公務員の憂鬱 | 制限速度20~30km/h

公務員の憂鬱

 死刑反対の友達がこんなこと言ってました。「人が人を殺す権利はねえ!」って。それを聞いて、「人が人に殺される義務」というのはあるのかななんて思ったりしたのですが、死刑を容認している日本に住んでいる限り、重犯罪の対価としての死刑は社会契約に含まれてるんじゃね?とかも思ったりする今日このごろ。そんな私の態度に友達は思わず、「年端もいかない子供にはそれ(死刑)を拒否する力がない!」と言いました。でも私は鶏が先か卵が先かみたいな話をするのはどうかなと思うし、そんなかつての東大全学連の人みたいな「純粋行動」を口酸っぱく論じていたら、この世のどこにも生きることはできませんよっていう現実があるんでないの?最終的には、「じゃあヨーロッパに行け」としか言い様がないこの現実。ごめんなさい、俺は本村さんをマジで擁護したい立場の一人なのです。


 今日は公務員について考えてみたいと思いますが、最近では公務員を減らせとかなんとかいって、親戚の海上自衛隊のオッサンの給料にもしわ寄せがきているみたいです。現内閣(小泉)では国の借金もヤバいことになってるし、医療費は削減されるし、それでも足りない財源は大増税で賄われるわでなんだか泣きたくなってきますが、公務員を減らすというのはマジに時代の流れではないかと。それとは全然関係ない話なんだけど、まずは公務員を規定する憲法15条についてクローズアップ現代といきたいと思います。この2項には「公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」と明記されていることから、公務員さんは政治活動を行ってはいけないというのも同然と解釈できますが、そもそもそれは何でなのでしょうか?それは行政は中立性が要求されるからで、国の手先である公務員が政治に深く食い込みすぎたら、やっぱり議員さんはそういう人らを優遇したくなるわけで、要するに癒着が起こってしまうわけです。郵政族とか○○族っていうやつ、あの人たちってある意味暴走族なんかよりよっぽどタチが悪いんだよね。


 前に「公共の福祉」でやった俺の好きな説「内在外在二元説」に基づいて考えると、こうした公務員の政治活動については精神的自由権ということで、制約は最低限度に留め厳格な基準で判断すべきであると説明することができます。そこで「猿払事件」という判例を引いてみることにしたいと思いますが、この事件では非管理職の郵便局員が勤務時間外に選挙用ポスターを公営掲示板に掲示しちゃって、さらに配布したという事件。そこで憤ったあるオッサンが彼を国家公務員法公務員の政治活動をマジで禁止している違反で起訴したというわけだけど、これに対して裁判所はあろうことか緩やかな基準を用いて合憲にしちゃったんですな。論点は目的と手段との合理的関連性があったかどうか、そして公務員の政治活動禁止によって得られる利益と失われる利益との均衡であったかどうかだったのですが、結局行政の中立的運営や国民の信頼確保を維持するという立憲目的は正当であり、さらに勤務時間の内外や公務員の職種を区別しない一律な政治活動の禁止も合理的だよって結論付けられちゃったわけだ。でもその論理でいくと、非管理職の郵便局員が勤務時間外にポスターをペロッて貼ることによって国民の信頼がガタガタになるなんてことは到底考えられないような気がするのだ。それに国家公務員法違反で刑事罰を加えるのってやりすぎじゃね?ということ。まあ裁判所的には、千丈の堤も蟻の一穴ってことを懸念した上での判断だったんだと思うけどね。つか裁判官って神経がよほど細やかでないと絶対勤まらないよね。


 それともうひとつ重要な公務員の権利制限があるんだけれど、公務員には労働基本権は保障されるのかいって話。答えは「され」ます。これは全逓東京中郵便事件で認められています。その制限は最小限度にとどまるべきだって判例なのだ。だから外国みたいにどっかの家が火事になってても消防署の人がストライキしてるとかいう人間の皮をかぶった悪魔のような所業は許さんぞということで、現行の公務員法では争議権が一律に否定されていることはやむをえないだろうって言われてます。他に公務員の権利制限に関する判例としては「都教組事件」というのがあって、「おい、ストライキやろうぜ!」みたいなアオリ行為を全面的に禁止する地方公務員法61条4号は違憲ではないかということが問題となった事件で、つまりこのままでは法律自体が違憲になっちゃうよ~という由々しき事件だったのだ。これに対して裁判所は、「合憲限定解釈」という非常にカッチョよくってアンタらプロだねって言いたくなるような判決を下しました。法律は憲法の趣旨にそぐうように解釈するのが正しいということで、法令を違憲にしないためにワザと法律の意味を限定して解釈したってワケだ。それによると、憲法違反に関する具体的判断には、「通常随伴するものとそうでないもの」と「強度なものとそうでないもの」という二重の判断があり、違憲判断がつくのは異常で強度な事件であって、都教組事件は単なる普通で弱い事件なんだということで、法令の効力を救いながら争議行為者も救済する判断を下したのです。


 そんなプロっぽい判決を「クソだ」と言わんばかりにケチョンケチョンにしちゃったのが、後の全農林警職法事件なんですね。ナナナナントナント、公務員の人権の一律かつ全面的禁止を合憲だという風にしちゃった。公務員の地位の特殊性と職務の公共性は立派な人権の制約根拠であり、さらに財政民主主義の知見から、政府に対する争議行為は的外れであり、そして公務員の行動には市場抑制力が無くて危なっかしいし、代償措置だってあるんだよということで、先の合憲限定解釈は明確性の原則に反するため違憲のおそれがあるとまで断じたスーパーマッチョな男気溢るる判例なのだ。世の中何が正しいのかワケわかんなくなってくるような裁判所の二転三転ぶりだとぼやきたくなりますが、しかしこの判決はさすがに暴論だと思っていいです。この判決では財政民主主義を、争議行為が的外れである根拠にしている、つまり財政民主主義の考え方からして人権制約は仕方ないだろと言っているのですが、元来財政民主主義は人権を守るための手段であったはずだし、公務員の行動には市場抑制力がないっていうのは明らかにウソです。公務員が裏でコソコソやっていることほど国民が激怒することってありませんから。それに代償措置はやむをえず制約された場合にはじめて講じられるものであって、代償措置があるから制約してもいいって言うのは我儘なクソガキの論理だろうって反論も可能です。まあ確かに、合憲性限定解釈が明確性の原理に反していることなのは確かだけど、世の中にはお子ちゃまが口を出してはイケナイ大人の曖昧な世界があるんだよってことでOK?やっぱだめですか。