日本書紀における蝦夷記事を続日本紀の視線から検証する

 

はじめに

 

 日本書紀は正史の資格を持たないこと、続日本紀からが正史であることについては以前にも述べた。したがって世に『六国史』と言われている史書類から日本書紀を差し引き『五国史』とすることも提案してきた。私の論考は第九章まではそのことを論証するために費やされてきた。第十章ではこの点をさらに明確にするために、蝦夷をめぐって日本書記と続日本紀を直接に対決させ、日本書紀が信頼するに足る書物ではないことを証明してみたい。以下、日本書紀を書紀、続日本紀を続紀と略すことがある。

 「民族的・文化的カテゴリー」としての蝦夷について論じることは、私の現在の力量ではとても及ぶものではない。縄文人と弥生人の関わり、蝦夷と熊襲・隼人との関係、宋書にある毛人、またアイヌ民族との関わりの有無など、触れなければいけない問題は多い。また、東北における続縄文・擦文文化、そしてまた古墳文化の展開や三角縁神獣鏡の発掘など考察すべき課題は多い。今後、解明されることを期待しつつ、本章の中ではその一部にだけ簡単に触れるにとどめたい。

ここでの私の主要な課題は「政治的カテゴリー」としての蝦夷に限定して考察することにある。この場合の蝦夷は、「ヤマト王権、ヤマト朝廷の支配に従わない人々・勢力」という意味である。この課題は端的に言って、日本書紀で描写された蝦夷は続日本紀で記述された蝦夷と相容れないものになっていることを示し、さらに定説が書紀と続紀とが何らの不整合もないかのように扱い、論じている問題に切り込むことにある。また、後にも述べるように、蝦夷の問題は「外交史」の問題として理解されるべき問題を孕んでいること、そのことから書紀の「外交史」全般への懐疑をさらに鮮明にすることにある。「外交史」は書紀にとって、いわばアキレス腱なのである。

           

 

第1節 書紀対続紀の第一ラウンド 

遣唐使の渡航期間から検討する

 

第1項 書紀の遣唐使記事、往復にかかる時間

 

 日本書紀は以下の2つの遣使記事については年・月・日も記述している。

1.孝徳紀の遣唐使記事 

  孝徳紀 白雉4年(653年)5月12日 

吉士長丹(きしのながに)ら121人が一つの船で出航。大唐へ。

      白雉5年(654年)7月24日 西海使の吉士長丹らが百済・新羅の

走使と共に筑紫に着いた。

 

1年2カ月で往復である。到着地点は筑紫となっているが、出発地点がどこかは不明。仮に筑紫出発とすると、筑紫と唐を往復するのに1年2カ月となる。後に述べる続紀の多治比真人が九州から奈良まで片道に1カ月23日かかっているので、これを参考にすると筑紫と近畿奈良の往復が3カ月16日。よって、近畿奈良と唐の往復は1年5カ月と半月になる。

 

2.斉明紀に載る「伊吉博徳の書に見る遣唐使記事」

伊吉博徳の書による、斉明5年(659年)の記事

斉明7月 3日     難波から出発 

  8月11日    筑紫の大津の浦(博多湾)を出る

9月13日    百済の南の島(島の名は知らぬ)

    14日4時  大海に出る

    16日夜半  越州会稽郡須岸山

    22日    余(女偏に兆)県

閏10月 1日    越州の州衙に着く   

    15日    長安(天子が洛陽に居るので洛陽へ)

    29日    洛陽

30日    天子にお目にかかる 

  

以上、異常に詳しすぎる旅程の記録である。これでまた馬脚を露呈することになる。天子にお目にかかった年・月は通典の慶顕元年(659年10月)と合致させているように見える。

 片道4カ月弱、渡航日数が短すぎる。船が速いのか?斉明紀の片道にかかった時間は4カ月弱とすると、往復にすれば8カ月弱、滞在期間を考慮しても往復10カ月ほどであろう。西都と言われる長安の方が、東都と言われる洛陽より遠い。長安・洛陽間は14日。長安・洛陽間を往復で約1カ月のロスが無ければ、日数はさらに少ない。1カ月を差し引いて、往復9カ月になる。

 ところで、この資料には理解に苦しむ問題がある。閏10月があるということは、通常の10月がその前にな

ければならない。ここには通常の10月の29日間か30日間の旅程記事が無い。1カ月の間、何も記すことが

ないのは不自然である。また、通常の10月に書くべきことが無かっただけだとすると、同じ越州の中の移動(越

州会稽郡須岸山から越州の州衙までの移動)に9月16日から通常の10月をはさんで閏10月1日まで1カ月

半ほどかかったことになり、こちらも不自然である。

 また、通典の10月が通常の10月であるならば、実は書紀と通典の日にちは食い違っていることになり、さ

らに往復9カ月に通常の10月の1カ月加えたとしても、往復に10カ月しかかからない。孝徳紀の日数よりも

かなり短いことになる。

 以上の日本書紀の記事を念頭に置きながら、次に続日本紀の記事と見比べてみよう。

 

 

第2項 続紀の遣唐使記事 往復にかかる時間

 

1. 粟田真人の遣唐使

  大宝2年(702年)6月29日   九州から出発

  慶雲元年(704年)7月 1日   真人帰国

 往復約2年、703年唐到着の記事は続紀には無い。奈良から九州間が片道1カ月23日、往復3カ月16日。帰国の到着地が九州とすれば、奈良から唐の往復に2年3カ月と半月。帰国地が奈良だとすると、奈良と唐の往復は約2年2カ月

               

2. 多治比真人県守の遣唐使

  霊亀2年(716年) 8月20日  大宰府から出航

  養老2年(718年)10月20日  帰朝(大宰府か)

