メキシコの高原に住むウイチョル族(Huichol)は幻覚性植物のペヨーテを服用して神話世界と自由に交流する儀式を行なう事で知られています。

 

イニシエーションにはじめて参加するウイチョル族の若者は身を清め、断食をして村から約550km離れたペヨーテが自生するウイリクタ(wirikuta)まで苛酷で辛い巡礼の旅に出ます。

長く苦しい旅の末、ようやく目的地の山中にたどり着きます。そこでマラカメと呼ばれる呪術師によって強い苦みがあるペヨーテを食べる神聖な儀式がおこなわれます。 

 

満天の星空の下、ペヨーテを食べて聖なる焚き火タテワリを見つめていると生命の根源の力が大地から満ちあふれて、無数の光と色彩がリズミカルなダンスを繰り広げます。荘厳なヴィジョンの中で参入者は世界の秘密を知るのです。 

ウイリクタはペヨーテ狩りをする土地の名だけでなく先祖の住む世界も意味します。それは大地に織り込まれている全ての命や物質を創造するエネルギーの場でもあります。アボリジニはそれをドリームタイムと呼びました。

 

『いつの日かすべての人が、ペヨーテを摂ったときにお前が見たような「ウィリクタ」にたどり着くことになるだろう。そのときには「最初の人」たちが戻ってくる。大地は浄められ、水晶のように輝くだろう。私にはまだそれがはっきりと完全に見えていない。でもあと五年もすれば、もっと高い世界が開かれて、私もそれをくまなく見ることになるだろう。世界は終わりを迎え、地上に統一がもたらされるだろう。しかし、それは浄いウィチョルだけしか体験できない。

世界が終わるとき、ちょうどペヨーテ狩りのあいだ、いろいろなものの名前が変わってしまったような状態になる。あらゆるものが変化をおこし、すべてのものが今ある状態とは反対のものに変わる。

いまは天には太陽の神と月の神という「二つの目」がある。しかし世界の終わりのとき、月の神の目が大きく見開かれ、今よりも強く輝くようになる。太陽の神の力は弱くなる。そのときには、ものの区別は消えていく。男と女の違いもない。子供と大人の区別もない。すべてが今ある場所から抜け出していく。呪術師ですら、特別じゃなくなる。われわれがウィリクタに行くときには、かならず役割の転換をしなけりゃならないのは、そのためだ。なぜなら、老人も赤ちゃんも、同じ存在だからだ。』(ウイチョル族の呪術師ラモーン) 

 

 

ウイチョル族のニエリカ(神の顔)と呼ばれる毛糸絵 (nierika)には二つの道が描かれていました。左の道では大きな棘に刺し貫かれる試練を受けます。欲望のままに生きた者はむち打たれ、火に焼かれ、岩に打ち砕かれ、虫がわく汚水を飲まされます。魂は苦痛をともなう長い試練をくぐりぬけて、ようやく浄らかな右の道に戻る事ができました。

右の道では動物や鳥に許しを乞わなくてはならず、聖なる動物の肉を食べた事がない事を証明したのち命の根源を象徴する毛虫に出会って旅を終えます。ようやく先祖の住むウィリクタに融合できたのです。 

 

私たちは母親から分離したとたん世界から切り離され、孤独と不安の中に突き落とされます。私たちはこの世で苦しみから逃れようと、あらゆる行為を無我夢中で繰り返しています。全体に戻ろうと葛藤しているのです。

 

70年代、物質的な世界の物の見方しかしない自分たちの文化に疑問を抱いていた若者にとってカスタネダの「呪術師と私・ドンファンの教え」はバイブルとなりました。たちまちカスタネダの師ドン・ファンは精神世界のグルとなりました。

 

私たちが見る事を妨げているのは言葉による思考の分析作用です。カスタネダはおしゃべりで内的経験を損なっていました。あるがままの自分を感じるのではなく、しゃべりまくることでそこから逃げてしまっていました。物事を全体性の中であるがままに理解することをドンファンは『世界を止めて見る』と言いました。 

 

文化人類学者の卵だったカスタネダはいつもペンを持ってノートを取るので、「ノートブックは、いわばおまえのひとつの呪術だ。」と呪術師にからかわれました。

 

