唐会要日本国伝から(原文)

 

 1. 咸亨元年三月 遣使賀平高麗 爾後来朝貢 則天時 自言其國近日出所出 

 故號日本國 蓋悪名不雅而改之

 

 2. 一気に777年や839年の遣使記事に進む 詳細は略

 

 3. 日本 倭国之別種 以其國在日辺 故以日本國為名 或以倭國自悪其名不雅

 改為日本 或云日本舊少國 呑併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對

 故中國疑焉

 

 4. 長安三年 遣其大臣朝臣真人来朝 貢方物 朝臣真人者 猶中國戸部尚書

・・・・               後略

      

 この記事は年代順に並んではいないので、正確な年代順を定めるのは困難である。編年体に馴染んでいる私としては、1,3,4,2の順であってほしかったが。

いくつか、旧・新唐書日本(国)伝との違いを挙げてみよう。

1からは、新唐書にも記された年、咸亨(かんこう)元年(670年)が記されているが、三月と月も特定されている。より詳しい。そしてこの時点では、唐が高麗を平定したことを祝しての来訪だったとされている。さらにその後、度々(繼)の来訪があった、と。

 さらに、旧・新唐書では1と3は同じ時期の遣使と読み取ることができるのに対して、唐会要では別の遣使者の発言内容と理解することができる。それはそれで、「亦言う」、「或いは云う」などが、同時代に行われた発言とは限らず、様々の時期に様々に発言する人間が来訪してきたという様子を表すのにふさわしい記述だと考えることができる。ヤマトの王権がその路線を確定できていない時期の右往左往の様子をよく表しているとも言える。遣使者によって発言内容が異なる、ヤマト王権にはまだ統一見解が無かったとも言える。

 また、度々とはいつのことかという問題もある。この文の流れからは、不明な部分もある。則天武后の時代の前までに度々の来訪があったとも理解できるが、逆にここに言う「則天時」が2回目でその後、700年代、800年代の遣使も含んで度々であったのかは不明である。しかし、則天時は690年から705年までだが、この間に少なくとも1回の来訪があったことは間違いない。その際、長安3年(703年)の粟田真人の遣使記事が別建てされているので、これはもちろん除くことになる。真人の遣使以外に1回あったということになる。

 旧・新唐書日本(国)伝では、1と3の記事が連続して記述されていたのに対し、ここでは、後代の777年や839年の記事が挿入されている。評価が難しいところだが、1,3の下線部は、日本国の自己主張であることは旧・新唐書の場合と同様である。「自言」、「或云」がそのことを示している。

 私の解釈になるが、703年の遣唐使の時点で、日本国の立場はすでに明確になっていた。つまり、「日本は万世一系の天皇の国」という政治路線が確定して、天皇の系統も明確になっていただろう。さらに律令制・元号の確立、これらが唐の高評価につながったのではないだろうか。さらに時に皇帝、則天武后による遣使者の粟田真人に対する信頼度や高評価から見ても、日本国が中国によって国家として「認定され」と思われる。

 「また言う」、「また云う」や、さらに「中国が疑う」と記述された事態は、703年よりも前のことではないだろうか。よって、3の事項は703年以前の則天武功在任時、ないし則天武后が皇帝になるより前のことと解釈したい。

以上、唐会要という資料についての解釈を試みてみた。