コラム

第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」をDNAから蝦夷問題を考察する

 

 

第1節 拙稿・第十章を振り返る

 

拙稿の第十章「日本書紀と続日本紀における蝦夷問題」での重要な問題提起の一つは、続日本紀の元明紀(元明天皇在位707年~715年)の記事を定説がことごとく無視していた、あるいは読まなかったことにしていた問題に関わる。定説派(注)によって無視された箇所については記述がないため引用することは不可能である。ここで簡単に、第十章の要点を振り返ってみよう。

   (注)定説の立場から蝦夷研究をリードする、工藤雅樹氏、熊谷公男氏、中路正恒氏の議論など。第十章を参照。

 

日本書紀によると斉明天皇在位は斉明元年から6年まで(西暦では655年~661年)と言われる。その斉明4年(659年)4月に、安倍比羅夫が船軍180艘を率いて蝦夷を討った、秋田・能代の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞うた、などと書かれている。

さらに斉明5年(660年)10月30日、伊吉博徳書(いきのはかとこのふみ)における蝦夷を伴った遣唐使が唐の皇帝(天子)と対談する。

 

唐の天子:ここにいる蝦夷のはどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷

(あらえみし)、一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けていま

す。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:そのに五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

 

これに附随して、難波吉士男人(なにわのきしおびと)の書き記したものがある。

 

蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を天子に奉った。

 

斉明天皇の時代の日本書紀におけるこれらの記事は、元明紀の記事を無視する定説派によって繰り返し引用されている。これらに基づいて、「蝦夷は東北に居る」、「津軽までもがヤマト王権の手が及んでいる」、これらのことが自明の事実であるかのように何人もの定説派研究者によって主張されてきている。

 

しかしながら、書紀で設定された斉明天皇紀から50年ほども後の時代の続日本紀に記された元明紀には次のようにあるので見比べてほしい。

 

和銅2年(709年)3月 5日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。

そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士

などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大

輔・正5位下の佐伯宿禰石湯征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両

方から討たせた。(下線は引用者)

 

この奈良遷都(710年)が行われる前年の記事は、定説によって一貫して無視されてきている。私はこれを「定説による元明紀隠し」と名付けたのだが、元明紀のこの記述は定説によってなぜ隠されなければならなかったのか。理由は明白である。

ヤマトの王権による蝦夷征討は、元明天皇の時代に越後さえ完遂できていなかったとしたならば、斉明紀で津輕の蝦夷を討伐し、さらにヤマト王権に朝貢させ饗応するなどが空想物語に過ぎなかったことを認めざるを得ないからである。つまり、定説派は「実は、斉明天皇の記事はヤマト王権による単なる空想の産物・願望のなせる技にすぎませんでした」と認めるしかなくなる。日本書紀の立つ瀬はなくなってしまうであろう。日本書紀の大部分を史実として語る定説にとって、斉明紀さえ疑われてしまうならば日本書紀そのものへの懐疑が勢いを増すことになる。もちろん研究者によって日本書紀の何を信じるかは異なるが。

さらに付け加えれば、次の㋐、㋑、㋒、㋓も元明紀と明らかに矛盾する。

㋐崇神紀の記事によるとオオヒコの尊が「服ろわぬ民(まつろわぬたみ・蝦夷と言われてはいないが)」征討のため遠征し、会津で息子と再会する、つまり彼は会津までを平定したことになっている。

㋑景行記・景行紀(4世紀前半から中期とされている)におけるヤマトタケルの蝦夷征討譚の進行・侵攻も架空物語であったと認めざるを得なくなるであろう。関東地方から陸奥までの征討を匂わせているが、4世紀の時点で関東制覇さえ大げさであろう。ヤマトタケルについては定説派の中でも架空の物語に過ぎないと一蹴する論者も多い。

そしてさらに、日本書紀からは離れることになるが、しかし定説の中ではほぼ史実とされている事柄がある。

㋒雄略天皇の時代(発掘された鉄剣銘にある辛亥年から471年ごろと想定されている)を埼玉稲荷山古墳と結び付ける物語、というよりも定説派による古代史捏造の画策も無理筋であると認めざるを得なくなるからである。5世紀後半に関東はヤマト王権の勢力圏に取り込まれていたことになったはずだ。

