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ここのところ更新していませんでしたが、実はここ数日旅行にきています。
行き先は、広島および山口です。
ムーンライトながらやらムーンライト九州やらを駆使しながら、鈍行でやってきました(>_<)

広島では、歴史教育者協議会という民間教育団体の研究大会に参加してきました。
いろいろな地域の、いろいろな学校の先生がご自分の実践について報告されていて、とても勉強になりました。
個人的には教科教育という立場から見させていただいたので、いろいろ考えるところはありましたが…まあ詳細は後日お話しますね。

広島ではほかに、宮島にいったり、平和記念公園にいったりしました。
写真はそのときのものです。
宮島の厳島神社は、すごかった、予想以上でした。
満潮のときにいったら、きっともっと荘厳な光景が見られたんだろうなぁ、と思います。
平和記念公園では、やはりいろいろ考えさせられました。
何より、お好み焼きがおいしかった!
広島での6食中、4食も食べてしまいました。
ちょっとはまってしまいそうです。

その後、山口に住んでいる大学の同級生と合流し、いろいろ案内してもらっているところです。
昨日ご馳走になった舌平目をはじめとした魚料理、本当においしかった!
東京に住んでる身からすると、毎日のように新鮮な魚料理が食べられるのはうらやましい限りです。
やはり食事にも地域性が強くあらわれるのだなぁと改めて思いました。

あと2日間、お世話になってきます!

「(前略)過去の『国家』を異質性を持ついわば別の『国家』として相対して捉える視点が必要であり、その視点からの教材開発が必要と考えられる。その際、その国家の構成者であるその時代の民衆と国家との関係を基軸にした教材(それは民衆の生活という視点を含むし、また必ずしも対立関係のみで描くわけではない)やそれを現代と比較する教材を開発することで、学習者に現代の民主主義・平和主義の歴史的価値や意義を認識させることつながるだろう」


土屋武志「歴史教育における『自国(日本)』イメージ-歴史的変遷と今後の課題-」『愛知教育大学研究報告 教育科学編』46 1997


今、あさっての修士論文指導会に向けてレジュメを作成しているところです。

そのなかで、土屋先生の論文が非常に参考になりそうだったので、引用させていただきました。

土屋先生は「現代の民主主義・平和主義の歴史的価値や意義を認識させること」をその目標に置いているようですが、私はちょっと違う観点から、「国家」というものの存在を歴史教育のなかでクローズアップしていく必要があるのではないかと考えているのです。

そのための方法論としては、土屋先生のおっしゃっている方法がひとつのヒントになるのではないかと考えています。


今はちょっと時間がないので、また時間のあるときに詳しくお話しますね。

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はじめてモブログします。
今日は国立国会図書館ヘきています。
待ち時間ひまなので、モブログにチャレンジです。


国会図書館は、だいぶシステムが変わったんですね。
一年くらい前にもきましたが、そのときとはようすがだいぶ違います。

違い1 入館するとき
個人情報を登録。
住所氏名生年月日など。
それを記録したICカードが発行され、Suicaの要領で入館。

2 雑誌、本を出納してもらうとき
以前はOPACで検索し、雑誌記号や雑誌名等をすべて手書きしてカウンターに提出、受け取りを待つ、というかたち。
しかし今は、申し込みはOPAC上でできてしまう。
パソコンの横にICカードを置くところがあって、それでログインして、自分がほしい雑誌を申し込む。
しばらく経つと画面に届いたことが表示され、ICカードを提示してバーコード処理して貸し出し。

3 複写
これまた専用のパソコンがあるのでICカードでログイン。
借りてる本の一覧が表示され、そこからコピーしたいものを選ぶと、自分の名前や雑誌名が記された申し込み用紙がプリントアウトされる。
そこにページ数を書き込んで申し込みカウンターへ。
オンライン上で印刷申込することもできるらしい。


