制限速度20~30km/h -8ページ目
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間接適用説って何?

 私の所属大学では未だに前時代的な学生運動というモノをやっていて、学食の前なんかで熱心にビラ配りをしている何歳かよく判別できない男ども(多分学生)がチラホラしています。ビラを見てみると「小泉ふざけんじゃねえ」と大きく書いてありましたが、はっきりいって全然文才が感じられなくて興奮しないし、内容は湯葉みたいに薄っぺらいし、悪くしたらちょっと恥ずかしくなるような感じの修辞がバンバンあって、あれで我々を煽動しようというのだから本当、さぞかし程度の低い大学だと思われているんだろうなあと思いました(そして少し泣きたくなりました。ウソです。)。


 まあそんなことはどうでもよくって、憲法というのは用法容量を正しく扱わないと、時として毒薬にもなる大変危険なものだってことについて考えてみたいと思います。例えば先の学生運動の例で行けば、政治活動の自由を前面に押し出して学食前で大演説を行って、私らが飯を確保するじゃまになったらどうか。昼休みに飯が食えるかどうかで午後の講義で椅子に座っておくエナジーの残量が大きく左右されてしまうそんな学生生活において、これは大問題です。しかし政治活動を行っている学生をバンバン停学にしたいのはやまやまであるにしても、憲法の政治活動の自由を持ち出されると、それを封じるスベがなくなってしまう。それじゃあ校則で縛るかといっても、憲法より校則の方が強かったりなんかすると、憲法の最高法規性が失われちゃうんじゃないのっていう懸念がでてくるというか、まあ正直どうでもいいんだけど、そういう風になってしまうとやはりマズい。そこで世の中の頭のいい人たちは、憲法の「間接適用説」という離れ業を考え出しました。


 もともと歴史的に人権は対国家防衛の機能を与えられて出来たわけですが、そんな人権を制限するには、微妙な匙加減が大切でした。ちょっと間違えば国家によって人が蹂躙されてしまうし、だからといってこんなに隣を見てもどこを見ても人だらけな世の中に生きていて、誰もが自分の人権をギャーギャー主張するような自己中フィールドの現出で世の中が荒れるんだったら、いっそ人間なんて皆死んでしまえばいいんだって叫びたくなってしまうというこの小梅ちゃんのような酸っぱさ。とはいっても人権は公法私法含めた全法秩序の基本原則なので、できるだけその効果を限定しないようにしなくちゃならないわけだけれども、だからといってそれを直接人に適用することはできません。何故なら憲法は対国家規範であって、人に対する規範ではなく、誰かを守るために憲法を私事っぽく使ってしまうと、必ず誰かが憲法によって人権制限されてしまう悲しい運命にあるからです。さらに、人権を侵害するのは国家であると同時に、人権を守るのも国家、すなわち裁判所ですから、それだけ国家というのはビシバシ憲法によって鞭で打たないと危なっかしくて仕方がない。そこで出てくるのが憲法の「間接適用」というものであり(前置き長っ!)、一般条項を憲法によって意味充填補充するわけです。


 具体的に実際にあった事件でみてゆくと、有名なのが「三菱樹脂事件」です。当該事案は事件名にもなっている会社である三菱樹脂が就職試験において、志願者が学生運動歴について虚偽の申告をしたのに対し、試験期間終了時に本採用を拒否したという事件であり、これは19条の思想良心の自由および14条後段の信条による差別にあたるんじゃねとツッコまれたと。昔は学生運動が今とは比べ物にならないくらい盛んでしたから、当時の企業の重役連中は「もしかしたらあいつら労働組合作ってワシらにたてつくんじゃなかろうなアワワ」という思いから、思想良心なんて関係なしに面接に来た学生運動歴のある学生をちぎっては投げちぎっては投げして毛嫌いしていたというわけです。まあ現実的に考えると、所詮会社に入ったらほぼその会社のイヌになるしかない(大学教授は国家権力のイヌである)わけで、学校というサナトリウムを出て現実に引き戻された学生クンなんかを憲法違反してまで恐れることはないだろうって考え方もできなくはありませんが、結局裁判所は会社の措置は適法であるとしました。手口は間接適用説で、企業の「雇用の自由」をたてにとって、つまり憲法問題にしなかったというわけです。まさに「大人の論理」ってやつで、学生運動でならしたこの男の子もさすがにこの判決がでた夜は泣いたんじゃないんでしょーか?どうでしょうか。


