実は今、彼女とふたりで飲んでいます。
…が、なんとキープするつもりが、ウィスキーのボトル、ふたりで一本空けてしまいました(*_*)
飲み過ぎですね(>_<)
たまにはのろけてもいいですよね、こうやって一緒に酔っていられる時間がすごくうれしいです。
また明日から、後期の中学校の授業の準備、がんばらなくちゃいけませんね!
修士論文ともかかわりのあることなので、がんばらねばと思います。
突然ですが、家庭教師をはじめました。
中1の女の子で、数学を中心にお願いしますということでした。
とりあえず夏休み中に1学期の遅れを取り戻したいということだったので、部活が忙しいみたいですが、がんばってもらいましょう、ということになりました。
今中学校で教えているのも1年生なので、感覚は近いような感じがします。
ただ学校は全然違う雰囲気だと思われるので、ちょっと学校の様子なんかも聞きながら、楽しくできればなぁと思っています。
むかし塾でもバイトしていたことがあったのですが、そこでも中学生の数学やら英語やらを教えていたの で、古い記憶を引きずり出してがんばってきます。
しかし、荻窪には縁があります。
むかし塾で教えていた頃勤務していたのが荻窪だったのですが、こんどの家庭教師先も荻窪なんです。
他にも…以下省略。
なんにせよ、けっこうなじみがある街なのでよかったなぁとちょっと思っています。
春木屋にいってこなきゃ!
先日、はじめて寄席を見てまいりました。
はじめはどんなもんだろうなぁと半信半疑(?)でしたが、すごく楽しんできてしまいました。
(monoyaomouさんも寄席を見てきたんですね。奇遇ですなぁ。)
まず、金額が思ったよりぜんぜん安いのにびっくりしました。
上野で見たのですが、約4時間の一連の行程で3000円でした(私は学生なので2500円!)。
映画を見に行くよりはちょっと高いですが、何を持ち込んでも構わないし、なによりずっと長い時間楽しめます。
実際に始まると、おおよそ15分くらいで演者が変わっていきます。
落語家さんが中心ですが、なかには人形や独楽などの芸をやる方もいます。
とはいっても、やはり注目すべきは噺家さんのしゃべりです。
なんというか、口ではうまく伝えられないのですが、その人のしゃべりにすーっと引き込まれていってしまいます。
そのストーリーの時代は現在ではなく江戸(あるいは明治くらい?)のものだと思いますし、その語り口調や使っている言葉も今の言葉ではなく独特の語り口調と言い回しがあるのですが、それでもその噺家さんの作り出す世界に引き込まれてしまう、という感じがしました。
一人一役で複数の人が作り出す演劇やテレビドラマ、映画という世界ももちろん魅力的ですが、一人の人間が複数の人間を演じ、わずかな身体の動きと顔の表情でその場の風景から人間の心情までを表してしまう、その表現力のすごさに、本当に驚かされました。
まぁなにせはじめてでしたので、独特の言い回しや古い言葉についていけない部分もありましたが、それでも十分に楽しめました。
火焔太鼓や佃祭、へっつい幽霊などの古典を見ましたが(当然素人なので古典といえども新鮮に見るわけですが)、いっしょにいった先輩の話によるとやはり噺家によって表現も違うし、落ちがわかっていても笑ってしまう、ということでした。
そういった奥深い魅力があるからこそ、古典落語を中心としながらも、新しさを失わずに今まで伝統芸能が息づいているんでしょうね。
「伝統」という言葉すら、使っていいものやらというような、「伝統」とは違うよさがあったように思います。
みなさん、ぜひ寄席へ足を運んでみてください!!
