『光る君へ』第7話「おかしきことこそ」の劇中で、「陣の定」を開催しているシーンがありました。

 

で、SNS情報によると、字幕をオンにしていると、台詞があった公卿たち全員に役名が付いていたそうです。

 

えっ…と驚きなんですけれども…。

 

オープニングクレジットには名前なかったのに…。お願いだから名前載せてよNHKさん。

 

せっかくなので備忘記録のために、そのシーンを書き起こして、さらに人物名を追記すると、こんなかんじ。

 

 

序列1位・源雅信(正二位・左大臣)「帝が亡き忯子さまに皇后の称号を贈りたいとの仰せである。下位の者より順に意見を述べよ」

序列18位・藤原時光(正四位下・参議)「先例のないことで、考えられませぬ」

序列17位・伊陟これただ(正四位下・参議)「先例なきは、よろしくないことだと存じます」

序列12位・藤原義懐「帝の亡き母君、懐子さまにも皇太后が贈られた先例があります」

序列1位・源雅信「ゴホンッ(義懐が順序を無視して意見したため、咳払いで注意)」

序列16位・藤原佐理(従三位・参議)「ただいまの義懐殿の御意見は皇太后さまのこと。皇后さまではございませぬ」

序列12位・藤原義懐「円融院の后・遵子さまは中宮にあらせられる。ただいま皇后の座にはどなたもおられない。帝があれほどまでにご寵愛された忯子さまに皇后を贈られて何がいけないのか」

一同「(納得のいかない不満な雰囲気)」

序列12位・藤原義懐「大納言為光さま、大納言様は忯子さまのお父上。帝のお心遣い有難いとは思いませぬか」

序列3位・藤原為光「意見は下位の者から順番に述べるものにございます」

序列12位・藤原義懐「(憮然として引き下がる)」

序列14位・藤原公季(正三位・参議)「あり得ません」

序列13位・源忠清(従三位・参議)「同じく」

序列12位・藤原義懐(従二位・参議)「帝のお心です。忯子さまに皇后の称号を」

序列9位・藤原顕光(正三位・中納言)「分かりません」

序列7位・藤原文範(正三位・中納言)「あり得ません」

序列3位・藤原為光(正二位・大納言)「残念ながら、むずかしいと存じます」

序列2位・藤原兼家(正二位・右大臣)「先例が見つかればよろしいかと」

 

 

(大河ドラマ『光る君へ』第7話「おかしきことこそ」より)

 

公季と忠清の順番が逆のように見えますが(同じ官職だったら階位で並ぶんでないのかな?)、あとは順序を無視して発言した義懐と、呼びかけられて注意した為光以外、ちゃんと下位から順に発言していますね。

 

ちなみに、放送時間の都合上で(?)カットされたと思われる議政官は、おそらく以下の通り。

 

序列15位・大江斉光(従三位・参議)

序列11位・藤原為輔(正三位・参議)

序列10位・源保光(従三位・権中納言)

序列8位・源重光(正三位・中納言)

序列6位・藤原済時(従二位・権大納言)

序列5位・藤原朝光(正二位・権大納言)

序列4位・源重信(正二位・大納言)

 

 

…という備忘記録だけというのもアレなので、画像付きでご尊顔を確認して回ってみよう!というのが今回のテーマです。

 

せっかく映像化しているのに紹介しないなんて、もったいないですよNHKさん!

