大河ドラマ『光る君へ』は今週の放送で、皇太子妃(居貞親王=のちの三条天皇の妃)が登場しました。

 


藤原娍子@朝倉あきサン
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

劇中では御息所(みやすどころ)さま」と呼ばれておりましたが、お名前は藤原娍子(すけこ)

 

「また藤原氏…」と思われた方も、多いのではなかろうか(^^;

 

どの藤原氏なんだ…というと、「小一条流藤原氏」の御方になります。

 

藤原氏略系図(藤原北家)

 

小一条流!!出た!!やっと出た!!

 

全く出てこないから心配していたんだよー(涙)

 

(『光る君へ』では2024年6月時点で、小一条流な藤原くんは1人もキャスティングされておりません)

 

 

小一条流藤原氏は、道長の祖父・師輔の弟である師尹(もろただ)の子孫。

 

娍子は、道長にとって"はとこ"の関係にあたります。

 

…というのを言葉だけで解説していくのもナンなので、当ブログの恒例企画。

 

「系図で見てみよう」シリーズで、ご紹介してみたいと思います。

 

 

というわけで、さっそく系図で確認して見ると、以下の通り。

 

 

 

「小一条流」の祖・師尹は、「貞信公」こと忠平の五男。

 

延喜20年(920年)生まれなので、道長の祖父・師輔の、11歳年下の同母弟にあたります(公任や実資たち「小野宮流」の祖・実頼とは20歳差)

 

忠平は、天暦3年8月14日(949年)、「小一条邸」で薨御。

 

この「小一条邸」を相続したことから、師尹の一門は「小一条家」と呼ばれることになりました。

 

忠平の没後は、朱雀・村上天皇兄弟の時代。

 

長兄・実頼は、娘の慶子を朱雀天皇に、述子を村上天皇に女御として入れましたが、どちらも皇子を産むことなく早世。

 

一方の次兄・師輔は、娘の安子を村上天皇(当時はまだ皇太弟でさえなかった、ただの親王)に入れて、憲平親王(のちの冷泉天皇)、為平親王、守平親王(のちの円融天皇)をもうけ、後宮対策に成功。

 

政治の実権は、師輔が掌握することになりました。

 

そんな中、師尹は娘の芳子を村上天皇の後宮に送り込みます。

見目麗しい才女で、別名宣耀殿女御(せんようでんのにょうご)」

 

村上天皇の寵愛を得て、これが村上~冷泉朝において、師尹の立場を優位なものにしたと考えられています(安子が嫉妬して小皿を投げつけた…なんて話もあったり)

 

ちなみに『枕草子』にも登場しているんですよ「清涼殿の丑寅の隅の」の後半で、「古今和歌集」を全部諳んじられる女御さまとして登場)

 

村上天皇と芳子の間には、昌平親王永平親王が生まれています。

 

しかし、昌平親王は夭折。永平親王は暗愚(コミュ障っぽい?)で、師尹が「東宮や天皇の外祖父となる」は、とても狙えないかんじ…。

 

でも、かえってそれが時の権力者に、師尹に対する警戒感を抱かせないことに繋がったのかもしれません。

 

師輔は、天徳4年5月4日(960年)に孫の即位を見ることなく薨御。関白の座には実頼が就きますが、政界では師輔の嫡男・伊尹が頭角を現していきます。

 

伊尹は延長2年(924年)生まれ。師尹にとって甥ですが、たったの4歳差。

この年齢の近さも手伝ったのか、伊尹は師尹と連携する道を選んだみたい。
 

康保4年(967年)に村上天皇が崩御して冷泉朝に入ると、実頼を太政大臣に押し上げて「名目上の存在」とし、左大臣に源高明、右大臣に師尹を引き上げ、伊尹は権大納言に上がっています。

 

 

こんなかんじで伊尹とは仲が良かった師尹ですが、伊尹の弟・兼家とは微妙だったのでは…と言われています。

 

『日本紀略』によると、安和2年2月7日(969年)、師尹と兼家の家人同士が乱闘騒ぎを起こしているのです。

 

まだ「蔵人頭」に過ぎないのに娘の超子(居貞親王の生母)を冷泉天皇に入内させて女御としたり(非公卿の娘が女御になるのは初にして異例)、「参議」を経ずに「中納言」に昇進したりと、兼家には外戚の立場を利用した横暴な振る舞いが目立っていました。