ところで、教師もいくつかの「役割」を演じ分けなければならないという話をよく聞きます。
そのなかに「役者」というのが入っていたように思います。
教師の日々の授業も、噺家さんと同じように、ときにはある役柄を演じながら、わずかな身振りと言葉で子どもをひきつける、そんなことが必要なんだろうな、と感じました。
そして子どもたちをその世界に引きずり込んでおいて、そこから物事を考えさせる、そういったことも大事なのでしょうね。
私はあまり授業中に子どもをひきつけるような魅力的な話し方ができていないように思うので、噺家さんに学びながら、魅力ある話し方を身につけなくては、と思いました。
ドラマ、なぜかはまってます。
見るともなしに見始めたんですが、伊藤淳史の演じる主人公の危なっかしさになんだか惹かれてしまいます。
「電車男」自体は2chで見たことがありましたが、あれを映像で表現するとああなるんですね…。
ちょっと違うような気もするけど、まぁコメディタッチだと思って見ています。
今日なんか、ちょっとハラハラで終わったので、来週どうなるか楽しみ。
偶然木曜の10時からは家でテレビ見てるんですね、ほとんど奇跡に近い。
ずっと学校にでずっぱりなので…。
来週は見られないかもしれないので、録画しておかなきゃ。
映画もちょっと見てみたいかも。
しかし、あのチビノリダーだったとはなぁ…。
先日、東京都の教員採用試験の結果(一次)が発表されました。
私は「中高共通・地理歴史」という区分で受験しました。
結果は…
見事不合格!!(汗)
でも、ひどいんですよ~
去年補欠で採用されていない人は今年一次試験を免除になるのですが、去年は教育委員会が採用数を読み誤ったのか、補欠を大量に合格させておきながらほとんどはけませんでした。
その結果、今年の試験で一次を通過したのは54人いるのですが、そのなかで今年一次を受験したなかで受かっているのは、受験番号から推測するに、20人でした。
つまり残りの34人は、去年の教採で補欠だった人たちだと思われます。
今年一次を受けた人は1000人以上いましたから、仮に1000人だとしても、一次の通過倍率は50倍!!
さらに二次で半分ぐらいになるでしょうから、今年一次から受けた人にしてみたら、倍率は100倍近いことになるんじゃないでしょうか。
まぁ受かっている人はいるわけですから自分の実力のなさを悔やむしかないのですが、それにしてももう少し計画的に採用を行って欲しいものです。
今日は、長崎に原爆が落とされてから60年たった日です。
3日前には、広島の原爆の日を迎えました。
アジア太平洋戦争終戦後60年たった今、私たちは何を考えればよいのでしょうか。
「歴史」というのは、何らかのかたちで過去を再構成し、ことばとして残すという営みです。
(これには、文字に残すものも口頭で伝承するものもあります)
つまり、何を記憶していくのかということは、人間の意志によって選択された結果であるわけです。
逆に言うと、大変恐ろしいことですが、何かを意図的に「忘却」することもできるわけです。
今、アジア太平洋戦争を直接体験した世代が亡くなっていっているということが、教育の世界でも問題になっています。
これまでは、子どもが自分の祖父母から戦争体験を聞き取って、それで戦争の悲惨さを実感し、平和への意識を培うというのが、典型的な戦争学習、平和学習であったといってよいでしょう。
子どもたちにとって、自分に身近な人の口から発せられることばは非常に重みのあるものだと思います。
しかし、そういった教育活動が困難になりつつあるというのが現状です。
親はもちろん、教師さえアジア太平洋戦争に対する「実感」を失いつつあります。
そういったことに対する危機感を、広島の平和記念資料館でも感じることができました。
資料館の側でも被害者の遺品を保存し、収集する呼びかけをしているようですし、遺族の側も、遺品を大事にする人が高齢化したり亡くなったりするなかで、二度と戦争を起こさない、戦争のことを忘れないために、資料館に遺品を寄付し、後世に伝えていきたいというようなことがあるようでした。
アジア太平洋戦争に対する「実感」を失いつつある我々の世代、そしてこれからの世界を生きていく子どもたちに対して、どのようにこの歴史という「記憶」を継承してゆけばよいのか、大きな課題です。
