年代ずらしなのか、虚偽報告なのか

 

 

はじめに ずらしとずれ

 

 ずらしとずれでは意味が違う。ずらしには意図が感じられる。ずらそうとする意識が背後にある。ずれは意識的にずらした結果のずれもあるが、無意識のうちにずれてしまったときにも起こる。この違いには注目しなければならないだろうが、日本書紀に起こっているずれは、ことごとくずらしの結果のずれであるといえよう。よって、この論考でのずらし、ずれは意図的なものという意味で使われる。書紀におけるここで対象となる議論は、ずらしが十年ほど過去に遡る、繰り上がることを意味している。

 ずれの問題は『法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社1985年)の特に「遣隋使はなかった」などで古田氏によって提起された。「古田史学の会」ではこの「ずれ」をめぐって活発に議論が展開されている。特に、123号の服部静尚氏の論稿と156号の永井裕氏の論稿は古田史学の会で行われた議論のまとめとしても分かりやすく、参考にさせていただいた。(「古田史学の会」の会報の諸議論を参照のこと。)

あらかじめ私の視点を述べておくと、ずらしという場合には、問題となる事象が記述されている古い年代には「実在せず」、新しい年代、つまり十年から十二年後、ないし十四年後に「実在する」ことを意味する。したがって、反対に十年後から十四年後にも「実在しない」場合にはずらしとは言えない。その場合には、話が造作された、あるいは単なる虚偽記載といってよいであろう。

 

1 十年以上のずらし 

 

1―1-1 ずらしの実例 古田氏が「遣隋使はなかった」で指摘したずらし

 ただし、推古紀の中国との遣使記事はすべて1-1-2で扱うことにする。

 

(1)裴世清の肩書 

隋書には「文林郎」の肩書を持つ裴世清が、推古紀十六年(608年)八月には「鴻臚寺の掌客」とある。「鴻臚寺の掌客」は裴世清の唐時代の肩書なので、隋時代に対応する推古紀十六年には「鴻臚寺の掌客」は不可能。唐の時代は618年からなので、十年以上はずらしがある。

 

(2)「呉国」の存在

 唐書によると武徳二年から四年(619年から621年)にかけて唐が内乱状態に陥り、「呉」という国が存在していた。推古紀には、その十七年(609年)四月に百済人が呉国に遣使したが、呉国内乱のため入国できず助けを求めてくる記事を書いている。これも十年から十二年のずれがある。

 

(3)推古紀十六年(608年)八月、煬帝からの国書に「朕、寶(宝)命を受け」たとあるが、「寶命」は初代皇帝に相応しく、第二代の皇帝の煬帝には相応しくない。よって、「寶命」は唐の初代皇帝が622年に用いた言葉なので、ここにもずらしがある。ここでは十四年ほどのずらしである。

 

 氏はこれらが十年から十年強ずれている、遡っていると指摘された。これらは、素晴らしい発見であり、見事な指摘である。

 

1-1-2 古田氏によって挙げられた、推古紀の遣使記事のずらし

 十年ほどの遡り、繰り上げがある例

 

(1)推古十五年(六〇七年)七月、大礼小野臣妹子を大唐に遣わす。

 

(2)推古十六年(六〇八年)四月、妹子、裴世清と筑紫に。三十艘で迎える。

同年 九月、裴世清帰国、妹子再遣(高向玄理、恵穏ら)

 

(3)推古十七年(六〇九年)、妹子等大唐より至る。

 

(4)推古二十二年(六一四年)六月、遣犬上君三田鍬、矢田部造、大唐に遣わす。

 

(5)推古二十三年(六一五年)九月、犬上三田鍬ら大唐より百済の使いと帰国。

 

(6)推古三十一年(六二三年)七月、新羅使に伴い唐より福音、恵日帰国。これは遣使記事ではあるが、

主な遣使者の記事ではないので議論の対象からは除く。

 

1-1-3 ずらしなし 

 

(7)舒明 二年(六三〇年)八月、大仁犬上三田耜、大仁薬師恵日を大唐に遣わす。

(8)舒明 四年(六三二年)八月、大唐高表仁を遣わし対馬に泊まる。また耜、僧旻も帰国。

(9)同年 十月、唐国使人高表仁ら難波津に泊まる。船三十二艘で江口に迎える。

(10)舒明 五年(六三三年正月、大唐の客高表仁帰国。

 

 以上は、よく知られている書紀における推古紀から舒明紀における遣使記事である。これらのうち(1)から(5)まで推古紀では唐との遣使と記載されているが、中国の唐の時代ではなく隋の時代にあたる。

古田武彦氏は『失われた九州王朝』では推古朝が隋との間で遣使関係を結んでいたという説を採用していた。これは「古田旧説」とよばれている。しかし、『法隆寺の中の九州王朝』などでは旧説を撤回し、推古朝時代に遣隋使はなく書紀の書いた通りに「遣唐使」であったという主張に変更された。これが「古田新説」である。この転換の論拠になったのが、書紀においては幾つかの事象、上記1-1-1の(1)から(3)まで、が十年から十年強の年代ずらしが存在したという発見にあった。したがって、推古紀の上記1-1-2の(1)から(5)も十年強ずれていた、遡らされていたと推理し結論付けられることになった。

なお、舒明紀の(7)から(10)は、ずらしがないのでここでの議論は行わず、最後の3-4で述べる。

 

1-2 ヤマト王権の真実の遣使

 

1-2-1 推古朝の遣唐使があったとは論証されていない

 

 私は「古田旧説」にも疑問を持っていたが、この「古田新説」についても疑問が生じている。つまり、「1-1-1の(1)から(3)」は、十年から十年強ほど降らせると確かに、実在の出来事に行き着く。よって、ずらし説が成り立つ。しかし、これらの事例は推古紀の遣使記事ではない。遣使記事がずらされていることを意味したわけではない。