 

そんなコワッパに、叔父として憤懣やるせなかった師尹の意を受けて、家人が代理戦争を行ったのでは…と言われています。


「安和の変」が勃発したのは、安和2年3月25日。

師尹と兼家の家人同士が事件を起こした翌月のことでした。

 

事件の始まりは、左馬助・源満仲の密告により、謀反未遂事件が発生したこと。

 

満仲のライバルだった藤原千晴が、一味のものとして捕えられ流罪となったことで、秀郷流藤原氏は、在京貴族としては没落してしまいました。

 

ゆえに、「謀反未遂事件(密告事件)」そのものは、満仲(清和源氏)がライバルの千晴(秀郷流)を蹴落とすために、「事件をでっち上げた」か「事実を誇張した」かというあたりが真相ではないかな…と、ワタクシは思います。

 

系図で見てみよう(藤原氏秀郷流)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12730979360.html

 

しかし、藤原千晴は当時の左大臣・源高明の従者でした。これを兼家あたりが「高明の追い落とし」に利用し、「源高明の失脚」という大事件に発展したのではなかろうか。

 

(もっと言えば、高明と親しく密接な関係にあった、犬猿の仲の兄・兼通が本当のターゲットだったかも)

 

ともあれ、密告した満仲は師尹の従者だった上に、政変後に高明に替わって師尹が左大臣に昇ったことから、通説では師尹が「安和の変の首謀者だった」とされています。

 

しかし、兼家と険悪だった師尹が、機密を要する企てに手を取り合って当たれるかなぁ…と考えると、だいぶ疑問(伊尹には協力するかもですが…)

 

なので、「安和の変」はあまり関係なかったんじゃないかな…とも思えるんですが、実際にはどうだったんだろう。

 

左大臣に登り詰めた半年後、突如として声を発することが出来なくなり、そのまま薨去。

 

世間では「高明の祟り」と言われたとかなんとか…(※高明は左遷されただけで亡くなっていないので、気が早過ぎですw)

 

 

師尹の没後、跡を継いだのは次男の済時(なりとき)

娍子の父にあたる人物です。

 

済時は天慶4年(941年)生まれ。

兄の定時は早世していたので、嫡男となっていたのでした。

 

『光る君へ』では配役は発表されていませんが、姿は見せておりました。ただし、よくよく分析・考察しないと分からない程度にはモブ役で…(汗)

 

ワタクシの分析・考察の結果なので不明確ではあるのですが、おそらくこの人が済時。

 

 

「蔵人頭」は代替わりの時、一旦解任されてから再任されるのが通例だったのですが、村上天皇が崩御して冷泉朝となった時(967年)、「蔵人頭」だった藤原兼通が再任されず、新たな「蔵人頭」に弟の兼家が任ぜられて、兼通は大いに恨んだ…ということがありました。

 

コウメイの罠(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12836162032.html

 

この時、もう1人の「蔵人頭」だったのが、済時(ちなみに右中弁だったので「頭の弁」)。済時はばっちり再任されているので、兼通が再任されなかった不可解さが、改めて浮き彫りになろうというものですね。

 

さらに年月が過ぎて貞元2年(977年)、自身の最期を悟った兼通が、兼家から「右近衛大将」を取りあげて、「誰か欲する者はいないか!?」と居並ぶ公卿たちに問うた時、済時は敢えて進み出て希望して「右近衛大将」に任ぜられています。

 

事態の異様さに誰も声を上げられなかった中、名乗り出たのは済時の肝が据わっていたのか、それとも権力欲が勝ったのか、あるいは空気読めなかったのか(笑)

 

天元5年(982年)3月11日、関白・頼忠の娘の遵子が、円融天皇の中宮に立后。

 

済時は「中宮大夫」に就任。遵子にとって済時は「従姉妹の夫」なので(済時の舅・源延光と遵子の母・厳子女王が兄妹)、そうした近しさが「中宮大夫」の人選に繋がっているんでしょうかね。

 

この時に次官の「中宮亮」だったのが実資で、彼は上司である済時を「可堪任者」と高く評価しています。

 

 

