続 第八章 旧唐書と新唐書の間 その4

     

  大和岩雄氏は古田氏を新唐書を読まずに、旧唐書だけで「九州王朝説]

を論じているとおよそ次のように批判している。

 古田武彦氏は、『失われた九州王朝』で、なぜか旧新『唐書』のうち『旧唐書』 だけをとりあげ、『新唐書』はまったくとりあげていない。『失われた九州王朝』のために、『旧唐書』を最大限に利用するなら、当然『新唐書』にもふれるのが、「資料性格上」の常識である。・・・古田説にとって都合の悪い『新唐書』は倭と日本が別種であることを強調していないが、これをを無視して、『旧唐書』のみをとりあげて自説を主張しても説得力はない。(「日本」国はいつできたか 大和岩雄 大和書房 P.41~42)

 また、『唐暦』、『通典』などで倭国の別名が日本国として紹介されていることを

基に(同書P.42~43)倭国と日本国が「同種である」ことを強調して、古田氏の批判を続けている。

 

 大和氏によると新唐書が「倭国と日本国が別種」と書いていないのは、倭国と日本国とが「同種」であることを認めたかのような書き方である。したがって、新唐書がまるで定説派の助け船であるかのような口ぶりである。

 第八章でもすでに述べたことでもあるので簡潔に進めよう。

① まず、はっきりしていることは、新唐書は旧唐書の「別種である」を撤回したわけではない。撤回はどこでもされていない。「別種」であることは唐王朝が自分の判断で認識し、断言したことであった。旧唐書の日本国伝、新唐書の日本伝で書かれた有名な「中国これを疑う」の対象にはなっていないのである。旧新で唐朝の認識が変わったわけではない。

 ところで逆に大和氏は当然のことながら、氏にとっては不利になるはずの旧唐書で、何故「別種」と書かれたのかを説明しなければならなかったはずだ。だが、それはされていかった。大和氏は旧唐書から逃げたことになるのではないか。大和氏も「都合の悪いことを無視した」ことになるだろう。

② 第八章で述べたように、新唐書は日本国の自己主張を記述する傾向にあっただけである。そのことを古田氏も認識していなかったのだが、大和氏もその重要な傾向を見逃していたと思われる。

この私の見解に対して、定説の立場の研究者は反論を試みてほしい。

 

         続 第八章 旧唐書と新唐書の間 その3

 

 「目」を「自」、「曰」に変えた異本がある。それらすべてが歴史の中で生き延びてきたということは、中国ではどの文字でも意味が取れたということであろう。

だから、安易に「いずれかが誤字である」と考えてはいけないことになる。

そこから導き出された読み方が「目」=「目す・目される(もくす、もくされる)」=「見なす・見なされる」であった。

 

「用明を多利思北孤と見なす」、「用明は多利思北孤と見なされる」となる。

この読み方から異本の「自」、「曰」を見る。

「自」の場合には、「用明、(日本国は)みずから多利思北孤だとする」

「用明、(日本国は)多利思北孤だと曰う」、と万事うまく収まるであろう。

    この読み方の詳しい説明は、補 第八章 その2で述べている。

 

 したがって、「目」を「副官・補佐役」だと考える古田説・内倉説は成り立たないのだが、両氏の読み方を再度振り返ってみると、とても奇妙だということに気がつく。後日、気が付たのである。

 両氏は、新唐書の天皇名の記載が「日本国からの自己主張」だとは見なしていない。この点で、状況把握ができていなかった。むしろ、九州倭国の主張ととってしまったために、「多利思北孤が用明の上位になるように読めないか」と考えたのであろう。そこで「目」は「副官・補佐役」を意味することになった。

 「用明、目(副官・補佐役)、多利思北孤」と並べてみると、「用明は多利思北孤の副官・補佐役である」となる。このように判断してしまったと思われる。

 ところが、である。それではさらにおかしな方向に向かうことになる。

 

 副官は用明かそれとも多利思北孤か。

① 「目」が副官・補佐役という意味の名詞だとするとどうなるか。

 古田氏、内倉氏が期待した、「用明のほうが多利思北孤の副官だ」という意味に

はならない。

「用明、副官は多利思北孤」、これがより自然な読み方だ。

 

② 「目」が「~を副官とする・~を補佐役にする」という他動詞だとする。するとよりはっきりする。

「用明は多利思北孤を副官・補佐役とする」と読むしかなくなるのである。

はじめに  

宣長の中国史書に対する基本姿勢

 

 本章は第四章、第五章の続編である。このため再論される事柄も登場する。

先に、裴世清における「筑紫・難波セット」と高表仁の「対馬・難波セット」について、隋書や唐書に書かれていない事象であるにもかかわらず、日本書紀によってなされた付け加え記事だと指摘した。そして、この日本書紀による付加が、その後、本居宣長説によって追認されることで、後代の歴史学者によってさらに定説の地位を獲得したと考えてもよいであろう。九州倭国で行われた事象が、まるでヤマトで行われたように作為される。後に見るように宣長の考察の基本は、日本書紀の編纂者、不比等と異なる部分が多々ありながらも、別の意味で日本の古代史を「創作」している。

 外交史を展開する「馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)」において、宣長は中国や朝鮮半島の国々とヤマト王権、またヤマト朝廷の外交関係について彼の見解を述べている。ところで、馭戎慨言の「馭戎」とは「西戎を馭する」、つまり日本より西にある中国や朝鮮半島の国々を、朝皇(すめらみかど)が支配するという意味であり、ここには宣長独特の「高邁な」ヤマト中華思想、華夷思想が示されている。

  注目するべきは、宣長は結局のところ、ヤマト王権と中国の王権との接触は隋の時代の607年が最初であったと主張したことである。中国の史書に書かれたBC1世紀の前漢に始まる倭国と中国の国交、その後、後漢、魏、宋、梁に対する倭国の遣使の記録は、幾つかの理由によって否定されていく。しかしその際、宣長は中国の史書の内容を真っ向から否定するのではない。さらに宣長は、少なくとも『馭戎慨言』に関しては、文字の書き換えというような小手先の改作はほぼ行っていない。このことは印象的である。日本古代史研究の常道として文字の書き換え、特に中国の史書の文字の書き換えを行う「風潮」、自分の解釈に都合がよいように書き換える「技法」、むしろ、書き換えの巧みさを競っているかのような「流儀」と対比させるとき、宣長の研究姿勢はある意味で堅実である。

 例えば、宣長によると、前漢、後漢、魏、宋、梁に書かれた遣使の記録は日本列島からのものであることは認めながら、それらはことごとく宣長が崇敬する皇朝(すめらみかど)の事績ではなかった、つまりヤマト王権の行った記録ではなかったとして、ヤマト王権の関与を否定するのである。このとき、彼は文字の変更によってではなく、彼独自の解釈の仕方によって説明していく。

 私はヤマト王権が中国の王権と接触を開始するのは隋まではなされておらず、670年の唐への「私的遣使」、より正確に言うと「様子見」、が最初であると考えている(注)。中国との国交開始時期607年は宣長のほうが、私の見解よりも少し早いことになるが、宣長は他のどの学説よりも、中国との国交開始がかなり遅いという立場に立つ、いや、私の知る限り定説的理解の中では一番遅いであろう。この点で私は宣長に特に興味を持つことになったのである。もちろん考察の仕方は互いに異なるが。

 しかし、中国との国交開始が遅いことは宣長にとって、またヤマト王権にとっては深刻な問題を抱え込まされることになる可能性がでてくるである。その深刻な問題とは、ヤマトにおける文字文化の発展が遅れてしまうだろうという問題である。本章では、このことも併せて述べてみたい。

(注) 第一章「倭国の遣使先と遣使姿勢」、 第八章「旧唐書と新唐書の間」などを参照

 

 

第1節 中国との関係についての宣長の考え

 

 『馭戎慨言』における中国との国交についての宣長の説を、次の三つの類型に分類して、まずそれぞれの個所の注目点を指摘し、必要に応じて問題点も簡単に述べておきたい。後に大きな問題点について論じていく予定である。『馭戎慨言』は中国の明の時代までを取り扱う外交史であるが、ここでは、ヤマト朝廷が胎動を始め、中国の唐書で「日本国伝」が開始されるまでの時期に限り論じることにする。

なお、以下、ページ数だけを示してあるのは、『馭戎慨言』宣長全集第八巻(筑摩書房)からのものである。

 

A.  中国の史書にのみあり、日本書記にはないこと

B.  中国の史書、日本書記の両方にあること

同一の固有名が出ている場合、また同一と思われる固有名が出ている場合に

は、Bに含めた

C.  中国の史書にはなく、日本書紀にのみあること

 

A.  「中国の史書にのみあり、日本書記にはないこと」と宣長の解釈

①前漢書・地理史 倭国の遣使 BC1世紀  → 宣長のコメントは無い。

②後漢書 遣使 57年 志賀島で発見された金印を後漢の光武帝からもらう

       107年 倭国王、帥升等の遣使   

  → 宣長は言う、これらの遣いは皇朝とは無関係であり、「西の辺(にしのほとり=九州)のもの」が皇朝を騙ったものである  以上、p.31

③宋書 倭の五王 讃、珍、斉、興、武

  → 宣長は言う、讃、珍、斉、興、武の名前に当たる天皇はいない、またどの天皇に当てはめようとしても年代が合わない

  → 朝鮮半島の日本府の卿(まえつきみ)が皇朝の名を騙って遣使したもの 

p.38

  → 宣長は、讃、珍、斉、興、武は、漢風式の一字名に合わせたものという点には触れていない。

 

⓸隋書開皇廿年600年 隋書の引用

→ 宣長は言う。多利思比弧は男帝であり、推古天皇は姫尊なので合わない

「西の辺(にしのほとり)のもの」の遣いである。  p.42

 

⑤隋書大業三年607年 例の「日出所の天子、日没するところの天子に書をいたす」は書記にはない。

→ しかし、宣長は隋書の記事を承認し、「天子対天子」の対等外交は、ヤマト王権のものであったとする。「まことの御使い」であった、「書記にのせられざれども、誠にさぞありけん」と言われている  P.42~43

→ 600年とは異なる評価をしている。日本の天皇が中国に「天子」と呼ばれたことに、また「対等外交」であったことに気をよくしたのであろう

→ 隋書にある、「朝貢」には触れていない。「大業三年、その王多利思比弧が遣使をも

って朝貢」にはクレームが付けられるべきであった。不徹底で、ご都合主義ともい

える

→ 隋書には存在しないため、ここに載せることは適切ではないが、定説では時期的に

は重なるとされていることなので触れておく。宣長によれば。大業三年607年、

推古紀十五年の小野妹子の遣使は、「皇朝の大御使いのはじめにはありける」と述

べている。p.42

→ 要するにこの時点までにおいては、607年の遣使のみが中国と皇朝の唯一の接

点であった。C.でも再度触れる。

 

B. 「中国の史書と日本書紀の両方にあること」と宣長の解釈

①魏志 卑弥呼、壹与とは、神功皇后の名前が中国まで行き渡っているので、その名前を僭称した熊襲のたぐいであるとされる。

→ つまり、宣長は、「筑紫の南のかなたにいていきおひある、熊襲のたぐひなりし

もの」が勝手に遣使したと言う p.32~33

→ 張政らが日本に来たことは、宣長は魏志から長々と引用しているにもかかわら

ず、触れていない。したがって、引用文は示せない。

→ これに対して、なぜ皇朝とは無関係のはずの魏への遣使が日本書記に記載されて

いるかという理由は、後代に魏志を読んだ者が日本書紀の端に小書きにしておい

たものを、さらに後の人が本編に組み込んでしまったとされる。P.35~36 

これについては何とも検証のしようがないコメントであるが、私はこの個所

について、後代の人の「うかつさ」、ないし「手違い」と読み取ることはできな

い。すでに第四章・第1節、「神功皇后紀の問題点」において私の見解を述べた通りの意図的なものであり、書記による造作であった

 

②隋書608 裴世清が隋からの遣使として来る。 

→ 筑紫に触れつつ、裴世清を難波津の館に泊まらせ、そして都(京)にまで連れて

  くる。不比等の策略に乗ってしまい、現代の歴史学者による解釈の原型ともなっ

た。

→ 宣長によれば、これが中国と皇朝が接触した二回目である。

 

③唐書高表仁 旧唐書、日本書紀ともに唐からの使者、高表仁の名がある。

→ しかし、記述の内容には両者で違いがあった。旧唐書の貞観五年631年では

、高表仁は「王と礼を争う」。また、高表仁の日本への経路は記述されていな

い。

→ 日本書紀の舒明紀では、高表仁は歓迎されている。そして、裴世清と同様に高表

仁を難波津の館に入らせている。

宣長によると、中国と皇朝との接触の三回目である。

 

C.   「中国の史書にはなく、日本書紀にのみあること」と宣長の解釈

①すでに述べた通り、宣長によると、大業三年607年、推古紀十五年に小野妹子を遣使。

 推古天皇、小野妹子は書記のみにあるので、本来はCに記載するほうがよい。

→ 宣長は「皇朝の大御使いのはじめにはありける」と述べていた。p.42

 

②推古紀十六年、608年八月 隋書にはなく、書記のみに載る謎の国書。小野妹子が帰国したときに、裴世清が持参した隋の皇帝、楊帝(煬帝)からの例の国書である。

「皇帝から倭皇にご挨拶を送る。、、、、天皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く『朝貢』されることを知った。ねんごろな誠心を自分は喜びとする。」

→ 中国の史書では「倭王」と蔑んでいたはずのものが、推古紀では「倭皇」と書き

換えられている問題に触れている。つまり、中国側が「倭王」と格下げして書

くはずなのに、書記では「倭皇」と格上げして記述されている。私は、これは書

記が行いそうな修正であり、大きな問題とも考えることはできない。

先に論じた九州大学の川本氏の議論は、宣長の主張に基づくものであっただろ

う。

→ むしろ、宣長にとっての大問題があるはずの問題には触れられていない、つまり

「朝貢」である。「隋」の国書に記載された「朝貢」については、ここでも宣長

は一言も触れていない。皇朝が遣いを送ること自体を屈辱と捉える宣長が、「朝

貢」に憤らないという不徹底さがある。自己矛盾であろう。川本氏も同様であった

 Cの「中国の史書にはなく、日本書紀にのみあること」については、宣長は書記の記述を優先する考えを持っている。

 

 

第2節 宣長の外交問題における基本姿勢

(1)その問題点

 

 外交問題を論じている『馭戎慨言』における宣長は、中国の史書と日本書紀に書かれたこと、書かれていないことについてはかなり正確に指摘している。「書記にある」、「書記にはない」、「中国の史書による」、「中国の史書に見えず」などと記述することで、出典を明確にしようとしている。ただし、宣長の考え方は、日本書紀と中国の史書が食い違う場合には基本的には日本書紀に従う。さらに、隋書や唐書の記述と日本書紀の記述が不正確な形で統合されてしまうことが起こることがある。

 まず、裴世清の経路の問題A⑤である。隋書大業三年に登場する唐からの遣使、裴世清は隋書では竹島、対馬、筑紫、秦王国にしか立ち寄っていないが、宣長は日本書記に従って「難波」にまで行かせており、さらに「京(みやこ・都)」にまで入らせている。宣長が問題にしているのは、隋書にはない難波行きは書記に書かれていることなので全く疑問視していないことである。不比等に乗せられてしまっている。宣長には何としても、この隋書と書記の違いにこそ鋭い分析の目を向けてほしいところであった。

 ところで書記によると、裴世清の難波到着の日が推古紀十六年六月十五日、ところが入京の日付は八月三日になっている。この間には、五十日の時間のずれがあった。興味深いのは、宣長はここに注目し、中国の使者が天皇に拝謁することが、いかに有難いことかを強調し、そのことに腐心していることである。P.46

 また、A④と⑤の扱いの違いについてである。A④では隋書に書かれた開皇廿年(600年)とその7年後の大業三年(607年)の扱いが異なる点が興味深い。まず、宣長は開皇廿年の倭国の遣使はヤマト王権とは無関係に、勝手に西の辺なるものが行ったこと、つまり九州の熊襲か何かが遣使して倭国を僭称したものとしている。その理由は、推古天皇は姫尊であるのに、隋書の多利思比弧は男性である点で不整合があるからとする。この点では宣長は現代の定説派よりも良識がある。男女の違いについて誠実に解釈し、応えようとしているからだ。そして、この食い違いを回避するために宣長は、魏志における卑弥呼が勝手に遣使したのと同じ扱いをしている。例の「西の辺(ほとり)なるもののしわざ」だとしたのである。P.42

 これに対して、A⑤では大業三年607年の「天子対天子」の対等外交は、ヤマト王権のものであったと異なる評価をする。日本書紀に書かれていない事象であるにもかかわらず、そして中国の史書だけに記載されたにもかかわらず、宣長が承認した唯一の事例が「天子対天子」という対等外交である。日本の「天皇」が中国によって「天子」と呼ばれたことを評価したからであろう。もちろん宣長は、逆に、中国の皇帝が「天子」と呼ばれていたことには難色を示している。中国の皇帝を「国王」に格下げするとともに、遣使の意図も「勅(命令書を与えること)」にしなければならないとする。つまり宣長によれば、隋書にはこう書かれるべきであったと言う。 

もしかの国王などへ詔書たまわんには、天皇隋国王に勅す P.43

 

 ここでは、皇朝が遣使に出かけたという屈辱は容認してしまう。「命令を下す」ためならば中国から使者を呼びつけるべきであろう。わざわざ自分の方から出かけていくなどはありえない。解釈上のご都合主義がここにも表れている。自分の満足がいくように解釈できればよしという姿勢でしかない。

 宣長の原則からすれば、日本の皇朝が中国を含め外国と付き合う基本は、皇朝の側から遣使を行うなどということはあってはならないということであったはずである。外国の王は皇朝に対しては貢を奉るべき立場にある。言い換えれば、皇朝に対して諸外国は朝貢する立場にある。「命令を下す」ためであっても自ら遣いを遣るなどのことがあってはならないのである。

 しかし、この立場も、言い換えればこの「強がり」も、703年の遣唐使以降には見事に崩れていく。中国から日本への遣使は全くなくなり、日本国からの一方的な遣使しか行われなくなるからだ。ヤマト朝廷の確立後は、日本国は唐に「朝貢」しか行っていない。この宣長にとっては屈辱的とも思われる事態について、宣長は一言も触れていない。推古紀の中にあった「朝貢」にも隋書の「朝貢」についても一言も述べなかったのと同様である。宣長としては、首尾一貫しない姿勢だと言わざるを得ないだろう。

 また、A④とA⑤の間には宣長自身の自己矛盾がある。日本書紀を信じる宣長からすれば、600年も607年と608年も推古朝の時代である。したがって600年、607年、608年はすべて姫尊の推古が在位していた。裴世清は姫尊と対面することになるが、ここでは男女問題はないがしろにされている。考慮が及んでいない。もう一つのご都合主義である。

 607年のみ隋書を信じたのは「対等外交」の姿勢に引き付けられたからに他ならないであろう。現代の定説派が無批判に理由も示さずに男性の多利思北孤の「対等外交」に女性の推古を接合するという「学説」の原型を提示しているであろう。

 宣長はここで文字改訂は行っていないが、自分の都合によって中国の史書を肯定し、また都合によって無視するという「技」を使っていたことを指摘しておく。また併せて言えば、以上のことは中国の史書を肯定して理解する私の立場のほうが、日本古代史の真実から逸脱しない可能性をもつという教訓も与えてくれそうである。

 

 

第3節 宣長の肯定的側面と否定的側面

 

(1)宣長の多元主義

 

 A②③④、B①でも分かる通り、宣長はヤマト王権「一元論者」ではない。列島内にヤマト王権以外の勢力を認めている。「西の辺のもの」、「筑紫の南のかなたにいて勢いのある、熊襲のたぐいひなりしもの」の二つの勢力である。彼はそれらの存在を認めているのであり、また中国の史書の記述もその意味で認めている。さらに、ヤマト王権の統制の効かない朝鮮半島にいる日本府の卿も含めると三つの勢力と言ってもよいだろう。もちろん、ヤマトの王権とは無関係とする点では消極的な承認に過ぎないが、彼が「多元主義・プルーラリズム」の立場をとっていることは間違いない。少なくとも、ヤマト王権に統治されていない勢力が、列島内に二つは存在していたのである、と。この点は宣長の長所と言えるだろう。

 しかし、このとき彼は考えなかったのであろうか。宣長からすればAD57年から隋の600年までの550年、倭国全体からすればA②③④、B①にあるように、漢書・地理史のBC1世紀から隋書のAD600年まで、約700年もの長期にわたり中国と国交を継続してきた「西の辺のものたち」は、大した国力を備えていたことが推測されたはずである。宣長はそのことに思いを馳せ、「西の辺のものたちもなかなかやるものだ」とは考えなかったのか。さらに、中国は約700年もの間、正規の王権ではない連中にたぶらかされて遣使を受け、その正史に記載し続けるほど「間抜け」であった、中国の歴史書類はそれほど「杜撰」であったと宣長は考えたのであろうか。

 わたしは宣長に、この「多元性」をこそ直視するべきであった。

 

 

(2)宣長の解釈では、ヤマトは文字文化後進国になる

「西の辺のもの」よりも出遅れる問題

 

 またA②③④、B①では、すでに見てきたように、宣長によると後漢、魏、秦、宋、梁、隋の開皇廿年(600年)までの中国史書による中国への遣使記事はことごとく、皇朝とは無関係に「私的に」なされたものと解釈されて排除される。西の辺(ほとり)のもの、熊襲のたぐい、日本府の卿(まえつきみ)などによるものとされていた。私はすべてが宣長の言う「西の辺のもの=倭国」だと考える。実際には、漢書・地理史のBC1世紀から隋書のAD600年まで、約700年もの長期にわたり中国と国交を継続してきた「西の辺のもの」は、大した国力を備えていたのである。

 逆に言うと、ヤマトに王権が確立されていたと仮定しての話だが、ヤマトの王権は当時の先進国である中国との国交の実績が「西の辺のもの」より、およそ700年間も出遅れたということを意味している。私の見解では「日本国」、後のヤマト朝廷の胎動が始まり、唐にそのことが認知されたのが670年、そしてヤマト朝廷の確立が701年の大宝律令の時期であるので、ヤマトは前漢における遣使からおよそ800年間も「西の辺のもの」よりも出遅れていたことになる。

 国交の遅れは何を意味するか。鉄など金属機器を含む科学技術、律令制、儒教や仏教、漢字文化の導入であり、この遅れは相当にあったのではないかと推測できる。宣長の時代よりも後の時代に発掘されたものであるため宣長は知る由もないが、崎玉古墳群の稲荷山古墳、江田船山古墳に見られる金象嵌、銀象嵌の技術、漢文文化から万葉仮名に移行しつつある鉄剣、鉄刀の銘文、これらの先進的な技術・文化は、残念ながらヤマトからは発掘されていない。ヤマトで発見された最古の文字は、前期難波宮の木簡と藤原京の木簡である(注)。文字文化を含む文化一般は、考古学的に言えばヤマトは九州だけでなく、関東にさえ出遅れた感がある。

 (注)前期難波宮とそこで発掘された木簡については、その意味や年代の確定につ いては未決の問題もあるため、今後の考古学的研究と発掘次第である。いずれにしても現時点では、藤原京や前期難波宮の木簡類は稲荷山古墳と江田船山古墳における金石文の先進性に匹敵するものではない。

 

 

(3) 宣長の解釈によると、ヤマトは文字文化の後進国になる

 

 宣長の専門分野でいえば、宣長の師の鴨長明は古事記を解読するためには、まず万葉集を解読しなければならないということで生涯を万葉集にささげた。古事記、日本書紀には多数の歌がある。万葉集の歌と同類の歌である。奈良時代以前の上古の言葉が使われているものが多い。そして、第三章の「稗田阿礼の役割」ですでにふれたように、古事記や日本書紀の歌は、もともとは万葉の古歌に載せられた歌と同類であった。おそらく日本の各地から集められたものであろう。書記編纂者の手元には、最初に大量の古歌群があり、後にそれらが古事記、日本書紀、万葉集に振り分けられたのであったと思われる。歌には日常の言葉が使われている。当然、人名や地名などの固有名詞、地方特有の言葉遣い、方言なども含まれている。鴨長明もその解読に苦闘したことであろう。宣長は師の万葉集の苦闘の上に立ってもなお、古事記の解読に生涯をかけて苦闘し、「古事記伝」を書きあげた。二人で「稗田阿礼の役割」を果たしたのであった。宣長は、鴨長明や宣長自身が苦闘させられたその原因を、先入観抜きに考察するべきではなかったのではないか。彼の才能があれば、その究明がかなり進んだのではないのか、そのように宣長には言いたい。

 

 ところで、唐書によれば日本国が670年の次に中国と接触するのは703年である。大宝律令が出来た後、粟田真人を代表とする遣唐使であった。ここには30年ほどの空白がある。この空白は、日本国が中国との公式の国交のために準備する期間でもあった可能性がある。特に急務であったのが文字の習得ではなかっただろうか。国書が読み書きできるように、まず中国語・漢語の習得である。私の考えでは、九州倭国や関東などでは古歌がつくられるなど万葉仮名が流布し、使われていたはずである。「倭語」を訓読み、訓書きし始めていたであろう。外国語としての漢語の習得から自国語を漢字表記する過程は相当の時間の経過があったはずである。九州倭国を統合したばかりのヤマト王権は焦る。短時間でそれらも習得する必要がある。そのようにして出来上がった結晶が大宝律令であり、701年に出国する予定であった遣唐使であったであろうし、自国の史書である古事記、日本書紀であったであろう。学習の素材はある。九州倭国などからかき集められた諸々の記録文書であり、また古歌類である。

  

 

(4)日本人による文字習得の過程について

 

 ところで、日本人は文字をいつから使うようになったのであろうか。日本人が漢字を取り入れるということは、外国語としての中国語を使えるようになるということである。したがって、日本人が自国語を漢字で表すという意味で、文字を使うようになるということは別のことである。

漢字を取り入れることはどのようにして始まったのであろう。それは、東アジア史の西島定生氏も言うように、文字の使用は中国との外交関係から始まったのである。支配者層がまず文字を使う必要があった。漢字が読める、上表文が書ける、中国語を聞いて理解できる、中国語を話せる、これらは中国との国交においては必須事項であり、それなしでは相手にもされないことが想像される。必死さが生まれる。いわゆる「必要は発明の母」、いや、「必要は習得の母」である。日本人は中国から様々な先進の文物を取り入れることで、列島内での地位をより安定に、かつより強固にする。そのためには、中国の冊封体制に組み込まれ遣使奉献しなければならない。西島定生氏は次の様に語る。

 

 漢字の伝来を促したものは、自国に存在しなかった文字という意思伝達手段を、自国語の習得のために習得したからではなくて、漢語を表現する手段であった漢字をその本来の性格のままに習得する必要があったからであり、その必要とは政治的・経済的利益のために、中国王朝との関係を維持しようとする政治的行為であった。

   西島定生:「漢字の伝来」、『邪馬台国と倭国』所収(吉川弘文館)P.95

     下線は引用者。

 

 つまり、政治的・経済的活動に不可欠なものとして、最初は外国語としての漢語、中国語の習得が行われたのである。これは極めて大事な示唆である。

これに対して、日本人が文字を使うことを象徴するのが、万葉仮名の登場である。倭人自身の言葉を「倭語」と呼ぶとすれば、意味の同一な「倭語」と漢字を結び付けて漢字の「倭語読み」、さらに訓読みが始まる。主な品詞である名詞、動詞、形容詞などが倭語読みされていく。ところで、私が「倭語」と呼ぶものは、一般には「和語」と呼ばれているものとは区別される。「和語」はヤマト・大和で使い始めた言葉、あるいはヤマト・大和が全国統一して日本列島全体に広まった言葉という前提で使われている。これに対して、私は万葉仮名に見られる漢字の訓読みはヤマト・大和に始まったものではなく、九州倭国などを含む地域で始まったものと考えているために「倭語」と名付けるのである。万葉仮名の宝庫はもちろん万葉古歌であり、万葉古歌の始まりは九州倭国であったと考えられからである。したがって、「和歌」というのも同じ観点でヤマト・大和における短歌という意味になる。これに対して、九州などで読まれていた古歌・短歌は「倭歌」として「和歌」とは区別される必要がある。(第九章「短歌から日本古代史を考える」も参照)

 倭人が日常的に使う言葉が万葉歌という古歌に文字としても残されるようになること、これが漢字という文字を自分のものにしていく最初の段階であろう。後の平安時代になると片仮名や平仮名(注)が創作されて、文字がより生活の中に取り込まれていくことになる。文字が日常化、そして大衆化していくことになる。これが、日本人が自国語として文字を使うようになっていく過程である。外国語としての漢字の導入から始まり、さらに自国語として漢字を利用するに至るまでには、おそらく相当の時間が必要であったであろう。このことから起こりうる宣長にとっての不都合は、次節に述べる。

(注)漢語から「倭語」、つまり万葉仮名を編み出した倭人は、漢語をあくまでも外国語にとどめることになる。その後、編み出されたのが「点」、つまり「返り点・ヲコト点」であった。文法体系が異なる漢語と倭語の壁を乗り越えるために「返り点」が必要とされた。片仮名と平仮名とではどちらが先に作り出されたのかといえば、私は片仮名が先行したと考えている。片仮名の作成は漢字の一部を利用すれば済むという簡便さもあったであろう。しかし、片仮名の発明は外国語としての漢語を倭人の文法に適合させることで漢語文化をいち早く摂取する必要から作成されたと考えられるからである。片仮名が「倭語」の時代のものか、「和語」の時代のものかは確定できないが、平仮名は、唐との国交が終焉を迎え、国風文化に進むころの「和語」の時代の産物であったのではないだろうか。

 

 もちろん、文字をもたない人々が文字を持つようになる過程は、日本人の文字習得の過程とは異なる場合もある。例えば、中国の北朝時代に北魏を形成した鮮卑族、匈奴族は、自分たち固有の言葉を文字化する努力には向かわなかったようである。自分たちの文化を漢風化することで、したがって自分たちの言語を基本的には捨て、漢語を採用することで北朝の支配権をより強固、強大にする方向に向かっていった。これも西島氏の言う「政治的行為」であったのだろう。鮮卑語や、匈奴語の名残は発音や日常語の中にとどめつつも、全体的には漢語を自国語化していったのである。一般に隋、唐の時代から中国において、それ以前とは発音が変わる。例えば、「倭」の字の読み方にも変化が起こった可能性がある。その原因も、異国語である漢語を第一言語にしていく北朝の「政治的決断」と無縁ではなかったであろう。そして、北朝の漢風化は功を奏した。統一国家の隋は、北朝主体で確立されたからである。したがって、文字を体得する過程は国により、また民族によって異なるのであり、一様ではないのである。