 さらに、遣使関係記事の「1-1-2の(1)から(5)までについては十年から十年強、新しい時代に降らせると西暦で619年から627年で唐の時代にあたるが、この時代日本列島からの遣使記事は倭国のものを含めても唐書類には皆無である。遣使記事が十年ほどずらされたといえるのだろうか。

これについては、氏は回答を用意していた。中国の史書の列伝に記載されるのはある地域を「代表する正統の王朝」だけで、この時代の主要王権は九州倭国であったため推古紀の遣使記事は隋書にも唐書にも記載されていない、と。(『失われた九州王朝』P.54~355)

 しかし、この議論は主要王権以外の勢力に対してハードルの上げすぎではないだろうか。卑弥呼の強力なライバルであった狗奴国は、主要勢力でないにもかかわらず、列伝の主役としてではないが魏志に卑弥呼の倭国、邪馬壹国と共に記録されていた。毛人の存在も宋書だけでなく旧・新唐書に記載されていた。さらに蝦夷国は通典や唐会要に記載されていた。これに対して推古朝の遣使記事は通典にも唐会要にも記載がない。狗奴国、毛人、蝦夷国よりも存在感が薄かったということになる。ということは、推古朝は中国と遣使関係を結んでいなかった、したがって遣唐使は送っていなかったと言えそうである。

 一般に、中国の史書はその存在を感知した地域、勢力があると、率直に何らかの形で記録を残してきたのではないだろうか。本稿の最後に述べるが、ヤマト王権(後に日本国として唐書の常連になる)が中国に感知されたのは咸亨元年(670年)が初めてであった。咸亨元年(670年)はこの意味で、書紀の中国との外交史を論じ、その真偽を確認する上での「絶対的な定点」である。

 

 

1-2-2 古田氏の論証方法への疑問

 

 さらに、氏の論議の運びは少々荒っぽいところがあると思われる。つまり、推古紀は十年強ずらした記事を載せるという「実績」、つまり「1-1-1の(1)から(3)」がある。隋の時代には遣唐使は送れない。だが十年強ずらすと唐の時代になる。唐の時代には遣唐使は送ることができる。推古朝が中国との遣使関係があったと日本書紀には書かれている。「1-1-2」がそれにあたる。よって、推古朝は遣唐使を送ったとされる。

 氏の議論では推古朝は唐の時代であれば遣唐使が送れるという可能性が指摘されたにすぎない。つまり、抽象的な可能性が指摘されたにすぎないと言ってもよい。あるいは、必要条件が満たされたに過ぎないともいえる。しかし「逆は必ずしも真ならず」であって、唐の時代であったからといって、必ずしも推古朝によって遣唐使が送られたことは証明されていない。十分条件が満たされていない。氏の場合の十分条件は、たかだか「推古朝には遣使記事があった」、しかも「その行き先が唐であった」というような書紀の記事を信用することでしか満たされないものなのである。

 

 

1-2-3 古田氏の『失われた九州王朝』の検討 

特に、孝徳紀の遣唐使と旧・新唐書について

 

 氏は『失われた九州王朝』の「古田旧説」で展開された議論の中で、幾つかのことについては「古田新説」で再論されていないし、その撤回も表明されていない。その重要な議論の一つが孝徳紀の遣使記事に関わる。「新説」でも撤回されていないものとして論を進める。

 孝徳紀白雉五年二年に、孝徳朝の使者が唐を訪ねた際に、唐の皇帝から「その地里」や「国の初めの神の名」などの質問され、「皆、問に答えた」という場面について氏は次のように語る。

 『旧唐書』日本国伝のはじめに記載された「或は曰う」「或は云う」「又曰う」として記された国号・歴史・地理の資料基礎があらわれている。そしてこのとき、例の「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず、故に中国これを疑う」という、唐朝側の第一回目の判断もまた、生まれたものと思われる。このように、『旧唐書』の記載は、『日本書紀』の記載と密に呼応し、唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている

   『失われた九州王朝』(角川文庫P369~371) 下線は筆者

 

 ここで古田氏が孝徳紀の遣使によって「唐朝側の第一回の判断もまた、生まれた」、さらに「唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている」と語るということは、ヤマト王権にとっては孝徳朝が中国に遣使し、中国に認識された最初であると解釈したに他ならない。すると、古田氏が孝徳紀以前の推古紀、舒明紀のヤマト王権による中国との遣使関係とか国交は無かったと判断できることになってしまう。氏は、推古朝が隋とは遣使関係にあったという「旧説」を撤回し、唐と遣使関係を結んだという「新説」を表明したが、遣「隋」使を遣「唐」使に変更したとしてもなお、孝徳紀についての解釈と自己矛盾をきたしてしまっている。もし、孝徳紀のこの解釈が撤回されていなければそうならざるを得ない。以下も「古田新説」で撤回されてなかったものとして述べていく。

 しかも、氏は旧唐書の「或は曰う」「或は云う」「又曰う」の記事が孝徳朝の遣使に関わると述べていた。そして、この記事のきっかけとなった日本からの使人が訪問した年こそ咸亨元年(670年)だったのである。私と古田氏とで見解は一致するはずであった。しかし氏は、旧唐書には書かれず、新唐書に書かれたこの年号を軽視する。氏が新唐書を読んでいなかったわけではないにも関わらず。読んでいた証拠は数々あるが、象徴的な事柄が旧唐書には無く、新唐書にあった「用明、目多利思北孤」についての氏の議論である。この年号を軽視、ないし無視したために、氏は「或は曰う」「或は云う」「又曰う」の主語が犬上三田耜、粟田真人、安倍仲麻呂、空海などだとされていた(『失われた九州王朝』角川文庫P361)。咸亨元年(670年)の時代から大きく前後し、670年に証人にはなり得ない人物たちであった。