 

(なので、いつも以上にワタクシ的趣味の範囲なブログですw)

 

 

さっそくやってみて…。

 

まずは、順番を無視して意見を挟んだ義懐(序列12位)を望むカメラワーク。

 

 

右列の奥のほうには、藤原佐理と藤原公季、そして手前に藤原為輔の姿が見えます。

 

 

序列16位・藤原佐理(すけまさ。ですが、ワタクシは「さり」って呼んでます)は、従三位・参議。天慶7年(944年)生まれなので、41歳。

 

小野宮流藤原氏の人(祖父は実頼)。公任や実資とは従兄弟の関係で、公任の父・頼忠は次男、実資の父・斉敏は三男ですが、佐理の父は長男である敦敏でした。

 

なので、佐理は小野宮流の嫡流…のハズなのですが、御存知のように嫡流を継いでいるのは、実資。

 

敦敏が流行り病のために早世してしまったので(父・実頼や祖父・忠平よりも先に亡くなっています)、佐理は父の後ろ盾を得られなくなったことで嫡流を外れてしまったのかな(たぶん)

 

(それでも、この場に出席している小野宮流は彼だけなので、大したもんですが)

 

小野道風、藤原行成とともに「三跡」に数えられる超有名な能書家なんですが、現代に伝えられている真蹟は、「詫び状」だの「始末書」だのと、やらかした後始末みたいなのが多めです(それを堂々とした立派な筆跡で書くという…提出された方はどんな顔をしたらいいのやら)

 

一条朝になると、あまり兼家と接点がなかったせいか、ひときわ影が薄くなってしまったようです。その後、息子を参議にしたかった道隆によって、参議の席を開けるため太宰府へ赴任させられてしまい、そこでまた失敗をして…という、どうしょうもないことになっています。「酒好きでグズでいい加減」(『大鏡』)という人物評がうなずける感じですな(笑)

 

でも、義懐の勝手な意見に公然と反論した姿は、かっこよかったよ!

 

ちなみに、同母妹が為光の正室となっており、斉信や忯子の母となっているので、この場の議題は「実の姪っ子に『皇后』を贈るかどうか」だったことになります。

 

 

序列14位・藤原公季(きんすえ)は、正三位・参議。天暦10年(956年)生まれなので、29歳。

 

兼家の異母弟。師輔と康子内親王(醍醐天皇皇女)の子。

道長にとっては、わずか10歳年上の叔父です(道隆にとっては3歳年下の叔父)

 

幼くして母を亡くしたので、叔父にあたる村上天皇に引き取られて可愛がられ、守平親王(後の円融天皇)と一緒に暮らしていた幼友達。結構わんぱくで、皇子になりきったりして、しょっちゅう村上天皇と守平を困らせていたらしいです(笑)

 

将来、摂関家よりも存在感を増すことになる「閑院流藤原氏」の祖。

 

白河院の生母・茂子や、崇徳院や後白河院の生母・待賢門院、三条家・徳大寺家・西園寺家たち上級貴族の一門を輩出する系統です。

 

子孫は繁栄しましたが、公季自身は仕事的にはぱっとしなかったと言われています(無能という評も…)

 

でも、「あり得ません」と断言していて、かっこよかったですよ!

 

 

序列11位・藤原為輔(ためすけ)は、正三位・参議。延喜20年(920年)生まれなので、65歳。

 

勧修寺流藤原氏の人で、宣孝の父上様。先ほどの佐理の舅でもあります。

 

紫式部大河の『光る君へ』。夫となる宣孝の父(つまり、将来の まひろの義父)なんだから、がっちり取りあげてもいいような気がするんですが、このシーンでは台詞さえカット…ちょっとNHKぇ!

 

 

つづいては、同じく右列の、今度は手前側。

 

 

一番手前は、我らが右大臣・兼家(序列2位)。こちらの紹介は割愛。

 

源重信、藤原済時、源重光、源保光の姿が見えます。

 

 

序列4位・源重信(しげのぶ)は、正二位・大納言。延喜22年(922年)生まれなので、63歳。

 

宇多源氏。左大臣・源雅信の2歳年下の同母弟で、村上天皇に「カタブツ」と言われた兄とは違い、愛嬌がある性格だったそう。ただし性格は反対でも兄弟仲は良かったみたいで、後に左右の大臣を兄弟で務めることになります。

 