8世紀初頭の元明紀で「征越後蝦夷将軍」が存在し、越後が対蝦夷戦の最前線であるという記事、また兵士の徴発も「遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中など」から行われていることにも注目しなければならない。兵士の徴発は、越後に近く、政情が安定している国々という条件が必要とされる。越後は対象外になっていた。

逆に見ると遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などはこの時代までにヤマト朝廷の安定した支配圏内に入ったことを意味するだろう。

また、さらに付け加えておかなければならないことがある。

㋓日本書紀の大化期に造営されたと記されている蝦夷対策のための城柵が二つある。一つは孝徳天皇の大化3年(647年)のヌタリ柵。新潟市造営と推定されている。もう一つは大化4年(648年)のイワフネ柵。新潟県村上市と推定されている。この記事を信じれば元明天皇の時代まで約60年もの間、新潟県内で蝦夷討伐が完遂できていないという体たらくは定説派にとっては認めがたいことになろう。

ところで、ヌタリ柵、イワフネ柵は共にその遺跡は見つかっていない。それらの造営は史実であったのだろうか、それともまだ発見されていないだけなのだろうか。万一、両柵の造営が史実であったとしても、元明紀の「征越後蝦夷将軍」が存在していた時代の造営と考えた方が理に適っているだろう。佐伯宿禰石湯(いわゆ)将軍としても越後蝦夷征討の拠点が欲しかったであろう。

いずれにしてもこれは語っておかなければならないだろう。斉明紀の伊吉博徳書の壮大な津軽までの蝦夷征討劇などと合わせて㋐、㋑、㋒、㋓の事柄とは、後の続日本紀の元明紀記事との間に齟齬をきたしているのである。以上の点から、私は斉明紀などの蝦夷の記述は真実の歴史の価値がないこと、さらに、唐の時代の史書類に登場する蝦夷に関する記事も、ヤマト王権とは無関係であることを論証していたのである。

 

 

第2節 拙稿を裏付けるDNA論

 

Ⅰ. 遺伝子解析に注目する

私は、続日本紀と日本書紀のどちらをより信頼できるのかと問われれば、迷わず続日本紀をより信頼すると答える。ところで、ヤマト王権による蝦夷征討が元明紀においては越後を主戦場にするということは史書という文献上の事柄にすぎない。私は、この史資料を裏付ける実証的な証拠が欲しいと考えていた。例えば、ヌタリ柵、イワフネ柵などをはじめとする城柵などの考古学的資料の発掘を待つなどが必要だろうと考えてきた。しかし、現在までにヌタリ柵(新潟市と言われている)、イワフネ柵(新潟県村上市と言われている)などの痕跡は見つかっていない。現在のところ、元明紀などの出来事を考古学に裏付けの役割を期待することはできない。

ところが私は最近、遺伝学上の研究の進展が蝦夷問題を解明する上で一つの重要な役割を果たしてくれるのではないかと考えるに至った。その手掛かりを与えてくれたのが「分子人類学」の篠田謙一氏による以下の諸著作であった。

 『ホモ・サピエンスの誕生と拡散』 洋泉社    2017. 6.19     篠田A

 『新版 日本人になった祖先たち』 NHK出版 2019. 5.15 第2版  篠田B

 『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「・篠田C大いなる旅」』中公新書 

                           2022.11.20 第7版  篠田C

       (以下、便宜的に各著作を篠田A・篠田B・篠田Cと呼ばせていただく。)

 

氏の著作などによって私が理解した限りでの遺伝についての基本事項である。

遺伝子についてである。Y染色体は、脈々と父親から息子へと受け継がれていく。Y染色体は男性のみが保有しているからだ。言いかえると、息子のY染色体は必ず父親から受け継いだものになる。

また、ミトコンドリアDNAは、脈々と母親から子へと受け継がれていく。受精卵の中で、父親からのミトコンドリアは消失するためである。つまり、母親の血統が分かるのである。

