こんにちは。

今回は「洗礼者ヨハネの教訓と使徒ヨハネの言葉」と題してお話していきます。

 

話の構成

一、洗礼者ヨハネの教訓

二、使徒ヨハネの言葉

三、正しい戦い方

四、結び

一、洗礼者ヨハネの教訓

真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」の記事はご覧になりましたか。手前はこの記事を通して、洗礼者ヨハネの苦悩を抱えた人間としての姿をより理解することが出来ました。誰しもが持つ人としての弱さ、苦悩しながらも信仰をまっとうする姿は必ずや我らの信仰生活の参考となるはずです。それはキリスト者に共通するものだと分かります。

 

例えば、使徒ペトロは聖霊を受ける前、鶏が三度鳴くまで、主イエスを三度、知らないと否みました(マタイによる福音書二十六章六十九節から七十五節参照)。主イエスに選ばれ、主イエスと共に行動し、決して裏切らないと公言した使徒ペトロであっても、主イエスが捕えられた後は見捨てて逃げ去りました。しかし、決して、それを嗤うことなど出来ません。自分の身を守ろうとするのは人としての本能だからです。それに抗えなかった様は、弱さを抱えた現実的な人間の姿そのものです。「ここからどうするか」が大事で、その後、痛切な後悔を経て、聖霊を受けて使徒としての大きな働きを為すに至ったことに、人は成長して変わり得るのだと大きな励ましを受けます。

 

また、たった一人で主なる神に従い、バアルの預言者四百五十人に対峙して打ち勝った預言者エリヤでさえも、イゼベルの脅しに対しては恐れ、死を願うほどに心身が衰弱した場面が聖書には書かれております(列王記上十九章一節から五節参照)。あのエリヤでさえも、このようになってしまうのです。しかし、イスラエル王アハブの后であるイゼベルから(世の権力者から)殺害予告を受ければ、そうなっても無理はないと思います。しかも、イスラエルの人々は偶像のバアルに屈して他の預言者を殺し、エリヤ一人が残された状態でした(列王記上十九章十四節参照)。現代で言えば、一人で悪徳政府に抗い、殺害予告を受けているようなものです(大艱難期には現実となるでしょう)。しかし、ぎりぎりの所で御使いが助けの手を差し伸べてくださいました。

 

他にも、艱難を通った者としてノアが思い起こされます。真の聖書福音と預言「【第四回】正しい聖書の底本とは」の動画(三十六分三十九秒から)で『ノアたちは大洪水という艱難の只中で救われたのであり、事前に安全な場所に避難させてもろたんとちゃうで。』と言われているとおり、非常に困難な場面を通っております。ヤシャルの書によれば、ノアの箱舟のくだりにおいて、箱舟の中ですべての生き物が恐怖したと書かれております。ノアと息子たちは困難の中で涙を流して泣き、「死の入り口に到達した」と酷く恐れました。そして、ノアは主に泣きながら、主に助けを祈ったと書かれております。決して、箱舟に乗ったから安心と思えた訳ではなかったようです。それほどまでに面前の激しい洪水に圧倒されたのだと思います。主なる神はノアを覚えておられ、ノアの声を聞かれ、彼らを守られました。

 

これらの場面に共通しているのは、聖書において偉人と思われる人たちも、人としての弱さを抱えて、苦悶しながらも、艱難を通り最期まで主を信じて歩んだということです。まったく恐怖がなかった訳でもなく、消え入りそうな状況に陥りながらも、歩み通した所に意義があると思います。そして、それは洗礼者ヨハネも同様です。

 

一、洗礼者ヨハネの疑念

(略)

その理由は、おそらく、主イエスがほんまもんの救世主(メシア)であるなら、救世主がこの世の悪人どもに対して裁きを下すことに期待しており、さっさとこの世の悪人と悪魔を一掃し、神の王国を早急に樹立し、素晴らしい世の中に変えてくれるだろうと期待していたが、それが一向に行われへんかったからであろう。そうこうするうちに彼自身が不当逮捕及び不当拘留されてることで、精神的に弱ってきたからかもしれへん。また、イザヤ書六十一章一節にあるように、囚われの身のから解放されることも洗礼者ヨハネは期待していたかもしれへんが、それが洗礼者ヨハネ自身に対しては実現することがなく、彼は「神の律法を擁護し、悔い改めを説き、神のために働いたのに、牢の中で長期拘留され続けるのが報いなのか…」と思い、気持ちが揺らいできた可能性もある。主イエスからエリヤと称された洗礼者ヨハネでも不遇であることがあり、その事実だけを以って洗礼者ヨハネは大した事ないと思うべきではない。

(略)