今回は台詞なし…でしたが、本格的な登場は、右大臣になってからですかね。

 

なお、「宇治平等院」のある地は、元々は重信の別荘だったもの。姪っ子の婿という縁で道長に買い取られ、息子・頼通に引き継がれて、寺院に改装されました。

 

系図で見てみよう(宇多源氏)(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12734496370.html

 

もっと遡ると、この地は「河原左大臣」こと源融(嵯峨源氏)が所有していたんですが、どういう経緯で重信が所有することになったんですかね。

 

また、重信は『百人一首』の詠み人である経信の祖父でもあります(ということは、俊頼の曾祖父で、俊恵の高祖父)

 

 

 

序列6位・藤原済時(なりとき)は、従二位・権大納言。天慶4年(941年)生まれなので、45歳。

 

実頼の異母弟で、師輔の同母弟である、左大臣・師尹(もろただ)の系統・小一条流藤原氏の人。

 

小一条流!!来ました!!出ないのかと心配するくらい待ってたよー!

 

#小一条流の人は、現在時点でも誰1人として配役が発表されていません。

#さらに、今回は台詞なし…。

 

とはいえ、済時は道隆の酒呑み友達で、道隆政権を支えた1人なので、後々ちゃんとOPクレジットで名前を背負って登場すると思います。

 

…でも、まぁいいか心配したついでに紹介します(笑)

 

済時は、藤原師尹の次男。村上天皇の時代から「蔵人頭」を務め、冷泉天皇に代替わりしても、引き続き再任されています(同じく蔵人頭だった藤原兼通は再任されず、代わって弟の兼家が任命され、兄弟間の軋轢の原因となった、あの時です)

 

ずっと後になると、娘の娍子が三条天皇の皇后となり、第一皇子・敦明親王の生母となっています。もう少し時が穏やかであったなら、済時は「天皇の外祖父」として歴史に名を残したのかもしれないのですが…。

 

ね?重要でしょう?なんで公式に配役発表しないんだろうか…(確かに、紫式部目線では、ほぼ関わりのない人物っぽいですが)

 

『百人一首』好きなら、幼くして父を亡くした藤原実方の養父としても注目ですかね(済時にとって実方は兄・定時の子)

 


その奥におられる源重光と源保光は、醍醐源氏の兄弟。父は代明親王。

 

序列8位・重光(しげみつ)は、正三位・中納言。延長元年(923年)生まれなので、62歳。

序列10位・保光(やすみつ)は、従三位・権中納言。延長2年(924年)生まれなので、61歳。

 

兄弟そろって今回は台詞なし(カナシイ)

 

代明天皇の系譜は、以前にも紹介していますね。

 

系図で見てみよう(醍醐源氏/代明親王)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12838983981.html

 

ざっくり言えば、重光は道隆の子・伊周の舅となる人、保光は行成の母方祖父で、早くに父を失った行成を引き取り養育した人です。

 

 

 

続いて「陣の定」を奥の方から撮った図。

 

 

後ろ姿の2人は、藤原時光と源伊陟。

左列では、大江斉光、源忠清の姿が見えます。

 

 

序列18位・藤原時光(ときみつ)は、正四位下・参議。天暦2年(948年)生まれなので、37歳。

 

兼家と犬猿の仲だった兄・兼通の次男。顕光(序列9位)の弟、朝光(序列5位)の兄です。

参議まで昇ったものの、977年に兼通が亡くなると昇進がストップし、そのまま円融朝を過ごしました。

 

師貞親王の春宮大進を務めていた縁で、花山天皇が即位すると昇進が再開して正四位下に昇りましたが、やはり8年間の停滞はイタかった…。義懐にもあっという間に抜かれています(^^;

 

 

序列15位・大江斉光(ただみつ)は、従三位・参議。承平4年(934年)生まれなので、51歳。

 

大江維時の子。ということは、赤染衛門の夫である大江匡衡の伯父(叔父?)にあたります(和泉式部の大伯父(大叔父)ということにもなりますな)