この点について蝦夷征討問題を論じる視点からすると、女性の系統・血統が追跡できるということは、父親の系統・血統以上に有難いことである。男性の移動は必ずしも移住・定住を意味しない。戦闘などに加えられることで移動するばあいもあるからである。これに対して女性の移動があった場合は、それは移住・定住であり、戦闘が集結し平安な時代の到来を示すであろう。つまり、これはヤマト朝廷による蝦夷征討が完了し、かなりの年月が経ったことを意味しているのである。

 

そして私は、以下の論考では次のことを前提にしている。

① 蝦夷と呼ばれた人々は縄文系の遺伝子を持ち、ヤマトの勢力は弥生系渡来人の遺伝子を色濃く持っている。その上で、篠田氏の考えを元にヤマトの蝦夷攻略のプロセスについて考察を加えていくことになる。

その際に、次の点も考慮しておかなければいけないであろう。

② 弥生系のY染色体も、ミトコンドリアDNAも共に増えていない状態があったとすれば、弥生系の人々の移動は全くなかったことを意味する。

③ 弥生系のY染色体だけが増えて、ミトコンドリアDNAが増えていない場合には、男性だけが移動し、女性は移動していないことを意味する、と。この場合には、ヤマトによる安定支配がまだ確立されていない状態、時期や場所によっては戦闘状態にあったと考えてよいであろう。したがって、弥生系の女性の移動、定住も限定的であろう。

④ 反対に弥生系のミトコンドリアDNAも増え、現代と同程度の構成に近づく、あるいは同程度になったとすれば、弥生系の女性が多数移住して定住してかなりの年月が流れたことを意味するだろう。

 

以上のことから、第1節で見た日本書紀と続日本紀における蝦夷征討の進行状況と、さらに遺伝子解析の成果とを照らし合わせてみよう。

 

Ⅱ. 日本列島における各時代の遺伝子解析

① 旧石器時代

火山国日本は土壌が酸性を帯びているため人骨の保存には不利で、日本列島における旧石器時代の人骨は少ない。よって遺伝子の解析は進んでいないが、「間違いなくいえることは、縄文人が旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団によって形成された」こと、「列島の内部では、地域によって遺伝的に異なる多数の集団が居住していた」と推測されている。

 

② 縄文時代

貝塚のお蔭で人骨の保存状況は良くなる。縄文人のミトコンドリアDNAは20種を超えている(篠田A.P136)。ということは縄文人とは、そう考えられる向きもあるが、単一の人種だと想定してはならない。むしろ、様々な方面から日本列島に集まってきて居住していた人々の集団が縄文人と呼ばれているだけということになる。人種として単一・単色であったわけではない。

ミトコンドリアDNA解析による縄文人の代表的遺伝子タイプ(ハプロタイプと呼ばれている)からは黒竜江・沿海州方面から北海道を通るコース(篠田A、P136)。から列島に到着した人々がいる。というのもこの遺伝子タイプが北海道と東日本で最多なため、北海道から流入したことがわかる。これに対して九州の縄文人にも少し異なる遺伝子タイプの系統が見られることから、朝鮮半島を経由した人々の進入も考えられる(篠田B、P204)。

他方、これらとは別の異なった遺伝子タイプがあり、これは西日本と琉球列島で多数みられることから、中国大陸の南部沿海地域から西日本に進入して東に向かったと推測される。

 

アフリカから出発したホモ・サピエンスが様々な方向に拡散していき、様々な遺伝子の変異を行いながらその幾つかの集団が再び日本列島に集まってきたようである。そして、日本列島に集まっても彼らの眼前に広がる太平洋によって先に進むことができないため、様々な遺伝子類型を持つ人々が日本列島で交雑し独特な集団が出来上がっていった。これがいわゆる縄文人である。したがって、この縄文人と似た人々を世界のどこに探しても見つかることはない。「縄文人は日本で生まれた」(篠田A、P160)と氏は言う。名言であろう。

