1 「郡から万二千里」

 

それは『魏志』から始まった。

卑弥呼の邪馬壹国は、帯方から万二千里。

この帯方は「帯方郡」のことである。今のソウルあたりか。

『後漢書』にも万二千里

『梁書』にも万二千里

『隋書』にも万二千里

 

2 出発点の違い、『魏志』がコピーされたわけではない

 

ある人は言う。みんな『魏志』をなぞっただけではないか。

真似しただけではないか。

しかし、同じ万二千里でも出発点が少し異なる。

史書が執筆された順に並べると、

『魏志』では帯方郡であった。

『後漢書』では出発点は楽浪郡。今のピョンヤンの辺りか。

『梁書』では帯方郡。

『隋書』では、百済・新羅からとある。

 

さらに『隋書』では、『魏志』の紹介をする。

『魏志』では、帯方郡より万二千里ともいう、と。

『隋書』では引用はしたが、写していない。

 

微妙ではあるがズレがある。またかなり、「大まか」なとらえ方だ。(注一)

しかし、いずれにしても出発点はみな同じというわけではない。

出発地は時代に合わせて変わっていると言える。

(注一)邪馬壹国まで、ソウルからとピョンヤンからでは同じ距離にならない。百済からと新羅からでも同じ距離にはならない。「大まか」である。

 

『後漢書』は後漢の史書で魏(曹魏)より古い時代についての史書だ。

だが、『魏志』が先に書かれた。

実際の時間の流れからすると、出発点は楽浪郡が先で、そこから帯方郡に変わる。

曹魏の勢力圏が後漢と比べて拡大したことになる。象徴的だ。

やや列島に近づく。だが総距離は変わらない。

中国史書の距離は「大まか」だ。

 

出発点を時代順に並べる。

楽浪郡(後漢)⇨帯方郡(曹魏)=帯方郡(南朝梁)⇨百済・新羅(隋)

中国の勢力範囲の拡大・縮小、そして朝鮮半島の情勢や勢力の変化が反映している。

それにつれて、倭国への出発点も変化した。

当然のことながら、『後漢書』には帯方郡とは書けない。

後に帯方郡と呼ばれる地帯はまだその名では呼ばれていない。

『魏志』に百済・新羅とは書けない。

後に百済・新羅と呼ばれる国はまだ存在しない。

 

唐の時代に朝鮮半島は新羅によって統一された。

唐は七世紀後半には朝鮮半島から手を引いていく過程にあった。

唐の半島における勢力圏は縮小した。

だから『旧唐書』では、京師から万四千里。

明らかに場所が違う。京師は洛陽か。

そう、出発点が大きく異なる。これも象徴的だ。

だが、万四千里では倭国に達しそうにない。

距離はもっとある。長安ならばさらに遠い。

この問題は疑問として残しておく。

 

ただし、出発点が変化していることだけは確かだ。

楽浪郡⇨帯方郡=帯方郡⇨百済・新羅⇨洛陽(長安)

したがって『魏志』を写した、真似したわけではない。

『魏志』を写した、という見解はどこから生まれるのか。

ひょっとすると、中国の史書に対する不信感からではないだろうか。

 

ただし、後でも触れるが、確かに距離については「大まか」だ。

 

3 倭国も邪馬壹国も移動していない

 

また、この点は確認しておく。

到達点はみな同じである。

地理的状況は、東南大海中の山島に拠りて居住するである。

後漢や魏の時代から唐の時代まで。

「倭国伝」が書かれなくなるまで、移動は無し。

到着点は『魏志』を真似たのか。

そんなはずはない。

曹魏から使者が来た。二回。

隋からも来た。裴世清。

唐からもきた。高表仁。

到達点が違うはずがない。

違っていれば中国が気づくはずだ。記録に残されるはずだ。

変化がないということは、到達点は同じである。

『魏志』の真似ではなく、ただ動いていなかっただけだ。

 

記事の追加だ。大事な史書を見落としていた。

『旧唐書』百済國伝、『新唐書』百済伝だ。(注)

和訳がないので敬遠していた。

何と、百済国伝に倭国の位置が書かれているではないか。

倭國伝だけ見ればよいと思っていた。

漢文:百済國、……在京師東六千二百里、處大海之北、小海之南、東北至新羅

西渡海至越州、南渡海至倭國、北渡海至高麗……

和訳:百済國は…京師の東六千二百里に在る…南に海を渡ると倭國に至る。

 

実際の方角は南南東だが、『旧唐書』でも定説の主張する「東」ではない。

百済は京師・洛陽のほぼ東だ。

方角は間違えていない。

表現方法も陳寿の『魏志』とはかなり異なる。

『魏志』を模したわけではない。写したわけではない。

よって、倭国の場所は動いていないといえる。

『魏志』から『旧・新唐書』まで。

少なくとも方角は。

(注)『旧唐書』百済國伝、『新唐書』百済伝 中国書局

 