人間は短い人生の中で数年でも非常に大きい故、中々事が起こらへんと「長い」と思て痺れを切らしたり、苛立ったり、あるいは落胆したり、たとえ予定されてることであっても焦りの気持ちや疑念が生じることがある。洗礼者ヨハネは人間であり、おそらくかように思い、更に彼自身も一向に釈放される兆しも感じられず不当に拘留されてる状態故、期待してた事が中々起こらず、主イエスに対して疑念が生じ始めたんでしょう。長い目で見れば短いかもしれへんけど、自由がまったく無くて狭い牢で拘束されてる状態では一日が非常に長く感じるでしょうし、牢からも救い出してくれへん主イエスに対して疑念を持ち始めるのも無理は無いでしょう。かように、聖書読者は、この洗礼者ヨハネの心情を考えないかんで。これが分からん人は、当事者の立場や気持ちになって考えず、他人事でおるから分からんのや。

 

引用:真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」

 

目を引いたのは、疑念を口にした背景として、洗礼者ヨハネであっても精神的に弱っていたことです。「洗礼者ヨハネは偉人」との印象だけで捉えると、その働きも含めて、「洗礼者ヨハネだから出来たのだ」と、どこか遠く感じてしまうかもしれません。この見方はともすれば「自分には出来ない」という言い訳を作る危険すらあると思います。しかし、実際の洗礼者ヨハネはこのような生々しい苦悶を感じていたであろうと思うと、間違いなく我らと同じ人間なのだと分かります。一度主イエスに直接にお会いしているものの、洗礼者ヨハネが『あんたが遣わされてる方か。それとも、他の方を待ちますか。』とまで言う心境を想像すると、最初に抱いていた考えが揺らぎ、確かめずにはいられない程に不安を感じたのだと思います。まさしく「疑念」で『もし洗礼者ヨハネが、主イエスを来るべき救世主(メシア)と確信してたなら、かような質問をする筈がないからや。』のとおりに、動揺していたのだと思われます。

 

『当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれて属州に組み込まれて、ローマ人の圧政から解放してくれる政治的な活動をする救世主像を思い描いており、救世主が一度お出ましになれば、すべて解決すると思ってた。しかし、それこそが勘違いであり、聖書の真意ではない。ユダヤ人の大衆は主イエスに期待してた面もあったが、あっさりと逮捕され、鞭打たれたりしてる姿を見て、「こんな弱い人間が救世主な訳がない」と思い、その勝手な期待外れと落胆から怒り、主イエスに対して「十字架につけろ」、「イエスよりも(強盗の)バラバを解放しろ」と言いさえし、無罪なのに主イエスが強盗バラバよりも嫌われた事実がそれを物語ってる。との説明箇所は非常に重要です。分かりやすい時代背景の説明もありがたいですが、大衆が『勝手な期待外れと落胆から怒り』とのご説明にも着目するべきです。確かに主イエスの御言葉は不敬虔な群衆には理解されず、高慢で世の権威と化した律法学者ら(彼らは間違っているにも拘らず)から迫害されもしました。それでも多くの人々が何らかの形で主イエスに注目し、いやしや奇跡を目撃したはずです。それにも拘らず、最終的には「十字架につけろ(マタイによる福音書二十七章二十二節参照)」とまで言い放つのはどういう心境だろうかと個人的にはずっと疑問でした。しかし、『勝手な期待外れと落胆から怒り』と捉えれば合点がいきます。同時に、人はこのように自分勝手になれるのかと閉口してしまいます。『ただこの世での自分たちの幸福や繁栄等を願ってるだけの利己主義者たち』との指摘は実に的確です。我らも自分勝手な願望を抱かぬように気を付けなければなりません。それこそ偶像になりかねず、自分を捨てて従うようにと言われた主イエスの言葉(マタイによる福音書十六章二十四節参照)が活きてきます。「自分勝手な願望」と言えば、以前、「ヨハネの黙示録の描写は、艱難前携挙されなかった罪人が遭う場面を指している」と豪語する愚か者がおりました。ヨハネの黙示録一章三節、二十二章十六節等を見れば、キリスト者も大艱難を通るからこそすべてのキリスト者に向けて書かれていると分かります。艱難前携挙が嘘なのは主イエスの御言葉を見れば明らかです。確認したい方はこちらの記事(真の聖書福音と預言「携挙の真実」)をご覧ください。自分勝手な願望は偶像、偽福音に通じるため要注意です。

 

そして、記事中の『洗礼者ヨハネは牢に長期拘束されたことで、気が弱くなって、当初思っていた主イエスに対する期待がどんどん薄くなり、疑念を生じたのであろう。』の言葉から、我らは学ぶべきです。

 

人は、自分が悪い状況や環境に身を置くと、やはり精神的に沈んだ気持ちになり、自分が置かれてる状況が改善されへんなら、否定的な思いがどうしても出てきてしまう。それが人間の性でしょう。それを乗り越えられるかっていうのが問題なんです。もしそういった試みを乗り越えられへんなら、神はその者を神の王国に相応しいと思し召すかどうかと疑問に思わないかん。

 

引用:真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」

 