            12月13日  帰京

 往復2年2カ月。九州から奈良 片道1カ月23日、往復2カ月16日。よって、奈良と唐の往復は2年5カ月と半月

 

3. 多治比真人広成の遣唐使

  天平5年(733年) 4月 3日  出発

6年(734年)11月20日  種子島に帰る

    7年(735年) 3月10日  天皇に拝謁

 出発地は不明。奈良発・奈良着として往復1年11カ月強。出発が九州の場合には往復は2年1カ月。

 

4. 藤原清河の遣唐使 副使、吉備真備・大伴古麻呂

  天平勝宝4年(752年)3月3日  天皇に拝謁、節刀を授かる

      6年(754年)正月16日 古麻呂、鑑真を伴い帰国

 出発の日は書かれていない。拝謁の日に近いと仮定。帰国の地点が書いていないので奈良着とすると往復1年10カ月。帰国地点が九州だったとすれば1カ月23日を加えて約2年。

 

天候や潮流など運航に関わる条件は不明のためおおよその目安ではあるが、ここまで続紀の往復にかかる時間は平均で2年強と言えるだろう。

               

 

第3項 書紀と続紀の旅程の比較 まとめ

 

 以上、書紀の斉明紀、伊吉博徳の書の遣唐使の異様な速さは、書紀がいかに不可能なことを記述しているかを私たちに示してくれている。孝徳紀の1年6カ月でさえ、時代を考えればかなり速い移動速度であった。そしてこの書紀における遣唐使記事の怪しさは、中国への遣使を含む交流の欠如を物語っている。遣唐使の時代にも中国への旅程を正確に把握できていないヤマトの勢力が遣隋使や、遣宋使、遣魏使の実績もなかったことを示していると言えるであろう。また当然、博徳書に書かれている蝦夷を伴った遣使記事についての怪しさも予想させる。

日本書紀を信じている人々は、書紀の時代の方が続紀の時代よりも科学技術が発達し、ヤマトの勢力は高速艇を駆使していたことを証明するか、続紀の方が信ずるに足る史書であることを認め、書紀と決別するのかを決断しなければならないだろう。

 

第2節 書紀対続紀の第二ラウンド

侵攻の速度から検討する

 

第1項 書紀における蝦夷記事

 

1. 崇神紀10年9月9日 有名な「四道将軍」についてである。崇神記にも類似の記事がある。Wikipediaによると、崇神天皇が実在していたとすれば3世紀末から4世紀初頭のことである。

崇神朝は、大彦命を北陸(古事記では越の國)、武渟川(タケヌナカワワケ)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命を丹波に遣わす。「もし教えに従わない者があれば兵を以って討て」と詔。 

 崇神紀における「教えに従わない者」が蝦夷のことだとすると、随分広い範囲に教えに従わない蝦夷がいたことになる。九州(西海)、北陸、東海に蝦夷、丹波にも蝦夷。すべてが蝦夷だと言えるわけではないであろう。

 

崇神紀11年4月28日:四道将軍は地方の敵を平らげた様子を報告した。 

4世紀初頭までに、大彦と武渟川別が会津まで遠征できたのかを検証してみなければいけない。

 

2. 景行紀の蝦夷と日本武尊 景行記にも類似の記事あり。

景行天皇が実在したとすれば、崇神天皇の2代後なので、在位は4世紀中ごろか。

 

景行紀25年2月12日 天皇は武内宿禰を北陸と東方へと視察させる。

景行紀27年 武内宿禰:東国の田舎の中に日高見國があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。

 景行紀27年10月 日本武尊、駿河(焼津)、相模、馳水(走水=東京湾)、上総、陸奥国、玉浦、蝦夷の支配地、蝦夷服従、日高見国、常陸(新治・筑波)、甲斐国、

日本武尊:蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ、信濃国、越国だけが少し王化に服しない。 

 ヤマトの勢力は越国に苦戦している。後に述べる、700年代初頭の文武紀・元明紀における越後での苦闘を表明しているかのようである。

 

吉備津彦が越へ、日本武尊は甲斐、武蔵、上野、薄日坂(薄井峠)、信濃へ

景行紀(不明の年) 日本武尊の死

景行紀40年6月  辺境の蝦夷がそむいて辺境が動揺した。

 

3. 古事記の敏達記には蝦夷記事は無い。

敏達紀の蝦夷 

敏達紀10年(549年)閏2月 蝦夷数千が辺境を侵し荒らした。その首領の綾糟らを召して詔りする。「思うにお前たち蝦夷らを景行天皇の御代に討伐され、殺すべきものは殺し、許せるものは許された。今、自分は前例に従って、首領者であるものは殺そうと思う。」

綾糟:今から後、子々孫々に至るまで、清く明るき心を以て、常にお仕えいたします。

もし、誓いに背いたら、天地の諸神と天皇の魂に、私どもの種族は絶滅されるでしょ

う。

 綾糟の所在地は不明。この時期までに、ヤマト側が綾糟の居住地に侵攻し支配をしていたことが前提の記事である。

 

4.雄略記に蝦夷記事は無い。

雄略紀:蝦夷500人反乱、小競り合い、娑婆湊(さばのみなと・広島県か)で合戦になり、ことごとく殺す。

 広島に東北の蝦夷が移住させられたのであろうか。その場合、東北のどの地域の出身者たちなのか、その反乱の原因は何か、詳細は不明。

 

5.孝徳記・紀に蝦夷記事は無い。

 

6.斉明記に蝦夷記事は無い。 

斉明紀の蝦夷     

 以下、ヤマトタケルの征討譚以上に唐突に、しかも異様に濃密な蝦夷記事があり、極めて不自然な感じは否めない。おそらく、博徳書をもっともらしく見せるための準備であろう。