という感じでした。
劇的に変化したんですねぇ。
いろいろ同じことを繰り返し書かなくてよくなったぶん、楽になったように思います。
手に持つ申し込み用紙もほとんどなくなりましたし。
職員の方の負担もだいぶ減ったのではないでしょうか。

ただ、やはりというべきか、何人もの人が困惑した様子で問い合わせをしていました。
パソコン上での操作になれていないと、大変な部分もあるのだと思います。
今までのような、本で雑誌を検索するなんてことはなくなってしまうのでしょうか。

「ノーマライゼーション」「コンクルージョン」「ユビキタス」
かっこいい言葉はたくさんあります。
しかし一方で、パソコンやインターネットに振り回されている感も否めません。
そういった情報も大切にしながら、一方でそれから自由になる発想も大事にしなくては、と思います。
人間どうしのコミュニケーション、自然とのかかわり、泥臭いものも、こんな今だから大切にしたい気がします。

つれづれさん、momoさん、コメントありがとうございます。

ノートの指導ということについてお話があがったので、今日はこのことについて考えてみたいと思います。

現任校の先生の刺激を受け、ノートは大事にしています。


大学の授業で聞いたことなのですが、人間には2種類の人間がいるそうです。

聞くことが得意な人間と、見ることが得意な人間と、です。

つまり、授業という学習の場を考えたときに、教師が説明していることを聞いた方が学習内容が定着する子と、板書や教科書を見ることの方が学習内容が定着する子がいる、ということです。

確か、ほぼ半々の割合でいると聞いたような気がします。

momoさんの生徒さんは、おそらく後者なのでしょうね。

こう考えると、教室においても両方の側面がなければいけないと、気をつけなければ、と思います。


「ノートを取る」という活動は、教育的にどのような意味を持つのでしょうか。

ひとつは、教師から提示された学習内容を記録し、あとから振り返ることができるという意味があるでしょう。

一方で、「ノートをつくる」という行動自体に意味があるような気もします。

自分の言葉でノートをつくるということは、自分の知識を改めて体系だてて再構成するという意味があります。


私があまりきちんと板書しないのは、そういう意味があって、です。

歴史の学習内容を理解することももちろん大事ですが、自分なりに情報を整理し、それを記録するということも大事な学習活動だと思ったからです。


とはいえ、それでついてこれない子がいることがわかりましたので、先日の授業では丁寧に板書しました。

でもそれだけでは意味がないので、口で説明した部分ももちろんありましたが。


こういうようなノートづくりを大事にしているので、ノートの評価を大事にしています。

前にもお話しましたが、ノートは試験と同じ割合で評価しています。

評価、というのにはいろいろな役割がありますが、ひとつは子どもにとっての学習の動機づけになることを期待しています。

いろいろ工夫してノートをつくって、それがきちんと評定に反映されれば、がんばってノートをつくろうという気になり、子どもがよい学びをしてくれるのではないかと思うのです。

ですから、ただ板書を写すのではなく、自分なりの工夫が見えると評価を高くするよということも言ってあります。


また、クラスに1冊クラスノートもまわしていて、授業の記録を交代で取らせているのですが、それも他の人がつくったノートを見る機会につながり、お互いに学びあいをしてくれるのではないかと思っています。

人に見られるノートですから、書き手も気合を入れて書いてくれます。

先日も、クラスノートをまわしたときに、「すげぇ!」という声があがりました。

教師としては、「ニヤリ」とする瞬間です。


もちろん、ただ殴り書きしたようなノートをつくってくる子もいます。

そういう子に対して、授業中に目を向けたり声をかけたりするなど、なにか手助けをしてあげられれば、と思います。

昨日から3夜連続山パンに挑戦しています。

今日が中日です。

7月はやたら出費が多いので、これで何とかまかなえるかなぁという感じです(汗)


