.新羅本紀における倭国と日本国についての記述は

旧・新唐書からの「歪曲された」断片の切り取りである

 

新羅本紀倭人伝〔55〕にこうある(注)。「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと。」さらに、新羅本紀日本伝〔149〕にも「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと。」全く同じ文章が現れている。

(注)新羅文武王10年の記事であるが、唐の元号では咸亨元年に当たる。

   西暦では670年である。

 

ここでの文章表現は明らかに旧唐書日本国伝、新唐書日本伝に似た表現である。

旧唐書日本国伝にこうあった。

「日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは曰う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは云う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また云う、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり限界となし、山の外はすなわち毛人の国だと。」

 

また、新唐書日本伝にはこうある。

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは云う、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。」

 

 まず、旧唐書と新羅本紀には大きな違いがある。旧唐書では倭国伝と日本国伝とは別々に章立てされていた。別国扱いである。だから旧唐書日本国伝では「日本国は倭国の別種」と明言されていた。倭国と日本国とは、高句麗国、新羅国、百済国が別国であるように別国だったのである。したがって記述された内容も大きく異なっていた。それに対して、新羅本紀は倭国と日本国とを章立てとしては区別しながら、内容としては全く同じ文言であった。一字一句違わずとはこのことである。結果として倭国と日本国は同じ国、つまり「倭国=日本国」になってしまった。なぜそうなったのかについては後で触れる。したがって、新羅本紀は「倭人」と「日本」と二つに章立てをしなくてもよかったのである。新羅本紀は形だけ旧唐書の倭国伝、日本国伝に合わせたのである。

では、似ている点を具体的に挙げてみよう。まず気づくことは「倭国が自ら言う」という表現形式である。これは偶然の一致であろうか。さらに、内容的に見ると「日出づる所に近いので日本国に名を変えた」という点も、旧・新唐書の一文にあるので類似点と言えよう。

すでに第八章でも述べたように、旧・新唐書の日本国伝は極めて奇妙で希少な歴史書であった。日本国人の言うことが事実かわからないが、とりあえず伝えられたことを羅列したというものになっている。つまり「伝聞調」、言い換えると英語などでの直接話法・間接話法に当たる表現法で記述され、しかもそれを中国は「疑っていた」のであった。極めて特殊な文章表現であった。そのような記述をする史書が他にあるのだろうか。無いであろう。新羅本紀がそのような史書に似ているなどということがあるのだろうか。記述された年代を考慮すれば、唐書類が新羅の史書を模倣したということは考えられない。新羅本紀が旧・新唐書の真似、コピーと考えて差し支えないであろう。

 

ところが、形の上では似ているのに内容を精査すると重要な意味を持つ相違点がある。まず、新羅本紀の倭人伝に該当する記事は唐書の倭国伝には存在しない。類似の記事があるのは旧唐書の日本国伝である。旧唐書では「日本国は倭国の別種」であった、つまり別国であったので、倭国が日本国になったとするはずがない。両国を同一のものとして論じることはできない。これは、新羅本紀編者による大きな「誤解」、「曲解」に基づく記述である。

また新羅本紀は、新羅の文武2年、唐の咸亨元年(670年)に倭国が唐に遣使したかのような「誤解」を生む。倭国の遣唐使は、通典、唐会要などに記録された659年が最後だからである。

さらに、このことによってこの記述は別の大きな「誤解」を生じさせる可能性を持っている。新羅本紀の倭人伝でも日本伝でも「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと」記述されることによって、倭国と日本国は同一・「同種」の国であり、名前を変えただけだという主張を明確に打ち出してしまっている。旧・新唐書が疑い、そして決断しかねていた「倭国=日本国」の問題をあっさり決めつけてしまったのである。旧唐書に書かれた「日本国は倭国の別種」を無視する「世論」の形成に一役買っている。これはヤマト王権、後の日本国側の使者が主張したことと軌を一にしたもの、ヤマト王権側が唐や新羅などの海外に対して主張したかったことそのものであった。新羅本紀は旧・新唐書の日本国伝の文脈を考慮せずに、日本の遣使者の様々に主張されたその一文のみを切り取って史書を書いてしまったのである。これはひょっとして、新羅が長年の国交の中でヤマト王権の自己主張を鵜呑みにした結果であったのか、またはその自己主張の強さにあえて反対派しなかった結果なのかもしれない。これが新羅本紀倭人伝・日本伝の本質であった。

