大河ドラマ『光る君へ』第1回「約束の月」を見ていた時。

 

思わず「ふふっ」となってしまったシーンがいくつも散りばめられていて楽しかったのですが、ワタクシ的その中の1つとして「散楽一座の公演」シーンがありました。

 


2024年大河ドラマ『光る君へ』公式サイト「第1回相関図」より→

 

散楽一座の公演は前もって告知されていて、三郎(幼少期の道長)はそれを楽しみにしていました。

 

やがてその時刻が近づき、三郎が見に行くと、4人の演者が派手なチャンバラを始めます。

 

「コウメイよ、これでトドメだ!」兼太・兼次・兼三の三兄弟がチャンバラの末、コウメイを撃退。

 

「これで我々トウの一族をおびやかすものはなくなった!」

 

「ハッハッハ!」と勝利の勝鬨を上げている最中…兼太が奇怪な動きをした末に、ぶっ倒れてしまいます。

 

「兼太、如何した?」

 

不自然な動きで、むくりと起き上がる兼太。

しかし、吐き出した言葉は兼太のものではありませんでした。

 

「この恨み、晴らさずにおくものかー!」

 

「「コウメイの大殿!?」」驚く2人。直後、兼次も苦しげな動きをした後、ぶっ倒れます。

 

「ひえぇ~」と兼三が逃げ出すと、コウメイはしつこく追いかけまわし、ぐるぐるぐるぐる…

 

「ハイ、今日はここまで!」と座頭が宣言し、劇終。

 

 

…というシーン。

 

劇中で、それが何を題材としていたのか言及はなかったのですが。

 

「散楽を見に行きたい」という三郎に対して、従者の百舌彦が「やめましょうよー。あれは藤原の悪口ですよー」と渋っていた…。

 

それを踏まえると、あれは「安和の変」のことをやっていたんだな…と分かってしまって、思わず「ふふっ」となりました(笑)

 

「黒く(969)ほほえむアンナの変(安和2年=969年)」ですね…ワタクシは「クロック!クロック!アンナクロック!」と覚えていますが(語呂は勢いよ)

 

撃退されて祟ったコウメイは「源高明」で、トウの一族の兼太・兼次・兼三ら三兄弟は「藤原伊尹・兼通・兼家」の藤原三兄弟ということですねー。

 

第1話のあの時点、貞元2年(977年)で、伊尹と兼通は故人。倒れた兼太・兼次と符合します。

 

追いかけまわされていた兼三=兼家は存命なので、これも符合。ちなみに、兼家はこの人ですねw

 


藤原兼家@段田安則さん
2024年大河ドラマ『光る君へ』より

 

ただ、源高明は大宰府に左遷となっただけで、実際には死に追い込まれていないので、「倒される→甦る(?)→祟る」の流れは、だいぶ盛ってるなーという印象(971年に赦免、983年没なので、実は第1話終了時点でも京都在住で存命中

 

まぁ、そこが散楽一座の逃げ道(もし見つかっても「いやいや、『安和の変』とは全然違うじゃないですか!コウメイ死んでますし!」と言い訳するための)だったのかもしれないですが…w

 

 

「安和の変」ってどんな出来事?というと、サイト検索したり本で調べたりすると、大体このような説明が返ってきます。

 

  1. 平安中期の政変。ターゲットは醍醐源氏で当時左大臣の高明。
  2. 高明は冷泉天皇の同母弟・為平親王の舅で、為平親王の立太子を望んだとして謀反の罪をかぶせられ大宰府に左遷となった。
  3. 首謀者は藤原氏。藤原氏による最後の他氏排斥事件。

 

 

まぁ、およそこの通りなんでしょうけど、そうしちゃうとブログネタにならないので(笑)、あえて深掘りしてみて…。

 

『光る君へ』の第1話とどう繋がっているのかチェックしてみませう…というのが、本日のテーマとなります。

 

 

伊尹・兼通・兼家の三兄弟が栄達できたのは、同母姉妹に当たる安子村上天皇に入内し、皇太子の憲平親王をもうけたから。

 

憲平親王は康保4年(967年)即位して冷泉天皇となり、三兄弟は「天皇の外戚」という強力な足がかりを得ることができました。

 

これなくして、彼らの躍進はあり得ない。安子は藤原氏にとって「勝利と繁栄の女神」でした。

 

もちろん安子は実の兄弟たちの後ろ盾として懸命に働いたでしょうけど、他にも目をかけていた者がおりました。

 