合理的な解釈でしか世界を見ない頑固なカスタネダに呪術師のドンファンは神話世界を体験させるためカスタネダにペヨーテを食べさせました。世界をあるがままに見ようとしないカスタネダは最初に「見る」ことを学ばなければならなかったのです。 

先住民の文化には分離したリアリティを再び統合させる儀式が見られます。

 

ウイチョル族のペヨーテ狩りに出かけるのは主に男性で女性達は村で男達の無事を祈って帰りを待ちます。ある学者が「女性は秘密の智慧を得ることを許されず、いつも村で留守番は不公平ではないか?」と出迎えの女性に尋ねました。 

「男達はかわいそうにあんなにまでしなければ、智慧に近づくことはできないんだよ。ところが女は自然のままにそれをしっているのさ。」とその女性は笑いながら答えました。 理屈や論理、分析は男性的で左脳の特徴でもあります。 

 

ウイチョル族には夫が妻の出産を疑似体験する出産儀礼が報告されています。 

「ウイチョルの伝統では、女性が初めて子供を出産するときには、夫は妻の真上で、家の天井付近にまたがり、自分の陰嚢に紐をくくりつけて待機することになっている。妻は陣痛に襲われるたびにその紐を強く引っ張り、それによって夫は彼女の苦しみを共有しながら、子供を得る喜びを経験することが出来るのである」 

 

ウイチョル族のペヨーテ儀式はアステカを滅ぼしたスペイン人のキリスト教宣教師たちの度重なる禁止令にも関わらず今日まで生き延びました。

 

アメリカではNative American church (NAC)を設立した北米のアメリカインディアンの信者に限って宗教儀式におけるペヨーテの使用が認められています。

瀬織津姫の名がついた神社は珍しく全国でも三社しかありません。その一社が東北にあります。

 

 

唐桑半島舞根の瀬織津姫神社は東日本大震災で被害にあったので新しくなっていました。

由来によると元正天皇(女帝在位715~724)の勅命により熊野本宮の神を勧請して紀伊の国造藤原押勝は紀州名草の鈴木左衛門尉穂積重義と湯浅の湯浅玄晴を従え宮城と岩手の県境の唐桑半島に船で到着しました。

最初に神霊を安置したのが気仙沼市唐桑町鮪立(しびたち)の業除権現神社です。

 

次に熊野本宮の神を舞根に安置したのが瀬織津姫神社です。
熊野本宮の神とは瀬織津姫でした。しかし本宮・新宮・那智からなる熊野三山に瀬織津姫の名前は見当たりません。

那智の古文書によると熊野の那智大滝で祀っていた瀧神は瀬織津姫のことで那智ではみそぎ祓いをしていました。


岩手は瀧神として瀬織津姫が祀られています。熊野でも昔は瀧神として瀬織津姫神が祀られていたのです。


熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社は出雲の熊野大社から分霊されたと社伝にあるのでスサノオとニギハヤヒと瀬織津姫が祀られていたと思います。

 

ただし、祖霊信仰以前は縄文人の自然信仰の祭儀の場所だったと思います。
神社の祭神は支配者が変わるたびに変わっているケースがあるので重層的です。

 


室根神社の伝承で多賀城の鎮守府将軍が蝦夷討伏(とうぶく)を祈願して熊野本宮の神を分霊して室根山に祀ったといいます。

 

その神とは唐桑半島舞根の熊野の神、瀬織津姫のことでした。

 


室根神社の歴史は古く1300年前に遡ります。
特別大祭は国の重要無形民俗文化財になっています。

室根山の古名は鬼首山(おにかべやま)といい蝦夷の根拠地でした。

 


 

日高見の中心地の胆沢にはアテルイがいて朝廷に抵抗していました。

室根神社は本宮が伊弉冉(イザナミ)命、新宮には、速玉男命(はやたまのをのみこと)と事解男命(ことさかのをのみこと)を祀っていますが本来は、瀬織津姫を祀っていたと思われます。

瀬織津姫は禊祓いの神として祝詞に出てきますがその大祓祝詞に「大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を定めまつりて」と国の名前が出てきます。

 

