昨日予告したように、今日は京都市山科区にある大石神社と、通称・大石寺と言われる岩屋寺に出掛けていた。早い話が「忠臣蔵」で有名な、「大石内蔵助」の旧蹟を訪ねたということになる。
山科区は京都市の東の端に当たり、滋賀県大津市と接している。小さな盆地地形になっていて、東・西・北に山が迫り、南は伏見・宇治方面に開いている・
我が家から大石神社方面に行くには、いくつかのルートが考えられるが、山科区は真ん中を背骨のように地下鉄が通っているけれど、そこから外れた地域へ行くバスの便数が少ない。
だからどのルートで行くのが良いのか、選択に迷うことになる。地下鉄をできるだけ近くまで乗ってからバスに乗り換えるのが良いのか、少し離れた駅から別のルートのバスに乗るか。
今日も、結局は最も近い地下鉄の駅となる「椥辻」まで行って、バス停留所で時刻を見たところ、やはり20分以上の待ち時間となっていた。散歩なのだから、待つくらいならと歩きはじめた。
結局、1.5km余りの距離を「大石神社」バス停まで歩くことになった。だが、最後までバスに追い越されることは無かった。多分、タッチの差くらいのことだっただろうと思うけれど。
ということで「大石神社」バス停から、大石神社と岩屋寺を目指す。それほど離れているわけではない。大石神社の一の鳥居まで5分余りの距離だろうか。
大石神社の鳥居から南へ200mほど離れたところに、岩屋寺に続く参道がある。先に岩屋寺に行くことにした。この参道が中々の急坂。途中で息切れがしてきたところに、恰好の休憩場所。
少し平坦な公園のようになったこの場所が、実は大石内蔵助が主君・浅野内匠頭の仇を討つ前に、浪人暮らしをしていた旧宅の跡とされている。
ここから、夜な夜な祇園の〝一力亭〟へ通ったという話は、歌舞伎の作り話。浪人の身で、そんな高級な遊びの場所へは行けるわけがない。ホントは、伏見周辺の飲み屋さんだったらしい。
ということで公園のようになった場所に、石塔と旧宅を示す石碑が立っていた。石碑を書いたのは、明治になって京都府第3代の知事で、琵琶湖疏水の建設などを行った北垣国道さん。
さらに石碑と石塔の横には、大石内蔵助の遺髪塚もあった。この旧宅跡地のすぐ上に岩屋寺がある。現在は曹洞宗永平寺派の金地院と言うそうだ。お寺もなかなか難しい。
岩屋寺の前から参道を見下ろすと、山科盆地が見渡せる。これだけの坂を一気に登ればそれは息も切れるというものだ。岩屋寺を下って、元来た道を大石神社へと戻る。
大石神社は、緩やかな坂を少し上れば本堂の前に着く。境内では、ミニホースの花子ちゃんが神馬として飼われていた。七五三のお参りに来た子が、花子ちゃんに餌をあげていた。
何はともあれ、本堂にお参り。この神社は昭和10年に創建というから、まだ100年に満たない。駒札の説明では、大石内蔵助の旧宅は〝交通の便が良い〟場所と書かれていた。
これはちょっと説明がいるだろう。大石邸があった場所は、東海道を江戸から京へ来た時、京の町に入らず脇道を少し行けば到着する。人目に付きにくく、ひっそり会うには好都合の地だった。
ということだが、この神社はいわば〝赤穂浪士の討ち入り〟にちなんで、「大願成就」の神社となっていた。
面白かったのが、本殿前の狛犬。型通りに「阿吽の形」なんだけど、「吽形」の方の頭の上に角が一本生えていた。ユニコーン(一角獣)になっている。これは今まで見たことが無かった。
さて、大石神社を後にして、帰路はJRと地下鉄の「山科」駅に向かうバスに乗り、地下鉄山科駅から帰って来た。好天でやや肌寒いくらいだったけれど、歩くにはかえって気持ちが良かった。
昨日も書いたけれど、私は京都生まれの京都育ちながら、知らない京都が多々あることに、この歳になってむしろ愕然としている。今日も、知らなかった京都に会いに行ったことになる。