大河ドラマ『光る君へ』第8話「招かれざる者」では、盗賊団がお勤めに入った「東三条第」で逮捕されてしまいました。
散楽一座の一員で、盗賊団の一味でもあり、まひろパートと道長パートの間を行ったり来たりしながらストーリーをグリグリ動かしていた直秀が、絶体絶命のピンチ。
直秀@毎熊克哉さん
大河ドラマ『光る君へ』より⇒★
「現行犯逮捕」なので、助かる見込みはかなりキビシイ。SNSでも「直秀は来週で出番終了かな…」なんて見方もチラホラ。
歴史上の人物ではなくドラマのオリジナルキャラクターですからね…いつまで出番があるのかは、制作陣でないと分かりません。
ドラマ的に直秀の役割が「まひろと道長の曖昧な関係をぐるぐる回す」だったので、そろっと役目を終えても仕方がないかな、とも思えて(というか、直秀が退場しないと「越前下向」セクションに移行しづらい気がします)
まだ大どんでん返しがあるかもしれませんが、次回で終わりという可能性は否定できないかもしれませんねー。
『光る君へ』視聴者の間では、「直秀の正体って何者?」という素性探しが関心事の1つにもなっていました。
ワタクシも、最初は「狂言回しのためのオリジナルキャラなんでしょ」と思っておりました。
ところが、第3話「謎の男」は、まひろにとっての三郎と見せかけて、真の「謎の男」はコイツだったのか!と、サブタイトルを背負っていたことに驚き。
第7話「おかしきことこそ」では、貴族でなければ経験したことなさそうな「打毬」をこなして大活躍。さらに、公任・斉信や赤染衛門をしても「公達は偽装で本当は一般市民」であることがバレないカンペキな佇まいを見せました。
第8話では「丹後」「播磨」「筑紫」と、豊かそうな地方への引っ越し歴があることが判明。
そして、初登場から終始、藤原摂関家に因縁ありそうな言動をたびたび繰り返しておりました。
何やら、ただの芸能人、ただの盗賊ではなさそうな雰囲気の直秀…。
これだけ描写しておいて「ドラマ上必要だった、ただのオリキャラでした」で退場なんて、あり得るのだろうか?
まぁ、あり得るかもしれないけれども(笑)、ただ、彼には「もしかしたら正体は"あの人"じゃない…?」と、SNSでしきりに予想されている「候補者」がおりまして。
この予想が的中しているとしたら、今後も登場し続ける可能性が、あったりするんです。
それが、今回のタイトルにもしている「藤原保昌(ふじわら の やすまさ)」
天徳2年(958年)生まれ(ということは、道長の8歳年上)で、長元9年(1036年)までの活躍が確認できる実在の人物(ちなみに、紫式部の没年は不明ながら、早ければ1016年あたり、遅くても1031年と言われています。道長は1028年没)
「道長四天王」の1人に数えられ、当時は知る人ぞ知る武名を轟かせた「京武者」でした。
まだ直秀が退場するとは決まったわけではありませんが、もしも退場してしまったら紹介する機会を逸してしまいそうなので(笑)、今日は彼についての歴史語りを、やらかしてみようと思います。
まだ出番があったとしても、あるいは彼が保昌ではないことが明白になったとしても、保昌を紹介するのは有意義ではあるでしょう!……と信じている。
今後、もしかしたら(直秀とは関係なく?)「本物の保昌」が登場するかもしれませんしねー。
そもそも、なぜ「直秀=保昌なのでは?」と歴史クラスタの間で噂されているのかというと、散楽の座長の名前が「輔保」であることから始まっています。
輔保@松本実さん
大河ドラマ『光る君へ』より⇒★
ちょうど『光る君へ』の頃の平安時代、「藤原保輔(やすすけ)」という大盗賊が実在しておりました。
この保輔、実は藤原保昌の弟。
最後は指名手配で追い詰められて包囲され、自ら刀で腹を切って獄中で果ててしまうのですが(「日本史上初の切腹」と言われています)、座長の名前を逆さまにすると「保輔」になるのが、なんとも意味深でアヤシイ。
さらにドラマが進むにつれて散楽一座の正体が「盗賊だった」ことが明らかになって、輔保と保輔に「共通点」ができたことで、さらに界隈がざわついたというわけ。
ただし座長が保輔だったとしても、直秀が保昌となるには、かなりの演出とひねりが必要になりますが、それでも「藤原道兼は紫式部の親の仇」をやった脚本家だったらやり抜けそう(笑)
直秀が保昌の若き日の姿だとしたら、今大河ドラマで語られているストーリーは、後に「道長四天王」に数えられる保昌と道長の「主従のアツい出会いエピソード」となる…という期待が込められているわけです。
そんな、藤原保昌の名を知らしめている平安時代の物語の1つに「袴垂伝承」があります。
