『幻夏』の書評をいただきました。
コラムニストの香山二三郎さんが『小説推理1月号』で〈今月のベストブック〉に選んでくださいました。
ミステリ評論家の千街晶之さんが『週刊文春』11月28日号の〈ミステリーレビュー〉に取り上げて下さいました。
文芸評論家の中辻理夫さんが『週刊実話』11月28日号の〈本好きオヤジの幸せ本棚〉に取り上げて下さいました。
書評家の村上貴史さんが『本の旅人』の〈今月の新刊から〉に取り上げて下さいました。
書評家の藤田香織さんが幻冬舎プラスのweb連載『だらしな脱出できるかな日記』の〈最近の新刊読書〉に取り上げて下さいました。
どうもありがとうございました。
また、『幻夏』の感想をお寄せ下さったみなさま、どうもありがとうございます。
ところで、急に引っ越しをすることになった。知人に知らせると、「引っ越しは発狂しますよね」という不穏な予言を告げられ、現在、我が家は予言どおりになっている。
昨春、断腸の思いで本を2000冊ほど処分し、これで身は軽くなったといい気になっていたのがいけなかった。引っ越し屋さんに「段ボール箱が180箱になりますね」と言われて驚愕した。もっと捨てなければと焦って整理を始めた。間違いだった。今や我が家はハリウッド映画でよく見かける「その手の連中に徹底的に家探しされた部屋」と化している。ソファが切り裂かれて羽毛が飛び散っていないのがせめてもの救いだ。
さて、ついに師走。皆さま、心ときめく楽しい年の瀬を。
お知らせです。
「読書メーター」にて『幻夏』の献本プレゼントが始まりました。
応募期間は本日11月17日から24日12時までです。
サイトに飛びますと、あらすじの詳しい紹介などもございます。
どうぞ奮ってご応募ください。
詳細はこちら→読書メーター献本ページ
また、角川書店のサイトに『幻夏』のwebページができています。→こちらです。
桜の葉、ポプラの葉が色づき、街はすっかり晩秋のよそおいです。
落葉掃くおのれを探しゐるごとし 平井照敏
新作の小説『幻夏』、10月29日発売です。

簡単なご案内を、このブログのメッセージボードに載せました。→ こちらです。
現在アマゾンなどでも予約を受けつけています。
先日、我が家にも見本が届きました。昨年は上下巻でずっしりしていましたが、今回は一巻本。その分、今度はハードカバーになってがっしりした面構えになっています。
いくつかの書店では、店頭の本の傍らにポップを立ててくださったり、案内ボードを貼ってくださる予定です。ポップもボードも、表紙写真の懐かしいような黄昏時とはまた趣の異なった、ぬけるような真昼の夏空の鮮やかな写真で作ってくださっています。もしお近くの書店で見かけたときは、ぜひご覧になってください。
皆さまお変わりないでしょうか?
私は、忙殺の殺の字は誇張ではないのだな、と実感する毎日を送っています。
さて、お知らせです。
十月末に角川書店から小説『幻夏(げんか)』を上梓する予定です。
(この度は上下巻ではなく一冊です)
『犯罪者クリミナル』の主人公たちが登場するシリーズ二作目となります。
今回は、23年前の夏に起こった少年の失踪事件に端を発するミステリで、
12歳の少年たちの黄金の夏休みと、現代の東京に起こる誘拐事件をめぐる
物語です。
秋の夜長にお手に取って頂ければ幸甚。
また、手元に本が届きましたら、続報などいたす所存。
現在は皆さまお察しの通り『相棒12』のシナリオを書いています。
こちらも詳しいことがお知らせできるようになりましたら。
お楽しみに。
この頃は午後六時を過ぎて外に出ると、空がまだ仄かに白んでいる。冬ならばとうに日没の時刻だというのに、六月の太陽はなかなか沈まない。昼の名残の半透明の光が街と木と人を柔らかに包み、時間はわずかに滞って流れる。そういえば、夏至が近い。
夏至は二十四節気の一つで、北半球では太陽の南中高度が最も高く、日影は短く、昼は長く夜は短い。ヨーロッパではこの夏至の日の直前に祝祭を催す習慣が古くからあったそうだ。神聖な太陽がこの日をもって天高く昇るのをやめるため、地上に盛大に祝火を焚いて太陽に加勢しようと考えたのだという。
