「平安時代好き」で「系図好き」な人にとって有名な人物に「代明親王(よしあきら)」がおります。

 

60代・醍醐天皇の第三皇子で、朱雀天皇(61代・923年生まれ)、村上天皇(62代・926年生まれ)の異母兄。延喜4年(904年)生まれ。母は藤原連永の娘・鮮子で、魚名流の一派である末茂流の女性でした。身分は更衣(下級の妃)。

 

ちなみに、朱雀帝の諱は「寛明(ゆたあきら)」で村上帝の諱は「成明(なりあきら)」。醍醐天皇の皇子たちは「*明」という名前になっています(「安和の変」で失脚した「高明」は醍醐帝の第十皇子。四納言の1人・源俊賢の父)

 

代明親王は承平7年(937年)に33歳で薨去したので、『光る君へ』の半世紀弱ほど前の人物となります。

 

若くして亡くなったので、足跡はそれほど濃厚には残っていないのですが、彼の子孫や縁戚は『光る君へ』に大勢が登場しているので、そこを取りあげてみようかなーというのが、今回の主旨になります。

 

というわけで、さっそく系図をご紹介すると、こんなかんじ。

 

 

代明親王は、『百人一首』の詠み人でもある藤原定方(三条左大臣)の娘を娶り、三男三女をもうけました。

 

男の子はみんな「源氏」を賜って臣籍降下して「醍醐源氏」の代表的な系譜を成しています。しかし、女の子は臣籍降下されなかったようで、親王の娘なので「**女王」と呼ばれます。

 

中でも『光る君へ』関連で注目なのは、三女の厳子女王。実は四納言の1人・公任の母親。公任は天皇の曾孫だったんですねー(醍醐帝-代明-厳子-公任)

 

そして、あの「声の小さい関白」頼忠は女王様を嫁に迎えていたんですなw

 

厳子女王の所生は他には、円融天皇に入内して皇后になった遵子(のぶこ)、花山天皇に入内しているはずなのに大河ではキャスティング発表がない(涙)諟子(ただこ)がおります。

 

 

長女の恵子女王は、藤原師輔の長男である伊尹(兼家の兄)に嫁しています。

 

所生の子で著名なのは、懐子花山天皇の生母です。花山天皇にとって公任は祖母の妹の子「従叔父(いとこおじ)」だったんですねー。公任は「花山歌壇」の代表的歌人ですが、こうした縁戚である親しさも影響しているのでしょうか。

 

花山天皇の権臣・義懐も、恵子女王の所生となります。『光る君へ』第4話で花山天皇に「叔父上」と呼ばれていた人ですねー。

ちなみに義懐は伊尹の五男なのですが、兄4人はいずれも若くして亡くなり、姉の懐子も早くに亡くなっています。若死の家系で51歳まで生きた義懐…健康オタクだった説をぶち上げたいです(笑)

 

 

四納言の1人・藤原行成は、父・義孝(『百人一首』50番の詠み人)が伊尹と恵子女王の所生ですが、母方でも祖父が代明親王の次男・源保光(やすみつ)父方を遡っても母方を辿っても代明親王の曾孫というポジションを持っています。

 

2歳の時に父が亡くなったので、祖父である保光の庇護を受けて養育されたと言われています(「源」ではなく「藤原」を名乗っているから、養子とかではないんですな)

 

行成の母と姉妹の、保光の他の娘は、小野宮流藤原氏で実資の実兄にあたる懐平(かねひら)に嫁しています。

 

行成にとって実資は、母の姉妹の夫の兄弟なんですねー(一応「叔父」ってことになるのか)。『光る君へ』ではまだ特に絡みはないですが…(今後何か知らの接触があった時に「叔父・甥」呼びがあったら…喜びます←何)

 

懐平は『光る君へ』の配役が未発表ですが、三条天皇に側近として頼りにされた人なので、後半にはきっと登場する…はず。

 

なお、懐平と保光の娘の間には、資平(すけひら)が生まれています。

資平は叔父である実資の養子となり、小野宮流嫡流を担うことになりました。

 

 

代明親王の三男・源延光(のぶみつ)は、冷泉天皇が春宮時代の春宮権亮(春宮事務所の次官)。おそらくは冷泉天皇の寵愛もあって三兄弟の中では昇進が早かったのですが、三兄弟の中で一番最初に亡くなってしまいました(『光る君へ』開始時で唯一の故人)

 

延光の娘は、小一条流藤原氏の済時に娶られて、二男二女をもうけています。

 

中でも注目なのは、長女のスケ子(すけこ)。彼女は居貞親王の東宮妃として入内して四男二女をもうけ、夫が三条天皇として即位すると皇后となった女性です。

 