昨日は、菓子パン2課というところに配属になりました。

作業は…ランチパック(食パン2枚重ねのなかにピーナツクリームやらが入ってるやつ)。

袋詰めする機械の前で検品し、向きをそろえるお仕事でした。


これを、9時間。

さすがにしんどかった。

しかもランチパックは、いくら具が変わっても見た目は全部同じ。

めちゃめちゃ飽きます。


最後の1時間は掃除をしたのですが、正直これが一番楽しかった。


さすがにパン工場だけあって、掃除はすごく丁寧にします。

前の日のクリームがそのままになってて次の日の製品に混じったら大変ですからね。

機械も、ばらせるところは全部ばらしてお掃除です。

そういったところへの気の使い方は、さすがだなぁと思いました。


さて、さっき起きたところなのに、もうまもなく出勤せねばなりません。

今日はランチパックははずしてもらおうっと。

気がついたら大きく成長してくれているのはいいのですが…。


あたらしく覚えた行動-「脱糞」。

なんだそりゃあ…。


なんだかどんどん下品になっていっているような…。

だいじょうぶなんだろうか…。

先日、中学校のほうで期末試験があり、採点と返却を終えました。

他の先生と「地理」「歴史」で分担しているので、私の分の出題は60点分でしたが、3/4を記述の問題にしたので採点がえらく大変でした(汗)


さていざ採点してみると、今回は量が多かったというコメントが多く、空欄のままになっている子が目立ちました。

出題者としてはちょっと悲しいとともに、もう少し分量を調整しなければ、と思います。

また、平均点自体は決して悪くなかったのですが(100点満点になおして70点弱ぐらい)、できている子とできていない子の差が激しかったように思います。

このことは、私にとってはかなり考えさせられるものがありました。


私の普段の授業は、学校のレベルが比較的高いというのもあるのですが、機能的に板書をするということはあまりせず、キーワードをメモするぐらいにしていました。

というのは、教師や友達の発言を聞いて、それをメモしながら自分なりに機能的にノートをまとめていく力をつけてあげたいと思っているからです。

そのこと自体はしつこいぐらい授業でも言っていますし、ノート点を試験の点と同等に評価しているので子どももわかっているのだと思っていました。

でも、わかっていてもできない子に対するフォローというのが甘かったなぁと、正直思っています。

できる子は僕もびっくりするくらいすばらしいノートを作ってくれるのですが、できない子はほんとうに適当に走り書きしているだけなんですね。

そのことが試験の点数としても如実に表れてきてしまった、というのが、今回の試験の結果だったと思います。


私の授業は、できる子に対してはある程度充実感のあるものにはなってくれていたのかな、と思います。

しかし一方で、できない子に対しては、言葉が頭を通り過ぎていってしまうだけの、空虚な時間になってしまっていたのかもしれません。


実際気をつけて授業してみると、極端にできが悪かった子は、やっぱり授業中に課題を与えて考えさせているときでもあまり思考しているふうではなかったり、そういうことが見えてきました。

普段授業しているときは、なかなかそんな余裕もなくて、内容をこなすのに手一杯でしたが、当たり前ですがそれではいけないのですね。

自分では頭を使わせるいい授業をしているつもりで、発言してくれる子は実際考えてくれていて、それで授業がうまく回っているつもりになってしまっていたわけです。


試験については、全員に模範解答の提出を義務付けましたが、その結果間に合わせで作ってくる子も多かったようで、試験ができなかった子に対するフォローの意味は薄れてしまった感があります。

