大河ドラマ『光る君へ』では、ついに「のちの四納言」の最年少・藤原行成「蔵人頭」となりました。

 

 

「えっ、今頃?」と思った方も、意外と多いのではなかろうか。

 

行成が「蔵人頭」に就任したのは長徳元年(995年) 8月29日。

「中関白家の家長」たる道隆が薨去(4月10日)した5ヶ月後のこと。

 

行成は『枕草子』に「蔵人頭」として登場するので、なんとなく道隆の生前だったような気がしてしまうのですよね。

 

なので、清少納言の『百人一首』に採られた、行成との交流の中で詠まれたあの和歌。

 

夜をこめて とりのそらねは はかるとも
よに逢坂の関は許さじ


清少納言/後拾遺集 雑 939

 

これも、道隆没後の話だった…ということになるわけですねー。

 

 

そんな「蔵人頭」というのは、天皇の秘書官長みたいなもの。

 

天皇と大臣たちの間をせわしなく駆けずり廻り、意思疎通や意見交換などを担う、結構な激務だったのですが、天皇のおそば近くに仕え、大臣とも面識を作れるためか、「花形」として貴族たちの羨望を集める官職でした。

 

そして、「蔵人頭」を経ると、次は「参議」を狙うことができました

 

「参議」になれば「公卿」の仲間入り。

「蔵人頭」は「公卿への登竜門」として、燦然と輝く存在だったのです。

 

後に「寛弘の四納言」と呼ばれた藤原公任藤原斉信藤原行成源俊賢は、いずれも議政官に昇る際に「蔵人頭」を経ています

 

そこには面白い歴史とドラマがあって、『光る君へ』放送前は「映像化されるぞ!」と楽しみにしていたのですが…蓋を開けてみたら、ほぼやらないという(泣)

 

そこで、いつもの「大河でやらないんなら、うちのブログでやるわ」の流れ(^^;

 

本日は「四納言」が「蔵人頭」になっていった経緯を、ご紹介してみたいと思います。

 

 

その前に…大前提として。

 

「蔵人頭」には、ざっくり言うと大きく2つの種類があります。

 

それは「頭中将(とうのちゅうじょう)」「頭弁(とうのべん)」

 

「頭中将」は、「蔵人頭」と「近衛中将」を兼ねた人のこと。

 

「近衛中将」は武官オフィス「五衛府」の1つである「近衛府」の次官。

 

(ちなみに「五衛府」というのは「衛門府(えもんふ)」、左右の「衛士府(えじふ)」そして左右の「兵衛府(ひょうえふ)」の5つだったのですが、平安時代初期に左右の「近衛府」が追加されて「衛門府」が廃止、さらに「衛士府」が左右の「衛門府」になったので、「六衛府」になっておりました)

 

この時代、「近衛府」は「上流貴族の子弟」たちの就職先のような慣習になっていて、武官としての仕事はやりながらも、箔付けのような意味合いの強い事務所になっておりました。

 

なので「頭中将」となるのは、上流貴族出身の人たちが多めです。

 

「頭弁」の方は、「蔵人頭」と「弁官」を兼ねた人のこと。

 

「弁官」というのは、文官のオフィス「弁官局」に仕える人たち。

 

「太政官」の下には「八省」と呼ばれる8つの行政省庁があるのですが、それを左右の「弁官局」で4つずつ担当し、「太政官」と「八省」を橋渡しして、行政の実務を取り仕切っておりました。

 

この「弁官」の中から「四位」の人が選ばれ「蔵人頭」を兼ねたのが「頭弁」というわけ。

 

 

武官の「頭中将」は「禁中万事」(宮中における側近奉仕)

文官の「頭弁」は「天下巨細」(天皇と太政官の連絡執奏)

 

将来の高官候補者として、この重要な役目を担当する。

 

これが「蔵人頭」に与えられた使命、そして栄光。

 

それを求めて、貴族たちは定員「2名」の「蔵人頭」の席を狙っていくことになります。

 

 

 

「四納言」のうち、最初に「蔵人頭」になったのは、公任。

 

永延3年(989年)2月23日というので、一条天皇が即位して3年目のこと。

 