ちなみに他分野、例えば日本語の独自さ、世界に類例を見ない縄文土器・土偶の誕生などを見るとき、これらと類似なものを他のどの世界に求めても見つけられない。これらも縄文人と同様に日本列島で生まれたものであろう。遺伝研究の成果が及ぼす範囲は広いと思われる。氏の視野は広い。この点も感銘を受けた。氏は語る。古代の遺伝子解析は「考古学、歴史学、言語学などの分野にも大きな影響を与えていくことでしょう。」(篠田C、P170)

 

③弥生時代

その後、2千数百年前に渡来系弥生人が東北中国や朝鮮半島からやってきて在来の縄文人との交雑が始まる。主に九州北部への渡来であっただろう。(篠田A.P170)

 

ところで、ここで氏による興味深い指摘がある。「縄文人と弥生人はどのように出会ったのか?」という問題である。氏によれば、縄文人と弥生人との出会いは平和的なものであったとされる。まず、縄文系の数が圧倒的で、弥生系の渡来は少人数ずつであった。

また、狩猟・採取を基本とする縄文人と、農耕を主とする弥生人とでは、他者の生活領域を侵害することなく、住み分けができた。

さらに、縄文人自身が多様な集団であったために異なる種類の人々を容易に受け入れる素地があった。以上によって平和な出会いであったというのが氏の考えである。そして氏は言う。「現代を除けば、弥生時代は日本列島の中で、もっとも遺伝的に多様なひとびとが暮らしていた時代だったのです。」(篠田C、P219)

ところで交雑が始まって以降、弥生系の遺伝要素が縄文系を凌駕するという事態が起こっているが、これはなぜであろうか。それは稲作を中心とした農耕を生業とする弥生系の人口増加が速かったため弥生系が優勢になっていったと考えられる。決して弥生系が縄文系を攻撃し追いやったということを意味してはいないということも興味深い指摘であろう。

私はそうであったことを願いたいのだが。少なくともこの時代は。

 

歴史時代の遺伝子情報

④ 古墳時代

この時代が今回のテーマにとっての最重要のポイントである。

縄文時代には全体として縄文系の集団が暮らしていたところに、北部九州方面に渡来してきた弥生系の人々が次第に東の方へと移動してくる。しかし氏の調査によれば、①古墳時代の関東地方はまだ縄文系中心であった。「古墳時代に至ってもなお、渡来系弥生人との混血は全国に及んでいなかった可能性があります。東京の日野市と三鷹市の古墳時代に遺跡から出土した複数の人骨にミトコンドリアDNAの解析をおこなったところ、渡来系弥生人由来と思われるハプログループは多数を占めてはいませんでした」と述べられている。(篠田A.P172)。つまり、この段階では少なくとも弥生系の女性が関東地方に移住・定住する段階ではなかったということを意味するであろう。

さらに、篠田Bでは、7世紀の関東地方には渡来系弥生人の遺伝的な影響が強く伝わってい

るわけではなく、在来の縄文系の人々も一定存在するということを示しているようにも見

える。ところが、縄文系と弥生系の交雑が過渡的段階であったという氏の指摘からも分かる

通り、判定の難しさがあると言えよう。そのすぐ後で氏はこうも言う。「ただし、三鷹の遺

跡の予備的なゲノム解析の結果は、彼らが現代日本人の範疇に入っていることを示してい

るので、この遺跡に関しては、すでに現代日本人に近い遺伝的な特徴を持っていることにな

ります。」(篠田B、P191~192)。篠田A(2017年出版)と篠田B(2019年

出版)との若干の差、つまりわずか2年の間にゲノム解析の前進が見られたためなのだろう

か。いずれにせよ、私の解釈としては、7世紀の古墳時代末期、あるいは古代律令制の開始

期にあっては関東地方までヤマト王権の支配が進みつつあり、弥生系遺伝子を保有する女

性の移住と定住が限定的ではあるが、関東地方まで進んできたということが示されている

のであろう。

ところで、古墳時代における弥生系の東への進行は平和的に行われたのであろうか。農業生

産力の発達などに伴う階級分化により強者が弱者を支配する社会の到来はそれを許さなくなってしまったのではないだろうか。それを象徴するのが景行紀における武内宿禰の言葉であった。「東国の田舎の中に日高見国(北上川上流か)があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