また、新羅本紀の問題点をもう一つ指摘すると、旧唐書が倭国伝と日本国伝の二本立てで記述したのと同様に、新羅本紀も倭人伝(倭国伝)と日本伝の二本立てにしている。しかし、「倭国が自ら日本国に名を変えた」という見地に立つのならば、新羅本紀は倭人伝と日本伝の二本立てにする必要は全くなかったということも付け加えておく。日本伝一本で済ませたはずだろう。形だけ旧唐書に合わせてみたということになろう。

 

第八章「旧唐書と新唐書の間」の議論を振り返りながら、再度、大事な点だけをクローズアップさせておきたい。まず、ヤマト王権・日本国の使人が語ったのはここに記された一つの発言だけではなく様々な主張をしていた。「また言う・云う・曰う」などの表現がそのことを示していた。そしてさらに、それらの発言を唐は正しいものとして理解したのではなく、「疑った」のである。新羅本紀は以上の通り、日本古代史における日本での定説的な唐書理解とも呼応し、共鳴しあっている。つまり、万世一系の天皇家は「神武天皇以来、途切れることなくヤマトで統治していた」と記述する日本書紀、そして日本書紀を拠り所にする定説を補強するものになっている。ここでは、「倭国が日本国に名を変えただけである」という定説的主張を増長する拠り所にもなりうるものである。

旧・新唐書の倭国伝と日本(国)伝における真実は次の二点だけである。

一つは、ヤマト王権の使者の中に「倭国が自ら日本国に名を変えた」と主張した者がいたということは史実であろう。しかし、「倭国が自ら日本国に名を変えた」ということが史実であったわけではないし、またそれを中国は真実だと認めたわけでは全くない。中国は「疑った」のであり、その疑いを晴らしたということはその後の中国の史書にも語られていない。

二つは、日本国の名前がいつの時点で誰によって名付けられたのかは不明だということである。咸亨元年(670年)以前に日本国という名前は存在していたのかもしれない。誰によって名付けられたかも不明だ。咸亨元年より後に名付けられたのかもしれない。例えば大宝3年(703年)の遣唐使の時代、ヤマト朝廷が確立された時代には日本国名はできていた可能性は大きい。誰が名付けたのかは別として。「咸亨元年のあの来訪者は現在の日本国の使者だったのか。では、日本国伝は咸亨元年をもってスタートしよう。」こうなったのかもしれない。残念ながら、新羅本紀からは「日本国と倭国の関係はいかに」という問題の真実を探ることはできない。唐書類も日本国の主張を疑ったままで日本列島内の歴史の真実は把握していない。また日本書紀も日本国の開始点については何も述べていない。

そのいきさつについては語られないまま、日本国名は使い続けられてきたのである。

 言う・云う・曰う の訳について 2023.4.15

 

旧唐書日本国伝、新唐書日本伝で特に目に付く表現がある。

以下、赤字太字は筆者による。

 

旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

旧唐書    (原文)

日本国者 倭国之別種也 以其国日辺 故以日本為名 或曰1 倭国自悪名不

雅 改為日本 或云2 日本舊小国 併倭国之地 其人入朝者 多自矜大 

不以実對 故中国疑焉 又云3 其国界東西南北数千里 西界南界咸至大海 

東界北界有大山為限山外即毛人之国

 

        (訳文)

   日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付け

 あるいは曰う1倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とし

 あるいは云う2日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの

が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれ

を疑う。またその国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に

至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だ」と

云う3。

 

新唐書の日本伝にはこう書かれていた。(新唐書では「日本伝」となっている。)

 新唐書    (原文)

    咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音 悪倭名 更号日本 使者自言4 

近日所出 以為名 或云5 日本乃小国 為倭所併 故冒其号 

使者不以情 故疑焉 又妄誇6 国都方数千里、南西盡海 東北限大山 

其外即毛人 云7

 

     (訳文)

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言う4には、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。 或いは云う5、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。 使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る6。その外は毛人だとも云う7

 

 訳し方によって意味が大きく異なってしまう場合がある。

ここでの話は日本語の問題、日本語訳で起こりやすいトリックがあるという問題である。

 

次の日本語を英語にしてみよう。

1. 彼は“私の名はトムだ”と言う

   He says, “ My name is Tom.”

2. 彼は自分の名がトムだと言う

   He says that his name is Tom.

 

 ここでの 言う、says に当たるのが、旧・新唐書における 言う、云う、曰う である。英語での直接話法・間接話法の表現に近い。古代中国語(漢文)に直接話法・間接話法を明示する形式は特にないのだが、内容としてそう解釈できる。

 

それでは、次の日本語は英語にするとどうなるのか。

3. 彼の名はトムという

   His name is Tom.

