『光る君へ』では、「道長と伊周以外の権大納言以上が全滅」という長徳元年の疫病が猛威を振るいました。

 

この時、亡くなった上層部の人々というのは、前回も紹介しましたが、以下の表の通り。

 

長徳元年 公卿・中納言以上(疫病犠牲者)
関白 藤原道隆 長徳元年4月10日・42歳没
左大臣 源重信 長徳元年5月8日・73歳没
右大臣 藤原道兼 長徳元年5月8日・34歳没
内大臣 藤原伊周 21歳
大納言 藤原朝光 長徳元年3月20日・44歳没
大納言 藤原済時 長徳元年4月23日・54歳没
権大納言 藤原道長 29歳
権大納言 藤原道頼 長徳元年6月11日・24歳没
中納言 藤原顕光 51歳
中納言 源保光 長徳元年5月9日・71歳没
中納言 藤原公季 39歳
中納言 源伊陟 長徳元年5月22日・57歳没
権中納言 源時中 54歳
権中納言 藤原懐忠 60歳

 

「亡くなった権中納言以上の人」のうち、源重信、藤原朝光、藤原済時、源保光、源伊陟については、以前に語っているのでそちらのリンクを回すとして…。

 

花山朝「陣の定」群像語り(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12841402045.html

 

今回は、残っている「権大納言・藤原道頼」について紹介してみよう!というのがメインテーマとなります。

 

前もって言っておくと、道頼は『光る君へ』には名前つきで登場していないので、別にやらなくてもドラマの理解には支障ありません。

 

歴史的にも、雑学レベルを超えない…かな(たぶん)

 

ただ、ワタクシ道頼について「とある歴史妄想」があるので、この際やっちまえ!となった、というわけw

 

……すみません、それは半分タテマエでして…。

 

本当は、今回の感想があまりに長文過ぎてしまったので、「道頼」についての部分をバッサリとカットしたんです…が、捨てるのももったいないしなぁ…という経緯で、個別にアップとなっただけの話だったり。

 

まーでも、結構マイナーな人物ゆえに、その紹介ってだけでも興味のある人もおられるでしょうから…ということでw

 

 

 

藤原道頼は、道隆の長男にあたります。

 

「道隆の長男って伊周じゃないの?」という方もおられるかと思いますが、伊周は母・貴子の所生では長男ですが、道隆からすると実は三男坊。

 

天禄2年(971年)の生まれ(兼家の長兄・伊尹が亡くなる前年)なので、伊周にとって道頼は3歳年上の異母兄にあたります(ということは、道長の5歳年下)

 

そして重要なこととして、道頼は祖父の兼家に「乞われて養子に迎えられている」ので、伊周とは「兄弟にして叔父甥」という、不思議な関係となっています。

 

 

で、先に触れた通り、道頼はキャスティングされていないので、ビジュアルがありません…。

 

ですが、長徳元年(995年)に亡くなったということは、24歳没。

 

ということで、前回の放送で若そうな公卿を探してみると…。

 

(しばしお付き合いください)

 

 

伊周が会食を開いたシーン。道兼が亡くなった5月8日から、道長に内覧宣旨が下る5月11日の間のどこか…というドラマの設定。

 

道頼は6月11日薨去なので、亡くなる1か月前。だから参加していてもおかしくないですね…というわけで、つじつまは合わせられます。

 

台詞から察するに「実資以外は来ている」ので、ここにいてもおかしくはなさそう。

 

となると、どのお人なのか…?

 

 

右列の手前にいる、白い衣装の人。上座だし、兄にして権大納言の道頼が座すには相応しい!

 

と思ったんですけど、これたぶん「中納言」の公季ですよね(なお、公季は兼家の異母弟なので、伊周の大叔父にあたります)

 

奥ですましている公任の右隣の人も若そうで、彼かもしれない。

ですが、仮にも主催の兄で権大納言を、そんな下座に置くだろうか?と考えると、違うような気がする。

 

となると、反対側にいるのか…?

 

 

顕光と道綱の間にいる2人の公卿が、アヤシイっちゃアヤシイ。

 

顕光は「中納言」ということで、同じく「中納言」の公季と向かい合わせに座らせられている。この2人が会食のメインゲストという位置づけだと思われます。

 

道綱は、この時「参議」ですが、伊周にとって「叔父」ということで、中間の席をご用意されているのではなかろうか。

 

その右隣の人は誰だろう…?道長や公任と同年代くらいとするなら、「参議」の藤原誠信(斉信の兄。32歳)あたりでしょうか。

 

でも、為光も亡くなった今、「参議」に過ぎない誠信をそんな上座に置くかなぁ。

 

さっきの公任の隣りの若い人が誠信では…とすると、この人は「中納言」の源時中あたり?(時中は倫子の異母兄で、道綱の義兄。ただし年齢が52歳…)

 

という考察を重ねて、ワタクシの本命は顕光の左隣の青い衣服の若者。彼が24歳の道頼なのではなかろうか。

 

身分的にも主催との関係的にも、このあたりに座らせられていてもおかしくないですよね。

 

