1. はじめに

 

 朝鮮半島の歴史は新羅本紀・百済本紀・高句麗本紀の本紀系、新羅遺事・百済遺事・高句麗遺事の遺事系の2系統がある。しかし、その元の史資料は紛失し後世に復元されたもので、本紀系は1145年、遺事系は1270年~1280年の復元であったと言われている。その際、紛失した史実を中国の史書や日本書紀などに依拠していたと言われているため、同時代史とは言えない弱みを持つ。そこで私は、これまで史資料として参考にする必要はないという「直感」により軽視してきた。特に、白村江戦前後の記録については。

 しかし、天智紀における白村江の戦いを論じるために朝鮮半島の歴史やそれに関わる中国の唐書類も必要となるだろうということで、新羅・百済について、また旧・新唐書の白村江関連の記事について改めて目を通した。そして、私の「直感」は一面、当たっていた。しかし、他面で黙認できないものがあることも確認された。より具体的な形で言えば、一方の百済本紀は特に参考にしなくてもよいという軽微な問題であった。つまり、白村江戦について論じる際の参考資料は、旧・新唐書で十分であり、したがって百済本紀倭人伝は参考にする必要のないことを確認したのである。

他方、新羅本紀は逆に看過できない問題点がるあということが確認された、あるいは正確に言うと、むしろそれらは虚偽の歴史であるということが確認されたのである。これらの点について論じてみたい。どういう問題か。それは私の論考、「旧唐書と新唐書の間」で論じられた問題、倭国と日本国の関係やいかにという問題にも関わる。

 

参考資料

三国史記倭人伝  佐伯有清編訳          岩波文庫

旧唐書 百済国伝、劉仁軌伝 倭国伝、日本国伝   中国書局

新唐書 百済伝、劉仁軌伝 日本伝         中国書局

「日中歴史共同研究」報告書Ⅰ           勉誠出版

 

 

 

 

2.百済本紀、白村江戦についての記述は旧唐書の丸写しである

 

百済の史資料 下記A

A.百済本紀倭人伝〔76〕義慈王、竜朔2年(662年)7月条

漢文:「劉仁軌及別帥杜爽扶余隆、帥水軍及粮船、自熊津江往白江、以会陸軍同趨周留城、遇倭人白江口、四戦皆克、焚其舟四百艘、煙炎灼天、海水為丹」

訳文:「劉仁軌及び別帥杜爽・扶余隆、水軍及び粮船を帥い、熊津江より白江(注)に往き、以て陸軍と会し、同じく周留城に趨る。倭人と白江に遇い、四戦して皆克ち、その舟四百艘を焚く。煙炎、天を灼き、海水、丹(あか)く為れり。」

 

唐の史資料 下記B.及びC.

B.旧唐書百済国伝 列伝149上

「劉仁軌及別帥杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江以会陸軍、同趨周留城、仁軌遇扶余豊之衆於白江之口、四戦皆捷、焚其舟四百艘、賊衆大潰」

 

.旧唐書劉仁軌伝 列伝34

「仁軌乃別率杜爽、扶余隆率水軍及糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江口、四戦捷、煙其舟四珀艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」

 

 (注)日本でいう白村江は、旧・新唐書では白江とされている。白江口、白江之口は白江の河口のことであろう。また、『日中歴史共同研究』(王小甫氏論文P136~137)でも白江、白江口が使われている。中国における用語なのであろう。

 

 A.の「帥い(ひきい)」や「克つ」がB. Ⅽ.で「率い」や「捷つ(かつ)」に変わるなど、若干の文字の違いはあるが、完全にと言ってよいほど同じ文になっている。A.の日本語訳があれば、B、Ⅽの日本語訳が不要なことからもそのことは分かる。もし、唐の史書と同じ表現、同じ内容だから百済本紀倭人伝は信用できると考える人がいるとしたら、言葉は悪いが「それは少しオメデタイ」と思われる。

 

 勝者と敗者で同じ表現になるとは何を意味するのであろうか。百済本紀の完成(再完成)が1145年、旧唐書の完成が945年。百済本紀は旧唐書を参考にすること、いや、写すこさえともできたのである。

 また写したことの決定的な証拠がある。百済本紀倭人伝〔76〕は百済の史書であるにもかかわらず、白村江戦の主体が百済の戦闘の相手である唐の劉仁軌と扶余隆になっており、したがってその記事の主語も劉仁軌などになっていた。さらに「四戦皆克」という表現。これでは、百済の史書が劉仁軌ら中国の側のいわば「武勇伝」を記述したことになってしまっている。百済が自国の立場から描写した内容では全くない。百済の主体性が全く感じられない描写である。百済やその友好国倭国の立場からすれば「四戦皆敗」、つまり「四戦皆敗れる」でなければいけない。したがって「四戦皆克」などは唐側からの筆致であり、その最たる例と言えよう。内容的にも刊行年代から見ても、旧唐書が百済本紀倭人伝をコピーしたのではなく、百済本紀倭人伝が旧・新唐書のコピーに過ぎなかったということは明白である。