というわけで、済時は「娍子の父」というだけでなく、「兼家の蔵人頭時代の同僚」「遵子の中宮大夫」「実資の上司」と、中々にいいポジションを取っていたのですが、『光る君へ』ではモブ…。まさかの雑な扱いで、いやはやビックリ。

 

また、済時は『枕草子』の「小白河といふ所は」に「結縁の八講(法華経の講義)」の主催者として登場していて、『光る君へ』でやるかな?と少しだけ期待したのですが、もちろんカット(泣)

 

小白河といふ所は(関連)

 

これはまぁ「紫式部大河」なので仕方がないとして、もう1つの特徴としては道長の兄である道隆の「酒呑み友達」。

 

この親しさもあって、道隆政権では支えとなる存在。サポーターとして、あるいはリーマン卓呑みシーンとして顔を見せるかな…と思ったのですが、そんなシーンはなく…。

 

道隆が亡くなった2週間後の長徳元年4月23日(995年)、「長徳元年の疫病」にかかり、54歳で薨去。正二位・大納言。

 

『光る君へ』では台詞のないまま、この世を去ってしまったのでした…(ちーん)

 

 

娍子は、そんな済時の娘さん。

天禄3年(972年)生まれなので、道長の6歳年下。行成と同い年。

 

当初、花山天皇(968年生)から入内を請われたようなのですが、済時は何故か丁重にお断りしています。

 

やがて、当時一条天皇の東宮となっていた居貞親王(976年生)の後宮へ。

 

娍子は居貞親王にとって4歳年上の姉さん女房。

一条天皇と定子と似たような年齢感の夫婦ですねー(こちらは3歳差)

 

ちなみに、内裏では「宣耀殿(せんようでん)」を賜っています。

 

先述の通り、ここは村上天皇の時代に伯母にあたる芳子がいた場所。

 

 

何かしらの配慮があったのかな…というかんじがしますが、どうなんでしょうか。

 

 

居貞親王は、三条天皇として即位すると「娍子を中宮に」と考え、故・済時に「右大臣」を追贈して家柄を整え、準備を始めました。

 

しかし、次女の妍子(きよこ)を入内させて、皇嗣をもうけることを狙っていた道長の思惑からは反してしまいます。

 

ではどうするか…というあたりは、大河ドラマの方でその時が来たら、また紹介してみるとして…。

 

三条天皇(居貞親王)と娍子の間には敦明親王敦儀親王敦平親王師明親王当子内親王禔子内親王の、四男二女が生まれています。

 

中でも注目なのは、敦明親王と当子内親王。

 

敦明親王は第23話「雪の舞うころ」にも登場しておりましたねw

 

 

色々あって、後一条天皇(一条天皇の子)の皇太子になる人物。

ですが、後世から歴史を振り返ると、歴代の天皇には数えられません。

 

何故なのか…?は、大河ドラマでオタノシミニ(たぶんやるでしょう…?)

 

結構すっとんきょうな性格だったようで、皇太子として不行跡であると母の娍子が嘆き、「東宮を敦明から弟の敦儀に変更できないだろうか」と実資に相談までしています(実資は「そんなことしたら族滅されてしまう!」と恐れおののいた…という…大河ドラマでそんなシーン見たい^^;)

 

敦明親王の息子・基平は、源氏を賜って皇籍から離れ(三条源氏)、その娘が後三条天皇の女御となって、実仁親王と輔仁親王の生母となっています。

 

実仁親王は、後三条天皇の次代・白河天皇の皇太子(皇太弟?)

 

もし、白河天皇(『平清盛』で伊東四朗サンが演じていた、あのモノノケw)が父帝との約束を破らなければ、基平は天皇の外祖父として歴史に名を残していたのですが…。

 

MY院政パワーバランス話(関連)

 

そして、基平の息子の1人が、行尊。『平清盛』のちょい前くらいの人物。

 

『百人一首』66番歌の詠み人ですねー。

 

もろともに あはれと思へ山桜
花よりほかに知る人もなし


大僧正行尊/金葉集 雑 521

 

お前が愛おしい私のように、お前も心を寄せ合っておくれ、山桜よ。この深山の奥では、桜の花の他には誰もおらず、ただ独りなのだから…みたいな意味。

 