藤原実資が「参議」に上がることが決まったので、その後任として収まったのでした。御年23歳。

 

公任は「左近衛中将」なので「頭中将」となったことになります。

 

 

なお、前任者だった実資も「左近衛中将」だったので「頭中将」。

 

『光る君へ』でも、「頭中将どの」と呼ばれているシーンがありましたよね。

 

 

実務官僚として優秀な実資ゆえにイメージは「頭弁」なんですが、なんてったって小野宮流の跡継ぎという「上流貴族の中の上流貴族」の子息。ばっちり「頭中将」ルートの「蔵人頭」だったんですねー。

 

なお、実資→公任と、小野宮流の子息(従兄弟同士)で「蔵人頭」が交代した時、もう1人の「蔵人頭」は誰だったのかというと、藤原懐忠(かねただ)

 

誰…?というと、藤原南家の元方の子。(『光る君へ』では直秀のモデルと当初推測されていた)藤原保昌の叔父にあたる人物です。

 

道長四天王「藤原保昌」のウラ事情(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12842359746.html

 

懐忠は「左大弁」だったので「頭弁」。実資・公任の「頭中将」と並んでいます。

 

永延2年(988年)から「蔵人頭」にあったようですが、永祚元年(989年)「参議」に叙任されたことで辞任。

 

すると、やや間をおいて今度は藤原道頼が「蔵人頭」に昇ってきます。

 

道頼は道隆の庶長子にして伊周の異母兄。19歳。

 

山の井の大納言(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12851634242.html

 

道頼は「左中将」なので公任と同じく「頭中将」。

 

「頭中将」が2人並び立っていたわけですが、道隆の子息だけあって出世ブーストがかかっていたので、道頼は1年足らずで「参議」となって「蔵人頭」を抜けていきました。

 

続いてやってきた、早くも3人目となる相方の「蔵人頭」は、藤原在国(ありくに)

 

「右大弁」だったので、今度は「頭弁」となります。48歳。

 

在国は真夏流藤原氏の人(冬嗣の兄の家系)。

東三条家に家司として仕え、兼家に「我が目である」と信用された人でした。

 

妻・橘徳子は一条天皇の乳母で『光る君へ』にも登場しているのですが(一条天皇の「かくれんぼ」で鬼役をやっていた人)、夫の在国は全く登場していません…何故なんだぜ(涙)

 

在国が「蔵人頭」に達した正暦元年(990年)、兼家が没して、道隆政権がスタート。

 

兼家は生前、家司たちに「後継者は誰にしようか?」と諮問したことがあり、在国は「『寛和の変』の功績を考えると、道兼さまがよろしいかと」と答えておりました。

 

それを知った道隆は、在国を冷遇。

「蔵人頭」就任たった3ヶ月で、その要職を追われることになったのでした。

 

その後任として入って来たのは、道隆の嫡男・伊周

…在国が「蔵人頭」を辞めさせられたのは、伊周を「蔵人頭」にするためだったのでは?とも思ったりも…。

 

ともあれ、伊周は「右近衛中将」だったので「頭中将」。

公任とともに、また2人の「頭中将」が並ぶことになりました。

 

しかし、9月1日に「蔵人頭」になったと思いきや、翌年の正月には「参議」に昇任。たった4ヶ月で出世していなくなってしまいます

 

その次に「蔵人頭」となったのは、平惟仲(これなか)。「右大弁」なので「頭弁」。

先ほどの在国とともに「我が目」と言われた兼家の腹心(『光る君へ』には第1話から登場)

 

兼家に「次の後継者は誰にしようか?」と諮問された時、「道兼さまを」と答えた在国と違い、惟仲は「後継者は年齢順に決めるもの。道隆さまになされませ」と助言しておりました。

 

それもあったのか、道隆から厚遇を受けます(道隆ってある意味わかりやすいな・笑)

たった3ヶ月で「蔵人頭」を辞して、「参議」へと歩みを進めて行きました。

 

続いて就任したのが、源扶義(すけのり)。「左中弁」なので「頭弁」。

 

前左大臣である雅信の子(ということは、道長の正妻・倫子の異母兄)