洗礼者ヨハネでさえ、牢に長期間拘束されて気が弱くなったのです。よく考えれば当然のことですが、キリスト者とてそのような状態に置かれれば弱ることは避けられません。しかし、洗礼者ヨハネは、主イエスの御言葉によって弱った心が元気付けられ、目が覚めるように感じたのではないかと思います。渇いている時の水のようです。また、冒頭に挙げた使徒ペトロの場合は、復活された主イエスが現れてくださり、エリヤの場合は御使いが助け導いてくださり、ノアの場合は主なる神がノアの声を聞かれて守ってくださいました。ぎりぎりの所で真に神に従う人のために(神がお選びになった方のために)助けてくださる描写が共通していると思います。試練によって信仰が本物と証明される(ペトロの手紙一 一章七節参照)、主は忠実な者を誘惑から助け出す(ペトロの手紙二 二章九節参照)とは、こういう意味なのだろうと考えます。但し、「助ける」とは必ずしも肉の命ではなく、肉の命を失ったとしても、誘惑を退けて永遠の命を勝ち取る意味においての「助ける」もあることに留意すべきです。洗礼者ヨハネは最終的に後者であったと思われます。

 

そして、今の現実はどうでしょうか。黙示録にある「獣の像を拝み、獣の刻印を打たねば殺される」は大艱難期の究極の場面ですが、まだそこには至っていないものの、徐々にその暗黒社会に近付きつつあります。コロナ犯罪が横行し、世の権威(連合国、世界保健機関、各国政府)は共産主義的体制に向けて、偽感染症の演出(参照:Yahoo!ニュース)や巨大地震等の自然災害にかこつけて既視感のある行動制限を仕掛け、且つ、「緊急事態条項が必要」等、憲法改悪を訴えて(参照:アメブロ)おります。最近では、「緊急政令」と別の名称に変えるなど狡い手口を使っているようです(参照:産経新聞)。

 

 

 

激しい情報戦が繰り広げられている中、政府は政府の見解以外を「偽・誤情報」と看做して言論弾圧することを合法化しようとしております(参照:Yahoo!ニュース)。ちなみにこちらの記事は弁護士が作成しているにも拘らず、記事中では政府の行為が言論弾圧であることや違憲であるとまったく指摘しておりません。「偽・誤情報」の「ファクトチェック(事実確認)」は誰がしようとも、削除要請は言論弾圧、違憲です。巧妙に論点を逸らしているように見えるため注意が必要です。そして、このような違憲な制度は憲法九十八条一項の故に無効です。情報(言論)が本格的に統制されれば暗黒社会にまっしぐらとなるため、違憲無効を訴え、改憲を必死で阻止しなければなりません。

 

もはや「こんな腐った世の中は早く終わってほしい」と不信仰者でも思うのではないでしょうか。キリスト信仰を持っていても正直、嫌になることは多々あります。そして、しばしば、他力本願にこの状況を救ってくれる「救世主」を求める人々を見かけます。しかし、そのような者は現れません。的中率十割の聖書の終末預言を見ればそれは明らかです。やりたい放題の政府と無秩序な状況に嫌気が差すのは仕方がないことですが、この世に期待すると偽りの「指導者」に騙されます。おそらく、近い将来に世界的な戦争が起き、人々がこの混乱に疲弊し切って、ただただ平和や平穏を願った時、ローマ教皇が敬虔な振りをして仲裁すると考えられます。やがて世界統一宗教の指導者に収まり、地のすべての人々に律法違犯を強要するようになるでしょう。なぜならば新世界秩序に君臨する獣こそがローマ教皇だからです(参照:真の聖書福音と預言「聖書は今後の世界の動向を教えてくれます 後編」「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」等)。その片鱗は今でも十分に確認出来ます(参照:真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」)。支配層に近しいローマクラブはこちら(メモ・独り言のblog)のように人口削減とその後の支配体制についてあからさまに口にし、第二の獣の国である米国の宇宙航空局(NASA)は二千二十五年の大規模な人口削減を予告しております(参照:さてはてメモ帳 Imagine & Think!)。同時にローマ教皇は有りもしない「気候変動(詐欺)」への対策を訴え続けております(参照:CNN)。偽感染症騒動、気候変動(詐欺)、(人工)自然災害等の偽の問題を作るのが彼らのやり口です。「問題⇨反応⇨解決」の流れのままに、支配層の掌の上で転がされないように嘘を見抜き、賢く対応しなければなりません。確かに、艱難期に突入していることもあり、嫌な話ばかり聞こえてきます。しかし、まだこの段階で気落ちしたり、へこたれている場合ではありません。信仰に固く立って、支配層の悪事を弾劾し、福音を宣べ伝えて参りましょう。

 