道頼没後と思われる次回予告の「陣の座」を見てみると、この青い服の若者は、顔を並べていないように見えます。

 


というわけで、ワタクシは顕光の左隣にいた青い衣装の若者こそが道頼…という結論にしておきたいと思います。

 

 

…と、公式発表されていない彼のビジュアルを追いかけるのは、これくらいにして(笑)

 

 

道頼は、中関白家がきらきら輝いて描かれている『枕草子』にも「山の井の大納言」の名で登場しています。

ワタクシの記憶の限りでは3つほどの段で登場しているのですが、中でも注目なのは「淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど」

 

この章段は、定子の妹・原子(『枕草子』での呼び名は「淑景舎」)が「皇太子妃」として入内して来た時のことで、道隆、貴子、伊周、隆家らとともに道頼も登場。中関白家が勢揃いする、豪華なお話となっています。

 

道頼が登場するのは、段の終わりごろ。日没頃、一条天皇が道頼を呼び入れて御髪を直し、帰っていく…という様子が描かれています。

 

日の入るほどに起きさせ給ひて 山の井の大納言召し入れて 御うちぎまゐらせ給ひて 帰らせ給ふ  桜の御直衣おんなおしに紅の御衣おんぞの夕映なども かしこければ とどめつ

 

そのついでに、清少納言の道頼に対する評価が語られています。

 

山の井の大納言は入り立たぬ御兄おんせうとにては いとよくおはすぞかし  にほひやかなる方は この大納言にもまさり給へるものを かく世の人はせちに言ひおとし聞ゆるこそ いとほしけれ

 

「道頼さまは、伊周さまの兄上で、とてもよくできたお人。美しいことでは伊周さま(大納言)にも勝っているけれど、世間ではしきりに貶められた評価を受けているのは、とても可哀想」

 

なんだか、ベタ褒めのような…?どことなく、伊周よりも好感を持っているような印象もありますなー。

 

 

…と、ワタクシの趣味の範疇『枕草子』について触れたところで、続いては歴史上の人物としての道頼について。

 

道頼は「伊周の異母兄」と紹介しましたが、伊周たちが高階貴子の所生なのに対し、道頼の母は藤原守仁の娘でした。

 

藤原守仁って誰…?というと、魚名流藤原氏の人で、実は道隆や道長たちの母である時姫の甥っ子

 

道隆は、高階貴子と恋愛結婚をする前に、母の縁者のもとに通っていたのですねー。

 

 

父・道隆は、兼家の嫡男。兼家が娘を冷泉天皇や円融天皇に入内させたように、娘を育てて天皇家に入内させる将来を、念頭に置いておりました。

 

そのため、娘を産むことのなかった道頼母よりも、定子や原子を産んでいた貴子の方が、重視されて行きます。

 

一条天皇が即位して間もない寛和2年(986年)7月23日、貴子の父・高階成忠が63歳にして「従三位」となり、公卿の仲間入り。

 

「后かね」と「公卿の外戚」という、守仁父娘には越えられない条件が揃い、道隆の嫡男は伊周であることが周囲には明らかになり、道頼は「庶兄」となりました

 

道頼母は、永延2年(988年)に亡くなったみたい(『光る君へ』では第12話「思いの果て」と第13話「進むべき道」の間のこと)

 

この頃までには、道頼は祖父の兼家に乞われて養子となっており、大層可愛がられたと言われています。

 

 

ところで…兼家はどうして、乞うてまで道頼を養子として迎えたのだろうか?

 

道頼は道隆の長男…ということは、兼家の初孫。だから可愛いと言うのもあったでしょう。

 

『枕草子』で語られるように、容姿端麗で性格も良かったので、有望な面を買われた可能性も、かなりあります。

 

それらを否定しない上で、考察と言うより半分妄想みたいなものなんですが。

 

兼家は、道隆が高階貴子を正妻として迎えることに、本当は「乗り気ではなかった」から…なのではなかろうか。

 

 

高階氏は、『光る君へ』の時代からははるかに時代を遡った飛鳥~奈良時代、天武天皇の皇別氏族として立った一門。

 

系図で見てみよう(高階氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12691477064.html

 

高階氏は「真人姓」なので、「朝臣姓」の藤原摂関家から見ると、だいぶ格下の家柄でした。

 

高階貴子の父・成忠は、宮仕えが「文章生」からスタート。ということは、分かりやすく例えるなら、まひろの弟・藤原惟規と同じレベルの「学者の家」だったことになります。

 

それが「従三位」まで上がるのだから、成忠は大したヤツだ…となるのですが、これは「娘が道隆の正妻になったから」というのも大きいでしょうし、ともあれ道隆と貴子が結婚した頃には、「その程度の家」であったことは否めません。

 

道頼が生まれた天禄2年(971年)は、長兄・伊尹の天下。仲が良好で自分を引き上げてくれている兄のもと、兼家は出世街道を突っ走っておりました。

 

兼家がイケイケだった頃ですが、道隆が妻の甥である藤原守仁のもとに通い、娘との間に子をもうけたというのは、兼家の理解もあったと思います。

 

伊周が誕生した天禄5年(974年)は、兼家とは犬猿の仲のだった次兄・兼通の天下。

 

父が冷遇されて雌伏の時を過ごしている中、道隆が身分の高い家の娘とは結婚できなかった…という事実はありそう。

 

でも、だからって「摂関家の嫡男」が「学者の家」である高階氏の娘と結婚するというのは、どんな気持ちだったのだろうか?