 

 斉明元年(655年)7月11日 北(越)の蝦夷90人、東(陸奥)の蝦夷95人に饗応。

 越を北として意識している。また陸奥が東である。この点は後にも触れる大事な点である。

 

 斉明元年の冬、蝦夷・隼人が仲間を率いて服属、朝(みかど)に物を貢いだ。

 

斉明4年(658年)4月 阿倍比羅夫の遠征 船軍180艘を率いて蝦夷を討つ。

秋田・能代2郡の蝦夷は遠くから眺めただけで降伏を乞う。渡島の蝦夷と共に饗応。   

 渡島=北海道 続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、これはありえないであろう。

  

斉明4年7月4日 蝦夷200人余り、物を奉る。

能代郡・・・津軽郡・・・の大領、少領に位を与える。能代郡の大領に詔して蝦夷の戸口と捕虜の戸口を調査させる。

 渡島同様に 能代、津軽は続紀における蝦夷との抗争がどこで行われたのかを考慮に入れると、これも不可能である。

 

斉明5年(659年)3月17日 陸奥と越の国の蝦夷を饗応。この月に、4年4月と類似の記事あり。阿倍比羅夫が「船軍180艘を率いて蝦夷を討つ」、と。さらに、津軽の蝦夷120人を饗応。

180艘は斉明4年4月記事と偶然の一致か、誤って二重に記載したのか。

 

また、先の閏10月30日の蝦夷の居住地は「(ヤマトの)国の東北の方角にあります」と、東北にまで侵攻したことを意識させようとしている(注1)。東北あるいは都加留(津軽)などの地理的描写は、先に引用された中国の通典などの史書には記述がない。推古紀、舒明紀の難波津、飛鳥の再現である(注2)。斉明紀の時点でヤマト王権が東北に侵攻することは不可能なことを、後に続日本紀に語ってもらう予定であるが、斉明紀において津軽はなおさら不可能。青森への進軍は源氏のなしたことであった。斉明天皇に「そなた様は源氏であられますか?」と尋ねたいところである。

    (注1) 閏10月30日の伊吉薄徳の書は、蝦夷を伴った遣使者と唐の天子

        との対話を載せている。対話全体は後の第3節第2項で引用する。

    (注2) 第4章「書紀における中国との外交記事を検討する」を参照のこと

 

第2項 続紀における蝦夷記事

 

 日本書記の時点で山形、秋田、宮城、岩手、さらに津軽(青森)まで勢力を伸ばしていたと語られているヤマト王権。しかし、そのような「大胆な構想」を念頭に日本書紀は執筆され、それを史実として鵜呑みにする定説史家が数多く存在している。日本後記(後期と略すこともある)における平安時代、桓武天皇紀の9世紀初頭に坂上田村麻呂が登場して初めて蝦夷との抗争は一応の終止符を打つ、しかも岩手県の胆沢の周辺で。これに対して、そのおよそ1世紀前、続紀における文武紀・元明紀時点ではヤマト朝廷は越後の辺りで苦闘している。この後記・続紀の語ることが歴史の真実ではなかったのか。日本書紀との不整合は明らかである。様々な疑問が生まれてくる。日本古代史研究は何と素人風の不可思議な「古代史サークル活動」をしているのだろうか。定説は、続紀が語る記事の存在すら認めたくないのであろうか。書紀の馬鹿げた侵攻範囲、およびその侵攻速度を自明のこととして研究すると、続紀の文武紀・元明紀は見落とされてしまうことになるのだろうか。これも一種のスコトマ(scotoma (注))なのだろう。

    (注) スコトマ:先入観や関心にとらわれていると、現に存在しているものが

      見えなくなったり、影の薄いものになる現象。

 

以下、続日本紀の文武紀・元明紀における対蝦夷抗争を見ておこう。

 蝦夷についてある程度正確な文書による史資料は何かと言えば、続紀・後記の文武紀から桓武紀までのものであろう。『常陸国風土記』、『陸奥国風土記』は参照しないのか、という声に対して私はこう応えたい。伝説上の日本武尊が活躍する点で両風土記は史資料としては活用できないと考えている、と。例えば、『常陸国風土記』が編纂されたのは養老5年・721年であった。中央から常陸国守が700年以降は派遣されていたが、藤原不比等の三男の藤原宇合(うまかい)が常陸国守として派遣されていたのが養老3年・719年。『常陸国風土記』には当然、中央の息が特に強力にかかっていたものと受け止められるべきである。『陸奥国風土記』はさらに後代の編纂であり中央の意向から独立に編纂されたということは期待できないからである。

 

1.続紀における「越後」と「狄」に注目

 

文武紀:文武元年(697年)12月18日 越後の蝦狄(かてき・えみし)に地位に

応じて物を与えた。

 

    文武2年(698年)6月14日 越後国の蝦狄が土地の産物を献上した。

 

宇治谷孟氏の訳者注(講談社学術文庫P16)によると、「北陸道方面では蝦狄、東山道方面では蝦夷と使い分け」と指摘されている。この使い分けは注目すべきである。その理由はすでに指摘してきたが、さらに続紀に基づいて見ていこう。

文武紀では越後と狄とが結び付けられている。しかし、この結びつきは必ずしもいつもというわけではない。文武2年4月25日では越後の「蝦夷」106人に、身分に応じて位を授けた、とある。蝦夷とも呼ばれているからである。蝦夷は基本的には、方角いかんにかかわらず、一般的な用語であろう。しかし、あえて「狄」を使うときには、ことさら「北」が意識されていることは間違いない。先に斉明元年の冬の記事にも越が北として意識されていた。文武紀以降でも、出羽(日本海側の山形以北)の蝦夷が「狄」と呼ばれることが多い。言うまでもなく、狄とは中華思想における北方にいる化外の異民族・勢力という意味だ。ところで、なぜ越後の蝦夷が「狄」であり「北」なのであろうか。書紀の記述から考えるともっと北の山形・秋田に進むべきだと考えられるだろう。