今の奈良県が大倭で「日本書紀」に東(あづま)の夷(ひな)中に日高見国(ひだかみのくに)有りとあるように奈良より東北の地域は朝廷に服従しない日高見国でした。

 

日本は統一国家ではなく大倭と日高見の二つの国があって日高見国は独自の文化と言語をもって千年以上も独立を保っていたのです。

 

蝦夷とは東北に住んでいる人々のことを指していたので盛岡に住んでいる私も蝦夷ということです。

 

◉2019年9月14日(土)

「瀬織津姫とマグダラのマリア」
〜封印が解かれた女神〜
トーク:清水友邦 & 武藤悦子
ダンス・パフォーマンス:アムリッタ朝子
https://www.facebook.com/events/2407600376138587/

瀬織津姫は古事記、日本書紀にまったく名前が出てこない謎の女神で大祓詞に祓戸四神の一柱として登場します。

伊勢神宮の内宮別宮荒祭宮では天照大神の荒魂として向津媛(むかつひめ)を祀っています。

 

伊勢神宮の神道書「倭姫命世記」では荒祭宮祭神の別名を瀬織津姫、八十禍津日神としています。瀬織津姫は天照大神の荒魂向津媛(むかつひめ)として伊勢神宮に祀られていました。

 

オオモノヌシ(大物主櫛甕玉命)とその子孫のオオタタネコ(大田田根子命)の作と伝えられる『秀真伝』は瀬織律姫をイザナギ、イザナミの皇子である男性のアマテラスの正妃で、ムカツ姫(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)が瀬織律姫のことだとしています。

 

日本書紀の神功皇后記に仲哀天皇が死んだ後、その仲哀天皇を祟った神を神功皇后が呼び出した神名として向津媛の名前が出てきます。神功皇后が難波に向う途中で天照大神が登場し我が荒魂を皇后の近くに置くのは良くないので廣田に置くようにと託宣しました。

 

現在、兵庫県西宮市の廣田神社の主祭神は天照大神荒魂 ・撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)となっています。しかし、昔の由緒書きによると主祭神は瀬織津姫でした。

「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」のアマテラスは大日霊女貴尊(おおひみこむちのみこと)と記され、別名撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)となっています。

 

同じく「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」にニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神となっている男性のアマテラスであるニギハヤヒは「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されています。

 

ニニギ(天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊)よりも速く生まれたのでニギハヤヒ(饒速日)なのでしょうか。ニニギは皇室の先祖です。

 

今の天皇家と別系統の天皇が神武以前のニギハヤヒなのです。

 

「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」によると饒速日の妃は複数いて「天日神命(あまのひのかみ)の娘で天香語山命(あまのかごやまのみこと)を生んだ天道日女命(あめのみちひめのみこと)とウマシマズ(宇摩志麻治命)を産んだ御炊屋姫(みかしきやひめ)がいます。

 

古事記にはニギハヤヒの別名、オオトシ(大歳)の妃として「天知迦流美豆比賣」(あめ・ちかる・みづ・ひめ)が出てきます。

そして国宝の海部家の系図では市杵島姫命(いちきしまひめ)がニギハヤヒの妃となっています。

 

ニギハヤヒは大国主と同じ称号で何世代も続いたのではないかと思います。瀬織律姫の神格は奇稲田姫(いなたひめ)や丹生都比売(にうつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ)、菊理姫(くくりひめ)とも同一視されています。

 

岩手県の桜松神社の祭神は 滝津姫命となっているが以前は瀬織津姫でした。村社から社格が郷社に格上げされた時に名前が変わったのです。

 

金沢に瀬織津姫神社という名前の神社がありますが瀬織津姫という名前の神社にもかかわらず祭神が瀬織津姫ではなく多くの禍をもたらす穢れた神の禍津日神(まがつひのかみ)として祀られています。このように瀬織律姫が別の神に置き換えられているケースが多いのです。

 

正妃を「むかひめ」嫡子を「むかひめばらのみこと」と神武記あたりから読むようになりました。

 

正妃とは父系社会の条件づけであって母系社会に正妃はいないのです。日本の古代は氏族も母系制でした。血統と財産は母から娘へ受け継がれました。

 

