日本書紀の壬申の乱と
古田武彦氏の『壬申の乱の大道」、『壬申大乱』について
はじめに
結論から言えば、古田氏は壬申の乱については触れないままの方がよかったのではないだろうか。私の考えを言えば、日本書紀にしか書かれていない壬申の乱については、その真実は何か以前に、それが現実に起こった出来事なのか否かについても断定的に語ることはできないということである。日本書紀と氏の議論を検討しながら壬申の乱をめぐる問題について考えてみたい。
古田氏の壬申の乱をめぐる考えは、主に次の二つに表明されている。
一つは、2001年1月22日の大阪市北市民教養ルームにおける講演、『壬申の乱の大道』である。私はInternetで見つけたもので、以後は『大道』と略記する。この講演からの引用は、章立ての通りに「一.初めに」から「七.壬申の乱」、そして「追加としての質疑応答・補足」などとして示す。
二つは、2001年10月25日出版の『壬申大乱』東洋書林で、以後は『大乱』と略記する。
古代史一般について、私は以下の諸点などで氏の研究について賛同している。
・中国の史書を日本書紀に優先する姿勢。
・安易に文字の変更を行わず、同時代史に近い史料を優先し、原文を忠実に解釈すること。
・卑弥呼の統治する倭国が九州にあったという氏の主張、などなど・・・。
また、日本書紀と定説による「壬申の乱」とそれに少し先立つ白村江の戦に対する氏の見解に賛成の部分を挙げると、
1. 書紀の支離滅裂な記述についての指摘
『大道』“六〟 白村江後に防衛施設の築造などが敗戦後に、しかも唐軍が進駐し
ているときに対唐防御施設を築造することへの疑問の提示。これは定説によ
る日本書紀理解への批判である。
これらの施設は白村江戦以前のものという氏の指摘は大事である。年代鑑定
も正確に行われなければならない。
2. 白村江戦は九州倭国が参戦したもの、ヤマトの勢力は関りを持っていない。
白村江についての書紀の記事は倭国の事績を盗用・改変した可能性が大きい。
白村江の様々な史料は中国からの渡来人、遣使者たちの中国における情報収
集、唐の史資料の入手、そして倭国などから入手した「禁書」に書かれた情報
などに基づいて記述された。
しかし、幾つかの点で私は古田氏の説に疑問を抱いている。以下の1~7まではその主要なものである。
1.群評論争について
「郡評論争と北魏」について論じることの意味が不明、不必要ではないか
北朝と「郡」、および曹魏と北魏の関係
1-1 壬申の乱と郡評論争の関係とは(1)
講演『壬申の乱の大道」は、「郡評」の問題から始まっている(「『大道』二、郡評論争と魏」)。それが何故なのか、これに私は戸惑う。「郡評」問題とは、簡単に言えば、日本書紀は「郡」一色であるが、それ以前の時代には日本各地で「評」が使用されていたことが出土した木簡などから判明した。ヤマト朝廷が確立し、大宝律令制定以降「郡」が使われるようになったのであるが、それより古い時代には「評」が使われていた。そしてそのことを日本書紀は隠したと古田氏は主張する。氏によると、その理由は「中国の北朝・魏は『郡』を採用していたため、日本書紀は北朝、また隋や特に唐に『オベンチャラ』を使った」、「我々も北朝側と深く関係を持っていました。そんな嘘のアピール」を行ったからだと言う。が、しかしこれは全く意味不明である。
中国における北朝系が「郡」を採用していたというのはどういうことなのか。氏の考えを要約するとこうなる。
まず、①魏志倭人伝を引用していた書紀の神功皇后紀が「郡(帯方郡のこと)」を使っていた。神功皇后紀には確かにそのような記述がある。これによって、日本書紀は「郡」を使用していたことが示された。
そして、②北魏は魏の後継勢力を自認しているので同系統であると主張する。よって、北朝系の北魏、さらにその後継勢力である隋・唐も「郡」を使用した。
しかし、この①②によっては北朝では「郡」を使用したことは証明されていない。
たしかに北魏をはじめとした北朝や隋、唐は北朝系、言い換えれば鮮卑を中軸とする王権である
さらにまた、古田氏の『古代史の十字路』(東洋書林P168)でも郡評論争が取り上げられて、次のように述べられている。
北朝系の唐が東アジアを征服した段階(北朝が南朝を滅ぼし隋が建国される)で、南朝は「偽朝」とされた。したがって「偽朝」から任命された倭王の「都督」は「偽都督」とされ、その配下の「評督」は「偽評督」とされた。その結果、「評督」の支配する行政単位である「評」も「偽評」とされた。それゆえ、史書(日本書紀・続日本紀)からも、歌集(万葉集)からも、文書(正倉院文書)からも、「評」は一切、除去されるのを原則とした。(地下や地方の金石文等に一部残存。)ヤマト一元史観を批判し、多元史観に立たなければいけない、この脈絡で「郡評論争」が持ち出されたのであろうか。
1-2 「郡」は南朝に繋がる曹魏のもの
ところが、三国時代の魏、つまり魏志の魏は漢民族の王権である。魏は言うまでもなく後漢の武将・高官であった曹操が「禅譲」によって樹立した王権であり、「曹魏」とも呼ばれる。これは当然のことながら漢民族の王権であった。神功紀に引用されていた帯方「郡」は魏志からの引用であるから漢民族のものであった。しかも、魏志の帯方「郡」ばかりでなく、後漢書には楽浪「郡」という使用例もあったのである。後漢書はもちろん漢民族の王権の史書である。その後、漢民族の王権は(西)晋・南朝に繋がっていく。この点については古田氏自身の『失われた九州王朝』(P316・第三章・二人の天子・角川文庫)は詳しく明確に指摘していた。
よって、神功紀で「郡」と記述されていたのは北魏、つまり北朝系のものではなく、漢民族(=後に南朝に引き継がれていく)のものであった。
1-3 北魏と曹魏
北魏が曹魏とのつながりを持つとすれば、それは北魏が曹魏の後継であることを自ら主張したことによる。権力を掌握した者の主張は強く広範囲に及ぶ。しかも北魏の漢化政策は様々な面で徹底して行われた。漢文化を積極的に取り入れていったのである。したがって国名も「魏(魏志の曹魏と区別するために北魏と呼ばれる)」を名乗り、仏教文化・儒教文化を摂取する。それだけでなく、さらに言語も母語を放棄して漢語が採用されていき、服装文化も漢式に改めていったのである。(拙稿:第一章、第五節を参照)
したがって、魏志の曹魏は北朝ではなく、書紀が「郡」と記述したのは北朝に「オベッカ」を使ったわけではない。漢民族・曹魏がもともと「郡」を使用しており、まさしくそれを「引用した」、「盗用した」、今風に言えば「パクった」だけのことである。この点は確認しておく。
1-4 壬申の乱と郡評論争の関係とは(2)