私の推測である。武内宿禰の言葉は古墳時代最終の時代の7世紀の終わりから8世紀の始

めにかけての時代状況を反映したものではなかっただろうか。この時代に弥生系による縄

文系への戦闘が開始され不幸な関係が始まった、そのように私は解釈している。そして、私

の第十章の推定では、元明天皇の時代にはヤマト王権の東への進行ないしは侵攻の完遂は

遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中までであり、それ以東、以北は戦闘の最前線だったの

である。

ところで篠田氏は古代律令制をどの時期に想定しているのであろうか。私見では大宝    律令の制定以降となるが、一般には早ければ「大化の改新(645)」が律令への出発点とされるであろう。あるいは白村江の敗戦(663)が律令制に移行する契機になったと考える研究者もいる。一歩譲って、仮に律令制は7世紀中ごろの開始と解釈してみる。それでも関東地方には縄文系が優勢な地域があったことになる。したがって、戦闘が始まっていたとしてもその終結は迎えられず、ヤマトの王権による安定支配は確立されていない地域が存在していたことになるだろう。遺伝子解析の研究がさらに進むことに期待したい。

 

⑤ 奈良・平安時代については人骨が集まらないという問題が生じる。仏教の影響で火葬が一般化し、DNA解析に耐える人骨が少なくなる。

このことは、蝦夷征討が最も激しく行われる時代のDNA解析が期待できず、この面からの続日本紀などの文献史料の史実確認を困難にする。奈良・平安時代の蝦夷討伐と在来縄文人と渡来弥生人との混血のプロセスは進んでいった時代ではないだろうか。遺伝子の解析可能な人骨が発掘されないので証明はできない。ストーリーを描くことができるだけである。

この時点では、弥生系が縄文系を攻撃し、縄文系の領土に侵攻する極めて不幸な局面が生ま

れ恒常化した時代と言えよう。征服した蝦夷の土地に他の地方から多数の人民(良民)を移

住させる。反対に、蝦夷を強制的に他の地方に移住させる。これらは続日本紀・日本後記な

どを通してみられるヤマト朝廷の蝦夷政策であった。このことを通じて着々と混血は進ん

でいったのであろう。

 

⑥ その結果として、鎌倉時代の関東では現代の基本が出来上がる。(篠田A,P174)

奈良時代・平安時代は火葬が増えたため遺骨の分析がしづらくなってしまったが、鎌倉時代の鎌倉市で土葬された遺骨が多数、発掘されている。「鎌倉時代の人骨のミトコンドリアDNAを調べたところ、そのハプログループの構成は、現代人とほぼ同じである」ことが分かった。「古墳時代までは縄文系の人々が主体だった関東も、鎌倉時代になるとほとんど弥生人たちと融合しあったといえそうです。」

するとやはり、古墳時代と鎌倉時代をつなぐ奈良・平安時代の遺伝子解析が進まないという

問題は極めて残念なことである。

とは言え、以上のことからも斉明紀のような「秋田・能代・津軽蝦夷の征討」は架空の物語

に過ぎなかったことは明らかである。そして今後、遺伝子解析が進むことによって定説のよ

って立つ基盤はさらに脆弱になっていくことであろう。

 

⑦ 江戸時代 江戸時代の人骨は語る

ミトコンドリアDNAの観点から言えば、当時、東北や信州に住んでいた人たちは、すでに

現代の日本人と同じタイプのミトコンドリアをすべてもっていた。

当然のことながら、東北まで女性の移動・定住が進んでいたことになる。

 

 

第3節 まとめ

日本書紀と定説による見解、続日本紀の要点、DNA解析を時代順に並べたものが次の表である。この表からも分かる通り、続日本紀と現段階におけるDNA解析とは矛盾せず、相補的でもある。これに対して、日本書紀とそれに基づいている定説派の主張は、続日本紀と矛盾しているばかりではない。DNA解析から見てもかけ離れていたのである。