蝦夷研究について定評を博す研究者たちが無視・軽視する蝦夷関連の史資料がある。それが続日本紀の文武紀と元明紀の「越後」と「狄」についてなのである。文武紀では越後の蝦夷に「狄」が使われている。すると越後が「北」に見える地域、そこがヤマトの勢力の圏内、支配が完了した地域ではないだろうか。そのような視点で続日本紀を見てみよう。すると、元明紀では越後も完全にヤマト朝廷の支配下に組み込まれていない状況が記されていることが分かる。先に見たように、ヤマトタケルが「信濃国、越国だけが少し王化に服しない」と語った事情は、この文武紀・元明紀における状況の反映とその描写であった可能性がある。時代は大きくずらされているが。

 

元明紀:和銅2年(709年)3月 5日

陸奥・越後の蝦夷は、野蛮な心があって馴れず、しばしば良民に危害を加える。そこで使者を遣わして、遠江・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発し、左代弁・正4位下の巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、民部大輔・正5位下の佐伯宿禰石湯を征越後蝦夷将軍に任じ・・・東山道と北陸道の両方から討たせた。

 

元明紀でも最初期における焦眉の課題は越後蝦夷征討であったことがわかる。「征越後蝦夷将軍」が存在しているのである。有名な坂上田村麻呂が征夷大将軍であったのは、「服ろわぬ民」の蝦夷が存在したことを大前提とする。したがって、征越後蝦夷将軍が存在することの意味は容易にわかるであろう。つまり文武はもちろん、元明の時期においても、ヤマト朝廷は越後が制覇できていなかったことを表明しているのである。越後の全体なのか、越後の一部なのかは不明だが、「征越後蝦夷」将軍が存在するということは、越後のかなりの部分を指していると理解できる。少なくとも、ヤマト朝廷が越後を完全制覇できていないことを意味している。続日本紀は日本書紀の誇大な日本列島早期征討劇が無かった、続紀が斉明紀で津軽はおろか出羽(山形)支配が遂行されていなかったことを告白しているのである。続紀と書記の齟齬である。どちらがより信じられるのかは明白である。このことには度々触れる。

 

2.越後が北に見える場所とは

 

しヤマト朝廷が越後・新潟の南部まで支配していたとする。その場合に新潟県内でターゲットとして考えられるのは、渟足柵(ヌタリさく・新潟市)や岩船柵(イワフネさく・村上市)の地であろうか。ヤマトが制圧しきれていないのは越後の北部であろう。渟足・岩船の地帯であると仮定しよう。そしてこの地域が北に見える場所はどこかを考えて地図を見る。さらに、渟足・岩船が北に見えるその位置から東を見てみる。茨城県とさらに福島県の南部である。文武・元明の時代に常陸国(茨城県)はすでに支配下にはいっていたとすれば、この時点においては福島が陸奥(みちのく)であり、ヤマト朝廷のターゲットであった可能性がある。北方向が新潟市・村上市、東方向が福島県、両方を満たすのは新潟県南部や群馬県、栃木県の地帯という可能性がある。つまり、そこまで文武の時代、そして元明の初期段階にはヤマトの支配権内に入っていた可能性は大きいと言えるだろう。

 

しかしその後、元明紀では対蝦夷で急展開が起こっている。

 

和銅2年7月 1日:従五位上の上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に任じた。諸国に

銘じて兵器を出羽柵に運び遅らせた。

 

和銅2年7月13日:越前・越中・越後・佐渡の4国の船100艘を征狄所に送

らせた。

 

 わずか4カ月ほどの間に越後は後方支援の拠点に算入され、出羽にも柵が造営された様子が記述されている。ということは、越後地域の渟足・岩船を含めた越後全域がヤマトの支配下に入り、出羽国、つまり日本海側の山形の方面にターゲットが移り、そこの蝦夷が今度は「狄」と呼ばれる時代が訪れるのである(注)。

 元明紀以降、出羽の服ろわぬ(まつろわぬ・服従しない)人々が狄と呼ばれている事例である。

    (注) この急展開がなぜどのようにして可能であったのかについては今後検討

されなければならない。後日、語ってみたい。

 

    元明和銅5年(712年)9月23日:北辺の夷狄(えみし・いてき)は遠く離れていて・・・皇民は(公民)は煩わされることが無くなりました。・・・ここに一国を置き国司を任じて・・・初めて出羽国が置かれた。(注)

(注) ここで、出羽国の設置が和銅5年ということは、和銅2年に出羽柵が

できてから3年後であり、柵ができることは国の設置に先行して行われてい

るいることを確認しておく。

 

    元正霊亀2年9月23日(716年):巨勢朝臣麻呂が言上。出羽国を建てて数

年、官人や人民が少なく、狄徒もまだ慣れていない。しかしその土地はよく肥え

ており田野は広大で余地がある。どうか近くの国の民を出羽国に移し、凶暴な敵

を教えさとし、あわせて土地の利益を向上させたい。

    

さらに、元正養老7年9月17日(723年)には、出羽の国司・多治比真人の言上の中に、「愚かな夷狄」の文字が見え、また聖武天平9年4月(737年)の記事によると、服ろわぬ民は陸奥・宮城県側では蝦夷、出羽側は夷狄と呼ばれている。出羽地方が含まれるときには、蝦夷は狄を含む言葉「夷狄」が使われることが正史に度々、登場している。そして日本後紀に移るが、桓武延暦16年2月13日(797年)には、蝦夷・「狄人」という用語も見られる。この場合も、蝦夷は陸奥が、狄人は北・出羽が意識されているのである。

