大正5年5月 名古屋末広座 片岡我童の巡業 | 栢莚の徒然なるままに

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今回はまた地方の劇場の番付を紹介したいと思います。

 

大正5年5月 名古屋末広座

 

演目:

一、曽我の実録

二、壷坂

三、金閣寺

四、醉菩提

 

以前に鴈治郎の巡業を紹介した名古屋末広座の番付です。

前2回の紹介はこちらをどうぞ

 

大正4年4月公演

 

大正5年3月公演

 

今回座頭で出ているのは大阪の役者である四代目片岡我童です。

 

四代目片岡我童についてはこちらで大まかな経歴を紹介しているのでご参照ください。

 

我童の大正5年の動向を見ると1月は浪花座で鴈治郎一座に客演し、2月から4月までは常打ちとしていた中座に戻って公演を続け、3月には叔父である十一代目片岡仁左衛門と久しぶりに共演を果たしました。そしてこの5月から巡業を開始して5月前半を名古屋末広座で、後半を南座で公演した後、6月は神戸聚楽館での公演と名古屋、京都、神戸を巡る巡業の最初に行われたのが今回の公演でした。

また番付をよく見ると他に嵐巌笑、五代目嵐徳三郎(五代目嵐璃寛)、四代目市川市蔵、二代目市川権三郎(二代目河原崎権十郎)、四代目市川紅若など大阪、東京の中堅所の混成のような座組となっていて3月の鴈治郎には八百蔵が客演したのに対して我童の場合は客演するのが巌笑や権三郎辺りになるのが当時の我童の劇界での立ち位置が何となく透けて見えます。

 

さて、演目の紹介に移りたいと思います。

一番目の曽我の実録は元の外題を蝶千鳥曽我実録といい、三代目勝諺蔵が書き下ろし明治12年3月の浪花座(当時は戎座)で初演された演目です。大阪改良演劇の一員でもあった彼は福地桜痴の影響を受けて写実を基本とした新作を書く一方で古典作品に関しても活歴風に書き直した物を書いていてこの演目もその一つに当たります。

元々初演が大阪である事からも東京では上方役者が上京してきた時くらいしか演じられない為に馴染みが薄く、戦前から戦後にかけての上方歌舞伎の衰退により演じられる事が無くなり、幻の演目となってしまいました。

この演目は上述の様に活歴風に描かれている為か他の曽我物と違って五郎、十郎の異母兄弟の禅司坊が登場して母満江による兄五郎の勘当を解くべく腹を切って懇願する他、大切ではきちんと祐経の仇を討った後十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられるという史実に沿って描かれているのが大きな特徴です。

今回は五郎、十郎を市蔵と巌笑が務め、紅若が満江、我童が禅司坊宗永を務めています。

 

中幕の壷坂は元の外題を壷坂霊験記といい、珍しく明治時代に作られた浄瑠璃の演目を歌舞伎化した物です。

盲目の夫とそれを支える妻のすれ違い故に起きる悲劇と奇跡を描いた作品で今回は盲目の沢市を本来お里が持ち役である徳三郎、妻のお里を我童が演じています。

この五代目嵐徳三郎について知らない方も多いかと思いますので少し説明したいと思います。

彼は以前に紹介した四代目嵐璃寛の贔屓先の御曹司でしたが、生家が没落した事から璃寛が養子として引き取り役者となった人物でした。

彼を良く知る二代目實川延若によれば

 

嵐和三郎といった若い時分からスッキリとした細面のところ、上方の市村羽左衛門とさえいはれた方でしたが、(中略)呑気坊主といひますが役者としてはあれだけいい素質に恵まれていながら、どうも芸の上ではも一つ気を入れて勉強せぬ性質で、惜しい人でした。」(延若芸話)

 

と役者としての素質がありながらもどうもやる気が今一つ無かった性格だったそうです。

それに加えてこの人は奇妙な癖があり、何か気に入らない事があるとすぐ弱気になって芸者などを連れて舞台の初日前に駆け落ちしてしまうという事が多々あったらしく役者仲間の間では「駆け落ちの徳三郎」という有難くもない仇名があったほどでした。

そして延若は大正8年3月の中座で多見蔵、璃寛(徳三郎)、延若、我童、歌六と大正5年以降年に1回は道頓堀に出演するようになった仁左衛門が加わっての十代目片岡仁左衛門の二十五回忌追善公演の時の逸話を紹介しています。(璃寛と歌六は仁左衛門の親戚であった為に出演しています)