行尊が10歳の時、父の基平が病死。園城寺で出家して仏道に入り、15歳から18年間もの長期間、霊山で荒行を成し遂げて、修行僧として名を挙げました。

 

先の百人一首も、詞書に「大峯にて思ひもかけず桜の花の咲きたりけるを見てよめる」…山奥で思いがけず桜の花が咲いているのを見て、とあるので、こうした修行中に詠んだもの、なのかもしれないですなー。

 

霊験あらたかな高僧として天皇家の信任も篤く、大僧正まで出世。

白河院、待賢門院璋子、鳥羽院、崇徳天皇の護寺僧を勤めています。

 

璋子が鳥羽天皇に入内する際、憑りついていた物の怪を除霊した…というお話が『今鏡』に収録されていたり。

 

(ところで前々から疑問に思っている『百人一首』の順番のことなんですが、曾祖父の三条天皇が68番なのに、曾孫の行尊が66番って、どういうことなんですかね?定家が間違えた…?)

 

 

時代を大きく戻して…。

 

当子内親王(まさこ)は敦明親王の妹宮。三条天皇時代の伊勢斎宮。

 

12歳からの4年間を斎宮としての勤めに捧げ、長和5年(1016年)、父帝の退位により16歳で退下。

 

帰京後は、伊周の子・道雅との恋愛悲話の主人公。

 

道雅は『百人一首』63番の詠み人ですが、ここで採られている和歌は、当子内親王に向けて詠まれたものとされています。

 

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 
人づてならで言ふよしもがな


左京大夫道雅/後拾遺集 恋 750

 

貴方との恋はもう諦めます。それを人伝ではなく貴方に直接伝える、その手立てがあって欲しい。今はただ、それだけしかありません…のような意味。

 

このあたりの話は以前、道雅を紹介した際に触れているので、リンクを回しておきますかねー。

 

系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(参考)

 

『光る君へ』では、伊周の子・道雅は配役が発表されていません。

 

もしも道雅がキャスティングされたら、当子も登場しそうな気配が出てくるんですが、今のところのお話の作り方を見ていると、可能性は微妙ですかな…。

 

 

注目は以上の兄妹ですが、三宮・敦平親王については、『光る君へ』では注目かも。

 

敦平親王は藤原道兼の子・兼隆の娘を妻に迎えているのです。

 

『光る君へ』では何かと目立つ動きをしていた道兼。さらに兼隆は紫式部の娘・賢子の最初の夫…というのは、以前にも紹介しましたねw

 

兼隆の自邸は、道長の四女・威子(たけこ・後一条天皇中宮)の御所として提供されていたので、兼隆の婿になるということは、道長のグループに所属することを意味しました。

 

なので、敦平親王は兄の敦儀親王よりも優位に立つことができたのですが、子孫はあまり繁栄せず…(そして本人もその後1つ事件を起こしますが、それ以外は目立ったことはなく…)

 

というわけで、道兼と紫式部に多少の縁があるので、もしかしたら今年に限っては注目なのかもしれないな…ということで、一応触れておきますw(でも、望みは薄そう;w;)

 

 

続いて、娍子の兄弟について。

 

娍子には相任、通任、為任の3人の実兄がおります。

 

一番上の兄・相任(すけとう)は嫡男だったのですが、寛和2年(986年)に15歳にして、突如として出家してしまっています。

 

寛和2年といえば、花山天皇が退位・出家してしまった「寛和の変」があった年。

花山院の後を追うように、若者が出家…これは何か意味があるんでしょうかね?

 

ちなみに、先述の「小白河といふ所は」では、幼名の「長命丸」の名で登場します(任官してすぐ出家したので、清少納言が「相任」の名を知らなかったのかもしれません)

 

弟の通任(みちとう)は、居貞親王の春宮権亮。

三条天皇が即位すると「蔵人頭」に上がり、同年に「参議」となって公卿に列します。

 

しかし、道長との間に溝がある上に、我の強さで公卿たちの支持も薄い三条天皇の近臣には、つらい現実が待っておりました…筋を通す実資や隆家たち以外には味方がおらず、苦労しっぱなし。

 

このあたりの出来事、ドタバタ劇か悲劇か、どちらかとして大河で見たいですなー。

 

でも、通任。実は名前だけ『光る君へ』に登場したのですが、覚えてます?