母は藤原元方の娘なので、公任の最初の「蔵人頭」の相方・藤原懐忠の甥っ子でもあります。

 

源扶義は、系図好き的には「近江源氏・佐々木氏の遠祖」として知られる人物。

 

数々の武者を出した佐々木さんの先祖なので「頭中将」っぽく思いたくなるのですが、「頭弁」だったのですねー(ホンマややこしいわ)

 

そんな折の、正暦2年(991年)9月7日。道長の叔父にあたる公季が「中納言」となることが決まり、「参議」に空席ができるのですが、公任は留め置かれてしまいます、(この時「参議」になったのは、道隆の異母弟・道綱)

 

永延3年(989年)2月に「蔵人頭」となってから、はや2年半。

藤原懐忠→道頼→在国→伊周→平惟仲と、5人も同僚の「蔵人頭」が通り過ぎていくのを見送る中での、自身の停滞。

 

公任は「道隆に冷遇されている」と感じたみたい。

 

「何とかしないと…」と考えた公任は、「内大臣」となっていた道兼に接近するようになったと考えられています。

 

道兼と公任の交流は『光る君へ』でも描かれておりましたが、道兼が一方的に迷惑をかける形になっていましたよね…(道兼のキャラ造形のタシにされた感が…)

 

公任が道兼に近づいたのは、道隆の弟であり「内大臣」という高位にあったことなどが挙げられますが、道兼が「右近衛大将」で公任が「左近衛中将」という、「近衛府」の武官繋がりであったからではないか…とも言われています。

 

正暦3年(992年)8月、道兼が人事に口を出してくれたのかどうか…?公任が「参議」に上がることが決定。

 

実に3年半も務めた「蔵人頭」を、公任はようやく脱して、念願の「公卿入り」を果たしたのでした。


 

一条朝・歴代「蔵人頭」年表 其の1
[頭中将]藤原実資
987.11.11~989.2.23
[頭弁]藤原懐忠
988.2.27~989.7.13
[頭中将]藤原公任
989.2.23~992.8.26
 
  [頭中将]藤原道頼
989.10~990.5.13
  [頭弁]藤原在国
990.5.14~990.8.30
  [頭中将]藤原伊周
990.9.1~991.1.26
  [頭弁]平惟仲
991.1.26~991.3
  [頭弁]源扶義
991.3.25~994.8.28

 

 

正暦3年(992年)8月、公任が抜けたことで空いた「蔵人頭」の席には、源俊賢が収まります。「右中弁」だったので「頭弁」。

 

 

俊賢は天徳4年(960年)生まれなので、この時32歳。

 

「安和の変」(969年)で失脚し、大宰府に左遷された源高明の子。道長の妻である明子の兄でもあります。政変の黒幕の1人と目される兼家は、その後ろめたさがあったのか、俊賢を庇護していたとされます。

 

道隆が「蔵人頭になる気はあるか?」と俊賢に尋ねたところ、「私以外、適任の者はおりません」と答えたので、よしと思って抜擢した…という話が『古事談』に語られています。

 

7歳年上の道隆との関係は、よく分かりませんが、兼家が庇護していた関係もあり、2人はそこそこ親しく交わる機会もあったのかなぁ…と、推測しちゃいたくなりますねw

 

強気に自分を売り込んで「蔵人頭」の座をゲットした俊賢ですが、まさか本当に抜擢されるとは思っていなかったみたい。

 

「蔵人頭」は「五位」または「四位」相当の役職なのですが、この頃は「四位」の人が就く慣習になっており、俊賢は「正五位下」だったので、この条件を満たしていません。

 

さらに、過去半世紀ほどで「五位」で「蔵人頭」になったのは、藤原師輔(伊尹・兼通・兼家たちの父)、藤原挙賢(伊尹の子)、藤原顕光(兼通の子)、藤原道兼(兼家の子)といった、藤原北家の人物の中でも有力な「選ばれし者」だけ。

 

俊賢は出身が藤原北家ではなく醍醐源氏…「五位蔵人」なんて絶対に無理なのでした。

 

しかし、思ってもみなかった道隆による大抜擢。

 

