オグデン/リチャーズ共著、石橋幸太郎訳『意味の意味』(新泉社 一九八八)にふつう「意味の三角形」と呼ばれる、下記のような三角形が示されています。
この図に関しては、同書にはつぎのように記されています。
〈思想と象徴との間には因果関係が支配する。われわれが談話に用いる象徴体系は、一部はわれわれの行う指示により、また一部は社会的、心理的要因――つまり指示の目的や、われわれが象徴によって他人に与えようとする効果や、われわれ自身の態度――によってひき起こされる。人の話を聞くとき、象徴はわれわれに指示活動を行わせるとともに、事情により多少の差はあろうが、話者と類似の行動や態度をとらせる。
思想と指示物との間にもまたある関係がある。その関係は、あるいは(眼前の色彩ある表面を考えたり、注視したりする時のように)多少なり直接的であり、あるいは(ナポレオンのことを「考え」たり、「指し」たりする時のように)間接的である。後の場合には思惟行為と指示物との間に長い記号場の連鎖があるであろう。すなわち、語―歴史家―当時の記録―目撃者―指示物(ナポレオン)。
象徴と指示物との間には間接関係以外にとりたてるべき関係はない。その関係は誰かが象徴にある指示物を表させる時に生ずる。言いかえれば、象徴と指示物とは直接に連結されているのではなく(文法的理由のために、かような直接関係があるかのごとき言い方をする時には、それは単なる想定関係であって真の関係ではない)、ただ三角形の二辺を廻っての間接関係であるにすぎない。
例えば、「犬」という言葉と、われわれがよく街頭でみかける動物(犬という物)との間には、何ら直接の繋がりは存しないということ、および両者の間に在る唯一の関係は犬を指すときにこの言葉を用いるということだけであるということは改めて述べるまでもない。〉
どうも分かりにくい文章ですが、言葉の意味には三つの要素が関わっていることがいわれています。
この「意味の三角形」について大熊昭信氏は『文学人類学への招待』(NHKブックス 一九九七)の中の「パースの記号学」と題した一節で、パースの記号学との関係を考察されています。
〈このリチャーズとオグデンの展開した意味の三角形は、パースのいっている記号の三つの要素と重なっている。それもそのはずで、リチャーズとオグデンはどうやらパースの影響下にあったといってもよく、その著作のなかでちゃんとパースに言及しているのである。石橋の訳した象徴の原語は「シンボル」であるが、これはパースのいうサインつまり記号と読み替えても差し支えない。
また、パースは、記号とは、一方ではその対象と関係し、他方ではその解釈項と関係するものであると定義している。〉
つまり、つぎの図のような対応関係があるというわけです。
ところで、「意味の三角形」といいながら、「意味」はどこにあるのかという疑問が湧いてきます。そこで内田種臣編訳『パース著作集2「記号学」』(勁草書房 一九八六)のD「記号現象」をみると、つぎのように記されています。
〈記号の本来の意味作用の結果に対して、私は記号の解釈項という用語を提案している。〉
〈通常、記号の意味と呼ばれているものとしての解釈項を識別しなければならない。云々。〉
これらをみると、「解釈項」とはつまり「意味」であると解してよいと考えられます。(ただし、パースの「解釈項」という概念は単純ではなく、いずれもうすこしよく考えてみたいと思います。)
そこで、つぎのようにまとめた三角形を、わたしは「言葉の三要素」を表した図として考えています。
ところで、「言葉の意味 4『二種類の意味』」(
2012.4.13)で触れていますが、言葉には二種類の意味がありました。
〈ここまでで分かるのは、言葉には二種類のものがあり、それはつぎのようなものであるということです。
一つは、言及対象との関係から抽象されて辞書に登録されている最大公約数的な意味。
もう一つは、言語使用者との関係で規定され、語が喚起する個人的・情感的・情況的な含意。〉
たとえば、「馬鹿」という言葉の意味は、広辞苑をみるとつぎのように書かれています。
①おろかなこと。
②取るに足りないつまらないこと。
③役に立たないこと。
④馬鹿貝の略。
⑤(接頭語的に)度はずれて、の意。
これらは、「意味論的な意味」あるいは「指示表出的な意味」ということがいえます。
これに対して、いとおしさを込めて「馬鹿」ということがあると思いますが、この場合の意味は辞書には書かれていません。しかしこれも明らかに一つの意味をなしています。
これが「語用論的な意味」あるいは「自己表出的な意味」というものです。
上記のオグデン/リチャーズの「意味の三角形」は、「言及対象」つまり「指示対象」との関係から発生する「意味論的な意味」あるいは「指示表出的な意味」を表す図式であると考えられます。
これに対して、「語用論的な意味」はこの図式に関わってどう位置づけられるのでしょうか。「自己表出的な意味」の方は「言語使用者」との関係から発生する意味であって、「指示対象」の対角にもう一つ「発語主体」という項が必要になります。
そこで、わたしはつぎのように、三角形を二つ合わせた「菱形の四辺形」の図を考えました。これで二種類の意味のあり方を図示できるのではないかと考えています。
ところで、言語学者ソシュールはよく知られているように、つぎのような図を残しています。
この図の楕円で表されるものは「シーニュ(記号)」であり、「聴覚映像」は「シニフィアン(意味するもの)」、「概念」は「シニフィエ(意味されるもの)」であるということです。
この図と、わたしたちの考える「言葉の三要素」の三角形あるいは菱形四辺形とはどういう関係があるのでしょうか。
ソシュールの考える「シーニュ(言語記号)」には、「指示対象」や「発語主体」はとりあえず含まれていないと思われます。
そして、「シニフィアン」とは「記号」であり、「シニフィエ」は「意味」を指しているものと考えられます。