 

私と先代仁左衛門さんと二人で火鉢を囲みながら、何かと世間話をしていたのですが、話題がたまたま今度の芝居の中幕に出る(中略)「壷坂」の芸談に移って

 

『お里のサハリはどうもこれまでの行き方では感心しませんな…(中略)芝居でも文楽でも、お里が一人立ち上がって派手に動くもの決(ま)っているやうだすが、相手の澤市は盲目やさかい、何も見えへン道理や、見えもせぬ澤市に派手な動きを見せても理屈に合わンことや、ここは一工夫して、盲目の澤市にもわかるやうや動きを考えなアカン…それが葉村家(徳三郎)に出来るか知らンて

 

などと勝手な変痴気論に気焔をあげていたところ、それが、偶然にも障子一重へだて廊下を通るりかかった葉村家(徳三郎)さんの耳へとフト入ってしまった。

 

サァ、えらい事になってきた。皮肉屋の松嶋屋(仁左衛門)と理屈屋の河内屋(延若)六ヶ敷い(うるさい)注文してよる。(中略)エエ、面倒くさい、また駆け落ちしたろ

 

と、(中略)妓と大阪駅から後は野となれ山となれで何処かに飛んで行ってしまひました。」(延若芸話)

 

と奇しくも今回と同じ壷坂を巡るトラブルが原因で初日を目前に控えてドタキャンした事を生々しく書いています。

こんな奇行があったせいか今回の公演から2年後の大正7年に養父の名跡である璃寛を襲名するもさして話題にもならず、襲名から2年後の大正9年に死去してしまいました。今回の公演で特にトラブルがあったという事は書かれてはおらず逃げずに無事幕を空けたようです。

 

二番目の金閣寺は今もよく上演される祇園祭礼信仰記となります。

中幕と同じく我童が本役の女形で出演し三姫の一つ雪姫を務めています。

対して松永大膳久秀を巌笑が務めています。

この嵐巌笑についてもこれまで紹介していなかったのでこれを機に紹介したいと思います。

 

彼は徳三郎と同じく四代目嵐璃寛一門の出身で若かりし頃は京都の道場芝居で腕を磨き、一時は同じ舞台に出て覇を競い合っていた初代中村鴈治郎を凌ぐ人気があり、巌笑の苦情(クレーム)で鴈治郎が涙を呑む事もしばしばあった程でした。

しかし、この人の最大の欠点は師匠譲りの大時代な台詞廻しに加えてそもそも台詞をよく間違える上にトチりが多い事でした。

 

延若も言い廻しと台詞を間違える事について相当悩まされたらしく「延若芸話」に詳細に渡って記していて

 

鎌倉三代記

 

正しい台詞「初心の土民と拵え澄まし

 

巌笑「初心の土瓶と拵え澄まし

 

近江源氏先陣館

 

正しい台詞「いもり、みみずと姿をやつし

 

巌笑「いもり、メメズと姿をやつし

 

という状態で

 

それを傍からいくら注意しても、御当人、一向に無頓着の平左なのですから注意するとこちらが根負けしてしまひます」(延若芸話)

 

と本人も一向に気にしない様子だったそうです。

そして台詞廻しも

 

御所桜堀川夜討

 

台詞「そればっかりが残念

 

巌笑「そればっかりが、アざ、アざ、アざ、アざ、アざ、…~んねん

 

という感じで師匠の「エー」に張る位特異な言い方だったらしく延若もこれを聴いて

 

思わずプッと吹き出してしまいました。」(延若芸話)

 

だったそうです。

 

嵐巌笑

 

ただ、尾上多見之助を紹介した時に引用した梅玉芸談にも書かれていましたが姿形や台詞以外の押出や見得などの極りが良いだけに似たような境遇にあった多見之助に比べるとまだ役に恵まれていたのが分かります。

また最晩年の彼を知る二代目中村鴈治郎も自伝の中で

 

押し出しの立派さには圧倒させられたものです。(中略)台詞に癖はあっても、その癖に一つの持ち味があり、芸は古風で立派でした」(役者馬鹿)