 

維時の娘の1人は兼通の妻となり、1つ前に紹介した時光(序列18位)の生母となっています。つまり、時光と斉光は叔父・甥の関係ということですな。

 

今回は台詞なし。後ろ姿でも台詞があった甥っ子・朝光のほうがマシなのか、台詞がなくても横顔だけでも映った斉光の方がマシなのか。

 

 

序列17位・源伊陟(これただ)は、正四位下・参議。天慶元年(938年)生まれなので、47歳。

 

醍醐源氏ですが、重光・保光兄弟とは父が違って、兼明親王の子。

 

兼明親王は臣籍降下して源兼明となり、左大臣まで昇って「御子左大臣(皇子の左大臣)」と呼ばれた人物でした。

 

「御子左」ってどこかで…?そう、『百人一首』の撰者・定家の系統「御子左流藤原氏」の「御子左」。

 

兼明親王が住んでいた邸宅を、定家の先祖である長家が受け継いだため、「御子左流」と呼ばれるようになったんですねー(ただし、名乗ったことはないので「御子左家」ではないみたい)

 

ともあれ、左大臣まで昇った源兼明でしたが、それはちょうど兼通と兼家が政敵として緊張関係にあった時代でした。

 

兼通は頼忠(あの声の小さい関白)を左大臣に任命して自分の腹心としたかったのですが、そうしようとすると兼明が邪魔。

 

そこで思いついた策が、非常に大胆。「せや、兼明には皇籍に戻ってもらおう。臣下でなくなれば、左大臣ではいられなくなる」

 

こうして、源兼明は57年ぶりに皇籍に復帰して兼明親王となり、左大臣を辞任。

頼忠が空席となった左大臣に昇ることになった…というわけ。

 

兼明親王は無念だったようで「君昏くして臣諛ふ」(帝がアホだと臣下がへつらう)とぼやいていたそうな。

 

(ちなみに、兼明親王は永延元年(987年)に薨去しているので、第7話の現在時点では、まだ存命です)

 

…なんか、兼明親王の話ばっかりになっていますな…。

 

兼明親王を陥れたことへの埋め合わせなのか、この出来事に合わせるかのように、息子の伊陟が「参議」に昇進して議政官入りを果たしています。

 

あの「陣の定」に顔を見せていた背景には、こんなことがあったんですねー。

 

なお、兼明親王は「中書王」と呼ばれるほど博学多才で、詩文と書に優れていたそうですが、和歌はあまり得意ではなかったようで、詠歌は勅撰和歌集には1首しか採られていません。

 

しかし、それは室町時代に太田道灌が登場する「雨具借りの故事(通称「山吹伝説」)」のエピソードで有名な和歌だったりします。

 

小倉の家に住み侍りける頃 雨の降りける日 蓑借る人の侍りければ 山吹の枝を折りて取らせて侍りけり 心も得でまかりすぎて又の日 山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける

七重八重ななえやえ 花は咲けども山吹の
実の一つだに なきぞあやしき


兼明親王/後拾遺集 雑 1154

 

小倉山近く家に住んでいた頃、雨の日に客人が「蓑を借りたい」と言われたので、山吹の枝を持たせました。その人は訳も分からずにお帰りになり、何日か経って「意味が分からなかった」と言われたので、返事の歌を送りました。

 

[山吹の花は七重八重と艶やかに咲くのに、実がひとつも結ばないのは不思議なことです]

 

八重のヤマブキの花は雄蕊が花弁に変化し、雌蕊も退化しているために実をつけることがなく、それは『万葉集』の頃から有名だったみたい。

 

「実のない」と「蓑ない」が掛詞になっていて、「山吹の枝」を渡すことで、「蓑がないんですよ~ゴメンナサイ」と伝えた…というお話。

 

室町時代、狩りの帰りに雨に遭遇した道灌が、雨具を借りようとしたら娘から「山吹の花」を渡され、怒って家臣に語ったら「あの和歌を踏まえていたのでは」と教わって、自分の無学を恥じて和歌に精進した…というのが「山吹伝説」というわけですな。

 

しかし、左大臣にまで昇り、後には皇族に復帰した兼明親王が、蓑さえ持てないような貧しい暮らしをしていたとは思えないので、この和歌を詠んだのはちと裏事情がありそうな感じもありますが…(「貸して」って言った客人が物を返さないことで有名な人だったとか?)