さらに、なぜ氏が「郡評」問題を『壬申の乱の大道』の冒頭で語りだしたかについては、その真意は定かではないが、もう一つの理由は、日本書紀を信じる定説派の学者を念頭に置き、『大道』“二〟の最後で次のように述べていることに関があるのだろうか。「中国の史書を問題にしなくても良い。我々は『古事記』、『日本書紀』を元にすればよい。そういうことを書いている学者がいるが、とんでもない。」書紀は疑われなければならない、と。
この点については、その後の『大道』五で、家永三郎氏との論争に関わったことを回想して、「家永氏が天武紀・持統紀は信用できる」と述べたのに対して、古田氏は「日本書紀はすべて信用できない」と応答している。「書紀は信用できない」という一つの事例として「郡」、「評」の問題が語られたのであろうか。(書紀が信用できるか否かという問題は後に7.で改めて触れる。)
壬申の乱に関して言えば、天武紀・持統紀の嘘、例えば「吉野は奈良ではなく吉野ケ里の吉野」などを発見し、その嘘の裏にある真実を発見したと自負する古田氏が、「日本書紀は疑って読む」、「そのような姿勢から隠された真実を抉り出す」という必要性を示そうとしたのではないか。その一例が「郡評」問題であった。そうであったとすれば、古田氏の目論見は大きく外れることになった。「郡」は北朝の専売特許ではなかったからである。
1-5 「評」は南朝と関わるのか
さらに古田氏は反対に、中国の南朝は「郡」ではなく「評」を使っていたことを示さなければいけなかった。ヤマト朝廷が「評」を使わず「郡」を使ったことが「北朝の唐に対するオベッカ」であると語るのであれば当然ではないだろうか。南朝は「評」を使っていた、と。しかしそれについては氏によって語られていない。事実として、中国の史書に漢民族の南朝系が「評」を使った形跡はあるのだろうか。しかし、すでに述べたように南朝に引き継がれていく曹魏の魏志も後漢の後漢書も、既に「郡」を使っていたことは間違いのないところである。
1-6 「評」の由来とは
今後の検討課題を一つ付け加えると、「評」についてはwikipediaの説として高句麗(『北史』、『隋書』)や新羅(『梁書』)などの朝鮮半島由来の制度という議論がある。新井白石・本居宣長・白鳥倉吉らも「評」は古代朝鮮語に由来すると考えていた。それが事実とすれば、「評」が朝鮮半島からいつ、どのような経緯で日本列島に伝わり定着して、出土する木簡や、古文献にも痕跡をとどめるに至ったのかということは調査・研究されなければならないだろう。そうなれば、「評」と「郡」は中国の南朝と北朝の問題とは無関係ということになろう。「郡」と「評」は中国の王権の問題ではなく、朝鮮半島と日本列島の問題であるかもしれない。木簡からは記紀が執筆された時代よりも古い時代の「評」、そして日本書紀には「郡」。ここにはいかなる問題があるのだろうか。「郡」と「評」の使い分けは今だに謎のままではないだろうか。「評」木簡の出土状況や年代の特定など今後の考古学的な成果を待たれるところである。
2. 万葉集の歌と前書きについて
『大道』“七”
2-1 歌の前書きと史料批判
「歌そのものは第一次資料(直接史料、同時代史料)」であり、「前書きや後書きは第二次史料(間接史料、後代史料)」というのが『古代史の十字路』の立場(東洋書林P8~9)であった。つまり、古田氏によれば、歌が第一次史料であるのに対し、万葉後期に属する大伴家持などを除けば、より古い歌の前書きなどは後代に書き添えられた第二次史料にすぎないと述べていた。言いかえると前書きなどは資料批判抜きに信じることはできないということであった。しかしながら、この『大道』“七”ではそれがかなぐり捨てられている。この歌の前書きに「天皇御製の歌」とある。氏は、何の断りもなくこの歌が天武天皇の歌だと断定している。
そして、『大乱』でも同様に、いきなりこの歌が天武天皇の歌として議論が始められている(『大乱』P145)。この点は『大道』と同様であった。
天武の時代の万葉歌は新しい時代に属するのだろうか。そうではない。
万葉の第二十五歌
みよしのの みみがのみねに ときなくぞ ゆきはふりける
まなくぞ あめはふりける そのゆきの ときなきがごと そのあめの
まなきがごと くまもおちず おもひつつぞこし そのやまみちを
氏の言うように、吉野などの地名は九州の地名だったという説は興味深い。しかし、この歌が天皇の歌であったという保証はない。天武の作歌であったということはなおさら言えない。氏自身が主張をしていたにもかかわらず、前書き批判を遂行しなかった一例である。
前書き批判を遂行した例である。万葉集第二歌は堂々と舒明天皇の名で載せられているが、『古代史の十字路』ではこの万葉第二歌について古田氏は次のように指摘する。この歌は近畿ヤマトの歌でもないし、舒明天皇の歌でもなく、さらに歌の香具山は大分の鶴見岳だという斬新な、しかし説得力のある解釈を打ち出していた。第二歌は舒明天皇の歌と題されていたにもかかわらず、資料批判の結果、舒明天皇歌ではないとされた。
ところが第三歌は前書き批判抜きに舒明歌だとされている。
二十五歌に戻って言えば、その前の第七歌から二十歌まで天智天皇歌や額田王歌がそれぞれ幾つか並べられており、さらにそれらに続けて二十一歌に天武天皇名の歌も置かれている。だから二十五歌も天皇御製というだけで天武作であろうと推測されたのであろうか。しかし、第二歌への史料批判精神に比べると、この歌については甘すぎる「史料批判」になっている。
そもそも万葉歌の配列が現行の万葉集のままで正しいのかという大きな問題がある。氏の万葉歌論の立場としてだが、例え作歌者名が書かれていたとしてもそれを信じることに慎重な古田氏が、なぜ「天皇御製」とだけしか書かれていない第二十五歌を天武天皇の作だと決めることができたのであろう。それゆえ、もしこの歌が天武のものでないとすればこの歌を根拠に氏の展開する「壬申の乱との関り」も希薄になり、氏の主張は懐疑の眼に晒されることになる。
2-2 第二十五歌と壬申の乱の関係やいかに
ここで若干うがった見方をするが、この歌が壬申の乱に関わるとすれば、それは古田氏が想定する壬申の乱の重要な地名、「ヨシノ」にあるのだろう。日本書紀の壬申の乱で主要舞台の一つである奈良の「吉野」、持統紀に三十一回も登場する「吉野」行幸、そして氏のキーとなる場所「吉野」ケ里。この三つの「吉野(ヨシノ)」が氏の頭の中で連想的に結合された。そして佐賀の「吉野ケ里」が壬申の乱の最も重要な裏舞台、あるいは天武と郭務悰による密約の場になったのである。
私の推理が当たっているか否かはあまり重要ではない。後に、4の『大道』“七”で述べるように郭務悰ら唐軍は筑紫に来ていないというのが私の見解であるからだ。天武と郭務悰との密約などは存在しえない、というのが私の見方である。日本書紀とそれに依拠した古田氏の壬申の乱についての構想はどちらにしても端から成立していないのである。