 他にも「間接適用説」が採られた事件は結構あって、「日産自動車事件」なんてのはわかりやすく、昔の日産自動車の会社規則には「男女別定年制」があって、女性の方が定年齢が若かったということでメチャメチャ男女差別的な雰囲気が社会に蔓延していたというか、そんなんが当然として認知されていた時代があるんだなあーとしみじみとしてしまうような事案なのですが、もちろん男女別定年制なんてダメですよと裁判所は言いました。しかし面白いのは憲法における平等原則を使わずに、民法90条の公序良俗原則を間接適用して、日産の定年制の合理性を否定しました。「違憲判断をもったいぶんじゃねえ!」と若い人なら思われるかもしれませんが、しかしこれも立派な人権を守るための判断なのです。なぜなら先にチョロっと書いたように、憲法違反を日産自動車に適用してしまえば本来対国家規範であるはずの憲法で国民の人権を制限してしまう可能性があるからです。オマケに同じ公序良俗違反が使われた「間接適用説」事件を最後にもうひとつだけ挙げますが、「昭和女子大事件」というのがあります。もともと昭和女子大は私立であり、政治活動を禁止する生活要録というまあ校則のようなものがあったわけですが、その要録を無視して政治活動を行って退学処分とされた女学生の事件です。ナナナナントこの女学生、雑誌やラジオで大学の対応やなんかについてボロクソに批難したということで、大学にとっちゃ「頼むから死ぬか消えるかしろつうかお前何のためにウチに来たん?」って感じで、さすがに常識で考えてもこの女学生の「政治活動の自由」を憲法で認めるのはアレなんだけど、認めないのは憲法的にもダメだろっていうことで裁判所がウンウン唸ってひねり出した結論は、やっぱりウワサの「間接適用説」だったのだ。それによると政治活動を禁じる生活要録は学生の安全ひいては大学の自治を守る上でも不合理ではないし、そもそもオマエこの学校に入る前に生活要録の存在くらい知ってんだろうがこのクソがということで、それを知りながらやったオマエの場合では、退学処分も懲戒権者の裁量内とみなしてあたりめーだとされて、女学生はそのまま退学になっちゃいました。まあでもいくらこの女学生が政治活動に現を抜かして「故郷のお母さん、あたし、いま輝いてるわ!」なんて多少ヒロイズムに酔っていたとしても、もともと大学は教育機関なんだから、あんたの大学の刑法学者が声高に叫んでる「犯罪者の更生」と同じ要領で女学生を更生させるくらいの男気をみせてくれんかねってことで、やっぱり退学処分はやりすぎなんじゃねとヒトコト釘をさしたところで終わりたいと思います。

公務員の憂鬱

 死刑反対の友達がこんなこと言ってました。「人が人を殺す権利はねえ!」って。それを聞いて、「人が人に殺される義務」というのはあるのかななんて思ったりしたのですが、死刑を容認している日本に住んでいる限り、重犯罪の対価としての死刑は社会契約に含まれてるんじゃね?とかも思ったりする今日このごろ。そんな私の態度に友達は思わず、「年端もいかない子供にはそれ(死刑)を拒否する力がない!」と言いました。でも私は鶏が先か卵が先かみたいな話をするのはどうかなと思うし、そんなかつての東大全学連の人みたいな「純粋行動」を口酸っぱく論じていたら、この世のどこにも生きることはできませんよっていう現実があるんでないの?最終的には、「じゃあヨーロッパに行け」としか言い様がないこの現実。ごめんなさい、俺は本村さんをマジで擁護したい立場の一人なのです。