 朝鮮半島の国々はどうであろうか。朝鮮半島では、新羅が白村江戦で唐と連合し勝利し、その余勢を駆って高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一する。戦後の利害関係から新羅は唐と対立する局面も迎えたが、最終的には唐に対する冊封体制の中に留まる。統一新羅は、地理的に唐と近距離であったことによって、日本以上に上層貴族階級を中心にして漢語世界の中に取り込まれることになる。科挙試験を目指しそれに合格する者は多かったようであるが、そのためには唐の言語を学び続けていかなければならなかった。このとき漢字音も「漢音(隋唐音)」に統一されていったので、統一新羅の漢字読みは簡便であった。日本はといえば、ほとんど漢字音について統一するような施策は取られなかったために、ある文化が摂取された時期の中国王朝の漢字音がそのまま同時に受容されていた。そこで、一つの漢字が複数の読みを持つという煩雑さを、後の日本人は受け入れざるを得なかったのである。それはさておき、統一新羅は唐の強い影響を受けながらも、独自の文化と言葉を維持していく。そして、自国の言葉が自国の文字で表されるようになる。この点では、日本と似たような過程を経たといえよう。ただし、唐をはじめとする中国からの強い影響もあり、自国の文化が自国の文字で表現されるようになったのは、朝鮮半島では15世紀にハングルが開発されるまで待たなければならなかった。自国文化の文字表現がいかに時間のかかる一大事業であるかが示さているであろう。

 

 

(4)宣長説が持つ、宣長にとっての不都合

① 文字文化について

 

 ところで、西島定生氏は倭国がヤマトであった、卑弥呼がヤマトの女王であったという立場をとる。卑弥呼が箸墓古墳に眠っていることを願った学者である。そこで、西島氏の学説ではヤマトが文字文化を発達させるうえで遅れをきたすという心配はない。中国との遣使関係を早期より保持したという立場だからである。もちろん、ヤマト朝廷が早期に成立したという理論が成り立てばという前提条件が必要であるが。そして、それが成り立たないということはすでに縷々、述べてきたことなので繰り返す必要はないであろう。

 これに対して、宣長の説ではヤマトにおける文字文化の発達は目に見えて遅れることになってしまう。宣長によると、中国との公式な国交は隋の607年までは行われなかったからである。これでは漢字の「必死な受容」すら行われていなかったことになる。宣長が自分でも使っている漢字はいつの時代かに日本に入ってこなければいけないであろう。それは、いつの時点にどのようにして入ってきたのであろうか。宣長の使う平仮名は漢字を基にして成り立っている。その平仮名の元になった漢字はいつ日本に導入されたというのだろう。

 宣長はヤマトの王権が中国とどのようにして文字による意思の伝達ができたというのだろうか。607年の「天子対天子」の対等外交は国書による外交であった。600年まで、一切、中国との国としての接点を持たなかったヤマト王権はどのようにして漢語を習得し、607年の時点で漢文による国書、「日出ずるところの天子・・・」を書けたのであろうか。国書は漢語のできる渡来人に頼ったのであろうか。しかしそれでは、ヤマトの人間が漢字を自分のものにしたことにはならない。いつまでも文字をもたない民族のままである。

 あるいは、私の見解に対して次のような反論が予想される。百済などの朝鮮半島の国から仏教が伝来し、仏教の経典を通じてヤマトの人々は漢字に馴染んでいたといものである。552年に「百済から仏教が公伝される」という記事が書記に見える。しかし、この問題は大変に重要な問題を孕んでいるのである。

 西島氏によれば、漢字の導入は中国との臣従関係を結ぶことによって、そこから多大な政治的経済的な優位性を獲得するための「政治的行為」であったからである。仏教の導入も、単に文化の摂取にとどまらず、それが人民支配の政治的手段の一貫として不可欠だったから、仏教の導入も「政治的決断」の一種に他ならないということになる。ヤマトの皇朝(すめらみかど)が百済をはじめとする朝鮮半島の国から仏教を導入するということは、それらの国々に対して臣従する関係を結んでいたことにはならないのだろうか。記紀の執筆者も宣長も受け容れたくない事態である。彼らにとって、百済・新羅・高句麗はヤマトに対する朝貢国でなければならないからである。

さらに、漢字を自分のものにしなければ、「ヤマト言葉」、「和語」を文字表記することはできない。自分の日常の言葉を文字表記できないことになる。万葉仮名も利用できない、したがってヤマトでは万葉歌も文字として残すことはできなかったことになる。万葉集に載る「雄略天皇歌」、「舒明天皇歌」などは万葉仮名で書かれているが、それはヤマトでは不可能ということになってしまうのである。宣長のように607年まで、中国との国交がなかったと言い切ってしまうと、漢文の導入、漢字の導入も遅くなってしまうことになる。これでは、ヤマトの文字文化の確立は、宣長の設定した時代よりもさらに遅れることになるであろう。

 そうなのである。私の見立てでは、実際にヤマトは文字文化後進国だったのではないかと思う。宣長は、彼の主観ではヤマトにいた日本人が文字を獲得したのはかなり早い時期からであったと考えていたであろう。しかし、宣長の説に忠実に従っていくと、ヤマトは文字文化で相当の出遅れをすることになる。西島氏が言うように、漢字の導入は冊封体制下にある国の「政治的行為」であり、その「政治的行為」をヤマトは607年まで行っていなかったからであった。もちろん宣長は事実の認識は誤っている。宣長の想定よりももっと出遅れていた。すでに触れたように、実際に「過渡期のヤマト朝廷」、あるいはヤマト王権が中国の王権と国交を開始したのは、さらに遅い670年であることは、旧・新唐書によって明らかだからである。

670年になってヤマトの勢力は、ようやく「政治的行為」として漢字を学び始め、また自国語に文字を取り入れ始めた可能性すら考えなくてはいけない。その焦りは相当なものであろう。

 ヤマトへの文字文化の導入については、確実なことは何も語れない。ヤマトの文字文化は遅れていないという何か根拠でもあればぜひ知りたいものである。そして、その場合には文字文化が遅れなかった理由が何であったのか、その「裏技」についても学びたいものである。

 

② 書記にみるヤマトの文化一般の遅れ

 

㋐ 元号の問題―――皇極紀、孝徳紀

 

 

 宣長の説の通りであればヤマトは、文化的に後進国にならざるを得ないと語ってきた。そして、実際にもヤマトは、文字文化にとどまらず、文化一般において後進国であったということが日本書紀にも姿を現している。その顕著な例が皇極紀と孝徳紀である。そしてその遅れを取り返そうという焦りが最も覗えるのも皇極紀と孝徳紀なのである。

 皇極紀で目を引くのが何と言っても「大化」に始まる元号である。この元号制定も670年以降に急遽、作成することになったのであろう。定説で日本が初めて元号の大化を制定したとされる歴史のエポックが、喜ぶべきことでも誇るべきことでもなく、それがいかに遅い制定であったのかということこそ認識しなければいけないであろう。しかも記念すべきこの元号も書記では飛び飛びにしか使用されていない。大化元年645年に至るまでヤマト王権は元号を持っていなかった。史実である可能性も低いが、書記では大化645年、白雉650年、朱鳥686年とされる。王権が継続しているのであれば、当然、元号も継続していかなければならないはずである。日本国、つまりヤマト朝廷が一貫して元号を使いだすのは、ヤマト朝廷が確立した大宝701年からである。大宝律令の大宝からという遅い出だしである。中国との交流の歴史が、実際としては、浅かったためであろう。

 ヤマト王権がたびたびその朝貢国と認定してきた朝鮮半島の高句麗、新羅はもとより、神功紀で屯倉と位置づけされた百済でさえ、元号を保有していたとされる。自分の朝貢国よりも遅れて元号を持つなどは不可能なことである。文化的後進国が文化的先進国に対して優位に立つことが、いかにしてできるというのであろうか。中国との国交を一身に担っていた九州倭国は、独自の九州年号を持っていたという説もある。鶴峯戊申の『襲国偽僭考(そのくにぎせんこう)』にその名残が見える。九州年号については、定説的には「後代の私年号」に過ぎないと片づけられているが、確かに証明は不可能であろう。といのも、これも九州から押収された「禁書」の類に含まれていて、もともとの九州年号はその一部が九州年号であることは隠したうえで利用された可能性がある。奇跡的に残存していたその元号を鶴峯戊申らが見つけ出していたのかもしれない。しかし、それが同時代の資料として利用可能なのかという問題とは別のことである。歴史の真実はここでも隠されてしまい、二度と姿を見ることはできなくなってしまっている。

 

 

㋑ 律令制の問題

 

 さらに、大化の改新という律令制度への胎動である。おそらくこれも、皇極紀、孝徳紀のものではなく、大宝律令の準備段階における時期のものと考えるのが妥当であろう。定説でもそのような理解が多数あるようである。律令制への動きも、早くて670年以降であと思われる。ヤマト王権は、中国の律令体制を見習うというより、中国と密な関係を続けてきた九州倭国で行われていた可能性がある律令体制を見習い、「追いつけ追い越せ」と焦っていたに違いない。それが、少し時代を繰り上げて早めに皇極紀、孝徳紀に表出させたのであろう。

 

 

㋒ 日本国の唐への自己紹介

孝徳紀

 

 次いで第五章でも論じた孝徳紀の問題である。書記によると、孝徳天皇の治世は645年に開始され654年まで続くとされる。しかし、孝徳紀に記述された内容を見る限り、孝徳紀の記述内容は唐書の日本国伝開始の670年以降の内容に対応し、それに共鳴していると思われる。

 まず一つ目は、孝徳紀五年二月に高向史玄理らが唐に遣使される。このとき、彼らは唐の高宗帝(在位649~683)に日本の地理を尋ねられている。今さら日本の地理を尋ねられるとはどういうことであろうか。ここに、この遣使が、私は670年と思うが、初めての中国への遣使だということが露見している。日本国の地理的状況が旧・新唐書に初めて記録されている。旧唐書に年代の記述はないが、新唐書・唐会要には670年と書かれている。

 さらに二つ目は、このとき「国の初めの神の名など」についても質問されたことになっている。もし、ヤマトの王権が中国と長い国交があったとするならば、それまでの付き合いの中でこのような会話がなされてしかるべきであるが、そのような会話がなされていなかったということは極めて不自然な状況である。宣長の考えでは607年の遣隋使の時点でも「神の名」は中国に紹介されていなかったということになる。初対面の人同士が出会って自己紹介をするレベルである。やはりこのような質問が唐から発せられたということは、この出会いが初回であったと疑われざるをえない。これはまさしく唐に日本国が初めて認識された670年の状況ではないだろうか。時間が15年ほどずらされている。「時間ずらしという造作」と言えるだろう。ちなみに、高宗帝は長期政権なので孝徳紀の時代も670年も高宗帝の時代に含まれている。いずれにしても、670年にヤマト王権は中国に初めて遣使して、自己紹介をした。歴代の天皇名などもその時点で適切に応答できたかはわからない。ここでもシドロモドロになり、中国に「疑われる」原因になったのかもしれない。しかし、これが少なくとも「歴代天皇の系統」を準備して回答する契機になったのではないだろうか。そしてその後、新唐書に初めて日本国の歴代の天皇名が記述されることになったのである。

 孝徳紀はヤマト王権にとって極めて重要なはずの「外交記録」を記述していた。しかし宣長はこの孝徳紀の外交文書に触れていない。また、定説でもこの点には触れられていないようである。

 

 

㋓ 薄葬令の問題

孝徳紀

 

 さらに孝徳紀では、中国の文化を知らなかったことが露呈している。「薄葬令」が孝徳紀二年三月に出されている。孝徳天皇の言葉である。

 

 自分が聞くのに、唐土の君がその民を戒めて、「古の葬令は丘陵の上に墓を造った。封土も植樹もなかった。棺は骨を朽ちさせるに足ればよい。、、、、吾の墓は丘の上の開墾できない所に造り、代がかわった後にはその場所が知れなくてもよい。金・銀・銅・鉄をを墓に収める必要はない。、、、死者に含ませる珠玉は必要ない。、、、」とのべている。また、「葬(とむら)うのは隠すことである。人に見られないのがよい」と。

 

 これも今さら何を言い出すのだという感を否めない。すでに散々、ヤマトに巨大前方後円墳を造営してきたと思われる地域の王権が発する言葉であろうか。

しかも、この薄葬令が出されたのは、中国の王の話を聞いたことが原因であったと言われている。聞く時期が遅すぎるであろう。ここでも中国の王権との付き合いの欠如を露見させている。中国で薄葬令が出されたのは、一体いつのことであったのか。中国で「薄葬令」が最初に出されたのは、後に三国の魏を建国することになる曹操によってであった。後漢末期の建安10年、西暦205年のことである。人民の酷使、盗掘の被害などを避けるなどがその理由であり、中国ではその後、「薄葬」は伝統になっていく。

 239年に魏に遣使した卑弥呼が薄葬令を知っていた可能性は大きい。だから、「卑弥呼の墓は大きくない」ことが考えられる。卑弥呼が亡くなったときに彼女の墓がつくられる様子が魏志に描写されているが、魏志の原文にあるとおり「大作冢=大いに(一所懸命)墓を作る」でなければならない。これを日本の研究者の多くが「作大冢=大きな墓を作る」に変えて解釈しているが、それは成り立たないであろう。誤訳ではなく、恣意的な改作である。薄葬令を知っている卑弥呼の墓はむしろ小さい可能性がある。巨大古墳を造り続けていたヤマトの文化圏は、少なくとも、こと中国との国交史に関しては後進国であったと考えざるを得ない。孝徳紀の薄葬令は、それ自体はヤマト王権の内政の問題であるが、中国から文化を摂取するという意味においては外交問題でもある。この点についても『馭戎慨言』の宣長は何も語っていない。定説でも問題にされていない。

 

 

第4節 再び地理的問題

 

(1) 魏志についての宣長の解釈

 

 宣長の考え方から興味深いものが見えてくる。倭国の地理的位置が九州だったということについてである。魏志倭人伝の有名な記述を引用して、陳寿の「あいまいな」記述は意にも解さずに邪馬台国はずばり九州であると言っている。

 まず、魏志についての引用である。

    郡(帯方郡)から倭に到達するには、海岸に従って水行し、韓国(馬韓)を経て、あるいは南へ、あるいは東へ進み、その(=倭国の)北岸の狗邪韓国(くやかんこく。伽耶・加羅・金海)に到達する。(帯方郡から隔たること)七千余里。

始めて一海を渡ること千余里で、対馬国に着く。

南に一海を渡ること千余里、瀚海(かんかい。大海・対馬海峡)という名である。一大国(一支・壱岐)に着く。

また一海をわたること千余里で末廬国(まつろこく。松浦付近)に着く。

東南に陸行五百里で、伊都国(いとこく・いつこく。糸島付近)に着く。

東行して不弥国に(ふみこく・ふやこく)まで百里。

南へ投馬国に至る。

南へ邪馬台国(邪馬壹国)に至る。

・・・以下省略

 

 この魏志に基づいて宣長は言う。

 かの国の帯方郡より女王の都にいたるまでの国々をしるせるは、かのかしこの使

の、大和の京へまいるとて、へてつきる道の程をいへる如くに聞ゆめれど、よく

見れば、まことは大和の京にはあらず。いかにといふに、まず對馬(つしま)一

支(いき)末廬(まつら)伊都(いと)まではしるせる如くにてたがわざるを、

其次に奴国(なこく)不彌国(ふみこく)投馬国(つまこく)などいへる

は、・・・・大和への道には、さる所の名共あることなし。又不弥国より女王の

都まで、南をさして物せしさまにいへるもかなわず。大和はつくしよりはすべて

東をさしてくる所にこそあれ。また女王国より以北といへるもたがえり。以西と

こそいふべけれ。みずから来たらんに、かく北南と西東とをわきまふまじきよし

なきをや。p.33

 

 宣長は、魏からの遣使、張政が九州以外には行かなかったはずだと明快に述べている。対馬、壱岐、松浦、伊都までの行程は九州内に確認できる。奴国、不弥国、投馬国については、ここでは対応する名前が見当たらないとしながらも、別のところでは奴国は仲哀紀における儺縣、宣化紀の那津で筑前、不彌国は応神天皇の生まれた宇彌、投馬国は日向国にある「妻(つま)か」といずれも九州内に収めた。その際、宣長は魏志の「倭人は、帯方東南大海中に在り」は論拠にしていないが、これも論拠にするべきであったであろう。しかし、このことは宣長は触れたくない所であったのだろう。これは後に述べる。

 さらに面白い議論は、魏志倭人伝で必ず議論になる方位問題の解釈と、そこから導かれる結論である。大和には来ていないことを示すために、宣長は女王の都、邪馬台国は魏志の通りに対馬、壱岐、松浦、伊都の南にあることを主張する。邪馬台国はヤマトにあると主張する議論、そのためには魏志の「南は東の誤り」とする解釈が宣長の時代にもあったために、その論拠を否定しているのである。現在も魏志の「南は東の誤り」という説を採る学者が多数いる。つまり、もし邪馬台国がヤマトにあるとすれば、九州筑紫の伊都から後の行程は東へ東へと進まなければならないからである。しかし、宣長は魏志に書かれた「南」を「東の誤り」とすれば、同じ魏志の「女王国より以北は略載すること得べし」というときの「以北」という記述も、方位を誤って書いたことになるはずで、女王国の「以西」と訂正しなければならなくなると指摘している。それほどまでに魏志の方位は間違えを繰り返すものなのかという疑問を提示している。これに対して宣長は応える。いや、魏からの使者が自ら倭国に遣使で来ているのだから、方位を間違えるはずがない。これが宣長の主張である。これは、筋が通る論理であった。

 

 

(2)「帯方の東南、大海中、山島に拠りて居す」は隠す

 

 先に指摘しておいた、「帯方の東南、大海中、山島に拠りて居す」についてである。魏志のこの部分を『馭戎概言』に引用しながら、宣長はこの点については評価を加えていなかった。卑弥呼の都、邪馬台国が九州であることに重要な論拠を与えてくれるはずであったにもかかわらず。宣長は、この部分はむしろ隠したかったのではないであろうか。彼は、少なくともこの点は強調したくないのである。その理由はその後の歴史理解の上で宣長にとって不都合だからだと思われる。隋書も「俀国は百済、新羅の東南、大海中の山島に拠って居す」と書き、旧唐書も書く。「倭国は新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って居す」と。宣長は、隋書、旧唐書のこの部分は引用すらしていないし、触れていない。

 宣長によって触れられていない事柄について、引用個所を示すのは不可能である。以下のように述べる他はなさそうである。『馭戎概言』のP.41で宣長は隋書から長々と引用している。裴世清が遣使されてくるときの隋書の一部である。それにもかかわらず、宣長はその前後で俀国の地理的状況については引用していない。なぜなら、ここで触れてしまえば、魏志と同様の結論を下さないといけなくなるからである。つまり、裴世清は九州に遣使されたと。宣長は触れないことで自分の説に説得力を与えようとしていると言える。ずる賢いやり方である。旧唐書でも倭国の地理的位置を除いた個所が引用されている。

P.49

 

 

(3)  地理的場所は日本書紀から引用

 

 ここまで見てくると、意外なことがわかる。宣長は、中国の史書の記述はかなりの部分について信じているということである。隋書の開皇廿年(600年)までは、皇朝(すめらみかど)が中国に遣使したことは「あるまじきこと」としながらも、中国に列島の者が遣使したという中国の史書の記述そのものは否定していないのである。これらの遣使は皇朝のものではなく、「西の辺のもの」、「日本府の卿」が私的に行った遣使を中国は皇朝の公的な遣使と誤解しただけであるということになる。実は、これらの遣使が皇朝によるものではないという結論については、宣長は正しいのである。ヤマトの王権は中国との国際交流はしていなかった、と。

 宣長が誤った決定的な個所は、裴世清に難波までの行程を取らせ、京(みやこ)で天皇に拝謁させたとことである。高表仁にも難波まで進ませている。これらは中国の史書、隋書と唐書に記述されていないことであった。日本書紀にのみ記述されていることである。裴世清については、どのように読めばそう言えるのかが不可思議であるが、隋書の記述が「書紀とあへり」、「たがえることなし」とまで語っている。大業三年‘607年)の「天子対天子」の皇朝から隋への遣使は渋々許容した後、宣長は続ける。

 

 さてその明年文林郎裴世清というもの、かの国王が使いとして参りて、その八月に京にめされ、皇朝をおがみ奉りし事も、書記とあへり。又それが経て来つる道の国々をしるせるも、たがえることなくて。・・・(途中略)・・・かの息長帯姫尊の御世に。いつわれるものの許へ。使の来たりしをりの。道の國々をいへるさまとはいたくこと也。これにても。かの時は。いつわりなりしこといちじるし。但し此度も竹斯國より東秦王國といへるのみは。山陽道の西べたの國の土地名を。聞あやまれる物と見えて。・・・P43~44

 

 魏志に於いての地理的道程は正しく認識した宣長も、裴世清を難波経由で京に行き着かせてしまった。そして、隋書の秦王國までの道程はそこから西の道を聞き誤ってしまったという。このことは、後代の「邪馬台国論争」なるものにおいて話題の中心になる題材が魏志のみになってしまい、地理的状況が明快に表現されている隋書・唐書が棚上げにされてしまったことと符合していると言えないであろうか。

 

最後に

 宣長が書記を信じて中国の史書を顧みなかった最大の原因についてまとめておこう。つまり、中国の史書には記述されていなかった、裴世清と高表仁の難波と京への進行はなぜ起こったのか。それは、「対等外交」の魅力である。また、中国から遣使者を来朝させたという「功績」、これらを何としても皇朝の誇るべき「実績」にしなければならない、そしてそのためには裴世清らには何としても京に向かい、さらに天皇に面会してもらわなければという宣長の「使命感」と「決意」、そして日本書紀を中国の史書よりも優先させたいという「愛国心」ではなかったか。このことによって、宣長の外交史は最終的には、平凡ではないが、定説の一つに行き着いてしまった。

「用明、多利思北孤」 の読み方と意味

 

  第八章では新唐書にはヤマト王権、そしてヤマト朝廷の自己主張が大幅に取り入れられる傾向にあった、ということを私は述べてきた。そういう観点で新唐書に初登場した天皇名の中にある「用明、多利思北孤」について検討してみたい。これをどう読み、またどのような意味かを確定することは古代史における一つの難問であった。

 

 

(1)古田武彦氏、内倉武久氏の説について

 

 古田氏は「古田武彦と『百問百答』」などで「目」を「さっか」、「さかん」と読み、意味は「副官、補佐」だとする。したがって文全体としては、「用明は多利思北孤の副官、補佐役であった」となる。

 『太宰府は首都であった』の著者、内倉武久氏は古田氏の説に賛成し、「目」は副官、属官の意味で、用明は多利思北孤の軍の長官、属官であった、と。氏の言葉で言えば「大和政権自ら『われわれの王は、タリシホコ王朝の家来でありました』と言っていると解釈せざるを得ない」と述べている。そして、「以前から『九州王朝説』を主張している古田さんは『これが大和政権の実態であることは間違いなかろう』とみている」とまで述べる。(以上、『太宰府は首都であった』P131)

 しかし、両氏の考え方は新唐書の文脈を取り違えている。何と、内倉氏は新唐書が「ほとんど大和政権の言い分を取り入れて書いている」(同書P127)と語ったにもかかわらずそのように述べている。すでに八章で述べたように、新唐書はヤマト王権の「自己主張」が大幅に採用されていた。神武天皇が筑紫からヤマトに移ったことまでもが記述されていた。天皇記事、その順序はまるで記紀そのものであった。しかも、文武天皇より前の天皇たちは、中国からすれば同時代史として記録したものではなく、700年代以降に一挙に告げられ、記載されたに過ぎない内容なのである。それらが真実である保証は中国にとっても、また私にとっても無い。

 さらに、天皇名が列挙された新唐書の場所は、例の「或は云う」、「また言う」や「中国、これを疑う」と語られていなかったが、しかし唐側はヤマトの主張を疑ったままであった。その証拠に新唐書日本伝でも「中国、これを疑う」は撤回されていなかった。私の見地からすれば、「虚偽とは分かっていながらも、ヤマトの言う通りに書いておこう」という脈絡である。したがって、新唐書に記述されたものが古田氏、内倉氏が考える歴史の真実に合致しているものとして考察してはならないであろう。

この文脈で見るとき、ヤマト側が用明天皇というヤマトの絶対王者が誰かの副官、補佐の位置にあったなどと語る道理はない。よって、「目」は「副官、補佐」とは別の意味であると考えなくてはいけない。それでは、どのような意味なのであろうか。

 

 

(2)ブログ:黒沢正延の古代史探求の説について

 

 「目多利思北孤」考における黒沢氏の説が最も適切であると私には思われる。「目」は「目する(もくする)」の「目」である。意味は「見なす、見なされる」。そして「見なす」には意味は二つある。「見なされた」内容は真実であるのと、虚偽であるのとである。

 黒沢氏は虚偽と見なす。その通りだと考えられる。私の言葉で言いかえれば、新唐書には多くヤマト側の「自己主張」、虚偽報告が取り込まれており、その中の一つが「用明、目多利思北孤」であった。

 

 

(3)ネット記事、「『目多利思北孤』について」説

 

(以下、この筆者をネット氏と呼ぶ)

ネット氏は、新唐書日本伝の新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」の様々な異本を取り上げ検討している。以下、ネット氏が挙げているものである。

A 用明、多利思北孤         新唐書日本伝

 

① 倭王姓阿毎、名多利思比孤     北宋版『通典」            

② 倭王姓阿毎、名多利思比孤     『唐類函』所蔵の『通典』       

③ 倭王姓阿毎、名多利思比孤     松下見林『異称日本伝』所載の『通典』 

④ 倭王姓阿毎、名多利思比孤     松下見林『異称日本伝』所載の『通典』

⑤ 次用明、亦曰目多利思比孤      直隋開皇末、始與中国通『新唐書』

 

B 王姓阿毎、多利思北孤      参考:隋書開皇20年より

 

ネット氏は「目」の意味が内倉氏の「軍の長官」「属官」であることに賛同しているので「目する」、「見なす」という意味とは取らない。そのため、せっかく挙げた上記①から⑤までの赤い字の違いは、いずれかが誤字であると考えることになった。「目」、「自」、「曰」はよく似ている。はたして書き間違えなのだろうか。

しかし、氏が提示してくれたこの資料と元の新唐書Aを見比べ、全体を俯瞰すると、はっきりと見えてくることがある。この資料を利用させていただく。

まず全体の出典はBの隋書である。そして、Bと①から④までは「姓阿毎」が共通しているので、これらを「隋書系の資料」と名付ける。また、「隋書系の資料」では「隋書」のBで「俀(倭)王姓阿毎、字多利思北孤」と明らかに一人の人物の姓と字(あざな)であることは明らかであるから、①から④のどれも同一人物の姓と字であると「見なす」ことができる。

 

 固有名詞や名詞の字の間違えは正しようがないことが多い。新唐書の天皇名には、持統天皇を「総持」とするなど過ちが多い。もし、書紀にあるこの名を知らなければ、そんな人がいたのか、誰だろう、ということにはなる。しかし、それでも済んでしまうだろう。中国の役人たちも「そういう人がいたのか」で済ませたのだろう。しかし、一般に、字を間違えてしまうと意味が通らなくなる場合がある。

 もし、字を間違えていて文章の意味が取れなかったなら、中国人はそれを放置するのだろうか。いや、むしろ①から④のすべての文書は中国人にとっては意味が取れるので、字の違いがあっても放置され、歴史の中を生き延びてきたのではないだろうか。したがって、これらの字のままで意味が分かるように読まなければいけないだろう。そしてそれが私たちの責務になる。新唐書は誤字が多いとして片づけられて済む問題ではない。Bも①から④も、文字を変更せずに意味が理解できるのである。それでは、どんな読み方が可能であろうか。しかも一人の人物として理解されるように読まなければいけない。

 

 (4)読み方と意味はこうなる。以下のすべて姓は阿毎である。

 ①の「自」の場合は、「自ら多利思北孤と名乗る」

 ②③の「目」の場合は、「名は多利思北孤と見なす」

 ④の「曰」の場合は、「名は多利思北孤と曰う」

 

 ここで一言付け加えておきたい。つまり、①と④の主語はヤマト側であろう。では、②③における「見なす」の主語は何であろうか。中国か、それともヤマトか。私は両方可能と見る。もし中国側が主語であれば、ヤマト側があの有名な多利思北孤を用明に比定したいと中国が「見なす」ことになろう。もしヤマトが主語であれば、多利思北孤をよく知らないが、中国にまでその名が轟いている多利思北孤を知らないとは言えない、多利思北孤は用明のことだと「見なす」ことにし、それを中国に伝えたとも考えられる。

 

 (5)「新唐書系の資料」について

 唐から見れば、Aと⑤のどちらも「自ら名乗る、見なす、曰う」という自己主張に過ぎないと。

 新唐書日本伝の「用明、目多利思北孤」の発話者は日本の人、このように応えた時期は670年か、そこからそれほど遅くない時期だと想定される。唐から多利思北孤の名前は当然出されるであろう。なぜなら唐にとって、隋書に書かれた「阿毎多利思北孤」は消すに消せない記録であり記憶である。なぜ唐にとって多利思北孤は忘れ難いのか。まず第一に、隋書を編纂し多利思北孤の名を記述したのは唐朝自身だからである。第二に、何よりも多利思北孤こそ「対等外交」を仕掛けた張本人であり、倭(俀)国と白村江の戦いに導く原因となった人物だからである。

 ヤマトの使者は、倭国が日本国に名を変えたと主張したであろう。したがって倭国と日本国は別種ではなく同種・同族であると主張する。そうであるからには、唐の側からすればこの多利思北孤とヤマトとの関係、ヤマトの歴代の大王たちとがどういう関係にあるのか、関係があるなら大王の中でどの位置にあるのか、誰の次にくるのか、誰の前かなどを尋ねたくなるであろう。ヤマト側は、意表を突くこの質問に対して最初から明快な応答はできない。「多利思北孤って誰?」から始まり、時間をおいて「私たちの大王の系図を作らなければいけない」と思い立ったのもこの時期のことではないだろうか。右往左往するヤマトの人を見たことが「中国が疑う」ことになる理由でもあっただろう。おそらく、「用明天皇は阿毎多利思北孤であると見なす」とその後のある時点で応えたのであろう。ただし、最初は和風諡号の橘豊日命で。漢風諡号の用明はもちろんずっと後、760年以降のどこかで唐に伝えられたのである。