実際問題として、この歌と壬申の乱が重要な関わりを持つなどとは他の誰も想像できないであろう。またこの歌の作歌者は様々に考えられる。九州倭国の王の歌であったかもしれない。またはその官人、あるいは一般の人民であるかもしれない。あるいは作歌者はヤマトの大王、豪族、一般庶民であったかもしれない。あるいは東国の人であったかもしれない。不明瞭である。しかし、いや、だから、というべきであろうか。この歌は不明瞭ゆえに歴史を生き延びてきたとも言えるであろう。書紀の「万世一系論」の論旨に合わない内容で、しかも具体性を帯びた出来事が歌に謳われていたとしたら、闇に葬られてしまったかもしれないからである。
いずれにしても私は古田氏の『古代史の十字路』における歌論に強く魅了されていただけに、ここでの氏の歌論には残念な思いが強く残るのである。
3. 九州一元論への道
九州倭国とヤマト王権の関係 舒明=「中皇命の家来」という発想法
『大道』“三〟
3-1 前書きへの資料批判問題再び
万葉集巻1 三番歌
〔前書き〕天皇、宇智の野に、遊獮したまう時、中皇尊が間人連老をして獻らしめたまう歌
やすみしし わごおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには
いよりたたしし みとらしの あづさのゆみの かなはずの おとすなり
あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの
あづさのゆみの かなはずの おとすなり
(古田氏は「かな」を「なか」とする)
ここでの議論もまた歌から始められている。日本書紀以外の壬申の乱の資料がいかに少ないかを物語っている。私ならばここで「資料不足につき壬申の乱についての探求は困難」ということで断念するところを、古田氏はさらに「壬申の乱の真実」に向かっていく。前書きにある天皇は唐突に舒明天皇だと、再びここでも指定されている。というのもこの歌の直前の第二歌が舒明天皇の歌であったからである。その流れでこの歌に登場する天皇は舒明天皇だと考えられたのであろう。同じ天皇歌がひとまとまりにされているのだろう、と。いずれにしても、前書きへの資料批判が無いことはここでも氏自身の原則に反することになる。
さらに、私にはこの歌の解釈はできないのだが、少なくともこの歌は舒明天皇の時代のものとすれば、壬申の乱とは全く関係が無い。壬申の乱は天武紀の事件である。氏はなぜ壬申の乱を論じる『大道』で本歌について論じたのであろうか。
3-2 三番歌が取り上げられた理由
氏は九州倭国を本家、近畿天皇家を分家とする考えを持っていた。その点をここでも再確認しようという意図があったのかもしれない。つまり、この歌の中の登場人物の身分、位取りに意味を持たせようとしていることは明らかであろう。
この歌の登場人物は古田氏の解釈によれば四人である。
一人は天皇、つまり舒明天皇、歌の中では大王・おおきみ。
二人目は、中皇命(なかつすめらみこと)、天皇が仕える九州倭国の天子、歌の中では朝(=「あした」ではなく、帝・みかど)。
三人目は、中皇命の后、歌の中では夕(「ゆうべ」ではなく「后きさき」)。
そして四人目は、間人連老(はしひとのむらじおゆ)、大王・天皇に仕え、歌の中では「我」・「わご」として登場する。
以上が氏の解釈による登場人物と身分である。
しかし、万葉が編纂された時代は天皇の地位が強固に確立され始めた時代の八世紀後半である。つまり天皇が至高の存在と考えられるべき時代に「天皇、おおきみ=大王」の上位に「朝(みかど)=皇命(すめあらみこと)」が存在するという歌が堂々と人目に付く形で残ることはないであろう。これが氏の解釈についての疑問の一つである。
さらに、歌の逐語訳は私にはできないが、登場人物は次の三人も可能という解釈も成り立だろう。
一人は大王(何天皇なのかは不明)。
二人目はその妃・「中皇命」。一般には、「中皇命は皇后・大王の后」と解する説もある。その解釈の方がより無難だと思われる。この方が、氏が心配した、九州倭国の天子=中皇命が老に作歌を依頼するためだけでここに登場するという事態を防ぐことができる上に、さらに雌雄両性を具有した人物が歌に登場することも回避できる。また、登場人物を減らして、歌の煩雑さを回避することもできる。
そして三人目が作歌者の間人連老。彼は歌の名人だったのであろう。
また、氏の語るように「中皇命」の「中」が地名で「那珂川・那珂郡の那珂」だとすると九州王朝の皇命に相応しい広大さを持っていない。特定の地域に限定されてしまっている。まるで、倭国の女王=卑弥呼が「邪馬壹国の女王」、日本の首相が「東京の首相」とされているような不自然さである。
この歌からはいつの時代かは特定できないが、ある天皇ないし王がいてその妃が官人・歌人の間人連老に歌を詠ませたというシチュエーションは考えられる。以上、九州王朝の天子はこの歌には登場しない方が無難ではないか。
先にも述べたように、この歌の正しい解釈は不明であるが、古田氏が「中皇命」を「九州王朝の天子」と解釈することで九州倭国の天子がヤマトの天皇、ここでは舒明天皇を家来にするという関係を導き出そうとする意図は明確に読み取ることができる。
3-3 九州倭国の天子と近畿の天皇
多利思北孤と用明
さて、ここでの「中皇命と舒明天皇」の関係は例の「多利思北孤と用明天皇」の関係とそっくりである。氏がこの歌に見たもの、それは「九州の天子とヤマトの天皇」の関係性が歴史資料として万葉歌という形で文字に残されていた、ということであったにちがいない。
すでに別のところで述べたことであるが、定説によっては語られることがほとんどない問題でもあり、反定説としての古田氏が取り挙げながら氏が大きな誤解をしていたために、これまでは正しい解釈が行われたことがほとんど無かった新唐書の「用明、目多利思北孤」という一文についてである。少し長くなるが、あえて振り返っておこう。
古田氏の解釈では、「目」は「サッカ」あるいは「サカン」と読み、意味は「補佐官」とか「家来」だという。すると全体の意味は「用明は多利思北孤の家来だ」という意味になるとされる。
しかし、この解釈には問題が二つある。まず、上の文は古田氏のように「目」を補佐官・家来」と解釈できたとしても、「用明、副官・家来は多利思北孤である」と読むほうが自然である。氏は用明を九州倭国王の家来と読みたいという期待・願望があったためにこの文の意味を取り違えていたと言えないだろうか。古田氏の読み方には無理があった。