 

 ここでの「いう」は「言う」「says」ではない。

彼の名はトムだ(です・である)、にしてもよい。言いかえると、筆者、話者の断定、あるいは事実認識を表現している。

 したがって、旧・新唐書の 言う、云う、曰う を3の場合のように いう と訳してはいけないことになる。第八章でも強調したことだが、旧・新唐書の 言う、云う、曰う は、上記の引用の 太字 の全体を包含している。日本(国)の来訪者の主張内容であり、いわば 直接話法・間接話法 の発言内容、伝達・報告内容なのである。

 ところが通常、この 太字 の発言内容が、唐の事実認識である、だから日本(国)やひいては倭国の真の姿を語っていると解釈されてきた。しかも定説派であろうと非定説派であろうと。 言う、云う、曰う が無視されたり、 言う、云う、曰う の係る部分がどこなのかを不明なままにしたりしてきたのである。まるで、 言う、云う、曰う を 彼はトムという の いう と同じ意味であるかのように。ある場合には無意識のうちにあいまいに訳す、あるいはまた意図的に誤訳したりする。

 要するに、太字部分 はすべて日本(国)から伝えられたことだ、その多くは真実かどうか疑っている、というのが唐の真に語っていることだったのである。

 

 

 唐会要日本国伝から(原文)

 

 1. 咸亨元年三月 遣使賀平高麗 爾後来朝貢 則天時 自言其國近日出所出 

 故號日本國 蓋悪名不雅而改之

 

 2. 一気に777年や839年の遣使記事に進む 詳細は略

 

 3. 日本 倭国之別種 以其國在日辺 故以日本國為名 或以倭國自悪其名不雅

 改為日本 或云日本舊少國 呑併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對

 故中國疑焉

 

 4. 長安三年 遣其大臣朝臣真人来朝 貢方物 朝臣真人者 猶中國戸部尚書

・・・・               後略

      

 この記事は年代順に並んではいないので、正確な年代順を定めるのは困難である。編年体に馴染んでいる私としては、1,3,4,2の順であってほしかったが。

いくつか、旧・新唐書日本(国)伝との違いを挙げてみよう。

1からは、新唐書にも記された年、咸亨(かんこう)元年(670年)が記されているが、三月と月も特定されている。より詳しい。そしてこの時点では、唐が高麗を平定したことを祝しての来訪だったとされている。さらにその後、度々(繼)の来訪があった、と。

 さらに、旧・新唐書では1と3は同じ時期の遣使と読み取ることができるのに対して、唐会要では別の遣使者の発言内容と理解することができる。それはそれで、「亦言う」、「或いは云う」などが、同時代に行われた発言とは限らず、様々の時期に様々に発言する人間が来訪してきたという様子を表すのにふさわしい記述だと考えることができる。ヤマトの王権がその路線を確定できていない時期の右往左往の様子をよく表しているとも言える。遣使者によって発言内容が異なる、ヤマト王権にはまだ統一見解が無かったとも言える。

 また、度々とはいつのことかという問題もある。この文の流れからは、不明な部分もある。則天武后の時代の前までに度々の来訪があったとも理解できるが、逆にここに言う「則天時」が2回目でその後、700年代、800年代の遣使も含んで度々であったのかは不明である。しかし、則天時は690年から705年までだが、この間に少なくとも1回の来訪があったことは間違いない。その際、長安3年(703年)の粟田真人の遣使記事が別建てされているので、これはもちろん除くことになる。真人の遣使以外に1回あったということになる。

 旧・新唐書日本(国)伝では、1と3の記事が連続して記述されていたのに対し、ここでは、後代の777年や839年の記事が挿入されている。評価が難しいところだが、1,3の下線部は、日本国の自己主張であることは旧・新唐書の場合と同様である。「自言」、「或云」がそのことを示している。

 私の解釈になるが、703年の遣唐使の時点で、日本国の立場はすでに明確になっていた。つまり、「日本は万世一系の天皇の国」という政治路線が確定して、天皇の系統も明確になっていただろう。さらに律令制・元号の確立、これらが唐の高評価につながったのではないだろうか。さらに時に皇帝、則天武后による遣使者の粟田真人に対する信頼度や高評価から見ても、日本国が中国によって国家として「認定され」と思われる。

 「また言う」、「また云う」や、さらに「中国が疑う」と記述された事態は、703年よりも前のことではないだろうか。よって、3の事項は703年以前の則天武功在任時、ないし則天武后が皇帝になるより前のことと解釈したい。

以上、唐会要という資料についての解釈を試みてみた。