 

今度は兼明の話に戻るどころか道灌の話にもなってしまった…。

まぁ、伊陟はそんな兼明の息子なんですよ…ということで(笑)

 

また、娘の陟子(ただこ)は彰子のもとに出仕し、「宮の宣旨」という名前で『紫式部日記』にも登場しているので、もしかしたら大っぴらに登場してくれるかもしれませんね。

 

その時は「あの時の後ろ姿だけだった人の娘か…」と思い出してあげて下さいw

 

 

序列13位・源忠清(ただきよ)は、従三位・参議。天慶6年(943年)生まれなので42歳。

 

彼も醍醐源氏ですが、こちらは有明親王の子。

 

忠清の姉妹の1人は兼通の正室となっていて、円融天皇の最初の中宮・媓子や、朝光(序列5位)の母となっており、また別の姉妹は藤原公季(序列14位)の正妻となって、閑院流の母となっています。

 

忠清自身は、守平親王(円融天皇)の春宮亮。この功労によって、円融朝では昇進を重ね、参議にまで昇っていたわけですなー。

 

 

最後に、左列の手前の皆さん。

 

 

序列3位・藤原為光(ためみつ)は、正二位・大納言。天慶5年(942年)生まれなので、43歳。

 

兼家の異母弟。斉信の父上様ですね。議題の中心人物である忯子の父でもあります。

 

花山天皇が皇太子時代の春宮大夫。忯子の存在を知ったのは、この関係のためなんでしょうか。

 

斉信がドラマ中で言っていたように、花山天皇の命を受けた義懐に入内を再三請われ、仕方なく(?)承諾したという経緯があったようです。

 

実は忯子が亡くなる1か月前に妻が先立っており、母娘の菩提を弔うために永延2年(988年)「法住寺」を創建し、為光は現世の栄達を棄てて、念仏三昧の生活に入っていくことになります(まだ先の話になりますが)

 

「法住寺」のことは、以前に書いたのでリンクを回すのみとして…。

 

「法○寺」の歴史(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811688979.html

 

この座での為光は、あんまり落ち込んでる風には見えなかったような。

妹の死より花山帝への怒りを見せていた斉信と同じく、現代とは死生観が違う…ということですかの。

 

 

序列9位・藤原顕光(あきみつ)は、正三位・中納言。天慶7年(944年)生まれなので、41歳。

 

兼通の長男。「陣の座」で「わ、分かりません」と、1人曖昧な返事をしていた人(笑)

 

この「陣の定」には、時光と朝光とともに三兄弟で顔を並べています。それぞれ母親が違っていて、顕光の母は陽成院の孫・昭子女王と言われています。

 

 

序列5位・藤原朝光(あさみつ)は、正二位・権大納言。天暦5年(951年)生まれなので、34歳。

 

兼通の四男。顕光、時光の異母弟ですが、一番の出世頭になっています。

 

母は能子女王で、有明親王の娘。つまり、三兄弟の中で彼だけが円融天皇の最初の中宮・媓子の同母弟であり、この関係で一番昇進が早かったのかもしれません。

 

そして、母が有明親王の娘ということは、源忠清(序列13位)にとっては甥にあたるわけですな。

 

