京都は今、インバウンド需要で大変なことになっている…とニュースがありました。

 

京都市民の怒り爆発寸前? JR嵯峨野線「インバウンド大混雑」、JR西が抜本的対策を採らないワケ(外部)
https://merkmal-biz.jp/post/43808/2

 

ワタクシが最後に京都に行ったのは、2016年。

 

新型ウイルスが国際問題になる前ですね。この時は2泊3日の旅程の初日に立ち寄ったんだよなぁ(翌日と最終日は奈良)

 

一緒に行った人の関係で、観光メインな場所には行かなかったのですが、それでも観光客でにぎわってましたねー。

 

あれからもう7年ですか…早いものです(でもって、令和になってからまだ京都には行ってないんだな…)

 

 

ところで、京都っていっぱい神社仏閣があって、どれが何だっけ??ってなることが多くないですか。

 

特にお寺は、似たような名前が結構あったりして、困惑すること請け合い。

 

ニュースにかこつけて、そこらへんをちょこっとやってみようかな…というネタ企画。

まぁ、半分は自分が見返すメモになったらな…みたいなものですけどもw

 

今日は、平安時代から源平の頃を漁っていると、むむ?っとなる代表格。

 

法性寺法成寺法勝寺法住寺

 

ほっしょうじ、ほうじょうじ、ほうしょうじ、ほうじゅうじ(すでにこれで、ややこしい…)

 

この「法○寺」について、深掘りしてみます。

 

 

先に、4つのお寺について、位置関係を地図でざっくり確認すると、こんなかんじ。

 

 

 

この中で一番古いお寺は、「法性寺(ほっしょうじ)」

 

藤原忠平が平安京の東の洛外に建立したのが、始まりでした。

 

忠平は、宇多天皇から村上天皇にかけての人。菅原道真や、最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂された、そんな頃です。

 

永く朝堂トップの座にありながら、摂政・関白をも務めた人でした。百人一首の詠み人でもありますねー。

 

小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
今ひとたびの みゆき待たなむ


貞信公/百人一首26番・拾遺集 雑秋 1129

 

当時の最高権力者が建てただけあって、その寺域は果てしなく

 

現在で言うと、北は東福寺、南は稲荷山、西は鴨川、東は泉涌寺まで広がっていたそうな(南北だけで東福寺駅-鳥羽街道駅-稲荷駅と3駅分。1.6km…歩いて25分くらいですか)

 

建立は延長2年(924年)。忠平が左大臣に昇進した頃とされています。

 

ちなみに、寺名の由来は、開山となった天台宗13世座主・法性坊尊意(ほっしょうぼう そんい)から。

 

尊意は、菅原道真の尊敬も集めた高僧で、道真の怨霊鎮撫にも功績があったそうな。

 

藤原忠平と菅原道真は、同じ宇多上皇グループで仲が良かったと言われているので、抜擢にはそういう背景もあったんでしょうかね。

 

四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html

 

天暦3年(949年)、忠平が薨去すると、法性寺に葬られたといいます。

 

ちなみに、忠平の父・基経が建立したという「極楽寺」。

 

建立するのに適した地はないかと探していた時、まだ子供だった忠平が「ここです。ここの他に適した地はございません」と基経に告げ、「たしかにその通りだ」と我が息子ながら感心した…という話が歴史物語『大鏡』にあります。

 

でも、そこは「法性寺」ではなく、現在の「宝塔寺」なんだそうな。

それを知った時は「なんだ違うのか…」と思ったものです(なので余談として触れてみましたw)

 

 

閑話休題。その後の法性寺は、藤原摂関家の氏寺として発展を続けていきます。

 

来年の大河ドラマ『光る君』の重要キャスト・藤原道長の時代には、「五大堂」が置かれます。

 

道長は、忠平の曾孫に当たる人物ですねー。

 

 

寛弘3年(1006年)というので、道長40歳ごろのこと。中関白家はすでに没落し、娘の彰子が入内して、まだ皇子は生んでない…そんな頃ですね。

 

さらに時は流れ、大河ドラマ『平清盛』でお馴染み(?)の藤原忠通の時代(道長の来孫)、寺内に「最勝金剛院」が建てられました。

 

久安4年(1148年)というので、平清盛が「祇園社闘乱事件」を起こした翌年(大河ドラマでは「朕を射てみよ!」という鳥羽院のエア射撃で盛り上がった、あの事件←その紹介の仕方も…)で、清盛の弟・家盛が亡くなる前年。

 