日本では家父長制が入ってきても完全な父権社会に移行せずに母系と父系の折衷としました。

平安時代まで通い婚がおこなわれ、推古、斉明、持統と何人もの女性天皇が即位しています。

 

古代天皇の血脈は物部氏、葛城氏から出ていましたが勢力争いの結果、没落し藤原氏が力を得ると元の母系は隠されてしまいました。ニギハヤヒと「瀬織津姫」その末裔である物部氏は歴史の闇の中に姿を消したのです。

日本が全体性を取り戻すには闇に光が当たり、隠された真実が明るみになる必要があります。瀬織津姫が表にあらわれてきているのは日本が危機状態にあるからでしょう。

 

日本の再生の象徴になっているのが禊と祓いの女神「瀬織津姫」です。それは女性原理が優位になってバランスを回復する歴史の自然治癒の現れなのです。

 

◉2019年9月14日(土)

「瀬織津姫とマグダラのマリア」
〜封印が解かれた女神〜
トーク:清水友邦 & 武藤悦子
ダンス・パフォーマンス:アムリッタ朝子
https://www.facebook.com/events/2407600376138587/

すべての道の究極はどれも同じである。
どんな道を進むにせよ、大切なのは心ある道を進むことだ。
その道に心がなければ、少しも楽しくはない。
心ある道は楽しく旅ができ安らぎがある。
戦士は心ある道と一つになることができる。
そしてたどり着いた先で、その結果や意味について何の関心も抱かない。

 

「チベット死者の書」「Be Here Now」「カスタネダの呪術師シリーズ」は70年代の若者にとってバイブルのようなものでした。

 

カスタネダは世界に大きな影響を与えました。

ドンファンから教わった夢の中で覚醒して自分の手を見る夢見の訓練をしたのもこのころです。

 

70年代はこのカスタネダの話題で持ちきりでした。

当時20代だった私は71年にバスでソノーラ砂漠を横切る中でカスタネダを読んだ吉福さんから話を聞いたり、「気流の鳴る音」を出版した見田さん(真木悠介)のゼミに行ったこともありました。

 

カスタネダの最初の本「呪術師と私」が出版された1968年は歴史のターニングポイントの年でした。

 

社会主義政権下のポーランドのワルシャワ大学では民主化を要求した「3月事件」、

チェコでは民主化を要求してソ連が軍事加入した「プラハの春」、

パリでは学生によるゼネスト、

メキシコでは民主化要求デモに警官隊が発砲し学生が200〜300人が死亡しています。

 

日本では成田空港建設に反対する三里塚闘争が過激化、東大紛争の発端となった東京大学医学部の無期限ストライキが勃発して全学部に拡大して69年の入試中止、さらに日本全国の大学紛争に拡大していきました。

 

1968年は全世界で民主化を求めて大規模なデモが発生して世界が激動・震撼した年でした。

 

ナイジェリアではビアフラ(Biafra)戦争により数百万人が餓死しています。

 

アメリカではマーティン・ルーサー・キング牧師とロバート・F・ケネディ上院議員が暗殺され、北ベトナムで「テト攻勢」が起きてかつてないほどのベトナム反戦運動の高まりが起きていました。

 

ヘイトアシュベリー地区では反体制の大集会「Be-In(ヒューマン・ビーイン)」がおこなわれていました。

 

サイケデリック革命が起き、ヒッピーが社会現象となってドロップアウトをする若者は激増し、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーを目指したのがこの頃です。

ヘイト・アシュベリー地区で資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指して、無料の食料配給が行われていました。

ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロック・バンドやジャズ・バンド等による演奏や詩の朗読、サイケデリック革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われていました。

 

そして1968年はビートルズが高次の意識を求めてインドの旅に出た年です。

 

「人生にとって大事なことは自分が何者で、どこに行こうとしていて、どこから来たのか?それを自分に問いただすことだと思った。」ジョージ・ハリスン

 

探求者たちはありとあらゆるサイケデリックを試し、インドやネパール、日本に行き、ヨガ、瞑想、禅の修行に励み、エサレンやエストなどのサイコセラピーやワークショップに突き進んだのです。

 