とある秋の朧月の夜、1人で笛を吹きながら、歩いてゆく者がおりました。
それを見つけた大盗賊「袴垂(はかまだれ)」が、その者の身ぐるみを奪い取ろうと後を追うのですが、タダモノならぬ気配を怖れて襲い掛かることができませんでした。
その威厳ある笛吹きの武者こそが、「藤原保昌」。
ついに手も足も出せなかった袴垂は、保昌の邸に連れ込まれると、衣を与えられて「二度と追い剥ぎをするな」と厳命され、慌てて逃げ帰ることになったのでした…というお話。
肝が据わっていて腕っぷしが強くて足も速くて頭も切れる袴垂が、指一本触れることもできなかった「剛の者」、それが保昌だったというわけ。
そして、この「袴垂」は「保輔」と同一人物とされる向きがあります。
大盗賊の袴垂と、それを退けた保昌。
盗賊だった保輔と、その兄の保昌。
保昌を通じて2人は混同されていき、やがて同一視されるようになったらしいです。
おかげで、実の兄弟なのに互いの顔も知らずにやり合っているのは、どういう辻褄なのか、よく分からないことになっているのですが、もしも散楽の座長「輔保」が「保輔」とするなら、「袴垂」であることは、特に不都合がありません。
「保輔を抑え込んだ保昌」という構図が、何らかの形で輔保と直秀に使われるのではないかという推測が「直秀=藤原保昌」説の骨子ということになりますかねー。
ところで、直秀といえば「藤原摂関家に因縁のありそうな言動」が特徴的でした。
参加している散楽も、藤原摂関家を揶揄する内容で、物言いたげなかんじ。
そんな直秀を、「道長四天王」の1人に数えられる藤原保昌と同一視するのは無理筋では??…となってしまいそうなのですが。
実はあるんです。保昌にも、藤原摂関家に恨みを持っていてもおかしくなさそうな「ウラ事情」が。
それは、「広平親王」という人物の存在でした。
保昌の祖父・元方(もとかた)は、娘の祐姫を村上天皇の後宮に入れておりました。
天暦4年(950年)、祐姫は村上天皇の第1皇子・広平親王を出産。
広平親王は、保昌から見ると従兄弟の関係となります。
このまま行けば、広平親王が皇太子を経て次期天皇となり、元方たち藤原南家は、外戚として繁栄を極めることになるはずでした。
しかし、広平親王が生まれた同じ天暦4年(950年)、藤原師輔(道長の祖父)の娘である安子が、第2皇子・憲平親王を出産。
藤原北家の本流となりつつあった九条流と、藤原南家とでは、政治権力も後ろ盾となる財力も勝負になりません…。
藤原北家の氏長者・実頼(師輔の兄)と、師輔、安子の3人は秘密裏に村上天皇と談合。
憲平親王は兄・広平親王を差し置き、生後わずかにして、村上天皇の皇太子に立てられたのでした(後の冷泉天皇)
もぎ取れると思った皇位の座をあっさり持っていかれて、元方は失意のどん底…。広平親王誕生から3年後の天暦7年(953年)。元方は深い無念から得た病により、66歳で薨去してしまいます。
広平親王も天禄2年(971年)に22歳で薨去。
元方と広平親王は皇位から外された恨みで怨霊となり、冷泉天皇や花山天皇(冷泉天皇の子)、三条天皇(同じく冷泉天皇の子)の狂気や病の原因になったと言われています。
このあたりは野村萬斎さん版の映画『陰陽師』の題材にもなっていたりするので、ご存知の方も多いのかもしれませんが、その元方が保昌の祖父だというのは、結構マイナーな話ではないかな。
元方と広平親王が怨霊となって祟ったことで、一門の恨みが晴れていたから、保昌は道長四天王に収まったとも言えそうですが、三条天皇にも及んでいるということは、あの歴史はまだ忘れていない!ということにもなりそう?(三条天皇に及んでいるのは「怨霊を利用した人=道長」の性格が悪い表れ…ってだけだと、ワタクシは思いますがw)
ちなみに、源高明が失脚した「安和の変」(969年)は、村上天皇の第4皇子・為平親王と、第7皇子・守平親王(後の円融天皇)の皇位継承をめぐる政変。
その20年も前に、村上天皇の別の皇子が後継者争いに巻き込まれ、そして望みを失っていたんですなー。
というわけで、SNS上で「直秀の正体では」と囁かれているのをいいことに(笑)、藤原保昌のことについて語ってみました…が。
これだけやっといて何ですが、直秀=藤原保昌が成り立つ望みは、かなり薄いな…と、ワタクシは思っています。
脚本家の大石静さんが「反貴族の目線を持った一般平民がいてもいい。そのためのオリジナルキャラ」とインタビューに答えている(じゃあ、あの「元貴族」っぽい設定は何なんだよ??って思いますが…)のもありますが。
それよりもドラマを見ていて気になるのは、もしも直秀を「後の藤原保昌」とするのなら、その疑惑の発端となっている座長「輔保」の存在感が無さ過ぎて…。
