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公共の福祉

 むかしむかしある所に生贄村という村がありました。生贄村では数年ごとに、山田オロチ様の怒りを静めるために村の女子を生贄に捧げるという風習がありました。その年は村イチバンの美人の弥生さん(17歳)が寄合会議で生贄に決定され、弥生さんの家に村役人が足を踏み入れたというそんな場面での話。


 「嫌ッ!あたし生贄なんて嫌ッ!」


 「オラを!オラを代わりに埋めてくだされぁ!!(弥生の父)」


 「弥生さん、公共の福祉のためにお願いします…(村役人)」


 「いやだいやだいやだいやだ!あんな不細工な男の所!(弥生さん)」


 「弥生さーーーーーーん!(噂を聞きつけて飛んできた弥生の幼馴染の小太郎)」


 こういう昔話を聞くにつけて、公共の福祉っていったい何なのと無性に誰かに詰め寄りたくなりますが、公共の福祉の目的が仮に「社会全体の利益」であるとするならば、それは国家総動員の全体主義国家になってしまいます。つまりこの村では、村のためなら誰かの人権が侵害されてもしゃーないということだったというわけで、大昔の日本に育った弥生サンに私は同情します。理想を言えば公共の福祉は「人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的均衡の原理」であって欲しいのだ。


 公共の福祉にもいろんな考え方があって、まずカスみたいな考えであるとして有名なのは「一元的外在的制約説」である。もともと人権には外在的制約内在的制約という考え方の二つがあって、まず内在的制約とは人権と人権の衝突の場面における調整原理であり、外在的制約とは内在的制約に服することがないと確認された基本権が法令上の利益保護の必要性に基づいて制限されることであるが、一元的外在的制約説においては文字通り、公共の福祉は外在的制約のみに服しちゃうのである。これは法律の留保、つまり法律によってなら人権でもなんでも制限できちゃうよという落とし穴にはまる恐れがあるので、速攻でボツになった考え方です。


 それに対して「内在外在二元説」というものがあります。文字通り、内在的制約と外在的制約が並存している形となっているが、この説には13条(公共の福祉)をめぐる解釈に変遷がある。かつては13条を単なる訓示規定(そうあるべきだっていうこと)としてしか解釈されずに、12条13条の公共の福祉に特別な意味はないとされていた。つまり13条などとは関係ナシに、人権は内在的制約に服するとされていたが、13条を意味ないというのは暴論すぎるということで、13条に法的意味合いを含めたのが後の考え方で、これによると12条、13条は内在的制約に服するとされ、さらに22条「居住移転職業選択の自由」と29条「財産権」(つまり経済的自由権)に関する公共の福祉は外在的制約に服すると考えられた。つまり経済的自由権については、社会国家的公共の福祉の理念(みんなのためには…)の考え方を尊重し、12条13条の精神的自由権についてはそれより厳格な内在的制約説を適用するとした、なかなかすばらすぃー説なのである。


 そして現在の日本で通説となっているのが、「一元的内在的制約説」である。つまり精神的自由権も経済的自由権もまとめて内在的制約に服すんだよコノヤローというわけだけど、これじゃあ何の基準も提示されてないいったいどこまで人権は制限されるのっていうことが明確でないから、実は内在外在二元説のほうがスマートだったりするんじゃねと思う今日この頃。テレビでよくゴミ屋敷について特集が組まれてたりするけど、あまり内在的制約ばかりを押していると、本当にクサくっても対処の仕様がなくなっちゃうんじゃないって思うんだけどな。知る権利とプライバシー権の戦いみたいに、「いや私にとっては宝物なんです」とか「違うただのゴミだ」なんていう馬鹿馬鹿しい利益の衝量しなくちゃならないでしょ。経済的自由権を外在的制約によって制限する内在外在二元説で考えれば、「いやそんな悪臭を放つ宝物を置かれてはみんなが迷惑します」っていう、迷惑防止条例みたいな外部的圧力をもって、あくまで経済的自由のみを制限することができるんだから、他人の迷惑をかえりみることのなくなった現代の日本にぜひとも必要な考え方だと思うんだな。