俊賢は驚き、感謝し、道隆から受けたこの恩顧を忘れることはなかったと言います。

 

 

「誰もが思ってもみなかった大抜擢」は、「次は自分だろう」と思っていた人の思惑を外すことにもなりました。

 

公任が「参議」となって「蔵人頭」を抜けた時、藤原斉信は「次は自分だ」と思っていたみたい。

 

 

斉信はこの時、従四位上・左近衛中将。

 

「蔵人頭」となる「四位」の条件を満たしていますし、もう1人の源扶義が「頭弁」だから、次は「頭中将」だろうと、ウキウキして待っておりました。

 

しかし、選ばれたのは源俊賢…。

 

「誰が蔵人頭に選ばれました?」と俊賢に尋ねたところ、「私です」と答えられたので、「斉信さまです、おめでとうございます」を期待していた斉信は赤面して帰った…というお話が伝わっています。

 

どうして斉信は「蔵人頭」に選ばれなかったのだろう?

 

俊賢が道隆に大抜擢されて、斉信は「次は自分だ」と自惚れていたのに赤っ恥をかいた…というお話ですが、その人事があった2か月前、斉信の父・為光が薨去するという「不幸」がありました。

 

為光は亡くなる少し前、政治的に微妙な立場にあったことは、以前にも触れた通り。

 

やんごとなき異母弟(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12848632436.html

 

政敵でもあった左大臣・源雅信の風下に立つことから、右大臣を辞して「ただの摂政」になることで解放された兼家が、さらに打った手が「為光と提携」すること。

 

こうして、兼家が抜けた後の「右大臣」の後釜となった為光でしたが、兼家の子息・道長が、雅信の娘・倫子と結婚するという驚愕の展開があったために、為光の存在は宙に浮いてしまったのでした。

 

もはや提携する意味を失った為光は、兼家の死後、道隆によって「太政大臣」に上げられ、「権威はあるが実は無い名誉職」という官打ちを喰らって、寂しく世を去りました。

 

斉信は、そんな為光の子…ということで、道隆政権下では「蔵人頭」になるチャンスが立ち消えてしまったのかもしれません。

 

斉信にしても、失脚同然のようにして亡くなった父を挽回しようと、焦っていたのかもしれず。急ぐあまりに力を入れ過ぎてしまったのが、あの「赤面して帰った」言動の裏事情だったのではないかなぁ…と、思います。

 

正暦5年(994年) 8月28日、3年半にわたって「頭弁」を務めて来た源扶義が「参議」に昇ることになり、空席には斉信が収まることになりました。

 

2年越しで「頭中将」となった斉信の心境や如何に…?

 

ちなみに相方は俊賢なので、「頭弁」と「頭中将」が久しぶりに揃うことになりました。

 

 

最後は、今回のブログのきっかけとなった、藤原行成。

 

行成は、道長の側近のようにつき従っていた後年の姿から、意外に思われるかもしれませんが、道長たちが退位に追いやった花山帝の側にいた人でした。

 

 

それもそのはず。花山天皇は藤原伊尹の孫(伊尹の娘・懐子の所生)でしたが、行成自身も伊尹の孫(伊尹-義孝-行成)

 

花山天皇とは従兄弟同士という近しさで、官暦のスタートも花山朝においてのことでした。

 

祖父や父が早世しなければ、花山朝があんなに短期間で終わらなければ、天皇の外戚として権勢をふるったはずの一族なのです。

 

 

寛和2年(986年)の「寛和の変」で花山天皇が退位・出家。

 

紫式部の父・為時が、花山朝の終了とともに落ちぶれてしまったのと同じように、行成の将来も暗かったのですが、母方の祖父・源保光の庇護のもと、干されるような状態だけは何とか避けることができました。

 

保光は「文章生」出身で「式部大輔」になったという、漢学の素養がなければお話にならない役職を経験してきた、なんだか為時のような経歴の持ち主(為時は「侍読」出身で「式部丞」ですが)

 

そして「弁官」や「蔵人頭」も務め上げ、長らく「参議」の座にあった実務官僚でもありました(最終職は「中納言」)

 

