善光寺街道(北国街道)を歩く 第2回 上田-屋代 その6 | らんまるの街道歩きブログ

らんまるの街道歩きブログ

旧街道、暗渠、廃線跡、坂道などの散歩ブログ
最近は殆ど街道がメイン

昨年の10月8日()に善光寺街道歩き旅の第2回として、上田から屋代までの区間を歩いた旅の第二弾、その6です。半年も前の歩きの記録ですが、良かったらお付き合い下さい。

 

当日の歩行ルートは↓。

街道復帰までの道のりや寄り道なども含めて歩いた総距離は23.5km前後だったようです。

今回もガイドブックは山と渓谷社の『ちゃんと歩ける 伊勢参宮道 善光寺街道』です。

 

その5では銘酒「福無量」を造っている上田市の沓掛酒造の工場を通り過ぎ、福無量の由来の説明板をじっくり読んだところまでをご紹介しました(↓再掲)。

 

 

前回の記事で紹介しそびれてしまいましたが、福無量の説明板の背後には由来となったであろう文章が石碑に刻まれてしました。

「福寿海無量の生活を歓び 公私一如の理想を生く」という観音経の部分から「福無量」という名の名手ができた、という由来でした、

 

お休みだったであろうこともあって、沓掛酒造の工場の奥の方は余り見ることができませんでした。

 

そのまま街道を進みます。!街道左側にこれはまた無駄な飾り気の無い、しぶい色合いの民家が見つかりました。手前の平屋部分だけで独立した家屋になりそうですが、奥に二階建てがくっついてますね。

玄関が元々木製だったりしたらさぞやいい昭和風情だったんではないかなあ。

 

退色した「北国街道 下塩尻」の看板の隣に現代風のかわいい感じの双体道祖神と、その右側には「無始無終 一志(?)」という石碑がありました。

 

街道右側の住宅のすぐ背後には山が迫っています。

 

前回も使ったGoogleマップの3Dで見ると、画像の中心から左に進んだ緑の地図マークのほぼ真上に沓掛酒造があり、そこから更に左に進んだ辺り、、ほぼ画面の左端近くに居たことになります。

 

暫く進んでゆくとコンクリ護岸の川に沿った道になります。

 

民家の駐車スペース奥に大きな岩が露出しているのが見えました。

クルマと比較するとかなりの高さであることがお分かり頂けるかと思います。

 

でっかい岩の塊ですねえΣ(・ω・ノ)ノ!。切り立った岩の側面には樹木も殆ど生えていません。

 

こちらは「岩鼻の険」と呼ばれた千曲川に落ち込む断崖で、今は国道が通せるくらいに造成技術が発達しましたが、かつては善光寺街道一の難所だったそうです。人力でしか掘れない時代にこの岩が川まで続いていたらさぞや難儀だったでしょうね。加賀前田公はこの岩鼻を超えると、国許に「無事通過」の飛脚を立てたそうですΣ(゚Д゚)。

岩の種類がパッと見ても分からないなあと思ってググってみると、どうやら凝灰岩のようでした。つまり火山灰が固まったということになります。浅間山由来なのかな?と思ったのですがちょっと調べただけでは分かりませんでした。

 

岩鼻といえば何回か前の記事でご紹介した半過岩鼻というのもありました(↓再掲)

 

 

国道に合流します。元々この辺りも岩だったのをならしたのでしょう、

 

国道の向こうには千曲川が流れていますが、国道には向かって右側にしか歩道が無いのでほとんど川は見えず残念!あっ、上田市を出て坂城町に入りました。

 

久しぶりに高度計を使ってみると標高415m(この時計は5m刻みで高度を測るので413~417mの間ということになります)、平地ではありますがやはりちょっと高いですね。

 

国道沿いの歩道はちょっと国道から引っ込んだところに入って行きます。

 

その先でちょっと腰掛けるところがあってので最近お気に入りの「羊羹休憩」!羊羹っていわばエネルギーの塊のようなものなので、こういう時はけっこう体力を回復してくれます。

 

おっ、しなの鉄道が通りかかるな、と思うとやっぱり撮っちゃってます。もうパブロフの犬的な条件反射に近いんじゃないかと思います。

 

こちらは筆塚の碑らしいのですが風化が激しく読めず。明治二十年十一月だけはよく分かりました。

ガイドブックには「明治二十年 西澤翁筆塚碑」としかなく、詳細分からずです。

 

何だかよく分かりませんが植物のトンネルがあったので、とりあえず通ります(^^;)。

 

「いちりづかばし」とありますね。ガイドブックがやや怠慢気味で名称以外説明が無いなあ。

追分から十里、日本橋から四十九里ってとこか。

 

その先で鼠宿🐭に入ります。解説板には上田と坂木の間の間の宿だったというような説明がありますが、要は松代藩主の真田信之が設けた私宿だったということですね。

鼠は「寝ずの番=不寝見(寝ず見)」が語源とか、日本武尊が美しい月を見て「寝ずに見ん」と言った、ということに由来しているなどとガイドブックにはありました。

 

先ほどみた「いちりづかばし」の標柱を裏から見ると感じで「一里塚橋」と書かれていたので、この木を一里塚に見立てて記念激写!

 

そのすぐ先の街道右奥に会地早雄(おおちはやお)神社があります。ガイドブックには万葉防人歌碑や芭蕉の句碑がある、と書いてありましたがこの(↓)に見事な太鼓橋に気を取られて全然気づきませんでした(^^;)。

 

少ぅしだけ頑張って太鼓橋を渡って境内に入ります。こちらの会地早雄神社、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)をはじめ五柱の神が祀られているんだそうです(長野県神社庁HPから)。

 

おちついた感じの社殿でお参りした後、社殿後方にある大きな岩が見えているのに気づいてそちらに行ってみました。

 

いつも縦長の写真は中サイズで載せることにしていますが、今回は見た時の感覚を大事にして大サイズで貼ります。

岩の真ん中に安置されている祠のところまで行きたいですが、バチ当たりそうなのでここからお参りします。あちこちに巨石信仰がありますし、房総往還でもそういう痕跡を見たことがありますが、古代の人が巨石を見て神を感じたのも理解できる気がしました。

 

その後街道方向をしげしげと眺めます。こちらも神様が宿っているような樹木ですねえ。

 

ここから再び街道に戻りますが、ちょうど切りも良いので続きはその7でご紹介します。

 

つづく!