 今日は公務員について考えてみたいと思いますが、最近では公務員を減らせとかなんとかいって、親戚の海上自衛隊のオッサンの給料にもしわ寄せがきているみたいです。現内閣(小泉)では国の借金もヤバいことになってるし、医療費は削減されるし、それでも足りない財源は大増税で賄われるわでなんだか泣きたくなってきますが、公務員を減らすというのはマジに時代の流れではないかと。それとは全然関係ない話なんだけど、まずは公務員を規定する憲法15条についてクローズアップ現代といきたいと思います。この2項には「公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」と明記されていることから、公務員さんは政治活動を行ってはいけないというのも同然と解釈できますが、そもそもそれは何でなのでしょうか?それは行政は中立性が要求されるからで、国の手先である公務員が政治に深く食い込みすぎたら、やっぱり議員さんはそういう人らを優遇したくなるわけで、要するに癒着が起こってしまうわけです。郵政族とか○○族っていうやつ、あの人たちってある意味暴走族なんかよりよっぽどタチが悪いんだよね。


 前に「公共の福祉」でやった俺の好きな説「内在外在二元説」に基づいて考えると、こうした公務員の政治活動については精神的自由権ということで、制約は最低限度に留め厳格な基準で判断すべきであると説明することができます。そこで「猿払事件」という判例を引いてみることにしたいと思いますが、この事件では非管理職の郵便局員が勤務時間外に選挙用ポスターを公営掲示板に掲示しちゃって、さらに配布したという事件。そこで憤ったあるオッサンが彼を国家公務員法公務員の政治活動をマジで禁止している違反で起訴したというわけだけど、これに対して裁判所はあろうことか緩やかな基準を用いて合憲にしちゃったんですな。論点は目的と手段との合理的関連性があったかどうか、そして公務員の政治活動禁止によって得られる利益と失われる利益との均衡であったかどうかだったのですが、結局行政の中立的運営や国民の信頼確保を維持するという立憲目的は正当であり、さらに勤務時間の内外や公務員の職種を区別しない一律な政治活動の禁止も合理的だよって結論付けられちゃったわけだ。でもその論理でいくと、非管理職の郵便局員が勤務時間外にポスターをペロッて貼ることによって国民の信頼がガタガタになるなんてことは到底考えられないような気がするのだ。それに国家公務員法違反で刑事罰を加えるのってやりすぎじゃね?ということ。まあ裁判所的には、千丈の堤も蟻の一穴ってことを懸念した上での判断だったんだと思うけどね。つか裁判官って神経がよほど細やかでないと絶対勤まらないよね。


 それともうひとつ重要な公務員の権利制限があるんだけれど、公務員には労働基本権は保障されるのかいって話。答えは「され」ます。これは全逓東京中郵便事件で認められています。その制限は最小限度にとどまるべきだって判例なのだ。だから外国みたいにどっかの家が火事になってても消防署の人がストライキしてるとかいう人間の皮をかぶった悪魔のような所業は許さんぞということで、現行の公務員法では争議権が一律に否定されていることはやむをえないだろうって言われてます。他に公務員の権利制限に関する判例としては「都教組事件」というのがあって、「おい、ストライキやろうぜ!」みたいなアオリ行為を全面的に禁止する地方公務員法61条4号は違憲ではないかということが問題となった事件で、つまりこのままでは法律自体が違憲になっちゃうよ~という由々しき事件だったのだ。これに対して裁判所は、「合憲限定解釈」という非常にカッチョよくってアンタらプロだねって言いたくなるような判決を下しました。法律は憲法の趣旨にそぐうように解釈するのが正しいということで、法令を違憲にしないためにワザと法律の意味を限定して解釈したってワケだ。それによると、憲法違反に関する具体的判断には、「通常随伴するものとそうでないもの」と「強度なものとそうでないもの」という二重の判断があり、違憲判断がつくのは異常で強度な事件であって、都教組事件は単なる普通で弱い事件なんだということで、法令の効力を救いながら争議行為者も救済する判断を下したのです。