今回は台詞なしでしたが、彼も済時と同じく道隆の酒呑み友達で、道隆政権を支えるポジションなので、今後顔を見ることは多くなると思いたい。先駆けてご尊顔を拝せてテンション上がりました(笑)

 

 

序列7位・藤原文範(ふみのり)は、正三位・中納言。延喜9年(909年)生まれなので、76歳。

 

第1話からずっと登場している人。長良流藤原氏の人で、実は紫式部の母方の曾祖父にあたる人物。それを無視しているかのような描写が度々あるので、たぶんNHK制作陣の皆さんは知らないか忘れているかしていると思います…。

 

息子には、以前に紹介した『蜻蛉日記』作者の姉の夫もいます。ということは、義懐は孫娘の夫という関係。為光や斉信とも縁繋がりです。

 

 

 

というわけで、台詞と名前を一致させたついでに、陣の座に顔を見せていた人たちについて、ざっくりとした紹介をしてみました。

 

『光る君へ』は人物名をテロップで出さないので、平安時代大河としては不親切なんですよね…。

 

この備忘記録が何かしらの役に立ってくれたらいいなと願いますです。

 

 

ただ…思いっきり趣味に走り過ぎてしまって、そこはなんだか申し訳ないです(^^;

 

 

 

【登場人物まとめ】
序列 名前 位階・官職 氏族 生年
1位 源雅信 正二位
左大臣
宇多源氏
敦実親王息
延喜20年(920年)
65歳
2位 藤原兼家 正二位
右大臣
藤原氏九条流
師輔三男
延長7年(929年)
56歳
3位 藤原為光 正二位
大納言
藤原氏九条流
兼家の異母弟
斉信の父
天慶5年(942年)
43歳
4位 源重信 正二位
大納言
宇多源氏
雅信の同母弟
延喜22年(922年)
63歳
5位 藤原朝光 正二位
権大納言
藤原氏九条流
兼通の四男
母:有明親王の娘
円融皇后媓子の同母弟
天暦5年(951年)
34歳
6位 藤原済時 従二位
権大納言
藤原氏小一条流 天慶4年(941年)
45歳
7位 藤原文範 正三位
中納言
藤原氏長良流
紫式部の母方曾祖父
延喜9年(909年)
76歳
8位 源重光 正三位
中納言
醍醐源氏
父:代明親王
延長元年(923年)
62歳
9位 藤原顕光 正三位
中納言
藤原氏九条流
兼通の長男
母:陽成天皇の孫娘
天慶7年(944年)
41歳
10位 源保光 従三位
権中納言
醍醐源氏
父:代明親王
藤原行成の母方祖父
延長2年(924年)
61歳
11位 藤原為輔 正三位
参議
藤原氏勧修寺流
宣孝の父
延喜20年(920年)
65歳
12位 藤原義懐 従二位
参議
藤原氏世尊寺流
花山天皇の叔父
天徳元年(957年)
28歳
13位 源忠清 従三位
参議
醍醐源氏
父:有明親王
天慶6年(943年)
42歳
14位 藤原公季 正三位
参議
藤原氏九条流
兼家の異父弟
天暦10年(956年)
29歳
15位 大江斉光 従三位
参議
大江氏
赤染衛門の夫の叔父
藤原時光の母方叔父
承平4年(934年)
51歳
16位 藤原佐理 従三位
参議
藤原氏小野宮流
公任・実資の従兄弟
天慶7年(944年)
41歳
17位 源伊陟 正四位下
参議
醍醐源氏
父:兼明親王
彰子女房・宮宣旨の父
天慶元年(938年)
47歳
18位 藤原時光 正四位下
参議
藤原氏九条流
兼通の次男
母:大江維時の娘
大江斉光の甥
天暦2年(948年)
37歳

 ※序列順位は大河ドラマでの並び順を参考にしました。史実と違っていたらゴメンナサイ。史実通りだとは思うのですが、ワタクシが並び順のルールを存じないもので…。

 

 

【関連】

 

大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html