修論の指導会では、だいぶご意見いただきまして、正直また一から出直し、という感じです。

とはいえ、もう残る時間もだいぶ少なくなってきました。

8月は中学校の授業もないので、この場をお借りしながら、修士論文で論じていきたい内容について書いていきたいと思います。


論文のテーマは、中学校の歴史学習において、「国家」というものの存在をどのように取り上げるのか、ということです。


結論から先に言えば、「国家」というものがもっている意味を考えること、このことが現在を生きる子どもたちに意味のあるものとしての歴史教育の目標の一部に位置づけられるのではないか、と考えます。

「日本」という空間に刻印されたナショナリティは、歴史を抜きにして語ることはできません。

現在、中国における反日デモや小泉首相の靖国参拝問題など、「日本」が戦争の記憶をどのように保持しているのか、その「日本」としての歴史認識が問われています。

しかしその一方で、グローバリゼーションが進む社会において、「国家」が果たしうる役割は確実に減少していくでしょう。

このように考えてみたとき、「国家」という存在を見つめなおし、個人と「国家」との関係について、歴史の文脈のなかで考察していくことこそが、歴史教育の役割なのではないかと考えるのです。


というのが、研究の問題意識というところです。

これを歴史の授業のなかでどう理論化し実践化していくのかということについて、この8月を使って、少しずつお話させていただこうと思います。