 

 

2. 書紀のその他の様々なずらし

 日本書紀には、氏が挙げた以外にも数多くのずらしが存在している。

 

2-1 「隋煬帝(ずいようだい)」問題

 推古紀における誰にも語られていないずらしがある。これは最低で十八年のずらしといえる。

 

2-1-1 定説の遣隋使とそれに対する古田氏の反論、および遣唐使

 

 日本書紀にある推古天皇の時代は大部分が中国の隋の時代にあたる。よって書紀には隋ではなく唐・大唐・遣唐使が数多く出てくることはありえないはずだ。したがって、定説では唐と記録されていたのは誤りで、推古紀に書かれた年代にあったのは隋との遣使関係であったとする。しかし定説の中には、なぜ推古紀には唐、大唐の名だけが記されていたかについて、定説の中には日本書紀が執筆された時代が唐の時代であった、このため中国の王権一般という意味で書紀では「唐」が使われていたとする説がある。

 このことに異議を唱えたのが古田武彦氏であった。推古二十六年(618年)には「隋煬帝」という名が記述されていることから、推古紀を書く日本書紀の執筆者が「隋」を知らなかったわけではないと氏は指摘する。重要な指摘でもあるし当然の指摘でもあった。

 そこで、先に述べたように古田氏は、推古紀の遣唐使、唐、大唐などはあくまでも唐との外交関係を記載したものであって、推古紀は十年強ずらして、つまり遡らせて記述したものである。よって推古朝においては遣隋使はなかったという結論に達した。『失われた九州王朝』のいわゆる旧説からの大転換によって、新説が打ち出されたのであった。

 

 

2-1-2 訳、読み下しに現れる歴史観に注意

 

 少し横道にそれるが、定説では推古紀の唐は隋の誤りで、書記執筆時が唐の時代であったので「隋」とは書きにくい状況にあったため「唐」と表現してしまったなどの説の他にも気になる定説派の「動き」がある。これも注目するべきであろう。

 坂本太郎、家永三郎、井上光貞、大野晋氏ら定説の代表者による岩波文庫の『日本書紀(四)』では、「唐帝」に「もろこしのきみ」という読みがあたえられ、あたかも「中国一般」であるかのように訳(読み下し)がなされている(推古紀十六年六月の訳文)。つまり「唐」と「隋」の違いがあいまいになるように「工夫」が施されているのである。この個所では「唐帝」は「とうてい」、ないし「とうのみかど」とするべきであり、日本書紀の原文の文字とその意味あいを残し、史料の客観性を保持すべきであった。訳す(読み下す)という「公平な作業」のような装い中で、定説派のメッセージが明確に忍び込まされている。また、同じ推古十六年六月の記事には、小野妹子が唐の帝からの書を百済で掠め取られ、群臣に「何ぞ怠りて、大国の書を失うや」と責められる場面がある。この隋を指すはずの「大国」までもが「もろこし」というふり仮名がふられる。さらにこの徹底ぶりは推古紀に続く舒明紀、孝徳紀、斉明紀、天智紀にも見られ、すべての唐、大唐などに「もろこし」という読みがあてられている。これでは、「遣唐使」に「けんとうし」という読みは与えられないことになってしまうだろう。

 坂本、井上氏らは自分の論文の中で唐を「もろこし」と読み続けているのだろうか。そういう理由で井上氏の著作に目を通す中で見つけた文章に例えば、「・・・大化の改新の時には、の武徳の制をさらに採用して新たに展開された」、とあった(『井上光貞著作集』岩波書店刊行、第一巻、第Ⅱ部、第一章P.305)。この場合、読みは添えられていなかったが、井上氏はまさかこの「唐」を「もろこし」とは読んではいないであろう。したがって、日本書紀の推古紀から天智紀に至るまでの唐、大唐に「もろこし」という読みを与え続けたことに、ある種の作為が感じられる次第である。

 

 

 2-1-3 「煬帝」の問題点 隋書を見ながら書紀を書く

 

 それでは本題に戻ろう。今度の問題は「隋」ではなく「煬帝」である。日本書紀に隋の皇帝が「煬帝(ようだい)」と記されていたことには問題がないのであろうか。いや、それはそれで重要な問題が生じることになる。隋の二代目の皇帝は確かに「煬帝」として知られている。煬帝の本名は楊広(ようこう)であるが日本では「煬帝」の名で通っている。日本書紀の「隋煬帝」が基になっているのは明らかだが、先の推古紀の岩波文庫版と「もろこしのきみ」と読まれていた「唐帝」が、別の現代語訳では「煬帝」と記されているものもあるため、より一層「煬帝」が目立つようになっている(例えば宇治谷孟訳 講談社学術文庫P100)。おそらく訳者が読者にとって分かりやすいようにという親切心で「煬帝」にしたと思われる。そして定説の学者も教科書もこの名を使う。いや、非定説の学者も使う。このため推古紀の多くの読者は、隋の二代目皇帝の名はその生前から「煬帝(ようだい)」であったかのような「常識」が植えつけられることになるのであろう。