そんな保光のもとで教導を受けた行成は、故実作法に通じ、筆遣いも立派な有能政務官に育ちます。

 

しかし、どんなに優れた樹木でも、人目につかない所で生い茂っては、優れた木材にはなれません。

 

正暦4年(993年) に「従四位下」に昇りますが、「左兵衛権佐」を解任されて無職同然の状態になってしまい、自分の前途に絶望して、出家しようとまで思い詰めるようになっていました。

 

そんな行成を慰めてくれたのが、13歳年上の俊賢。

 

俊賢はどういうわけか行成と昵懇の仲。「安和の変」で父が失脚したことで苦労した自身と、祖父と父という後ろ盾を失ってハンデのある人生を歩まねばならなかった行成とがリンクしてしまったのかな…というのは、根拠にみせかけた妄想です(笑)

 

「この前、比叡山に上った時、行成にとって吉兆があるという夢を見た。出家するのは、まだ思いとどまった方がいい(一夜於山為汝吉想)」と、説得して出家を思い止まらせています。

 

 

長徳元年(995年) 8月29日。俊賢が「参議」に昇ることが決まり、後任の「蔵人頭」に誰か推挙するかと問われたところ、俊賢は行成の名を挙げます

 

一条天皇は「地下人は如何なものだろうか…」と驚くのですが、俊賢が理路整然と行成を推す姿が『大鏡』に記されています。

 

「いとやむごとなき者に候ふ 地下など思し召し憚らせ給ふまじ ゆく末にもおほやけに 何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ 斯様なる人を御覧じ分かぬは 世のためあしきことに侍り 善悪をわきまへ御座しませばこそ 人も心遣ひはつかうまつれ このきはになさせ給はざらむは いと口惜しきことにこそ候はめ」

 

「行成は大変に優秀な人物です。地下人などとお思いになって任官を取りやめられてはなりません。将来に渡り、朝廷のため何事につけてもお仕えする任に堪える者であり、このような人物を登用しないのは世のためにならないことでございます。帝が臣下の善悪を弁えればこそ、臣下も忠勤に励むのでございます。この機会に任命なさらなければ、大変残念なことになりましょう」

 

こうして、ほぼ無職の状態から花形職「蔵人頭」へと取り立てられたことは、宮中でも大変な驚きを持って見られたと言われています。

 

こうして将来を開いた行成は、自分を評価・推挙してくれた俊賢に対しては、常に友情と尊敬の念を忘れなかったそうで。

 

そこについては『光る君へ』でその時が来たら、ということで…いや、あるかな??って相当疑問ではあるんですが…(このやり取りをドラマで描いてないと、成り立たない話ですから…)

 

ともあれ、行成が「蔵人頭」になった時は、ほぼ無職の状態だったのですが、長徳4年(998年)10月に「右大弁」となり、晴れて「頭弁」となりました。

 

ここに「頭中将」藤原斉信と「頭弁」藤原行成という『枕草子』でお馴染みの2人が誕生。

 

『枕草子』に描かれた彼らについては、また別の機会に譲りますが、こうやって経緯を見ると、章段と実際の歴史の年表との繋がりが見えて、便利かなー?なんてねw

 

 

一条朝・歴代「蔵人頭」年表 其の2
[頭中将]藤原公任
989.2.23~992.8.26
[頭弁]源扶義
991.3.25~994.8.28
[頭弁]源俊賢
992.8.28~995.8.29 
 
  [頭中将]藤原斉信
994.8.28~996.4.24
[頭弁]藤原行成
995.8.29~1001.8.25
 
  [頭中将]藤原正光
996.4.24~1004.2.26
[頭中将]源経房
1001.8.25~1004.2.26
 

 

 

というわけで、かなり駆け足ではありましたが、「四納言」たちが辿った「蔵人頭」の歴史をご紹介してみました。

 

勢い余って、次回よりも先の年代にまで行ってしまいましたが、『光る君へ』では「四納言」がキャスティングされている割りには描写がなおざりなので、「これネタバレではなく捕捉ですよ…?」と強気に言わせていただいて(笑)

 

さらなる関連などは、また機会があった時に…ということで。

 

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html