これまでの歴史教育において問題にされてきたのは、知識注入型の暗記授業に対してのものが多かったような気がします。


社会科教育史、という観点からすれば、経験主義から系統主義への転換があった50年代末から60年代にかけての時期がターニングポイントなのではないでしょうか。

これら系統主義への批判から、さまざまな克服が試みられてきました。

実物を教室に持ち込んだり、討論授業を組織したり、地域の歴史の掘り起こし運動を行ったり、歴史への共感をベースにしながら授業を行ったり…。

そのことによって、歴史教育の目標自体について、ある歴史像を獲得することではなく、「歴史的なものの見方・考え方」であったり、「歴史的思考力」というような、能力や態度にかかる目標が設定されることとなりました。

学習指導要領においても、「生きる力」の育成をうたったり、四観点(関心・意欲・態度、思考・判断、技能・表現、知識・理解)での評価をすすめるなどのことが行われています。


しかし、教師が提示する「歴史像」について、改めて検討する時期に差し掛かっているように思えてなりません。


討論することや共感をベースにすること、思考力を育てることというのは、それ自体きわめて大事なことであるのは間違いありません。

しかし、そこで学習の素材となる「歴史的事象」、そしてそれが組み合わされて描き出される「歴史像」、これらが今を生きる子どもたちにとってどのような意味を持ちうるのか、あるいはどのような「歴史的事象」「歴史像」であれば子どもたちにとって意味があるのか、こういったことを検討しなければならないように思うのです。

特に中学校の歴史学習というのは、実は唯一の「通史学習」であるということができます。

小学校では人物学習が中心ですし、高校ではすべての子どもが日本史を選択するとは限りません。

そういった意味で、人生のなかでの歴史学習として、中学校での歴史学習は重要な側面を持っているのです。


このように考えてみたとき、子どもたちに提示するべき「歴史的事象」「歴史像」について、それがこれまで教科書に描かれてきたような歴史像でよいのか、あるいは最新の歴史学の研究成果はどのように生かされるべきなのかなど、検討すべき課題は山積みです。

私はそのなかで、ひとつの作業仮説として、「国家」の存在をどのように、学習されるべき「歴史的事象」「歴史像」として措定すべきなのかということを検討したいと思っているのです。