藤の花房 | 脚本家/小説家・太田愛のブログ

藤が見事な季節だ。


藤棚に端然と並んでいたり、高木の枝に絡まって新緑の中にしだれていたりする薄紫の藤の花房には他の花にはない魅力がある。藤は枝々を他の樹木にまとわりつかせて上へ登り、登った先からしだれて垂下の姿で開花する。藤は、いわば落下のかたちで花を咲かせる。


瓶(かめ)にさす藤の花房みじかければたたみのうへにとどかざりけり 正岡子規


子規のこの歌は、常時病床にあった子規の境遇を踏まえて読まなければ「だから、何?」という平凡な内容だとしばしば評される。確かに大きな瓶に挿した藤の花が畳のきわまで垂れ下がっている、それだけの光景だ。だが、藤の花と畳との間の短い距離には落下の寸前にあって、なおとどまり耐える無言の力が張りつめている、とも思えるのだ。


秋の果実もまた静止して中空にある。だが、成熟した果実には生の終わりの充実があり、それを内に秘めて落下を待っている。一方、藤の花房にはこれから盛りを迎える命のこぼれるような艶があり、しかもあくまで柔らかな姿のままで落下の力と対峙している。薄紫の花々からは甘い香を放ち、しかしその小花を集めて垂れた一房には張りつめた力の拮抗がある。春の名残の風のない午後、微動だにせぬ藤の静謐な佇まいに独特の凛々しさがあるのもゆえなきことではない。


ところで、能に『藤』という一曲がある。都の僧(ワキ)が善光寺詣の途中に立ち寄った氷見の里・多胡浦で松の木にまとわる見事な藤に出会い、やがて藤の精(シテ)と不思議な一夜の交流をする。能楽の独壇場ともいうべき夢幻的な物語だ。草木の精であるシテが、自然の風趣についてワキと対話を交わすという仕立ての謡曲は、『藤』のほかにも『杜若』『芭蕉』『西行桜』といくつもある。これらの底流にあるのは「草木国土悉皆成仏」、すなわち生きものだけではなく自然の中の山川草木すべてが仏性をそなえているという法華経の思想だという。


能楽であるから、有情非情をこえた仏性を観客の前に顕現させるのは能楽師の「舞」である。となると、藤ほど舞にふさわしい花もないだろうと思う。風に揺れる藤の花房は、容易に能楽師の一差しの舞を幻視させる。もしかすると、落下の力からしばし解き放たれて風に揺れる藤の花が、楽の音にしばし現世を離れて舞を舞う人の姿に似ているからなのかもしれない。そういえば幼名を鬼夜叉といった世阿弥が二条良基から賜った名も「藤若」だった。


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