 しかし、歴史の真実は、推古二十六年(618年)に「煬帝」という人物は存在しない。いや、正確に言えば「煬帝」という名前は存在していなかった。存在しなかった名前を、推古紀は書き残してしまったのである。何という失態であっただろう。「楊広(ようこう)」、「楊帝(ようてい)」は存在していた。つまり、「煬帝」は「楊帝」、「楊広」の死後に唐によってつけられた諡号(おくりな、しごう)だからである。この諡号は636年成立の『隋書』に記されたものであった。したがって、636-618=18となり、最低でも18年のズレがある。つまり、日本書紀はその時点では存在しなかった名前あるいは記事を書いてしまったことになる。よって推古紀のこの個所は早くとも636年以降に、遅ければ720年に近い書紀完成前に執筆されたことになる。この場合には、720―618=102、よって100年近くのずらしである。いずれにしても、隋書を見ながら書かれたことは間違いないが、同時代の資料ではないことも明白である。

 隋書を見ながら書紀を書くという点では、古田氏も例えば、雄略紀の「遺詔」に隋の高祖の詔勅や遺詔を「借用」ないし「盗用」していると述べ、したがって当然、「『日本書紀』の編者は『隋書』を見ている」、と指摘している。(『古代は輝いていたⅢ「推古紀の対等外交」』P.208~209)

 

 

2-2 実は約400年ないしそれ以上のズレ 神功皇后紀の問題

    拙稿:「第四章」の再論でもあるが、書紀執筆者は西暦を知っていた。

 

2-2-1 下二桁の合致

 

 一般に古事記には対中国との外交記事は無い。しかし、日本書紀には突然、外交史が頻出する。

神功皇后記には魏(曹魏)への遣使記事は無い。神功皇后紀には遣唐使記事がある。すでに第四章第一節でも述べたことであるが、その要点の再録である。

 日本書紀に対して、外交史、中国との外交史に関しては特にこれは本当の歴史書には値しないのではないという私の思いが決定的になったのは神功皇后紀における遣使記事であった。神功皇后紀は神功皇后を卑弥呼と壹与に見立てていた。一般に「神功皇后が卑弥呼に比定されている」と言われる問題である。結論から言えばこれは比定でもなく、また魏志などからの引用だというだけでもなく、むしろ魏志からの盗用というべきであろう。よって、神功皇后紀の遣使記事を史実だと考える歴史家は皆無に近いだろうが、このてんを取り扱い論じている研究者はほとんど見ない。

神功皇后紀が史実ではないと私が思う理由を抉り出してみたい。このなかで書記の特に外交史における虚偽の史書造作の手法が見えてくる可能性もある。神功紀の遣使記事である。以下、日本書紀・神功皇后紀(宇治谷孟訳 講談社学術文庫P201~208)をもとに箇条書きにしたものである。

 

     ア. 神功皇后紀 39年 この年の太歳己未―――魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、倭の女王は大夫難斗米を遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいと言って貢をもってきた。太守の鄧夏は役人を付き添わせて、洛陽に行かせた。               景初三年は西暦で239年

     イ. 神功皇后紀 40年―――魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。  

                         正始元年は西暦で240年

     ウ. 神功皇后紀 43年―――魏志にいう。正史四年、倭王はまた使者

の大夫伊声者ら八人を遣わして献上品を届けた。 

                         正始四年は西暦で243年

     エ. 神功皇后紀 66年―――この年は普の武帝の泰初二年である。普の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の太初十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。  

                         泰初二年は西暦で266年

              

 以上の神功皇后紀にはそれ自身で重大な問題を抱えていた。つまり、第一に、神功皇后紀で書記は、「魏志にいう」、「晋の起居注記す」などのように引用の形で語っている。ある国の歴史書から他国の出来事を紹介し、引用するのならありうるだろう。しかし神功紀は、自国の史書で自国の皇后のことを語っているにも関わらず、他国、中国の史書から引用しているのである。しかも、中国との外交記事のすべてが引用なのである。このような史書が他にあるのだろうか、

 さらに、神功皇后は卑弥呼と壹与の二人に擬せられている点も異様であるが、卑弥呼・壹与が神功皇后と同一人物だということが証明されない限り神功紀の外交史は偽作ということになるであろう。

 これに対しては、書記に対して弁護をする学者がいるかもしれない。神功紀は史実なのだが、この時代の日本側の歴史資料が備わっていなかった、あるいは失われていたので魏志と西晋書で補足したなどと。しかし、一度でもそのように他の資料から補足をした歴史書があったとするなら、他の個所でも同様の補足や修正、はたまた歪曲をしていないという保証はなくなってしまう。例えば、推古紀や舒明紀などの遣使記事にも何らかの作為があったのではないかと疑われることにもなる。

さらに、神功皇后紀の次の問題に注目してほしい。神功皇后紀の執筆者は西暦を知っていたのである。管見に入らずかもしれないが、私が見た限りでは、どの歴史研究者も神功紀の年号の「作為」について論じていないようである。この問題に気が付いていないはずはないと思うのだが。つまり、先の引用には参考のために西暦年も書いておいた。ア・イ・ウ・エを見てほしい。

・卑弥呼が初めて魏に使いを送ったのが景初三年、西暦でいうと239年であるが、上の引用のアで、神功皇后が魏に使いを送ったのが神功皇后紀の39年。

・魏から卑弥呼に遣使が送られるのは正始元年、西暦で240年、イで魏から神功皇后に遣使が送られるのが神功皇后紀40年。

・卑弥呼が再び魏に遣使するのが正始四年、西暦で243年、ウで魏に神功皇后が遣使するのが神功皇后紀43年、

・さらに、壱(壹)与が晋に遣使したのが泰初弐年は西暦の266年、エで神功皇后が遣使したのが神功皇后の66年である。

つまり神功紀の紀年は、西暦から百の位の2を取り去り、下二桁を合わせるという作為が行われているのである。しかも、西暦239年は「太歳己未(つちのとひつじ)」というように、ご丁寧に干支と西暦も合わせている。