輔保をもっと反藤原にして、直秀が絡んで…というようにしないと、名前を受け継ぐようなイベントが発生しないからです。
それに、広平親王や元方のことを明らかにしないと、藤原摂関家への因縁を説明できません。これから2人の歴史を説明しちゃうと、だいぶ時間がダブつきますよね。「安和の変」のように散楽で演じさせておくか、師貞親王のうつけぶりに「もしかしたら祟り?」と名前を出しておくのがベストだったかな。
あと、直秀が語っていた「丹後、播磨、筑紫に住んだことがある」の過去を、広平親王、元方、致忠(保輔と保昌の父)、保昌いずれともかぶせることができず…。
そして、これは余談で触れますが、保昌は和泉式部の夫でもあるんです。直秀=保昌でやるんだったら、序盤で和泉式部も出しておくのがドラマ的セオリーかな…という気がします(それこそ、ききょう(清少納言)が登場していたポジションに和泉式部を置いていたかなーと)。
丹後、播磨、筑紫も、実在の誰かを仄めかしているのではなく、まひろに海を想像させるための、単に「海がある豊かな国」を列挙させただけなのかも。
やっぱり、大きく見積もって解釈しても「藤原氏に軽んじられ因縁を持った元貴族だった」という背景を持つだけの、完全なるただのオリジナルキャラクターに過ぎないのかなぁ…というのが、いまの直秀の印象になっています…が、本編ではどう暴かれますかね(実在の誰かであれば、一番面白いし盛り上がるんですけどね)
以下、余談。
せっかく系図を持ちだしたので、その中の解説もしておこうかな…とw
藤原南家は、奈良時代に藤原仲麻呂が叛乱を起こしたことで、一度は凋落してしまった一族。保昌の直接の祖先である巨勢麻呂も、乱に加担した罪で処刑されています。
その後、名誉と家運を回復させながら次第に勢力を取り戻していく一方、学者として稼業を立てる人も現れていきます。
保昌の曾祖父にあたる菅根(すがね。巨勢麻呂-黒麻呂-春継-良尚-菅根)は、従四位上参議の議政官にまで昇った人物ですが、有力な文章博士でもありました。
そんな菅根の師匠は、菅原道真。道真の勘申によって出世を重ねたことも、議政官にまで上がれた1つの要因。
しかし、菅原道真が左遷されることになると、反対するどころか、それを改めようと乗り込んできた宇多上皇を門前で阻止するなど、積極的に加担。師匠で恩人でもある道真を裏切るような行動に出ています。
延喜8年(908年)、正月に参議に任じられたその年の10月7日、雷の直撃を喰らって卒去。53歳。
この亡くなり方は「道真公の祟りでは…」と噂され、「道真の祟りで亡くなった人リスト」のエントリーナンバー2になっています(何)
四十年サイズの怨念服(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12788776757.html
菅根の娘・淑姫は、醍醐天皇の更衣となり、兼明親王を産んでいます。
兼明親王は、臣籍降下して醍醐源氏となり、博学多才で鳴らした「中書王」。
左大臣にまで昇って「御子左大臣」とも呼ばれ…しかし、藤原兼通の陰謀によって皇籍に戻され、左大臣の座を追われた人物。
以前にも、息子の伊陟について語ったついでに、紹介したことがありました(というか、ほぼ兼明親王の紹介になっていたという…)
花山朝「陣の定」群像語り(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12841402045.html
菅根の息子・元方もまた17歳にして文章得業生となり、学者の道を進んだ人。
醍醐天皇の皇太子・寛明親王の東宮学士を務め、教え子が即位して朱雀天皇となると議政官に上がり、中納言に昇進して村上朝を迎えます。
娘の祐姫が村上天皇の更衣となり、第1皇子・広平親王を産んで…のあたりは、本題で触れたとおり。
元方の息子たちは、学者にはならなかった(なれなかった?)みたい。
最も成功したのは懐忠(かねただ)。一条天皇の時代に参議となって議政官に昇るので、『光る君』にも登場するはず…。
懐忠の子孫には、『百人一首』72番歌の詠み人「祐子内親王家紀伊」もおります(ただし、女系。懐忠-令尹-懐尹-女-紀伊)
陳忠(のぶただ)は、名前を聞いたこともないマイナーそうな人物ですが、とあるエピソードでもしかしたら知られているかもしれない。
それは『今昔物語』の「信濃守藤原陳忠落入御坂語」で語られているもの。
かいつまんで紹介すると、陳忠が「信濃守」の任期を終えて帰京している道中、馬が橋を踏み外して谷に落ちてしまうのですが、落ちた場所には、みっしりとヒラタケが生えていて、それをごっそり持ち帰った…というお話。