 

 以上で一つの難問に私なりの回答を試みた。誤りがあればご教示願いたい。

 

 

 

  

 

 

新唐書探求からの提案

 

提案:「670年を絶対的定点とすること」

 

 咸亨(かんこう)元年、670年は私が最も強調する年の一つである。ヤマトの王権が日本国として中国によってその存在が認知された画期的な年だからである。

 ヤマト朝廷による初の正式な遣使、つまり粟田真人らの遣唐使が中国に到着して正式な国際交流を結んだ年、703年に並ぶ画期であった。

しかし、これまで670年は研究者諸氏からはあまり注目されてこなかった。日本書紀は推古紀以降の遣使記事は信じられるとする研究者が圧倒的に多いからであろう。書記では「中国への遣使などはとっくのとうに行われていた」、と。しかし、そのような書記の遣使記事が信じるに足るものではなかったことは、第四章、第五章、および第八章などで述べられてきた。そして、中国の認識では日本国からの遣使は670年が初めてであった。

そこで、私は670年をヤマト王権の国際交流元年と認定し、絶対的定点とすることを提案したい。

第1節 万葉集を古代史の資料にすること

 

  私は、記紀を疑っている。徹底的懐疑の立場である。記紀を疑えば、それだけ資料が不足する。そこで、日本の古代史の資料不足を補完するものとして、中国の史書類、さらに、万葉集にも注目する必要があると考えている。古代史の研究との関連で初めて万葉集に着目したのは古田武彦氏であった。氏の万葉理解の多くに私は賛同している。特に、次に挙げる二首の天香具山歌についての解釈には大きな影響を受けたことを率直に述べておきたい。ここでは、古田氏による香具山歌鑑賞法の妥当性を述べつつ、さらにそれをもとにして新古今和歌集に載る「持統天皇御製」とされる香具山歌をめぐる現代の解釈の問題点を検討してみたい。その中で、私たちが持つ歴史観と歌の解釈が密接不可分の関係にあることを示し、さらに定説の歴史解釈には根拠が薄弱であること、定説を批判する意義を歌が持っていることを述べていきたい。古田氏の『古代史の十字路』、『人麿の運命」は日本古代史を探求するうえで、また万葉歌を理解するうえで必読の書だと私は考えている。

 

 

第2節 謎の歌集、万葉集

 

 万葉集は有名な歌集であるにもかかわらず、数々の謎を秘めている。万葉集は、奈良時代に当たる750年ごろに、大伴家持らによって編纂されたと言われる。しかし、奈良時代から平安時代初頭を守備範囲にしている続日本紀には万葉集のことは記されていない。さらに、後に歌聖と讃えられた万葉歌人の柿本人麻呂はその名を正史に見つけることはできない。万葉集も柿本人麻呂もヤマト朝廷からは無視された存在であり、歴史の表舞台からは見えないところに置かれた存在である。万葉歌はヤマト以外で詠まれた歌がかなり多くあり、しかもその歌を詠んだ歌人、歌が詠まれた場所、詠まれた状況などが明らかになることがヤマト朝廷からすると、憚られるものを持っていた可能性があるということに行き着く。万葉歌の多くは、私の仮説の中で述べた「禁書」群(注)の中にあったものだと考えている。万葉集が正史の中で適切な扱いを受けなかった原因もそこにあったのではないであろうか。

(注)第三章「元明紀における『禁書』問題と稗田阿礼の役割」を参照

 

 

第3節 万葉の香具山と大和の香具「丘」

 

(1)作歌の場所と作歌者

 

 万葉集のそれぞれの歌には「前書き」がある。作歌者や作歌場所、さらに作歌された時代状況など、歌の理解を助けるかのような説明書きである。しかし、この「前書き」が曲者である。古田氏は、歌が第一次資料であり、歌は歌だけで味わい、前書きは単に第二次資料だと指摘した。私は第三次資料にすらしてはいけないものもあると考えている。

 つまり、作歌場所が変われば、作歌者も変わる可能性があるのだが、万葉集には「前書き」とは異なる作歌場所を、したがって異なる作歌者を考えなくてはいけない歌が数多くあると思われるのだが、果たしてそうなのであろうか。検討してみよう。

 

             万葉集、第一巻の第二歌

ただし、原典二か所のフリガナと教科書訳の二個所を省いて(  )にした。

 

左側 原典                 右側 高校教科書などの現行テキスト

 

山常((    ))(には) 村山(むらやま)(あれど)() (とり)()()()    (  )には 群山(むらやま)あれど とりよろふ

天乃(あまの)()具山(ぐやま) (のぼり)(たち) 国見(くにみ)乎為者(をすれば)        天の香具山 上り立ち 国見をすれば

国原波(くにはらは) 煙立竜(けむりたちたつ)              国原(くにはら)は 煙立ち立つ

海原波(うなばらは) 加万目(かまめ)(たち)多都(たつ)           海原は かまめ立ち立つ 

怜可(うまし)国曾(こくぞ) (あきづ)(しま) 八間跡((     )の)国者(くには)      うまし国ぞ あきづしま(  )の国は

 

 まず、この歌の前書きには、作歌者は第三十四代の「舒明天皇」とされる。この歌が天皇によるもの、そして大和で謳われたものという印象をもたせる役目を果たしている。しかし、いくつもの違和感が生じてくる。すでに古田氏が詳細に述べたことなので、ここでは簡潔に、問題点の幾つかだけを挙げておく。

 まず、「山常」、「八間跡」が共に「やまと」と読まれ、「大和」と解されている。「山常」、「八間跡」は「やまと」とも読めるからといって読み方は「やまと」に決まりとしていいものではないし、さらに「大和」に決めてよいものではない。「そうとも読める」ということは、「別様にも読める」ということでもある。

少し遊び心のある人なら、邪馬臺(台)国はどこにあるかという問いに対して、八幡平(はちまんたい)だと答えるかもしれない。八幡平は「やまたい」とも読めるよ、と。よって「八幡平」が「邪馬臺(台)」であるという。これに等しい議論である。実際、そのようなことを書いた小説があった。八幡平では考古学的な状況にも、中国の史書に度々書かれている「朝鮮半島の東南」にも合致しない。語呂合わせだけでどうにでもなるわけではない。さらに、原典の「山常」、「八間跡」は固有名詞であるとも、普通名詞であるともいえるだろう。

  ここでは、現行テキストの「大和」が原典では「山常」、「八間跡」という文字であったという指摘にとどめておく。しかも異なった字を当てている。何の予備知識もなく「山常」、「八間跡」を両方とも「やまと」と読める人はまずいないであろう。現代語で「大和」と訳せる人もまれであろう。「やまと」、「大和」の呪縛から解放されて、歌を第一次資料とし、歌だけを先入観なしに味わうと、歌の趣は全く異なるものとなるはずだ。

 

 上の万葉歌の古田氏による現代語訳:『古代史の十字路』ミネルヴァ書房p.72

 

山並みには、多くの山々が群がっているけれど、なかでも一番目立ち、整っているのは、天の香具山だ。登り立って、国見をすると、国原には煙が一面に立ち上り、海原には一面に鷗が飛び立っている。

素晴らしい国だ。安岐津(あきつ)の島の、この浜跡(はまと)の国は。

 

(2)歌の情景―――「煙立竜」

 

 次の問題は、歌の情景である。

一つに目は、原典の香具山は「煙立竜」山である。定説の解説では「国見」とあることから「仁徳天皇」が民家から立ち昇る竈の煙によって、人民の暮らし振りを判断した物語に結び付けられている。しかし、「立竜」という文字が使われている。すると、もし民家からの煙ということにこだわって解すれば、民家から立ち昇る竈の煙というよりも、むしろ「火事」というイメージではないだろうか。しかし、原歌では民家が歌われている状況ではなさそうである。雄大な自然風景を詠んでいると言えるだろう。そして自然の風景で「煙を噴いている」という情景であるならば、むしろ火山の噴煙や温泉の湯けむりというほうがふさわしい。大和の香具山は、少なくとも有史以降では、火山でもないし温泉も沸かない。

 万葉歌からは離れるが、古事記にも天香具山が登場している。神代編の天照大神が天の岩屋戸に隠れてしまい、世の中が暗闇に包まれる場面だ。この場面で香具山(香山)の名が五回ほど立て続けで出てくる。この香具山(香山)は「天の金山」という鉄を産出する山の近くにある。奈良の香具山は鉄の産出地は近くにはない。この点でも奈良の香具山は、古事記の描写とも合っていない。もちろん、古事記の描写が信頼されうるかどうか、どこの山を指しているのか保証はない。また、万葉歌の香具山歌は鉄を産出する山のことを歌っているわけではないので、古事記の香具山については考察の対象には入れてはいけないのかもしれないが、そのように考えてみたい誘惑は大きい。

 

(3)歌の情景―――「とりよろう」

 

 二つ目は「とりよろふ」についてである。

私は奈良の香具()をあえて香具「丘」と呼ぶこともある。誰しも奈良の香具()を見たなら、万葉の舒明天皇歌の内容と乖離しすぎていることに驚くであろう。むしろ、失望するであろう。低すぎるのである。標高152m、奈良盆地の標高が60m~70mはあるだろうから、奈良盆地からの高さは80m~90mにすぎない。「丘」である。旅行で奈良に出かけたときの私の体験でもそうであった。香具山の近くに宿を取った。1日目はあいにくの雨。2日目は晴れたのだが。その雨の日、低く垂れこめた雨雲。その低い雨雲にさえ香具「丘」の頂上は隠れていない。香具山とともに「大和三山」と呼ばれている山の一つ、耳成山も山頂は雨雲に隠れていない。少し高い畝傍山だけがかろうじて、その頂上は雲の中にあった。別様の天候の日もあるのだろうが、雨雲にも隠れないということは、いつでも見ることができる山ということであろう。その意味で生活に密着した「丘」ではあろう。しかし、たくさんある山の中で「とりよろふ」、図抜けている、という表現とはかけ離れていることは確かである。むしろ、図抜けて低い。奈良盆地を形成する周囲の山らしい山の中には、もっと「とりよろふ」山があるにも関わらず、なぜその「丘」が香具山として選ばれたのであろうか。

 ところで、「とりよろふ」について私は「図抜けている」という意味に解釈した。古田氏は、先の歌の訳で「一番目立って、整っている」と表現していた。どちらでもよいだろう。ところが、「とりよろふ」は歌の流れ、文脈の中でその意味が判定されただけのものなのである。決まった解釈があるわけではないようである。そこで、ここに私の例の「仮説」を当てはめてみることにする。この万葉歌は「禁書」として押収された九州の古歌の中にあった。そこで、「とりよろふ」は九州倭国の地域特有の上古語、つまり「倭語・いご」といわれる言葉ではなかったかと考えてみる。この「倭語」は、万葉集が編纂された奈良時代の奈良の地方の古語、いわゆる古い「和語」とは異なる言葉である。使われた地域も、また時代も異なっていたために、理解不能となってしまった言葉の一つではなかったかと推測してみる。もし、「とりよろふ」が歌の先頭にでもあれば、「枕詞」として括られた可能性のある言葉ではなかったろうか。

 

(4)歌の情景―――海原とカモメ

国語辞典、古語辞典編纂にも影響

 

 三つ目は、海原とカモメである。大和の盆地にある香具山に海原もカモメもそぐわない。この点について、定説は「埴安の池」が香具山の近くにあったので、詩人の想像力でこの池のことを海原へと脚色し昇華させたのだろう、またその池に来る水鳥をカモメとしてイメージを膨らませたのであろうとか、あるいはユリカモメならこの池にも来るだろうなどと解釈されている。何としても万葉の天香具山を大和に持ってこなければ気が済まない強引な解釈である。

 この万葉歌の作歌場所の問題が、現代の辞書の編纂にも影響を与えていることは驚くべきことである。いや、恐ろしいことである。「海原」を国語辞典で調べると、こうある。私は最初に、手元の電子辞書、『デジタル大辞泉』を見た。「1.広々とした海。2.池や湖の広い水面」とある。『広辞苑』にも同様の記述がある。

 

私は、「海原」は1.の「広々とした海」のことだと考えてこれまで生きてきた。しかし、2.「池や湖の広い水面」にまで広げるのは驚き以外の何物でもなかった。そしてさらに驚くのは、その出典がこの万葉歌であったことだ。2.「池や湖の広い水面」の使用例・出典を載せているどの現代語辞書も、使用例・出典はこの万葉歌なのである。

古語辞典はどうであろうか。大野晋氏の『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)には「うなはら(海原)」の項で、こうなっている。「はてしなく広がる海。古くは池や湖にもいった。」

池という意味での出典はやはり万葉歌二、つまり、この「舒明天皇御製」歌であった。

さらに念のために、学生もよく使う、岩波の『古語辞典』も見た。結果は、やはり同じである。池や湖が万葉歌二に拠るものとして記載されている。この辞書でも大野晋氏が編者に加わっている。

ということはどういうことであろうか。「池を海原と見立てた例」は、この万葉歌だけということなのであろう。たった一つの事例で意味を確定してかまわないのだろうか。一般化しても構わないのであろうか。他に使用例があれば、ぜひご教示いただきたい。

 万葉の作歌場所を特定するという問題は国語辞典の編纂にまで及んでいるという怖さを感じた次第である。常識とか定説はこのようにしても形成されるのだという怖さである。大野氏が定説の拡散に一役買っていることは間違いがない。古田氏は様々な状況から、香具山は大分県にある鶴見岳だと指摘した。もし、作歌場所が実際に古田氏の指摘した鶴見岳であったとしたら、辞書の言葉の意味も変わってしまうであろう。鶴見岳であれば、別府湾という本物の「海原」が広がっているのだから、「池」の入り込む余地は全くない。2の「池や湖の広い水面」は、海原の項目から消え去る運命にあると思われる。「埴安の池」は、海原への昇格が取り消されることになる。現代語辞典からも、古語辞典からも。

 

 

(5)鶴見岳と香具山

 

 古田説に誘われて、大分県にある鶴見岳に出かけてみた。標高1375mの活火山である。平安時代に鶴見岳は大噴火する。867年、清和天皇の時代で『三代実録』にその噴火のことが記録されている。その噴火の際に、鶴見岳の頂上は吹き飛んでしまったようだ。万葉の時代には鶴見岳は今よりもさらに高かったことであろう。別府湾側の海に面している。このため、現在の低くなった鶴見岳よりも高い由布岳は、鶴見岳の背後にあるため、海側から見た鶴見岳は由布岳よりも、また他のどの山よりも図抜けて高く立派に見える。「とりよろう」とはこのことか、と思わせる風情だ。海側のふもとには日本一とも言われる別府温泉がある。温泉の湯煙が、あちらこちらに「立竜(たちたっ)ている」。鶴見岳にはケーブルカーで山の途中まで登れる。ケーブルカーのガイドに尋ねると、海の反対側では現在でも、ところどころ火山の噴煙が立ち昇っているとのことであった。

 火男火女神社(ほのおほのめじんじゃ)という名の神社がある。上宮は噴火の時に吹き飛ばされたのであろう、標識だけが現在の山頂に立てられ、痕跡をとどめていた。祭神は「火之加具土命(ほのかぐつちのみこと)」。記紀神話でイザナミノミコトが火に包まれた加具土命を出産した後に亡くなる。このため、怒ったイザナギノミコトが加具土命を切り殺す。その加具土命である。現在は火男火女神社の祭神には、もっと後代の七福神まで祀られており、やや賑やかであるが、おそらくもともとの祭神は加具土命であったであろう。古事記の神話はこの地の説話を借用した可能性がある。鶴見岳の近くには神楽女湖(かぐらめこ)がある。「かぐやま」と呼ぶのにふさわしい状況がある。

さらに、古田氏によると、大分県の旧名は「安萬(あま)」であったとのことなので、まさしく「あまのかぐやま」ではないかと。その可能性は高い。

 

 私自身は、香具山が鶴見岳だと必ずしも決めているわけではない。近所に鉄鉱石を産出する山があるようには見えない。鉄を含む金属のイオンを溶かした温泉は数多く湧き出してはいるが。また、古田氏も率直に述べている。鶴見岳からはカモメが見えないと言う難点がある(前掲書p.71)。しかし、この鶴見岳のほうがよほど奈良の香具山、いやより正確には奈良の香具「丘」よりも、格段に万葉歌にふさわしい山だということはできる。

 作歌の場所が変わると、作歌者も変わる。そうすると歌の情趣も全く別のものになってしまう。つまり、もし作歌場所は奈良、作歌者は「天皇」に決められてしまうと、この万葉歌に合わせた対象を探さなければならない。それが内陸で海やカモメとは縁のない、平凡な丘を「香具山」と名付けてしまった。無理の上に無理を重ねる。何かそぐわないものが残る。それが、前書きとともに万葉歌を読むときの不安定な感覚である。

  「国見」も天皇が人々の暮らしぶりを見るというよりも、一般の歌人が山に登って「国原」、つまり広大な景色を眺めてみたということなのかもしれない。したがって逆に、万葉歌を味わうときには、前書きは信用しない、第二次資料にすらならない、このことを銘記しておく必要がある。この点は、古今集、新古今和歌集のように作歌の場所も作歌者も特定できる歌集を評価する場合とは区別される必要がある。

 以上は、古田武彦氏の理論を基にして、私なりに簡潔にまとめたつもりである。曲解、誤解がないことをひたすら願うものである。

 

 

第4節 万葉集と新古今和歌集の天香具山

 

 天香具山についてのもう一つの万葉歌は、「持統天皇御製」と言われる歌だ。

万葉集に載る天香具山歌はこうであった。以下、こちらの歌を「万葉・香具山歌」と記すことがある。

     春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

 

  この万葉歌が少し言葉を変えて新古今和歌集にも編入されている。

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山

 

  新古今のこの歌はまた、百人一首にも選ばれているため、万葉歌よりもより知られている。以下、後者の歌は「新古今・天香具山歌」と呼ぶことがある。

 

 最初の「舒明天皇御製」と言われる万葉歌から分かったことは、万葉の天香具山は大和の小高い丘ではなかったのではないかということである。大和以外のどこかに存在する山である。火山の噴煙か温泉の湯けむりが立ち昇る、そして海の近くでカモメが飛び交う場所。古田氏は大分県の鶴見岳だと指摘していた。

そうすると、大和の藤原京に居していたとされる「持統天皇」は天香具山歌を大和では作歌できない。また、なに人も神聖視されていたはずの大和の香具山では白妙の衣を干さない。新古今の歌人たちにとっても、そのことは自明であったと思われる。香具丘に神社があって、そこの宮司が白衣を干していたなどという憶測は不可能である。(注)

   (注)大和の香具山の辺りには2つの神社があるようだ。それらの神社は、

   一つは天香具山神社、一つは国常立神社。共に建立年は不明とされるが、

   730年に税帳の資料があるようだ。持統天皇の時代よりも遅い年代の建

   造の可能性が大きい。持統天皇の居城と言われる藤原京からはあまり目立

   たない。神社すら目立たないのだから、衣を干してあったとしてもその存

   在には誰も気が付かないであろう。

   ついでに語ると、今、私は神社の歴史に興味がある。ただ、これは藤原神

   道・中臣神道の影響で相当にその歴史は歪められてしまっていると思われ

   る。元々の日本の神道は、祠すらもない自然そのもの、山・海・川・岩・

   森・動物などが神であり、崇拝の対象であったであろう。中国から伝来し

   た寺院への対抗上、立派な神社仏閣を競うように建立していく。荘厳な神

   社仏閣が本来の神道からいかに逸脱していったのか、これについても探求

   してみたい。

 

 そこで新古今の歌人たちは、万葉の香具山歌を見て戸惑う。新古今集の編者、藤原定家たちのこんな会話が聞こえてくる。

「えっ、あの香具山で衣を干すのか?ありえないぞ。」

―――「でも、万葉では衣を干したと断言してるぞ。『干したり』と歌っている。」

「うーん、ありえないけどなー。」

―――「そうだよなぁ。こうするのはどうだ?万葉歌では干すと言っているところを伝聞調とか、不確かな情報という意味にするのは。干すという、干すちょうだ。」

「そうだな。その手はあるな。嘘つきかどうかを試すために衣に水をかける神様がいたという言い伝えもあるらしいし(注)、万葉でも『干したり』と謳われていたし。それらを含めて『衣干すてふ』にするのはどうだ?」

―――「それは名案だ。それでいこう。」

「それにしても、香具山で衣をほすのかなぁ。」

  ―――「そうだよなぁ。」

「それに、持統天皇が本当にこの歌を詠んだのかなあ。それも理解に苦しむよ。」

 

 (注)甘橿明神(あまかしみょうじん)の伝承。この伝承は、大岡信氏の『百人一首(ビジュアル版日本の古典に親しむ②)』によると、新古今の以前にはあったとされる。

一般に明神は、神仏習合されてできた神である。詳しいことは省くが、1000年ごろには生まれていた概念であるようだ。新古今和歌集の成立が1204年といわれるので、甘橿明神の伝承もそれ以前に誕生していた可能性はある。

 

 古田武彦氏による、『古代史の十字路』(p.87~88)における指摘である。新古今の歌人たちは、奈良の香具山の現実には合わない万葉・香具山歌は、香具山を神聖な高天原に直結するものと捉え、一種の「虚構歌」とみなしたものだとして次のように述べている。

 

       従来、ことに明治以来、“新古今の技巧の所為”のように論ぜられてきた。しか

   し、実は飛鳥の実景、藤原宮と香具山との配置関係を熟知する平安京の宮人た

         ちは、当歌が「写実歌」としては、結局実地の現実に合致しないことを知り、

         ために「写実歌」にあらず、天上なる「虚構歌」へと改作したのではあるまい

         か。

 

 新古今の歌人たちの解釈も万葉歌を「虚構」と見た可能性もあろう。だがもう一つの可能な解釈として、私は万葉歌と新古今歌では因果関係が逆転していると読めるのだがどうであろう。私が理解している限りでの新古今集・天香具山歌についての解釈である。

  新古今・天香具山歌は「衣干すてふ・衣干すという」と伝聞調になっていた。伝承で衣が干してあったと聞いても、そのことが原因で夏は来ない。また、夏が来たという判断は下せない。したがって、新古今歌の意味は、まず「夏が来たらしい」という判断が先にある。空気の感触や、気温、汗のかきかた、日の照り方、木々の緑の濃淡、葉の茂り方、生き物たちの変化などからそれはわかる。そして、この夏が来たという実感が「原因」になり、そこから万葉歌や伝承を思い浮かべる。こちらが「結果」になる。つまり、そういえば「万葉歌では夏になると白い衣を干すと言われていたな、天の香具山に」、と。「白い衣を干す」というイメージが「結果」である。これが新古今・香具山歌についての私の解釈である。またこれが新古今の編者たちの理解であっただろうと考える。無理矢理そのように解釈し、納得したに違いない。

  反対に万葉・天の香具山歌では、「衣干したり・衣を干した」が夏が来たという認識が生まれるきっかけ・「原因」になっている。「例年通り夏になると天の香具山に衣が干されるが、その衣が干された。もう夏が来たんだ」、と。夏が来たという認識が「結果」として表現されていると解釈できるのではないか。

  つまり、夏であろうと、また季節はいつであろうと、奈良の香具山には衣は干さない。新古今の歌人を含む奈良に住む人々が、万葉の香具山歌を見たときに感じる戸惑い、後代の新古今・香具山歌の解釈者たちの戸惑い、その様子が新古今歌に描写されているのではないだろうか。

 ちなみに、私の調べた限りでは、古今和歌集(905年頃の成立)では、大和の「香具山」は歌の題材にすらなっていない。一首の香具山歌もないのである。歌に詠むほどの価値を奈良の香具「丘」には感じられなかったのではないだろうか。

 

 

5.現代の通常の解釈――新古今の天の香具山歌

 

 しかし、現代の新古今の解釈者たちの見解を一通り読むと、新古今・香具山歌の解釈で戸惑い・困惑というよりも、混乱しているように見える。

 新古今解釈者、あるいは百人一首の解釈者たちの、新古今・香具山歌に対する10人ほどの評釈を読んでみた。10人が10人とも異口同音の訳を掲げている。その中で最も明瞭に、しかも詳細に解釈している田辺聖子氏のものを見てみよう。田辺氏の『21世紀に詠む日本の古典10』に載る新古今・天香具山歌の現代語訳である。

 

     はや、春も過ぎ夏がやって来たらしい。夏になると天の香具山には、夏のなら

       わしとして白い衣を干すというが、夏山にあれ、あのように白い衣がさわやか

       に干されている。

 

 田辺氏の訳では白い衣が干されているのは、万葉の歌だけでも、伝承だけでもない。「干されている」情景が、新古今の時代にも「眼前に起きている出来事」とされているのである。そしてすでに述べたように、田辺氏だけでなく10人が10人とも「眼前に干された白い衣」を歌に付け加えているのである。子供たちが読む、漫画百人一首のような解説にも「目の前に干された衣」の挿絵が印象深く描かれている。これにより常識としての「定説」が刷り込まれる。これが「常識」が形づくられる一つのプロセスであろう。

  なぜ皆そろって「衣が干されている」と付け加えるのであろうか。それは、眼前に白い衣が干されなければ、「夏が来たらしいという判断」の根拠がなくなると考えられたからではないか。感動の原因も無しに、感動は起こらない。だから、もと歌には無いはずの原因が付加されてしまった。

 逆に言うと、「眼前の白い衣」を補うことで歌は確かに落ち着くことになる。万葉歌では「香具山に白妙の衣が干されていた」のだし、伝承にもあった。新古今の現在にもそういうことがあってもおかしくない。現代の解釈者たちの間には、そういう共通の判断があったのであろう。「眼前に干されている」という状況を補うと確かに、新古今歌は落ち着く、と。

しかし、繰り返し言うことになるが、奈良の香具山に白妙の衣が干されたことはない。万葉の時代にも新古今の時代にもないし、現在もない。なぜなら、「白妙の衣が干されていた」万葉の香具山は別の場所にあったからである。解釈者の歴史観や万葉観が歌の解釈に影響を与えることの好例、それが新古今・天香具山歌であった。

 

 

6.もう一つの「てふ」の歌

 

 ところで「てふ(という)」という言葉が含まれている歌がもう一首ある。壬生忠見(みぶのただみ)という歌人の歌で、古今集が選集された少し後の時代に詠まれている。百人一首にも選ばれているのでよく知られている。新古今より時代は少し古いが、「てふ」の意味が時代によってそれほど変化はしていないであろうという前提で述べてみよう。壬生忠見の歌である。そして、二つの歌の「てふ」を比べてみよう。

 

    恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思い染しか

 

    訳:あの人恋してる、という噂がもう立ってしまった。ほかの人に知られ

     ないように、ひそかに思い始めたばかりなのに。

 

 この歌の「恋すてふ」、つまり「恋すという」という意味は、人の間で立っている噂であり、それが自分の耳にも入ってきたということである。したがって、伝聞調になっている。噂や伝聞には二種類ある。噂に根拠がある、つまり噂が真実の場合と、逆に全くの噂に過ぎない、つまり虚偽の場合とである。壬生忠見の歌の場合には、噂は本当であった。つまり、図星を突かれていたのである。そのことがわかるのは「恋すてふ」からではない。この歌の後半で、「人にわからないようにしていたはずなのに、何でわかってしまったのだろうか」という後悔とも、反省ともとれる句が続くからである。したがって「恋すてふ」それ自体だけでは噂や伝聞の域を出ない。「恋している」という心の内を吐露している句があるので、実際にも「恋していた」ことがわかったのである。再度言うが、「恋すてふ」という噂や伝聞から「恋している」という結論は導けないのである。新古今の時代にもそれは変わらないであろう。

 

 

7.新古今・天香具山歌の「てふ」

 

 新古今の香具山歌の「衣干すてふ」も、それ自体は伝聞や伝承の域を出ない。「干された」という事実を示す言葉はこの歌の中には詠まれていないからだ。したがって、現代の解釈者による訳と解説はかなり強引であり、かなり無理をしている。

  「衣干すてふ」=「衣干すてふ」+「衣干したり」

という等式が作り上げられているのである。「干すてふ」の中に「干したり」は含まれないにもかかわらず。もし、含まれていたとすれば、「魔法の表現」という他はない。別の意味の「虚構歌」である。

もし、伝聞や伝承で「干したらしい」、そして「眼前にも干してある」という状況であるならば、歌は次のようにならなければいけないであろう。私の稚拙な歌を披露しなければいけなくなった。

   春過ぎて 夏来にけらし 白衣(しらごろも) 今も干したり 天の香具山

などと。

「今も」は「なおも」でも、「今年も」に変えてもよいであろう。歌人の大岡信氏は、先の『百人一首(ビジュアル版日本の古典に親しむ②)』において、「今年もまた、白い着物が並び始めたそうな」と現代語訳している。字余りになるが「今年も」でもよさそうな気がする。大岡氏が「並び始めたそうな」というのは田辺氏ほど自信を持って断言していない様子をうかがわせる。「並び始めた」と言い切れないという意味では弱さがある。遠慮がある。しかし、大岡氏は正直であるともいえる。補っていいのかなというためらいがある。新古今歌の「干すてふ」という表現を前に、それを無視できないでいる。だが、その大岡氏の「言い切れない」ところにこそ新古今歌を解釈する解釈者としてのあいまいさがあるのだと思う。あるいは、新古今・香具山歌の人を惑わせる魔法、「虚構性」があるのである。これに対して田辺氏は大胆である。「干すてふ」という伝承・伝聞表現にもひるむことなく、「干してある」と押し切っている。彼女にとって、香具山は「ヤマトになくてどうする」、衣を「干してなくてどうする」という気迫をさえ感じる。

しかし、再度言うが新古今・天香具山歌は歌自体ではそうなってはいない、つまり「干したり」ではないのである。「干すてふ』である。「干すてふ」には「現実に干してある」は含まれないのである。10人の、どの解釈者の訳も、現代語訳というよりも現代「誤訳」というべきであろう。万葉歌の本当の天香具山は奈良にはなかった。これに対して、新古今歌の香具山は奈良の香具「丘」であった。歴史の定説、万葉歌の定説によって、解釈者たちの鑑賞眼が曇らされていることになる。