さらに、新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」(これをⒶとする)の一文には唐関係の史書類などに類似表現が存在していたが、氏の解釈はこれらの異本の文の読み方に照らしてみても無理がある。以下は、異本からのものである。
①北宋版『通典』 倭王姓阿毎、名自多利思北孤
②『唐類函』所蔵の『通典』 倭王姓阿毎、名目多利思北孤
③松下見林『異称日本伝』所載の『通典』 倭王姓阿毎、名目多利思北孤
④松下見林『異称日本伝』所載の『通典』 倭王姓阿毎、名曰多利思北孤
⑤直隋開皇末、始與中国通『新唐書』 用明、亦曰目多利思北孤
これらの表現は、次の隋書の一文を元にしている可能性がある。
隋書開皇20年 俀王姓阿毎、字多利思北孤
(これをⒷとする)
Ⓑには阿毎という人と、それとは異なる多利思北孤の2人の人間がいるわけではない。同一人物の「姓」と「字」に他ならない。意味は「俀王の姓は阿毎、字は多利思北孤である」と容易に読むことができる。
上の①、②、③、④は「俀(倭)王姓阿毎」が共通しているので「隋書系の資料」と名付けてもよいであろう。そして①から④のどれも、同一人物の姓と字(あざな)であると考えることができる。
ところで、①から④までには文字の違いがある。①は「自」、②と③は「目」、④は「曰」の部分である。どれも文字が似ている。ひょっとしたら、いずれかが正しく、いずれかが誤りだったのだろうか。そう考える研究者は少なからずいる。中国の史書には誤字などの間違いが多い。ここでもそのたぐいの誤字が現れたに違いない、と。ここでの場合は、例えば「目」が正しいと考え、「目」を「「サカン(家来・副官)」と読んでしまうと他の「自」、「曰」は誤りと捉えることになる。字の間違えは正しようがない場合が多い。特に固有名詞などはそうであろう。新唐書の天皇名では、敏達天皇が「海達」になるなどの例がある。持統天皇も「総持」とするなどの誤りが多い。同じ持統天皇が宋史では「持総」と表記されたりもする。もし、中国側が日本書紀にあるこれらの名を知らなければ、「そんな人物がいるのか」、「誰だろう」、ということにはなる。実際、知らなかったであろう。しかし、それでも済ませてしまうことができる。中国の官人たちにとって、日本の過去の天皇名はさほど重要な関心事ではなかったであろう。しかも、天皇の漢風諡号などは8世紀後半以降になってからできたものである。したがって、それ以前の敏達、持統などの天皇名は中国側にその後伝えられたのであろう。おそらく一気に。同時代を生きた天皇の名前ではないのであるから、仮に字の間違いがあったとしても、中国は「そういう名の天皇がいたのか」で済ませることはできる。文章の流れは掴むことができるからである。
おそらく科挙に合格した中国の官人たちは日本の受験などには合格できないであろう。「一字一句正確に」というのが日本の試験の性格である。日本人にとっては、特に天皇の名前を間違えることなど、試験の答案でない場合でも決して許されるものではない。「常識」の欠如だと言われてしまうであろう。そして、日本の優れた古代史研究者たちは、中国の史書の誤字に対して寛大ではなかった。「こいつらはこんな字の間違いを犯している。きっと、魏志の「南」も「東」の間違いだったのではないか。方角すら理解できない連中だ。誤字や間違いが見つかったらドンドン訂正しよう!」このような雰囲気を研究者たちの間に醸成したので
はないだろうか。そして、「巧みな修正ができる者が優れた歴史家である」、という環境まで生み出したのではないだろうか。
この点にさらに付言すれば、定説が中国の史書の文字訂正を平気で行う風潮が作り出されたのは、新唐書や宋史などの天皇名の誤字の多さが最大の原因、あるいは遠因かもしれない。これが、古代史研究者たちの誤字探しに始まり、さらに中国人は方向感覚も持っていないなど、明らかに内容までにも手を加え改変するところまで進む。「南」と東」のように誤字ではないものまでも変更する、しかも自分の都合に合わせた「我田引水的」文字改訂が行われる風潮を創り出したのではないだろうか。これでは史資料の意味をなくしてしまうことになる。
3-4 「自」、「目」、「曰」の読みと意味
本題に帰ろう。しかしである。もし字の間違いがあって、そしてそれが原因で文章の意味が取れなかったとする。このとき、科挙に合格した中国の優れた官人たちはそれを放置したのであろうか。ここでの問題に立ち返って考えてみよう。①から④のすべての文書は中国の史官たちにとっては意味が取れるものだったのではないか、と。だから、「自」、「目」、「曰」というように字の違いがあっても放置され、歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。これらの文字の違いは固有名詞の場合とは意味あいが違う。したがって、①から④までは、これらの字のままで意味が分かるように読まなければいけないだろう。新唐書の天皇名には誤字が多いとして片づけられて済む問題ではない、と。そして、字の違いがあったとしても、意味の通るものとして理解すること、それが私たちの果たすべき責務になる。
もし、古田氏がこれらの異本の存在を知り、それらの文字を替えずに解釈するとしたならば、氏はどのように対処したであろうか。第一次資料である中国の史書は理由もなく文字を変更してはならない、原文のままに読む。これが古田氏の信念であり、方法であった。氏の回答は分からないが、氏の提示した方法で考えてみよう。
すると、①から④のいずれも文字を変更せずに意味が理解できるのである。次のような読み方と意味になる。
①は「倭王の姓は阿毎、名は自から多利思北孤とする」
②、③は「目」を「もくする」と読み、意味は「見なす」である。「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤だと目する(見なす)」
④は「倭王の姓は阿毎、名は多利思北孤と曰う」
よって、「自」、「目」、「曰」はどの字も間違いではなかったし、読解可能であった。だから、これらすべての文字が歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。
したがって、A「用明、目多利思北孤」は「用明を多利思北孤と見なす、と曰う」、
⑤の「用明、亦曰目多利思北孤」は、「用明をまた他利思北孤と見なすと、曰う」、という意味
になる。
3-5 「唐書的状況」
ところで、Aや⑤における漢風諡号の「用明」などと回答できたのは、漢風諡号がつくられた八世紀後半以降ということになる。咸亨(かんこう)元年、670年の時点でこのような回答ができるわけはない。また、この670年の時点で「日本(国)伝」に王の名が記されていなかったということは、倭風諡号さえでき上っていなかったとみなすしかないだろう。したがって670年時点での唐と日本国の使者の会話は奇妙なものとなっただろうと推測できる。