とその芸を称賛しています。

金銭感覚が破綻していて稼ぎ以上の大金を使う浪費癖があった鴈治郎とは対照的に倹約家で二代目中村梅玉と並び上方役者随一の資産家としては名を馳せましたが、役者としては結局大成する事は出来ず大正時代に入ってからは道頓堀の劇場で主役を演じる事は皆無になり鴈治郎一門の脇役のポジションに甘んじる事になりました。しかも上記の様なトチりをする度にかつては競い合っていた鴈治郎に怒鳴り散らされ衆人環視の中で頭を下げる事も多々あったようです。

 

そういう事情を踏まえると遥か年下の我童の一座に加わり地方巡業とはいえ、久しぶりに大膳やら十郎やら大阪では滅多に演じれなくなっていた大役を演じれるのは本人にとっては幸せだったのかも知れません。

余談ですが江戸時代は上方歌舞伎の名門と謳われていた嵐一門も明治時代に入り急速にその勢力が衰退し、四代目嵐璃寛の死去後、今回紹介している徳三郎、巌笑に加えて以前紹介した橘三郎と璃珏、吉三郎の5人が主力として活動していましたがご覧の様に本家の徳三郎が今一つで橘三郎が大正4年に亡くなると残りは巌笑と璃珏、吉三郎の3人となり、璃珏も大正7年に亡くなると残すは巌笑と吉三郎のみが残りましたが元々吉三郎は二代目雀右衛門の弟子でたまたま吉三郎を継いだに過ぎず、嵐の芸風を継いでいたのは事実上巌笑1人のみでした。しかし既に斜陽状態の嵐一門を支えられるだけの力は彼になく、嵐本家の出身で三代目璃寛の曾孫と玄孫であった六代目嵐徳三郎と嵐寛寿郎が劇界でロクな扱いをされない事に嫌気がさし昭和に入って相次いで映画界に転出してしまった事により歌舞伎界での嵐家は事実上滅亡する形となりました。(一応前進座には一門の嵐芳三郎家が残っています)

 

大切の醉菩提はこちらも聞き慣れない外題ですが、本来の外題を鶴千歳曽我門松といい、歌舞伎では専ら野晒悟助の通称で呼ばれています。今回の外題の由来は原作である山東京伝の「醉菩提野晒悟助」から付られたようです。

河竹黙阿弥が、五代目尾上菊五郎の為に書き下ろした侠客物で颯爽とした男前が求められる野晒悟助を我童が務めています。音羽屋とは縁も所縁もない我童が何故この演目を選んだかは不明ですが立役としての芸幅の広さを伺えます。

 

以前にも軽く触れましたが鴈治郎の次の世代である福助、魁車、延若、我童、雀右衛門、右團次は松竹の鴈治郎偏重の悪影響をモロに受けた形になりました。その為、この5人は壮年期に入り否応なしに鴈治郎に付くか否かの選択を迫られる事となりました。

 

そして、

 

福助…養父梅玉に付き従い鴈治郎の相手役に収まる

魁車…鴈治郎一門の脇に甘んじつつも合間を縫って好き勝手に活動

 

上記の2人は鴈治郎に付く事を選択し、対して

 

延若…鴈治郎とは端から一線を画し独自の活動を選択

雀右衛門…歌舞伎座での娘役を終えて雀右衛門を襲名した後はたまに鴈治郎一座と共演はするものの基本的には延若一座に合流して延若の相手役として収まる

 

この2人は独自の活動を選びました。

しかし、残りの右團次と我童は大阪では鴈治郎の一座に参加しつつも1年の大半は巡業に明け暮れるというのはどっち付かずな状態でした。

 

立役も女形も出来るものの芸幅では延若、魁車に劣るが故にどちら側にも行けず今回の様に相手役をやったり自分が主役をする巡業には適任…そんな我童の「活かさず殺さず」の様な宙ぶらりん状態を今回の巡業は暗に示していると言えます。

そんな我童が漸く自らの居場所を確保出来る様になるのは昭和に入ってからの事になります。

 

因みに入りの方はというと鴈治郎同様一週間の短期公演だったようですがこちらも札止め大入りで大成功だったようです。

 

この様に戦前の上方歌舞伎が抱えていた歪な部分や衰退の一途を辿っていた嵐一門の様子が伺える公演です。

大正時代の名古屋の劇場の物は今現在これで最後ですが、昭和の御園座の筋書は何冊か持っていますので昭和に入ったらまた紹介したいと思います。