ちなみに、忠通は『百人一首』の詠み人の1人ですが、その名称は「法性寺入道前関白太政大臣」。「法性寺入道」なので、法性寺で出家したということですな。

 

わたの原 漕ぎ出でてみれば見れば久方の
くもゐにまがふ沖つ白波


法性寺入道前関白太政大臣/百人一首76番・詞花集 雑 382

 

「最勝金剛院」を建てたのは、忠通の正妻の宗子(中御門流藤原氏)

 

忠通といえば、老境に至るまで男子に恵まれず、それがゆえに「保元の乱」が起きてしまったといっても過言ではないエピソードで知られています。

 

保元の乱 ― 朝廷と摂関家の二重対立(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11247449840.html

 

宗子との間にも男子は生まれませんでしたが、女の子を1人、授かっておりました。

 

彼女の名は聖子。崇徳天皇の中宮となった、皇嘉門院(こうかもんいん)です。

 

崇徳天皇との間には子女は恵まれず、夫が「保元の乱」で配流された後も京に留まっており、27歳年下の異母弟・藤原兼実(九条兼実)を猶子としています。

 

兼実は、摂関家九条流の祖(一条家・二条家・九条家)。『平清盛』と『鎌倉殿の13人』にも登場していましたねー。通称が「後法性寺関白」なので、彼も法性寺で出家しています。

 

聖子は、母が「最勝金剛院」を建てる際の財源にした荘園「最勝金剛院領」を相続しており、これを猶子の兼実に譲渡。

 

以降「最勝金剛院領」は九条家の根本財源となっていったそうです。

 

そして、兼実と言えば浄土宗の祖・法然に帰依したことでも知られる人物。

 

法然が、弟子がやらかしたことがきっかけで後鳥羽院の怒りを買い、法難で流罪に処せられることになった時、兼実は自分の所領を配流先になるように掛け合っており、法然はその旅立ちの前に法性寺に立ち寄って、兼実に挨拶を交わしているそうです。

 

法性寺は、創建当初は「法相宗」(南都六宗の1つ。唯識論の研究学派。興福寺と同じ)、やがて「天台宗」となっていたのですが、現在の法性寺が「浄土宗」に属しているのは、これと何か関係あるんですかね?(もっとも、現在は再興なんですが)

 

鎌倉時代になると、兼実の孫にあたる九条道家が、法性寺の寺内に「東福寺」を建立します。

 

以降、法性寺はどんどん東福寺に吸収されていき、兵火で焼けると再建されないなど衰退して、ついには消滅してしまいました。

 

現在、京都にある法性寺は、明治時代に再興されたものとなっています。

 

 

なぜ道家は、法性寺と競合するような場所を選んで東福寺を建てて、最終的には先祖代々受け継いできた法性寺が失われてしまうような真似をしたのだろうか。

 

その理由はワタクシも分かりませんが、東福寺が現在も「臨済宗東福寺派大本山」として君臨している…というところに、ヒントがあるのかもしれません。

 

つまり、法性寺の創建当初の「法相宗」ではなく、平安貴族のブームだった「天台宗」でもなく、法然の「浄土宗」でもなく、「臨済宗」…禅寺になっているのは何故なんだぜ?ということ。

 

鎌倉3代将軍・実朝が非業の死を遂げた後、4代将軍に立てられたのは、道家の息子・頼経(よりつね)でした。

 

 

当時の鎌倉武士は、「禅」がブーム

 

何故に禅が鎌倉武士たちに支持されたのか…は分かりませんが、座学(経典や哲学)ではなく実践、未来(積善)ではなく現在(懸命)を重視していたのが、大きいのかもしれません。あと、苦行っぽいところも好まれたのかなぁ…とも。

 

ともあれ、頼経が鎌倉武士の頂点に立つ以上、自分の氏寺も、平安貴族らしい天台宗の法性寺から、鎌倉武士らしい禅宗の東福寺にしなければならない…という、配慮とも忖度とも取れるような、政治的な判断がそこにはあったんじゃないかなぁと、ワタクシは思います。

 

しかし、頼経は「宮騒動」を起こして、鎌倉を追放され、道家も失脚してしまうハメになります。

 

鎌倉に配慮して法性寺を棄てたのに、結局は鎌倉にあっさり切られてしまったとしたら…色々な意味で残念ですな(^^;

 

(もしかしたら、二代将軍・頼家が開いた京都の禅寺「建仁寺」の存在もあるのかもしれません…が、そこまではまだ踏み込めてなく…そのうち調べられたら…と宿題・苦笑)

 

 

 

続いては、「法成寺(ほうじょうじ)」

 