中国側は九州倭国の王の名前は知っていたはずだ。特に多利思北孤のことはよく知っていた。隋書で「対等外交」を仕掛けてきた人物で隋書にも載っているが、その隋書を書いたのは唐自身だからである。しかし、唐は歴代の日本の王については知らない。その様な背景があってここでの会話は行われているのであろう。日本国のことなど何も分かっていなかったのである。そして日本国の使者は唐の発する質問に対して670年時点では満足に回答ができなかった。したがってそのことも唐に疑われる原因になったと思われる。唐は多利思北孤はどの時代の誰の次、誰の前の王であったかなども知りたがったのであろう。どうも倭国の王の系列とは違うようだ。国土の位置や広さなども随分違う。そのような感覚を唐が抱いたのが咸亨元年、670年の時点での状況であったのである。私は、この状況と日本(国)伝において日本国の使者の発言を「唐が疑う」という状況とを合わせて「唐書的状況」と名付ける。
そして八世紀後半以降のいずれかの時期に、日本国の正規の遣唐使が「多利思北孤は用明に当たる、用明と見なす」と回答し、それが新唐書日本伝に記載されたのであろう。
古田氏の構想する「中皇命と舒明天皇」の関係性は「多利思北孤と用明天皇」と同様の関係性の第二弾である。万葉歌の中に文字資料として「九州倭国の天子とヤマトの天皇の主従関係」の証拠を見つけた、これが氏の解釈の根底にあったと思われる。九州が本家、ヤマトは分家という想定、この枠の中から出てきたのが氏による「目多利思北孤」の読みと意味の解釈であった。そのような誤りの原因は、氏が旧・新唐書の「唐書的状況」を把握できていなかったことに起因していると考える次第である。この同じ「唐書的状況」を把握できていなかったことが原因で、古田氏がヤマト王権が中国といつから遣使関係を結びはじめたのかを把握できていなかった点については、拙稿の「第八章 コラム6」で述べている。
4. 唐軍・郭務悰は筑紫に来たのか
書紀の郭務悰と古田氏の『大道』、『大乱』における郭務悰
『大道』“七〟
日本書紀と古田氏の壬申の乱についての最大の疑問点である。それは、郭務悰は白村江戦後に筑紫に来ていたのか、さらに郭務悰らが筑紫に来ていた時期の前後に壬申の乱が起こったと言えるのであろうか、という点である。いや、書紀や古田氏にとどまらない。ほとんどの古代史研究者は、「郭務悰ら」の筑紫への到来を前提にして議論を展開している。定説、非定説を問わず、一種の「常識」になっているようだ。この点、右に倣えで「日本書紀を信じている」。日本書紀の魔力であろうか。したがってこう言い換えよう。この「郭務悰らが白村江戦後に来筑している」という「常識」は歴史の真実であろうか、と。定説の元となっている日本書紀と、非定説の代表、古田氏の見解を検討することによって考察してみたい。
4-1 日本書紀の郭務悰
日本書紀によると、天智天皇の時代に白村江戦に敗北しその後、郭務悰らの筑紫への派遣(が記されている。戦勝国としての軍団の派遣であろうか。二千人が二回などの、合計六回、筑紫に来ている。以下、これらを来筑と呼ぶ。さらに、壬申の乱の直前に当たる、天智四年十二月、天智天皇が崩御する。そして、天武紀元年春三月十八日、郭務悰は筑紫に滞在していた。「朝廷は内小七位安曇連稲敷を筑紫に遣わして、天皇(天智)のお崩れになったことを郭務悰らに告げさせた」、と。ここに言う朝廷とは大友皇子の居る近江朝廷のことである。そしてこの年の五月三十日には郭務悰らは帰途に就きその後、郭務悰記事は無くなる。ここから唐軍全体が壬申の乱以前に筑紫から撤退したという説も生まれることになる。
ところで、まず日本書紀の郭務悰来筑は不自然極まりない感覚が漂う。日本書紀の立場は、白村江に参戦したのはヤマト王権だったはずだ。何故、郭務悰らはヤマトや近江の近くではなく、筑紫で止まったのだろうか。もし、郭務悰の来筑の目的が戦勝国として敗者であるヤマト王権の制覇であり、さらに戦後処理のためにヤマト王権の政治責任者と面会する必要がある。そのためには政治の中心地を訪れなければならないはずだ。これではまるで、第二次大戦後のマッカーサーの進駐軍が、札幌に来た、仙台に来た、名古屋に来たというのと同様に不自然だ。しかも、近代、現代のように交通は簡便ではない。数十年後の遣唐使記事でさえ、例えば多治比真人は九州(大
宰府か)と奈良の間の移動に、約1カ月と20日ほどかけている。粟田真人は、休息もあったのであろうか、さらに移動に日数をかけている。しかも、瀬戸内海を航海する熟達者が先導した上での日数であっただろう。唐が瀬戸内海を何日で移動できるというのだろうか。筑紫とヤマトでは隔絶しすぎている。
そして、郭務悰の訪問地が筑紫であったとすれば、近畿中心の王権の立場からすると、列島の政治の中心が制圧されたとはとても言えないし、政治的責任者、首脳たちが郭務悰に面会する必要すらないことになる。したがって、郭務悰の来筑はもともと意味をなしていない。これは書紀執筆者たちが、白村江戦は九州倭国による戦争であったことを自覚しており、図らずも唐軍を筑紫までにとどめてしまったのであろうか。何とも間の抜けた話ではないか。
それはおくとして、本題に戻る。まず、日本書紀を信じる限り、郭務悰らは壬申の乱の時点では帰国しており、筑紫にはいない。したがって、郭務悰らは壬申の乱を直接、体験はできなかったことになる。とは言っても次のように言える。「郭務悰らは日本列島については九州の状況から近江朝廷までの地理的状況と日本列島の政治的状況は把握できていた」ことになる、と。郭務悰らは壬申の乱の直前までは列島に陣を張っていた、さらに近江朝廷の天智天皇との一定の交流があり、さらに大友皇子さえも郭務悰に天智の死亡報告をしているからである。
しかし、これは先に述べた、日本国伝の唐は日本列島内の状況を十分把握できていなかったこと、つまり「唐書的状況」とは矛盾することになる。したがって、「唐書的状況」を前提として考えるならば、郭務悰が来筑したということは史実とは認められないことになる。
4-2 古田氏の郭務悰
古田氏の見解は書紀のこの矛盾をさらに大きくする。書紀以上のことを語ってしまっているからだ。一つは天武元年五月三十日の「郭務悰らは帰途に就く」は唐軍全体の撤退を意味しない。唐軍は変わらず筑紫を占領していたという立場を採る。
氏は「わたしには中国(唐)人という『国際場裏の達人』が“あとのことを”何も考えず、『空手』でただ帰国してゆく。それほど“無邪気”で“無計画”な人々であるとは、到底思うことができないのである」と語る。第二次世界大戦後の米軍と同じで戦勝国としての優位性を簡単に放棄するほど大国は決して甘くはないとする(『大乱』 P75~76)。
