「龍笛」(りゅうてき)は、低い音から高い音の間を縦横無尽に駆け抜けるその音色は「舞い立ち昇る龍の鳴き声」と例えられ、それが名前の由来となっています。
その龍笛の名手である、加賀市山中温泉の柯亭(かてい) さんが、金曜日の夕方、わざわざ「宮内庁雅楽高岡公演」のチケットを、雅楽練習へと向かう途中に、持って来てくださいました。
ありがとうございます。
天皇陛下御即位二十年記念
高岡開町四〇〇年記念
『宮内庁式部職楽部高岡公演』のチケット
クリックすると曲の説明がわかります
【第一部の「管弦」(かんげん)】
■太食調音取(たいしきちょうねとり)
■合歓塩(がっかえん)
■朗詠(ろうえい)・徳是(とくはこれ)
■抜 頭(ばとう)
【第二部の「舞楽」(ぶがく)】
■萬歳楽(まんざいらく)
■還城楽(げんじょうらく)
■狛 鉾(こまぼこ)
この雅楽公演については、私の9月3日のブログ に、くわしく書いてあるので省略します。
ちなみに、柯亭(かてい)とは、笛の名器で、三條関白が愛用したといわれます。
「葉二」(はふたつ)、「柯亭」(かてい)、「大水竜」(おおすいろう)、「小水竜」(こすいろう)、「青竹」(あおたけ)が、天下の五笛とされています。(柯亭さんのブログより引用)
当県にも、名立たる名笛があります。
能登半島の最北端、珠洲市三崎に、二千年の歴史を誇る須須神社(すず神社)がありますが、義経主従が奥州へ逃れる際、この神社へ奉納したという義経愛用の「蝉折れの笛」(せみおれのふえ)が、宝物殿に展示されています。
鳥羽院の時代に、宋から金千両を送った返礼に、蝉(せみ)のような節の付いた漢竹を一本贈られました。
これを三井寺(みいでら)の覚宗僧正(かくそうそうじょう)に命じて、壇上で7日間加持祈祷(かじきとう)をした後、笛に作らせました。
ある時、高松中納言実平卿(たかまつちゅうなごんさねひらきょう)という笛の名手が吹いていて、膝の下に置いた弾みで蝉が折れてしまったので「蝉折れ」ということになったそうです。
笛の裏側には、「蝉」といわれる、やはり竹の
節の枝の付根の部分を模したものを黒壇で
彫刻します
これは私の愛用の名笛「薑嘶き」…
(はじかみのいななき)と勝手に命名
でも、この「蝉折れの笛」、私らの所属する雅楽団体・礼楽研究会の前会長であったM先生が、地元TV局の取材でこの笛を吹くことになりましたが、「古い笛なので音が全然出なかった」と、先生は申しておりました。
最後に、天下の名笛「葉二」(はふたつ)について記述し、擱筆(かくひつ)させていただきます。
時は平安中期、月の明るい夜のことです。
源博雅(みなもとのひろまさ)が直衣(のうし)を着て、朱雀門(すざくもん)の前で笛を吹いていました。
すると同じように直衣を着て笛を吹いている男と出会いました。
博雅は気になり近づいてみましたが、初めて見る人でした。
それからというもの、月の明るい夜に博雅が笛を吹いて歩いていると、
必ずその男に出会うのでした。
その男の笛の音は、この世のものとは思えないほど素晴らしいものでした。
「いったい誰なのだろう?」
博雅も声をかけず、その男も声をかけてきませんでした。
博雅は、その男の吹く笛の音を、聞けば聞くほど素晴らしく感じました。
ある夜、博雅は自分の笛とその男の笛を取り替えてもらい吹いてみました。
博雅は感じました。
「この世にまたとない笛だ」
それからも、その男とは同じようによく出会いました。
その男は、取り替えたままの笛を返してくれとも言わないので、
笛は取り替えたままになってしまいました。
月日が経ち、博雅が亡くなってより後のことです。
帝がこの笛を召して、時の笛吹き名人たちに吹かせてみました。
しかし、博雅ほどの音色を出せる者はいませんでした。
その頃、浄蔵(じょうぞう)いう笛吹きの名人がいました。
帝が浄蔵を召して、例の笛を吹かせてみると、
その音色は、博雅の音色に劣らないものでした。
帝は感心して言いました。
「以前、博雅からこの笛は朱雀門付近で手に入れたと聞いたことがある。
「浄蔵、朱雀門へ行って、その笛を吹け」
浄蔵は帝の仰せに従い、朱雀門へ行き笛を吹きました。
すると、朱雀門の楼上より高く大きな声がしました。
「なほ逸物かな!」
このとき初めて、この笛が鬼の笛であったと分ったのです。
浄蔵は、このことを戻ってから帝に報告しました。
この笛は、「葉二(はふたつ)」と名付けられ、天下第一の笛となりました。
その後、この笛の持ち主は、藤原道長、藤原頼道へと受け継がれました。
藤原頼道が宇治平等院を造った時に、経蔵に納められたということです。