少なくとも、これまでどおりの平和学習・戦争学習では、子どもたちが意欲や実感をもって学ぶことはできないでしょう。
現在DVDなどで多くの映像史料は残されていますし、さまざまな実物史料(赤紙や日章旗など)もありますから、当時のようすを追体験させたり共感させたりすることはできるでしょう。
しかし今考えなければならないのは、アジア太平洋戦争という歴史的事実のなかから、何を「記憶」していくのかということを再検討することです。
いい例かはわかりませんが、「新しい歴史教科書をつくる会」の人々は、これまでの日本の加害を中心に取り上げる歴史像に対して「自虐史観」であると批判しています。
個人的には賛成しかねますが、一方で加害だけを取り上げる歴史像も、結局はこれと同じ構造をもっているといえます。
歴史の学習のなかで、近現代の学習をどう再構成していくか、これからの大きな課題になるのです。
今日、郵政民営化関連法案の採決がありました。
久方ぶりに国会中継をじっくり見てしまいました(といっても30分くらいですが)。
郵政民営化の是非、あるいは小泉首相が参議院での否決をもって衆議院を解散することの是非、はたまた今後の政局がどうなるかなど、考えなくてはならないことが多いように思います。
このことはみなさん論じられているようなので、私はまた別の観点からコメントしようと思います。
私自身の、政治の実感について。
正直な話、大学に入るまでは、政治なんてとんと興味がありませんでした。
中学や高校での学習のなかで、表面的な知識はたくさん詰め込みましたが、国会のシステムや選挙制度などにはとうてい興味がもてませんでした。
でも今、その手の知識が自分には不足しているなぁ、勉強しなくてはなぁと思うようになりました。
大学に入って、選挙権をもつようになってから、そういった意識が強くなってきたように思います。
もちろん選挙権を得てはじめのうちは、ほんとうにただの義務感から投票しているだけでした。
その投票行動も、せいぜい政党のイメージで投票しているぐらいのものでした。
しかし、自分が明確に社会科の教師を目指していくようになったことも手伝ってか、だんだん選挙に対して、これから日本がどうなっていくんだろう?ということを考えるようになってきました。
しかし、私だけかもしれませんが、今回の郵政解散→総選挙はなんだか日本が大きく動きそうな実感があります。
衆議院で造反がありながらも可決されたことが参議院で否決され、選挙になる。
自民党が分裂するのでは?自公が下野する?
前回選挙で躍進した民主の動向は?二大政党制に近づく?
政党は理念や政策でなく、政治家の利害関係が中心?
たくさんの「?」を感じ、だからこそ今度の選挙では、自分の投票行動が大きく日本を左右するような、そんな気分になっています。
こんなことを感じるからこそ、「国会のシステムや選挙制度を勉強したい」と思うようになったのだと思います。
さて、逆に言うと、こういった実感がないまま中学校の公民的分野で政治の学習が行われているという実情があるということではないでしょうか。
もちろんなかには政治に興味を持って、意欲的に取り組んでる子どももいるでしょう。
今の私以上に意欲や自分の意見を持っている子もいるかもしれません。
しかし、選挙権のない状態で、自分の意見がどう社会に反映されるのかという実感すらない状態で、どのように「国会のシステムや選挙制度」を学ばせればよいのでしょうか。
確かに、「国会のシステムや選挙制度」を知っていることは、意味のあることです。
「受験に出る」という圧力のもとで子どもに有用性を感じさせ学ばせるということが、これまで行われてきた教育だったように思います。
私自身、今思えば中学校のときに学んだことが今役立っているとは思います。
しかし、もっと生きたかたちで、子どもたちが意味を感じ取れるかたちで、こういった学習を組織できないものか、考えてしまいます。
私は社会科教育のなかでも歴史教育をずっと専門にしてやってきたこともあって、公民的分野でどのような実践がこれまで取り組まれてきたのかについて詳しくはわかりません。
学習への意欲低下が叫ばれる今だからこそ、学ぶことの有用性が感じられ、それが生きた知識となるような学習を考えていかなければ、と思います。
このことは、私の研究課題である「国家を中心に据えた歴史学習」においても同様だと思いますし、考えなければならないことだと思っています。