ヨハネの黙示録十三章にある、獣の像を拝まねば殺される社会が現実となった時、洗礼者ヨハネと同じような状況に、あるいはもっと悪い状況下に置かれる可能性があります。その上で、旧約聖書の書簡までしか無かった洗礼者ヨハネの時代と違って、現代の我らには、主イエスや使徒たちの言葉から、終末に何が起きるかを知ることが出来、備えに関する教えを十分に頂いております。例えば、主イエスは『更に、人々があんた方を連行して引き渡す時、何を話すかを事前に心配すな。熟考もすな。むしろ、その時にあんた方に与えられることを話しなはれ。話すんは、あんた方やのうて、聖霊やさかい。一方で、兄弟は兄弟を、父は子を死に引き渡すだろう。子は親に反抗して殺すだろう。また、我が名のためにすべての人に嫌われるが、最期まで耐え忍んだ者、その者は救われるだろう。」「更に、預言者ダニエルによって述べられた荒廃の忌まわしいものが立ってはならぬ所に立つのを見たら、読者は悟りなはれ。その時、ユダヤに居る人たちは山に逃げなはれ。マルコによる福音書十三章十一節から十四節(引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 四」)』と、その時にどうすれば良いかを具体的に示してくださっております。同時に、命が保証されている訳ではありません。「白い長衣が彼らの全員に与えられ、彼らのように殺されようとしている兄弟や仲間の僕の数が満ちるまでのまだ少しの間、休んでいるように言われた。(ヨハネの黙示録六章十一節参照)」と黙示録に書かれており、流れからは大艱難期中と考えられます。すべてのキリスト者が殺される訳ではありませんが、すべてが存命でもなく、各々に定められた最期があるようです。自分の命を一番に考えず、神の目に適うように生涯をまっとうするべきです。何故ならば、死後の永遠を決める岐路に今、我らは立っているからです。『体を殺すが魂を殺すことがでけへん者どもを恐れるな。しかし、むしろ魂と体を地獄で滅ぼすことが出来る御方を畏れなはれ。(マタイによる福音書 十章二十八節:引用 真の聖書福音と預言「畏れるべき者」)』と主イエスは命じておられるからです。

 

 

ヨハネの黙示録三章八節(参照)及び十節(引用:真の聖書福音と預言「携挙の真実」

 

我はお前の行いを知っている。見よ、我はお前の目の前の扉を開けておいた。誰もそれを閉じることは出来ない。お前は僅かな力を持ち、我が言葉を守り、我が名を否まなかった。

あんたは我が忍耐の言葉を守ったさかい、地に住む人々を試すために全人類に来ようとする誘惑の時から、我もあんたを守るであろう。

 

 

ヨハネの黙示録の箇所は、特に人間の「行い」とそれに対する「報い」の言及が他の箇所に比べて顕著です。ヨハネの黙示録三章八節にある「行い」「善行を要求する律法」が根本にあります。律法に適うことが善であり、律法に違反することが悪です。律法に適うことが清さに繋がり、それに逸脱することが汚れや堕落に繋がります。「誰が我が心を我は清めた、我は罪から清くなったと言えるだろうか。(箴言二十章九節参照)」「子供でさえ、自分の行いによって、その行いが清いか正しいかが分かる。(箴言二十章十一節参照)」と言われているとおり、行いがすべてを表します。これは旧約の時代から、今に至るまで何ら変わりはありません。不信仰者は論外ですが、律法廃止の偽福音に拠って立つカトリックやプロテスタントら、世にある諸教会(パウロ教徒)の教えには決して騙されないでください。聖書のどこにも「行いが不要」、「律法が廃止された」などと、神が言っている箇所はありません。ただ偽使徒パウロが吹聴しているに過ぎません。律法を遵守している者には命に至る門が開かれております。そして、「お前の目の前の扉」の「扉」とは、「神の王国に受け入れられるために従わなければならない条件」があることを表しております。無条件ならば、そもそも扉は必要ないからです。ここで主イエスは「お前は僅かな力を持ち、我が言葉を守り、我が名を否まなかった。」と言っておられます。僅かな力であっても主イエスの名を守り、艱難にあっても主の名を否定しないようになることを示唆していると思います。「僅かな力」が大きな成果を生むことから、「からし種(マタイによる福音書十三章三十一節、マルコによる福音書四章三十一節参照)」が思い起こされます。「からし種」はこちら(「善福の旅行記見聞記」)にあるように、種は一ミリ前後と微小です。しかし、成長すると三メートル以上の高さに達するそうです(参照:Oh! Happy Day)。従って、微小のものが「からし種」に例えられ、また、驚くほどの大きさに成長するものも「からし種」に例えられます。ここに福音書の言葉と黙示録の主イエスの言葉に一致が見られます。このようになれることを目指し、また、希望を持っていくことが大事だと考えます。更に、「我が忍耐の言葉」について、「忍耐して実を結ぶ(ルカによる福音書八章十五節参照)」「信仰が試されることで忍耐が生まれる(ヤコブの手紙一章三節参照)」などの言及のとおりに、忍耐は不可欠です。艱難の中でも忍耐して神の律法を守る者に、神は人間が持つ弱さに打ち勝つ強さをお与えになると言われております。