すると、唐軍は壬申の乱の時点でも筑紫に駐留していたことになる。だから氏は言う。郭務悰らは「『倭国=九州』内の「国内情勢について十二分にキャッチしていた」、と。
そして氏はさらに第二に天智と郭務悰、両者の交友関係をさらに書紀以上に強調している。古田氏にとって倭京は筑紫である。書紀によると天智は倭京に出向いたとされているので、天智と郭務悰は筑紫で直接会って親交を深めていた可能性があると指摘する。だから、郭務悰が天智崩御に際して木彫りの阿弥陀仏を贈ったのだ、と。さらに『大道』では、倭国敗戦の原因が近畿天皇家(天智天皇派)が唐と内応していた可能性があるとことにあるのではないか、したがって郭務悰としては「近畿天皇家に足を向けては寝れない」と感謝の念を抱いていたとまで語っている(『大道』“追加・懇親会〟の最後)。天智との深い交流を通して郭務悰らは九州倭国だけではなく、ここから近江までの政治状況を「キャッチしていた」ことになるのである。書紀の描く以上に深くかつ正確に。
その上さらに第三に、氏によると郭務悰が近江朝廷への反乱を企図する天武の側とも交友関係を結んでいたということにより、列島内の政治状況を「十二分どころでなく十三分、十四分、あるいはそれ以上にクリアーにキャッチしていた」という状況が生み出されていたことになる。郭務悰らがこれらの事態を唐に報告しなかったとすれば話は別だが、それはありえない。すると、これは「唐書的状況」とはより一層、鋭く対立し矛盾を深めることになってしまうのである。郭務悰が列島内の諸勢力と交流を深めたと氏が語れば語るほどこの矛盾はますます鋭くなっていくと言えよう。
以上から、私は郭務悰が列島には来ていなかったと考える。すると、日本書紀は郭務悰の来筑を記したことで歴史を創作したのだが、さらに古田氏は書紀を信じた上にさらに新たな創作物を付け加えてしまったという結論を導かざるを得ないことになる。
4-3 外交問題になった壬申の乱
そして、書紀も古田氏も壬申の乱の前後の時期に郭務悰らの唐軍を日本列島に滞在させてくれたお蔭で、内政問題であるはずの壬申の乱を中国との外交問題にもしてしまったと言える。このことが私にわずかではあるが「壬申の乱」について語る機会を与えてくれることになった。そして日本書紀の弱点、アキレス腱は外交問題である。中国の史書が書紀をチェックする役割を果たしてくれるからであるが、このチェック機能は極めて有効だということがこれまでの拙稿の幾つかで証明されてきたのである。
4-4 「唐書的状況」と古田氏の唐書類への誤解
私は、唐が日本の国内情勢を全く把握できていなかったことを旧・新唐書日本(国)伝から読み取り、拙稿「旧唐書と新唐書の間」にまとめた。要点はこうである。例えば、旧唐書では日本国は「旧小国、倭国の地を併せた」、つまり日本国が倭を併呑したのだと言われている。これに対して新唐書では「倭が日本を併せるところとなる」、と言われている。これらの真逆な主張などを含む日本からの使者が語ることが、「・・・と言う」、「・・・と云う」、「・・・と曰う」などと、伝聞調で、しかも並列的・羅列的に記述されていた。そして日本国人の発言のどれも真実としては把握できない、したがってこれらの発言を「唐は疑う」と記していたのである。これは唐が日本列島内の状況把握がほとんどできていなかったことを示しており、それが旧・新唐書の語る真実であった。このような形でも「唐書的状況」は現れている。
しかし、古田氏は旧唐書の日本国伝を根拠にして、九州倭国が「自ら日本国へと名を変えた」という一文のみを取り出して「それが歴史の真実と合致している」、とまで述べてしまっていた(『失われた九州王朝』 角川文庫1979年 P.359から361)。日本国伝に九州倭国の人間が登場して発言することは無いし、ヤマト王権の人間が九州倭国の代弁をしてくれるはずもない。古田氏の旧・新唐書日本(国)伝に対する誤読・誤解の影響がここにも及んでいると言わざるを得ない。
4-5 『共同研究』王小甫氏の郭務悰来筑への見方
さて、『共同研究』の王小甫氏も旧・新唐書の上記の表現に着目し、唐朝中国の倭国についての理解には「限界があった」と認めたうえで、さらに唐が郭務悰らを日本に派遣することが不可能であったと述べ、その理由を三つ挙げている。引用は、『「日中歴史共同研究」報告書1』 勉製出版からのものである。以下、『共同研究』とする。
①まず、唐書にはその記録がないことが挙げられている。白村江という大きな出来事に関わる問題であるから、記事がないということは大問題であろう。当然の指摘である。唐が倭国の状況を把握できていないこともあり、「倭国を経略できるとは考えていなかった」。(『共同研究』P136)
②白村江の後、唐と新羅は対高句麗戦を意識しており、倭国のことに対応することなど考えることができなかった(『共同研究』P136)。私見を加えれば、唐の前身の隋が滅んだ一要因は、高句麗攻略不成功にあったという点を忘れてはならないであろう。新羅と手を組んでいる白村江後の状況は唐にとって高句麗を打倒する絶好のチャンスであったと言えよう。
③さらに、668年に対高句麗戦勝利後には高句麗の領地分割などをめぐって、今度は新羅との新たな争い・葛藤が起こることになり、倭国への対応は最重要課題にならないままであった、などと述べている。(『共同研究』P139)
これらの認識は大変重要である。
4-6 本節のまとめ:壬申の乱についての古田説
以上、日本書紀と古田氏による郭務悰来筑に基づくストーリーはほとんど成り立たないことになる。さらに、当然のことながら、日本書紀の郭務悰らの来筑記事も実態の無いものになるばかりでなく、定説によって語られている、郭務悰来筑に合わせて「慌てて築いたと一般的には理解されている対唐防衛施設」としての大野城、水城などの存在理由についても再考を迫られることになるであろう。この問題について言えば、これらの施設は古田氏の言うように、白村江戦を準備するにあたって九州倭国によって築造された防衛施設であったとも考えられるし、また白村江とは別の理由によって築造された可能性も考えられる。
そしてこの問題を考えるときには、特にこれらの施設の築造年代の特定が重要である。これによって築造者や築造目的も変わってくることになるだろう。考古学の進展に期待したい。
5. 郭務悰と天智派および天武派の関係
『大道』“追加・懇親会〟
以下は、郭務悰らの唐軍が来筑していなかったとしたら全くの無駄な議論になってしまう。そいう類の話である。壬申の乱が事実あったとして、書紀が語るような出来事として実在していたしていたと考えてみても古田氏の説には不合理がある。