 最初に述べたように、白村江の史実を探る最重要な史資料は百済本紀ではなく旧・新唐書であったということになる。したがってまた、白村江を論じる研究者が、百済本紀をもとにしてその引用を行うことは大きな誤りとは言えないが、その原典が旧唐書にあったことを知っておかなければいけないことになる。したがって百済本紀から引用がなされる場合には、それが一種の「孫引き」だと自覚しなければいけないだろう。

 

 

3.新羅本紀における倭国と日本国についての記述は

旧・新唐書からの「歪曲された」、「断片の切り取り」である

 

 新羅本紀倭人伝〔55〕にこうある(注)。

漢文:倭國更号日本自言近日所出以為名

訳文:「倭国、更めて日本と号す。自ら言う日出づる所に近し。以に名を為すと。」

 さらに、新羅本紀日本伝〔149〕にもこうある。

漢文:倭國更号日本自言近日所出以為名

訳文:「倭国、更めて日本と号す。自ら言う日出づる所に近し。以に名を為すと。」

 全く同じ文章が現れている。

(注)新羅文武王10年の記事であるが、唐の元号は咸亨元年、西暦では670年である。

 

1 唐書類との類似点

 ここでの文章表現は明らかに旧唐書日本国伝、新唐書日本伝に似た表現である。

旧唐書日本国伝にこうあった。

「日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは曰う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは云う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また云う、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり限界となし、山の外はすなわち毛人の国だと。」

また、新唐書日本伝にはこうある。

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは云う、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。」

 

 まず、似ている点のうち問題のありそうな点を挙げてみよう。すぐ気づくことは「倭国が自ら言う」という表現形式である。これは偶然の一致であろうか。さらに、内容的に見ると「日出づる所に近いので日本国に名を変えた」という点も、旧・新唐書の一文にあるので類似点と言えよう。

 すでに「旧唐書と新唐書の間」でも述べたように、旧・新唐書の日本国伝は極めて奇妙で他には例を見ないような歴史書であった。日本国人の言うことが事実かは分からないが、とりあえず伝えられたことを羅列的に書き記したというものになっている。つまり「伝聞調」、言い換えると英語などでの直接話法・間接話法に当たる表現法で記述され、しかもそれらを中国は「疑っていた」のであった。極めて特殊な文章表現であったし、特殊な史書であった。そのような記述をする史書が他にあるのだろうか。無いであろう。そのような史書に似ているなどということがあってよいのだろうか。新羅本紀がオリジナルな史書とはとても言えない。記述された年代を考慮すれば、唐書類が新羅の史書を模倣したということは考えられない。新羅本紀が旧・新唐書の真似、「コピーならぬコピー」と考えて差し支えないであろう。

 

2 唐書類との相違点

 

 旧唐書と新羅本紀には大きな違いがある。旧唐書では倭国伝と日本国伝とは別々に章立てされていた。別国扱いである。だから旧唐書日本国伝では「日本国は倭国の別種」と明言されていた。倭国と日本国とは、高句麗国、新羅国、百済国が別国であるように別国だったのである。したがって記述された内容も大きく異なっていた。それに対して、新羅本紀は倭国と日本国とを章立てとしては区別しながら、内容としては全く同じ文言であった。一字一句違わずとはこのことである。結果として「倭国と日本国は同じ国」、つまり「倭国=日本国」だと断定してしまった。したがって、新羅本紀は「倭人」と「日本」と二つに章立てをする必要は全くなかったのである。新羅本紀は倭国伝と日本国伝を別々に章立てするという形式面だけ旧唐書を真似たのである。

 

 ところが、形式の上では似ているのに内容を精査すると重要な意味を持つ相違点がある。新羅本紀の倭人伝に該当する記事は旧唐書の倭国伝には存在しない。類似の記事があるのは旧唐書の日本国伝である。旧唐書では「日本国は倭国の別種」であった、つまり別国であったので、倭国が日本国になったと記述されるはずがない。両国を同一のものとして論じることはできない。これは、新羅本紀編者による大きな「誤解」、「曲解」に基づく記述である。

 

3―3 誤解を生む「新羅本紀」

 

 また新羅本紀は、新羅の文武2年、唐の咸亨元年(670年)に倭国が唐に遣使したかのような「誤解」を生むものになっている。倭国の遣唐使は、通典、唐会要などに記録された659年が最後だからである。したがって670年に倭国が唐に遣使したということは歴史の真実ではない。

 さらに、この記述は別の大きな「誤解」を生じさせる可能性を持っている。新羅本紀の倭人伝でも日本伝でも「倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名を為すと」記述されることによって、倭国と日本国は同一・「同種」の国であり、名前を変えただけだという「主張」を明確に打ち出してしまっている。旧・新唐書が疑い、そして決断しかねていた「倭国=日本国」の問題をあっさり決めつけてしまったのである。旧唐書に書かれた「日本国は倭国の別種である」を無視する「定説」、「世論」の形成に一役買っている。

