先日、中学校のほうで期末試験があり、採点と返却を終えました。
他の先生と「地理」「歴史」で分担しているので、私の分の出題は60点分でしたが、3/4を記述の問題にしたので採点がえらく大変でした(汗)
さていざ採点してみると、今回は量が多かったというコメントが多く、空欄のままになっている子が目立ちました。
出題者としてはちょっと悲しいとともに、もう少し分量を調整しなければ、と思います。
また、平均点自体は決して悪くなかったのですが(100点満点になおして70点弱ぐらい)、できている子とできていない子の差が激しかったように思います。
このことは、私にとってはかなり考えさせられるものがありました。
私の普段の授業は、学校のレベルが比較的高いというのもあるのですが、機能的に板書をするということはあまりせず、キーワードをメモするぐらいにしていました。
というのは、教師や友達の発言を聞いて、それをメモしながら自分なりに機能的にノートをまとめていく力をつけてあげたいと思っているからです。
そのこと自体はしつこいぐらい授業でも言っていますし、ノート点を試験の点と同等に評価しているので子どももわかっているのだと思っていました。
でも、わかっていてもできない子に対するフォローというのが甘かったなぁと、正直思っています。
できる子は僕もびっくりするくらいすばらしいノートを作ってくれるのですが、できない子はほんとうに適当に走り書きしているだけなんですね。
そのことが試験の点数としても如実に表れてきてしまった、というのが、今回の試験の結果だったと思います。
私の授業は、できる子に対してはある程度充実感のあるものにはなってくれていたのかな、と思います。
しかし一方で、できない子に対しては、言葉が頭を通り過ぎていってしまうだけの、空虚な時間になってしまっていたのかもしれません。
実際気をつけて授業してみると、極端にできが悪かった子は、やっぱり授業中に課題を与えて考えさせているときでもあまり思考しているふうではなかったり、そういうことが見えてきました。
普段授業しているときは、なかなかそんな余裕もなくて、内容をこなすのに手一杯でしたが、当たり前ですがそれではいけないのですね。
自分では頭を使わせるいい授業をしているつもりで、発言してくれる子は実際考えてくれていて、それで授業がうまく回っているつもりになってしまっていたわけです。
試験については、全員に模範解答の提出を義務付けましたが、その結果間に合わせで作ってくる子も多かったようで、試験ができなかった子に対するフォローの意味は薄れてしまった感があります。
試験は、教師の授業がどうだったのかということを写しだすラーの鏡です。
難しい課題ではありますが、できる子の力を伸ばしつつできない子にも思考をさせてあげられるような、そんな授業になるよう努力していかなければ、と思います。