文化人類学の学生だったカルロス・カスタネダは1961年から1971年までのおよそ10年間インディオ、ヤキ族のシャーマン「ファン・マトゥス」に弟子入りして、知者の訓練の様子をフィールドノートして10冊以上の書物に残しています。

ドン・ファンは「心ある道」を歩むようにカスタネダに教えました。「ドン」は名前につけるスペイン語の敬称です。

 

ドン・ファン
「デビルズ・ウィードは知者の秘密へのひとつの道でしかないんだからな。
他にも道はあるんだ。だが彼女の罠っていうのは、
お前に道はそれだけなんだと信じこませちまうことなのさ。
わしは、たったひとつの道、それに心がなかったら
特に、その道のために一生をむだに生きるのはくだらんと言ってるんだ」

 

カスタネダ
「だけど道に心がないってことをどうやって知るんだい?」

 

ドン・ファン
「それを歩きはじめる前に聞いてみるんだ、この道には心があるか?とな。
答えがノーならお前にはそれがわかる。そしたら別の道を選ばにゃならん」

 

カスタネダ
「でも、どうすればその道に心があるかどうかはっきりわかるんだい?」

 

ドン・ファン
「誰にだってわかるさ。ただ問題は誰も聞いてみないことだ」

 

ドン・ファン
「わしにとっては心のある道を旅することだけしかない。
どんな道にせよ心のある道をだ。
そこをわしは旅する。
そしてその端までたどりつくのが唯一価値あることなのだ。
その道を目をみはって、息もせず旅して行くのだ」

 

この本は事実かフィクションか随分話題になりました。本に出てくるカルロスはじれったいほど物分かりの悪い紋切型のステレオタイプとして登場するのでフィクションであることは歴然としています。

 

本に登場する主人公のカルロスとは作者のカスタネダに内在していた、偏狭的な近代合理主義のマインドを類型化したものだと言えます。

 

カスタネダがナワールを自覚することで自分の無意識の領域、夢、恐怖、病的な神経症の状態を客観視できるようになったことは事実でしょう。

 

そのようなことでは事実かフィクションかは抹消的なことで問題にならなくなります。

 

ノートと筆記用具を手に持っていたカスタネダにドン・ファンは「歩くときには、手にはなにももつなと言っただろう。ナップサックを買え」と言います。

 

カスタネダは体の不調を訴えていました。本当はどうしたいのか体に聞いてみなくてはいけません。カスタネダは頭で生きていたので盟友の声を聞くことができなかったのです。

戦士の戦いとは自分のなかのおしゃべりを止めて心のある道をあゆむことでした。

 

カスタネダは戦士となり世界を自分の狩場に変えました。そして自分の経歴を消し去り、決まりきった習慣をやめ、人生の課題に対し責任を取るようになったのです。

 

カスタネダの死によって著作は終了しました。最後の著作「無限の本質」でドン・ヘナロは広大な大地を抱き締める仕草をしました。戦士が旅で拠り所する存在は母なる大地しかないことを教えたのです。

 

最後の教えは「大地を愛すること」でした。カスタネダの遺骨はソノーラ砂漠の大地に返されました。そしてこのシリーズは終わったのです。

広島に原爆となって日本に落とされたウランはアメリカ先住民ホピの聖地から掘り出されました。

ホピ族は予言していました。

 

「母なる大地から心臓をえぐり出してはならない、もしえぐり取ったならば、それは灰のつまった瓢箪と化し、空から降り、やがて世界を破滅に導く。この瓢箪の灰は、恐ろしい破壊力を持ち、川を煮えたぎらせ、大地を焼き尽くし、生命が育たなくなる。そして人々は不治の奇病に苦しむのだ。」


ホピの大地は現在、巨大な核廃棄物の処理場なっています。そこに住んでいたホピやナバホの住民は被爆しました。

100万キロワット級の原発が1年間に燃えかすとして出す放射能は、30~40億キュリー、これは、広島原爆のまき散らした死の灰の約1000倍、に相当します。いいかえれば、私たちひとりひとりの身体に対する許容量のおよそ2000兆倍にも相当する桁はずれの毒性をもった量になります。日本にあるプルトニウムの量は長崎の原爆4000発分、2.4万年続くプルトニウムの毒性はウランの20万倍にもなります。