お祭りの夜、人々は焚火の周りを踊りまわり、下火になった火の上を跳び越える。「焚火越え」という行事で、ヴィクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』の一場面が記憶に鮮やかだ。映画の中では幼い少女たちが焚火越えを行っており、壁に映る彼女らの黒い大きな影が印象的だった。焚火を無事跳び越えた者には一年の息災がもたらされると伝えられ、若い男女が手を放さずに跳ぶと結婚できるという。キリスト教公認後は、この夏至のお祭りはキリスト教の行事として呑みこまれ、バプテスマのヨハネの生誕を祝う聖ヨハネ祭となって祝われている。(もう一方の冬至の祝祭が、同じ経緯でクリスマスとなったのだそうだ)
それにしても夏至とは何と魅力的な言葉なのだろう。夏至の日の終わらない午後の白い光が地上の影のない街に、影のない木々に、影のない人にあまねく降り注ぐ。永遠の真昼のように続く空虚に明るい風景は、もちろん観念が戯れに見せる幻にすぎないが、何処かでいつか見たような既視感がある。たしかにその午後の白い光の中、知らない街を歩いていたような。
卑しきこと おもひしならず たふときこと おもひしならず 白き夏至の日
葛原妙子
藤が見事な季節だ。
藤棚に端然と並んでいたり、高木の枝に絡まって新緑の中にしだれていたりする薄紫の藤の花房には他の花にはない魅力がある。藤は枝々を他の樹木にまとわりつかせて上へ登り、登った先からしだれて垂下の姿で開花する。藤は、いわば落下のかたちで花を咲かせる。
瓶(かめ)にさす藤の花房みじかければたたみのうへにとどかざりけり 正岡子規
子規のこの歌は、常時病床にあった子規の境遇を踏まえて読まなければ「だから、何?」という平凡な内容だとしばしば評される。確かに大きな瓶に挿した藤の花が畳のきわまで垂れ下がっている、それだけの光景だ。だが、藤の花と畳との間の短い距離には落下の寸前にあって、なおとどまり耐える無言の力が張りつめている、とも思えるのだ。
秋の果実もまた静止して中空にある。だが、成熟した果実には生の終わりの充実があり、それを内に秘めて落下を待っている。一方、藤の花房にはこれから盛りを迎える命のこぼれるような艶があり、しかもあくまで柔らかな姿のままで落下の力と対峙している。薄紫の花々からは甘い香を放ち、しかしその小花を集めて垂れた一房には張りつめた力の拮抗がある。春の名残の風のない午後、微動だにせぬ藤の静謐な佇まいに独特の凛々しさがあるのもゆえなきことではない。
ところで、能に『藤』という一曲がある。都の僧(ワキ)が善光寺詣の途中に立ち寄った氷見の里・多胡浦で松の木にまとわる見事な藤に出会い、やがて藤の精(シテ)と不思議な一夜の交流をする。能楽の独壇場ともいうべき夢幻的な物語だ。草木の精であるシテが、自然の風趣についてワキと対話を交わすという仕立ての謡曲は、『藤』のほかにも『杜若』『芭蕉』『西行桜』といくつもある。これらの底流にあるのは「草木国土悉皆成仏」、すなわち生きものだけではなく自然の中の山川草木すべてが仏性をそなえているという法華経の思想だという。
能楽であるから、有情非情をこえた仏性を観客の前に顕現させるのは能楽師の「舞」である。となると、藤ほど舞にふさわしい花もないだろうと思う。風に揺れる藤の花房は、容易に能楽師の一差しの舞を幻視させる。もしかすると、落下の力からしばし解き放たれて風に揺れる藤の花が、楽の音にしばし現世を離れて舞を舞う人の姿に似ているからなのかもしれない。そういえば幼名を鬼夜叉といった世阿弥が二条良基から賜った名も「藤若」だった。
「ん」の音が好きだ。
詩や短歌のような韻文の中で「ん」の音が鳴る時、独特の弾みと伸びやかな余韻が残る。「ん」は撥音(はつおん)と呼ばれ、はねる音なのだそうで、三味線のバチ(撥)ではじく音感だ。その名の通り、「ん」の後の短い間には、はじかれた音が礫のように空間を伸びていき、重力に引かれて力を減衰していく感覚がある。
「天」という語は、中でも「ん」の特権的な音の強さを感じさせてくれることばだ。「空」という語の明るく、全方位的な広がりの感覚は、それはそれで勿論、魅力的だ。だが、「天」には「空」では代えがたい強さ、潔さ、そして深さがある。
人は空にあこがれ、天に祈る。
