時間の視点に立つと車が短くなる。これが高速度で物が縮むということの意味である。この言い方はいささか的外れの感がないではない、かもしれない。この点についてのヘルマン・ワイルの思考の飛躍が理解できないと書いたが、薄々感じられることがある。彼の言い分を聞いてみよう。
“彼(アインシュタイン)の解答は、こうだ。世界は4次元アフィン空間である。それの計算は1個の負次元、それに3個の正次元からなる二次形式Q(x)=(x・x)により与えられる。二次形式Q(x)の簡単な具体的な意味はつぎの通りである。いま世界点 0から発射された光の信号が世界点 Aに到達 したとすれば、c=OAとおくとき、0(a)=0で表わされる円錐面 (これは二つある。その中の適当な一つの円錐面)の上に、Aは必ず在る。”
この後も延々と数学的な話が続くのだが、追うだけ無駄だろう。C→∞などという、どう考えても計算不能な式が基礎にある。誰がもっともらしい理屈をこねようが、無限大は計算式に入れて有意味であることはできない。そもそも光速度は1秒あたり30万キロメートルという実速度が計測済みなのに無限大などばからしいことを言うのだ。上に引いた文章で彼の言いたい要点は、世界は物が動くということではなく、移動前と移動後の写像関係が基本であること、そしてそれは光の軌跡のいわば鏡像面として対照的に置かれるということである。
まあ一読、転倒した世界観であることがわかると思う。自動車がaからbに移動することは、まさに移動すること以外のものではないのではなかろうか。しかし彼らは、それは写像関係だというのである。
時間の視点に立つと、という言い方は変ではあるが、つまり光の軌跡の視点で見るということになる。それをワイルは積極的に肯定しているということになる。そして、そういう見方では、車のほうが短くなる。ただし、車の走行距離も短く見えるかもしれず、このあやふやさが未決の問題として残る。
ここでもう一度考えてみる。そもそも、直角三角形の斜辺を長いものとして見るのは車外の人である。その斜辺の時間軸の視点に立つとは、車に乗った人の目で見るということであろう。その車に乗った人にとって、車が短くなるということはない。車が短くなるのは、車外の人の視点でなければならない。この説明に一瞬戸惑い、「ん? そうなのか? 逆ではないか?」となるかもしれないが、私はそれが正しい反応であると思うのだ。なぜなら4次元アフィン空間などというたわごとがベースなのであるから、直観的に把握ができない。またお目汚しになるが、
この下手な図には三つの視点が混在する。二つではなく三つだ。車外の人と搭乗者と、それから光の視点である。いずれにせよ適切に考える必要はないのだ。理解すべきは、どちらの視点もいい加減に選べてしまえるという事実があるということなのだから。アインシュタインもワイルも、そして多数の支持者も、このこんぐらかりぶりをうまくさばけていない。