それが、源高明。

 

高明は延喜14年(914年)生まれの、醍醐天皇の第十皇子。安子の夫である村上天皇(926年生)にとって12歳年上の異母兄です。

 

幼少期、源氏の姓を賜って臣籍降下(醍醐源氏)。以後、秀才として能吏の道を歩んでいったようです。

 

母は更衣・源周子(嵯峨源氏)。同母姉に勤子内親王と雅子内親王がいて、実はどちらも藤原師輔(安子や伊尹たちの父)に嫁いでいます。

 

さらに、師輔の娘(安子の妹)も2人、高明に嫁いでいて、師輔と高明は二重の婚姻関係が結ばれており、この関係から、高明は師輔の庇護下に入っていたことは明らか。

 

天徳2年(958年) 、高明は中宮大夫(中宮・安子に仕える役所の長官)に任ぜられて、安子の側近となりました。

 

この縁もあって、天徳4年(960年)に師輔が若くして薨去すると、高明の後ろ盾としての役目は、安子が担っていきました。

 

こうやって見ると、高明は師輔ファミリーの一員

 

応和4年(964年)に安子が崩御してしまい、最大の理解者を2人も失ってしまった高明は孤立し、藤原家と関係を悪化させることになりました…というけれど、「安和の変」までエスカレートするもんなのかなと、思ってしまいますなー。

 

 

 

安子と村上天皇の没後、即位した冷泉天皇は病弱で精神異常を発していたので「治世は長くない」と、貴族たちみんな思っていたみたい。

 

ゆえに後継者を早急に決める必要があったのですが、即位時(967年)に生まれていた冷泉帝の子女は、宗子内親王(964年生)と尊子内親王(966年生)の2人の女の子だけで、男の子はいませんでした。

 

「ならば皇太弟を立てるしかあるまい」

 

母后・安子は憲平親王(冷泉天皇)のほかに、為平親王(952年生)守平親王(959年生)の2人の皇子をもうけていました。

 

順当に選ぶなら、兄宮の為平親王が最有力。しかし、弟宮・守平親王が皇太弟に選ばれることになります(後の円融天皇)

 

同母兄弟だから後ろ盾などの条件は同じはずなのに、何故…?というと、為平親王には高明の娘が嫁いでいるという事情がありました。

 

一般的に言われているのは、「もし為平親王を皇太弟とすると、即位した時に高明が外戚として権力を握ってしまう…これを怖れた藤原氏が、それを阻止した」というもの。

 

ですが、その後の歴史を見ると、権力者・伊尹は、頑張って皇位継承者にしたはずの円融天皇に娘を入内させた形跡がなく、どうも貴族たちの総意は「円融は冷泉に皇子が生まれ成長するまでの一代限りの中継ぎ」だった?とも言われます。

 

「皇太弟は中継ぎ」という前提に立つと、「すぐに男子をもうけるかもしれない既婚の為平親王では、中継ぎには相応しくない」という見方がなされ、ゆえに未婚の守平親王が立太子された…となるわけ。

 

果たして、どちらが正解に近いのだろうか。

 

 

それを考える時、村上天皇崩御~冷泉天皇即位の前後に、奇妙なことが2つ起きていて、そこにヒントがあるかもしれません。

 

1つ目は、兼通から兼家への「蔵人頭」の交替

 

蔵人頭は「天皇の筆頭秘書官」的存在なので、皇位が変わると蔵人頭も辞任するのが慣わしですが、新帝によって引き続き再任されるのが通例でした。

 

しかし、村上天皇の蔵人頭だった兼通は、冷泉天皇の御世では続投を求められず、「解任」となってしまいます。

 

同じく蔵人頭だった藤原済時(小一条流)が、引き続き蔵人頭を任ぜられているのを見ると、何かしらの事情があったんだろうと思わざるを得ません。

 

替わって蔵人頭に任命されたのが、弟の兼家。

 

ぶっちゃけ、これは伊尹が兼通を遠ざけ、代わって兼家を登用したと見て間違いないと思います。

 

では、何故に兼通は弟に地位を奪われる「冷遇」のような憂き目に遭ってしまったのだろうか。

 

 

そこで検証したいのが、奇妙なことの2つ目、為平親王の結婚のこと。

 

為平親王は先述のように高明の娘と結婚。

村上天皇が崩御する前年、康保3年11月25日(966年)に、内裏で行われました

 

