「マーケット・イン幻想」という「プロダクト・アウト」 | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

このブログで折りに触れて紹介している経営雑誌「理念と経営」の5月号が、数日前に届いたので、いつものようにじっくりと読ませてもらった。

 

 

 

まずこの5月号の巻頭対談が、作家の山本一力氏と元・横綱「稀勢の里」関の荒磯親方という取り合わせだった。表紙の写真は合成されていて、直接に並んでいる写真ではない。

 

だが巻頭対談の中でお二人が写っている写真は、お二人のあまりの体格差にちょっと微笑ましくなってしまった。荒磯親方は、やはり横幅からしても山本氏のほぼ1.5倍はあった。

 

ということはさて置いて、5月号で専修大学の三宅秀道氏が「激変の時代こそ新しい市場を作るチャンス」と題して、面白い視点からの話題提供を示されていた。

 

 

 

記事の中で三宅氏は、「新しい文化の創造における4つのフェーズ」という考え方を提起されていた。その内容は、以下の「 」の中で示したように要約できると思う。

 

「これからは熾烈な開発競争が始まる。それは従来の社会により適合するモノやサービスではなく、新しい文化を創造する競争」だという前提からの考えである。

 

ここで「文化の創造」には、「問題開発」「技術開発」「環境開発」「認知開発」という4つのフェーズがある。最初の「問題開発」とは、「理想像を思い描くフェーズ」だという。

 

次に「技術開発」は、「理想を実現するための製品を形にするフェーズ」であり、「環境開発」は「その製品が社会で利用できるようインフラなどを整備するフェーズ」である。

 

最後に「認知開発のフェーズ」は、「どんなに素晴らしいアイデアやコンセプトも、多くの人が『これは便利そうだ』とか、『今までより良さそうだ』と思ってくれて」こそ、「文化の創造」につながると説明されていた。

 

その上で、「大ヒット商品を生む鍵は生活者目線と優しさ」という視点から、「生活者目線で社会を見ること」と、「社会のゆがみの影響を最初に受ける弱者に、積極的に目を向ける」ことを〝開発〟のポイントとしておられた。

 

三宅氏が主張されている「4つのフェーズ」からなる、という内容は良く理解できる。中でも、これまで私自身が『仕組みと仕掛け』という言葉を用いて、このブログでも書いてきたことは、三宅氏の言われる「環境開発」「認知開発」と同じ考えになるだろう。

 

そこでこの『仕組みと仕掛け』と言う私自身の発想を、三宅氏が言われる「問題開発」「技術開発」とも絡ませて、全体像として再考してみたものが下図である。

 

 

 

少し複雑に思える図になってしまったが、右側が「問題開発」に当たる部分で、これは左側・下側とは立場が異なる、〝問題として投げかける(顧客)側〟ということである。

 

この右側からの「理想像のイメージ」を受けて、左側で「環境開発」としての「仕組みを作る」という(生産者側の)〝戦略的な機能〟が働き始める。

 

そこで求められる〝戦略的な機能〟とは、「基盤を整備すること」であり、「利用環境を整えること」や「戦略的な資源配分」をどうするか考えることに他ならない。

 

その結果として、次のステップで三宅氏が「認知開発」と呼んでおられる、「仕掛けを埋め込む」という具体的な〝戦術〟を立案する作業にたどり着く。

 

ここで「仕掛け」という具体的な〝戦術〟に求められる中味は、「目新しさ(新規性)」とともに、「わかりやすさ(理解性)」や「インパクトの強さ(印象性)」といったものである。

 

こうしたところまで内容を詰めていった結果、左側の「新たな価値創造を目指す(生産者)」側は、「生活者目線での回答」を、右側の「新たな価値創造を目指す(顧客)」側に投げ返すことができる。

 

三宅氏がフェーズとして規定されている「技術開発」は、私にはこうした全体像をサポートする存在だと映るので、決してフェーズとして独立して存在することはないと思う。

 

結局のところ、ここまでの三宅氏(なり私)の議論は、「新たな価値」を提供するという視点で、これまでとは〝何が、どのように変化〟するのかを考えているのだと思う。

 

これまでは、「モノ=商品の提供」から「サービス=顧客満足の提供」への変化だと言われてきたが、これからは「価値=理想像に迫る『感動』の提供」という視点になるだろう。

 

自分たちの都合の押しつけに過ぎない「プロダクト・アウト」という考え方はダメで、顧客に寄り添った「マーケット・イン」にしないといけない、と言われてきた。

 

だが顧客が自分たちにとっての「理想像のイメージを投げかけて」いなければ、どんなに「マーケット・イン」と言ってみても、それ自体が「マーケット・イン」という〝思い込み〟でしかないのだと思う。

 

つまり「『マーケット・イン幻想』という『プロダクト・アウト』でしかない」と言えるのではないか。三宅氏の記事を読んでみて、そんな気がしてきた。