 一般に、見えるはずのものが先入観を抱いているために見えなくなることをスコトマ(scotoma)という。例えば、レオナルドダビンチの『最後の晩餐』には一人の女性が描かれている。しかし、「イエス・キリストの弟子は全員男性であった」という、常識という名の先入観を持ってダビンチの絵を見ると、その女性の存在に気が付かない。実は私も、『ダビンチコード』という映画を見るまでは、その女性に気づかなかったのである。ダビンチの絵画、『最後の晩餐』が「ダビンチコード」という映画の撮影用にあえて描き直されて使用されていたのではないかとさえ疑ってみた。実際のダビンチの『最後の晩餐』を改めて見て確認した次第である。常識という名の先入観は何とも怖いものである。

 これとは反対の現象が新古今・天香具山歌の解釈をめぐって起こっている。先入観を持っているために、見えなかったはずのものを「見えたはずだ」、「見たはずだ」、「見た」と言っている。皆で、声をそろえて言っている。この現象をイリュージョン、幻影・幻覚・幻想と呼んでもよさそうだが、幻影・幻覚・幻想は先入観を持つ、持たないにかかわらず生ずるので少し違うような気がする。アモトックス(amotocs)と呼ぶべきであろうか。スコトマ(scotoma)の綴りを反対に並べただけの私の造語である。いずれにしても、これも万葉の香具山が奈良にあったという常識という先入観のなせる業であった。

 

 

8.新古今の新しい作歌法とは

 

 さらに、新古今・天香具山歌を解釈した10人の中の何人かは、万葉歌の「干したり」を「干すてふ」と変更したことが新古今風の歌風であるとまで主張している。田辺氏は、「万葉の断言調、直言調を嫌い」、新古今は「衣干すてふ」と「婉曲で優美で暗示的な口吻を好んだ」と言う。大岡氏によると、新古今は万葉のように「実景写実」を重視するのではなく、新古今が古来からの伝説をもつあの香具山に今年もまたというように、「意味のふくらみを重んじた」ということになる。

 両氏ともに、「衣干すてふ」の表現に新古今の新しい作風を発見しているのであるが、しかしこれが新古今の作風の問題であるのなら、他の新古今歌にも同様の「新しい作風」があることを指摘してもらいたいものである。おそらく新古今の中で、この香具山歌以外に、そのような「暗示的な口吻」や「意味のふくらみ」を持たせた歌は見当たらないであろう。

 特に、伝聞調の「衣干すてふ」が「実景写実」をも含意するというような表現をしている歌は皆無であろう。そのような「魔法」の表現は他には存在しないはずである。古代史における定説、言い換えれば古代史の先入観は、短歌の解釈理論にも重大な影響を与えるという一例であると言う他はない。

 

9.本歌取りと新古今和歌集

 

 新古今歌が新しい歌風を作り上げ、定式化したとすれば、それは「本歌取り」にかかわるものが代表であろう。あえて言えばではあるが。本歌取りとは、新古今より古く誰にでもよく知られている歌の一部を自分の歌に取り入れる作風のことである。新古今の編者、藤原定家ら新古今の歌人たちが確立したと言われる。

本歌取りの例である。

 

本歌:   万葉歌 「柿本人麻呂」の歌と言われている

ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春たつらしも

 

本歌取り: 新古今歌 後鳥羽院の歌

ほのぼのと 春こそ空に 来にけらし 天の香具山 霞たなびく

 

 後鳥羽院の歌は万葉歌と言葉や情景が似ている。後鳥羽院が「ほのぼのと」という言葉を選んだことによって、確かに万葉歌にはない柔らかさが歌に醸し出されている。ただし、これは言葉の選び方の問題である。しかし、この後鳥羽院歌のどこにも「魔法のような手法」は使われていない。「香具山に霞がたなびくことが、春が来たというあかしである」という意味を、万葉歌とは表現を変えて歌っただけと言える。万葉の「夕べの歌」が新古今では「明け方を思わせる歌」に変えられているだけである。当然、新古今の歌人や彼らの歌を鑑賞する貴族階級の人々は、「人麻呂」の歌を知っている。したがって、彼らは万葉の時代から後鳥羽院が歌う新古今の現在までの時間の流れを、「昔も今も」という形で味わうことができる。この意味でふくらみがある。

 もちろん、「人麻呂」歌と言われる万葉の「天香具山」は奈良のものではなく、九州のものであった可能性は大きい。そして後鳥羽院の歌の香具山は奈良のものであった。歌の対象は違っている。しかし、歌の対象が違ったとしても、後鳥羽院の歌の表現としては特別に無理をしているわけではない。鷗も煙も海原も登場していない。春になれば、奈良の低い「丘」にも霞が立つであろう。したがって、本歌取りの作風によって、新古今の歌は古い歌の情景を思い浮かべつつ、新古今の現在の情景や状況を歌うことになる。当然のことながら、古い歌から現在までの時間の流れを含むことになる。このことから、一般に新古今には「婉曲」や「含み」の表現が多くあらわれることになるのである。決して「魔法の技法」ではなかったであろう。

 古田氏が指摘した明治以来の解釈者たちは、まともな解釈から逃げ「天上の虚構の歌」にする必要はなかった。また最近の解釈者たちも、まともな解釈から逃げ「新古今の魔法の技法」として神秘化する必要はなかった。ただ、万葉歌・天香具山と新古今歌・天香具山では対象となる山が異なっていたと認めればよいだけのことである。

 

 

10. 最後に

 

 この章で述べたかったことは、古田氏の万葉歌の解釈と、「古代史の真実を探り出す力」を万葉集が持つという発見に依拠しながら、新古今・天香具山歌について考察を加えることであった。古田氏は、日本書紀には九州王朝の記録や伝承が多々、取り込まれ利用されていると考えている。例えば、「景行紀」における九州統一譚は、九州王朝が九州統一したときの真実の歴史に基づき、それを利用したもの、剽窃したものであると述べている。倭国の中国との国交の記事、遣使記事もそうであろう。万葉集だけでなく、古事記や日本書紀に載る古歌もそうであったろう。万葉集の「前書き」は、まさしくその剽窃行為を隠蔽するものがかなり多かったと言えるだろう。

 九州の王権の事績を剽窃することを可能にしたもの、つまり剽窃の材料となったものが、第三章における私の仮説、続日本紀の元明紀に見る「禁書」として語られたのではないかと考えている。「禁書」には九州王朝のものが数多く、含まれていたはずである。ヤマト王権、ヤマト朝廷は、押収した「禁書」に基づき古事記、日本書紀を編纂し、日本古代史の機軸を造作・創作したのであろう。私は、古事記、日本書紀のこの造作・創作に見られるあらゆる綻び、矛盾を見つけ出し、古代日本史についての真実を抉り出したいと考える次第である。ここで述べたことは、「古代史の真実を探り出す力」を万葉、さらに新古今を含む歌が持っていること、その一端を示すものであった。

私の力量では、また、記紀を徹底的に疑う私の立場からは、積極的な古代史像を述べるところまでは進めないであろう。消極的な形で、定説が語る古代史像は「成り立たない」ということに留まるであろうが。

第八章 旧唐書と新唐書の間

 

はじめに 

倭国と日本国

 

 唐書は945年に完成。唐が滅びたすぐ後に書かれた。1060年に、新唐書が書かれたため、これと区別するために旧唐書と呼ばれている。この論考でも、旧唐書、新唐書、あるいは両書を合わせて旧・新唐書として表されることになる。

 その旧唐書では、日本列島からは二つの国の歴史が書かれている。倭国伝と日本国伝だ。ここには、それ以前からの常連である倭国とは別に日本国という名前が中国の史書の中に初めて出てくる。

 定説ではあまり顧みられていない旧唐書と新唐書、したがって学校の教科書類や参考書、問題集にも載っていない。日本史の好きな人でも知る人は少ないようである。旧唐書に書かれている一言、「日本国は倭国の別種である」を読んで、高校の社会科の先生である友人も旧唐書を見て驚いていた。「えっ、別種と書かれているね」、と。唐書は、高校授業でも取り上げられるべきであり、高校でも教えられるべきである。常識と違いすぎて生徒が混乱するという「良識のある大人」の声も聞こえてくるが、重要と思える資料・史料を生徒に見せない、あるいは知らせないでおくことよりも、資料に基づいて考察してもらうことの方が大切なことであり、生徒にとっても刺激的な授業になるであろう。それは、歴史に限らずどの科目でも重要なことである。

 本題に戻ろう。倭国は、旧唐書に記載された648年を最後にその遣使は記録されていない(注)。663年の白村江戦で敗戦を喫した倭国は弱体化し、衰退していったと思われる。倭国は対等外交、あるいはそれ以上の強硬な姿勢を唐に対してとってきたと推測されるが、倭国の姿勢は首尾一貫していたといえるだろう。筋を通したために自らを滅ぼしてしまったのではないかと私は考えている。これに対して、ヤマト王権の側の「推古紀」、「舒明紀」などから見ると、唐に対する関係は友好的に描写されており、書記の記述を信ずる限りでは、唐に対して白村江戦を挑むという可能性はなさそうである。日本国は白村江の戦いには参加していなかった。このため日本国、将来のヤマト朝廷は勢力を温存でき、敗戦で弱体化した九州倭国に対して優位に立ち、列島の広域に支配圏広げることになったのではないだろうか。

     (注)通典、唐会要では顕慶4年、659年に蝦夷を連れて倭国

が唐を訪ずれているが、この年については倭国主体の記事は存在しない。いずれにしても正史である旧唐書の倭国伝は648年を最後としている。なお、659年の遣使については、蝦夷問題および斉明紀の遣唐使の問題と併せて別稿で触れる。

 

そして白村江から数年経て日本国は唐に遣使した。これが旧唐書に書かれた日本国伝の始まりであり、中国が九州倭国の背後にいたヤマトの王権を認知した最初であった。私はそのように推定している。

以上の推定が果たして成り立つのか。そのことを含めて旧・新唐書から日本列島における二つの国、倭国と日本国について考察してみよう。

 ところで、議論に入る前に論じるにあたって必要となる旧唐書、新唐書の部分を挙げておく。この中から、何回も引用される個所があることをあらかじめ断っておく。

 

旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書A

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。

 

 新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。

 

 粟田真人を遣使団長とする遣唐使の記事に関わる。

旧唐書の日本国伝にはこう記されていた。

    旧唐書B

   長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。

 

これに対して、新唐書の日本伝にはこう書かれている。

    新唐書い

長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して大宝という。

朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。

 

 

 旧唐書日本国伝には日本国の天皇名の記事は無い。

旧唐書C (引用はできない。)

 

 新唐書日本伝には初めて天皇名が登場する。(途中略で引用する。)

   新唐書う

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦激に至り、

およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。彦激の子

の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次

は綏靖、次は安寧、次は懿徳・・・途中略 以下、歴代の天皇名が並ぶ・・・

次は用明、目多利思比孤といい、隋の開皇末に初めて中国と通じた。 

・・・途中略・・・ 文武、聖武、桓武、嵯峨など歴代の天皇を経て、次に文徳、次に清和、次に陽成、次に光孝

 

 

 旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

 

新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書え

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

 

 旧唐書の倭国伝の冒頭にはこう書かれている。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。

 

 

  新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の行程。

 

    以上は今後も適宜、再引用する。

 

 

 

第1節 異様な史書、旧・新唐書日本(国)伝

 

 旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。

   旧唐書A

    日本国は倭国の別種である。〔その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界はいずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。〕

 

  新唐書の日本伝にはこう書かれていた。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。〔使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う。〕

 

旧唐書Aの日本国伝に年号は書かれていないが、新唐書あ の日本伝に類似の記述があり、そこで咸亨(かんこう)元年(670年)になっているので旧唐書でも同じ670年の出来事としてよいであろう。したがって、日本国が中国の王権によってはじめて認識され、中国の史書に記録されたのは670年であった。

本稿でたびたび触れてきたように、670年が日本国、言い換えれば後のヤマト朝廷にとって極めて重要な画期であったと言えるのである。日本国の人が初めて唐に「入朝」した。長安を訪ねたのである。日本国の名は、このときに中国に感知された。

 そこからは、倭国と日本国との関係はいかに、という問題が出てくる。旧唐書以前のどの史書にも、日本列島からは倭国の名前で語られてきた。ところが、列島から二つの国の名前が併記されているのである。倭国が日本国に名を変えたのであろうか。倭国と日本国は連続しているのであろうか。定説派であればそう解釈するのであろう。しかし日本国は倭国の「別種」と書かれている。別種とは、民族的に違う、出身地域が違う、文化が違う、使う言語が違うなど、様々に解釈できるであろう。そのすべてが異なっていた可能性もあるが、旧唐書自体ではどうであろうか。

 仮に、倭国と日本国に継承関係があり、倭国が日本国に名を変えただけであったと考えてみる。「日の出の場所にあるので、日本と名付けた」、「倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした」。なるほど、ここでは名を変えただけと主張しているようにみえる。しかし、「中国はこれを疑う」と信じていなかった。やはり、日本国は倭国からの流れではないというのが中国の認識である。「別国」である、と。

過去を振り返ってみれば、倭国の時代には倭国から中国への遣使も行われたが、同時に中国からの遣使が魏、隋、唐の時代に倭国に来ていた。この点は軽視するべきではない。中国は倭国のことはかなり熟知していると言って過言ではない。だから旧唐書倭国伝では中国が倭国の描写の際に一切、疑いを持っていないのである。上の引用文、旧唐書Eの倭国伝は言う。倭国は「代々中国と通じている」、と。しかし同じ旧唐書であっても、日本国伝になると様相が一変していた。日本国の人の語ることは「疑われている」のである。「中国と通じていなかった」証拠であろう。

 

さて反対に、もし倭国と日本国が連続し継承関係が認められれば、中国は疑うことは何もなかったであろう。中国は、日本国伝を倭国伝の延長線上に記述したはずである。しかし、そのように記述されはていない。旧唐書では明らかに二国の記事が並列に置かれている。両国は併存しているのである。史書としても別種であった。

また、この点は特に強調しておきたい。以下の点がこれまでの歴史研究者の視点に欠けていたと思われるのだが、「あるいは曰く」の主語は唐に入朝した日本国の人間だということである。つまり日本国側が語ったことである。けっして倭国の人間が主語にはならない。日本国伝の中の一節であるからそれは当然である。しかも、この記述はいわゆる間接話法になっている。だから中国が史実、事実として認識したものを記述したのではない。ということは、旧唐書A、新唐書あ で日本国人によって語られたことは日本国人の自己主張ではなかったか。この点を以下、詳しく見ていく予定である。

これだけでも唐書、日本国伝は奇妙な史書であり、中国は日本国の主張を疑っているのだから異様な史書という他はない。「疑わしいため信じているわけではないが、そう主張するならそれらを書いておくしかないか」という気分が行間からこぼれてくるようだ。このような史書の類例が他にあるのだろうか。

 

第2節 旧・新唐書にみる唐と日本国

 

第1項 遣唐使の年号について

「日本国の自己主張 1」

 

粟田真人を遣使団長とする遣唐使の記事に関わる。

 

旧唐書の日本国伝にはこう記されていた。

    旧唐書B 下線に注目。

   長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。

 

これに対して、新唐書の日本伝にはこう書かれている。

    新唐書い 下線に注目。

    長安元年(701年)その王の文武が立ち、改元して大宝という

朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。

 

 まず、旧・新唐書で同じ遣唐使の年号が違う、この問題が重要である。これを軽く見ることはできない。新唐書の性格を如実に物語っているからである。

まず、旧唐書における703年は粟田真人らの遣唐使が唐に到着した年である。唐が確認できた年であり、日本国も体験した年号である。したがって、旧唐書では唐側が事実として記述したことになる。しかし、新唐書ではこの同じ遣唐使は701年となっていた。続日本紀の文武紀によると、701年に粟田真人を遣使の代表とする遣唐使団が結成される。この遣唐使は、天候が荒れたなどの理由で、すぐには出発できなかった。そこで702年に改めて日本から出発した。そして703年に唐に到着。したがって、701年という年号はこの遣唐使団が結成された年であり、日本国側にしか認識できない事柄であり、日本国の視点である。つまり、唐は日本国側からの情報により、新唐書では粟田真人率いる遣唐使は701年と記されることになったわけである。701年は唐が体験して知りえたことではないのであり、日本国側の主張を受け入れて旧唐書の年号を変更したものと言えるのである。この年号の変更の問題を、「日本の自己主張1」と名付けておく。

これが、新唐書の性格を規定していると言えないであろうか。追加して言えば、新唐書い の「その王の文武が立ち、改元して大宝という」の部分も、旧唐書Bには無い。後代の我々が確認できることでもあり、唐が疑っているわけではないので、日本国の「自己主張」とまでは言えなくとも、日本国から唐への報告である。

 

 

 第2項 歴代の天皇名が初登場

「日本国の自己主張 2」

 

旧唐書日本国伝には無い記事である。

旧唐書C 引用は無し

 

新唐書日本伝には初めて天皇名が登場する。(抜粋で引用する。)

   新唐書う

王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦激に至り、

およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。彦激の子

神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治する。次

は綏靖、次は安寧、次は懿徳・・・途中略 以下、歴代の天皇名が並ぶ・・・

次は用明、目多利思比孤といい、隋の開皇末に初めて中国と通じた。 

・・・途中略・・・ 文武、聖武、桓武、嵯峨など歴代の天皇を経て、次に文徳、次に清和、次に陽成、次に光孝

 

 

平安時代の光孝天皇で終わるのは、唐がその後、滅びたためである。

ここでは日本書紀を含む「六国史」で記されている天皇名が列挙されている。この情報が唐にもたらされたのは、日本国において古事記、日本書紀のプロットが完成した後のことであろう。そしてさらに、文武、光孝などの漢風諡号が使われていることを考慮すれば、奈良時代の後半以降に唐に伝えられた新情報ということになる。漢風諡号は淡海三船が760年代、称徳天皇の天平宝字年間あたりに作成したと言われているからである。したがって、日本国と唐との付き合いの中でこれらの天皇名が中国に伝えられたのであろう。

おそらく、703年を現在地点とした過去の天皇、つまり記紀で知られている神武天皇から持統天皇までは和風諡号で一気に伝えられた可能性がある。さらに文武天皇以降、称徳天皇までは、当初、唐には同時代史として続日本紀に残る和風諡号で伝えられていたはずである。そして760年以降のいずれかの時期からは、それまでの天皇名が漢風諡号で伝えられたと推測できる。その後の天皇は光孝天皇までは同時代史として徐々にその都度、漢風諡号で伝えられていったと考えられる。日本国と唐との同時代史として共通の認識ができるようになったからである。  

このように見てくると、ヤマトの王権が唐以前に中国と国交関係を結んでいたと考えることはとても奇妙なことなのである。文武天皇からは日中ともに、同時代史としてその存在を確認できたであろうが、それ以前の「天皇群」、神武天皇から持統天皇までは中国の史書に一切、記述がなかった。旧唐書以前の中国の史書、漢書、魏志、後漢書、晋書、宋書、梁書、隋書、旧唐書、そのいずれにも一人の天皇名すら登場していないのである。和風諡号すら記載されていなかった。書記に言う舒明天皇から持統天皇までは旧唐書の守備範囲であろうが、これらの天皇名は旧唐書にさえ一人も記述されていない。遣使の際に、自国の王名、ないし大王名を述べないことがあるだろうか。それが中国風の流儀なのだろうか。いや、それはありえない。倭国からは卑弥呼、壹(臺)与、倭の五王の讃・珍・斉・興・武、多利思北弧、と王の名が中国に知られていた。対照的である。

ということは、やはり以下のように推察できる。日本国と中国の付き合いは670年以降に始まった。後でも触れるように、おそらく非公式の形で。歴代の天皇名もこの時点までは日本国側は伝える用意ができていなかったのではないだろうか。書記の孝徳天皇の時代(645年~654年とされる)に、中国に「神の名を伝えた」という記事があるが、それは670年のヤマト王権、将来の日本国の姿ではなかったのではないだろうか。しかし、670年の時点で本当に「神の名」が伝えられのかについても疑わしい。この時点では、ひょっとすると日本国は神武天皇さえ報告できなかったのではないだろうか。用意ができていれば、神武天皇という漢風諡号は伝えられなくとも、和風の神倭磐余彦、あるいは神日本磐余彦は伝えられたはずである。旧唐書に、いや、後漢書から旧唐書に至るまで、和風諡号すら記載されていないということは銘記すべきことである。670年は、ヤマトの勢力が中国に対して歴代の王、大王を回答すべく準備し始める契機になったのではないだろうか。だから、記紀に載る歴代の天皇などは日本国側の自己主張にすぎないのであり、中国にとってはそれらの天皇を同時代史として確認できない、中国はそういう印象をもったのではないだろうか。

もう一つ中国が日本国からの主張がなければ認識できない点を追加しておけば、先の引用(新唐書う)で下線を付した部分、「神武が天皇を号とし、筑紫から大和州に移って統治した」という点である。これなども中国が事実として確認できる事柄ではない。

以上を「日本国の自己主張 2」と名付ける。

 

これらが、我々が新唐書日本伝を読むときの観点・立場でなければならない。また、このことは中国との正式の、真の国交は703年の遣唐使が唐に到着してからようやく本格的に始まったという何よりの証拠ではないだろうか。これが日本国の国際舞台への登場であり、中国史書における本当の「日本伝」の始まりである。少なくともそのように判断できる状況証拠にはなるであろう。

私は、記紀懐疑論者として、日本書紀の語る持統天皇までは書記が語るような形の「天皇」として実在したとは考えていない。地域の王、豪族としてなにがしかの権力の所有者であった可能性はある。または反対に、まったくの架空の存在である可能性もある。書記にしか書かれていないのでその実在、非実在の根拠は何もないからである。しかし、仮にもし持統天皇以前の天皇が実在していて、それでもなお、中国に知られていなかったとすれば、それはヤマト王権・日本国が中国に遣使したことがなかったという何よりの証拠だと思われる。付き合いの無さを証明している。

日本国は中国への遣使実績の無さを埋めようと、かなり焦っていたのではないだろうか。だから、日本国の自己主張はそれだけ用意周到であり、強く徹底したものであっただろう。日本書紀は、日本国の基本的な意思を固めるための、また日本国の官僚の意思一致を図るための「イデオロギーの書」であったのだろう。唐は唐で国と国の付き合いとして、国益のためには日本国の主張を受け容れざるを得ない。倭国の遣使も途絶えた時代であったからである。

ところで、唐はその付き合いの中でも、例の「疑い」を晴らしたのであろうか。中国は、その後のいずれかの時点で倭国と日本国の関係を明快に認識したのであろうか。それはなさそうである。「疑い」について、旧・新唐書のどちらも訂正した様子はないからである。おそらく中国は疑い続けたと思う。

しかし、次第に日本国の主張が新唐書に反映されるようになっていく。つまり、唐が日本国を国家として承認していくことになるのである。一つの国家を承認する過程について、現代史からミャンマーの例を見てみよう。クーデターによって合法政権が倒され、国号がラオスからミャンマーに変わる。国際的には、ミャンマーを承認するか否かで意見が分かれる。日本などは早々とミャンマーを承認したが、欧米諸国は民主的な手続きを経ていないという理由でそこの政権をなかなか承認しなかった。しかし、ミャンマー政権が長期にわたり「安定し継続」すると、政権の成立過程については問題にせず、徐々にミャンマーは国際的に承認されていった。現代史と古代史との違いはあるが、一国が他の国から承認されるプロセスとしては似たものがある。

そして再度言うが、日本国を一つの王権として唐が承認する契機になったのが、703年の粟田真人を代表とする遣唐使であったのは間違いないところである。粟田真人は唐の則天武后に気に入られる。真人の教養の高さ、風情や物腰などが高く評価されている。天皇の名前や系統についてもこの時点で整えられたのであろう。中国はこのときに、日本国が安定した王権を確立していることを認識したと思われる。反対に、それまで関係のあった倭国は音信不通になっている。日本列島を代表するのは日本国だということになっていったのである。

 先に第1節で見た年号の問題、そして本節で見た天皇の記事から分かることは、新唐書は日本国側の自己主張を大幅に取り入れたものになっているということ、つまり旧・新唐書を分かつ明白な相違点がここにあると言えるのである。

 

 

                     第3項 入朝者の素性

           「日本国の自己主張 3」

 

旧唐書の日本国伝の冒頭にはこう書かれていた。下線部に注目。

   旧唐書D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

 

新唐書の日本伝にはこう書かれていた。下線部に注目。

    新唐書あ

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

 

 

 この引用箇所で問題にするべきことは、唐に入朝した人物の身分である。これは簡単に片付くのだが、旧唐書Dでは、唐に入朝したのはそこの人となっていた。これに対して、新唐書え では使者になっている。咸亨(かんこう)元年(670年)の時点での旧唐書Dでは、正式の遣唐使とは見なされていなかった。まるで、ひょっこりと日本国の人間が、私的に長安を訪ねてきたという風情である。これに対して新唐書あ では、日本からの同じ人物が「そこの人」から「使者」へと格上げされているのである。これは何故であろうか。

 やはりこれも、703年以降に日本国から「670年の日本からの来訪者は単なる私的訪問ではない」と自己主張された結果だったのであろう。これを「日本国の自己主張 3」と名付けておく。

しかし、その自己主張にもかかわらずなお表を持参して朝貢といったような正式・公式の遣使という位置づけにはなっていない。ここにも中国との670年の訪問は703年の遣唐使ほどの重さでは語られていなかったのである。そして、すでに5世紀後半に南朝宋にたいして遣使した倭王武が立派な上表文を差出したのとは好対照になっている。日本国が中国との交流をもっていなかったことはここにも露呈している。さらに、このことは倭王武がヤマト王権の王ではないことの何よりの証拠でもある。

とはいえ、旧唐書から新唐書にかけて、両国の交流が深まるにつれて、日本国の主張がより強く反映されるようになったということになろう。

 

 

第4項 旧と新のもう一つの違い

「別種」が消えた

「日本国の自己主張 4」

 

旧唐書AまたはDの日本国伝では俄然、目を引いたものが新唐書の日本伝ではどこを探しても見あたらない、つまり消えてしまったのである。あの「日本国は倭国の別種」はどこに行ってしまったのだろうか。これを我々はどのように解釈すればいいのだろうか。

下線部に注目。

 

旧唐書A・D

    日本国は倭国の別種である。その国は日の出の場所にあるので、日本と名付けた。あるいは言う、倭国は自らその名が雅でないのを嫌い、改めて日本とした。あるいは言う、日本は昔、小国だったが倭国の地を合わせたと。そこの人が入朝したが、多くはうぬぼれが大きくて不誠実な対応だったので、中国はこれを疑う。

 

新唐書え

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。

      

 

もうお分かりと思うが、これも日本国の自己主張の結果、唐が「別種である」を取り下げたのである。もちろん、ここでの自己主張とは「倭国が自ら日本国に名を変えた」というものであり、この点を唐の時代に一貫して日本国が主張し続けたのであろう。よって倭国と日本国の二つの国は「別種ではない」、つまり「同種」、「同族」であるということになっていったのであろう。

これを「日本国の自己主張 4」と呼ぶ。

 

    

第5項 旧・新唐書の「倭奴国」

「日本国の自己主張 5」

 

旧唐書の倭国伝の冒頭にはこう書かれている。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。、、、

 

 新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海

中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の

行程。、、、

 

   旧唐書Eの倭国伝には「倭国とは、古の倭奴国である」と言われている。これに対して、新唐書お における日本伝で「日本は古の倭奴である」と書かれていた。その主語が入れ替わっている。これも日本国側の自己主張であり、新唐書は日本国の言うままに記述する傾向になっていくもう一つの事例である。

これを「日本国の自己主張 5」と呼ぼう。

私は既に、「倭奴」第7章で「匈奴」との関係から論じていた。「倭奴」は「倭の奴ら・倭の人々」、「匈奴」は「匈の奴ら・匈の人々」であると。これらを分けて、「倭の奴」と呼ばないのは、「匈の奴」と分けられないのと同じである。さらに付け加えれば、「狗奴国・くどこく」というのも同様である。魏志に載る卑弥呼を苦しめた隣国だが、これも「狗の奴の国」と呼ぶことが不自然なのと同じではなかろうか。

通説では「倭奴」と「奴」の文字があると、そこから「分国」だという観念が浮かぶのは、先入観のなせる技ではないだろうか。魏志の卑弥呼の国の分国に「奴国・なこく」があった。この「奴」であると。あるいは、私自身も「倭奴」とあると直ちに「匈奴」、「狗奴」に結び付けて考えるべきだという先入観を持っているのであろうか。

だが、「倭奴」は志賀島で発見された金印、「漢委奴国王」の「委奴」と同じである。三宅米吉氏であれば「ワノナノ」と読むであろう。定説も金印について三宅氏に従っている。氏は統一国家としての倭国の下に分国としての倭奴国と解している。すでにAD57年の時点で統一国家の倭国=ヤマト朝廷が出来上がっているとする。もし、「倭奴国は分国である」と主張するのであれば、ヤマト王権、ヤマト朝廷がAD57年に倭奴国を含む統一国家を既に樹立していたことの論拠を示されなければならないことになる。金印以外の何かで証明しなければならない。

私は、ヤマトの王権が670年以前に成立したという議論を「大和朝廷早期成立論」と呼んでいるのだが、三宅説は統一国家としての大和朝廷の最も早い時期での成立論だと考えている。さらに岡田英弘氏は、『倭国の時代』で統一国家である倭国の分国である奴国が「倭国の承認を得ないで、勝手に遣使した」と述べ、大和朝廷成立早期成立論に与していることを紹介しておく。

そこでもし、旧・新唐書の倭奴国が分国でないとすれば、志賀島の金印の「委奴国」も分国ではないと考えるのが自然である。中国は漢の時代から倭国の分国が遣使に来たという認識は持っていなかったのである。倭奴国も倭国も同一なのである。倭奴国であろうと倭国であろうと中国は「これを疑っていない」。旧唐書の倭国伝は決して疑われていないからである。倭国の現実でもあるし、中国の認識でもある。しかし日本国伝で、「倭国が日本国に変わる」事態に中国は「疑った」のである。したがって日本国の唐に対する登場の仕方こそが問題であったことになる。