 

洗礼者ヨハネの最期は、牢の中での斬首でした(マタイによる福音書十四章十節参照)。人間的な目線で見れば、無惨な最期だったと思われるかもしれません。しかし、疑念を抱くほどに気持ちが弱った状態から、主イエスからの御言葉をいただき、洗礼者ヨハネは息を吹き返したのではないかと思います。この出来事は「誘惑の時に守る」の一つの形ではないかと思います。ミカエル氏の記事の解説を手がかりに洗礼者ヨハネの歩みを読み進めると、主イエスの前に道を整え(神の国の到来のために悔い改めを説いた)、自身も艱難を通り、弱さもありながら最期まで信仰をまっとうした良き例であると手前は感じました。読者各々が学ばれた内容があると思います。それらを御自身の信仰と行いに活かせれば幸いです。

 

二、使徒ヨハネの言葉

 

洗礼者ヨハネは、我らにも我が事の教訓を残してくださいました。そして、信仰の基本となる、神が神の国に相応しいと思し召す条件等について使徒ヨハネの書簡から、確認して参ります。過去の取り上げた箇所もありますが、何度確認しても、し過ぎる事はない珠玉の箇所だと思います。

 

ヨハネの手紙一 二章二十八節から三章十節(参照)

 

子たちよ、今やお前たちは御子の内に留まりなさい。御子が現れるその時、我らが確信を持つように。御子の到来の時、御子の御前で恥じないように。

お前たちは御子が神聖な御方と知っているなら、義を行う者は皆、神に属する者として生まれたと理解出来る。

見よ、御父は我らにどんな愛を与えただろうか。我らは神の子らと呼ばれるようになった。その事の故に、この世は我らを理解しない。何故ならば御父を理解しなかったからである。

我らは今や神の子だが、我らがどうなるかは示されていなかった。しかし、御子が現れる時、我らは御子に似た者となるであろうと我らは知っている。我らは御子を有りのまま見るだろうからだ。

御子によってこの希望を持っている者は皆、御子が清いように自分自身を清める。

罪を犯す者は誰でも不法行為を犯す。罪とは不法行為だからだ。

御子は我らの罪を取り除くために現れたとお前たちは知っている。御子の内に罪はない。

御子の内に留まる者は誰でも罪を犯さない。罪を犯す者は誰でも、御子を見ておらず、知らない。

幼な子たちよ、お前たちは誰にも惑わされないようにせよ。義を行う者は御子と同じように正しい人である。

罪を犯す者は悪魔に属す。悪魔は最初から罪を犯すからだ。悪魔の業を滅ぼすために、このために神の子は現れた。

神から生まれた者は皆、罪を犯さない。神の種がその者の内に留まっているからであり、神から生まれるため罪を犯すことが出来ない。

これによって、神の子たちと悪魔の子たちは明らかである。義を行わない者は皆、神に属しておらず、自分の兄弟を愛さない者も皆、同様である。

 

一)主イエスに留まることの意味

ヨハネの手紙一 二章二十八節について、使徒ヨハネも主イエスと同じように、主イエスの内に留まるようにと命じておられます。主イエスが言われた「我が掟を守るなら、我が愛に留まる(ヨハネによる福音書十五章十節参照)」の言葉に重なります。留まるとは、一つのままであり続けること、別のものになったり違ったりしないことです。実際、「留まる(μένετε)」には「忍耐する」「継続する」の意味があります。忍耐と継続については聖書内で繰り返し言われております。正しい事を継続するのは世俗でも尊ばれ、それを神の掟を守ることにこそ使うべきです。正しい努力を積めば結果が出るはずです(参照:真の聖書福音と預言「成功するためには」)。そして、御子の来臨の時は世の終わりの時、審判が下る時です。「確信」と「恥じる」は対概念で、その時にどちらの思いを抱くか、明暗が分かれております。裁きを下す主イエス(審判者)の前でやり抜いたと確信を得られれば幸いです。神は聖書の言葉を通じて、前もって何を為すべきかを明確に伝えております。前もって言っているにも拘らず、出来なかったら、どんな気持ちになるかは明白です。例えば、世俗の仕事でも、依頼主や上司から事前に納期、納品物の品質基準を伝えられておりながら、もし守られなかったら、後ろめたくて仕方なくなるのではないでしょうか。後の祭り、手遅れ、覆水盆に返らず…いろいろな言葉が過ぎるかもしれません。出来なかった自分を恥じるだけでなく、依頼主や上司に何とお詫びして良いか、怖くて顔も(目も)まともに見れない心境となるのではないかと思います。想像しただけでも、実に嫌な気分になります。ましてや死後の永遠を決める事柄につき、安易に「出来ませんでした」では済まされません。

 