氏によれば、先にも触れたように、郭務悰は天智と倭京(古田説では筑紫)で会って親交を深めていた。だから、天智天皇が亡くなったときに郭務悰は木彫りの阿弥陀仏を贈っている。(『大道』“七〟)
氏は言う。書紀を信じる限り、天智は郭務悰に会っていない。しかし、天智は倭京には行っている。この倭京が筑紫であるならば、このときに会っている可能性はある。「やはり二人は会っていて深い交わりを生じていたから、冥福を祈る阿弥陀仏を作った。そう考えるのが人間の情として自然である」、と。
また、先に触れたように『大道』(追加・懇親会)では、倭国敗戦の原因が近畿天皇家(天智天皇派)が唐と内応していたことにあるのではないか、よって郭務悰としては「近畿天皇家に足を向けては寝れない」とまで氏は語り、郭務悰と天智派との友誼関係を述べていた。また日本書紀でも大友皇子は天智天皇が亡くなったことを筑紫の郭務悰に直接、報告したことになっていた(天武紀元年3月18日)。
ところが他方で同じ郭務悰は反天智派である天武が天智の後継者の大友皇子に対して反乱を起こすことを了承し「ヨシ」と言ったとしている。先の『大道』“七〟で取り上げた第二十五歌が、天武の歌であり、天武が郭務悰から天智後継者に対する反乱を認める暗号的な歌だと言う。この郭務悰の節操のない態度、矛盾した態度をどのように説明し、正当化できるのか。このような郭務悰の振る舞いは「人間の情として自然」ではない。政治家が得意とする二枚舌やご都合主義として済ませるのであろうか。
6. 筑紫君薩夜麻と大分君恵反
『大道』“追加・懇親会〟
6-1 大分君恵反の介在とは
『大道』と『大乱』の間には若干の気になる違いがある。それは一つの「問題」といってもよいかもしれない。『大道』では天武は「淑人(よきひと)」の郭務悰に会いに行き、近江朝廷に対する戦闘行為について「ヨシ」という返事をもらっている。これに対して『大乱』では、天武が郭務悰に「ヨシ」の返事をもらうに先立ち、大分君恵尺(おおきたのきみえさか)が重要な役割を果たしているような形に変更されている。
大分君恵反とは何者か。日本書紀に描かれた大分君恵反はさほど重要な役割を担ったわけでもない。まず、天武の指令で駅鈴を求めて動くために五回だけ名が出ている(天武紀元年6月24日)。そしてあと一回は高市皇子の供をして天武のもとに駆け付けた場面だけである(同年同月26日)。壬申の乱の主役は明らかに高市皇子であった。恵反は特に目立った活躍もしていない。
ところが古田氏によると、大分君恵反について「彼が壬申の乱で活躍していることは有名」だとされている。何故、彼の存在がクローズアップされなければならないのか。『大乱』における恵反についての古田氏の筆致は一種、ドラマティックな小説のような響きをもつ。以下は古田氏の描いた恵反のストーリーに関する私の味気無い箇条書きである。(『大乱』P194~195より)
・大分君恵反の本拠は「大分・おおいた」
・九州の陸地とともに「九州内の水軍」それも瀬戸内海の西域が彼の勢力圏内に
入っていた
・白村江に参戦した他の倭国の王たちとは異なり、天智や鎌足らに同調して対唐戦闘態勢から離脱し、参戦しなかった。よって近畿に出兵するだけの「能力」を所有していた
・天武は、有明海に展開する唐の一大船団群とそれを“補佐”する大分君恵反配下の船団を眼下に見ながら、『列島内、新唐勢力』の筆頭が、この大分君恵反であることを確認
・これにより天武は唐軍の力を借りる決意をする
・その上で、天武は郭務悰から「ヨシ」の一言を得た
・この唐軍・恵反の協力を得た天武は「虎が翼を得た」と評されることになる
日本書紀の恵反と古田氏の『大乱』における恵反の違いの大きさは明らかである。これは何を意味するのであろうか。恵反が強大な戦力を持っていたなどということは何を根拠に語ることができるのだろうか。古田氏は資料があれば提示しなければいけなかったであろう。
大分君恵反が強大な勢力を保持するという構想が描けた理由は、単に恵反が大分出身の一王侯であったというだけのことのように見える。「おおいたのきみ」。この名前に飛びついた。この点では書紀の記載を信じた。氏は書紀を疑っていない。しかし他方で、恵反が壬申の乱で重要な役割を担ったにもかかわらず、それを書紀は隠した。だから氏は書紀をこの意味で疑ったと考えるのであろうか。しかし、これは本当に書紀を疑ったと言えない。書紀の登場人物の「実在」については信じていると言える、そして書紀のみに書かれた人物の「名前」を都合よく使用した。
同様のことが書紀のみに登場する筑紫君薩夜麻についても言える。彼が九州王朝の天子にまで格上げされたのも「筑紫の君」が根拠になっているだけであっただろう。
6-2 九州王朝の実在と九州王朝一元論
私は九州王朝が存在したのは史実だと考えている。その根拠を簡単に言えば、倭国は卑弥呼以来、帯方郡(魏志・梁書・隋書)・楽浪郡(後漢書)から万二千里、京師から万四千里(旧唐書)のところにある。郡から七千里で狗邪韓国、そこから対馬・壱岐・松浦まで千里ずつで都合三千里。残り陸上行程で二千里。どう頑張っても九州を出ることはできない。また、どの史書でも倭国は新羅・百済から東南大海中に在る。方角も九州方向である。そして、中心王朝の移動は、中国の史書に照らし合わせる限り、ヤマト朝廷の確立までは行われていない。初めて中国にヤマトの王権が正式の王権として承認されたのは、大宝三年(703年)に遣唐使粟田真人が唐に到着して以降のことであった。九州王朝の実存在は、中国の史書の保証だけで充分である。(その詳細については、別稿「万二千里の真実」で語る予定である。)
しかし、九州王朝が実在したということと「大分君恵反の影響力の大きさ」などを通して、九州王朝が白村江以降も長く影響力を保持し続けるということ、あるいはその後のヤマト朝廷の確立に重要な影響を残すということとは別のことであると考えている。古田氏にとって『失われた九州王朝』における、九州王朝の実在と「滅亡」説では何が不足であったのだろうか。
7.古田氏による「日本書紀への懐疑」の意味
『大道』“五”
7.1 日本書紀を信じることと疑うこと
冒頭で述べたように、古田氏は壬申の乱については触れない方がよかったのではないだろうか。氏は、天武紀における壬申の乱が異常に詳しすぎるので逆に、「うっかり手を出すと大やけどをする。やばい!警戒心を深くずっともっていた」と語っていた(『大道』“追加・懇親会〟の最後)。氏はこの意味で日本書紀を疑っている。そこで、家永三郎氏と議論したことを回顧して氏は書いている。
家永:「天武紀・持統紀の書紀は信用できる」
古田:「日本書紀は天武紀・持統紀も信用できない」