まず、西暦の239年と神功紀の39年などの一致は偶然の一致だと考える人もいるかもしれない。一つの対応関係ならばそういえないこともないかもしれない。しかし、一致が4組もある。「239と39」、「240と40」、「243と43」、「266と66」。選ばれた遣使記事は4例。その4例ともになのである。神功皇后の治世は69年だとされている。同じ年に2回遣使を行うことは無いとすると、4組とも一致する確率は、1 / 69×1 / 68×1 / 67×1 / 66 = 1 / 20,748,024 。約2千万分の1である。宝くじの一等を当てるのよりは高い確率かもしれないが、ほぼ絶望的な数値である。しかもこの計算は1世紀の百年分を、下2桁を69までと限定して計算しているので、実際の確率はもっと下がるであろう。この意味で偶然の一致はありえないといえる。 

 ということは、書記の筆者は西暦の存在を知っていて神功紀を書いたことになる。これはほぼ確実なことであろう。では、次の問題であるが、書記の執筆者は西暦をどうやって知ることになったのだろう。私は上記のア、イ、ウ、エの神功紀年は偽作だと考えているが、仮に偽作かどうかは別にして、古代に西暦を知っているというのは日本では情報通を通り越しているように思われる。書紀完成の720年の時点であったとしても。

 

 

2-2-2 書紀執筆者が西暦を知ることは可能か 

 

 西暦は、Wikipediaによると、525年につくられたという。しかし西暦は、731年に『イングランド教会史』が執筆されて以降、徐々に広まっていったにすぎず、教会の中で広く使われ始めたのは10世紀以降、一般の人が使い始めたのがキリスト教文化圏であるヨーロッパでさえ16世紀からだと言われている。

 すると、まず確実なことは神功紀が書かれたのは525年以降であり、書記の完成した720年以前ということになる。ところが、Wikipediaによると西暦が世界に広まり始めるのは、早くても731年以後ということである。いかにして720年に完成した書記の執筆者は西暦を知り得たのか。私にとっての難問でもある。いや、難問であった。

 この難問を解く鍵は、景教(キリスト教の一流派であるネストリウス派)の広まりにある。中国には唐の初期の635年にペルシャ経由で伝えられたと言われている。当然、日本にも、流行したか否かにかかわらず、景教が伝わったことが考えられる。さほど流行らなかったようであるが。非公式の交流を通して知られることになった、それとも中国からの渡来人によって伝えられたなど、様々な可能性がある。すると、中国でも日本でも、創始者であるキリストの人物像、思想などについても語られ、その中にはキリストの誕生とその年代なども含まれていたであろう。キリストが「厩で生まれた」⇒「ウマヤドノミコ(=聖徳太子)」も景教を含むキリスト教文化の伝来に伴う発想から名づけられたのかもしれない。西暦の存在も、当然、キリスト教というサークル内では知られ流布していた可能性はある。ということは、神功紀の先の魏・西晋遣使記事は、景教が中国に伝わった625年以降に絞り込まれることになる。したがってもちろん神功皇后紀、少なくともその中国との外交史は同時代史として執筆されていたわけではない。

したがってこれをずらしという視点で見れば、625-239=386、約四百年のずらしである。

 

 

2-2-3 書紀執筆者たちの密談

 

 ヤマト王権の書記執筆者たちの中のインテリ高官や渡来人たちの会話である。

 

「こんな年号があるぞ。これを利用できないかな。」

    ―― 「そうだな、どうせ西暦なんか我々の中でもごく一部の人間にしか知

       られていないのだから、利用しようと思えばいくらでもできるだろ

       う。で、どうすればいいんだ。」

「神功紀の記事なんかどうせ架空なのだから、紀年も最初の2百の2を取り去って、下2桁にしたらどうだ。それらしくできるんじゃないか。」

    -―― 「だけど、西晋の壹与の記事まで入れると、皇后の歳が長くなりすぎ

       るぞ。在位年数は最短でも66年必要になるな。」

「ハハハ、そうだな。でも、もっと長く在位した天皇もいるじゃないか。神武天皇の在位は76年だぞ。それよりは少ない、問題ないよ。」

    ―― 「266年の後にも倭国の遣使記事があったら、神功皇后をもっと長

       生きさせなければいけなくなっていたかもな。」

「そうだな。でも、そんなのは無視することもできるよ。誰も西晋書なんか読まないさ。とはいえ、66年の遣使記事の直後に皇后が亡くなるのも不自然だから、在位は69年までにしておこう。」

 

 神功皇后紀では、個々の記述は明らかに魏志や晋書に記載された事象を引用し、さらに神功紀年は西暦に変換され、その下二桁を神功皇后の年号とするという作為が行われていた。神功紀における対中国の国交記事は、魏志がなければ描写できなかったに等しいということになる。

 

 

2―3 斉明紀の蝦夷征討記事は530年~940年のずらし

    いや計算不能のずらし

    

 今度は斉明紀の蝦夷問題である。唐突に、またヤマトタケルの征討譚以上に濃密な蝦夷記事。極めて不自然である。後述の伊吉博徳書(いきのはかとこのふみ)をもっともらしく見せるためのプロローグとして以下のような記事から始められる。

 

2-3-1 斉明紀の蝦夷     

 

・斉明元年(655年)七月十一日 北(越)の蝦夷90人、東(陸奥)の蝦夷95人に饗応。       「越を北」として意識している。また「陸奥が東」である。この点は後にも触れる大事な点である。

 

・斉明元年の冬、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、朝(みかど)に物を貢いだ。

 

・斉明四年(658年)四月 阿倍比羅夫の遠征 船軍180艘を率いて蝦夷を討つ。秋田・能代2郡の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞う。渡島の蝦夷と共に饗応。   

    渡島=北海道は、後に見る続紀において蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、

これはありえないであろう。

  