しかし、問題を複雑にしたのは唐の側の問題もあるだろう。つまり、「疑い」を持ちながらも、日本国との国交維持のために日本国の主張はほぼ受け入れられていく。だから、日本国は古の倭奴国ではないことを十分に承知した上で、あるいはそのような疑いを持ちつつも、「日本国は古の倭奴国である」と記述したのである。しかし、中国が間違えた認識をしていたわけではない。だからこそ、旧・新唐書の両方とも、「或は言う」、「或は云う」という間接話法の形で描写されるという表現法がとられたのである。

中国の心の声、「私たちが日本国の主張を事実だと認めたわけではないですよ」という声が聞こえてくるような気がする。このように日本国が唐に対して真実でないこと、疑われるようなことを報告しただけのことなのである。したがって、定説的に、「日本国は古の倭奴国である」と新唐書が語っている、だから「倭奴国=倭国⇒日本国」、あるいは「倭奴国<倭国⇒日本国」と理解してよい、ということにはならないのである。

 

670年に日本国の人が唐に「入朝」した時点で、日本国の国力などがどれほどのものであったのかは不明である。しかし、少なくとも対中国との国交においては、かなり倭国からは出遅れていたのは確かである。この点では日本国は中国との「国交後進国」であったと思われる。したがって、日本国の様々な自己主張も中国にとっては意表を突くものであったであろう。中国の疑いの原因もそこからも生まれたのである。

 

 

第6項 旧・新唐書日本伝における地理的特徴について

「日本国の自己主張から考察する」

 

もう一つ、不思議な出来事が唐書には起こっている。すでに引用された唐書の中に倭国と日本国の地理的状況が3か所で記述されている。その3か所の引用を、重複するが並べてみよう。

 

旧唐書の倭国伝の冒頭である。

   旧唐書E

    倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里(注)、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。、、、

 

 新唐書の日本伝の冒頭である。

    新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海

中に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の

行程国には城郭は無く、、、、

 

新唐書日本伝の中ほどにはこう書かれていた。

    新唐書あ    (旧唐書Aはほぼ同じなので新唐書あ で代表させる)

    咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言(曰)うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を悪み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので国名にした。或いは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと云う。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となりと妄りに誇る。その外は毛人だとも云う

 

    (注)これまで倭国までの距離は、1万2千里となっていたが、これは新羅など

の朝鮮半島からの距離である。唐書では出発点が京師(長安)からの距離になっているので、1万4千里になっている。

 

まず気が付くことは、旧唐書Dの倭国伝と新唐書お の日本伝とで地理的描写が同じになっているのである。次いで気が付くのは、同じ新唐書の日本伝の中であるにも関わらず、新唐書 お と新唐書 あ で食い違っている。どういうことであろうか。

 このことから検討するべきことは次の三通りである。

①「旧唐書Eと新唐書 お 」

②「旧唐書Eと新唐書 あ

③「新唐書 おと新唐書 あ」

考える鍵は「日本国の自己主張」である。

 

この中で②はある程度、片付いている。新唐書あ については既に第1節でも述べたように、670年に突然出現した日本の人が、倭国とは場所の情景も異なり、規模も違う日本国の状況を説明した。これに対して、唐は日本の人が「妄りに誇る」と記述した。つまり、「君たちは倭国とは地理的に違うね」、「自慢しすぎではないか」、と。別の場所、おそらく奈良を中心とした地域から来たのであるから倭国と日本国の地理的状況が異なっているのは当然である。推測であるが、670年の時点で日本国は倭国が長期にわたって中国の王権と国交を結んでいて、倭国は「代々中国と通じている」という中国の事実認識なども知らなかったのかもしれない。新参者の日本国は、「国交後進国」であるだけでなく「情報後進国」であったのだろう。

 

①に移ろう。第5項で述べたように、主語が異なっているだけのように見える。

旧唐書D

倭国とは、古の倭奴国である。京師から1万4千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に拠って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている

 

新唐書お

日本は古の倭奴なり。京師から1万4千里、新羅の東南海にあり、海中 に在る島に暮らしている。東西に五カ月の行程、南北には三カ月の行程。国には城郭は無く、、、、

 

 主語以外にはっきりと違いがある。「代々中国と通じている」があるか否かの違いである。新唐書お にはどこを探しても「中国と通じている」という表現は無いのである。もし、「倭国=日本国」という等式が成り立つとすれば、「日本国は代々中国と通じる」という記述がなければならない。それが無いということは、「日本国は代々中国と通じていない」ということを意味する。これは、中国が日本国の主張にささやかな抵抗を行った、あるいは中国の語らない自己主張であったのかもしれない。

 また、ここで語っておかなければいけないことは何故、倭国伝と日本伝の両者で地理的描写が同じなのかという問題である。ここにも日本国の「自己主張」が反映していると思われる。どちらがどちらを併合したかにかかわらず、またどちらが日本国と名付けたかにかかわらず、倭国は日本国の前身であり、合体したのだから日本国が倭国と同じ特徴を持っているのは当然である、と。

 そのように考えると、③についても同様に解決する。670年時点で語った日本国の特徴も、当然その時代の日本国の特徴でもあるし、倭国の特徴を持つことも否定できない、と。

 中国からすれば、倭国が日本国を併合しようと日本国が倭国を併合しようと、合併して大きくなった日本国は当然のことながら九州倭国と関西ヤマトの地理・地形の特徴を合わせ持つため虚偽ではないので、訂正の必要もなかったのであろう。

 

 

 

第4節 旧・新唐書の理解を深めるために

 古田武彦氏と大和岩雄氏の唐書解釈について検討する

 

 

第1項 古田武彦氏の見解について

 

 古田氏の唐書理解の弱点が象徴的に現れている個所がある。『失われた九州王朝』から少し長くなるが引用する。そのP.359から361にかけて旧唐書の日本国伝からの引用と、それについての解釈が述べられているところだ。

 

『旧唐書』は、この日本国とその国号の成立について、次のようにのべて

いる。 

  A 日本国は倭国の別種なり。

  B 其の国、日辺に在るを以て、故に日本を以て名と為す。

  C 或は曰う、倭国自らその名の雅ならざる憎み、改めて日本と

    なす、と。

  D 或は云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。

 ここにおいて、Aにいう「倭国」とはこの「日本伝」の前にある「倭国伝」の「倭国」を指している。つまり、多利思北孤の後裔たる九州王朝だ。今いう、新興の日本国(天皇家の国)は、この倭国の別種だ、といっているのである。つぎにBは中国の視点から見れば、一応問題のない文章だ。だが、真の問題はCとDにあらわれる。Cにおいて、国号改名の理由は、今はたいした問題ではない。問題は、倭国みずから、「日本」と改名、自称した、という点だ。ここで「倭国」というのは、この直前の「倭国伝」の「倭国」だ。それは文脈の自然な連結上、当然である。つまり、「多利思北孤」の九州王朝みずから「日本」と名のったのが、「日本」という国号のはじまりだ、といっているのである。

 これと相補足するのがDの文章だ。「日本は旧小国」といっている「日本」は、この「日本伝」でのべようとしている「日本」、つまり「天皇家の日本」だ。その天皇家の日本は、本来、一小国だった。つまり日本列島中の一豪族だった、というのである。それが「倭国の地を併せたり」という。この「倭国」はやはり前述してきた「多利思北孤の九州王朝」だ。その「倭国」を天皇家が併合したのだと言っているのである。・・・つまり、「日本」と名乗った最初は、天皇家ではなく、九州王朝だ、というのである。  〔中略〕

ここには「或は曰う」「或は云う」として、その説の伝来者は記していない。だが、その主たる伝来者は当然、まず第一に、犬上三田耜粟田真人、多治比真人県守のような、天皇家の遣唐使自身だ。その上、第二に、唐朝の内側からの「検証者」は、五十四年間の長きにわたって唐朝に仕えた阿倍仲満その人である。さらに、第三に、、、、

 

  古田氏の唐書をめぐる見解には問題点が二つある。〔中略〕の前段に一つ、その後段に一つある。議論の都合から後段から始める。

氏は、旧唐書だけを採り上げているが、この個所については新唐書については触れていない(注)。このことが何故起こったのかは不明であるが、致命的な欠陥が現れる。「咸亨(かんこう)元年(670年)」という年号は旧唐書には無く、新唐書のみに登場する年代であった。新唐書を軽視する古田氏はこの年号の意味も軽視する。だから、日本国側の発言が670年になされたはずであるにもかかわらず、時代認識を誤っている。氏は703年以降の遣唐使者である粟田真人、多治比真人県守、阿倍仲満の名を挙げ、さらに犬上三田耜(いぬがみのみたすき)の名前も挙げている。三田耜は推古紀22年(614年)、舒明紀2年(630年)に隋・唐に遣使したと書記では言われている。このように、氏は時代を把握できていない。

(注)古田氏が新唐書を読まなかったということではない。氏は、旧唐書には書

かれず、新唐書に書かれている「用明、目多利思北孤」の解釈について独特

な説を述べているからである。わたしは、氏のこの問題での解釈について

「続 第八章 その2」で評価する。

 

 次いで、前段の問題点である。Aは中国の認識であるが、B、C、D はすべて日本国伝の一節であるから、B、C、Dの発言内容は「日本国の人」から発せられたものである。氏も、粟田真人、多治比真人、阿倍仲満、犬上三田耜とヤマト側だけの名を挙げたのだから、このことは認識していたはずである。倭国側の人が発言する余地はない。しかも、それらの主張は中国によって真実ではないと疑われているのである。その中の言葉のどれかをいくら解析しても真実にはたどり着かない可能性は大きいが、B、C、D について検討しよう。

 Bの倭が雅でないという国名変更の理由についての発言は、氏も言う通り問題にしても意味はない。しかし、CやDは信憑性が低いのである。例えば、Cの「倭国自ら日本と為す」の真偽は不明である。繰り返すがここには、倭国の人の発言は存在しない。ということはCの発言者は日本国の人である。日本国の人が「天皇家側の人」であったとしたら、「九州王朝が自ら倭国から日本国に改名した」などと倭国の代弁するはずがない。むしろ、その後、大和朝廷は中国からは「日本国」と呼ばれ、この雅な名前を誇ることになっていくはずであるので、「九州王朝」に改名の栄誉を手渡すはずがない。「ヤマトの王権が自ら日本と改名した」の方がありそうである。

もともと、「或は曰う」、「或は云う」、、、という記述からは、その他の発言があったということも推測させる。「日本国は、日本国自ら名付けた」もあるだろう。あるいは、「私たちは以前、倭国と呼ばれていたが、自ら改名して日本になった」などの発言もありそうである。どれか一つは真実を述べている発言もあるかもしれない。しかし、全体として日本国の人が発する言葉はどれも疑わしい、というのが唐の認識であろう。

 私は、上の下線部分が可能性が最も大きい発言だと考えている。「倭国自ら日本と名を改めた」というのは、「倭国とは別国であったヤマト王権が倭国を僭称し、さらに日本に改名した」、と。しかし、これを確認する術はおそらくないだろう。

 

 

第2項 大和岩雄氏の見解について

 

 

定説では取り上げられることの少ない旧・新唐書。大和岩雄氏が数少ない例外として、『「日本」国はいつできたか』(大和書房1996年)で旧・新唐書について論じている。そして、例の「中国これを疑う」についても触れている。氏は倭国が自ら日本国に名前を変えたという立場をとる。新唐書の記述の仕方を忠実に読み取っていると思われる。大和氏は述べる。

   使者が(きょう)(だい)」で「実をもって(こた)えなかった」という記事は、一般

に、尊大な態度で事実を語らなかったと解されているが、そうではな

く、事実を語っても相手に通じなかったのが、「矜大」で「実をもって対えなかった」と受け取られたのである。なぜなら、中国では国号改号は、王朝交代を意味するから、使者のいう「壬申の乱」による王朝交替(易姓革命)による国号変更を、中国風に理解した。しかし、わが国の王朝交替は中国の「易姓革命」とはちがうので、使者が詳しく説明すればするほど、使者の説明の国号変更の理由が、理解できなかったのである。 

大和 同上書 P.207,208 下線は筆者

 

大和氏の主張には三つの問題点がある。一つは、国号変更を「壬申の乱」と結び付けていることに関わる。「壬申の乱」そのものがあったということに懐疑的な私の立場からはその点について述べることはできないので、「壬申の乱」があったと仮定しての話だが、この乱は672年の出来事のはずで、新唐書が670年時点の事柄として壬申の乱関係の記事を書けるわけがない。わずか2年だが年代がずれている。したがって、中国が「壬申の乱」を理由にして疑うというのは筋違いである。古田氏同様、年代把握を間違えている。大和氏は、新唐書を論じない古田氏を批判しているにもかかわらず、大和氏自身が新唐書を読んでいながら年代把握ができていなかったことになる。

次いでニつは、易姓革命をめぐる問題である。易姓革命とは、王権が変わるとともに皇帝の姓も易わる(かわる)ということだ。しかし、中国の易姓革命は決して単純ではない。様々な形がある。これが典型であろうが、暴力的に王権が打倒されることもある。禅譲、つまり前王権が次王権に政権を譲る形もある。その場合にも様々な理由がある。また、粟田真人が遣使したときに対面したのが則天武后であったが、彼女は夫の高宗の死後に皇帝となり、王権の名を唐から周に変えた。そして、彼女の死後に周は再び唐に名を変えている。つまり、「唐→周→唐」と王権の名が変化した。これも広義の易姓革命と言えるかもしれない。そして、書紀に描かれている「壬申の乱」のほうが中国的な「易姓革命」の典型的な姿に合致しているのではないだろうか。日本の王権名変更のいきさつを中国が疑う理由になるとは考えられない。

もともと、「易姓革命」に関係のある問題は中国の挙げた議論に出てはない。そこは中国も問題とはしていなかった。大和氏の提出した理由は論点がずれている。

その三つは、大和氏は唐自身が挙げた理由には一言も触れていない論点を持ち出したことである。新唐書日本伝から唐が疑っている部分の再度の引用である。

     

咸亨(かんこう)元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。使者が自ら言うには、後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。国は日の出ずる所に近いので、国名となした。あるいは言う、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すと。使者には情実が無い故にこれを疑う。また、その国都は四方数千里、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となる、と妄りに誇る。その外は毛人と言う。

 

 疑われたことは、

① 倭という名前が雅でなく、また日の出に近いところにあるので、倭国が自ら日本国と改名したこと、

② 小国だった日本が倭国に併合されて、日本国名を名乗ったこと、

③ 日本国の国土が倭国時代に比べ東西南北のいずれの方向にも広大になっていること、などである。

 日本国の人の回答は決して①②③が整合的である、統合的であるということからは程遠いものである。「ある人は・・・と言う」、「別の人は・・・と言う」、また「その他の人は・・・と言う」ということであったであろう。または、同じ人が、時間が経つと答えが変わる、ということも含んでいたのかもしれない。いずれにしても、そのすべてが唐にとっては疑わしいものに感じられたのであろう。これらの唐の疑いについて、大和氏は適切に応じていない。

 定説を主張する大和氏が大胆にも旧・新唐書についての見解を述べたことは評価されることであるが、的はかなり外れていたと言わざるを得ない。

 

 

 

第5節

唐の疑いへの日本国の対応について

 

 ところで、中国が「倭」から「日本」に変わったことに「疑い」をもっていることには、記紀の編者たち、またその後継者達はどのように対処したのであろうか。

彼らにとって大事なことは、まず国内の体制固めである。悠久の時の流れの中で天皇家が日本列島でその支配体制を形成し、今後もその体制が永遠に続くという意識をつくらなければいけない。そのためには、まず官吏の間での意思の一致こそ必要である。日本書紀が書かれた後、書記についての講読会が何回かにわたって行われている。日本書紀がヤマト朝廷形成の必要性と必然性とを示すものであり、ヤマト朝廷の高官たちの思想的統一の根拠として位置づけられたことを表している。

中国の疑いはやむを得ないものがある。したがって、中国の「疑い」の問題については、「我々の主張は主張として貫き、また少しずつ説得しつつ、国と国の関係を良好なものにしていけば、疑いは晴れないかもしれないが、大きな問題ではなくなる」というところが着地点であったのだろう。実際、粟田真人らの遣唐使以降、日本国は一つの国家として承認されることに成功した。その後も、「疑い」は両国の関係に大きな障害とはならなかった。日唐の間の関係は唐が滅びるまで、基本的には幸福な形で続いていったのである。

 

 

最後に 空白の歴史、30年間

 

 以上で、旧唐書と新唐書の関係についての検討は終わりを迎えた。

ところで、670年の日本国の記事から703年の粟田真人らの遣唐使まで約30年余は、唐書の日本(国)伝には空白がある。記紀をポジティブな意味での資料にできない私にとっては、中国が何も語らない30年は、日本古代史にとっても空白の30年である。とは言え、倭国から日本国への転換という極めて重大な時代の転換期である。古代史研究の先人のように積極的な主張、「こうであった」とは言えないが、消極的な主張、「そうではなかった」とだけ語ることは可能かもしれない。

そこで追加して触れておくと、記紀への徹底的懐疑の立場からは「乙巳の変」、「壬申の乱」などの事件も日本書紀では天皇家をめぐるものとして描かれているが、これらの事件が地域の王権同士の争いや小競り合いを反映したものである可能性もある。またあるいは、そのような事件が存在したのかも不明ともいえる。すでに述べた考古学者の文献史学者に対する警告的な発言を思い出そう。「考古学的には壬申の乱があったという根拠は示されない。文献に基づく研究に問題点はないのか」、と。(注)。

(注)下垣仁志 『日本史研究』No.654 P.58

 

今後、空白の30年間を含めて、日本書紀の記事についての幾つかの問題点を指摘し論ずる予定である。

① 斉明紀に見る「蝦夷」について

② 天智紀に見る「白村江の戦い」

③ 天武紀に見る「壬申の乱」

 これらについて、私は記紀についての懐疑をどこまで貫けるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

 「倭」が歴史上で最初に現れたのは、中国の漢書・地理史でBC1世紀のことであった。倭国であった。さらに、後漢書のAD57年、倭国が遣使したとある。このときに印綬を授けられている。これが江戸時代に博多湾の志賀島で発見された『漢委奴国王』と彫られた金印のことだと考えられている。また、同じ後漢書の107年に「倭国王帥升等、生口(奴隷)160人献ず」とある。そして、魏志倭人伝の倭人、宋書、梁書の倭国、隋書の俀(たい)国、旧唐書の648年における倭国まで続く。新唐書では日本国のみが掲載され、倭国はもはや登場しない。

 

第1節 「倭」の読み方

 

(1) 「い」か「わ」か、という問題

 

(第五章第1項を一部修正して再論。主に音表記を片仮名から平仮名に変えた)

 

 「倭」が何を意味しているかについては、後に第3節で考察する。まずは、「倭」は何と読むのかという問題から始める。日本では普通、「わ」と読まれているが、これには何か根拠があることなのだろうか。古代の中国人が「倭」を発音する際にはどのように発音していたのであろうか。時代によって読みが変化したという説もあるようだが、これまでこの発音問題を議論しているという場面にあまり出会ったことはない。そこで一石を投じてみたい。私の推測を交えて言えば、前漢・後漢・魏という古い時代に属する古代中国音や南朝の宋などの「呉音」では「い」ではなかったか、より新しい隋・唐時代の「漢音」では「わ」になったのではないかという考えに傾いている。

読みの手掛かりの一つが、先の金印に書かれた「漢委奴国王」の読み方である。三宅米吉の説によると「かんのわのなのこくおう」と読まれ、それが教科書にも載る定説になっている。つまり、「委」は「わ」と読まれているが、少なくとも後漢の時代には「い」であったと思われる。

古い時代には「倭」の読みが「い」であったと考えられる。その理由である。上の「漢委

奴国王」の読みであるが、中国では漢字の偏や冠を取って、簡略体を用いることがよくある。例えば金属の「銅」は「金偏」を除いて「同」にするなどである。志賀島で発見された「漢奴国王」の「委」は「倭」であった。つまり、「委」は「倭」から人偏が取れた簡略体であった。実際、後漢書の「奴国」は、旧唐書では「倭国は古(いにしえ)の奴国である」と人偏が付けられている。このことからも「委」は「倭」と読み方が同じであることがわかる。それをもとに考えると、「倭」の中国での読み方は「委」の読み方次第ということになる。後漢や三国の魏などの古代中国で「委」が「わ」と読まれていたとすれば、私は意見を取り下げるが、「委」が「い」であるならば、「倭」も「い」と読まれたというほうが有力と思う次第である。

ところで、東アジア史の西嶋定生氏は言う(注1)。「等」は竹冠を取って「寺」にはできない。「とう」と「じ」では発音が違うからである、と。これに対して、「侍」であれば、人偏をとってもとらなくても「じ」なので「寺」でもよい。つまり、偏や冠を取っても発音が変わらなければ取り去ってもよい、発音が変わってしまう場合には取り去ってはいけないというのが西嶋氏の指摘である。したがって、ますます「倭」の読み方は「委」の読み方次第であることが分かる。「委」が「い」であれば「倭」も「い」である。しかし、西嶋氏は卑弥呼が魏からもらった金印、「親魏倭王」を「しんぎおう」と読んでいた(注2)。

(注1) 『シンポジウム 鉄剣の謎と古代日本』P. 86~87 新潮社 1979年

(注2) 『邪馬台国と倭国』P.82 吉川弘文館 1984年

 

西嶋氏の説を一貫させると「倭」が「わ」であるならば、「委」も「わ」と発音するということになる。果たしてそうなのであろうか。亡くなった方に、この点を問い合わせることはできないのが残念である。むしろ、「親魏倭王」は「しんぎおう」と読まれたのではなかったかというのが私の推測である。「倭」が「わ」で、「委」は「い」であるというネジレは西島説では許されない。発音が変わる場合には、偏や冠は省略できないからである。

 

 辞書的にはどうなっているであろうか。

藤堂保明氏らの一般の漢和辞典によると、「委」は「い」「ヰ」と読まれている。白川静氏の『字通』という辞典がある。「委」は「い」または「ゐ・ヰ」とある。さらに、「委」の字を含む字が多数、載っている。例えば、痿、萎、逶、餧、諉などが挙げられ、これらの音符は「委」で、読みは大多数は「い」または「ヰ」(注)である。ただし、これとは別に二つだけ読み方が違う漢字がある。「倭」が「わ」または「ヰ」であり、もう一つが「矮」では「わい」と読まれている。「矮」は例外なのであろうか。「倭」は「わ」という読みが「い」に優先されている。それはなぜだろうか。辞典づくりの難しさでもあろう。白川氏にとっては、「倭」が古代史の通念・常識で「わ」と読まれていることが「い」を優先させることの妨げになったのかもしれない。

ところで、上記の「ヰ」は「wi」の片仮名である。その平仮名が「ゐ」。現在は「wi」音が無いため、「い・イ」と表記されている。したがって、「わ」は「wa」の平仮名であるため、「わ」「ヰ・ゐ」も「wai・わゐ・わい」も、実は元来は近い音で、互いに転換しやすい音だったということが分かる。したがって、「委・倭・矮」もすべてが「wi」で同音であった可能性もあるだろう。ここでは、暫定的にそのように結論を出しておくことにする。

 

もう一つここで取り上げたいのが、中国の史書では一般には「倭国」となっていた国が、

隋書では「俀国・たいこく」となっていたことである。古田武彦氏は「俀(たい)」は「大倭・たいい・い」から来ているという説を採る。私も第五章で述べたように、隋が倭国の「対等外交」の姿勢に腹を立て、あるいは皮肉を込めて「倭・い」を「大倭・たいい・たい」に変え、さらにそれを「俀・たい」に変えたと考えている。

ただし、それはこういう理由からである。私の憶測を交えた現段階での考え方であるが、「倭」が「い」であるのは「呉音」であって、隋・唐の時代の「漢音」ではないと考えている。「呉音」では、「倭」も「い」と読まれた。漢の時代、魏、西晋、南朝の宋、梁までは「呉音」の時代である。「呉音」とは漢民族の王権である南朝以前の漢字音である。「倭国」の遣隋使は当然、漢民族の「呉音」を尊重して「倭」を「い」と発音する。隋はすでに「倭」を「わ」と発音するようになっていた。ここで発音上の食い違いが起こる。このときの隋の楊帝(煬帝)の考え方である。

そうか、では「倭(い)」に「大」の字をつけてやろう。偉そうに聞こえるだろう。「大倭」だ。漢民族の読み方、「呉音」では「たいい・たい」だ。ただし使う文字は「俀」だ。どうだ、満足か。「俀」は「軟弱で弱々しい」という意味だ。

    「この弱虫め、ははは・・・、かかってこないのか?」

 

以上の理由で漢民族の王権の時代、つまり「呉音」時代の中国では、「倭」は「い」と発音されていたのではないかという説を採る。古代の中国における漢字の読み、発音問題に詳しい方にご教示いただければと思う。

まとめると、「呉音」では、「委」、「倭」ともに「い」と読まれる。漢の時代、三国の魏、西晋、南朝の宋・梁までは「呉音」の時代である。「呉音」は漢民族の王権である南朝以前の漢字音である。これに対して、隋、唐の時代に「漢音」に変わる。「漢音」とは、隋、唐以降の漢字音である(注)。漢和辞典を信じる限り、「委」は「い」のままのようである。しかし、「倭」は隋、唐の時代に「わ」と読まれるようになったのではないかと考えられる。

    (注)込み入っているので漢音について説明を加える。先に第一章でも述べた通

り、北朝から隋・唐と続く王権は北方騎馬民族の王権である。それにもかかわらず、彼らは漢民族の継承者を自認していた。そこで、自分たちの発音を「漢音」と名付けることになった。特に唐との付き合いが長く、その影響を強く受けたヤマト朝廷の日本でも唐時代の漢字音を「漢音」と呼ぶことになったのである。

 

 

(2) 「倭」が「ヤマト」と読まれるいきさつ

 

 ヤマト王権、後のヤマト朝廷は、670年から中国の王権、唐との付き合いを始めた。

「大倭」が唐時代の人によって「ダイワ」と発音されるのを聞く。「ダイワ」なら卑字の「大倭」から好辞の「大和」に変えられると考えたのかもしれない。「大和」が「ヤマト」と読まれたいきさつも謎であるが、そう読む決断・決定がいずれかの時代になされたのであろう。そして古事記と日本書紀の編纂者は、「大倭」も「倭」も共に「ヤマト」と読むことに決めたのではないだろうか。これが記紀に「倭」の字を「これでもか」というぐらいに登場させた原因ではないであろうか。この点については、本章の第4節で触れる。

     

第2節 発音の再現は困難である

 

 読み方・発音と同様に、あるいはそれ以上に大事なのは、倭人や倭国というときの「倭」が倭人による自称であったのかという問題がある。まず、自ら文字をもって「倭」と名乗ることはなかったであろう。漢の時代から倭人が文字を操っていたとは考えにくいし、漢字を知っていれば、後に「雅(みやび)ではない」と分かる字を選ばないであろう。

それでは、文字は使わずに「い」という音で、自分たちの国名、または民族名を自己紹介したのであろうか。それは二つの点で困難であろう。「倭」とは国家名を漢風に一文字で表したものであろう。前漢や後漢の時代から倭国がそのような配慮が出来たのかは疑問である。倭国が漢風の国名を一文字で表すのは、南朝宋の時代のいわゆる「倭の五王、讃・珍・斉・興・武」の時代を待たなければならない。王名すら漢風の一文字であった。「倭」という一文字の国名の名付け方は、中国によるものであるという可能性が大きい。これが、第一である。

さらに、仮に倭国が何か国名を告げたとしても、中国がその音を正しく聞き、正しく文字に表現したという保証はない。例えば後の明(みん)の時代に「日本国」がマルコ・ポーロには「ジパング」と伝わっていた。すでに、日本人が文字を使っていた時代である。唐の時代に「日本国」は確立したのであるから、唐に漢字で日本国と伝わっていたはずである。ところが、「日本国」という文字は中国では「ジッパング」と読まれ、おそらく中国国内ではそのように読むのが伝統になっていたと思われる。もちろん、日本人は文字だけではなく「二ホンコク」、あるいは「ニッポンコク」という音とともに伝えていたはずである。しかし、中国人はもちろん漢字が読めるので、自己流に「ジッパング」と読んだ可能性がある。そこで、マルコ・ポーロに伝えられたのは「ジッパング」であっただろう。そこで、中国人には文字とともに発音でも「日本国(にほんこく)」と伝えたにもかかわらず、欧州人には「ジパング」として伝わっていったのである。

このような現象はよく起こる。例えば、フランス人が「パリParis」という文字と共に発音を示しても、ローマ字なので英語圏の人は「Paris」を自分で読める。だから、読めるように読んだ結果「パリス」になったのである。また、ドイツの「ミュンヘンMünchen」も同じである。英語圏では「ミューニック」になる。

反対のことも起こる。日本人は日常、ローマ字を使わない。だから日本では、フランスの首都は、フランス人が「パリ」と発音したとおりに「パリ」になり、「ミュンヘン」はドイツ人の発音通りになった。そして、英語の「Japan・ジャパン」はドイツでは「ヤーパン」と発音されることになったのである。

いずれにせよ、「にほんこく」は漢字が読める中国人の読み方に従って変更されて「ジッパング」として伝わり、マルコポーロは「ジパング」と聞き取り、現在の英語の「ジャパン」の始まりになっていく。「ジッパング」と「ジパング」と「ジャパン」との音のずれもかなり大きい。同じように倭国人が「い」に近い音を発したとしても、それを中国人が正しく聞き、正しく書き取ったかは疑問である。倭人が全く別の音を発したにもかかわらず、「い」と記された可能性すらある。

古代の異国間のコミュニケーションは特に困難であっただろう。文字と発音による交流がより密になった近代ですら様々な誤解、誤聴は起きてきた。「ソーイング・マシンmachine」が「ミシン」に、「スポッティ spotty」が犬の名前の「ポチ」に、「アメリカンAmerican・パウダー」が「メリケン粉」に「香港ホングコング」が「ホンコン」にという具合である。

邪馬台国、「ヤマタイコク」についても同様に考えてみる。倭人が中国で何と言ったかを復元することはおそらく不可能であろう。この時代、倭人が文字を見せて自国の名前を紹介した可能性は少ない。漢字を熟知していたなら、卑弥呼の「卑」、邪馬台国の「邪」などの卑字を使うはずがない、また使わせたくないであろう。仮に、倭人が女王の都を文字で示したとする。その文字で表記されたものが何であれ、中国の役人は、その文字についての中国の読み方を与え、さらにそれをその読みに近い卑字に変えたとしたら、復元は全く困難である。一度、中国人の読み方というフィルターを通してしまうと、さらにそれを同音の別の文字に置き換えられたりしたならば、倭人がもともと伝えた音とはかけ離れてしまうであろうし、もとの漢字が何であったのかなど推理、推測することさえ困難である。史書に文字として記録したのは中国人である。まして、漢字を見せて伝えず、単に音だけで伝えられたとしたらなおさら復元は困難である。固有名詞は特に困難であろう。