しかし氏は、史資料が無いから万葉歌に頼りつつ、また「信用できない」と語った日本書紀の天武紀を最大の資料として『壬申の乱の大道』を講演し、『壬申大乱』を執筆してしまった。そして、唐書類の誤読から「大やけどをする危険を抱え込んでしまった」のではないだろうか。氏は、自身の構想力によって壮大なストーリーを創作してしまった。日本書紀の何かを信じない限り、氏は壬申の乱については何も語れなかったはずである。氏は日本書紀の何がしかは信じたのである。日本書紀を批判的に摂取すれば資料はそろう、と氏は考えたのであろうか。
『共同研究』の王氏も言う。日本書紀に書かれていたとしても、「総じて、唐朝中国の史籍に全く記載がないということを考えると、唐朝と倭国の関係における重要な問題について倭(注)の一方的な言葉だけを鵜呑みにすることはできない」(『共同研究』P136)、と。私はこれに賛成する。結局、古田氏は日本書紀に基づいて壬申の乱について考察してしまった。
(注)ここでの「倭」は日本書紀を書いたヤマト朝廷のことである。
九州倭国ではない。この点など、『共同研究』の問題点については、
本稿の最後で私の見解を述べる。
私は、「日本書紀が信用できない」、と語る日本史研究者の主張も基本的に信用していない。そのような研究者たちも書紀の何らかの記事に基づいて議論を行っているからである。書紀のある部分を史実と認定することで議論が展開されていくからだ。そういう論者たちの書物を読むとき、「そこを疑うのに、これは信じられるのか!?」という驚きの連続を私は体験してきた。「そこを疑う理由」が示されない場合もあるが、それ以上に「ここを信じる理由」が明示されることはさらに少ない。
古田氏の場合には、書紀の中に九州王朝の事績が発見されそれによって整合的なストーリーが描ければ、日本書紀は立派な史資料になると考えている。その代表的先行例が景行紀の九州征討譚であり、さらにまたその第二弾が壬申の乱であったと言えそうである。
私は、大化の改新であれ壬申の乱であれ、「日本書紀にしか書かれていない事項、その中の内政問題については評価を下すことはできない」という態度を貫く。
7.2 古田氏が日本書紀を何らかの形で信じていること
「壬申の乱」というテーマにおける例を挙げる。
1.「壬申の乱があった」ことを信じている
2.しかも、「天智天皇派と天武天皇派の争いである」ことも信じている
3.「郭務悰ら唐軍が来筑していた」ことも信じている
4.場所はどこであれ、書紀に書かれた「吉野」を信じている
5.持統(実は天武)の「吉野行幸が三十一回であること」も信じている
6.書紀にのみ登場する「筑紫君薩夜麻」の存在を認め、しかも九州倭国の天子と
しての地位を与えている。また書紀にのみ登場する「大分君恵反の存在」を活
用している
壬申の乱のような、何がしかの戦闘状況が史実として存在していたとして、古田氏とは異なるストーリーはいかようにでも描くことができるだろう。その例である。
・近畿の諸豪族間の最後の主導権争いの様子をモデルにしたもの
その中の二大勢力が近江とヤマト(飛鳥など)を拠点にして争った
・あるいは、衰退してゆく九州倭国の残存勢力と、ヤマトの諸王の争いであった
戦闘の場所は中国地方であった
・筑紫、備前、ヤマト、美濃、越前などもっと広範囲の諸豪族が参戦、相互に敵対
し、あるいは糾合し、最終的にヤマトが勝ち残った・・・など
最後に
いくつかの関連事項
最後に -1 続日本紀における壬申の乱
私は、続日本紀は基本的に史資料としてより信用している。実存在していなかった可能性が大きいヤマトタケル・聖徳太子などのような人物が記述されることはなかったであろう。さらに、奈良・平安時代には、その有効な史料の数や質は限られているとはいえ、並存する文献資料が存在するようになり、相互にチェックできるようになるからである。
しかし、他方で続日本紀でも大化の改新や壬申の乱の功績による褒賞などの記事が見受けられるが、そのためこれらの書紀における出来事が歴史上の実在の出来事であったかのように見る向きもある。しかし、わたしはこれらの出来事については疑いの目を向けている。続日本紀はあからさまに日本書紀の記述内容を否定できる立場にはない。日本書紀こそ天皇家の「万世一系」の路線を敷いた書物であり、奈良・平安王朝の拠って立つ基盤を確立するための絶対不可侵の書だからである。続日本紀に見られる「過去への万世一系」の物語は、書紀を正当化するために必要であり、またそのような記事が度々登場している。また、貴族らの褒賞などについては、奈良朝を支える貴族階級などに栄誉を与え、また彼らの由緒を定める必要があったためであろう。そのため、大化の改新や、また壬申の乱の記事も度々現れるのである。この意味での続日本紀は疑われるべきである。
とは言え、わたしは学問としての古代史研究の文献資料は日本では続日本紀からではないかと考えている。拙稿第十章の蝦夷論では続日本紀が日本書紀の虚偽性に対するチェック機能を立派に果たしてくれていた。このような役割も続紀には期待できるのである。
最後に ―2 『日中歴史共同研究』の問題点
ところで、『共同研究』は非常に重要な認識を示しているが、大きな弱点も持っている。
中国の歴史研究者と日本の歴史研究者の交流がさらに進み、より真実の解明が進むことを期待しつつ、幾つかの問題点を挙げておく。
一つは、「倭国が日本国になった」という前提で話が進められている。
二つは、一と関連するが、倭国と日本国を同一視し、ヤマトの「天皇」、斉明、天智などを倭国の王として語っている。
三つは、日本書紀を信じた記載、大化改新などは書紀に記された事柄が史実であったかのように取り扱われている。
四つは、共同研究に参加した日本側の参加者が定説派のみであったことによる議論の制約があり、このために上記三つの見解についての異論が本書のどこにも展開されていない。
ここでの問題点を次のようにいうこともできる。中国側の研究者は、倭国や日本国について唐が把握していた事柄については唐書類をもとに語る。逆に、唐が把握できていなかった事柄で、日本書紀のみに書かれたことは、「郭務悰の来筑を除き」、日本書紀や定説派の主張のままに記述している。あるいは、『共同研究』に参加した日本側研究者から主張された事柄に抵触しない範囲での記述が行われている。中国の研究者は、旧・新唐書日本(国)伝が日本の遣使者側から発せられる言葉を真実としては承認していなかったという認識を持っているが、その点を日本側研究者に強く主張する必要があったと思われる。
今後、非定説・反定説の研究者も参加する『共同研究』が行われることを切に希望したい。この『共同研究』の諸議論については稿を改めてさらに検討したい。