二章二十九節について、新共同訳では「(御子が)正しい」となっておりますが「神聖」と最上の表現が相応しいと考えました。基本的な意味は「無実」「正しい」なのですが、その本質は「聖なるもの」です。また、この原語の聖書内での使われ方を概観すると「正義の人」「神の法を守る人」「非の打ち所の無い」「罪の無い」「考え方、感じ方、行動が神の意志に完全に従順な人(心や生活の矯正を必要としない人)」 として使われており、「神聖」に相応しいです。そして、「義(を行う)」は、律法によって示されたあるべき姿(適法の状態)、即ち、神に受け入れられる状態です。神はこれを行うように求めており、使徒もそのように言っております。パウロ教徒らは、人間の無力さを強調し、ただ神に罪を赦されれば良いとしか言いません。完全に真逆な事を教えており、そのような偽福音を信じても地獄の子(有罪判決を受ける)となるだけです。もし「人には出来ない」との考えに拘泥するなら、主イエスが模範を残した意味は無くなります。「いつか出来るようになる」と思っていたとしても、何の努力もせず、そのままで自分の生涯を終えたらどうするつもりなのでしょうか。悔い改めて、神の掟を守ることで与えられる聖霊の働きが不可欠です。このような状態を「神から生まれた」等と記されております(ヨハネによる福音書一章十三節、ヨハネの手紙一 五章一節等参照)。律法遵守に対して、特に安息日遵守に「それでは生活が出来ない」と反発する人々を山ほど見てきました。しかし、「どうやったら出来るか」と心の向きが変わると驚くほど道は開けるものです。葛藤があるのも世俗への思いが強いから起こることです。本腰を入れられれば、最初は揺り動かされながらも、徐々に安定してくるものだと思います。もし安定しないなら、原因を特定して改善するべきです。同時に神に選ばれぬ人は絶対に途中で消える羽目になる。なぜなら、神は、神御自身が選んだ人だけを救う予定にしており、神が選んでへん人間を救うおつもりはないからや。我等は、この事をきちんと受け止め、この悪魔と悪人が支配する悪しき世の中で生きていて、最後の審判を経ていない限りは、天国行きは確定してへん故、信仰に招かれたとて「自分は選ばれたんだ」と思い込んで傲慢に振る舞うべきではないし、「自分は確実に救われるんだ」なんて不遜にも思うべきでもない。神は、人の心の中までも読む故、心の中で密かに思ってる事もすべて筒抜けやで。(引用:真の聖書福音と預言「洗礼者ヨハネとキリストの再臨前のエリヤ」)』のことも肝に銘じるべきです。また、同記事のコメント欄にある『世俗社会や家庭において問題を抱えてると落ち易いです。信仰を第一にすることも必要なんけども、一応、生活基盤を確保せな、いつか支障が出るとか、維持するのが難しくなる等と問題が発生します。そうならんように、あらゆる方向に抜かりなく対処しましょう。』の言葉も必見です。信仰第一も生活基盤が整ってこそです。生活が立ち行かなくなれば、信仰もままならなくなります。「あらゆる方向に抜かりなく対処」が必要なのは、これまでの自分の生活を振り返っても同感であり、これからもそうなのだと思います。マタイによる福音書二十四章四十五節から五十一節に忠実で賢い僕の例え話がありますが、賢いとは「抜け目が無い」ことでもあり、きっと生活基盤のことにも目が行き届くのだろうと思います。生きている以上、生活上の課題があるのは避けられません。それ自体はやむを得ませんが、上手く対処出来て信仰を第一にする基盤を維持出来ればそれで良いのだと思います。

 

二)神の子らの性質

三章一節について、ヨハネによる福音書一章十二節でも言われているように、主イエスの教えに留まるキリスト者を「神の子ら」と呼んでおります。主イエスを介して御父や聖霊とも繋がり、神の目的を知り、人々の間に救いの計画を伝えるように任命され(福音伝道)、また、神の神聖さに倣い高潔であるようにされた者と言えます。「この世は我らを理解しない」のは、この世全体が不信心な大衆によって構成されているからです。彼らは神から選ばれておらず、地上の財産、利益、地位や名誉、快楽などを追い求めます。それらは空虚で脆弱でこの世が存続する束の間のものでしかありませんが、欲望をかき立ます。神を信じようとする心を惑わし、キリスト信仰の障害となります。「御父を理解しなかった」とは、父なる神の性質、特に主イエスを通してお選びになった神の民をお救いになることと、その御意志と愛情を大衆は理解しなかったのだと考えます。「理解する」の中に「知る」「識別する」の意味も含まれ、本来は神とキリストについての知識等を価値あるものとして理解することを指していると考えます。それを知らないのは、大衆が不信仰(異邦人の道)で他の宗教等の偶像を信じているからです。無宗教を自称したとしても、本物を知らなければ不信仰でしかありません。一方、真のキリスト者は唯一の真の神を信じます。だから、この世は本物の神を認めることも、理解することも、信じることも出来ないと言われているのだと考えます。

