光速移動しているものは進行方向に沿って縮むという発想はどこから来るのか。それは前時代的な発想の検証から生じた。すなわちエーテルが存在するかどうかということだ。エーテルというのは、例えば私たちの身の回りが大気に満たされているように、宇宙にはエーテルが充満しているという考え方をする、その素材である。真空が文字通り何もないことであるなら、なぜ波動である光が伝わるのか、重力だけで物が安定していられるのか、その他不可解と思われていたのだ。現代でも真空は何かしらの充実した空間であるという発想は常に蒸し返される。ブラックマターが潜んでいるとか、量子揺らぎで存在と反存在が飛び出すとか。

 そのエーテルの実在を検証するために、マイケルソン干渉計というものが作られる。原理はこういうものだ。

 光源から出た光は半透過の鏡に当たる。半分は緑の順路、もう半分は赤の順路で出口に向かう。エーテルが存在するのならば、地球の自転によって一方向の流れとして機器に影響を与えるので、赤と緑に速度差が生じるはずである。それを干渉具合で判断する。実際の機器はもっと入り組んでいるし、計算も難しそうだが、とりあえず流れに乗る動きと直交する動きの差が赤緑にあるのは確かなので、わずかな時間のずれはあるはずだ。

 結果は、どちらの光も同じ速度のままであった。つまりエーテルによる引きずりはない。ではエーテルは存在しないのか。これに対してローレンツが一つの斬新な解釈を示す。機器全体がエーテルの中を動く時、その方向に沿って縮むとすれば、エーテルの実在は肯定される。

 奇怪な考え方のようだが、そこまでエーテルが根強く支持されていたということだろう。しかし、自然に考えて、エーテルがないとするだけでよいのではないか。

 これに対するヘルマン・ワイルの驚くべき反応が以下のようなことになる。マイケルソンの実験の経過を述べたうえで、こう続ける。

“ここまで述べてきたたことは結局 「エーテル内における並進運動、静止の状態が区別できないのはなぜか」という問題である。これに対する唯一の合理的な解答は、アインシュタインにより与えられた。すなわち、エーテルなどというものはもともと存在しないからで ある(エーテルは、それが提唱されたときから、いつも不明瞭な仮説的存在であったし、またそれはいっこうに理論上で影響のない存在であった)。”

 これが驚くべき主張であるのは、エーテルはない、しかしものが縮むという主張は残してしまうことである。なぜなら問題はエーテルの存在ではなく(いや、しかしマイケルソンはそのつもりで実験したのではなかったのか?)、座標系の食い違いの問題だからである(と、彼は言う)。私は何度か読み返してみて、この飛躍ぶりが理解できなかった。エーテルが存在しないなら、ものが縮む必要もないはずではないか。でもそうでなければならない。なぜならアインシュタインがそう言っているからである。

 ところで、視点を変えてみると、ものが縮むということの意味は理解可能かもしれない。

 光yとzの違いが時間感覚の違いになる。つまり時間が延びる。これをもし同じであるとした場合どうなるか、つまりzをyの長さに縮めるとどうなるか。それはつまり車の長さと、あるいはxを短くすることで表現できるのではないか。