 

そして、福島の放射能が大気と太平洋に放出されて地球全体に広がっています。しかし、現代人は頭の中の思考を自分と思い込み、経済を神と仰ぎ、環境破壊を続け母なる地球に依存していることを忘れています。大地との繋がりを断たれた人々は母親から引き離された子供の様に不安に襲われ苦悩にあえぎます。

 

原発を早く増設しろとけしかけたのは福島県議長でしたが事故後は「頭では危険だと分かっていても実際に現場に来て、被害のすさまじさを見てないから、再稼働しようということになる」と言いました。

 

昔、東海村に原発を誘致した梶山官房長官は臨界事故の後に態度を一変させました。事故の報告を受けて「安全というなら、自分の床の間にでも飾っておけ」と語ったのです。

 

放射能を好きな人はいません。実際に被害に遭わなければそれがわからないのです。安全だと言っている学者も、政府の役人も政治家も自分の家族や友人、子供や可愛い孫が被爆して病気になれば態度を改めるでしょう。

 

福島の楢葉町は電源三法交付金で道路建設、コミュニティセンターや陸上競技場や野球場を建設しました。しかし年間二千万円以上の維持費が必要で財政を圧迫しました。原発誘致した町は費用を調達する為に族議員がさらに補助金を獲得する運動を展開しました。

 

そして原発事故により街は汚染され町民は移転し、建物だけが残ったのです。
放射能汚染で無人となった町ではお金をえるために働く場所も使うお店もありません。放射能汚染で使われなくなった原発交付金で建てた立派な建物がその事を気づかせてくれます。

 

原発は経済を根底から崩壊させました。原発マネーは偽りの経済でした。しかし事故が起きる前にそれに気づくのは難しかったのです。私たちの頭には物質的な快楽やお金の価値が何よりも優先されると完全に刷り込まれていたからです。

環境や健康や命よりも経済、金を優先するのが原発の建設理念です。

 

今の世の中はお金が支配しています。それが幻想だと気がついた時、世界は変わることでしょう。

お金の計算をする左脳の分析的、合理的思考が活性化し、統合的で感覚的な右脳の働きが抑制されているのが原発事故を起こした現代社会です。

 

安全と唱える大学の先生も経済の損失を唱える経済評論家も電力会社も官僚も政治家も環境と生命全体の利益は考えません。左脳優位となった人間は他の生物を脅かす存在となっています。

 

放射能は公平にあらゆる人々に被害をもたらします。原発を安全だと言っている原発企業も政治家も官僚も大学の教授も脱原発も推進も放射能は選びません。問題を避けても誰もが放射能と直面せざるをえません。変化を嫌って病的退行をしても苦しみが続くだけなのです。

 

原発企業の幹部も推進派の政治家も官僚も大学の教授も、皆やがて大地に帰って消えてしまいます。そして、未来の子供達に数万年消えない放射能に汚染された海と大地だけが残されます。私たちの社会は深く病んでいます。

放射能がどのように人体に被害をもたらすのか、人々は原発については何も知らないし、知らされてもいなかったし、知ろうとも思いませんでした。すべてが崩壊することなど夢にも思わず生活して来ました。

 

原発が10万年以上、空も海も大地も汚染させることを本当に知っていたら原発は推進出来なかったでしょう。

昭和29年の第五福竜丸の被曝をきっかけに母親たちが立ち上がり、日本全国から3000万人の署名が集まりました。しかし、原爆を落とされ放射能が怖いと言っていた日本人でしたが、原発は原爆と違い平和利用で安全と思い込まされました。

日本人は洗脳されやすいのです。

 

今までの日本人は人間ではなく機械でした。政府の報道やマスコミの情報操作のまま機械の様に行動してきました。原爆を落とされたにもかかわらず、言われるまま54基の原発を日本全国に作り続けてしまったのです。

 

私たちの自己感覚は他の動植物を含む地球のいのちのネットワークまで広がっていません。原発を扱う人間の自我があまりにも狭すぎるのです。

 