・斉明四年七月四日 蝦夷200人余り、物を奉る。能代郡・・・津軽郡・・・の大領、少領に位を与える。能代郡の大領に詔して蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調査させる。

渡島同様に 能代、津軽は続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、

これも不可能である。

 

・斉明五年(659年)三月十七日 陸奥と越の国の蝦夷を饗応。この月に、四年四月と類似の記事あり。阿倍比羅夫が「船軍180艘を率いて蝦夷を討つ」、と。さらに、津軽の蝦夷120人を饗応。

180艘は斉明四年四月記事と偶然の一致か、それとも誤って二重に記載したのか。

 

・斉明五年十月三十日、伊吉博徳の書における蝦夷を伴った遣唐使記事である。

唐の天子:ここにいる蝦夷の国はどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷(あらえみし)、

一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けています。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:その国に五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:国に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

 

これに附随して、難波吉士男ひと(なにわのきしおひと)の書き記したものがある。

蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を天子に奉った。

 

 

2-3-2 外交史としての蝦夷記事

 

 斉明紀も唐の天子が語った通りに蝦夷を「国」と表記。「国はどちらにあるか」「国に五穀はあるのか」「国に家屋はあるのか」。博徳も「蝦夷の居住地は国ではない」という「訂正」を天子に求めていない。書紀の編纂者もそのまま「国」として記述してしまっている。蝦夷が「国」であるという認識は、唐や九州倭国ばかりでなく、ヤマトの王権も持っていたことになる。

さらに、独立の国家である蝦夷国を侵略するという認識もヤマト側は持っていた。景行紀の武内宿禰(たけしうちのすくね)の言葉が明確に語っている。「東国の田舎の中に日高見『国』(北上川上流か)があります。その国の人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

武内宿禰は、蝦夷が国をなしていることを認めたうえで、日高見「国」、蝦夷「国」を「攻略」するように提議している。したがって、蝦夷国との戦闘はヤマトによる蝦夷の居住地への侵攻・侵略であり、蝦夷の戦いはそれに対する防衛戦であると位置づけることができるのである。これは私だけの見解ではなく、日本書紀自身の認識である。さらに唐会要、通典にも「蝦夷国」が「倭国」と並んで記載されている。

そして国家間の最も不幸な外交関係、戦争へと突入することになったのである。

 しかし、蝦夷国が唐書類に記されたことで蝦夷問題が外交問題になり、また斉明紀が続日本紀の時代に近づいたことで斉明紀の記事を続紀がチェックする機能を果たしてくれるお蔭で、その弱点がより鮮明に見えることになる。

 

 

2-3-3 続紀における「越後」と「狄」に注目

      続紀からわかる、孝徳紀の51年のずらし

 

・文武元年(697年)12月18日 越後の蝦狄(かてき・えみし)に地位に応じて物を与えた。

・文武2年(698年)6月14日 越後国の蝦狄が土地の産物を献上した。

 

 宇治谷孟氏の訳者注(講談社学術文庫P16)によると、「北陸道方面では蝦狄、東山道方面では蝦夷と使い分け」と指摘されている。この使い分けは注目すべきである。この点をさらに続紀に基づいて見ていこう。

 文武紀では越後と狄とが結び付けられている。しかし、この結びつきは必ずしもいつもというわけではない。文武2年4月25日では越後の「蝦夷」106人に、身分に応じて位を授けた、とある。蝦夷とも呼ばれているからである。蝦夷は基本的には、方角いかんにかかわらず、一般的な用語であろう。しかし、あえて「狄」を使うときには、ことさら「北」が意識されていることは間違いない。言うまでもなく、狄とは中華思想における北方にいる化外の異民族・勢力という意味だ。先に斉明元年の冬の記事にも越が北として意識されていた。蝦夷征討が進んでいった後でも、出羽(日本海側の山形以北)の蝦夷が「狄」と呼ばれることが多い。反対に「狄」が太平洋側の蝦夷に使用される例は皆無である。ヤマト王権の日本書紀と続日本紀ではともに「狄」は厳密に北が意識されて使用されているのである。ところで、なぜ文武紀においては越後の蝦夷が「狄」であり「北」なのであろうか。書紀の記述に見られた侵攻のスピードから考えるともっと北の山形・秋田にあたる地域が「北」、「狄」になるべきだと考えられるだろう。

 文武紀では越後の蝦夷に「狄」が使われている。すると越後が「北」に見える地域、そこがヤマトの勢力の圏内、支配が完了した地域ではないだろうか。そのような視点で続日本紀を見てみよう。すると、元明紀では越後も完全にヤマト朝廷の支配下に組み込まれていない状況が記されていることが分かる。

 ヌタリ柵、イワフネ柵の造営は孝徳紀で述べられていた。大化三年(647年)にヌタリ柵(新潟市)、同四年(648年)イワフネ柵(村上市)を作るとある(注)。それにもかかわらず、文武三年(699年)にイワフネ柵造営が記述されている。どういうことか。これもずらしの一つであろう。次の元明紀で越後が蝦夷との主戦場になっていることを見れば、孝徳紀のずらしは明白であろう。699-648=51年のずらしになる。

(注)文武二年にはイワフネ柵を修理という記事がある。造作の前に修理があるという記述の奇妙さがある。また、続紀にはヌタリ柵については造営も修理も記事は無い。この点は柵、城柵、官衙の問題と合わせて、別稿で考察する。

 

 

2-3-4 元明紀の蝦夷との戦い

 

・元明紀:和銅二年(709年)三月五日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正5位下の佐伯宿禰石湯を征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両方から討たせた。  (下線は引用者)

 