どなたか、中学校のときにこんなおもしろい政治学習があったよ!ということがありましたら、ぜひ教えてください。
これまでの歴史教育において問題にされてきたのは、知識注入型の暗記授業に対してのものが多かったような気がします。
社会科教育史、という観点からすれば、経験主義から系統主義への転換があった50年代末から60年代にかけての時期がターニングポイントなのではないでしょうか。
これら系統主義への批判から、さまざまな克服が試みられてきました。
実物を教室に持ち込んだり、討論授業を組織したり、地域の歴史の掘り起こし運動を行ったり、歴史への共感をベースにしながら授業を行ったり…。
そのことによって、歴史教育の目標自体について、ある歴史像を獲得することではなく、「歴史的なものの見方・考え方」であったり、「歴史的思考力」というような、能力や態度にかかる目標が設定されることとなりました。
学習指導要領においても、「生きる力」の育成をうたったり、四観点(関心・意欲・態度、思考・判断、技能・表現、知識・理解)での評価をすすめるなどのことが行われています。
しかし、教師が提示する「歴史像」について、改めて検討する時期に差し掛かっているように思えてなりません。
討論することや共感をベースにすること、思考力を育てることというのは、それ自体きわめて大事なことであるのは間違いありません。
しかし、そこで学習の素材となる「歴史的事象」、そしてそれが組み合わされて描き出される「歴史像」、これらが今を生きる子どもたちにとってどのような意味を持ちうるのか、あるいはどのような「歴史的事象」「歴史像」であれば子どもたちにとって意味があるのか、こういったことを検討しなければならないように思うのです。
特に中学校の歴史学習というのは、実は唯一の「通史学習」であるということができます。
小学校では人物学習が中心ですし、高校ではすべての子どもが日本史を選択するとは限りません。
そういった意味で、人生のなかでの歴史学習として、中学校での歴史学習は重要な側面を持っているのです。
このように考えてみたとき、子どもたちに提示するべき「歴史的事象」「歴史像」について、それがこれまで教科書に描かれてきたような歴史像でよいのか、あるいは最新の歴史学の研究成果はどのように生かされるべきなのかなど、検討すべき課題は山積みです。
私はそのなかで、ひとつの作業仮説として、「国家」の存在をどのように、学習されるべき「歴史的事象」「歴史像」として措定すべきなのかということを検討したいと思っているのです。
突然ですが、某有名結婚式場(?)にてアルバイトをすることになりました。
今までいわゆる「接客」の仕事はしたことがなかったので、自分にとっても良い経験になるのではないかな、と思っています。
明日から、がんばってきます!
修論の指導会では、だいぶご意見いただきまして、正直また一から出直し、という感じです。
とはいえ、もう残る時間もだいぶ少なくなってきました。
8月は中学校の授業もないので、この場をお借りしながら、修士論文で論じていきたい内容について書いていきたいと思います。
論文のテーマは、中学校の歴史学習において、「国家」というものの存在をどのように取り上げるのか、ということです。
結論から先に言えば、「国家」というものがもっている意味を考えること、このことが現在を生きる子どもたちに意味のあるものとしての歴史教育の目標の一部に位置づけられるのではないか、と考えます。
「日本」という空間に刻印されたナショナリティは、歴史を抜きにして語ることはできません。
現在、中国における反日デモや小泉首相の靖国参拝問題など、「日本」が戦争の記憶をどのように保持しているのか、その「日本」としての歴史認識が問われています。
しかしその一方で、グローバリゼーションが進む社会において、「国家」が果たしうる役割は確実に減少していくでしょう。
このように考えてみたとき、「国家」という存在を見つめなおし、個人と「国家」との関係について、歴史の文脈のなかで考察していくことこそが、歴史教育の役割なのではないかと考えるのです。
というのが、研究の問題意識というところです。
これを歴史の授業のなかでどう理論化し実践化していくのかということについて、この8月を使って、少しずつお話させていただこうと思います。