 

 さて、元明紀に戻ろう。元明朝の後半で岩船(村上市)を含む越後全域はヤマトの支配下に入ったようだが、そこで改めて和銅2年7月の時点における蝦夷の勢力圏を岩船柵から眺めてみよう。北が出羽の山形、そこの住人が北狄、東が陸奥の福島から宮城県中部の仙台市、また多賀城などが広がり、そこの住人が東夷ということになる。実際の地図でも確認してほしい。

 

 

 

 

 

 

 

村上市は多賀城とほぼ同じ緯度

 

 

  ちなみに、続日本紀や日本後紀(後紀とすることがある)の事例を見ると、陸奥国・太平洋側の蝦夷を「狄」と呼ぶ例は皆無である。この意味で続紀・後紀は蝦夷が住む方位を正確に述べる意思を持っていたようなので、方位が意識されている場合には、「夷狄」、「蝦夷」を「えみし」とは読まず、例えば「夷狄」を「いてき」、「蝦狄」を「かてき」というように読み方を区別することが必要と思われる。

 

3.上毛野氏・下毛野氏の活躍

これと関連しているのが、蝦夷征討における上毛野氏・下毛野氏の役割である。つまり、この時代の対蝦夷の最前線にあたるのが群馬県・栃木県なのである。続日本紀を見ると下記の通り、上毛野氏・下毛野氏が目立っている。

 和銅元年(708年)3月13日の官職任命:従四位下・下毛野朝臣古麻呂を式部

卿、従五位下・上毛野朝臣安麻呂を上総守に、従四位下・上毛野朝臣小足を陸奥守に

任じる

 和銅2年(709年)正月9日の位階授与:正六位上・上毛野朝臣荒馬に従五位下を

授ける

 和銅2年7月1日の官職任命:上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に任じる

上毛野、下毛野を拠点とする豪族を上毛野氏、下毛野氏と名付けた可能性は大きい。これを機に両氏族は中央の官人にも取り立てられるようになる。(注)

   (注)天平元年(729年)2月17日には上毛野宿奈麻呂が、長屋王の呪詛事件(長屋王は同年2月12日に自殺に追い込まれる)に加担したとして流罪に処せられ勢いを失うが、その後も一族が中央官人の地位を一定程度、占めている。

蝦夷研究で著名な中路正恒氏は、中央官人ではない上毛野氏・下毛野氏がとりわけ初期蝦夷征討で活躍していることを指摘している(注)。これは重要な指摘と思われるが、その理由とはまさに上・下毛野氏が蝦夷との最前線に位置する氏族であったからに他ならないからである。他の時期に比べて特にこの時期に、上毛野氏・下毛野氏の存在感は際立っている。

      (注)『古代東北と王権「日本書紀の語る蝦夷」』中路正恒 

講談社現代新書 P.73    

          

4.遠流の地と戦闘の最前線 

  資料が限られているので、蝦夷とヤマト朝廷との戦闘の最前戦がどこかを考える手掛かりとして、次いで流刑地について考えてみたい。それほど明確なものは見えてこないが。

聖武神亀元年(724年)3月1日(日付は誤りとされている)

 

 流罪人の遠近の規定を次のように定めた。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の六国を遠とし、諏訪・伊予・を中とし、越前・安岐を近とした。

 中・近地帯はもちろん、遠の地帯も政治的な支配として安定期に入ったということを意味しているであろう。政治的に不安定な地域に流刑者を置くことはできないであろうからである。反対に見ると、蝦夷の勢力圏はヤマト朝廷が遠流地に指定した外延部の少なくとも一回りは外側ということになる。伊豆・安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐の6国は半島などの最果ての土地・孤立した島の他に常陸国が入っている。そして越後は遠流地には入っていない。また、上毛野、下毛野が入らないのはそこが戦闘の最前線だからであろう。

 しかし、これはある程度の目安であるにすぎない。常陸国などはある面ではいまだ不安定であるという様子が語られている。

    神亀2年(725年)3月17日 常陸国の百姓で蝦夷の裏切りで家を焼かれ、

財物の損失が9分以上の者には3年間の租税免除、4分以上の者には・・・

 この事件が常陸国のどの地方かは記述がないが、このようにこの時期の常陸国も南北に長いので北に行けば行くほど不安定さは増すかもしれない、

5.兵士の徴発地域から考察する

一般的な理解・解説によると柵、城柵は蝦夷の地に打ち込んだヤマトの拠点ということになろう。ヤマトの支配権内に入った常陸国内でさえ不安定要素を抱えているということは、敵地・賊地内に造作した柵が危険にさらされていることは明らかである。渟足柵、岩船柵を形成する時期は、少なくとも北部越後はまだ敵地なのである。したがって、越後国から兵士を徴発することはできないであろう。兵士の徴発は越後より西・南ということになる。

この意味で、元明和銅2年(709年)3月5日の次の記事は当然であろう。

陸奥・越後2国の蝦夷は野心があって馴れず、しばしば良民に害を加える。そこで使者を使わして、遠江・駿河・甲斐・信濃・上野・越前・越中などの国から兵士などを徴発する。

もとより遠方の国が徴兵の対象にはならないが、越後での戦いなので兵の徴発国に越後は入らない。よほどの緊急事態でも生じない限りは、徴兵・徴発は信濃・上野・越中などの隣接国までであろう。