ただし、距離はかなり大雑把ではないか。

ここでの距離から言うと、「百済から万二千」に六千二百を加えると、

倭國は京師から万八千二百里。

倭國伝の京師から万四千里とは異なる。

距離はかなり怪しい。

しかも、『新唐書』百済伝には、百済・京師間、「六千里」とある。

距離感は相当に不正確だ。

「大まか」というより、かなり「大雑把」だ。

 

4 短里か長里かの問題について

 

一里は75mから90m。

古田武彦氏は約75mとする。

天文学者の谷本茂氏も76m、77mとする。近い値だ。

『魏志』倭人伝については、そのぐらいが妥当だろう、と私。

75mから90mではなく、75mを倭人伝の「短里」とよぶことにする。

 

4ーーー1 短里の万二千里

 

75×12,000=900,000(m)

約900km。

帯方郡から直線距離で真南に進む。

沖縄島あたりに到達。

当然、ジグザグに進む。

真東に進む。

東京あたりに到達か。いや、名古屋あたりだろう。

「邪馬台国」・近畿説にも望みが出るのか。

 

4ーーー2 長里の万二千里

 

長里はどうか。

一里は400mから450m。

約435mという人が多い。

約435mを一里とする。

435×12,000=5,220,000(m)

約5,000km。地球一周の八分の一。

 

帯方郡から直線距離で真南に進む。

赤道を通り過ぎインドネシア南端から

オーストラリア北端に到達する。

ジグザグに進む。

フィリピンあたりか。

 

南を東に変えたい定説を念頭に真東に進んでみる。

日本海溝を大きく超える。

太平洋ど真ん中。天皇海山群の真上。

ジグザグに進む。

やはり日本海溝のはるか東の海上だろう。

 

明らかに長里はありえない。

短里が妥当だろう。

魏の時代に短里が制度として使われていたのか、私は知らない。

だが、陳寿は一里は75m。

これを短里と呼ぶなら、陳寿は「短里」を用いたのだろう。

少なくとも長里説は不適。

仮に、中国の距離認識が大雑把だとしても。

 

4ーーー3 安本美典氏の議論

 

定説派で「短里」派はいるのか。

安本美典氏がいた。氏は短里派だ。

『魏志』の「韓伝」「倭人伝」限定で短里とする。(注一)

だから卑弥呼は九州にいた、と語る(注二)。

『魏志』の「倭人伝」については安本氏と古田氏は意見が一致した。

「邪馬台国論争」は終了、「卑弥呼は九州」で決まり、と私。

しかし、同じ「倭人伝」短里派同士でも両者は意見を戦わせている。

ただ、安本氏は邪馬台国が三世紀後半には東遷したと考える(注三)。

この議論は真剣に行われなければならない。

九州にあった「邪馬台国」が近畿に東遷したらどうなるか。

郡からの距離は変わるだろう。

万二千里ではなくなるはずだ。

福岡市―大阪市間の直線距離、

約500km。で約6,700里。

郡から近畿まで、万八千七百里。

ジグザグに進めば軽く二万里は超えるだろう。

したがって近畿ではない。

万二千里は『魏志』、『後漢書』だけではない。

四世紀以降の『梁書(六二九年成立』から『隋書(六三六年成立』まで。

中心王朝が移動したとは言えないはずだ。

 

(注一)『邪馬壹国はなかった』新人物往来社 頁一四一~一四二

(注二)『邪馬台国への道』徳間文庫 頁四四、など

 

4ーーー4 実際の行程、短里でのジグザグ

 

短里で真東に進むと東京まで行き着く。

ならば、ジグザグで近畿に着く可能性が出てくるのか。

定説派に期待を持たせるようなことを述べてしまったのだろうか。

いや、それは違う。先の見方と別の見方だ。

『魏志』に書かれたジグザグで行く。

帯方郡からジグザグで狗邪韓国まで七千里。

残る距離は五千里。

対馬まで千里、壱岐まで千里、松浦半島まで千里、今の唐津市あたりか。

残るは二千里、約150km。

『魏志』では東南陸行五百里で伊都国、百里で奴国などと続く。

到底、近畿ヤマトには到着しない。

仮に松浦から150km真南に進むと有明海を突っ切って鹿児島県北端まで。

真東に直線で進んでも国東半島の中央。

少し南にずれると大分市。

邪馬壹国の位置は九州内部で決定。

よって長里ではなく「短里」であったことも決定。

邪馬壹国が厳密にどこなのかを探る情熱は私にはわかない。

あとは考古学などの仕事であろう。

邪馬壹国は近畿ではなく、九州であることが分かればそれでよし。

ヤマト王権の手の届く範囲ではなかった。

短里か長里かで大騒ぎする必要はなかったのではないか。

「7:3:2」、比の問題。あるいは、

12,000―7,000―3,000=2,000(里)、引き算の問題である。

ここでの距離は、「大まか」ではあるが、そんなに大雑把ではない。

 