 そんなプロっぽい判決を「クソだ」と言わんばかりにケチョンケチョンにしちゃったのが、後の全農林警職法事件なんですね。ナナナナントナント、公務員の人権の一律かつ全面的禁止を合憲だという風にしちゃった。公務員の地位の特殊性と職務の公共性は立派な人権の制約根拠であり、さらに財政民主主義の知見から、政府に対する争議行為は的外れであり、そして公務員の行動には市場抑制力が無くて危なっかしいし、代償措置だってあるんだよということで、先の合憲限定解釈は明確性の原則に反するため違憲のおそれがあるとまで断じたスーパーマッチョな男気溢るる判例なのだ。世の中何が正しいのかワケわかんなくなってくるような裁判所の二転三転ぶりだとぼやきたくなりますが、しかしこの判決はさすがに暴論だと思っていいです。この判決では財政民主主義を、争議行為が的外れである根拠にしている、つまり財政民主主義の考え方からして人権制約は仕方ないだろと言っているのですが、元来財政民主主義は人権を守るための手段であったはずだし、公務員の行動には市場抑制力がないっていうのは明らかにウソです。公務員が裏でコソコソやっていることほど国民が激怒することってありませんから。それに代償措置はやむをえず制約された場合にはじめて講じられるものであって、代償措置があるから制約してもいいって言うのは我儘なクソガキの論理だろうって反論も可能です。まあ確かに、合憲性限定解釈が明確性の原理に反していることなのは確かだけど、世の中にはお子ちゃまが口を出してはイケナイ大人の曖昧な世界があるんだよってことでOK?やっぱだめですか。

公共の福祉

 むかしむかしある所に生贄村という村がありました。生贄村では数年ごとに、山田オロチ様の怒りを静めるために村の女子を生贄に捧げるという風習がありました。その年は村イチバンの美人の弥生さん(17歳)が寄合会議で生贄に決定され、弥生さんの家に村役人が足を踏み入れたというそんな場面での話。


 「嫌ッ!あたし生贄なんて嫌ッ!」


 「オラを!オラを代わりに埋めてくだされぁ!!(弥生の父)」


 「弥生さん、公共の福祉のためにお願いします…(村役人)」


 「いやだいやだいやだいやだ!あんな不細工な男の所!(弥生さん)」


 「弥生さーーーーーーん!(噂を聞きつけて飛んできた弥生の幼馴染の小太郎)」


 こういう昔話を聞くにつけて、公共の福祉っていったい何なのと無性に誰かに詰め寄りたくなりますが、公共の福祉の目的が仮に「社会全体の利益」であるとするならば、それは国家総動員の全体主義国家になってしまいます。つまりこの村では、村のためなら誰かの人権が侵害されてもしゃーないということだったというわけで、大昔の日本に育った弥生サンに私は同情します。理想を言えば公共の福祉は「人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的均衡の原理」であって欲しいのだ。


 公共の福祉にもいろんな考え方があって、まずカスみたいな考えであるとして有名なのは「一元的外在的制約説」である。もともと人権には外在的制約内在的制約という考え方の二つがあって、まず内在的制約とは人権と人権の衝突の場面における調整原理であり、外在的制約とは内在的制約に服することがないと確認された基本権が法令上の利益保護の必要性に基づいて制限されることであるが、一元的外在的制約説においては文字通り、公共の福祉は外在的制約のみに服しちゃうのである。これは法律の留保、つまり法律によってなら人権でもなんでも制限できちゃうよという落とし穴にはまる恐れがあるので、速攻でボツになった考え方です。


 それに対して「内在外在二元説」というものがあります。文字通り、内在的制約と外在的制約が並存している形となっているが、この説には13条(公共の福祉)をめぐる解釈に変遷がある。かつては13条を単なる訓示規定(そうあるべきだっていうこと)としてしか解釈されずに、12条13条の公共の福祉に特別な意味はないとされていた。つまり13条などとは関係ナシに、人権は内在的制約に服するとされていたが、13条を意味ないというのは暴論すぎるということで、13条に法的意味合いを含めたのが後の考え方で、これによると12条、13条は内在的制約に服するとされ、さらに22条「居住移転職業選択の自由」と29条「財産権」(つまり経済的自由権)に関する公共の福祉は外在的制約に服すると考えられた。つまり経済的自由権については、社会国家的公共の福祉の理念(みんなのためには…)の考え方を尊重し、12条13条の精神的自由権についてはそれより厳格な内在的制約説を適用するとした、なかなかすばらすぃー説なのである。