私たちの自我の境界が地球規模にまで広がらなくてはいけない時期に来ています。機械から目覚めて新しい文明に移行するのか。眠りこけたまま苦しむのか。日本は今、重大な岐路にあります。

『ホピの予言』ランド・アンド・ライフ
https://www.landandlife.org

傀儡(くぐつ)は平安時代よりもはるか昔から、定まった家を持たずに各地を渡り歩いた日本最古の神事芸能集団です。のちに猿楽や能、歌舞伎などの伝統芸能に影響を与えました。

 

傀儡の集団は昼は噴水が噴き上がる舞台で驚かせ、魚や竜などの面をつけた者が歌い踊って観客を魅了しました。夜は神社境内の神舞殿で神がかって、禊祓いの奉納の舞をしていました。

 

傀儡(くぐつ)達は課役・交通税を免除されて誰からも支配されず諸国を自由に放浪して舞い歌い楽しく暮らしていたようです。

傀儡(くぐつ)のルーツは九州の、おおわたつみ族(海人族・安曇あづみ族)にありました。

宇佐神宮の最古の祭祀儀礼、放生会(ほうじょう え)は744年に隼人の祟りを鎮めるための傀儡子舞を奉納したのが始まりといわれています。

 

 

おおわたつみ族の海幸彦の末裔が隼人です。

 

隼人は大和朝廷に服従し宮中で隼人舞と隼人相撲を演じたと言います。そうして、隼人の服属儀礼が芸能として八幡信仰と結びつき傀儡などの芸能集団になったといわれています。

 

宇佐神宮の末社に百太夫殿(現在の百体神社)がありますが隼人族の霊を祀る首塚に建てられていました。白拍子、歩き巫女、遊女、傀儡が信仰する神が百太夫でした。

 

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

 

百太夫はえびす神と習合して傀儡子の神から芸能漂泊民の神となって兵庫県西宮市の廣田神社の摂社・夷(ヱビス)社に鎮座しました。

 

 

広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

 

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。大阪の今宮戎神社のえべっさんは、京都八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、祇園の蛭子社をお祀りしたことに始まります。

 

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニとコトシロヌシが祀られています。

 

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

 

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

 

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコの話が重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

 

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

 

ここでヒルコ=えびす=あずみのいそら(安曇磯良)が繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民のことを表していました。

 

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

 

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。

 

傀儡(くぐつ)は誰からも支配されず諸国を放浪する神事芸能集団でした。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。

古代は禊祓いの鎮魂儀礼をすることを「遊び」といいました。身体を依り代として神の言葉を託宣する巫女のことを遊女(あそびめ)といいました。その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。万葉集では遊行女婦(うかれめ)や傀儡女(くぐつめ)とも呼ばれています。

 

傀儡は男女の芸能集団のことで女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。

万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。

 

現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが、神社や寺社で神事芸能を演じる集団のことでした。

平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。

 

古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立していました。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。

 

そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に異性を見つけることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。

 

好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。

春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。

 

一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

 

武士が台頭して男性原理が強くなった十三世紀後半から十四世紀を境として女性の社会的地位は劇的に低下しました。

 

天皇や貴族たちの宮廷行事で即興で歌を詠んだり舞を舞っていた傀儡女、遊女、白拍子たちは河口に位置する江口(えぐち)(大阪市)や神崎(かんざき)(兵庫県尼崎市)に根拠を置いて全国(主に西日本・関東)に遍歴のネットワークをもっていました。

 

古代は神事を司っていた女性ですが十三世紀後半に遊女の地位は聖なるものから転落してしまいます。女性は罪深く「不浄」で穢れているという見方が強くなり聖地での女人禁制が現れたのです。

 

古代では女性がリーダーでした。現代の女性首長は一割に満たない人数です。中世に転換した男女の条件つけは現代の大学の女性の合格率が低いように現代まで引きずっています。

 

世界経済フォーラムが発表した「2018年世界男女格差レポート」によると、調査対象の142カ国のうち、日本の順位は110位になっています。

 

男性原理優位の条件つけは平家物語の冒頭にある春の夜の夢のようなものです。外から植え付けられた思い込みなので、夢から目が覚めると風の前の塵のように滅びてしまうでしょう。