三条天皇には、道長の娘・妍子(きよこ)が入内して中宮となっており、この後宮をめぐるバトルに三条天皇も娍子も大変な目に遭うことになる…のですが、それは大河ドラマでオタノシミニw

 

ともあれ、三条天皇と道長の確執が『光る君へ』後半のクライマックスかと、薄く思っているので(道長大河だったら間違いないんですが、主役が違うからな…)、娍子もきっと登場するハズ。続報を待ちましょう。

 

 

そして、代明親王の子女は兼家の家系とも繋がりを持っています。

 

兼家の孫で、道隆の嫡男にあたる伊周には、代明親王の長男・重光の娘が嫁いで、道雅が生まれています。

 

道雅は『百人一首』63番歌の詠み人ですねー。

 

いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで言ふよしもがな


左京大夫道雅/後拾遺集 恋 750

 

祖父が関白、父が準大臣(儀同三司)というのに、道雅は閑職だった左京大夫止まり…。中関白家の没落ぶりが、詠み人名に表れているかのよう。

 

三条天皇の皇女に手を出そうとしたり、なりふり構わず暴れたりして「荒三位」と呼ばれたそうですが、成長するにつれ立派な人物になっていったようです。

 

以前にも取りあげましたが、道雅は紫式部の夫・宣孝の娘(紫式部の娘ではない)の夫となっています。

 

系図で見てみよう(藤原氏/紫式部周辺)(再掲)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12804259307.html

 

道雅の母の兄弟にあたる源明理(あきまさ)は、伊周と義兄弟だった縁で中関白家の没落に巻き込まれ、出世コースからは転げ落ちてしまいました。後に「長経(ながつね)」と改名。

公任の姉・遵子の皇太后宮亮を務めた後、受領を歴任していたようです。従姉妹の子にあたる行成と仲が良かったそうですよ(まー大河には出ねーだろーな)

 

 

代明親王の次女にあたる荘子女王は、村上天皇の女御となっています。別名「麗景殿女御」。村上天皇の第七皇子・具平親王(ともひら)の母君です。

 

具平親王は、長女・隆姫女王(たかひめ)が道長の嫡男・頼通に降嫁されていて、摂関家と直接の縁戚となっていました。

 

寛弘6年(1009年)、45歳で没。生後間もなく遺児となった資定王(すけさだ)は、姉が嫁いでいた縁で頼通の庇護を受けることになりました。

 

「源氏」を賜って皇籍を離れ、頼通の命名によって「師房」に改名。利発だったらしく、やがて道長にも気に入られていきます。

 

道長は、正室・倫子との子は嫡流にしたり天皇に入内させたりしましたが、側室・明子との子は格差をつけて遇していたと言われています。

 

そんな明子所生の娘・尊子(たかこ)が、師房に嫁入り。以後の子孫は摂関家と親密に発展していき、「村上源氏」と呼ばれるようになっていきました。

 

村上源氏の祖には代明親王も顔を見せていたわけですなー。

 

 

 

というわけで、本日の本題は以上…となるのですが。

 

何故に突然、代明親王の系図を紹介し出したのかというと、前回のブログに理由があります。

 

大河ドラマ『光る君へ』第4話「五節の舞姫」で、主人公まひろ以外に3人の舞姫が登場しました。

 

 

そのうちの2人を、ドラマ中にあった「権大納言家の娘」「藤宰相家の娘」という台詞をヒントに、

 

茅子=『権大納言家』の娘=藤原済時の娘・娍子(小一条流)
肇子=『藤宰相家』の娘=藤原佐理の娘(小野宮流)

 

と予想しておりまして、彼女たちを紹介する系図をやってみようかな…と作っているうちに

 

「これ代明親王の系図で良くない??」

 

となった…というわけです。

 

そんなわけで、系図をもう一回再掲してみると

 

 

茅子=?子は、代明親王の三男・延光の孫。

肇子=佐理の娘が嫁いだ藤原懐平は、代明親王の次男・保光の婿。

 

…ということになります。あくまで、予想が当たっていたら…の話でね(汗)

 

たぶん当たってないので(笑)、次回放送が始まる前の今の内しかできないなと、急拵えで事に及んでしまいました。

 

間に合って良かったような、やらなかった方が良かったような…。

 

 

 

以下、余談。

 

 

 

平安時代、平安京の左京に「桃園第」と呼ばれる邸宅がありました。

 

史料上で最初に見られるのは、もしかすると藤原継縄(つぐただ)

 

藤原南家の祖・藤原武智麻呂の孫にあたる人物(武智麻呂-豊成-継縄)で、「桃園右大臣」と号していることから、彼が最初の持ち主だった…かもしれません。

 

継縄には「葛野の別業」という別荘があり、延暦11年(792年)から翌々年にかけて、桓武天皇がしばしば行幸していたそうです。継縄は奥さんが渡来系氏族なので、母が渡来系氏族だった桓武天皇と親しかったんでしょうかね。