以上の通り、文武・元明の時代には、陸奥国・出羽国どころか、越後の蝦夷対策が必要な時代であり、ヤマト朝廷が支配権を確保していた進軍の最前線は越前・信濃・上毛野・下毛野・常陸などであったということは確認できたと思う。  

上記の2における地図を裏付けるものにもなろう。

 

第3項 続紀対書紀のまとめ

1. 軍配は続紀に上がる

 すでに決着がついた感があるが、ここでは簡単に続紀の方が歴史の真実に近いということを再確認しておこう。書記によれば、ヤマトの王権は崇神紀ですでにオオヒコの尊らが会津まで進軍していた。景行紀ではヤマトタケルの活躍によってヤマト王権は房総半島から常陸の国に進軍したように見せている。定説としては最も慎重と思われる熊谷公男氏なども常陸国風土記を頼りに常陸国制覇を主張するばかりでなく、陸奥国風土記を手掛かりにしてヤマトタケルの陸奥への侵攻までも主張している。その流れからすれば書記の斉明紀で津輕まで勢力圏にしていたかのような記述も真実だと語られることになる。書紀の記述からの脈絡では首尾一貫していると言えるだろ。

 しかし、続日本紀は書紀のこの誇大宣伝がいかにまやかしであるかを明確に示している。文武朝は越後が完全に制覇しきれていなかったことを告白していた。元明朝では「征越後蝦夷将軍」まで登場させていた。蝦夷征討が着実に南西から北東に向かって、しらみつぶしに着実に進んでいくことはなかったにしても、書紀では会津や秋田、能代、津軽まで征服していたヤマト王権。続紀では後退に後退を重ねたのであろうか。ついに南西の越後まで後退し、そこが戦闘の最前線になった。これはありえない。もしそうであれば、この間に敗北の歴史があったということになるはずだが、そのような記述はより正直な続紀においても一切、存在していない。続紀がより真実を語り、逆に書紀が「話を盛っていた」のである。文武天皇の時代が始まる時点では、ヤマトの勢力圏は越後南部・上毛野・下毛野・常陸を結ぶ線を境界線にしていたと言えるだろう。

 さらに、すでに述べたように続日本紀は斉明紀の時点でヤマト朝廷による津軽進出、侵攻が無理であることを示していた。さきにも触れた、平安時代に入ってからの桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が登場して蝦夷征討劇は完成する。延暦21年(802年)のことである。その最終到達点はどこであったか。そう、岩手県の胆沢であった。しかも東北はまだ全く安定支配がされていないことが記されている。桓武天皇・延暦23年(804年)11月22日の出羽国の言上である。

  秋田城は建置以来40余年経っていますが、土地は瘦せて穀物生産には不適当です。

  さらに北方に孤立しており、近隣に救援を求めることができません。伏して、今後永

く秋田城を停廃して河辺府を防御の拠点とすることを要望します。

 田村麻呂の活躍によって、反乱軍の首領とされた阿弖流為や母礼らが処刑された後も秋田城はいつ襲撃されるかわからない状況下にあり、「防御」が必要であったのである。

 以上で、書紀の蝦夷征討の記事は史実として語られるべきではない、ということを示せたと思う。

2. 定説が文武紀・元明紀を無視する理由

蝦夷の通説的扱い、つまり記紀に依拠する蝦夷論は明らかな破綻をきたすことになる。

 工藤雅樹氏の蝦夷論は考古学的知見から蝦夷を論じている点で学ぶべきことは多い。しかし氏の議論には飛躍がある。書紀の斉明紀における安倍比羅夫の記事(第3節・第1項6)について、「根拠のないことをわざわざ記したとも思われない」(注1)とこれを擁護している。さらに、伊吉薄徳の書における蝦夷を伴って唐に遣使した際の、唐の高宗との対話を引用しながら、斉明朝の時点で、つまり659年前後の時点で、ヤマト王権がすでに津軽を含む東北に進出していたことを承認する(注2)。そこから、文武紀・元明紀の越後における蝦夷との抗争には全く触れずに、一気に多賀柵(一般には724年築造とされている)に向かう(注3)。先に触れた中路氏もこの点は同様であり、両氏ともに文武紀と元明紀については素通りしてしまっている。

おそらく、文武紀・元明紀について語り始めるとヤマト王権の侵攻度合いに不整合が生じることになり、不都合だからであろう。つまり、早く戦線の最先端を北上させないことには、定説の拠り所としている日本書紀の侵攻の速さに乗り遅れるからである。「いつまでも越後あたりでグズグズすることはできない」、「文武紀・元明紀は避けて通ろう」ということであっただろう。

これを私は定説による「文武・元明隠し」と名付けることにする。

(注1) 『蝦夷の古代史』 工藤雅樹 平凡社新書 2009年 P.104

(注2)  同上書、P.112~113

     (注3) 同上書、P.118

第3節 唐に「国」として理解された蝦夷

ヤマトは蝦夷国に侵略戦争を仕掛けていた

 蝦夷の唐への登場の場面から考えてみたい。それは、通典、冊府元亀では蝦夷は倭国と共に蝦夷国として記述されていることにかかわる。

  通典、巻185,辺防1、土門編

   蝦夷国は海東中の小国である。その使いは鬚の長さ4尺、弓矢を巧みに使う。首に矢立を挿し、瓜を載せた人を40歩の距離に立たせ射るも、当たらないことがない。大唐顕慶4年(659年)10月に倭国の使人に随い朝貢する。

  冊府元亀、外信部、漢997,状棒貎門

   顕慶4年、蝦夷国遣使の人が朝貢する。その鬚の長さ4尺。

 