最初に「天」という語が刻み込まれたのが、高村光太郎の『レモン哀歌』だった。読んだのは十代の初め。愛する女の死を題材に詩を創作するという行為に、どこか文学の傲慢と不誠実を感じて反発したほどに幼かった頃だった。
だが、そんなふうにさかしらに反発していても、「その数滴の天のものなるレモンの汁は」という詩句の見事な韻律は一読して耳に刻まれた。五つの「の」が作り出す澄明な調べ、「なる」一語の動的な制御、それに「天」「レモン」の二語の「ん」が与える抑揚が絶妙の音楽を作っている。高村光太郎の詩は、今読んでもとても大正期の作とは思えないほど新しく生き生きとしたリズムにあふれている。
次も有名な歌を。
死に近き母に添い寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞こゆる 斎藤茂吉
「遠田」という長音で、不意に読み手の中に夜の水田の風景が開ける。その真っ暗な天に、かはづ(蛙)の声が響く。誰もが想像するのは、蛙の声でありながら、実際の蛙の声を超えた何か、まさに祈りのようなものではないかと思う。茂吉という人はしばしば実景と観念のあわいに立って歌を詠む。
「どの辺からが天であるか」と問いかけたのは高見順だ。「天」という題の詩の、一読して忘れることのできない冒頭の一句だ。短い詩なので、全文を引いてみる。
天 高見順
どの辺からが天であるか
鳶の飛んでいるところは天であるか
人の眼から隠れて
ここに
静かに熟れてゆく果実がある
おお その果実の周囲は既に天に属している
「天」という語の「ん」はとても深い。
信じて、身を投げ出し、ゆだねたくなるような深さがある。
その奥行きの深さが、なぜだか魂ということばを思い起こさせる。
北風の強い一日、息抜きに散歩に出る。
雲ひとつない青空。川沿いの大きな建物を囲む生垣に並ぶ椿を楽しむ。
生垣の一面を覆う椿の硬い葉は厚みと光沢があり、奥行きの深い緑色をしている。
椿の花はその一面の濃緑の中に点在し、くっきりとした赤い花弁に囲まれた黄色の蕊がひときわ際立つ。冷たい冬を耐えるにふさわしい凛とした佇まいだ。もちろん白い椿、斑の椿も混ざっているのだが、椿といえばまず赤い椿に目を奪われる。
案外、竹久夢二の意匠が刷り込まれているせいなのかもしれない。
立春を過ぎた時節柄か、歩く足元には開花時の誇らかな表情のまま、赤い椿、白い椿が落ちている。
「落椿」は春の季語。
風に舞うように花弁を散らす桜の、いかにもあわれを誘うあでやかさに比べれば、首を手折られるように萼を残して花全体を落とす椿は無惨と思えるほどに潔い。
椿落ちて昨日の雨をこぼしけり 与謝蕪村
引用句の眼目は椿の花弁に湛えられた雨水を「昨日の雨」と言い取ったところ。
蕪村は南画の大家でもあり、句風をよく絵画的と評されるが、なかなかどうして一筋縄ではいかない。
雨水が落花とともにこぼれるというありふれた情景を、蕪村は「昨日の雨をこぼしけり」と詠む。
その途端、冬から早春へと移ろう時間が赤い花弁と清冽な水のイメージをともなって瑞々しく立ち現れる。語感と調べの冴えわたる一句。「落椿」を代表する名句だと思う。
二週間ぶりにオフをとってビリヤードに行く。
吊下げ式の低い照明が並ぶ場内は、紫煙とアルコールの匂いに空気がくすみ、
灯りの下のラシャのグリーンと的球のカラフルな色が鮮やかだ。
撞くのは久しぶりというのに、意外に調子よく的球がポケットに入る。
気分よくなって「絶好調じゃないか」と呟いたのが間違いだった。
勢いよく撞いた白い手球は見事に的球を外れ、不吉な音と共にポケットに沈下。
途端にツキが落ちた。
その後は思いがけない球の行方に驚きつつ、おもに雰囲気を味わって楽しんだ。
さて、ビリヤードといえば刑事コロンボ。子供の頃、ビリヤードというゲームを初めて知ったのも刑事コロンボ・シリーズだった。当時はルールも知らず、ピーター・フォーク氏の腕前もわからなかった。だが後年、再見した時に驚嘆した。第2話の『死者の身代金』でフォーク氏は、ワンカットの中で続けざまに球を落とした上で、最後に手球をポケットに落とすという凡ミスをわざと演じてみせ、やれやれと肩を竦めるのだ。聞くところによると、フォーク氏は当時ハリウッドでも名うてのビリヤード・プレイヤーだったそうだ。さすが。