 そして現在の日本で通説となっているのが、「一元的内在的制約説」である。つまり精神的自由権も経済的自由権もまとめて内在的制約に服すんだよコノヤローというわけだけど、これじゃあ何の基準も提示されてないいったいどこまで人権は制限されるのっていうことが明確でないから、実は内在外在二元説のほうがスマートだったりするんじゃねと思う今日この頃。テレビでよくゴミ屋敷について特集が組まれてたりするけど、あまり内在的制約ばかりを押していると、本当にクサくっても対処の仕様がなくなっちゃうんじゃないって思うんだけどな。知る権利とプライバシー権の戦いみたいに、「いや私にとっては宝物なんです」とか「違うただのゴミだ」なんていう馬鹿馬鹿しい利益の衝量しなくちゃならないでしょ。経済的自由権を外在的制約によって制限する内在外在二元説で考えれば、「いやそんな悪臭を放つ宝物を置かれてはみんなが迷惑します」っていう、迷惑防止条例みたいな外部的圧力をもって、あくまで経済的自由のみを制限することができるんだから、他人の迷惑をかえりみることのなくなった現代の日本にぜひとも必要な考え方だと思うんだな。

未成年に人権はない!!!?

 未成年だからって「○○歳以上ですか?」っていちいち爪弾きにされる(もっともenterを押せば簡単に進めるが)のはなんでじゃボケ!酒だって飲ませてもらえないし、煙草だって吸わせてもらえない。そして知らず知らずの間に「○○させてもらえない」っていう許可を冀う卑屈な姿勢になってる自分が不甲斐なくなった貴方は多分こう叫ぶ。


 「俺たちに人権はねえのか!!」


 答えは明快、もちろん「あり」ます。ここで私は裁判所擁護の立場で話を進めてゆくことにしますが、まず前提として「子供たちは国の宝物」なのだ。そういう視点で「飲酒の自由」の制限について考えてみると、もともと飲酒がその人の人格的生存に不可欠であるとはいえないし、誤った様態による飲酒をすることによって心身をボロボロにしてしまうかもしれない。「閲読の自由」の制限にしたって、決まり文句の「青少年に有害な影響を及ぼす」って言葉がすぐに思い浮かぶように、エロ本とかAVとかの見すぎで普通の女性に魅力を感じなくなってEDが増えてるって現状がこの大日本帝国に厳然としてあることからして、かくなる悪しき習慣がまだ20歳にもならない子供たちの間で定着してしまったら、少子化対策の観点からも憂国の情が掻き立てられるぜっていうメランコリックな気分になってくる。大人だったら「もうやめよう」って歯止めがきく(ウソ?)はずですが、要するに子供というやつは人権を用いるすべを知らないっていうか、人権を誤って行使することでオノレの人権による自己加害をしちゃう可能性があるのだ。匙加減を知らないというか、ついついカルピスの原液を入れすぎてしまうような存在だっていうことなのだな。


 よって未成年には人権が認められてはいるが、それはパターナリスティックな制限のみがOKであるということです。だから戦時中の「パーマネント禁止」みたいなのは認められなくって、例えそれが学校の規則で禁止されていても、憲法的にはマジで?って部分がある。もちろんそこにも細やかな判断が必要で、教育目標の達成校内の風紀維持のためなら、髪型やバイクはバンバン禁止されちゃうのだ。私の中学時代には卒業式に銀髪のモヒで出席してるバカがいたんだけど、本当だったら涙涙の卒業式にあんな気色悪い異物をいれるなんて考えられないところなのに、ウチの学校は寛容すぎるほど寛容だったと思うよ。要するに髪型なんかは必要最小限の制限が望ましいってことで、例の銀髪モヒが制限されたからって、他に選択しうる他の手段は沢山あるわけで、逆に「野球部は丸坊主以外ダメ」っていうのは、これはマジで憲法的にどうかなっていうのがあります。昔から思うんですけど、甲子園なんかのストイックさって旧日本軍の軍人精神を不思議な形で継承してません?いや、高校球児といえば丸坊主なのだ!ってクソジジイどもに怒られそうだけど、そういやプロで丸坊主の人って少なかったよね。いや、きっとこれは憲法云々の問題ではないのでしょう。そういうことにしておきますテヘ。