 

そして、もしこれが「桃園第」だとしたら、平安京遷都(794年)よりも前から、この邸は存在していたことになりますねー。

 

やがて「桃園親王」と号した貞純親王の邸宅となったみたい。

 

貞純親王は清和天皇の第六皇子。息子の経基が賜姓源氏となって皇籍を離れ、「清和源氏(摂津源氏や河内源氏)」の祖となっています。

 

その後、どこをどうしたのか、醍醐天皇の同母弟・敦固親王(あつかた)の所有となります。

 

延喜20年(920年)、醍醐朝の賀茂斎院・宣子内親王が病のために退下した際、叔父の敦固親王邸「ももその」に移り住んだと記録に残っていて、それが「桃園第」だろう…とされているわけ。

 

宣子内親王は1ヶ月ほどで亡くなってしまい、敦固親王が再び居住するようになるのですが、宣子内親王の同母兄にあたる克明親王(かつあきら)に伝えられます。

 

ちなみに、克明親王は映画『陰陽師』に登場した、源博雅の父にあたります。

 


映画『陰陽師』より。左が源博雅@伊藤英明サン

 

「安和の変」で失脚した源高明「西宮第」を本拠としていたのですが、その前には「桃園第」に住んでいたようです。

 

桃園第には穴の開いた柱があって、そこから子供の手がにゅっと出てきて手招きをするという怪奇現象が起きていました。

 

そこで高明が節穴の上にお経を結びつけたのですが効果がなく、ならば仏さまの絵画だと掛けてみるも効果がなく、ある人が矢を一本、節穴に差し込んだら、手招きがピタリとなくなった…と『今昔物語』に語られています(「桃園柱穴指出児手招人語」)

 

「怪異に仏教では効果がなく武力で収まるなんて奇妙な話だ」という物語なのですが、高明は克明親王の11歳年下の異母弟…という繋がりで相伝したんでしょうか…?(なんで博雅が受け継がなかったんだろう?)

 

天暦2年(948年)、桃園第は火災記事として姿を見せるのですが、この時は「藤原師輔邸」として記録されています。

 

師輔は、縁戚として源高明を庇護した人物。この繋がりで、西宮へ遷ることになった高明から、「桃園第」を受け継いだのでしょうか…?

 

結局、寝殿部分が焼けてしまったので師輔は「坊城邸」に移り住むのですが、すぐに修復を始めているので「別荘」として引き続き使用していたことのようです。

 

やがて、師輔の長男・伊尹が相続。やっと『光る君へ』に近づいてきました(笑)

伊尹は「一条摂政」と号しますが、「桃園第」も一条にあったそうで、ここに住んでいたのは間違いなさそうですね(なんで「桃園摂政」としなかったのかは分かりませぬ…)

 

伊尹の娘・懐子は、冷泉天皇の子を懐妊すると父の「桃園第」に下がり、師貞親王を出産することになりました。花山天皇は「桃園第」生まれなんですねー。

 

伊尹の死後は嫡男の義孝に受け継がれたのですが、義孝もまた早世。

その後、義孝の妻の父である源保光が預かり、保光は「桃園中納言」と呼ばれるようになったそうです。

 

義孝の忘れ形見である行成が成長すると、「桃園第」は彼のもとに戻った…かと思いきや、『権記』正暦2年9月10日条(991年)に「詣桃園」と書かれていて、「詣=訪れた=そこには住んでいない」ということは、行成は生まれ育った「桃園第」を離れていたみたい。

 

長徳元年(995年)、母(保光の娘)と保光が相次いで没すると、行成は名実ともに「桃園第」を相続。

 

ここに母と祖父の菩提を弔うため「世尊寺」を建立し、以降行成の子孫は「世尊寺流」と呼ばれるようになっていったそうです。

 

というわけで「桃園第」が行成に行き渡り、世尊寺となるまでの経緯は以上なのですが。

 

wikipediaによると「桃園第は代明親王の邸宅だったものが、保光に受け継がれ、やがて行成に渡った」と書かれています。

 

代明親王の邸宅は桃園親王と呼ばれた貞純親王の邸宅で、後に源保光(桃園中納言)、藤原師氏(桃園大納言)、藤原近信、藤原伊尹家へ渡る。その後、藤原行成(親王の曾孫にあたる)の邸宅となり、行成はその邸内に寺を建立した。これが世尊寺である。

 

え、これどういうこと…?と疑問だったので、余談として書いてみました。

 

「桃園」は地名で、そこにはいくつか邸があって、それぞれの相伝話が混同されている。

あるいは、克明親王か源高明あたりが、代明親王と誤った。

もしくは、上記の何処かから代明親王が抜けている。

 

というあたりなんですかね…(ううむ)

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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