したがって、以上の問題点を考慮すると、邪馬台国をめぐる、過去の様々な議論は有意義であったかは疑問である。特に問題なのは、邪馬台国なら「ヤマト」とも読めるので、卑弥呼のいたところは大和であると語られることである。問題は、中国人が史書に残した文字を日本人がどう読めるかではない。歴史学者が漢字の知識を披瀝しあっても何も出てこない。解明すべきは、倭人がどのように発音し、それを中国人がどのように聞き取り、さらにそれをストレートな形で漢字表現したのか、あるいは少し屈折させて漢字に表したのかという問題なのである。したがって、そのような復元をするなどの作業は全く無理な要求である。しかも、「邪馬台国」は中国の史書の文字記録は「邪馬壹国」、あるいは「邪馬臺国」であった。「邪馬台国」に文字変換して議論することは大変に危ういことである。

さらに、邪馬台国の位置について、邪馬台(ヤマト)の「台」なら閉音だが、九州の山門(ヤマト)の「門」は開音の「ト」だ。だから、邪馬台国は九州の山門ではないというような議論もあったが、この種の議論は日本語の発音の議論をしているに過ぎない。問題は、開音か閉音かという微細な違いではない。日本人が伝えたものを、中国人がどう聞き、どう文字に表したか、その時に大きな変更が加えられなかったかどうかである。この種の議論からは建設的なものは何も生まれないであろう。「邪馬台国論争」は、この点でもあまり意味があったとは言えない。

 

 

第3節 「倭」は、自称ではない可能性

(1) 匈奴を手掛かりに

 

 以上、文字や音声から「倭」は日本人の自称ではなく、中国人が付けた名であるという可能性について述べてきた。さらにこれについて、「倭」は倭人の持つ何らかの特徴から中国人によってそう呼ばれたという可能性を探ってみたい。

倭奴、委奴は倭人の特徴からそう呼ばれた可能性は大きい。この点は古田武彦氏が指摘したことから始まった考察である。古田氏は、倭奴は匈奴との対照で呼ばれ、名づけられたものであるとする。「奴」は「人々」の卑字で「ヤツラ」。では、「倭」と「匈」はどんな意味を持つのであろうか。

 まず、匈奴から。匈奴という名で史書に文字に残したのは中国人である。胸に入れ墨をしていたので、この文字を採用したのではないかという説もある。「✕」が入れ墨を表す。「匈」とは「やかましい、かまびすしい、悪い、不吉なことの前触れ」などの意味を持つ。凶悪の凶の字も連想させる。中国人にとってのイメージから来たものである。

 匈奴と呼ばれた人々は、もともと北方騎馬民族で、紀元前から中国の領土に侵入し、略奪と殺戮を行ったと言われ、中国にとっては疫病神のような存在であった。「匈奴は野蛮で教養もなく、道徳観念も持たない民族だ」、「あいつらには匈奴という名がふさわしい」ということだったのかもしれない。秦の始皇帝(BC259~210)は、匈奴から自分たちの領土を守るために長城を築かなければならなかった。そして、その後の漢の時代に入っても各皇帝は長城を補強し、また延長していったため、万里の長城と呼ばれるまでの防御壁を築いたのである。「匈奴」と呼ばれた人々は自分たちの手で自分たちの歴史を残さなかった。彼らのことを知るためには、私たちは彼らと敵対した中国側の史書、『史記』や漢書などに頼るしかない。

特に、秦(BC777~207)の後半から後漢(AD25~220)の時代の間で、匈奴は中国との戦闘を続けている。互いに殺戮しあい、捕虜を取り合う。捕虜はすぐに処刑される場合もあるが、有能な武将などは生かされ、戦局を有利にするための人質となった者もいる。人質になった武将の中には、節を曲げずに一生を捕らわれの身となる者もいたが、中には匈奴の王族の娘などを妻として旧敵のために活躍する者も現れる。このような状況の中で、匈奴が最も強大な勢力を形成するのがBC209~BC31の頃であった。

匈奴は中国の武人から文字を習う機会もあったであろうし、代筆させることも可能であったであろう。冒頓単于(ぼくとつぜんう・BC209~BC174)のときに、前漢にあてた国書が残されている。「天地の生ずるところ、日月の置くところの匈奴大単于、敬しんで漢の皇帝に問う、恙なきや。」

漢文の正式な国書の書体のせいであろう、隋に対して「対等外交」で臨んだ阿毎多利思北弧の国書と似たものがある。しかし、冒頓単于のこの書は多利思北弧のものよりも一層、誇りの高いものになっている。まず、中国の皇帝を「天子」とは呼びかけていない。匈奴の皇帝に当たる「単于」に「大」の字も付している。そして何よりも、世界の中心が自分たちの居る場所なのだと宣言している。「我々は天地が誕生した場所にいるのだ」、「太陽や月も我々が支配しているのだ」という、高邁な精神を表明している。明らかに、世界の中心であることを誇っている中華思想の持主の中国に対して、対等外交以上の姿勢で、いわば「上から目線」で対することを宣言しているのである。

なぜ、匈奴の人々にこのような高邁な精神が生まれたのであろうか。この時点で、匈奴は前漢に対して軍事的に優位に立っていたことが一つの原因であろう。漢の側からみて「平城の恥」として知られる事態が起こる。前漢の部隊が匈奴軍によって危うく壊滅させられる事態が起こったのである。しかし、それだけではない。

彼らは騎馬遊牧民族として、漢民族とは異なる生活形態と独自の文化とを持っていた。彼らは遊牧を通じて中央アジアや東方ヨーロッパ世界の文明・文化と接する機会をもっていた。スキタイ族などから騎馬術を習得し、優れた馬の飼育を通して優れた狩猟民でもあり、また騎馬戦術にも長けていた。また、西方の国々から製鉄を始めとする金属器作成の技術を習得していた。このことによって、彼らは先進文明や先端技術を中国に依拠することなく、独自の文化を持ち、武術に秀でた勇猛果敢な誇り高い民になっていた。戦闘においては鉄器は銅器に勝る。この点では、先端技術や先進文化の大部分を中国や朝鮮半島に依存していた「倭奴」の民とは大きな違いがあった。

 したがって、彼らには中国から何かを学ぶという必要はそれほどなかったであろう。ましてや中国に「朝貢」するなどは論外であった。おそらく、中国に侵攻したのは中国人の貯えた財宝や農産物などを求め、さらに中国人を奴隷として捕獲することにあったであろう。「匈」とは「たけだけしい、不吉なことを予感させる奴ら」というのが中国側からのとらえ方であった。また、匈奴と呼ばれた人々が「キョウ」という音や、「キョウ」に近い音で自分を呼んだということは考えにくい。

 

 

(2) 倭奴は匈奴と対照的な民族

倭の意味について

 

 これに対して「倭」は、もともとは女性の「なよなよとした姿、弱々しいさま、柔順なさま」を表していた。また「背が低い」という意味を持つ。倭奴もやはり中国から見た民族の特徴を描写したものではないだろうか。

中国が匈奴と戦闘を繰り返していた時代に自ら進んで中国に朝貢に来た。その最初は、漢書・地理史によると、紀元前1世紀のことである。しかも倭人は遠路はるばる大海の山島からやって来た。さらに、後漢の時代の57年、倭国は例の金印を賜ったわけだが、その時の姿勢は朝貢であり、大漢に臣従の姿勢を示したものであった。漢から見て、従順で腰が低い人々であったのであろう。その倭人の姿勢が「倭」のイメージに合致したのだと思われる。また匈奴は、一説によるとコーカソイド(白人種)であった可能性が指摘されている。ノイン・ウラというところから発掘された匈奴のものと思われる墓から見つかった骨から、そう判定されたというものである。すると、モンゴロイドの倭奴は匈奴に比べて背も低かったのかもしれない。

以上から、「倭」はまさに列島人の特徴を中国の視点で表現したものだったと言えるであろう。倭人と呼ばれた人々も、「イ」という音で自己紹介したということも考えにくいことである。倭人は、中国の側からみなしうるその特徴から、「倭」と名付けられたと考えるほうが合理的である。

現代の日本人的な感覚からすると、倭人の特徴である「腰が低い」、「謙虚である、尊大・傲慢ではない」ということは必ずしも否定的な意味を持ってはいない。むしろ美徳と考える人も多いだろう。ただし、権力を持つ者に「媚へつらう姿」は見たくないものである。また、上に立つ者ほど「腰が低い」ことが望まれる。

 

 

(3) 文字を残さなかった民族

 

 先に引用した冒頓単于の国書に戻る。この書には、その誇り高さにふさわしくない言葉がある。「匈奴大単于」の匈奴である。中国の史書、史記や漢書の素の文に書かれたものではなく、単于が自ら書いたとされる国書の中にあるのだ。「匈」も「奴」も卑字である。蔑まれた語である。誇り高い民族の使う言葉であろうか。

 彼らは自分達の母語を文字で表記する、史書を表すなどのことはしていなかった。おそらく、中国との国書のやり取りのために漢文を読み書きすることはできていたであろう。捕らえた漢人の中で、帰順した者から漢文を習うことはできる。そして、「匈奴」の持つ意味も理解していたに違いない。では、なぜ彼らの国書に「匈奴」の文字が残されているのであろうか。

 それは、漢民族が史書を残した者の強みを発揮していたからであろう。騎馬民族の民が国書でどのように自分たちを表現しようとも、漢民族にとっては「匈奴」として記すことで共通の理解ができるということであったのであろう。

もう一つ、匈奴から漢に対する別の国書がある。BC89年に弧鹿姑単于(こかこぜんう)が漢の武帝に送ったものだ。

「南には大漢があり、北には強胡(きょうこ)がある。胡は天下の驕子である。」

この書にみられる「胡」が彼らの自称であったのだろうか。ここでは「匈奴」とは表現されていなかった。

「胡」は「胡瓜」、「胡麻」、「胡椒」などに使われるが、漢民族にとっては、西方や北方の異国や異国のものを指す言葉であったようだ。遡ること春秋戦国時代や秦の時代には、匈奴より東にいた遊牧民族は「東胡」、西にいた者たちは「西胡」と呼ばれた。明らかに、東の異民族、西の異民族という響きがある。とても自称ではなさそうである。文字で自己表現をしていなかった民族・国家の悲しさである。「胡」も中国の史書では書き換えられている可能性があることは否定できない。そして、中国の史書では、「胡」のほうが「匈奴」より外延は広そうであるが、両者の関係については定かではない。しかし、中国では「胡」よりも「匈奴」のほうが一般的な呼び名となっている。かくして、彼らは「匈奴」として中国の史書に名を残すことになった。

 「倭奴」、「倭人」、「倭国」も「匈奴」と同様であったろう。中華思想に立つ漢民族が蛮夷の国や民族をどう名付け史書に残すかは中国側の意図次第である。匈奴といえば、あの連中だ、倭奴といえば、あの連中だという共通認識が、中国人の中で成り立てばよいのである。文字をもたなかった時代に起こる悲しい事態である。

 ここで一言付け加えると、「匈奴」の文字は南北朝以降の史書にはほぼ登場しなくなった。

なぜならば、「匈奴」自身が北朝・隋・唐の王権の中核を担うようになったのだから、屈辱的な「匈奴」が使われなくなるのも当然であろう。我々こそ漢の正統な後継者であるという自負で北史、隋書、唐書を作成していったのである。

 これと類似する問題が日本古代史にも起こっている。ヤマト朝廷が残した史書類は、朝廷に抵抗し、帰順しない人々を「服はぬ民(まつろわぬたみ)」と呼ぶ。そして、「熊襲」や特に「蝦夷」との争いなどが記録されている。ヤマト朝廷が中国を真似て「小・中華」の立場に立ち、支配に服さない人々を「熊襲」、「蝦夷」と名付けたのである。「熊襲」、「蝦夷」という呼び名は、そう呼ばれた人々の自称ということはできない。また、彼らが「服わぬ」人々であった証拠もない。むしろ、ヤマト朝廷が支配地域を拡大するときに彼らの生活領域に侵入し戦闘を仕掛けていったのである。この問題はさらに検討されなければならないであろう。特に、続紀の蝦夷との戦いの記録は、ヤマト朝廷の蝦夷の居住区への侵攻の歴史を描いている。ここでは、文字を残さなかった人々が文字を残した人々によって都合の良いように、そして文字を残さなかった人々にとっては不本意な形で記録されてきたことを指摘しておくことにとどめたい。

すでに私たちは、「熊襲」、「蝦夷」と聞き、また読むことで悲しいかな一種、共通のイメージを持ち、共通の理解ができてしまう。そのように習い、慣らされてきてしまった。熊襲、蝦夷を成敗したことでヤマトタケルは英雄として持ち上げられ、征夷大将軍の坂上田村麻呂を英雄視する心理、これらはどこから生まれてくるのだろうか。私たち自身が「熊襲」、「蝦夷」との血のつながりがある可能性が高いにもかかわらず。他方では、熊襲、蝦夷とは民族的な差異とは別に、ヤマト朝廷に「服わぬ」という政治的な意味のレッテル張りであったという可能性もある。両面を見ていく必要があるだろう。

 

 

(4) 「匈」も「倭」も中国による呼び名である

 

 私たちは、「匈奴」、「倭奴」を見れば、当然のことながら二文字と考える。しかし、先にも述べたように「奴」は「人々、奴ら」という意味だとすれば、民族名とか国名という部分は「匈」、「倭」というように一文字である。これは漢風式の呼び名である。このことからも、「匈」、「倭」という名前が自称ではなく、中国による他称である可能性を考慮しなければいけないだろう。

「倭」の五王の「讃」、「珍」、「斉」、「興」、「武」の場合には、倭国が漢風式になじんだ時代であるので、これは自称であるのかもしれないが、逆にこれらも自称ではなく他称ということも考えられる。どちらにしても、これらは漢風式の一文字表記に他ならない。「匈」も「倭」も漢風一文字であった。また、与も、邪馬国の与という一文字表記であったかもしれない。

 

第4節 古事記における「倭」、日本書紀における「倭」と「日本」

 

 「匈奴」と呼ばれた人々は、秦や漢の帝国に媚びることなく高圧姿勢で臨み、戦闘をも辞さなかった。中国の王権にとっては「たけだけしい、不吉な」存在であった。よって、「匈奴」と呼んだ。他方、「倭奴」と呼ばれた人々は、漢の王権に対して「従順で、腰の低い」とうイメージで描かれ、そこで「倭奴」と名付けられた。「匈奴」と「倭奴」は中国にとって対極の意味を持つものとして中国によって名付けられた名前であったと言えるであろう。

 ところで、倭は中国の史書で残された列島人の名称であったが、実際には、「倭」という文字が最も数多く残される書物は古事記であり、次に多いのが日本書紀なのである。「倭」という文字が、ある意味で異常なほど数多く出てくる。まるで「倭」は自分たちで名付けたものであるかのように。古事記、日本書紀の読者は「倭」の字の多さに気付いていることであろう。では、「倭」の字がかくも頻出する理由は何なのであろうか。

 古事記における「倭」について見てみよう。地名と、特に人名に「倭」または「大倭」は多い。そして読み方はことごとく「やまと」である。代表的なものを挙げると、大倭秋津洲国(やまとあきつしまのくに)、神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、倭建尊(やまとたけるのみこと)、倭彦尊(やまとひこのみこと)、倭姫尊(やまとひめのみこと)など。その他にも「倭」は、「これでもか」というぐらい登場する。「やまと」と読ませながらも、「倭」の字を使わない唯一の例外が「夜麻登(やまと)」である。崇神天皇の叔母と言われる「夜麻登トトヒモモソヒメ」の名に使われている。本居宣長によると、「ヤマト」の起こりは「夜麻登」であったと言われている(注)。

(注)「國號考」宣長全集第八巻、P464

 

中国の史書類で、例えば漢の都や、皇帝の名、王子や姫の名に「漢」をつけることはない。三国の魏の時代に、首都や王族の名に、いちいち「魏」を冠することはない。古事記における「倭」の字の多さはなぜであろうか。日本の史書の伝統とでもいうのだろうか。

 これに対して、日本書紀ではおよそ半々で「倭」と「日本」が登場し、ともに「やまと」と読ませている。つまり、古事記で「倭」であった名が、一部「日本」に変えられているのである。大日本秋津洲国(やまとあきつしまのくに)、神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)のように、日本国全体を表す大日本秋津洲国や天皇とそれに近い位置にある重要人物に「日本」を冠している。天皇に倭は使われていない。これに対して、その他の地名や、倭彦尊、倭姫尊など皇子や姫皇子は「倭」の字のままであり、変更されていない。これらは、統計などを取ったわけではないが、倭と日本が半々になっている。

これまでのことから分かることは、日本書記では「倭」よりも「日本」のほうが高い格付けがされているということである。つまり、書記では「日本」の格が一段高く、反対に「倭」は格下げされたことになると言えないだろうか。これはなぜであろう。宣長は、残念ながら、この点には注目していない。

 

 

5. 最後に

「倭」をめぐる記紀編纂者、不比等の意図

 

 後に、第八章「旧唐書と新唐書に間」でも述べることと重複する部分も出てくるが、以上の疑問点について考えてみよう。670年の時点で日本国、つまり後のヤマト朝廷は「倭」が雅(みやび)ではないと主張し、国名を日本国に変えた経緯がある。古事記の編纂は712年、日本書紀の編纂は720年であったのにも関わらず、なぜ両書が雅でない名前に執着したのかと問い直してもいい。

 それは、記紀編纂者たちの焦りの表れであったのではなかろうか。ヤマトの王権は中国との国交においては後進国なのである。旧・新唐書に両方に見られるように、中国が日本国の胎動を感知したのは670年のことである。九州の倭国が前漢に遣使し倭国と記されたのが、およそ800年前のBC1世紀。すでに、倭国、委(倭)奴国、倭人などとして中国の史書に書かれている。もはや、「倭」は列島人から切り離すことができない。「万世一系の天皇家」を主張するためには「倭」は我々のことだと主張する必要がある。「倭」を自分たちに取り込む必要がある。それは何をするにしても大前提となる。古事記に「倭」が多いのは自分たちが過去から一貫して「倭」であったことを打ち出そうという意思の表れではなかったか。この地名にも「倭」、あの地名にも「倭」、この人にも「倭」、あの人にも「倭」、私たちは「倭」から切り離せないという意思表示をしよう。そう決断したのではないか。

 よって、先にも触れたように奇妙な事態が起こる。中国の史書でいえば、隋書の中でこの地名にも隋、あの人にも隋を冠する、唐書の中でその地名にも唐、どの人にも唐を冠するなどのような事態だ。そのような史書は古代日本以外には全く存在しないであろう。「倭」がこれでもかとアピールされている古事記、「日本」と「倭」がこれでもかというほど登場する日本書紀がいかに異常かについて、記紀信奉者は沈黙している。それが「当たり前だ」と思っていたなら、感覚が麻痺してしまっているとしか考えられない。「沈黙は金」ということであろうか。

 さらに、古事記に一つも「日本」が現れないこともまた、不思議なことである。712年に完成した古事記の筆者は「倭」から「日本」に変えられたことを、当然のことながら知っている。記紀の編纂者によって、古事記に「日本」が使われなかったことにも理由があるのではないだろうか。つまり、そこには「倭」が「日本」に変わったことを劇的に示そうという意図が感じられるのである。日本書紀に「日本……」が初めて登場するが、天皇の名前などが「倭」から「日本」に変えられたのがそのことを示している。そして、注目すべきことは、「日本」が「倭」よりも一段格上だという様相を呈していることであった。古い時代の「倭」と新時代の「日本」は不可分不離のものであるということ、そしてさらに、九州「倭国」を併合したヤマト朝廷である「日本国」のほうがより格上だということが表明されているのであろう。

ところで、愛国者であるはずの宣長は「倭」の意味についてそれほど屈辱的には感じていないらしい。あるいは、そう感じないようにしていると言うべきであろうか。「倭」が中国に名付けられた名だと紹介し、「柔順」という意味だと比較的に穏当に解釈しているに過ぎない(注)。宣長は、もとは「夜麻登」であったものが、かなり古より「倭」の字を使うことになったと簡単に述べるにとどめている。後に、唐書で倭が雅ではないと名を変えた日本国、ヤマト朝廷ほどの鋭敏さを「倭」の文字に対して示さなかった。これはなぜであろうか。

    (注)「國號考」、P463

 

宣長といえば、倭国が中国に「朝貢」に出向いたということには敏感に反応して、「朝貢」に出向いた者たちはヤマト朝廷の名をかたったものに過ぎないと、ヤマト王権の「朝貢」外交の存在を認めようとしなかった。それにもかかわらず、「中国に対する朝貢姿勢」と結びつく「倭」、つまり宣長にとっては屈辱的なはずの名前である「倭」、これについてはほぼ素通りして容認している。その理由は、彼が特に愛した古事記に、そして敬愛すべき皇尊の名などにあまりにも数多くの「倭」が使われ、さらに日本書紀にも「倭」の字を冠する人名・地名が次から次に出てくるからである。「倭」の字の屈辱さ・卑屈さを問題視し始めると収拾がつかなくなる、古事記、日本書紀をもとに、誇りをもって論ずることができなくなると悟っていたからであろう。取り去ることができないほどまでに「倭」が記紀の中で存在感を示しているのである。宣長は不比等の策略の前に辟易としていたのではないだろうか。

 

 

 

第3項  舒明紀から孝徳紀までの古田氏の見解   

 

①高表仁、唐からの遣使者

 

 古代の真実の像を浮かび上がらせる、そのためには日本書紀の歴史像、特にその対中国国交史は疑われなければならない。この見地から、日本書紀に対する懐疑がどれだけ貫き通せるのかを縷々述べてきた。古田氏の強力な日本書紀の一部擁護の議論に対抗する形で述べてきたが、今回は舒明紀の解釈の仕方についてである。推古紀のところでは、氏は推古紀の記述では「隋書に矛盾しない」という形でやや消極的な語り口であった。しかし舒明紀では、先の引用箇所を再録することになるが、氏は一歩進めてはっきりと述べていた。「たしかに高表仁は近畿大和に向かったのであろう。その点、舒明紀の記事にいつわりはない。」 (『失われた九州王朝』P.354) より積極的な語り口で書記の記述を支持していた。舒明紀の記事には「いつわりがない」のであろうか。古田氏のこの見解が成り立つか否かを検討してみよう。

 隋が滅びた後の王権である唐もまた鮮卑・匈奴の王権であった。隋が滅びたのが618年。九州倭国から唐への遣使は唐の第二代皇帝、太宗(在位:627~649)貞観五年、631年に初めて行われた。倭国の唐に対する姿勢はどのようなものであったのだろうか。

 

旧唐書にこう記されている。

 

貞観五年、倭国の遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅使で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史(しんしゅうしし・州の長官)の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。 【旧唐書 引用A】傍線は引用者

 さらに、

貞観二十二年648年、また新羅に付いて表を奉し、もって日常の音信を通じた。 【旧唐書 引用B】傍線は引用者

 

 上の【旧唐書 引用A】から分かることを見てみよう。高表仁に倭国を「慰撫させた」とある。唐突に「慰撫」と書かれている。「慰撫」とは、怒りや不安を持つ人を宥めて慰める、平安な気持ちにさせることである。唐書には互いの国書が載っていない。両国の関係が理解できるようなこともこの「慰撫」の他には書かれていない。しかし、明らかに倭国は唐に対して不穏なものを持っていたのである。それは、怒りであるかもしれない、あるいは敵愾心、反抗心であるのかもしれない。あるいは少なくとも、何かで「腹に一物持っていた」のである。それは隋の裴世清が倭国に送られてきたときの状況と似通っていたと思われる。隋の裴世清と唐の高表仁が倭国に派遣された事態は同じ脈絡の中で理解できるし、また理解しなければいけないのではないだろうか。倭国は唐に対しても朝貢姿勢は取らず「対等外交」、あるいはそれ以上の強硬姿勢を示していた可能性がある。そこで唐は倭国を「慰撫」しなければならなくなる。倭国の外交姿勢に不穏なものを感じ、不安を抱き、高表仁を倭国に遣使する。隋の時代の裴世清と同様に。

 したがって、「礼を争う」も単に個人的で日常的な儀礼上の問題ではなく、国と国との関係をめぐる「礼」であったと考えることができる。唐は、唐に対する「朝貢国」としての「礼」を倭国に求めた可能性が高い。また王子との「争い」の原因が倭国を説得する上での高表仁の個人的な才覚の欠如であるかのように書かれ、また一般的にそのように解釈されているが、果たしてそうであろうか。おそらく倭国の態度は唐にとっては屈辱的なものであって、むしろとても史書には書き残せないものであったと推測できる。例えば、「北狄に朝貢は出来ない」という倭国の姿勢が示され、またそのような発言が実際になされたのかもしれない。あるいは、漢民族の南朝の王権が滅びた段階で、その正当な王権を引き継ぐべき王権は、「北狄」の隋・唐ではなく、漢の時代から友好的な関係を築いてきた我々、倭国である。我々こそ南朝の正当な天子を受け継ぐにふさわしい王権である、と。そのような主張すらなされたのかもしれない。唐書には両国の国書や発言内容が一切、記載されていないため想像で補う他はない。しかし唐書に両国の国書がないということが逆に、事の深刻さを表している可能性があるだろう。古田氏の先に引用した鋭い指摘を再録してみよう。

「北狄の王朝」たる「隋」が中国全土の唯一の天子たることを誇示したとき、東夷なる倭王が、「俀」を称し、みずから「日出ずる処の天子」と名乗った、その背景も理解されよう。同じく夷蛮出身の「天子」として、「隋」と「俀」とを対等の位置に置こうとしたのである。 『失われた九州王朝』P.316~317

 

 これは隋に対するものであったが、唐に対するものとしても当てはまることなのである。「北狄の王朝」は隋だけでなく、それを引き継いだ唐もそうであったということ、その点は軽く見ることはできないであろう。定説も含めて、一般に倭国・俀国の「対等外交」は隋の時代のみの特徴として語られる。しかし、唐も「北狄の王朝」であった。倭国・俀国が唐の時代になってその対中国の態度を転換させたとは考えられない。唐と倭国の関係も、文字としての記録が明確に残されていなくてもこの文脈で考える必要がある。

 ところで、書かれていないことが意味を持つなどということがあるのだろうか。

ここでは意味があると考えられる。高表仁の遣使は中国からの遣使の三回目であった。卑弥呼の時代(一回と数えている)、裴世清、そして高表仁。前二回も倭国・俀国が遣使をした直後に中国から送られた遣使であった。両国の間に何か急を要する懸案が生じていたのである。今回も唐の史書で見る限り、倭国が遣使した後に高表仁の遣使が行われている。この直前の倭国からの遣使が唐にとって重大な問題を引き起こしていたのであろう。そして663年に白村江戦である。倭国が敗戦に追い込まれて以降、唐からの遣使は皆無である。倭国からの正式な遣使も途絶えてしまう。倭国は敗戦で弱体化し、さらに滅びていったからである。

そして703年に日本国が公式な粟田真人らの遣使団を送ることになる。この後は中国からの公式な遣使記事は無い。この意味は日中間の、ある意味、平和の時代だからだと言えるであろう。倭国が歴史の後継に退いた後のヤマト王権、ヤマト朝廷は「朝貢」姿勢を貫く「安心・安全」な国になっていた。もはや唐側から遣使する理由もなくなった、ということであろう。ということは反対に、高表仁の遣使は倭国と唐の間に何かのっぴきならぬ空気が漂っていた、あるいは両国間には暗雲が垂れ込めていた、それを察知した中国の機敏な対応が行われたと言えるであろう。

 だからこそ、高表仁の来訪記事では何の前提もなく、いきなり倭国を「慰撫」すると書かれていたのではないか。この点にやはり尋常ではないものを私は感じる。この点は注目すべきことである。このように書く唐書は、倭国が唐に対してどのような態度で臨み、また何と発言したのかを記述するべきであった。書いてほしかった。そして、書かれなかったことに真実がある、あるいはむしろ何事かを語っている。唐にとって書くことができない、先にも触れたように、何か唐の体面が保てなくなるような屈辱的な事態が倭国との間に起こっていたと推測させるものである。

両国間の疎遠さ、冷えた関係は、【旧唐書 引用B】、貞観二十二年648年の旧唐書、倭国伝の最後の記述にも現れている。先の唐書の引用の後半では、倭国は「新羅に付いて表を奉し」とあるが、これは倭国が国書だけを新羅の遣使者に託したとも取れるし、新羅の遣使者に付随して倭国の使者が国書を持参したともとれる。どちらにしても、倭国は唐に対して独自に積極外交を行おうとはしていない様子がうかがえる。その後の白村江戦の前触れを予感させる何かが唐書からはうかがえるのである。つまり、隋書の裴世清も、唐書の高表仁も、倭国と唐が白村江で一戦を交えるまで進んでいく脈絡の中で理解されるべきであるというのが私の見解である。先の隋書における俀国と帝紀の倭国が同じ国のことであり、短期間に立て続けに遣使したと読み取ることもできる。両国の緊張関係を背景にして起こったことと考えられないであろうか。

 

 

② 高表仁と難波、古田氏の理解

 

 これに対して、旧唐書と舒明紀の両書において記述された高表仁についての古田氏の評価はどうであろうか。『失われた九州王朝』P.352~355における氏の主張はおおよそ次のようである。

旧唐書では貞観五年(631年)には、【旧唐書 引用A】にあるように高表仁は「王子と礼を争う」のに対して、舒明紀四年(632年)八月に、表仁は争わないどころか歓迎を受け、表仁によってその後謝意が表明されていた。そして、「すこぶる仲むつまじい」雰囲気の中で表仁は舒明五年(633年)に対馬経由で帰国の途についている。旧唐書と舒明紀の高表仁に対する受け入れ方の違いから、倭国とは別国の王権の存在だった。

以上が古田氏の見解である。

(参考のため、唐書、書記、西暦の年代についての対応関係を示しておく。

貞観五年=舒明三年=631年、舒明四年=632年、舒明五年=633年)

 