しかし、『旧唐書』の六千二百里は、短里はもちろん、長里でもなさそうだ。

長里435mでも「京師から百済へ」到達できない。

別の尺度が必要になる。

「超長里」が必要だ。

不明としておく。

 

 

5 俀(倭)国の位置は『隋書』で決まり。

 

今度は到達点を『隋書』で再確認する。

『隋書』俀(倭)国伝にある地名は九州だけ。

阿蘇山、対馬、壱岐、筑紫、秦王国。

見慣れぬ秦王国。

ここは原文を示そう。

・・・又至竹斯国、又東至秦王国 其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也、

又経十余国、達於海岸・・・

 

問題は秦王国を通過した後、十余国を経て「海岸に達する」ところだ。

明らかに筑紫まで陸行、また秦王国までも陸行であることは間違いない。

そこからも陸行で「海岸に達する」とすれば、

陸行を続けて最終的に「海に到達した」と解釈するのが普通の読み方。

九州から出ていない。

また、水行した人が陸地に着いたとき、

「岸辺に着いた」とは言っても、「海岸に着く」とは言わない。

 

しかし、「海岸に達する」を何とか近畿と結び付けようとする定説派がいる。

定説派だけではないかもしれないが。

秦王国から先は水行し、瀬戸内海を通って「近畿の海岸」に到達。

摩訶不思議な解釈だ。

水行した様子、瀬戸内海を思わせる地名、風景などは全く描かれていないのに。

『日本書紀』のよく使う手口だ。

中国の倭国との遣使記事に、対馬、壱岐、筑紫など九州の地名は出てくる。

近畿の地名も瀬戸内海を思わせる地名は全く出てこない。

中国史書の遣使記事に九州の地名が出てくるとき、

『日本書紀』では必ず近畿の地名が「付け加え」られる。

「難波」、「飛鳥」など。

推古紀の裴世清の行程しかり、舒明紀の高表仁の行程しかり。(注四)

定説派はそれを「証拠」とし、その手口を真似て自説を展開する。

再度言うが、『隋書』に書かれた地名は九州のみ。

俀(倭)国は九州で決まり。

 

そして、新たに追加したように『旧唐書』百済国伝でも決まり。

倭国は九州。

(注四)裴世清、高表仁は近畿に行かなかったことについては、別稿で論じている。

 

6 古田武彦氏の千里は「大まか」がよい

 

氏の『多元的古代の成立(上)』の「魏・西晋朝短里の方法」での議論は注目を要する。

簡単に言うと、氏は百里代、十里代の場合と、千里代の議論をする場合とを区別する(注五)。

つまり、百里代、十里代の場合には、例え出発点と終着点が明記されていたとしても、その「不定性」は避けられない。「例えばA県とB県の間」と言うときにその県内の東西南北いずれの地点を測定地点に選ぶかによる誤差は大きい。

これに対して千里代の場合には、多少の誤差は大きな問題ではない。特に「『一対五(強)』(短里と長里)のいずれが妥当するか、といった大まかな設問に対しては、“判定上のちがい”が出てくることを恐れる必要はないように思われる」と述べている。

このやり方で氏は「魏・西晋短里」を押し出した。

私は、この議論に賛成したい。

(注五)『多元的古代の成立(上)』ミネルヴァ書房 頁五四~五五 傍線は引用者

 

これに対して、『邪馬台国はなかった』において、短里を基準にした上で、さらに正確に

卑弥呼の都する邪馬壹国の場所を突き止めようとした。

この場合には、「大まかではない」議論が必要とされたのだろう。

そこで島を半周するという議論が氏によって提起された。

「精密さ」を求めた結果であろう。

しかし、この議論が有効であったか否かについては疑問符が付く。

 

現在の地図を見ると、同じ千里と『魏志』に書かれていたとしても、狗邪韓国―対馬島、対馬島―壱岐島、壱岐島―松浦半島の距離は明らかに異なっている。

『魏志』の記述がもともと「大まか」なのである。

倭国、邪馬壹国は九州にあった。

このことは万二千里、七千里、千里、千里、千里、五百里、百里、五十里と「大まか」に受け止めたとしても九州を通り過ぎることはない。

短里で九州内に収まることも決まりである。