これが、とても奇妙なこと。内裏で嫁を迎えられるのは、天皇か東宮だけに限られるからです。

天皇でも皇太子でもない為平親王が内裏で嫁娶するのは異例中の異例なことでした。

 

村上天皇が了解していたからできたことなのですが、何故にそんな「異例」を「了解」したのだろうか…と考えてみると。

 

もしかしたら、黙認ではなく「『冷泉天皇の皇太弟は為平親王』という村上天皇の意思の表れ」ではないかと解釈することができます。

 

為平親王が結婚した年(966年)は、冷泉天皇の第二皇女・尊子内親王が産まれた年。

「2人目の子が男の子ならよし。そうでなければ、諦めて皇太弟を立てよう」と村上天皇が考えていて、それを実行に移した…のかもしれません。

 

「為平こそが次の皇太弟(そう遠くない将来の天皇)」と村上天皇が考えていたとするなら、年齢的にも地位的にも充実した52歳右大臣の高明を舅に迎え、後ろ盾になってもらうつもりだった…というのも、何ら不自然ではありません。

 

高明は師輔ファミリーだと安子を通じて認識していたでしょうから、「藤原氏の了解も得やすいだろう」という計算も働いたのだと思います。

 

 

そして、先述した通り兼通は村上天皇の「蔵人頭」ですが、その前は安子が崩御するまで「中宮亮」を務めてしておりました。

 

中宮亮は、中宮に仕える役所の次官。ではこの時の長官・中宮大夫は誰…?というと、安子の段でも紹介した通り、源高明でした。

 

兼通と高明は、任命されてから(958年)安子が崩御する(964年)までの間、上司と部下という、とても親しい間柄でもあったわけです。

 

「冷泉天皇の次は為平親王で、その後ろ盾として源高明を迎える」

 

村上天皇のこの意思を、兼通は蔵人頭として共有し、かつて上司部下で親しく、また師輔ファミリーとしてミウチ意識もあった高明が後見人になることに、賛意を示していたのかも…?

 

 

一方の伊尹は、冷泉天皇に娘の懐子(ちかこ)を入内させていて、皇子の誕生を待ち望んでいました。

 

冷泉天皇の第一皇子となる師貞親王(後の花山天皇)は、皇太弟問題のあった翌年(968年)の生まれ。ということは、冷泉天皇が即位したあたりで「娘が冷泉天皇の子を身ごもっている」ことを知っていたかもしれません。

 

伊尹には時間稼ぎが必要。冷泉天皇の次が「中継ぎ」であるなら、未婚で幼少の守平親王のほうが、都合がいいことになります。

 

冷泉天皇即位後の「兼通から兼家への蔵人頭の交替」は、そんな「守平親王立坊」派の伊尹「兼通は為平親王のグループ」と見なされた結果なのではなかろうか。

 

「兼通は頼りに出来ない…ならば、兼家を引き上げておくか」

 

こうして兼家は抜擢され、伊尹の意のままに動く汚れ役を買って行くようになったと思われます。

 

伊尹に引きたてられた兼家は、参議を経ないで中納言になるという、異例の昇進を遂げ、さらに守平親王の春宮権亮(皇太子の秘書官)も兼任。

 

病弱な天皇と幼少の春宮(8歳)、判断力の乏しい2人の王者両方の秘書官を兼ねたわけで、絶大な権力を手に入れることになりました。

 

これは「守平親王立坊」と「安和の変」に多大な寄与を果たした功労人事だっただろう…とされています。

 

一方の兼通は伊尹政権では昇進が停滞。「守平親王立坊」と「安和の変」に関与しなかったから…なんですかね?

 

この待遇の差が、兼通と兼家を険悪な関係にさせたと言われています。

 

 

伊尹らの強引な手腕によって引き起こされた「兄宮を差し置いて弟宮が立太子」という守平親王立坊は、政界に大きな動揺を呼び込んだことは想像に難くありません。

 

冷泉天皇即位・守平親王立坊の2年後の安和2年3月(969年)、この不穏な空気を吹き飛ばすべく、「源高明失脚」が仕掛けられ、「安和の変」が勃発。

 

高明は諦め切ったかのように大人しく従って大宰府へ身を移し、それから5ヶ月後の8月には、冷泉天皇が守平親王に譲位。円融天皇の御世となり、『光る君へ』第1話の冒頭へと繋がっていくことになりました。

 

「安和の変」は、源高明だけでなく、兼通も不遇の渦中に陥れていた…となると。

 