「転んだところの土をも掴む」という、転んでもタダでは起きない受領の貪欲さを表しているお話。おかげで、陳忠は「強欲な受領」の象徴的人物となってしまっています(^^;
なお、陳忠が信濃守になったのは天元5年(982年)なので、任期を終えて帰京するのは、ちょうど『光る君へ』第8話(986年)あたりの出来事となるかもしれませんな。
致忠(むねただ)は、保昌・保輔の父。議政官には上がれませんでしたが、薫物(たきもの。よく分からんのですが、TPOに応じた香料を調合すること…らしい?)の名手と言われています。
花山朝の頃は「右京大夫(江戸時代の京都所司代=町奉行の京都版みたいな…?)」を務めておりましたが、盗賊である息子(保輔)が起こした傷害致死事件で捕えられて、佐渡に流されてしまいました…。
そして、今回のメインテーマだった保昌は、致忠の息子。円融上皇の判官代。藤原道長・頼通父子の家司も務めていました。
「道長四天王」に数えられている…というのは、本編でも触れた通り。
他の3人は、源頼信(みなもと の よりのぶ)・平維衡(たいら の これひら)・平致頼(たいら の むねより)で、源頼信は保昌の姉妹の子(つまり甥っ子)の関係です。
頼信は、河内源氏の祖となる人。河内源氏と言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝が著名ですが、その直接の先祖にあたります(頼信-頼義-義家-義親-為義-義朝-頼朝)
頼信の子・頼義が「前九年の役」(1051年~1062年)のキーパーソン。
頼信の孫・義家が「後三年の役」(1083年~1087年)のキーパーソン。
骨肉の争いばっかりやって、『平清盛』で見たような落ちぶれた存在になった河内源氏は、義家の子たちの時代以降のお話。
平安時代最凶の悪役(参考)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11278103943.html
『光る君へ』の頃は目立った内紛は起こしておらず、まだ力のある軍事貴族と呼ばれる存在でした。
頼信自身は「平忠常の乱」(1028年)のキーパーソン。
朝廷軍は中々決定打が打てず、3年も長引いてしまったところを頼信に鎮圧の命令が下り、下向。あっという間に鎮圧して、武名を轟かせることに成功しました。
系図で見てみよう(清和源氏/河内源氏)(関連)
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11233863885.html
とはいえ「平忠常の乱」は勃発した年がちょうど道長の没年なので(鎮圧は没後3年)、『光る君へ』では取り扱われないでしょうね…。
話を保昌に戻して…。
彼は寛仁4年(1020年。後一条天皇の御世)の頃に丹後守に任ぜられて、妻となっていた和泉式部とともに、丹後へ下っています。
こうして和泉式部が丹後に移住していた時、京に残っていた和泉式部の娘・小式部内侍(こしきぶのないし。なお、父は保昌ではなく前夫の橘道貞)が、歌合に出席することになりました。
小式部内侍は優れた歌詠みだったのですが、「母が代筆しているのでは」という噂があったみたい。
そこで、四条中納言(藤原定頼。公任の息子)が「早くお母さんの所に使者を送らないとですね」とからかって声をかけたところ(父・公任に似て失言キングですな…笑)、小式部内侍が即興で返した和歌が、『百人一首』60番歌に採られています。
大江山 いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず あまの橋立
小式部内侍/金葉集 雑 550
[丹後の大江山へ続く生野の道が遠くて、母のいる天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ来ていないんですよ]
「行く野」と「生野」、「踏み」と「文」の掛詞を巧みに使用した和歌。当意即妙で返した小式部内侍は、歌人として名声が高まったといわれています。
(そして、これに返歌するのがマナーでしたが、定頼は狼狽のあまり立ち去ってしまい、恥をかいた…というw)
ともあれ、小式部内侍の和歌の背景には、今回取り上げた保昌がいたのですよ…ということで。
(四天王の他の2人、平維衡と平致頼については、いずれまた…近い内に機会が来る予感がしますw)
【関連】
大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12837757226.html