外国人=外の国の人

 日本国憲法において、人権が保障しているのは「国民」である。じゃあ外国人は国民になれるのって話だけど、答えはなれません。だって国民じゃないんだもん。しかし憲法の98条2項(日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする)は、国際協調主義を打ち立てているため、実際は国民と同様の権利および義務を付与することは認められているとのこと。だって人権は世界共通語だもの。そして人権は前国家的性格を持ってるし。まあでも世の中には悪い外国人だって沢山いるだろうから、そこんとこは外国人の種類や性質も十分考慮に入れようやというのが、世の中の流れだ。

 そこで個別具体的に外国人に付与される権利義務について見ていくが、まず社会権はどうだろうか。伝統的に、日本では自国民に対しても社会権はあまり認めていない。働かざるもの食うべからずってのが昔からあるんだろう。社会権関連の判例では塩見訴訟ってのが有名で、国籍要件を理由に国が年金の支給を拒否したって話だが、これは合憲になっちゃった。立法府の広範な裁量によって自国民を在留外国人よりも優先的に扱うことは可能であり、所詮国際人権規約も努力目標に過ぎねえよっていうことで合憲だったわけだが、実は社会権に関しては、裁判所は日本国民に対しても厳しいってのは内緒の話。しかし許容説によれば、法律によって社会権を保障することは問題ではないと言ってる。特に善良な定住外国人なんかは憲法の要請から日本国民と同じ扱いをすべきだって考え方もある。

 さて次は参政権についてだが、日本では在日朝鮮人に参政権を与えるとか与えないとかでゴチャゴチャ揉めていますね。でも残念ながら、選挙権や被選挙権は認められないのが原則。なぜなら参政権は前国家的権利ではないから、中には悪意を持って国家を転覆させてやろうって人が出てくるかもしれないものね。地方自治レベルでは別途考慮がされていて、国家レベルの政策決定の影響が少ない「住民」としてなら、大丈夫なんじゃねという判例がある。また公務就任権といって、公権力の行使または国家意思の形成に参画しない職種、例えば研究員教授だったら自由になってくれてかまわないという権利もある。政治活動の自由にしても、国民が政治的意思形成に不当な影響を与えない限度だったら大丈夫。でも政治活動の自由は参政権的な性格もあるから、この人(外国人)何か変じゃねと思った人はすぐに憲法問題として裁判所に問題提起するといいよ。

 ではでは、出入国の自由在留の自由はどうでしょうか。まず入国の自由は認められません。自国の安全と福祉に危害を及ぼす恐れがある外国人は、国家にこれを立ち入らせない権利があるということは国際慣習法上も認められており、同じく再入国の自由も認められない。外国人が一時旅行するのは怪しいというわけだ。だけどこれに対して批判もあって、外国人の在留地への入国だったら、少しくらい認めてやってもいいかということで。あと予想ついてると思うけど、在留(更新)の自由は入国の自由と同様認められていません。出国の自由に関しては、出て行くのは大歓迎ということで認められてます。最近では韓国人に日本ビザなし入国を日本は認めようとしていますが、韓国人の世界における犯罪者数および不法滞在者数をもう一度真面目に調べなおし、外国人の人権共有主体性の問題の時のように、しっかりと「外国人の種類・性質を考慮」すべきじゃないかな。

 さあ、では以上の知識を踏まえてマクリーン事件について考えてみましょう。事案はマクリーンさんという外国人の人が在留中に政治活動を行ったというもの。これに対して法務大臣は在留期間の更新を拒否したわけだが、これは合憲か違憲かという問題である。まず外国人の政治活動の自由は保障されますね。問題なのは外国人への在留(更新)の自由は認められていないことだけど、この場合在留の自由の範囲内で政治活動の自由は保障されるべきだろう。まあとは言っても、マクリーンさんの政治活動を更新拒否の消極的理由として斟酌できるのも事実だ。このことによって、外国人の政治活動に萎縮効果がでることになるとすれば、裁判所は重大な失当をしたと評価されざるを得ないだろうなあという感じだ。法務大臣の在留期間更新についての広範な裁量を、いったいどこまで認めうるのだろうかというのが論点でした。