第1項 蝦夷「国」の存在

 通典などに残された蝦夷記事はあまりにも記述内容が少なすぎるので、特に論じるべきことはなさそうなのだが、注目すべきことが2点ある。蝦夷の唐への登場は「国」としての扱いを受けたもの、つまり蝦夷「国」としてのものであり、倭「国」に伴われてのものである。倭国と並ぶ一つの「国」としての遣使であった。しかも、儀礼を尽くし、朝貢という名の正式の遣使であったということは特筆すべきである。

 この点では、咸亨(かんこう)元年(670年)の日本国の使者に対する扱いとは明らかに異なる。日本国の主張が大幅に受け止められている新唐書においてさえも、上表文も貢物も持参しない単なる唐への来訪に過ぎなかったかのように描写され、さらに旧唐書では単なる「そこの人(其人)」扱いであった。その上、日本国の使者の発言はことごとく疑われていた。蝦夷国の扱いとは大きな相違点である。倭国という中国外交史上、実績を積んできた国に伴われてきた蝦夷は「その身元も保証され、国としての処遇を受けた」ということになろう。九州倭国もまた、蝦夷を国として承認していたことを意味している。

すると、日本書紀や続日本紀に記されたヤマト王権・ヤマト朝廷と蝦夷との戦闘場面などは、いわば「国家間の紛争」ということになり、「外交問題」だと言えるであろう。列島内のことはヤマト王権・ヤマト朝廷、あるいは日本国内部の問題だ、そのように語るのがヤマト側の立場であろう。しかし、それは歴史の真実とは言えないのではないか。そして書紀における外交問題の記述は、書紀にとっては新たな墓穴を掘ることにもなる。「外交問題」は書紀の最大の弱点である。書紀自身も、以下のように蝦夷「国」の存在を語ってしまっている。

斉明5年10月30日、伊吉博徳の書における蝦夷を伴った遣唐使記事である。

唐の天子:ここにいる蝦夷のはどちらの方角にあるか。

使人:国の東北の方角にあります。

天子:蝦夷には何種類あるのか。

使人:三種あります。遠いところのものを都加留(津軽)、次のものを麁蝦夷

(あらえみし)、一番近いものを熟蝦夷(にぎえみし)と名付けていま

す。今ここにいるのは熟蝦夷です。

天子:そのに五穀はあるか。

使人:ありません。肉食によって生活します。

天子:に家屋はあるのか。

使人:ありません。深山の樹の下に住んでいます。

天子:自分は蝦夷の顔や体の異様なのを見て、大変奇異に感じた。

これに附随して、難波吉士男子(なにわのきしおびと)の書き記したものが

ある。蝦夷を天子にお見せした。蝦夷は白鹿の皮1、弓3、箭80を

天子に奉った。

 斉明紀も唐の天子が語った通りに蝦夷を「」と表記。「はどちらにあるか」「に五穀はあるのか」「に家屋はあるのか」。博徳も「蝦夷の居住地は国ではない」という「訂正」を天子に求めていない。書紀の編纂者もそのまま「国」として記述してしまっている。蝦夷が「国」であるという認識は、唐や九州倭国ばかりでなく、ヤマトの王権も持っていたことになる。

さらに、独立の国家である蝦夷国を侵略するという認識もヤマト側は持っていた。景行紀の武内宿禰(たけしうちのすくね)の言葉が明確に語っている。「東国の田舎の中に日高見『国』(北上川上流か)があります。そのの人は勇敢です。これらすべて蝦夷と言います。また土地は超えていて広大です。攻略するといいでしょう。」

武内宿禰は、蝦夷が国をなしていることを認めたうえで、日高見「国」、蝦夷「国」を「攻略」するように提議している。したがって、蝦夷国との戦闘はヤマトによる蝦夷の居住地への侵攻・侵略であり、蝦夷の戦いはそれに対する防衛戦であると位置づけることができるのである。これは私だけの見解ではなく、日本書紀自身の認識である。そして国家間の最も不幸な外交関係、戦争へと突入することになった。

 

第4節 毛人と蝦夷 

二つの毛人記事から

第1項 史書の毛人

 毛人の問題にも少し触れておこう。毛人を蝦夷だとする説は多い。これは正しいと言えるのか。検討してみたい。

毛人が史書に登場するのは、まずその1つが宋書の倭王武の上表文である。「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。…。」

さらに旧唐書日本国伝、新唐書日本伝にも毛人が出てくる。新唐書では、例の咸亨(かんこう)元年(670年)の記事の最後に、「その国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人だと云う。」旧・新唐書の内容を区別する必要はないので、唐書の毛人と呼ぶ。これが2つ目の毛人である。

宋書の倭王武は九州倭国の王であることを私は度々述べてきた。したがって、宋書の方角、北・西・東は九州の或る地点からのものである。もとより倭王武の上表文は南朝宋に対して倭国の実績を誇る内容になっているため、誇大である可能性が大きい。その点を考慮に入れなければならないが、まず海北は朝鮮半島のことであろう(注)。西は九州西部だろうか。東は九州東部・中国・四国になろう。東はとても東北はおろか、東日本にも達しないであろう。すると、私たちが今日もっている「蝦夷=東北の住人」という観念とは異なっている。