 ここから古田氏は次のように結論づけている。

 また、両者年代も食い違っている。高表仁が倭国(多利思北弧の後裔の王朝)に使いしたのは、舒明三年だ。これに対して、高表仁が再び日本列島におもむき、近畿大和に至ったのは、舒明四年の八月なのである。つまり、高表仁は倭国の伝統的な王朝に使いして不和に終り、かわって翌年、その東の新興の王家たる天皇家に使いし、今度は友誼を結ぶのに成功しているのだ。 

『失われた九州王朝』P.354~355

 

 まず、下線部は中国の史書に記載がない。日本書紀のみに記述されていることであり、その内容については私は疑っているが、それを論証することはできない。つまりここでは、舒明朝が書記に書かれているように存在していたとして、その王朝が唐と遣使関係を結んでいなかったと、直接的な形では論証はできない。

 しかしながら、古田氏が舒明朝の時点で唐と遣使のやり取りをすると主張することは、再び氏自身の中で自己矛盾をきたすのである。氏の自己矛盾を通して、私は間接的かつ消極的にではあるが、舒明紀の遣使があったという点について疑えるのではないかと考えている。それは、孝徳紀についての氏の見解にもかかわるので、引き続き孝徳紀についての古田氏の考え方を見る必要がある。

 

③ 推古紀から孝徳紀にかけての問題と「古田氏の自己矛盾2

 

 二番目の古田氏の自己矛盾とは簡潔に言えば、中国がいつの時点でヤマトの王権の存在を認識したのかという問題にかかわる。すでに推古朝は「ヤマト倭国」としてその存在を知られ、正史の隋書帝紀に「倭国」として記録されていたというのが古田氏の立場であった。そして、さらに舒明朝も中国の史書に記録されていなくても唐に遣使を行っていたというのも先に見てきた。当然、ヤマト王権である推古朝も舒明朝も共に中国に認識されていたことになる。孝徳朝が始まる前のヤマトの王権が二代にわたって、その存在がすでに中国に認識されていた、これが古田氏の見解であった。

ところが書紀によればではあるが、孝徳紀における記述内容を信ずる限りでは、ヤマト王権が中国と国交関係を結んだのは、孝徳朝が初めてではないかという記述がなされていた。そして、古田氏自身も孝徳朝がヤマト王権、後の日本国の初めての遣使だと語っているのである。これが「氏の自己矛盾2」である。どういうことであろうか。

 まず、孝徳朝が唐に遣使したとされる記事である。日本書紀によると、孝徳紀五年二月に高向史玄理らが長安で高宗帝に拝謁したとされる。そのときの高宗帝とのやりとりであった。高宗帝(在位649~683)から質問を受け、それに対して応答する。

詳しく日本の地理と国初の神の名を尋ねた。皆、問に対して答えた 孝徳紀五年二月 

 

 これについて、古田氏は次のように語っている。この孝徳紀五年二月の記事は、    『旧唐書』日本国伝のはじめに記載された「或は曰う」「或は云う」「又曰う」として記された国号・歴史・地理の資料基礎があらわれている。そしてこのとき、例の「其の人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対えず、故に中国焉れを疑う」という、唐朝側の第一回の判断もまた、生まれたものと思われる。このように、『旧唐書』の記載は、『日本書紀』の記載と密に呼応し、唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている。 

『失われた九州王朝』P.370~371 下線は引用者

 

 唐書における日本国とはヤマト王権、後のヤマト朝廷のことであるが、書紀では高向史玄理らが唐の高宗帝に日本の地理や神の名を尋ねられている。今さら日本の地理とか神の名、おそらく王の名も含むであろうが、これらを尋ねられるとはどういうことであろうか。まるで初対面の挨拶のレベルではないか。すると、すでに中国と国交を結んでいたはずの推古朝や舒明朝は、自国の地理的状況や歴代の王の名すら中国に示していなかったのであろうか。逆に言えば、隋や唐は、ヤマトの王権の所在地や王権の由来などを尋ねることもないままにヤマト王権と面会し、交渉をしていたのであろうか。それは極めて不自然である。

 ここで、古田氏が孝徳紀の遣使によって、「唐朝側の第一回の判断もまた、生まれた」、さらに「唐朝と日本国との交渉の黎明期を告げている」と語るということは、孝徳紀が中国に認識された最初であると述べていることに他ならない。ということは、古田氏が先に述べていた推古紀、舒明紀のヤマト王権による中国との遣使関係とか国交は無かったと判断できるのではなかろうか。氏は、推古朝に至っては唐書帝紀という正史に記載さえされていたと語ったはずである。これらを私は「古田氏の自己矛盾2」と呼びたい。したがって、推古紀、舒明紀における遣使記事について、ヤマト王権側の遣使関係が中国の史書と対照して推古紀には「矛盾が無い」、「舒明紀の記事にいつわりはない」と結論付けることはできなかったことになる。

 私は孝徳紀の問題については次のように考えている。古田氏も述べるように、孝徳紀は日本国と唐側が初めて対面した670年(咸亨(かんこう)元年)、新唐書・唐会要に記載)の事態を反映している、と。もちろん、孝徳紀では時代が十数年繰り上げされている。「時間ずらしという造作」と言えるだろう。ちなみに、高宗帝(649~683)は長期政権なので孝徳紀(645~654)の時代も、さらに670年も高宗帝の時代に含まれている。いずれにしても、670年にヤマト王権は中国に初めて遣使して、自国について紹介をした。それが孝徳朝であったか否かは不明だが、いずれにせよヤマト王権の関係者が、自国の地理を説明した。その内容が九州倭国の地理的位置とは違う上、倭国の時代よりかなり広大な地域を領土としていると中国には感じられた。また、同じ日本列島から来たわけだから、当然、倭国との関係も尋ねられたであろう。さらに、神の名、あるいは歴代の王の名なども尋ねられる。これらに対して、その時点で適切かつ明快に応答できなかったであろうと想像できる。第八章「旧唐書と新唐書の間」でも詳論するが、ヤマト王権、後の日本国の来訪者が語ることは、唐により「疑われて」いたのである。

 まず、歴代の天皇名は700年代の後半に作成された漢風諡号である。淡海三船が762年~768年にかけて作成したものが始まりであると言われている。670年という時代には、天皇の名はもちろん存在しない。さらに、天皇名どころか王の名前すら回答、即答する準備もできていなかった可能性は大いにある。そこで、黎明期の日本国の唐訪問者はあいまいな返事をする、またときにはシドロモドロになり、この点でも中国に「疑われる」原因になった可能性がある。

 しかし、とは言っても、670年の遣使をきっかけにして、ヤマトの王権は「歴代の王の名前、そして天皇の名前とその系統」を回答する準備を始めたのではないだろうか。このことが古事記、日本書紀作成の一つの動機になったと考えられる。自国の歴史などについても文書として作成しなくてはならない、という自覚も生まれたのではないだろうか。そしてその後、新唐書日本伝に初めて日本国の歴代の天皇名が記述されることになったのである。670年はヤマトの王権、後のヤマト朝廷の胎動が中国に感知された最初であったというのが私の見解である。そして、私のこのような視点を確立する際に私が最も参考にしたのが古田氏による旧唐書についての研究であったことは付言しておきたい。

 

 

第4項  日本書紀における高表仁の加筆はいかに行われたのか

 

 次いで解明しておかなければいけない問題がある。これは私にとっても一つの謎なのである。つまり、旧唐書は945年に書かれた。そして、唐の高表仁は九州倭国に遣使したのである。したがって高表仁の遣使はヤマトに存在したことになっている「舒明朝」が体験した出来事ではなかった。それでは、なぜ不比等は唐から派遣された高表仁のことを720年に完成する日本書紀の「舒明紀」に書けたのであろうか。

というのも、書記の編纂者たちは中国の史書のうち、636年に完成した隋書までは見ることができた。不比等らは隋書を見ながら裴世清のことを書くことはできる。しかし、これに対して、旧唐書が書かれたのは945年であったので、不比等らは旧唐書を目にしていない。どうして唐から九州倭国に派遣された高表仁のことが書けたのであろうか。

 一つの可能性としては、日本国が670年から唐と非公式、あるいは公式の接触を開始する。703年、713年に遣唐使も送った。それらいずれかの時点で、唐の側から高表仁の名や役割が語られたのかもしれない。この場合、高表仁についての情報は日本国にとっては初耳のことであり、それについては応答するのにとまどい、不適切な対応もしたことであろう。しどろもどろであったのかもしれない。とうが日本国の言うことを「疑う」一つの原因になったかもしれない。とはいえ、日本国は高表仁の遣使についてはこのときに知識を得ることになる。そうであれば、日本書紀に高表仁のことは書ける。

 そして、もう一つ考えられることは、例の「禁書」の中に九州倭国の中国との国交の記録などあり、そこに唐からの遣使者として高表仁の記載があったという可能性である。そうであれば、その記載事項を見ながら、日本書記は高表仁について記述できるであろう。高表仁の「難波」訪問も作文できた可能性がある。

 以上が生じうる謎に対する私の応えである。

 

 

 

 

 

推古紀そして舒明紀・孝徳紀を再び検討する

 

 

第1節  古田武彦氏への疑問点から書記外交史を考察する

—-『失われた九州王朝』を中心に

 

  私が古代史に関心を持ち始めてから最も影響を受けたのが古田武彦氏であった。今も様々な点で、例えば、中国の史書を第一次資料として重視する研究の方法、史資料について安易な文字の改定を行わない研究の姿勢、卑弥呼が九州の女王であり、倭国がヤマトではなく九州であるという氏による歴史高宗、帰結などについて共感するところが多々ある。全体として氏は私の古代史研究の重要な先達であることをあらかじめ表明しておきたい。

 氏から学んだもう一つのことは、研究の視点というか、あるいは視線といえるだろうか。同じ『失われた九州王朝』の最終章、最終節の言葉には特に感銘を覚えた記憶がある。氏は言う。

 九州王朝はなぜ滅びたか。白村江の敗戦が原因ではない。それは結末である。では、何が本当の原因であろう。それはほかでもない。四世紀より七世紀まで、朝鮮半島に大軍を送りつづけたこと。あるいは半島内の支配権を主張し、あるいは半島内の一角に拠点を確保し続けようとしたこと。そして、何よりも朝鮮半島内人民の怨嗟の声と武器の支配を対立させていたことーーーそれが真の原因である。朝鮮半島の一国と同盟していたとか、その権力者から出兵を要請されたとか、そんなことはすべて無意味だ。どんなにもっともらしい理由があるにせよ、他国の領域に武力を行使し、それによって長期間影響力をもちつづけようとする大国は、すべて滅び去るほかない。---それが歴史の鉄則だ。外に対する圧力は、必然的に内部の腐敗と矛盾を招き、ついにはみずからの基盤を掘りくずしてしまう。九州王朝は、みずからの全歴史をもって、この真理を実証し終わったのである。

  古田武彦 『失われた九州王朝』角川文庫(昭和六十一年) P.546~547

  以下、同書からの引用は『九州王朝』と略す

 

 ここには歴史を王者の側からだけでなく、一般の人々、そして被抑圧者の側からも見なければならないという視点が表明されている。

 一般に、記紀を含めた歴史とは勝者の歴史、支配の歴史、「支配者にとって都合の良い」歴史である。しかし、これに対して氏の視線は優しく温かい。争いの少ない社会に生き、自由に航海し、他地域と交易するのびやかな縄文人たちの姿を探求しようとする試み。万葉歌の中に人々の暮らしや、歓びと悲しみを探ろうとするさいの視線。蝦夷を「まつろわぬ民(服従しない人々)」と位置付ける記紀の立場とは異なる視点など。限られた史資料の中で可能な限り真実の民衆の歴史を復元する試み、これは手放してはならない視点であると考えられる。

 

 しかし他面では、いくつかの点で私は氏とは異なる見解を持っていることも事実である。この論考では古田氏への疑問と批判を述べることになる。今回は主に、氏の『失われた九州王朝』が題材になる。今回のテーマの中心は権力の所在などをめぐるもので、このテーマでの古田氏の見解とその論証方法を批判することになる。古田氏は日本書紀と中国の史書の記述から、推古紀、舒明紀、孝徳紀などの遣使記事を承認し、そのことを通して書記の「正しさ」を論証しようとしている。私は、ヤマト王権(701年より前のヤマトの勢力)による中国への遣使記事をことごとく疑っている。日本書紀に記述された対中国外交史に対する絶対的懐疑の立場である。古田氏との見解の相違は、最大の問題としてはこの点にある。

 

 

第1項  邪馬台国とともに、邪馬大倭国、邪馬俀国はなかった

 

 ところで、まず最初に私の古田氏に対する疑問の中では小さい問題から取り上げる。小さいが、一番長く私の心に引っかかっている問題である。簡単に言えば、「邪馬(いち)国=邪馬()国=邪馬大倭(たいい)国=邪馬(たい)国=邪馬(たい)国」の図式が成り立つのか、という問題である。あるいは、邪馬壹国が邪馬臺国に変えられたことについては容認できるのだろうか、という問題である。

 

(1) 「倭」の漢字音について(第7章「倭国、倭人の倭について」でも再論する)

古田氏は、倭が漢や魏晋においては、そしておそらく南朝の宋・梁などの時代にも「倭」は「ゐ・ヰ・wi」であった可能性があると指摘する。確かに、中国の漢や魏という上古の時代に「倭」がどのように読まれていたのかは資料が無い。したがって、「倭」の上古音を確定することはできない。しかし、時代が漢や魏晋により近い呉音を基に推測すれば、倭は「ゐ・ヰ・wi」であったことだろう。上古の時代も含め、委が「ワ」と読まれた形跡はない。委は「ゐ・ヰ・wi」である。「漢委奴国王」は「漢倭奴国王」と同じ読みである。倭が委と同音「ゐ・ヰ・wi」であったことに賛成。「倭」は「委」が音符だからである。

 ところで、白川静氏の『字通』を見てみよう。『字通』の中には、「委」を音符とする字が一か所に集約されており、便利である。まず、委は「イ・ヰ」と読まれている。「イ」は正確には「ア行のイ」ではなく「ワ行のヰ」である。「ゐ・ヰ・wi」と思われる。現在、「ワ行のヰ」は使われていないため、便宜上「イ」という読みが記されたのであろう。そこで次の漢字の読みは「イ・ヰ」となっている。萎・崣・逶・痿・蜲・餧などがある。これに対して、白川氏の挙げた「委」を音符とする漢字の中に例外がある。倭と矮である。「倭」は「ワ・イ(ヰ)」、「矮」は「ワイ」と読みが付されている。もちろん、物事には一般的に言えないこともあるだろう。例外もあるだろう。今は「矮」についてはおいておくが、関連事項について述べておく。漢和辞典、例えば藤堂明保氏などによると、「委」及び「委」を音符とする漢字音は、一般に発音記号では「wei・ウェイ」と表される。この発音は発声者がどのように発音するかはもちろん、それと同様に聞き手の受け止め方次第で幾通りかに解釈できる可能性もある。「ウェイ」、「ウエイ」、「ウァイ」、「ワイ」、「ウィ」、「イ」などのように。発話者が仮に「倭」や「矮」を同じように発生したとしても、聞く者がそれぞれを「イ」、あるいは「ワァイ」、ワ」として判断する可能性もあるだろう。ところで、以下では「イ」と「い」は同じ音として扱われることをお断りしておく。

英語を日本人がどのように聞き取ったのかの例である。「アメリカン」を「メリケン」と聞き、「マシーン」を「ミシン」と聞き、「スポッティ」を「ポチ」と聞くなどのように聞き間違いは枚挙にいとまがない。そして、誤ったままに日本語として定着することもある。委も倭も、さらに矮も同じ発音であった可能性もある。そして先に挙げた萎・崣・逶・痿・蜲・餧の発音もことごとく同じであったのかもしれない。とは言え、この問題についてはこれ以上の詮索はできない。というのも、漢字音についてのいわゆる発音記号に当たる『切韻』が出来たのが隋の時代であった。したがって、漢や三国の時代の漢字音・発音についての記録は存在しないからである。

今は、「倭」に注目して考えてみたい。ここで注目すべき問題は、倭は白川氏によって、「ワ・イ(ヰ)」というように「ワ」という読みが優先されていることである。再び古田氏によると、倭は呉音では「ヰ・ゐ」であったものが、隋唐音では「ワ」に変化したと指摘している。(『九州王朝』P.360など) 

 これに対して、白川氏が「ワ」という読みを優先させた理由は、隋唐音を優先的に採用したということなのか、あるいは日本古代史の通説においては「倭」は「ワ」と読むのが慣行となっているので、この慣行に基づいて『字通』は書かれたということになろう。倭の読みの歴史的変遷を考慮したものではないという可能性がある。

中国では漢字の簡略体がよく用いられる。偏や冠が取り去られることが多い。金属の「銅」が金偏を取って「同」とされるのが一例である。しかし、中国古代史の西島定生氏によれば、簡略体は読みが変わる場合には偏や冠を省略できないと述べている。例えば、稲荷山鉄剣銘文にある「寺・ジ」は「侍・ジ」の人偏を取り去ったものは可能であっても、「等・トウ」から竹冠を取り去ったものとは考えられないとする。読みが変わってしまうからである (『鉄剣の謎と古代日本』新潮社版P.86~87)。すると、「倭」が「委」と同音であるので、「倭」の音は「委」の音次第ということになるのだが、「委」が「ワ」と読まれた形跡はなかったと思われる。この点からも「倭」は「ゐ・い」であったと推測できる。

 西嶋氏に関して言うと、「倭」と「委」の読みについては論じてはくれていなかった。ただし、氏は卑弥呼が魏からもらった称号の「親魏倭王」については「しんぎおう」と読んでいた(『邪馬台国と倭国』吉川弘文館 P.82)。氏の論法からすれば、「委」も「わ」と読むことになってしまう。それとも、単に氏の議論には不徹底さがあったのであろうか。あるいは、通説に従おうということであったのか。私は、「委」が「ゐ・い」である可能性が高いと思うので、「委」を音符とする「倭」も「ゐ・い・イ」としたい。

 

 一般に、辞書・辞典の編纂は専門知識を基にする高度な作業であろう。しかし、辞書・辞典の編纂の際には、歴史の知識については定説に従うという傾向が無いとは言い切れない。第九章でも触れることであるが、舒明天皇御製といわれる香具山歌、そこで謳われた「海原」が「広い海水面」の他に「池や湖などの広い水面」とあった。大和の香具山のそばにハニヤスノ池があった、この池の水面を「海原」と見立てたというのが定説の大方の理解であった。広辞苑しかり、岩波版古語辞典しかり。なぜ「池や湖の広い水面」が海原の意味で載せられるのか。その根拠となる用例は、舒明天皇御製とされている万葉歌のみである。一種の循環論法に陥っている。ただ一つの事例で辞書の編纂が行われている。事例が少ないからという弁解も成り立つかもしれないが、辞書の意味は疑ってかかる必要があるのではないか。今回の「倭」もしかり。ぜひ、第九章もお読みいただければと思う。

私は、倭を「ゐ」音、ないし「い・イ」音と主張した古田氏に反対する理由が見当たらないので、以下、「倭」を「い・イ」ないし「ゐ」として表記する。

 

 

(2)俀について

 

 これと関連するのが、隋書では倭国伝ではなく「俀」国伝になっている問題である。なぜ隋書では漢書以来の伝統である「倭」ではなく「俀」の字が採用されたのであろうか。

 古田氏によれば、隋書の俀が大倭から来ていると述べる。(P.70、P.314など。)私はこの見解に賛成であるが、この点について私なりの解釈を加えてみたい。隋は鮮卑と匈奴という北方騎馬民族の出身である。それを引き継いだ唐も鮮卑と匈奴の王権である。「南蛮・西戎・北狄・東夷」という中国の華夷思想から言えば北狄である。北狄上がりの隋に対して「対等外交」姿勢を示した九州倭国がおそらく自らを漢以来の、またおそらく「呉音」式で「倭・い」、ないし「大倭・たいい・たい」と名乗った可能性もある。

 あるいは、隋ないし、隋を引き継いだ同族の唐が、対等外交をもくろむ生意気な倭国、呉音の「倭=い」に執着する九州倭国に対する皮肉として「倭」に大をつけ「大倭・たいい・たい」⇨「俀・たい」と変換したのかもしれない。つまり、すでに隋では、「倭」は「わ」と発音されるようになっていた。

「い」や「たいい」、あるいは「たい」と聞いた隋側では、次のように判断した。「たい」なら「俀」でどうだ、字体が「倭」にも似ているだろう。わが国では「倭」はもはや「い」とは発音しない。それに何より「対等外交などと偉そうに」。滅びた南朝時代の「い」音に固執するなら「たい」と呼んでやろう。「大倭」ではなく、「俀」だ。俀の意味を知ってるか。「弱々しいだ。」「弱虫め、悔しかったらかかってこい」ということではなかったのか。一種の語呂合わせであろう。

 

 このような言葉遊びは中国ではよくあることである。隋書俀国伝は唐の時代に書かれた。したがって、「俀国伝」を編纂したのは唐である。その同じ唐が隋の二代目皇帝に、有名な「(よう)(だい)」という名前を付けたのである。これが好例である。どういうことか。煬帝の本名は楊広である。姓が楊、名が広であった。隋の初代皇帝で楊広の父親は楊堅、諡号は文帝。この諡号はありうるものであった。ところが、隋が滅びた後、唐が二代目の楊帝の諡号を「煬帝」とした。その意味は「暴君、あるいは怒りやすい君主」であった。これは唐側の前王権の皇帝に対する価値観を反映したものであろう。皮肉や蔑みを込めた、しかも「煬」と「楊」は同じ音である。語呂合わせであろう。楊広の実際を表現しているのかは全く別の問題である。したがって、皇帝位にいる楊広は「(よう)(てい)」でなければならない。私は、歴史書には楊帝という名を使うべきであったと考える次第である。

 日本で「煬帝」という名前がかくも通用しているのは、隋書に記述された以外に、おそらく日本書紀の推古紀における現代語訳に原因があったと思う。そこに「煬帝」という名が出てきている。「煬帝」は教科書にもその名前が使われている。このため日本ではこの名が有名になり定着したのであろう。推古紀の原文には中国の「(みかど)」とだけ出てきたものを、現代語訳をした研究者が、おそらく親切心で、時の皇帝の名を記したのであろう。その際に、唐が悪意を持って、あるいは皮肉を込めて付けた諡号を用いて「煬帝」を採用したことに由来するのであろう。ここには唐側の価値観が込められている。そこで、私の論考の中では公平かつ客観的になるように、楊帝のことは「ヨウテイ」と呼び、書くときには便宜上、楊帝(煬帝)と書くことがある。

 このようにして、楊帝が「煬帝」に変えられたように、言葉遊びで「大倭」は「俀」になった可能性があろう。古田氏は、少なくとも『失われた九州王朝』では、俀の字義については検討していなかった。寡聞にして知らずかもしれない。他の著作などで触れているのであろうか。

古田氏は「俀」については、「俀=大倭」というように否定的な意味ではなく、むしろ肯定的な意味で理解しているようである。したがって古田氏は、「俀」とは倭国が自ら名乗ったとさえ述べている。(『九州王朝』P.314 )しかし、私は「俀」は隋が、そしてそれを受け継ぐ唐が、九州倭国に対する悪意、ないし皮肉を込めて名付けたものと考えている。「俀」が倭国の側が自ら名乗ったという古田氏の見解に賛同することはできない。倭国はすでに漢字を使いこなし、その意味も熟知していた時代であろう。好字ではない「俀」は中国側から付けられた名前と考えられる。

 

 

(3)「倭」=「ワ」=「和」=「やまと」への転換について。

 

 ところで、ヤマト王権、後のヤマト朝廷が日本国として中国に認識されたのは、新唐書に記録されている670年前後(注)であった。このときの中国の王権は唐であり、「倭」はすでに「ワ」と発音されていた可能性がある。ヤマト王権が「倭」を「ワ」音であると認識し、その後、雅でない「倭」を好字の「和」に書き換えていったのではないだろうか。そして、それに「大」を冠して「大和」とし、さらにそれを「ヤマト」と呼び、自らの拠点の地に都合よく引き寄せていく。さらに、「倭」や「大倭」も「ヤマト」と読むようにする。また、九州倭国の名前であった「倭」を「ヤマト」と呼ぶことで、九州倭国の様々な事績も自らに取り込んでいく、このようなプロセスを経たのではないだろうか。

 (注)新唐書、唐会要に咸亨(かんこう)元年(670年)に日本国(ヤマト王建)の唐への遣使記事がある。第八章「旧唐書と新唐書の間」を参照のこと

 

(4)倭国と邪馬壹(臺)国とのクラスの違い

 

 もとより、邪馬臺国を邪馬台国に変形して「ヤマト」と呼ぶことができないという指摘は古田氏の貢献である。また、もともとの魏志で「壹」と書かれていたものが、後漢書では「臺」と記されていたという指摘は重要であったと考えられる。私は「邪馬壹国」はもちろんのこと、「邪馬臺国」も「ヤマト」と読めないという点で古田氏の説に賛成している。

 しかし、わが目を疑ったのだが、世の中には「邪馬壹国」、あるいは『邪馬壱国』と書いて「ヤマト」と読むテキストさえ存在するのである。例えば、『倭国伝』講談社学術文庫の序P.3で、竹田晃氏が執筆したものがそうである。この著作には藤堂明保氏も関わったことになっていて、藤堂氏の名前も連名で記されている。定説による「ヤマト」信奉もここまで来ているのかと驚かされる。わざわざ「邪馬壱国」と書いていながら「やまとこく」と読んでいる、あるいは呼んでいる。漢字学者がかかわりながら、いったいどうすれば「壹」や「壱」を「ト」と読めたのであろうか。

さて、話を本筋に戻すが、古田氏は、『邪馬台国はなかった』で最初に指摘したように、もともとの陳寿の記述したはずの「邪馬壹国」に固執するべきであった、そこに留まるべきであった。私はそう考えている。どういうことか。古田氏が范曄の後漢書が「邪馬臺国」と書いたことを許容した、あるいはこれに寛容な姿勢をとったことから混乱が引き起こされたのではないかと考えられる。あるいは氏は、「壹」が范曄によって「臺」に変更されたことにも意味があり、たとえ変更されたとしても、その変更の意味について合理的に解釈ができるという自負があったのではないだろうか。このために私にとって疑問が生じることになった。これは、災いの元ではなかったか。

というのも、この議論の中には次のような問題が生じていたからである。古田氏の等式と移行関係を簡単に示せば次のようになる。「壹=倭大倭=臺=俀」。

まず、古田氏によって、「壹=倭(いっ、い)」とされる(P.69)。「壹=倭」としたところに一つ目の問題がある。さらに、「臺=大倭」(P.69)となり、その上で「俀=大倭=臺」(P.70)と等式が作られたところに二番目の問題がある。漢字音上の類似関係に引きずられて結び付けが行われてしまっているのであろう。

確かに、「倭→大倭=俀」は可能である。支配領域がどれだけの広がりをもっていたかは別にして、統一国家の呼び名が変わっているという問題である。

 これに対して、邪馬壹国あるいは邪馬臺国のどちらにせよ、いずれも倭国の首都である。卑弥呼の都とするところだった。倭・大倭・俀は統一国家、邪馬壹・邪馬臺はその首都というようにクラスが異なっている。臺は、大倭ないし俀と類似音ないし同音であったとしても、置き換えることはできない。

 もちろん、国名と首都名とが似ているという可能性もあろう。ブラジルとブラジリア、メキシコとメキシコシティのように。しかしそれは例外なのではないか。俀国と邪馬俀国も例外に属していたという可能性は大きくはないであろう。少なくとも、中国や朝鮮半島において、国家名と首都名の類似性は存在していなかった。日本列島でもそうであったであろう。

 したがって、邪馬壹国、邪馬臺国は存在した可能性はあるだろう。しかし、邪馬大倭国、邪馬俀国は邪馬台国とともに存在しなかったことになるのではないだろうか。

 

 

第2節  日本書紀への評価をめぐって

中国の史書と矛盾しない日本書紀の記述は信じてよいのか

 

 ここから大きな問題に移る。日本書紀の外交史はどこまで信用できるのか、あるいは信用できないのか、という問題である。私自身は記紀についてはその記述されたことすべてに懐疑の目を向けることにしている。絶対的懐疑の立場をとっている。記紀はヤマト朝廷、特に藤原不比等らによる造作・創作であることは、第2章「外祖父の仮説」、第3章「禁書の仮説」ですでに述べている。

 

 古田氏は基本的には中国の史書を第一次資料と述べている。また記紀は信頼できない旨を度々述べている。例えば、『日本書紀を批判する』という著作を渋谷正雄氏と共に出版している。この点で私と類似の考えを採る。日本古代史の第一次資料は中国の史書である。氏は、記紀に基づく研究では卑弥呼はヤマトになり、中国の史書に基づく研究によると卑弥呼は九州になる、とも述べている。ところが、他方で、「日本書紀はすべてを真っ黒に塗りつぶしているわけではない」とも語る。(『九州王朝』P.378)

 私の「記紀は信じてはいけない」という仮説に対して、最高に強力な一撃が古田氏によって突きつけられることになった。これについて私は明確に応えなければいけない。その際の具体的な課題は、「古田氏の主張にもかかわらず、書記はやはり信頼できない」という主張を貫くこと、あるいは「中国の史書と矛盾しないのであれば、日本書紀の記述は信じてよい」という見解に対して、あくまでも書記に対する懐疑を貫くという難問への挑戦である。

 以下、この点について中国の史書と日本書紀の対中国外交史に絞って、そしてそれらについての古田氏の評価とを個々に突き合わせて検討する。私の日本古代史の師を最強の論敵として議論を挑んでみたい。また、この論考は第4章を補強する議論でもあり、続編と言ってもよい内容にもなっている。

 

 

第1項  推古紀における裴世清の難波行き   

 

① 古田氏による「操作と曲解」

―――『九州王朝』における「P.305とP.308の問題」

 

 私は、隋書俀国伝と古田氏の『失われた九州王朝』(以下、『九州王朝』)を何回も読み返し、読み比べる作業を行うことになった。古田説に違和感を持ったためにそうせざるを得なくなったのである。研究者の間で、すでにどなたかが指摘していることなのかもれない。管見にして知らずということで、その点についてあえて述べてみたい。

 まず、隋書俀国伝の最後の文章から引用しておこう。裴世清が俀国での遣使の役目を終え、俀国から去る場面である。一般には、裴世清は隋に帰国すると考えられている。(注)

      (注)『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』

岩波文庫 訳注P.73、および現代語訳P.101 など

            

