「四万六千日」の続きを書きます。


はじかみ神主のぶろぐ
左側は稲荷神社です、昭和61に両棟同時に

建替えられましたが、以前は棟続きに建てら

れていましたので、神仏習合の名残りを感じます




御堂内には、正観世音菩薩立像地蔵菩薩立像毘沙門天立像の三体が安座されており、写真でお見せ出来ないのが残念です。


最後に、境内の縁起を記した「由来碑」をご紹介して、終わらせていただきますが、ルビと注釈を入れて解説してあります。


それでは、どうぞ!。
 
はじかみ神主のぶろぐ
 境内にある「大悲山観法寺」の由来碑



  

観法寺村鎮守正観世音菩薩略縁起

      (大悲山放光院観法寺由来)

(そもそも)安置シ(まつ)ルハ菅原行基(ぎょうき)菩薩ノ御真作、正観音大悲ノ霊像ナリ。

(ふし)() (その)濫觴(らんしょう)(※濫觴=物事の発端、起源、始まりの事)尋子(たずね)奉ルニ、(じん)(こう)四十五代(しょう)()天皇御宇(ぎょう)天平(てんぴょう)年中行基菩薩(とう)(ごく)行脚(あんぎゃ)(たま)フ折、河北郡(かほくのこおり)(いの)上庄(いえのしょう)(※井家とも)紫雲(しうん)タナビキ霊気タダヨウコノ山道ヲタドラセフ時ニ(あた)リテ、不思議ナルカナ土中ヨリ、光明(こうみょう)()(ずい)感得(かんとく)ヒテ、(これ)ゾ霊地ナラント草庵ヲムスビ、一心観法(かんぽう)ノ床ニ座シヒケルニ、眼前正観音示現(じげん)(こうむ)リ、実ニ仏法有縁ノ霊地ナリト深ク(よろこ)ヒテ、自ラ霊木ヲ探リ彫刻シ一刀三礼ノ尊像也。

(しか)シテ行基菩薩草庵ニコレヲ(あん)ヒ、大悲山放光院観法寺ト号シテ御弟子明山法師ニ譲リヒ、更に衆生(しゅじょう)()(やく)(※衆生=この世に生を受けた輪廻転生する全ての生き物をいう)寸暇(すんか)ナケレバコノ地ヲ(さり)(のう)(えつ)(おもむ)フ。(しか)ルニ明山法師、師ノ尊命(こうむ)(ここ)(せき)(とどめ)フニ(もっぱ)ラ大悲観音ヲ念ジ(かたわら)ニ佛法守護ノ善神等ノ尊像ヲ彫刻シ奉リ、(あまねく)遠近(おちこち)ノ世人を()(どう)(※化導=仏教用語の教化指導のことで、人を救うことシ玉ヒケルニ、風ニ草木ノ(なびく)ノカコトシ(ゆえ)()(しゅう)ニ七塔伽藍建立(こんりゅう)(もとい)(ひらく)不日(ふじつ)(※不日=近日中とか近い内にという書面用語)ニ造営成就シテ、(すみやか)ニ七塔棟高ク(そび)ヘ、七坊ノ(いらか)(なが)ク輝キ玉フ大山トハナリニケリ。

其後(そのご)木曽義仲公()ノ地ニ在陣ノ折、コノ観音ヲ祈願シ玉ヒケル(とき)(かな)、一乱コリテツイニ(けわし)タル伽藍兵火ノタメ(むな)シク一斤(いっこん)ノ煙トナリニケリ。然ルニ其後時の別當(べっとう)堂宇(どうう)再建イタシ大悲ノ威光カガヤキ玉ヒケリニ(たたえる)(かな)又候(またぞろ)(きょう)(ろく)年中(※1828年~1532)火災ニカカリテ堂宇並ニ(れい)(ほう)コトゴト焼亡(やきうしな)ヒ玉ヒ。今ハコノ大悲霊像及ビ地蔵菩薩・毘沙門天三尊ノ霊像ノミ小堂ニ残ラセ玉ヘ()衆生(しゅじょう)結縁(けちえん)(※結縁=仏様と縁を結ぶ事)ノタメニトテ、一村ノ鎮守トナリ玉ヒテ、和光(わこう)ノ慈悲ヲ(たれ)玉フ大切ナル霊像ナレバ、方々称名(しょうみょう)(※称名=仏・菩薩の名を称える事)モロトモニ(つつしん)デ拝礼ヲ()ゲラレヨ。