 

「冷や飯食いの境遇に甘んじているとはいえ、摂関家の一門で冷泉上皇に娘を入内させている東三条家の嫡男の嫁に、学者の娘…?それも漢才に驕るキャリアウーマンと、はしたない恋愛の末の結婚…だと?」

 

道隆が好いて結婚したから表向きは反対しないけど、本音では面白くないと思っていた…としても、おかしくないような気がします。

 

貴子が「后かね」を産んで正妻の道を歩むのを見守りつつも、守仁の娘から寵愛が離れていくのを、内心ではブツクサいっていたのではなかろうか。

 

「守仁の娘が正妻では、何が不満だというのか。あの道隆めが…」

 

兼家が、道頼を「乞うて自分の養子にした」のは、本当は嫡男として育ってほしかった男の子だったからなのではなかろうか(名前に、伊周にはない「道」を持っているのは、何か意味が…?)

 

それは、「道隆が、貴子と結婚することを賛成してなかった」本音の表れでもあったのではないかと、ワタクシは妄想するのですが、どうでしょうかねー。

 

(そして、兼家の高階氏に対する微妙な態度は、娘の詮子も無意識に受け継いで、「中関白家より道長」という、あの政治思想に繋がっている…だったりして…?)

 

 

道頼と伊周の兄弟仲、道隆との親子仲は、どんなかんじだったのだろう?

 

『枕草子』を読む限りでは険悪だった様子は見当たりませんが、現実にはどうだったのか?

 

永祚2年(990年)、道頼は「参議」に昇進。伊周は「蔵人頭」。この時はまだ「兄弟順」になっています。

 

この年、定子が入内して、兼家が薨去。道隆が「摂政」に立ちました。


正暦2年(991年)、伊周が「参議」に昇進して追いつくと、正暦2年(991年)には兄弟そろって一緒に「権中納言」へ昇進。

 

しかし正暦3年(992年)、伊周は舅の源重光から譲りを受けて「権大納言」となり、ここで道頼を追い越しました。

 

正暦4年(993年)、伊周が「内大臣」となると、後任の「権大納言」には道頼が任じられ、あの「長徳元年」を迎えることになりました。

 

こうして見てみると、伊周が兄を追い越したのは外祖父の譲りがあったからで、道隆が依怙贔屓をしたからではありません

 

さらに、伊周の後任として道頼を引き上げているので、道隆や伊周は、道頼を疎んじてはいなかった、少なくとも不仲ではなかったのだろうな…というかんじがします。

 

 

道長と道頼の仲はどうだったのかというと、道頼が亡くなった時「これから目を掛けようと思っていたのに…と嘆いた」という話が伝わっているので、良好だったようです。

 

養子とはいえ、末っ子だった道長に弟ができたわけで、父と同様に可愛がっていたのでしょうかねー(『光る君へ』でいうと、かつての「打毬」後の直秀のポジションですな)

 

 

道頼が亡くなった翌月となる、長徳元年(955年)7月24日。「陣の座」において、伊周と道長が激しい口論に及び、対立が表面化。

 

7月27日には、道長と隆家の従者が七条大路で大乱闘(「合戦」と書かれるような事態)。伊周の縁者が「道長や詮子を呪詛した」という噂がたち、両者の決裂は決定的になってしまいます。

 

こうして、道長と伊周が激しい権力争いを演じてしまい、敗者となった「中関白家」は没落が決定してしまいました。

 

 

道長にとって「弟」で、伊周にとっては「兄」にあたり、そのどちらとも親しい交流を持っていた道頼。

 

もしも、道頼が疫病で亡くなることなく、この先も長生きしていたら…。

 

このうちのどれかでも、避けられたのではなかろうか…

 

もしかしたら、次回描かれるであろう、「花山院」に対するあの行為も、未然に防がれたかもしれず…

 

というのがワタクシの歴史妄想。

 

早死にしてしまった「よく出来た兄弟」というのは、「歴史のif」として、そういう期待を掛けられてしまいがち…というのは重々承知ながら。

 

伊周と隆家の暴走で凋落してしまった、その悲しみがどこかで防げなかったのかなって、どうしても思ってしまうのですよねー。

 

 

そして、これは「七日関白」道兼にも言えますかね。

 

彼が長生きしていたら、あの中関白家兄弟が暴走することもなかったかもしれない。

 

道隆の持病による早世に続く、2人の兄を同時に失ってしまった「長徳元年の疫病」。

 

これこそが、「中関白家」没落の二歩目だったのかもしれませんなー。

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html