こちらは、藤原道長が創建しました。道長を「御堂関白」、道長の子孫を「御堂流」と称する、そのきっかけになった寺院です。

 

寛仁3年(1019年)3月、道長は大病に倒れ、死を覚悟するまでに至りました。

そこで、極楽往生の仏法を日本中に広めるのが今後の自分の役割だと自覚。

 

寛仁4年(1020年)、自邸「土御門殿」に近い、東外れの京外に「無量寿院」を建立(ちなみに、土御門殿のあたりは、今は「京都御所」になっています。ということは、京都御所の東にあった…ということですね)

 

治安2年(1022年)、「金堂五大堂」を建てて落慶法要を行い、この時に「法成寺」と名を改めたそうです。

 

先程紹介した、法性寺に五大堂を築いた16年後のこと。御年56歳。すでに「一家三后」を達成し、3年前に出家もしていた頃になります。

 

万寿4年(1028年)、道長は無量寿院で薨去しますが、つまり法成寺で亡くなった…ということなんでしょうかね。

阿弥陀如来から五色の糸を伸ばして、その端を握りしめ、念仏を唱えながら亡くなったそう。

 

「法成寺」の伽藍も「極楽浄土が現世に表れたよう」と称されているので、法成寺は「浄土教」の寺院だったってことですかね(「浄土"宗"」ではなく「浄土"教"」ね)。

 

未完の聖地と奥州藤原氏(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11333381685.html

 

天喜6年(1058年)、全焼。この年に大極殿も全焼したことから、「康平」へと改元されるきっかけになりました。

 

再建はされたようなのですが、その後も兵火や天災で被災を繰り返し、鎌倉時代には荒廃し果てたみたい。『徒然草』にもその旨が掲載されているそうです。

 

現在は、石碑があるのみとなっています(道長の娘・彰子が寺域内に建てた「東北院」は現在もあります。ただし、2回移転しているので創建当時の場所ではないそうな)

 

 

 

三番手は「法勝寺(ほうしょうじ)」

 

白河の地に立てられた6つの寺「六勝寺」の最大にして最古のお寺です。

白河は、東海道を通り「逢坂」を越えてやってくる人たちが最初に踏み入る、京の東の入り口に当たります。

 

こちらの建立は白河天皇。『平清盛』のモノノケ法皇でお馴染みですな(言い方)

 

創建は承保3年(1076年)なので、白河天皇が即位して3年目、23歳の時のこと。

 

元々は、藤原良房の頃から藤原氏が持っていた別荘・白河第が、寺の前身。

 

承保元年(1074年)、藤原頼通(道長の子。宇治平等院を建てた人)と上東門院(道長の娘。彰子。一条天皇の中宮)が相次いで亡くなったことを受け、時の氏長者・藤原師実(もろざね)が白河天皇に寄進(ちなみに、白河天皇自身は彰子の曾孫。彰子-後朱雀天皇-後三条天皇-白河天皇)。

 

そこで、師実の兄にあたる覚円を初代別当に命じて、法勝寺を建立したというわけ。

 

法勝寺の南庭には高さ80メートルに達する八角九重塔が立っていたそうで、京に入る旅人たちには「院政の象徴」のように見えたことでしょうねー。

 

あの慈円も「国王の氏寺」と呼ぶほど尊崇を受けましたが、院政が衰微していくとともに寺自体も運命を共にし、「応仁の乱」の頃には存在は消え失せていたみたい。

 

現在の岡崎神社から京都市動物園のあたりが跡地に当たるとされています。観覧車とほぼ同じ場所に八角九重塔があったと、発掘調査では判明しているようです。

 

 

このあたりのことは、「六勝寺」とまとめて、あとでまた特集してみたいと思います。

 

※アップしました↓

 

「六勝寺」の歴史(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12811919188.html

 

 

最後は、「法住寺(ほうじゅうじ)」

 

開基は前太政大臣の藤原為光(師輔の子。兼家の異母弟にして道長の叔父。四納言の1人・藤原斉信の父)。

 

寛和元年(985年)、妻と娘の忯子が相次いで死去。

落胆の色を隠せない為光は永延2年(988年)、邸宅を寺に改め、現世の栄達を捨てて念仏三昧の生活を送った…というのが「法住寺」のはじまり。

 

ちなみに、忯子は花山天皇の女御。寵愛深く、彼女を失った悲しみのあまり、花山天皇は退位して出家した(「寛和の変」986年)とまで言われている、そんなきっかけを作った女性です(きっと来年の大河に出ます)

 