法人くん

 八幡製鉄政治献金事件という事件がある。八幡製鉄の経営者が、会社の財産をもって政治献金をしたという事案だ。つまり法人が政治献金しちゃったということで、法人が政治行為をしてもいいのということだが、一応法人は自然人と同様に人権共有主体性が認められている。何故なら法人の権利を保障するということは、同時に構成員の人権保障にも繋がるからである。よって自然人が持つ権利は可及的に法人にも認められるべきであるのだが、例外として自己決定権選挙権は認められない。法人に選挙権を認めたら、沢山ダミー会社を作られて、悪い人に利用されちゃうからだ。じゃあ政治献金はどうなのとなるが、実は法人には政治献金が認められている。ソニー様、松下電器様みたいな感じで。法人は社会的実在であり、重要な社会の構成要素であるからして、そういう法人が社会的行為に資することは、間接的に社会の利益になるのだ。でも例外として、強大な経済力を持つ法人が政治に介入しすぎるのは政治の腐敗を招くから良くないと。実際、政治資金規正法が施行されていることからもわかるように、これは憲法問題というよりは、立法の問題として片付けたかったのではないだろうか。

 これと対照的な事件として、税理士会政治献金事件というのがある。名前の通り、税理士会が某政治団体へ寄付金を徴収する決議を取って、それに反撥した税理士に役員の選挙権を停止したという恐ろしい事件なのだ。まず組織というものには、その内部の秩序を維持するためのルール作りをする権利が認められている。それと役員(税理士達)の自由な政治献金の権利のどちらが重いかということだが、まず前提として税理士会は強制加入団体である。税理士会を出る=税理士の資格を失うみたいな、とっても理不尽なシステムで、これは弁護士も一緒である。そんななかで組織に勝手に「政治献金するぞー」と言われて「ざけんな」と言った瞬間に「選挙権没収ね」じゃあ、ちょっと可哀相すぎるのだ。よって会員の協力義務には限界があるとみなし、さらに献金目的の金銭を強制的に徴収する税理士会は構成員の権利を不当に害するものとして、著しく公序良俗に反するからこの決議は無効ということで決着がついた。でも同じ論法(献金のあて先は各個人が決定すべき)で考えると、八幡の方も違憲じゃねとか思ったりするのだがまあそこはスルーという方向で。

代表民主制

 「主権は国民にある」なんて言うが、主権とは何か。主権の定義としては、①最高独立性、②統治権、③国政の最終決定権があるが、国民主権の「主権」は③に該当する。では国政の最終決定権は、どのような要素で構成されているか。二つの要素がある。一つは権力的契機と呼ばれ、他方は正当性の契機と呼ばれる。歴史的には権力的契機→正当性の契機という風に変遷してきた。権力的契機とは、国民が最終決定権を行使することであり、正当性の契機とは、国民は国家による権力行使を正当化する根拠であるということである。

 つまり権力的契機=直接民主制であり、正当性の契機=代表民主制である。正当性の契機の「正当性」を日本に当てはめて考えると、議員は国民の代表(国民から権利を委託されている)であるから、これは自由委任の考えに繋がる。自由委任とは「頼りにしてるよ」ということ。同時に権力的契機はいわゆる命令委任である。命令委任とは「お前がやれ」ということ。ただ例外として、権力的契機が代表民主制に繋がる形があって、それは国家の代表者が国民の傀儡となっている場合である。つまり代表者を小間使いにするということであるが、形だけ代表民主制になっていても、権力的契機の本質は命令委任だということである。

 しかしながら、何故自由委任なのか。日本では国民自身が首相を選ぶことはできないが、それは不当ではないか。実は憲法の前文には「日本は代表民主制である」という意味のことが理念として掲げられている。何故なら一般国民は政治に関しては素人である為である。ナチス政権下のドイツは民主国家だが、基本的に大衆は愚かである。熱狂から意思を一丸に統一したかの国では、反対するものは多数派の意思によって片っ端から殺された。多数決的民主主義国家が戦争を起こすと、時として独裁国家よりもタチが悪いとはこのことだった。よって一般国民の国政についての能力を鑑みた結果、直接民主制的制度は国政レベルでは違憲となる。その代わり、地方自治レベルでは直接民主制的な制度は合憲になる余地を残している。何故なら、生活に密着した事項の判断については、判断能力が不足することはないと思われるためである。政治はモノホンのプロに任せようというわけだ。
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