 

 

三)清めることの意味

三章二節について、こちらは復活の時への言及です。そして、福音が成就する時でもあります。神の御計画は以下の通りです。

 

主イエスは、この世は仮の世であり、この世の試用期間の人生を終えた後で復活し、律法遵守をして慈愛ある行いを生きてる間にしてた人は神から正しいと認められて天国に行って永遠の命に与り、不信仰者や律法違犯を改めへん人や慈愛ある行いをせえへん悪い人は地獄で永遠に苦しむことも教えはった。

 

引用:真の聖書福音と預言「律法遵守は信仰の証しと復活」

 

ヨハネの黙示録十章七節(兄弟共同検討訳)

第七の天使が出す音の日々、ラッパを吹く時、神の神秘が成就する。神が御自分の僕である預言者たちに良い知らせ(福音と同義)を告げられたとおりに。

 

上記の聖句箇所の場面でもあると思います。そして、何もせずに「御子に似た者となる」訳ではなく、ヨハネの手紙一 三章三節にあるように「御子が清いように自分自身を清める」段階を経ます。この「清める」も定義が大事で「倫理的に神聖化する」ことです。つまりは、倫理(神の律法による善悪)基準に従って、適法となることです。それも最低限のことであって、その中でも更により良い段階を目指すべきだと思います。なぜならば「清い」は「あらゆる欠点がなく、汚れのない」状態を指すからです。

 

三章四節は、基本中の基本として、真っ先に理解するべき事柄です。「罪とは不法行為」、これ程分かりやすい説明はありません。主イエスが律法は廃止されていない(マタイによる福音書五章十七節参照)と明言され、使徒ヨハネも律法を前提に語っており、終末預言たる黙示録でも同様であることから、律法廃止論など有り得ません。また、三章五節のとおり、主イエスは罪を取り除くために、その名を信じて従う人に救いをもたらすために来られました。「御子の内に罪はない」のは、人としての弱さも帯びながらも罪を犯されなかった(ヘブライ人への手紙四章十五節参照)からであり、罪に打ち勝つ我らの模範(ペトロの手紙一 二章二十一節参照)です。パウロ教徒らは「律法遵守は不可能だ」と決めつけますがそれはサタンの嘘に惑わされているだけです。だからこそ、過去の罪は無かったものとされたとしても(罪の赦し)、「これ以上罪を犯してはならない(ヨハネによる福音書五章十四節、八章十一節参照)」、「悔い改めなければ皆滅びる(ルカによる福音書十三章三節及び五節参照)」と主イエスが仰っているからです。一つの聖句だけではなく、他の箇所も含めて総合的に文脈を見る必要があります。「御子の内に留まる」も、現在はそうであってもこれから先、躓いたら元の木阿弥です。途中で脱落して律法違犯を繰り返すようになると、前よりもずっと悪くなる(ペトロの手紙二 二章二十節参照)と書いてあるからです。三章六節の「罪を犯す者は誰でも、御子を見ておらず、知らない」の「見ていない」「知らない」は完了形で、動作がすでに完了して、その結果が現在も継続している状態を指します。もし、繰り返し罪を犯し続けながらも、主イエスを知っていると言うのなら、これほど滑稽で矛盾した事はありません。

 

四)警告「惑わされるな」

三章七節について、「幼な子たち」はキリスト信仰に入った者たちを指します。つまりは、我らをも含みます。その上で「お前たちは誰にも惑わされないようにせよ」と言われているのは、騙される危険が常にあるからだと思います。「惑わす(πλανάτω)」には「誘惑する」「道から外れる」の意味があります。七節、八節にあるように、正しい者は義を行い(失敗しても、良心を失わず必死に悔い改めようとする)、最期まで罪を犯し続ける者はその行いでもって悪魔に属していることを示すのでしょう。罪には、悪魔の性質が反映されており、思考と行動においては悪魔に促され、その末路は神の怒りや罰を受けます。一方、三章九節にあるように神から生まれた者は聖霊に導かれ、罪を犯すことを嫌い、神の義に留まることを希求するはずです。

 

ところで、「ふるいにかける」という言葉があります。「多くの中から良いもの、基準にかなったものを選び出す。選別する。(引用:デジタル大辞泉)」という意味です。そして、篩(ふるい)は粒状のものを入れて揺り動かして、粒の大小によって選択・分離するための器具です。実際に使ってみると分かるのですが、実際には「粒状」でも一時的に緩い塊となることがあります。しかし、揺さぶるうちに、あっという間に砕けて塊のようであっただけと分かります。本物のように見えたものは果たして本物であったか。ほんの少し揺さぶられただけで崩れれば、本物ではないことが露呈します。ミカエル氏は記事の中でパウロ書簡について「神の篩」と言っております(参照:真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」等)。偽使徒パウロの発言は主イエスや使徒たちの言葉に反し、律法廃止論の基となり、信仰による行いを否定する惨状を作る結果となりました。三章十節の「義を行わない者は皆、神に属しておらず」の言葉はそれに対する大きな警告となっております。また、「自分の兄弟を愛さない者も皆、同様である」についても、偽福音を信じる者たちが真の信仰の兄弟とはなり得ず、むしろ真のキリスト者を莫迦にしたり誹謗中傷する始末です。自らの行いが神に属していないことをパウロ教徒らはまざまざと示しております。「義を行う」ためにも、義を理解しようとすること、行動しようとすることを決して諦めてはなりません。