ちなみに、「法住寺」が建立された時、為光は政治的には微妙な立場に立たされていて、そこから逃げたかったのではないかな…とも思うのですが、それは来年に機会があったらまた…ということで。

 

長元5年(1032年)、火災によって焼失。その後は再建されることもないまま時が流れて行きます。

 

永暦2年(1161年)、どこをどう経由して法住寺を知ったのか、後白河上皇(すでに二条天皇に譲位済み)が院御所としてこの地を選び、「法住寺殿」と呼ばれるようになります。

 

その後、平清盛が「南殿の北」に「蓮華王院(三十三間堂のアレ)」を建立。さらに建春門院(平滋子)、建礼門院(平徳子)、高倉天皇…と、『平家物語』を彩る人物たち所縁の場所として繁栄を極めて行きます。

 

法住寺といえば、「法住寺合戦」の舞台になった場所。

 

蜜月を築いた後白河院と平家は、やがて対立を深めて行くようになり、「治承三年の政変」で清盛によって後白河院が幽閉され、完全に決別。

 

もしも平重盛が早死にしなかったら~平家滅亡回避話(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12690186883.html

 

「誰か平家を倒して、わしを自由にしてくれんかの」と思っていた所に、木曽義仲がやってきます。

 

日照り続きの飢饉で防衛戦を行う余裕もなかった平家は、「都落ち」を選んで、木曽義仲は不戦勝で入京を果たしました。

 

大夫坊覚明の誤算と限界(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11328997031.html

 

乱世の温度(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12784080948.html

 

願い通りの救世主に助けられた…と思った後白河院ですが、安徳天皇が平家に連れ去られた、その後を「北陸宮」にせよという、越権行為を働いた田舎者の木曽義仲と対立。

 

義仲に期待していた京中の治安回復も全く役目を果たせないばかりか悪化の一途で、後白河院の信用はもはやゼロ。

 

「何をしておる。早く平家を追討せよ!」と、京から追い出すように義仲を西国へ派遣するや否や、東国の頼朝に「上洛して食糧事情を何とかせよ」と指示しました。

 

この動き、鎌倉軍に木曽軍の駆逐をさせようという魂胆が見え見え…。

激怒した義仲は急遽、とんぼ返りして帰京を果たすと、後白河院が籠る法住寺殿への攻撃に打って出ました(「法住寺合戦」1183年)

 

官軍の総大将は、平知康…もはや義仲の敵ではなく、後白河院の防衛軍はボッコボコ。明雲などのキーパーソンも斬られ、後白河院は捕えられて幽閉。

 

法住寺も灰燼と帰してしまったのでした。

 

その後、頼朝たちの尽力によって義仲と平家は滅亡。

後白河院は、「長講堂」に居を移すことになります。

 

建久3年(1192年)、後白河院が崩御。

御陵には、後白河院の所縁が深い、法住寺殿跡地が選ばれました。

 

天皇陵が営まれた関係もあって、法住寺は歴代天皇家に守られ、明治になると宮内庁の管轄に入って、現在に至っています(三十三間堂があることからもお馴染みですな)

 

 

なんか思ってた以上に長くなってしまいましたが、以上ここまで。

 

伝わりますかね(汗)と不安なので、ちょこっとまとめておきますね…

 

  • 法性寺(ほっしょうじ)
    藤原忠平(貞信公)が創建。道長、忠通、兼実らに受け継がれたが、道家が建てた禅寺・東福寺に吸収される形で消滅。現在は東福寺のほかに、法性寺も尼寺として再興されている。
  • 法成寺(ほうじょうじ)
    藤原道長が創建。土御門殿の東の郊外(ということは京都御所の東)にあった。度重なる被災で鎌倉時代頃に消滅。現存せず。
  • 法勝寺(ほうしょうじ)
    白河天皇が、藤原氏の別荘「白河第」の寄進を受けて寺に改めたもの。「六勝寺」の1つ。巨大な「八角九重塔」が建っていた。院政の衰退とともに消滅。現在の岡崎神社から京都市動物園のあたり。現存せず。
  • 法住寺(ほうじゅうじ)
    藤原為光が妻と娘の菩提を弔うため創建。火災で焼失した後、後白河院が院御所としてこの地に寺を建てる。「法住寺合戦」で焼失したが、天皇陵や蓮華王院(三十三間堂)など、現在もいくつか残っている。

 

旅にかこつけてやってみたけど、ほとんど現存していない…旅と関係なくなってるのは、御愛嬌ということで(笑)

 

 

【関連】

 

神社仏閣の歴史シリーズ