 元明紀でも最初期における焦眉の課題は越後蝦夷征討であったことがわかる。「征越後蝦夷将軍」が存在しているのである。有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍であったのは、「服ろわぬ民」の蝦夷が存在したことを大前提とする。したがって、征越後蝦夷将軍が存在することの意味は容易にわかるであろう。つまり文武はもちろん、元明の時期、その初期においても、ヤマト朝廷は越後が制覇できていなかったことを表明しているのである。越後の全体なのか、越後の一部なのかは不明だが、「征越後蝦夷」将軍が存在するということは、越後のかなりの部分を指していると理解できる。少なくとも、ヤマト朝廷が越後を完全制覇できていないことを意味している。ヌタリ柵、イワフネ柵が必要になるわけでる。実際、文武紀にイワフネ柵が築造されており、元明天皇の要望も満たされている。続日本紀は日本書紀の誇大な日本列島早期征討劇が無かった、続紀が斉明紀で津軽はおろか出羽(山形)支配が遂行されていなかったことを告白しているのである。続紀と書記の齟齬である。どちらがより信じられるのかは明白である。

 

 ところで、蝦夷研究について定評を博す工藤雅樹・熊谷公男・中路正恒などの諸氏が無視・軽視する蝦夷関連の史資料がある。それが続日本紀の文武紀と元明紀であり、そこに書かれた「越後」と「狄」についてなのである。この定説派の学者たちは申し合わせたように、日本書紀の斉明紀まで論じた後で、文武紀、元明紀を跳び越えて宮城県の多賀城について論じ始める。文武紀、元明紀に蝦夷記事があるにもかかわらず。おそらくここに触れると定説の根幹の一つが崩れるから触れていないのであろう。(拙論:第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」)

 

 

2-3-5 越後が北に見える場所とは

 

 もしヤマト朝廷が越後・新潟の南部まで支配していたとする。その場合に新潟県内でターゲットとして考えられるのは、ヌタリ柵(新潟市)やイワフネ柵(村上市)の地であろうか。ヤマト王権が制圧しきれていないのは越後の北部であろう。ヌタリ・イワフネの地帯であると仮定しよう。そしてこの地域が北に見える場所はどこかを考えて地図を見る。群馬県、栃木県、新潟県南部であろうか。

さらに、ヌタリ・イワフネが北に見えるその位置から東を見てみる。茨城県とさらに福島県の南部である。文武・元明の時代に常陸国(茨城県)の大部分はすでにヤマトの支配下にはいっていたとすれば、この時点においては茨城北部や福島が陸奥(みちのく)であり、ヤマト朝廷のターゲットであった可能性がある。

 

 私が最近注目し始めたDNAの解析によると、古墳時代の末期・律令時代初期の東京日野市や三鷹市の人骨の解析からはかなり弥生系の血が混ざり始めてきたようである(注)。このことを私は、ヤマト王権の進行・侵攻が古墳時代の末期・律令時代初期までに関東地方まで進んできたことを意味することになると理解した。縄文系が主流の地に弥生系が侵入してくるとするならば、この弥生系の侵入者はヤマト王権だと考えられるからである。

 逆の言い方をすれば、関東のこれらの地域より東、また北への進行、侵攻はまだなかったともとれる。この地域の人骨のDNA解析は進んでいるのであろうか。

(注)分子人類学者・篠田謙一氏の著作による。この見解は2019年出版の『新版日本人になった祖先たち』(NHKブックスP.191~194)からのものである。

この分野の研究は日進月歩の状態のようで、2~3年前の見解は書き改められている

可能性は大きい。篠田氏の2022年出版の『人類の起源』中公新書なども参照のこと。

 

 氏の著作から私は、歴史学は考古学だけでなくDNAの解析などとも連携する必要が出てきているという思いを強くしている。氏のDNAの研究は考古学、歴史学との関係についても視野を広げることを求めているが、さらに言語学との連携の意思も強く感じられる。言葉は人の移動に伴って伝わっていくわけだから当然であろう。

  

 

3 「唐書的状況」を理解する必要性 および「ずれ、ずらし議論」の陥穽

 

3-1 「唐書的状況」

 

 拙稿の第八章「旧唐書と新唐書の間」で論じたことを繰り返す部分もあるが論じてみたい。

 旧唐書日本国伝では、当然のことであるが、倭国については通常の歴史書のように記述されており、何らの違和感も持たせない。中国は九州倭国とは長年の付き合いがあり、中国からの遣使も曹魏、隋(裴清)、唐(高表仁)と九州倭国に来ていた。九州倭国について中国は熟知していたと言ってよいだろう。

 これに対して、旧唐書日本国伝、新唐書日本伝は異様な記述の仕方であった。旧唐書には年代が書かれていなかったが、ほぼ同様の内容が書かれている新唐書には、咸亨元年(670年)のこととされている。両史書日本(国)伝の異様さを並べてみる。

・伝聞調の記述、「また言う」、「また云う」、「また曰う」という史書の体を為していないこと

 単なるインタビュー記事であるともいえる

・唐が日本国の使人の発言をことごとく「疑った」こと、そしてそれを唐が率直にその史書に書き記し

たこと

・したがって、中国が日本国について確認できたことは、「日本国は倭国の別種」ということ

・唐側が、日本国の人々の発言は「疑わしい」ので、日本国の実態がさっぱり掴めないでいる様子が

 伝わってくること  

これらの状況を私は「唐書的状況」と名付ける。

 

 

3-2 古代史家の「日本(国)伝理解」の不可思議さ

 

・日本(国)伝には九州倭国の人間の発言は存在しないということ。「また言う」、「また云う」、「また曰う」の主語は日本国の人間である。倭国伝ではないのだから当然ではないだろうか。それにもかかわらず、これらの発言の中に九州倭国の人間が混じっていたかのように解釈する研究者がいること。