 

公任の「行成の書は女に人気だから、それで情報網が敷かれている。その情報を汲み取れば、うまく活用できる」という策に従って、行成が集めて来た官人たちの情報の中に、藤原朝経、源頼定、藤原公信らとともに、通任が入っておりました。

 


↑大河ドラマ『光る君へ』第19話「放たれた矢」より

 

藤原通任
為侍従之間佐公事懈怠被恐懼数度

(藤原通任は職務怠慢のクセがある)

 

先にも紹介した当子内親王(通任にとっては姪)が伊勢斎宮に選定され、長和3年(1014年)10月に伊勢に下る際、通任は「長奉送使」を任命されて同行したのですが、ブラブラしてあまり奉仕しなかったらしく、「怠慢すぎる」と批判を受けています(^^;

 

行成の情報は、これが元ネタなんでしょうけど、ここに名前が出たということは、期待しても宜しいのですよねNHKさん…?という状態。

 

はたして、登場するのでしょうか?

 

 

為任(ためとう)は、娍子とは母親が違うせいか、昇進も兄弟の通任と比べて遅れ気味。

 

母は源兼忠の娘。兼忠は清和源氏なのですが、頼朝や足利氏・新田氏といった、後の武士の祖となった貞純親王の系統とは異なる、貞元親王の系統となります。堂上平氏と坂東平氏(同じ桓武平氏だけど、地位もイメージも違う)みたいなものですかね。
 

 

実は兼忠の娘の1人に、兼家の妻となった女性がおり、その血縁関係を見れば、為任は、通任や娍子よりは道長に近いポジションにおりました。

(ちなみに、兼家と兼忠娘の間には女の子がいて、道綱母の養女となっています)

 

でも、為任は自邸を娍子の里第として差し出したり、一貫して三条天皇-娍子サイドの官人として振る舞っています。これで通任より昇進が遅れるの、なんだか可哀想なんですよねぇ…。

 

なお、祖父の兼忠の甥っ子には、『百人一首』48番歌の詠み人・源重之がおります。

 

風をいたみ 岩打つ波の おのれのみ 
くだけてものを思ふ頃かな


源重之/詞花集 恋 211

 

激しい風に煽られ岩に打ち当たる波が砕け散るように、あなたは岩のように平気なのに、私の心だけが波のように砕けんばかりに思い悩んでいる…のような意味。

 

重之については、ちょっと置いておいて…。

 

先述の通り、済時には兄・定時がいたのですが、早世したために済時が小一条流を継ぎました。

 

定時には忘れ形見の実方(さねかた)がおり、済時の養子となって庇護を受けています。

 

実方は『百人一首』51番歌の詠み人ですねー。

 

かくとだに えやはいぶきの さしも草  
さしも知らじな もゆる思ひを


藤原実方朝臣/後拾遺集 恋 612

 

藤原実方は、生年が不詳なのですが、おそらくは道長や公任たちと同年代。

さらに、母が源雅信の娘(倫子の姉妹)という、道長に近そうなポジション。

 

なので、『光る君へ』にも登場すると思っていたのですが…。

 

「左近衛中将」まで昇りますが、公卿となる目前で正暦6年(995年) 「陸奥守」に任ぜられ、現地に下向。長徳4年(999年)現地で没しています。なので、もう登場することはなさそう…かな(涙)

 

『百人一首』の和歌はこんなに思っているとさえ、あなたに言いたいのに言えないから、貴方はそれほどまでとはご存じないでしょう…この燃える想いを…のような意味。

 

「伊吹」と「言う」、「さしも(これほどとは)」と「さしも草(ヨモギ)」が掛詞になっている、意味はストレートながら文体としては技巧を凝らした複雑な和歌。

 

ちなみに「伊吹山」といえば、近江国と美濃国の境にある霊山が有名ですが、下野国(栃木県)にもあって、こちらが江戸時代以前にもヨモギの名産地だったことから、実方の和歌に詠まれているのは「下野国の伊吹山」だろうと言われています。陸奥に下向したことともマッチしておりますな。

 

 

なお、実方が「陸奥守」となった経緯については、有名な逸話があります。

 

大納言行成卿 いまだ殿上人にておはしける時 実方中将 いかなるりいきどほりかありけむ 殿上に参りあひて いふこともなく 行成の冠を打ち落として 小庭に投げ捨ててけり