其後清遣人謂其王曰 「朝命既達、請即塗戒」 於是設宴享以遣清a

復令使者随清来貢方物b 此後遂絶 【引用 隋書俀国伝】

これの読み下しである。

     その後、清、人を遣わしていっていわく、「朝命既に達せり、請う即ち塗(みち

を戒めよ」と。ここにおいて、宴享(えんきょう)を設け以て清を

遣わしaまた使者をして清に随い来って方物を貢せしむb。この後遂に絶つ。 

『岩波文庫魏志倭人伝・後漢書倭国伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』P.73

      傍線、および「a」、「b」は筆者による。

 

 古田氏は一般の説には反対し、裴世清は推古紀にあるとおり、実際に難波に行ったと主張する。その論拠として、同じ隋書俀国伝から引用している。裴世清が筑紫での遣使の役割を果たした後の、大業四年608年のことである。古田氏による読み下しを引用する。

其の後、清、人を遣わしその王に謂って曰く、「朝命既に達せり、請う即ち

塗(みち)を戒めよ」と。是に於いて宴等を設けて以て清を遣わすa

 P.308  【引用 古田――A】

 

 この引用部分と解釈が【引用 隋書俀国伝】の傍線部aで終えていることに注意を払う必要がある。古田氏は、この引用箇所に基づいて次のように解釈する。「塗を戒める」とは通常は裴世清が隋に帰国したと考えられているが、帰国ではなかったとする。用意周到な古田氏のこと、常の通り中国の史書における「塗を戒める」の使用例を幾つか示しながら、その意味は、「“俀王の都から、さらにはるかなる旅に出発しよう“とする意思をしめしている」(『九州王朝』P.309)と論じる。つまり、難波への新たな旅立ちと捉え、筑紫で九州俀国に難波までの道案内を乞うていると氏は述べる。「清を遣わす」は、裴世清を難波に遣いとして送り届けるという意味になるのだろう。確かに、氏の引用した限りでのこの読み下し文だけから判断すれば、そのようにも読めるかもしれない。

 しかし、それは古田氏の隋書の読み方、解釈の仕方が正しければということである。例えば、「戒める」には「警戒する」、「警護する」という意味がある。そうすると、「塗を戒める」は、清がどこに向かって進むにせよ、「その後の旅程を無事に進められるように警護せよ」とも解釈できる。これについて氏は言う。遣使が帰国するのは当たり前のことであり、「とくにこの俀国伝の場合だけ特記する必要はない(他の伝にはこのような描写はない)」、と。(『九州王朝』P.308~309) そうであるかもしれない。しかし、例外もあるだろう。この場合がそうであったのではないのか。

 つまり、氏による隋書の解釈が正しくなかった。それ以上に、古田氏の議論では隋書俀国伝からの引用が完全には行われていないという問題があった。すでに示した通り、隋書俀国伝の【引用 古田A】には続きがあった。古田氏が先に触れた部分と、その続きも含めた俀国伝の原典は【引用 隋書俀国伝】であった。そこには下線部bもあった。しかし、【引用 古田――A】では、明らかに下線部b抜け落ちている。下線部bの引用をしなかったのは、裴世清を難波に進めさせるための作為であったと指摘されても仕方がないであろう。言い換えると日本書紀は、推古紀については信用しても構わない、あるいは信用できる部分がある、という氏による意思表示であったのかもしれない。

 ところがである。氏は同書の別の個所では下線部b、「復令使者随清来貢方物」を引用していたのであった。だから、氏はこの下線部bの一文の存在を知らなかったとは言えない。その解釈の仕方が問題である。しかもP.308にわずか数ページ先立つP.305に記載されている。氏による下線部bの引用である。

「復た使者をして清に随い来って方物を貢せしむ」 

 

 これについての氏の解釈はこうなる。

この大業四年派遣の国使裴世清の帰国に際し、俀国はまた、使者を随行せしめ、貢献したという P.305 

 

ここでの氏の解釈は正しい。「裴世清は隋に帰国した」ことになっているからである。P.308の「塗を戒める」が難波に向かう、しかしP.305では隋に帰国する、これでは裴世清は分身の術でも使わざるを得なくなる。むしろ、古田氏自身の議論の自己分解と言わざるを得ない。自分の主張に合わせて必要な個所だけ切り裂き、都合よく引用を行ってしまったと言われても、氏には返す言葉もないであろう。一部の定説派が常套としているやり方ではないだろうか。しかし、P.305とP.308のわずか数ページの間なのにもかかわらず。万一、意識的なものであったら、古田氏ですらそのような操作をするのかと氏に失望させられる瞬間を迎えてしまう。私は古田氏が意図的に行ってはいないと願っているし、そうとは考えていない。おそらく、自らの見解を確立することに夢中になり、うっかり二つの個所の整合性を見失ってしまったのであろうか。しかし、ここでの氏の叙述は見解の相違以前の問題である。

 氏のこの主張は撤回されなければならないであろう。この問題を生じさせた最大の原因は、隋書も推古紀も共に信じ、その上で両立させようという氏の大望、あるいは野心のなせる業であったと私は考えている。しかし、そのような大望は無謀であるというのが私の考えである。

 

 複雑な説明になったので、以上を簡潔に要約する。次のようになろう。

ここにおいて、宴享(えんきょう)を設け以て清を遣わしaまた使者をして清に随い来って方物を貢せしむb

 

 古田氏の行ったことは、この連続している傍線部a傍線部bとを分断し、別のページでそれぞれを引用し、前者は推古紀に記述された通りに裴世清を難波に向かわせ、後者では隋に帰国させるというように解釈し、解説したのである。

 傍線部bの主体は隋書に記述された隋である。「清に(したが)い来っ」たのは裴世清に伴われた俀国の遣使であり、「来させた」のは隋である。「貢せしむ」も当然、隋が俀に「貢納」させたのである。俀国が推古朝に清を送り貢納させたものではない。したがって、裴世清らは明らかに隋に到着したのである。「復た(また)」の意味するところは大業三年(607年)の俀国の「対等外交」を宣言したあの遣隋使に続く「再びの」遣使を意味している。すると、やはりこの部分では、裴世清は俀国の遣使と共に隋に帰国したと考えるべきである。難波には向かわなかった、と。ダメ押しをするが、それにも関わらず、古田氏は自らの解釈を正当化するために、【引用 古田――A】ではこの下線部bの存在を失念していなかったと言えるであろうか。

 このように見てくると、下線a「塗を戒める」は、隋への帰国と解釈するほかはない。したがって、隋書俀国伝を見る限り、裴世清は俀国に遣使し、推古朝を訪問することなく直ちに隋へと帰国したのであり、これが歴史の真実であったと結論付けることができる。

 

 

② 推古紀の遣「隋」使記事は真実ではないという問題

 

 以上の指摘から、推古紀を信頼できるのか否かという点に真正面から焦点を当てて一言述べておきたい。古田氏は下線bの引用文を無視した後、そこから推古紀の記述を信頼する結論を下すことになる。

 裴世清が筑紫に到着したときに、推古朝は難波吉士雄成を派遣して、裴世清が近畿大和に来るようにうながしているのである。すなわち、裴世清にとっては、筑紫が第一の到着地である。そしてさらに奥なる、みずからの都に導くため、天皇家は使者を派遣して裴世清の近畿大和訪問をうながしたのである。この描写は、『隋書』俀国伝の記事とピッタリ対応している。 

P.309 【引用 古田――B】

 

 古田氏が先のような解釈に至った原因は、推古紀にある裴世清の難波行きが史実であることを論証できた、そのように確信してしまったからだと私は推測する。裴世清の難波行きは推古紀にのみ記述された事柄であり、隋書には書かれていなかった。隋書を信じる限り、裴世清は難波には向かわない、したがって次のような書記の記述は起こり得ないことになる。つまり、裴世清は難波に到着できない。

( 推古十六年、四月)即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に従いて、筑紫に至る。難波吉士雄成を遣わして、大唐の客裴世清を召す。唐の客の為に、更新しき館を難波の高麗館の上に造る。 【引用 書記――C】

 

古田氏の解釈は正しくなかった。ということは、日本書紀外交史を疑う、したがって推古紀のこの記述【引用 書記――C】を疑う私の立場も生き延びることになる。

 

 

       ③ 俀国と推古朝の関係は友好的になるだろうか

 

 ところで、仮定の話をしてみたい。仮定ではあるが、全体像としては極めて重要な点である。「もし、裴世清がヤマトに向かったという古田氏の解釈をその通りに受け止めると」、極めて難しい局面が出現することになる。九州倭国と推古朝との関係やいかにという問題が発生する。両者は、「本家と分家」の関係なのだから友好的な関係にあったのであろうか、それともお互いの、少なくとも対中国外交路線が異なっていたために非友好的な関係であったのか、という問題が発生するのである。裴世清に対する処遇の仕方も違ってくるだろう。

 俀国が隋に対して「対等外交」を表明した理由は、隋が漢民族ではなく北方騎馬民族の出自であった北朝を受け継いでいるからである。隋はいわゆる「北狄」であった。古田氏もこの点について明記している。素晴らしい見解である。なぜ俀国、つまり九州倭国が対等外交の路線をとったかについて述べている歴史研究家は少ない。いや、私はこれまで古田氏こそ、この見解に先鞭をつけた歴史家であったと認識している。推古紀の政治家、厩戸皇子や蘇我馬子らが立派だったからという理由を挙げるのが定説の発想であった。これに対して、氏は述べる。鋭い洞察である。

     

 わたしたちは後代人として、中国の南北朝とも、「天子」があったと考えて怪

しまない。しかし、倭(俀)王にとって「天子」は南朝だけであり、いわゆる北朝側は、「北狄」や「胡」の部類であり、「東夷」たるみずからと同列の存在だったのである。このように考えてくると、「中国正統の、南朝の天子」が滅び、「北狄の王朝」たる「隋」が中国全土の唯一の天子たることを誇示したとき、東夷なる倭王が、「俀」を称し、みずから「日出ずる処の天子」と名乗った、その背景も理解されよう。同じく夷蛮出身の「天子」として、「隋」と「俀」とを対等の位置に置こうとしたのである。 『九州王朝』P.316~317

 

 つまり、なぜ俀国が隋に対して「対等外交」の姿勢をとったのかが明瞭かつ理論的に指摘されている。この俀国の姿勢に対して隋の楊帝(煬帝)は立腹した。隋と俀国との関係は、この時点で決して良好ではなかったのである。友好国の関係ではなくなっていた。これは古田氏の見解でもあるはずだ。

 他方、推古朝の北朝系隋に対する態度はどうであったのか。日本書紀に見る推古朝が中国に対してとった姿勢については、すでに私が第4章「書記における中国との外交記事を検討する」で述べたように朝貢姿勢であった。推古朝が存在していて隋との外交関係を結ぼうとしていたと仮定する。すると、隋とその後の唐に対するヤマト王権、ヤマト朝廷の姿勢は朝貢姿勢であって、ヤマト王権は決して中国と「対等」であることを目指してはいない。ということは、俀国とヤマト王権では隋、つまり中国の王権に対する外交方針が異なっていたはずである。したがって、俀国がヤマトの王権に対して仲介の労をとるとは考えられない。裴世清の道案内とか警護をするなどはありうることではない。裴世清に対する待遇の仕方も異ならざるを得ないはずである。「何故、大和などに行くのだ?」、と詰問しなければならないだろう。

 これを、視角を変えて隋の側からみるとどのようになるであろうか。みずからを「天子」と名乗り、「対等外交」で臨んでくる「傲慢で鼻持ちならない」俀国との関係はもう切り捨てようという方向に向かうかもしれない。そして俀国の背後に、隋に対して朝貢姿勢を持つヤマトの勢力が存在することが分かったとなれば、今後の列島との付き合いは、隋にとってより友好的なヤマトとの国交を基軸にしようなどとさえ考えることにもなろう。すると、隋の遣使である裴世清が俀国に対してヤマトへの移動に際して道案内や護衛を無頓着に、あるいは無邪気に依頼するなどということはとても考えられることではない。俀国が裴世清の要請を素直に承諾することも考えられないであろう。

 しかし、以上の話は608年前後の時点で、ヤマト王権が中国との国交を開始しようとしていた、という仮定の下での話であった。

歴史的な事実は、すでに先の【引用 隋書俀国伝】からも分かる通り、裴世清は筑紫から直接、隋に帰国したのである。この点での古田説は成り立たなかった。裴世清は俀国での任務を果たした後、俀国の遣使を伴って帰国したからである。P.305の古田氏も認めた通りにでもある。裴世清の難波行きは、彼が分身の術でも使わない限り不可能な事態であった。したがって、裴世清の難波行きを隋書から導き出すことはできなかったのである。

 

 

第3項  俀国と倭国の並立について

 

① 難題Ⅰ

 

 ところで、私にとっての難題の一つは、古田氏が「俀」国と「倭」国が別国として中国の正史、隋書に記載されていると指摘した問題である。

 古田氏の主張の要点を簡潔に言えば以下のようになる。隋書のよく知られている東夷伝では「俀国」伝となっていて、俀国とは九州倭国のことだと理解されている。古田氏もこれまでの「倭」国が「大倭」国として誇り、さらにみずから「俀」と名乗ったのだと主張している。したがって、古田氏にとっても隋書の「俀」は九州を拠点とする王朝であったはずである。

 ところが、古田氏は、同じ隋書の帝紀では「倭」国という異なった名前が記述され、これが俀国とは別の国、つまり大和の天皇家だと指摘した。そして、古田氏は、隋書帝紀の「倭」国を「俀」国と書き換えることはできないと主張している(『九州王朝』P.305~306)。このように述べる古田氏は、あくまでも推古朝の存立だけでなく、推古朝の中国との国交関係とが歴史上の真実であったことを論じようとしているのである。この点を詳しく見てみよう。

 

隋書帝紀三、煬帝上を氏は引用している。

帝紀A (大業四年)(三月)壬戌、百済・倭・赤土・加羅舎国並遣使貢方物

〈隋書帝紀三、煬帝上〉

帝紀B (大業六年)(春正月)己丑 倭国遣使貢方物〈同右〉

『九州王朝』P.305

 

 そして氏によって、AとBの倭は、俀国伝の俀と同じではない、それは不可能であると主張されている。『九州王朝』P.305~306の氏の言葉である。先に引用した裴世清の大業四年(608年)の遣使に関する記事からさらにその続きも引用する。

 

 俀国伝では、大業四年(608年)は隋側が裴世清を俀国に国使として派遣した年である。これは、前年(大業三年)の俀国王、多利思北弧の遣使に答えたものである。 この大業四年派遣の国使裴世清の帰国に際し、俀国はまた、使者を随行せしめ、貢献したという。「復た使者をして清に随い来たって宝物を貢せしむ」〈隋書、俀国伝〉。しかし、この記事をもって先のA(帝紀、大業四年)の記事に該当せしめることは不可能である。なぜなら、それは大業四年の三月であるから、わずか一~二月の間に裴世清が俀国におもむき、はやくも帰国した、ということになり、それは到底、時間的に無理だからである。(中略)以上によって、この帝紀中の「倭国」は「俀国伝」中の「俀国」ではない、と見なすほかないのである。

 

 難題Ⅰとはこうである。

【引用 隋書俀国伝】では大業四年(608年)に裴世清は俀国に遣使し、その帰国に際して俀国は使者を随行させて帰国していた。すでに結論が下された問題であるが、氏はここでは裴世清が隋に帰国したと正しく述べているのである。その点はここでは置くとして、裴世清は隋に帰国し、俀国の遣使は隋に到着していた。ということは、【引用 隋書俀国伝】の俀国の使者と、帝紀Aの倭国の使者とは同じであるはずはない。その後、わずか一~二月で裴世清が俀国に来て、さらに俀国の遣使団と共に帰国することはできないからである。

 隋書俀国伝では、裴世清が大業四年の何月に俀国に来たかは記述されていなかった。仮に最も早く、春正月に来たとしても三月までには一~二か月しかなかった。しかも、俀国伝での記述は裴世清が俀に向けて隋を出立する時点を記しているであろう。だからなおさら時間的に無理であろう。ということは、帝紀Aの「百済・倭・赤土・加羅舎国並遣使貢方物」に記述された倭国の使者が裴世清と共に帰国した俀国の使者とは別に存在していた可能性があることになる。それでは、隋書帝紀における倭国とはいったい何かという問題が生ずるのだ、ということになる。

 ここから古田氏は、Aの倭国の遣使は推古紀に記述された遣使であると理解できるとする。そうしても「矛盾がない」と語る。推古朝は、推古十五年(=大業三年)七月~推古十六年(=大業四年)四月に遣使している(『九州王朝』P.307)。ここから次の結論に結び付けられている。

 帝紀Aの倭国使節団は、「俀国とは異なった、天皇家側の使節団をしめすものであった。」(『九州王朝』P.308) この点は古田氏の指摘は極めて興味深いが、同時にこれが私にとっての解決するべき難題である。

 これは日本書紀の記載内容と隋書との間での問題ではない。同じ中国の隋書の中での記載の問題である。私に投げかけられた最大の難問である。つまり、裴世清が俀国に来て、俀国の使者と共にわずか一~二か月で帰国することはできない。どのように考えるべきであろうか。

 しかし、以下のように考えることはできないであろうか。つまり、大業三年(607年)の九州俀国による遣使のすぐ後に、さらにもう一つの遣使団を九州俀国が立て続けに遣使する可能性は残る。そうであれば時間という物理的問題は解決する。しかも、Aには裴世清は登場していない。したがって裴世清の移動にかかる時間は考慮する必要もないからである。俀国が立て続けに隋に遣使団を送った、そのような異常事態、緊急事態があったと考えることは、かすかではあるが可能性はある。その緊急事態とは、後に白村江戦にまで行き着く両国間のことだからである。

 また、裴世清が大業四年に推古朝を尋ねたとしても同様の問題が「推古倭国」にも起こる。わずか一~二か月の間に裴世清はヤマトを訪問し帰国するという、当時としては離れ業をしなければいけないからだ。

もし、裴世清がらみではないとして考えても、「推古倭国」にとっても同じような不自然さがある。つまり、裴世清が難波に赴いているその同時期、あるいはその前後の時期に、「推古倭国」が隋に遣使するということが起こっているからだ。推古朝と隋の間で、何か緊急事態が発生したのであろうか。いや、異常事態・緊急事態という点でいえば、むしろ隋に対して「対等外交」を仕掛けた俀国の方に起こりそうである。したがって、推古朝による遣「隋」使も考えられないであろう。       

 ところで、ブログ:「古田史学とMe」氏によると、「俀」と「倭」は同じという立場から、隋書編纂期に唐が混乱を起こしていて、隋書帝紀の年代が信頼できるのかという問題提起がなされている。それもありうるかもしれない。この意見に与して難題から逃れることもできるであろう。が、この隋書編纂期の「混乱」については具体的にどのようなものであったかを私は資料に当たることができない。しかも、中国の史書を信頼するという私の原則を放棄することにもなりかねないので、「古田史学とMe」氏にここで頼ることはできない。この問題についてこれ以上には語ることができないということにとどめておきたい。判断を停止しておく。私は資料入手が困難な立場にいるので、隋書帝紀もインターネットで見つけたに過ぎない。無力な素人の研究者の悲しさである。

 

 ところで、この問題を冷静に見ると古田氏の議論には明らかな無理がある。つまり、古田氏の論証にはかなりの無理矢理さがあるとともに、さらに氏の論証には氏自身の主張との自己矛盾が見られるのである。

 

 

②古田氏の無理な論証

 

 まず最初に、氏の無理な論証という点から始めると、倭国は前漢以来、南朝梁以前まで中国の史書に記載されてきた。隋書では俀国として記載されたが、再び旧唐書では倭国として登場している。だから、「倭国→俀国→倭国」はいずれも同じ九州の王権であるはずだ。それにもかかわらず、隋書では倭国が一時的にせよヤマトの王権の国名に冠せられ、そして旧唐書における倭国はもとの九州の倭国に戻っている。ヤマトの王権に冠せられた「倭」国はどうなったのであろうか。推古朝の後の「ヤマト倭国」は二度と登場しない。事実、氏自身も推古紀後の舒明紀について論じるときには、旧唐書に記述された倭国を再び九州として、ヤマトの日本国とは区別していたのである。古田氏の史学が定説派に突きつけた重要な論点でもあったはずである。

しかし氏のここでの解釈では、正史である隋書俀国伝と隋書帝紀には、九州俀国とヤマト倭国が共に存在し、併存することになってしまった。これでは倭国という名前が二通りの別国に使われることになってしまう。中国の史書にこのような記述の仕方はないであろう。おそらく、これについてはなに人も受け入れることはできないのではないか。したがって、隋書帝紀の倭国も九州の俀国も同一の国として解決する方向を探らなければならないのではないだろうか。

 

 

③「古田氏の自己矛盾1」

 

 さらに、古田氏の論証には氏自身の説との自己矛盾があった。もっと深刻な事態であろう。氏は、中国は一地域あるいは一種族を代表するのは一王朝であることが原則であると考えている。このことは、氏が繰り返して述べていることである。その主張にも矛盾しているのである。推古紀の時点で、ヤマトの推古朝が「倭」国として隋書に記載されたとすると、九州の俀国が正史である隋書東夷伝に記載されていたのだから、古田氏がたびたび繰り返すように中国の王権は一地域、一種族に一つの王権しか認めないという主張との矛盾をきたす、つまり隋書が列島の二つの王権の存在を記載したということになるのである。

 「一地域、一種族に一つの王権しか認めない」という点での古田氏の主張の一例である。少し後の時代の舒明紀に目を向けてみよう。古田氏の高表仁についての評価の場面である。旧唐書に書かれた唐の遣い、高表仁は、「王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」とあり、これを旧唐書はさらに、「表仁、綏遠(遠い地方を鎮めやすんずること)の才なし」と表仁を責めている。唐書では倭国と表仁の間で「争い」があった。

 他方、これに対して、日本書紀の舒明紀では高表仁を

「天子命ずるところの使、天皇の朝に到れりと聞きて迎えしむ」として、表仁は歓迎され、表仁の方は「風寒まじき日に、船艘をよそい、以て迎へ賜ふこと歓び悦まる」と謝意を述べている。「仲むつまじい」のである、と。         (以上、『九州王朝』P.353~354)

 

 これを基に、古田氏は旧唐書の倭国とは別に、ヤマトに舒明朝という別の王朝が存在したと考えることになる。旧唐書の記事は「九州王朝なのだ。天皇家ではない」。これに対して、舒明紀の記事から、「たしかに高表仁は近畿大和に向かったのであろう。その点、舒明紀の記事にいつわりはない」と氏は述べている。(九州王朝』P.354)。したがって古田氏は二つの王朝の存立を認め、唐と別々に国交を行っていたと考える。しかし、旧唐書では舒明天皇の時代に近畿大和の王朝はまだ記載がなかった。これについてもさらに古田氏は用意周到に見える形で次のように語る。

 

 しかし、この事件はいまだ「正史」に登録されていないのである。なぜなら、この段階においても、中国側(唐)にとって、「倭国を代表する正統の王朝」は、九州なる多利思北弧の王朝だったのである。(中略)(そして、正史には、)その地域、種族の代表の王者と見なされた者のみが記載される。倭国の場合、中国の使節から中心の王者と見なされているのは、九州王朝なのである。『九州王朝』P.355  (  )内は引用者による補足

 

 以上から、古田氏の立場は明らかである。「一地域、一種族には一王朝」のみが中国の正史には記録されるはずなのだ。そうすると、ここから前の隋書の件を振り返ってみると、俀国伝と帝紀というように記載された隋書内の場所は違ったとしても、隋書という正史に二つの王朝が共に記載されるということは起こらなかったはずなのである。隋書の時代には列島を代表する俀国が立派に存在していた。したがって、古田氏は自分で自分の主張に反して、隋書の俀国伝と帝紀に、列島から異なる二王朝の記事を併存させてしまっていたのである。

 隋書では俀国(九州倭国)とヤマトの倭国が併存したとして併記されるのに、旧唐書では併記は認められないという論法は成り立たないであろう。私は、古田氏の説には明らかに自己矛盾があったということを指摘し、これを「古田氏の自己矛盾1」と名付けておく。したがって、以上の見方からしても、俀国伝の俀国と帝紀の倭国は同じ国であるという方向で考察していくことがより自然であると考える次第である。古田氏はここでも、書記の舒明紀が信用できると「決意」しようとしているように見受けられる。

 ところで一般論として、中国の正史に「一地域、一種族には一王朝」が記述されるということが原則であったと言えるのであろうか。例えば、中国では統一王朝の時代以外には、複数の王朝の記録が残されている。帝紀が併存することもある。例えば、三国志は魏・蜀・呉三王朝が並立し、魏志・蜀志・呉志が並んでいた。また、南北朝の時代には、北朝と南朝の歴史がそれぞれ残されている。日本列島についても、三国志には倭国と対立する狗奴国が記載されていた。もちろん、狗奴国伝というように独立した項目を設けて記述されることはなかったが、倭国とは別国としての存在が記されている。正史ではないが通典などには「蝦夷国」も記載されている。旧唐書における倭国伝と日本国伝の併存ももちろんそうである。時代は遡るが、前漢の時代には匈奴は二つの勢力に分かれていた。漢に帰順しようとした「南匈奴」と、あくまで漢と対決しようとした「北匈奴」に分裂していたが、匈奴の二つの勢力が共に漢書に記載されていた。「一地域」「一種族」の定義やいかにという問題ももちろんあろうが、中国の史書は、感知した国や勢力についてはかなり率直に記述しているのではなかろうか。

正史であろうとなかろうと、舒明朝は一切、中国の史書類に記述されていなかった。私の見解では、舒明紀の高表仁は日本書記の造作・僭称でしかなかった。したがって、唐書に高表仁による近畿大和への行程記述がなかった理由は、高表仁のヤマトへの遣使が史実ではなかったからであると考えている。この点については、さらに後の舒明紀の問題としても詳しく述べる予定である。

 

④ 難題Ⅱ

 

 次の難問に移ろう。九州の「俀」国とは別にヤマトに「倭」国が併存していたという問題である。さらに氏は続ける。大業四年の俀国伝の最後には「此の後、遂に絶つ」とあった。それにもかかわらず、直後の大業六年にBの「倭国遣使貢方物」が続く。

だから、帝紀のように、大業六年(推古十八年)倭国が貢献してきた、という記事は、右の俀国伝の断定的な結びと決定的に矛盾しているのである。(中略)すなわち、この「倭国」は「俀国」ではない。」  『九州王朝』P.306

 

 これは、倭国は俀国と別国であるという根拠として氏によって提示されたものである。つまり、俀国と隋との国交関係が終了した。「此の後、遂に絶つ」がそのことを表している。これに対して、倭国がその直後に貢献してきた。したがって、俀国と倭国が同じ国を指すことは考えられない。これが古田氏によって私に突きつけられたもう一つの難題、難題そのⅡである。

 しかし、難題とは言っても、難題Ⅱは難題Ⅰほど難しくはない。俀国と隋との間を移動する時間という点で、Bの大業六年と大業四年の間には「二年ほど」のゆとりがあるので、時間的物理的には不可能ではないからである。倭国と俀国は同じ国であっても構わない。二年の冷却期間を経ての外交再開という可能性もある。

 また、「此の後、遂に絶つ」がどれだけ厳密で決定的なものなのかは疑問である。まず、楊帝(煬帝)自身、「対等外交」の書に喜ばずに、「蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな」と言いながら、直後に裴世清を俀国に遣使させていた。無礼な国の発言をわざわざ聞きに来たのである。むしろ、無礼な態度を見せつけられたことをきっかけに裴世清を急遽、俀国に派遣したというのが実態ではないだろうか。隋が「対等外交」の姿勢をたしなめるために裴世清を俀国に派遣したのであるとしても、楊帝(煬帝)は裴世清を通して俀国の主張を聞かされる羽目に陥るのは必然であろう。

 むしろ、先にも触れたような俀国と隋の間に異常事態・緊急事態が起こっていたと考えることができるのではないだろうか。中国の王権が日本に遣使させたのは、卑弥呼の時代以来、隋のこの遣使が二回目であった(卑弥呼の時代は一回と数えている)。余程の案件でもない限り、中国が日本に使者は送らない。卑弥呼の時代には、中国は三国に分裂していた。魏の政権は不安定であった。そういうときに、敵対関係にあった呉の背後にいた倭国が、わざわざ魏に遣使してきた。この出来事は魏にとっては感動的であっただろう。(注)その感動の表明とともに、倭国を呉と接近させないという政治的判断が働いた可能性もある。また、狗奴国との戦闘に苦戦している卑弥呼の援助要請も当然無視できなかったのである。「親魏倭王」の卑弥呼の勢力が王権から追われてしまったら、魏にとっても不都合であったであろう。

(注)おそらく、そのような背景があって魏志の陳寿は倭国を遠方の国、強大

な国として強調したのであろう。

 

 これに対して、隋の裴世清が遣使した意味は魏の時代とは異なっていた。南北朝の時代の南朝に対しては中国に臣従していた倭国が、突然、隋に対しては「対等外交」を宣言するという一大事が生じたことによるものと考えられる。隋としては不安材料を抱え込むことになったのである。だからこそ、「二度と聞かせるな」という言葉に反して、楊帝(煬帝)みずから倭国の状況を探りに来た、そして倭国との「良好」な繋がりを持とうとしていたのではなかろうか。「二度と聞かせるな」という発言は、隋と俀国の関係について、この時点ではまだ決定的な決裂を意味していなかった。

このことは、さらにその先の唐の時代を見れば明らかであろう。隋を引き継いだ唐と俀国、つまり唐とその時代の九州倭国の間には遣使関係があった。これは、先にも触れ、後にも触れる高表仁の遣使のことである。俀国、倭国にとっては隋も唐も同質の王権、つまり「北狄の王権」と見ていた。決して友好的な関係ではなかったであろう。それにもかかわらず両国の国交は、かろうじてであったとしても、継続していた。隋に対して「此の後、遂に絶つ」が実行に移されたとするのならば、唐との国交関係も成立しなかったであろう。

 このように見てくると、「此の後、遂に絶つ」が大きな壁にはならなかった可能性があろう。「此の後、遂に絶つ」、この言葉は決め手ではない。したがって、「此の後、遂に絶つ」とあるにもかかわらず、これを理由にして古田氏が隋書帝紀の「倭」国をヤマトに譲る必要は全くなかったと言えるであろう。この意味でも「俀国」は九州「倭国」だと言えるであろう。