 これはヤマト王権、後の日本国側の使者が「自己主張」したことと軌を一にしたもの、ヤマト王権側が唐や新羅などの海外に対して主張したかったことそのものであったと思われる。新羅本紀は旧・新唐書の日本国伝の文脈を考慮せずに、日本の遣使者の様々に主張されたその中の一文のみを切り取って史書を記してしまったのである。これはひょっとして、新羅が長年の国交の中でヤマト王権の自己主張を鵜呑みにした結果であった可能性もあるが、または日本国の自己主張の強さにあえて反対はしなかった結果なのかもしれない。これが新羅本紀倭人伝・日本伝の本質ではなかろうか。

 

 

4.旧・新唐書日本(国)伝の真実と新羅本紀の影響

 

 「旧唐書と新唐書の間」の議論を振り返りながら、再度、大事な点だけをクローズアップさせておきたい。まず、ヤマト王権・日本国の使人が語ったのは「新羅本紀」に記された一つの発言だけではなく様々な発言をしていた。「また言う・云う・曰う」などの表現がそのことを示していた。そしてさらに、それらの発言を唐は正しいものとして理解したのではなく、「疑った」のである。新羅本紀は以上の通り、日本古代史における日本での定説的な唐書理解とも呼応し、共鳴しあっている。つまり、万世一系の天皇家は「神武天皇以来、途切れることなくヤマトで統治していた」と記述する日本書紀、そして日本書紀を拠り所にする定説を補強するものになっている。ここでは、「ヤマトを拠点とした倭国が日本国に名を変えただけである」という定説的主張を増長する拠り所にもなりうるものである。いや、定説ばかりではない。古田武彦氏も「日本国の成立が670年であり、その典拠は『新羅本紀』にあると述べている(例えば、『邪馬壹国から九州王朝へ』新泉社 P229)。

新羅本紀の様々な方面への影響力は大きいが、古田氏の場合にもその影響が現れている。旧唐書日本国伝の様々な発言の中から古田氏にとって好都合な解釈、「(九州)倭国が自ら日本国に名を変えた」だけを抽出してしまった。旧唐書日本国伝解釈と『新羅本紀』解釈とが相互に補強しあっているのだろうか。(この点について、詳しくは拙稿「旧唐書と新唐書の間」を参照のこと。東京古田会ニュースNo.211~212)

 

 旧・新唐書の日本(国)伝における真実は次の四点だけである。

一つは、唐は旧唐書倭国伝に見るように倭国のことをよく知っていたのとは対照的に、日本国伝では日本国の出自などはさっぱりわからない、倭国と日本国の関係がどうなのかも不明だ、ということであった。

二つは、日本国伝に倭国の人間が登場し発言することはない。

三つは、日本国=ヤマト王権の使者の中に「倭国が日本国を併合した」(旧唐書)と主張した者もいたし、それとは真逆に「日本国が倭国を併合した」(新唐書)などと言う者もいたということは史実であっただろう。しかし、その発言内容のどれが史実であるかは不明というのが唐の見解であったのである。それゆえ、中国はどの発言をも「疑った」。そして、それらの疑いを晴らしたということはその後の中国の史書でも一切語られていない。

四つは、日本国の名前がいつの時点に誰によって名付けられたのかは、残念ながら不明だということである。旧・新唐書日本(国)が咸亨元年(670年)から始まったからといって、「日本国」名が670年には出来ていたという保証にはならない。例えば、三内丸山遺跡は青森県にあるといっても、縄文時代に青森県が存在したことにならない。三内丸山遺跡は「今でいう」青森県と呼ばれる地域にあったということが省略を含め便宜的に述べられたものである。それと同様に唐からすれば、「咸亨元年に訪問してきたあの人たちは、『今でいう』日本国の使者であったのか、では日本国伝に咸亨元年の事柄として記録しておこう」となったのであろう。

 実際には、すでに「咸亨元年(670年)以前に日本国という名前は既に存在していたのかもしれない。誰によって名付けられたのかは不明だとしても。あるいは咸亨元年より後に名付けられたのかもしれない。誰が日本と名付けたかは不明だが。例えば大宝3年(703年)の遣唐使の時代、ヤマト朝廷が確立された時代には日本国名はできていた可能性は大きい。もっと後かもしれないが。遅くとも日本書紀が刊行された720年の前には「日本」の名は使われ始めただろうとしか言いようはない。誰が名付けたのかは別として。

 残念ながら、唐書類からは「日本国と倭国の関係はいかに」、また「日本国名はいつから使われるようになったのか」という問題の真実を探ることはできない。したがって、これらの問題を唐書類から断片的に、しかも歪められた形で引き写した新羅本紀に求めることはなおさらできることではないのである。

 

5.結論

 

 したがって、百済本紀は倭人伝・日本伝についての限定付きであるが、「孫引き」には使える。しかし、新羅本紀は全く参考にできない。いや、参考にしてはいけないというのが私の考えである。