・唐は「疑っている」のだから、「また言う」、「また云う」、「また曰う」として語られたどの内容も唐が確信を持って記述したわけではないし、唐の判断ではない。ところが古代史家たちは「自説の都合に合わせて」それらの中から一断片だけを抜き取り、それが歴史の真実であるかのように語りだす。日本(国)伝は定説派がほとんど論じないので、この解釈は非定説派に多い。

・日本の国名がこのときに出来ていたという見解もある。咸亨元年の日本からの使者の記事が「日本(国」伝」に入っていたとしても、この時点で「日本」という国名があったことを必ずしも意味しない。例えば、「縄文時代の三内丸山遺跡は青森県にある」場合の「縄文」、「三内丸山」、「青森」などの場合。現在では「縄文」時代の、また現在では「三内丸山」と呼ばれている遺跡は、現在では「青森」と呼ばれる場所にあるということに過ぎない。これらと同様に、咸亨元年の時点では掴めなかったが、あの時の使人は現在では「日本」と呼ばれている国から来ていたのだ。では「日本(国」伝」の記事に編入しておこう、このような経緯があったであろう。それにもかかわらず、「日本」という国名が出来たのは咸亨元年であったと断言する研究者がいること、など。

 

 

3-3 日本(国)伝が記述されるときの前提 臆見を交えて

    唐は日本に複数の王権が存在していたと見ていた

 

 唐は日本国の使人が九州倭国と同じ日本列島から来ているとはいえ、日本国は九州倭国とは異なっている、「別種」だと感じていた。九州倭国とは地理的状況が違う、王の系列も違いそうだ、など。この意味で、中国は日本列島には異なる王朝が九州以外にも存在する、いわば多元的なとらえ方をしたのであろう。「蝦夷国」も含めれば最低でも三カ国あることになる。これが日本国伝における記事の前提になっている。したがって、中国は日本国の使人に九州倭国や蝦夷国との関係を尋ねることになる。

「倭国ときみたちの国の関係は?」

「蝦夷国はどこにあるのだ?」

「多利思北孤って誰だ?」

 

 中国を初めて訪れた使人は面食らう。応える準備ができていないので、しどろもどろになる。「倭国ってどこの国だ?」、「蝦夷ってなんだ?」、「多利思北孤って誰だ?」などとうろたえる。この意味でも中国に疑われる。この時点が、ヤマトの勢力が王の系統を確立すること、国の歴史などを書き記すことの必要性を痛感させられたのではないだろうか。したがって、古事記、日本書紀を著わす契機になったのであろう。この過程で「ヤマトの王権は過去から一貫して日本列島の広範囲を統治してきた唯一の存在だ」という政治路線が固められていったのであろう。

 唐は日本に複数の国があることを前提に質問してくる。もし、倭国との関連を尋ねられたら、「倭国というのは我々の国の以前の名前だ」と答えよう。もし倭国が九州にあったと言われたならどうするか。打ち合わせ通りには答えない者もいて、ある者は「倭国は九州の大国で小国だった日本を併合した」と答える者もいた。逆に、「日本国が倭国を合併した」と回答したものもいた。その混乱ぶりが旧唐書と新唐書で全く反対の発言が記された理由ではないか。旧・新唐書にある蝦夷を思わせる山外の「毛人」についての記述があるのも、多元的立場に立つ唐側から問われて回答せざるを得なくなった結果だったのではないだろうか。

 そしてもちろん、王の名前も尋ねられた。王名についての回答はさらに悲惨なものであっただろう。隋に「対等外交」を仕掛けた多利思北孤は唐にとっても決定的に重要な王であった。王の名としては最優先で尋ねられたであろう。多利思北孤はどの王の次で、またどの王の前だ、などの質問もあったであろう。即座に回答する用意はない。これが咸亨元年のヤマト王権の状況ではなかったか。「用明、目多利思北孤(用明が多利思北孤と見なす)」(注)と回答したのは間違いなくかなりの時間が経ってからである。というのも「用明」という漢風諡号は淡海三船によって、700年代の後半に作成されたものだからである。咸亨元年の使人たちは、唐からの質問には、ほとんど全く答えられなかったであろう。

    (注)この読み方と意味については、第八章のコラム3 で考察している。

 

このような会話を通して中国の側は、どうも日本国の連中の言うことからは日本国の実態がつかめない、長く付き合ってきた九州倭国とは全く異なる、と感じることにもなる。再度言うことになるが、このような状況全体を私は「唐書的状況」と名付けたのである。

 

 

3-4 「ずれ、ずらし議論」の問題点

 

 ずれずらしの議論を終えるにあたって、破壊的なことを述べなくてはいけなくなった。すでに、本稿の最初に述べた疑問についてである。ズレの議論の目的は、例えば10年強ずらすことで、歴史の真実に到達すると考えられているわけだが、ヤマト王権の遣使の初回が、神功皇后、推古天皇でも舒明天皇の時代でもない、さらに孝徳天皇時代ですらない。また、斉明天皇の時代でもない。ヤマト王権、後に日本という名前を持つ国の遣使の最初は、咸亨元年(670年)であったということが押さえられない限り歴史の真実、少なくとも中国との外交史の真実は把握できないということ、それが私の述べたいことであった。その際に鍵になるのが「唐書的状況」を見据えることだと思われる。

 日本書紀のずらしは、10年強というような範囲を大きく超えているものも含め多数ある。また、ずらしが行われているのは推古紀に限られたことではない。このことから分かることは、少なくとも中国との外交史に関しては日本書紀から決別しなければならないのではないだろうか、ということである。つまり、年代ずらしは虚偽報告なのである。

 したがって、十年強の年代ずらしを発見した古田氏は、日本書紀の虚偽を発見したにすぎなかったといえよう。