散楽一座がやっていた「コウメイに祟られて死んでしまう兼太(伊尹)と兼次(兼通)」は、「兼次は違ったんじゃない?」となるかな…と思うのですが、どうでしょうかねー。

 

 

冷泉朝初期の政局で、兄・兼通に勝利した兼家。

 

しかし、伊尹に近づき過ぎた兼家は、視野を狭めてしまったきらいがあります。

 

「冷泉皇統が正統」と見ていた伊尹の皇統観の影響を受け過ぎたのか、「円融皇統」を「どうせ中継ぎだし…」と軽んじてしまったようなのです。

 

兼家は娘の超子(とおこ)を冷泉天皇に入れ、居貞親王(後の三条天皇)・為尊親王・敦道親王の3皇子をもうけ、大切に庇護していた一方、円融天皇には娘を入内させないでいました。

 

天禄3年(972年)、円融天皇の摂政を務めていた伊尹が病死すると、次の関白の座を巡って兼通と兼家が熾烈な兄弟喧嘩を始めてしまいます。

 

「俺は守平親王立坊に尽力した功労者だ!兄者は為平親王の側だったじゃないか!」

「俺は中宮亮として為平親王も守平親王も大切に庇護していた忠臣だぞ!お前みたいに誰かを蹴落とすことでしか居場所を得られない匹夫とは違うわ!」

 

12歳の少年(円融天皇)の目の前で、いい年したオジサン2人(兼通47歳vs兼家43歳)が激しく口論すると言う、目を覆いたくなるような惨状(本当にな)

 

政治闘争を制して選ばれたのは兼通でした。

一説には、兼通が安子(円融の生母)の「次は兼通に」という遺言書を持っていて決定打となったといわれています。

 

その後、関白となった兼通は、兼家を徹底的に冷遇。これは兼通が亡くなる貞元年(977年…『光る君へ』第1話の直前)まで続くことになってしまいました。

 

兼通による兼家への憎悪が、この状況をもたらした…と言われているけれども、私怨だけでこれが成し遂げられるはずがありません。

 

「自分を中継ぎとして軽んじている兼家」に円融天皇が冷淡であり、冷泉天皇の皇子を3人も抱える「冷泉皇統尊重論者」を廷臣たちが警戒した、それが現れた結果でもあったのではなかろうか。

 

円融天皇は、兼通や敦忠(小野宮流…公任の父)らと提携して、「円融皇統」の構築に邁進。

そこにいる兼家は、かつての冷泉朝~円融朝初期の伊尹政権時代でのような輝きはなく、だいぶ影が薄くなっていました。

 

冷泉皇統重視から視野を広げられなかった兼家は、時代に乗り遅れてしまったのでした。

 

円融天皇が兼家と距離を取っているような風情は兼通の死後も続き、詮子を入内させて皇子をもうけるまでは対応しましたが、中宮には詮子を選ばず、内裏が火災に遭った際も兼家の邸宅には逃れずに故・兼通の邸を里内裏とするなど、意地の張り合いのような疎遠さが続いて行きます。

 

兼家が天皇家と順調な連携関係になるのは、円融天皇と詮子の間の子・懐仁親王が一条天皇として即位する、寛和2年(986年)あたりなってから。

 

守平親王立坊から19年。伊尹が亡くなってから14年。

 

ずっと近道を駆けているように思っていたのに、振り返れば随分と遠回りになってしまっていた…。

 

それは、あの「守平親王立坊」と「安和の変」によって自分の立ち位置が決まった…高明を追いやった所にあったのは、地位の座ではなく実は落とし穴であり、兼家が知らず知らずに落ちてしまっていたから…なのかなぁと、思ってしまいます。

 

ということは、あの散楽一座の演目の最後「コウメイに散々追いかけまわされ、同じところをぐるぐる走る兼三(=兼家)」の部分は、かなり辛辣な表現だったのかな…?とも思わされますね(笑)

 

 

 

『光る君へ』関連に重点を置いたら、「安和の変」そのものはなんだかオマケみたいになっちまった…(というか、実は前回の感想ページから、長くなり過ぎて分割したのがこのページだったり^^;)

 

「安和の変」については、面白い歴史の考察もあったりするので、別の機会に改めて語る…かもしれません。

 

もしかしたら、オタノシミニー(散楽の座頭風に)

 

 

 

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大河ドラマ『光る君へ』放送回まとめ
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