行成 少しもさわがずして 主殿司を召して 冠取りて参れ とて 冠して 守刀より かうがい抜き出して 鬢かいつくろひて 居直りて いかなることにて候ふやらむ たちまちに かうほどの乱罰にあづかるべきことこそおぼえ侍らね その故をうけたまはりて 後のことにや侍るべからむと ことうるはしくいはれけり 実方はしらけて 逃げにけり

をしりも小蔀より 主上御覧じて 行成はいみじきものなり かくおとなしき心あらむとこそ思はざりしかとて そのたび蔵人頭あきけるに 多くの人を越えてなされにけり 実方をば 中将を召して 歌枕を見て参れ とて 陸奥守になし 流れ遣はされける やがて かしこにて失せにけり

実方 蔵人頭にならでやみにけるを恨みて 執とまりて 雀になりて 殿上の小台盤に居て 台盤を食ひけるよし 人いひけり

一人は忍にたへざるによりて 前途を失ひ 一人は忍を信ずるによりて 褒美にあへると たとひなり

(『十訓抄』)

 

宮中で、藤原行成と和歌について口論となり、実方が怒って行成の冠を奪い投げ捨てる…という暴挙に発展。

 

これを見ていた一条天皇は、できた人物の行成を「蔵人頭」に抜擢。実方には「歌枕を見てまいれ」と、「陸奥守」に左遷した…というお話。

 

しかし、行成が「蔵人頭」になったのは一条天皇の抜擢ではなく、源俊賢の推挙によるもの…。

 

登竜門「蔵人頭」への道(関連)

 

陸奥へ下向する際、天皇から多くの餞別を受け取ったと、行成の日記『権記』にも記されていることから、左遷というセンもだいぶ薄い…。

 

というわけで、この物語は「忍耐すれば褒美をもらえ、忍耐を忘れると前途を失う」という教訓を語るためのたとえ話(一人は忍にたへざるによりて 前途を失ひ 一人は忍を信ずるによりて 褒美にあへると たとひなり)…つまりフィクションだと言われています。

 

蔵人頭になれなかった実方は、未練のあまりスズメとなって都に戻り、殿上の御膳を食い散らかした…という説話もはさまっていますが、都の「勧学院」の観智上人の夢の中にスズメとなって現れ、「自分の為に読経をして欲しい」と頼んだので、上人は塚を作って弔った…という説話もあります。

 

その塚は後に「勧学院」とともに移転され、「更雀寺」として現在もあるそうですよ。

 

 

そして。実方の下向には、先程の源重之も同行しています。

 

何故同行したのかはよく分からないのですが、養父である済時の妻の1人が、源兼忠の娘だったことと関係あるのか…?とすると、実方は為任と近しいポジション(ということは、道長にも近しい…もっとも、母が倫子の姉なのですが)なのか…?そして、清和源氏がこんな早い時期に東国に赴任している事実…というあたりに、妄想が膨らんで困ってしまいます(笑)

 

「陸奥守」として赴任した実方は、いい民政を敷いたようで、『今昔物語』にも「陸奥守」としてチラっと名が出てきています。

 

今昔 実方中将と云人 陸奥守に成て其の国に下たりけるを 其の人は止事無き公達なれば 国の内に然べき兵共 皆前々の守にも似ず 此の守を饗応して 夜る昼る館の宮仕怠る事無かりけり

(『今昔物語』平維茂罸藤原諸任語)

 

「国内の然るべき武士たちは、前陸奥守に対するのとは違い、実方を大いにもてなして、夜昼問わず国司の屋敷の奉仕に努めました」とあります。

 

前陸奥守は、平維叙(これのぶ)。平貞盛の長子でした。

この章段は、平貞盛の甥・維茂と藤原諸任(藤原秀郷の孫)の揉め事が大合戦に発展していき、坂東平氏として名を挙げていく話として続いて行くのですが、合戦となったのは実方が没した直後のこと。

 

実方「陸奥守」として、ちゃんと存在感を発していたのかな…というかんじがしますな。

 

 

 

なお、実方は清少納言の恋人だった…という説もあり、『枕草子』にも登場しているのですが、このあたりはまた機会があったら…ということでw

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html