 

三、正しい戦い方

ヨハネの黙示録十二章十一節(参照)

 

我は天で大きい声が言うのを聞いた。今や、救いと力と我らの神の王国、神の油を注がれた者の権威が現れた。我らの兄弟たちの告発者、昼と夜の間に我らの神の御前で彼らを告発をする者が投げ落とされたからである

兄弟たちは小羊の血と彼らの証言の言葉によって悪魔に打ち勝った。彼らは死に至るまで(肉体の)命を愛さなかった。

 

最後に、黙示録の箇所から「正しい戦い方」について考察していきます。投げ落とされたのは「巨大な竜、年を経た蛇、悪魔やサタンと呼ばれる全世界を惑わすもの(ヨハネの黙示録十二章九節参照)」です。ここで悪魔は「我らの兄弟たちの告発者」と形容されております。また、先のヨハネの手紙一 三章十節にもある「悪魔(διάβολος)」には「誹謗中傷する」「偽りの告発者」の意味があり一致します。「告発」に関して言えば、ゼカリヤ書三章一節で大祭司ヨシュアを訴えるサタンの描写があります。新共同訳では「訴え」と書いており、原語を見ると「非難する」「敵対する」と書いてあります。悪魔のする事は、嘘を用いて人間を神から引き離して、罪に誘い込み、神から有罪とされて自らと同じ永遠の滅びに道連れにすることです。そのためには世の権威と世の多数派を用いて迫害もします。「告発」とは本来、悪事や不正を暴くことであり、神への反逆者たる悪魔が本来、人を告発する、非難するのは本末転倒です。悪魔が作り上げた不信仰で堕落した世界の「常識」に拠れば、嘘に従わない真のキリスト者は「敵」であり、「非難すべき対象」なのだと思います。しかも、それは正規の裁きの場以外において行われております。そういう意味では「偽りの告発者」です。実際には、悪魔の嘘に惑わされずに神の目に適う生き方をしていれば、万物の創造主である義の神の目からは何ら問題ありません。目に見える現実の世界(社会)、世の多数派、それらによる世の仕組みに対して、どんなに少数であっても屈してはなりません。旧約の預言者や主イエス、使徒たちがその模範を見せてくださいました。

 

そして、「兄弟たち」とはキリストの兄弟のことです。主イエスの教えに留まっていなければ、到底、真の兄弟とは言えません。その真のキリスト者は「小羊の血と彼らの証言の言葉によって悪魔に打ち勝った」と書いてあります。「小羊の血」は罪の贖いです。「証言」は「事柄が事実であることを言葉によって証明すること。特に、証人として体験した事実および、それに基づいて推定した事項について報告すること。また、その言葉。(引用:デジタル大辞泉)」です。神の義や福音が確かであると証明するために伝えるものです。嘘つきは地獄行き(ヨハネの黙示録二十一章八節参照)と明言されているため、自らも善を体現して言行一致していることが求められます。その上で、この箇所は信仰による贖いと信仰による行いの二つで悪魔に打ち勝っていることに注目すべきです。決して、信仰による罪の赦しだけで悪魔に打ち勝った訳ではありません。行いが伴わなければ無意味です(ヤコブの手紙二章十七節参照)。ここからカトリック、プロテスタントらパウロ教徒の偽福音が駄目だと分かります。更に、「打ち勝つ」とは、悪魔からの誘惑、策略、攻撃から、汚れのない状態(律法遵守)を保つことです。決して、力で敵を打ち負かすものではなく、律法遵守が軸となっていることを忘れないでおいてください。

 

四、結び

世の終わりがあるのは救いだと思います。神の言葉によってすべての悪が裁かれ、神の義がまっとうされると約束されているのですから、尚更に主イエスに希望を持って生きるべきです。最期があって、報いがあるから本気になれると思います。

 

同時に、自分の性質を改めるのは一朝一夕には出来ないと実感します。一気に改善して完成に至るならどれほど楽だろうかと思います。ひたすら自分に向き合い、ひたすら駄目な自分と向き合い、神の求める基準を目指して自分を捨てゆく過程の連続だと思います。さながら金属を何度も熱して鍛える過程にも似ています。とても根気のいる作業なのは間違いありませんが、それ無くしては完成し得ません。

 

洗礼者ヨハネの教訓と使徒ヨハネの言葉を糧に、残り少なくなった時を必死に悔い改めて参りましょう。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。