試験は、教師の授業がどうだったのかということを写しだすラーの鏡です。

難しい課題ではありますが、できる子の力を伸ばしつつできない子にも思考をさせてあげられるような、そんな授業になるよう努力していかなければ、と思います。

1ヶ月ぶりに山篭りしてきました。

期せずして、再びドーナツ課へ。


前半戦は、またも無限に生み出されてくるカレーパンとの格闘。包装される直前のカレーパンたちをチェックして並べるというお仕事です。

一方で、「剥いて!」と言われたお仕事もありました。

一旦完成したものを、たぶん何らかの理由で欠陥があるか、必要な分以上につくったのか、袋を破いて中身と分別して捨てるというものです。

横を流れるコンベアーでつくられている商品を横目で見ながら、まったく同じものを廃棄するというのは、なんだか非常にむなしい気分にさせてくれました。

それも1個や2個じゃありません。

たぶん千の単位だったんじゃないでしょうか。

そのために出るゴミも半端な量じゃありません。

企業の効率の論理はわかりますが、なんとかならないもんかなぁと思ってしまいます。


後半戦は、チュロスにかかわっていました。

まずは、プリッと生み出されてくる生地を発酵させる台の上に並べるお仕事。

そのあとは、揚げられたチュロスを、餡(白い砂糖の飴みたいなやつ)をかける機械にかけるために縦方向に並べるというお仕事。

これは暑かった!!

なんせ揚げられて出てきてすぐのやつを手で並べ替えなきゃいけないので…。

この餡をかける機械にも考えさせられました。

滝のような感じで餡が流れていて、そこをコンベアーでチュロスが流れていって餡が全体にかかるという仕組みなのですが、チュロスが流れている時間よりも餡が無意味に流出している時間の方が圧倒的に長いんです。

これも効率よく多量生産するためには最もいい方法なんでしょうが、なんだか無駄な餡たちがかわいそうになってしまいます。


山パンを教材化したら、いろんなことを学べるような気がします。

今度考えてみようかな~。

でもきっと山パンがOK出さないだろうな(汗)

更新が1週間ぶりになってしまいました。

申し訳ありませんでした。

学生ながらも忙しい1週間を過ごしておりました。


7/6 修士論文指導会

7/9 中学校の期末試験

7/8 メキシコからの教員研修留学生が授業を見にくる

7/10 東京都教員採用試験

7/12 期末考査の点数報告の締め切り


ということで、ゆとりがないままの1週間でした…。

昨日も記述問題が3/4を占める試験の採点160人分をこなしておりました…。

(↑まぁこれは出題してる側の自爆でもありますが)



ひとまず無事採用試験を乗り切りました。

といっても、ほとんど勉強できていなかったので自信はまったくありませんが(汗)

特に専門の方が難しくてちんぷんかんぷんなものも数問ありました。

案外あってたのも一方であったりして、一喜一憂しております。

といっても、今年の東京とはかなり採用が厳しいということを聞いているので、おそらく両方9割くらいとれてないとだめなんだろうな…。

まぁ期待しないでよい結果を待ちたいと思います(矛盾!?)


8月には私学適性検査も待っています。

ひとまず忙しさも一段落しそうなので、まじめに将来に向けて勉強しようかと思う今日この頃です。

こんどの授業では、平城京の話と当時の民衆の税負担の話をつなげてやりたいと思っています。

平城京での下級官人の暮らしについて木簡からよみとったあと、平城京自体の話をいくつかします。

人口や広さ、唐の長安との比較などになるでしょう。

そのうえで、当時何度も都を移転していたことを指摘し、このような広大な都市をつくっていたのは誰なんだ?という疑問をもたせ、労働力を税として負担していた民衆の話をしていきたいと思っています。


私がこれまでやってきた奈良時代の授業では、「国家」としての支配システムがひとつの完成をみる時代として奈良時代をとらえ、その具体的なシステムについて理解したり討論したりという授業をしてきました。

その一方で、なかなか人が出てこないので、子どもたちの頭のなかのイメージには結びつきにくかったのかな、と反省していました。

今回は木簡から読み解いていくことで、下級官人のようす、民衆の税負担から当時の人々の暮らしをある程度はイメージしてくれるのではないかと期待しています。


小学校の歴史教育でもそうですが、当時の人に思いをはせることは、大事なことだと思います。

そういった共感がないと、どうしても頭でっかちの、固い歴史像しかできないように思うのです。

でもその一方で、それだけでは中学校ではダメだと思います。

ここの歴史的事象がもった意味を検討したり、システムを理解したり、そういった認識を作り上げていくためのひとつの方法として、「当時の人々に思いをはせる」というものがある、ということでしょう。

この辺のバランスをどう取っていくか、考えていかなければと思います。