つれづれさん、momoさん、コメントありがとうございます。

ノートの指導ということについてお話があがったので、今日はこのことについて考えてみたいと思います。

現任校の先生の刺激を受け、ノートは大事にしています。


大学の授業で聞いたことなのですが、人間には2種類の人間がいるそうです。

聞くことが得意な人間と、見ることが得意な人間と、です。

つまり、授業という学習の場を考えたときに、教師が説明していることを聞いた方が学習内容が定着する子と、板書や教科書を見ることの方が学習内容が定着する子がいる、ということです。

確か、ほぼ半々の割合でいると聞いたような気がします。

momoさんの生徒さんは、おそらく後者なのでしょうね。

こう考えると、教室においても両方の側面がなければいけないと、気をつけなければ、と思います。


「ノートを取る」という活動は、教育的にどのような意味を持つのでしょうか。

ひとつは、教師から提示された学習内容を記録し、あとから振り返ることができるという意味があるでしょう。

一方で、「ノートをつくる」という行動自体に意味があるような気もします。

自分の言葉でノートをつくるということは、自分の知識を改めて体系だてて再構成するという意味があります。


私があまりきちんと板書しないのは、そういう意味があって、です。

歴史の学習内容を理解することももちろん大事ですが、自分なりに情報を整理し、それを記録するということも大事な学習活動だと思ったからです。


とはいえ、それでついてこれない子がいることがわかりましたので、先日の授業では丁寧に板書しました。

でもそれだけでは意味がないので、口で説明した部分ももちろんありましたが。


こういうようなノートづくりを大事にしているので、ノートの評価を大事にしています。

前にもお話しましたが、ノートは試験と同じ割合で評価しています。

評価、というのにはいろいろな役割がありますが、ひとつは子どもにとっての学習の動機づけになることを期待しています。

いろいろ工夫してノートをつくって、それがきちんと評定に反映されれば、がんばってノートをつくろうという気になり、子どもがよい学びをしてくれるのではないかと思うのです。

ですから、ただ板書を写すのではなく、自分なりの工夫が見えると評価を高くするよということも言ってあります。


また、クラスに1冊クラスノートもまわしていて、授業の記録を交代で取らせているのですが、それも他の人がつくったノートを見る機会につながり、お互いに学びあいをしてくれるのではないかと思っています。

人に見られるノートですから、書き手も気合を入れて書いてくれます。

先日も、クラスノートをまわしたときに、「すげぇ!」という声があがりました。

教師としては、「ニヤリ」とする瞬間です。


もちろん、ただ殴り書きしたようなノートをつくってくる子もいます。

そういう子に対して、授業中に目を向けたり声をかけたりするなど、なにか手助けをしてあげられれば、と思います。