粟田祭を見物 | がいちのぶろぐ

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この休日は確実に人出が増えた。今日も京都の町は、着物姿も含めて観光客の姿が目についた。経済を回すという意味では良いことだが、ヨーロッパを見てもまた感染者数が拡大している。

 

先が見通せない状況が続いてはいるけれど、私もなんだかんだ言いつつも毎日出掛けるようになってきた。しかも今日は、かなり〝密っぽい〟状態のお祭り見物に出掛けていた。

 

今月の初めに散歩で訪れた粟田神社で、「粟田祭」が23,24日に行われることを偶然に知った。それで今日は、「神幸祭」を見物に出掛けた。お目当ては、30kgはあろうかという「剣鉾差し」。

 

 

 

 

粟田神社の「二の鳥居」には、「感神院新宮」と書かれた掲額があった。それに祭神は「牛頭天王」である。粟田神社は、「八坂神社」の北東1km足らずのところにある。

 

 

 

 

 

一方「祇園さん」で知られる「八坂神社」も、かつては「祇園社」であり、ある時は「感神院」と言われたこともあった。そして祭神は「牛頭天王」。

 

 

(「祇園さん」八坂神社の西楼門@四条通)

 

つまり粟田神社は、「祇園社」とつながった神社だということができる。それで掲額が「感神院新宮」と書かれていることが納得できる。

 

かつて祇園祭が中止になった時には、この粟田祭が祇園祭の代わりとなったこともあった。それくらいの「仲」なのだ。ただし、祇園祭でも「山鉾巡行」ではなく、神輿=神様の移動の方だが。

 

という「粟田祭」は、4基の「剣鉾」が練り歩く。長さは6mほど、重さは30kgほど。これを〝差し上げ〟て氏子町を練り歩くのは、相当の力仕事である。しかも、剣先をしならせ鈴を鳴らしながら。

 

 

 

この剣鉾が、祇園祭の山鉾巡行へと進化していった、という考え方もできるそうだ。つまり、神様に喜んでもらう〝出し物〟の原型とでも言えば良いだろうか。

 

 

 

粟田神社の駒札にも、「現存する数では京都一を誇り」と記されている。さらに駒札では、「夜渡り神事が行われ(中略)粟田大燈呂と呼ばれる大きな灯籠が練る」となっている。

 

昨夜はこの「夜渡り神事」があって、大燈呂が氏子町を練り歩き、今日の「神幸祭」へと続いた。と言っても、それほど大層な行列が練り歩くわけではない。

 

先触れの太鼓が出て、「猿田彦真榊台車」が続く。猿田彦は天狗のお姿なのだ。それに従って「剣鉾」4基が続き、「盾・矛・太刀」を持った人たちに続いて、「御鳳輦(ごほうれん)」という車が行く。

 

 

 

 

 

以上で終わり。後は神職やら氏子の役員の方々が、ゾロゾロトしんがりを務めることになる。だから剣鉾の差し上げが行われるたびに、見物の人たちからウォッという声と拍手がわく程度。

 

 

 

ものの15分か20分もすれば、行列全部が通り過ぎてしまう。だから今では、ご近所の氏神様の秋祭りといった風情なのだが、先に述べたように祇園さんと関わって歴史には重いものがある。

 

 

 

ところで、私が今日この「粟田祭」を見物していたのは、白川の三条と知恩院の門前の間。〝それが何?〟と言われても困るけれど、ここはちょっとした観光スポット。

 

 

 

一本橋と呼ばれる細い石橋があったり、白川の両岸は柳並木になっていたりする。だから今日の見物客も、地元の方々と、観光で八坂神社から知恩院あたりに来られた方も混じっていた。

 

 

 

さらに、この白川に沿って「餅寅」という和菓子屋さんがあり、そのお店の横の路地奥には「明智光秀の塚」がある。

 

 

 

 

織田信長を本能寺で討ち取った明智光秀は、天王山の戦いで豊臣秀吉に敗れて落ち武者となり、山科・小栗栖で農民に刺された。その後、光秀の首は「粟田口で晒され」て、近くに埋められた。

 

 

 

 

その首が埋められた場所がこの祠の近くであり、ここに移されてきたということになっている。畳2畳分ほどの祠が、あの明智光秀の埋葬場所というのも、少し〝もののあはれ〟を感じてしまう。

 

ということで、今日は〝お祭り見物〟の日となった。