(注)九州から見れば、海北は朝鮮半島である。近畿からの海北には妥当な場

所は存在しない。また、そうであるからには、倭王武は九州に拠点を置い

ていたことが分かる。

第2項 毛人とは何か

さて、毛人とは何であろうか。倭王武の言う毛人であるが、彼らは多毛であったのだろうか。すると、倭王武は毛深くはなかったことになるだろう。多毛の人間が毛深い人間を多毛という特徴づけはしないはずだ。倭王武は毛深くなかった(薄毛だった)のではないか。自然人類学の埴原和郎氏によれば(注)、多毛は旧モンゴロイド、おそらく縄文系、そして薄毛は新モンゴロイド、おそらく弥生系である。私たち現代に日本人は両者の混血であることは間違えないであろう。どちらの形質が色濃く出ているかは個人差があるが。さらに、九州とその東ということは宋書の毛人は、いわゆる蝦夷ではなく、熊襲・隼人との関係で探る必要が出てくる。蝦夷と熊襲は古来日本に住んでいたネイティブ・ジャパニーズで同種であったかもしれない。近年のDNA鑑定によっても、日本列島に住む住民のうち、北と南に住む人々のものが類似しているようである。もともと列島に住んでいた旧モンゴロイド系の人々が、後に大陸から渡ってきた弥生系の新モンゴロイド系の人々により南北に押しやられていったという過程があった可能性は大きい。

あるいは、毛人というのは単に髭剃りの習慣がなかったという可能性もある。また、ヤマト王権によって「王化に服さない人々」に対する別称、蔑称であったかもしれない。つまり単なる差別を誇張する「政治的カテゴリー」だった可能性もある。戦前の戦争に反対する人々が「赤」と呼ばれたように。

いずれにしても重要なことは、宋書における毛人は東北の住人、つまりいわゆる蝦夷ではない。この点は確認しておこう。

(注) 『日本人はどこから来たか』 埴原和郎

 小学館創造選書 1984年 第2刷 P.50~52

第3項 誤った結び付けによるトリック

これに対して、唐書の毛人について見ておこう。これは唐書の日本(国)伝に載るものであった。そして旧・新唐書の日本(国)伝はヤマト王権の自己主張が多く取り込まれていた(注)。その自己主張の一つである。新唐書日本伝は語る。「その国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人であると云う。」

    (注)拙稿、第八章「旧唐書と新唐書の間」も参照のこと

唐書では「東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人」と言われているが、ここに書かれたのは唐の認識ではなく、使者の日本人が語った内容である。「と妄りに誇っている」、「と云っている」ということが唐の認識である。私は、この「毛人」は明らかにヤマトの使者が宋書の「毛人」のことを知って語ったものだと考えている。倭王武が述べた「東は毛人」にふさわしいのがヤマトに居る我々の状況に近い、利用できる。これがヤマトの官人の発想ではなかったか。

言いかえると、唐書の東・北は日本国が「自己主張した」とおりヤマトから見た方角である。「東と北は大山が限界となり、その外は即ち毛人」という場合に想定される地域は、日本アルプスの東ないし北を指すことになる。倭王武の東をさらに東に平行移動させなければいけないであろう。斉明紀における伊吉博徳の書では東北、津軽が意識されていたように、書紀では「毛人」=「蝦夷」であり、蝦夷は東北方面に存在しなければならない人々であった。したがって、同じ「毛人」であっても、宋書と唐書の二つの書物に載る毛人は別々の存在として論じなければならない。

ところで、唐書に語られた誇大な自己主張にもかかわらず、東と北の大山が日本アルプスだとすると、その山外は毛人の世界であって、まだ征服されていないことを意味している。すでに見てきた通り、文武・元明の時代に、ヤマト朝廷は越後までしか進軍できていなかった。このことに符合してしまっている。したがって670年とされる唐書の毛人記事の東北の毛人はヤマトの王権によって征討されてはいなかったのであるが、唐書の自己主張においてもそのことを自ら認めるという不都合が生じている。

もし逆に、東北の毛人=蝦夷が670年の時期にすでに征討されていたとすれば、それはヤマト王権・書紀編者たちの単なる願望の中にあったものに過ぎなかったであろう。

また書紀からは離れるが、定説のように宋書の倭王武を雄略天皇に比定する立場からは、蝦夷・毛人の所在地はおそらく崎玉古墳群の稲荷山古墳よりもさらに北東の方向がイメージされることになる。定説ではすでに雄略朝において、稲荷山古墳の地帯はヤマトの勢力圏内に編入されており、そこでは国造(くにのみやっこ)がいたという日本書紀を基に学説を唱えているからである。この場合には、倭王武を雄略天皇と見なす立場からすれば、近畿ヤマトを中軸に据えるとになるので「東の毛人」は関東や東北ということになり、いわゆる書紀の描く東北の「蝦夷」と重なることにもなる。

第4項 2つの毛人は意味が違う

ただし、これだけは言える。すでに第2節で述べた通り、ヤマトの王権による早期の東国支配は不可能であった。唐書における日本国の使者によって語られた「毛人」は倭王武によって語られた「毛人」を念頭に置いているのだが、宋書の「毛人」は九州倭国の王の発言である。ヤマトの王権が九州倭国の事績を知り、さらに書紀に書くことができる可能性は3つある。1つは、伊吉薄徳の書などが九州倭国から入手した文書を基に改ざんした、つまりいわゆる「禁書」の一つが基になっていた場合。2つは、唐の時代に日本国の人たちは、宋書を読むことが出来た。実体験ではないにもかかわらず、宋書記事を基にして「毛人」記事は書けるのである。3つは、670年以降、日本国は使者を唐に送るようになる。その際に様々な情報を得ることが可能である。主に、九州倭国の遣使実績から必死に学び取ることができたであろう。

これらの情報からヤマトの官人たちは、720年の日本書紀が完成するまでに間に合わせることはできた。そのことによって、唐書の毛人は東や北の蝦夷と同一視されることになったのである。

しかし実際には、史実においてはと言い換えてもよいが、倭王武は九州の王であった。すると宋書に載る毛人の所在地は、定説が語るものよりも西に大きく平行移動され九州周辺部ということになろう。したがって言葉として同じ「毛人」であっても、倭王武の毛人と唐書の毛人とでは意味が異なっていたと言えるであろう。

つづく