先住民族の文化には自然の中に入り力に満ちた聖なる場所で長期間断食して死と再生の体験をするイニシエーションがありました。

太古の昔、アメリカ先住民の人々は生活に困った時「どのように生きていけば良いのか」長老に尋ねました。

長老は一人で出かけて母なる大地に抱かれながら何日も祈り、眠りなさいと言いました。そして夢に現われる動物たちから教わりなさいと告げました。こうして先祖は夢に現れた動物たちから狩りのしかた、火の起こし方、薬草の使い方、ティピのつくり方を学んで生き延びてきたのです。

『ほんとうの知恵というものは、
ひとびとから遠く離れたところでのみ、
見つけることができる。
とてつもない孤独のなかでだ。
そのためにはとにかく苦しまねばならず、
遊び気分でいては、
まず見つかるものも見つからない。
孤独と苦しみが、人間の頭を開く。
それがためにわしらはひとり遠くに出向いて、
そこで自らの知恵を追い求める』
イグジュガルジュク(イヌイットのシャーマン)

 

 



聖地で何日も祈りを捧げていると大地から霊的な力が入ってきます。その力に身をまかせて明け渡すと自我の境界が揺さぶられて自我は不安定になります。

無意識の層から畏怖、恐怖、不安を伴う深い感情が湧き上がり、そのプロセスを経過すると強い高揚とリラックス、至福を経験します。

夢見の状態の中で自然界の生き物である熊や狼、クジラなどの動物が精霊として現れて智慧と癒しの力が授かります。現れた動物は部族や人間の守護霊となりました。

大地は地球のあらゆる歴史を記憶しています。人間が動物と兄弟のように暮らしていた時代はお互いの言葉が理解できました。今でも正しい方法で聞くことができれば草や木や岩が話してくれるのです。

人間を非日常意識状態へと導き魂を再生させる力を持っている場所が聖地です。

古来から特別な霊性を帯びた場所では礼拝が行われてきました。ヨーロッパの教会があった場所はかつてキリスト教以前の古代宗教の礼拝の場所だった事が知られています。
古代の人々は聖なる場所に石や木や花を飾って祭壇をつくり祈りをささげました。

古代の人々が祈りを捧げた聖なる場所には、泉や岩、樹木が茂っているだけで、もともとお堂も鳥居も建っていませんでした。

やがて素朴な社が出来て、のちに中央集権国家の時代になると壮麗な寺院、教会が建てられていったのです。

神聖な祭りは消え去り観光客にお金を落としてもらう空虚なイヴェントだけになってしまいました。

西洋社会で神に話しかけるのは祈りですが、神がそれに答えて神の声が聞こえてくると精神病とみなされます。 

先住民のシャーマニズムの文化では、逆に精霊からの声を心の耳で聞き取れない者は精神が病んでいるとされます。

他の生き物の苦しみや痛みを感じない現代人は心が病んでいるのです。

私たちは原子力発電所や化学工場、軍事施設を建設して聖地を破壊しています。現代人は大地との繋がりを断たれ夢見る力を失ってしまったのです。

 

人々は医師やヒーラーと呼ばれる人を投影して見ています。生の全体からみれば治療者(ヒーラー)と患者(クライアント)は分かれてはいません。

 

癒す者と癒される者はいないです。患者(クライアント)が傷を負い病に侵された弱い者として、治療者(ヒーラー)の前に訪れると双方にメラニー・クラインの言う投影同一化がおきます。

 

治療者(ヒーラー)は健康で力があり、この業界では名が通っている有能な人物としての役割を演じます。自分には他者を癒す力があると思い込んでいます。

 

そして患者(クライアント)の病を直せる技術を持っている優れた自分というドラマに入り込むのです。患者(クライアント)は無力で自分に病を癒す力はなく、ひたすら、治療者(ヒーラー)にすがる、かわいそうで哀れな私というメロドラマの役を演じます。

 

分離した関係の中では上意下達の力関係ができて治療者(ヒーラー)は上から目線で患者(クライアント)に 高圧的な態度で説教をします。

 

治療者(ヒーラー)自身に苦しんで傷を負った過去があり、傷を持たない強い治療者(ヒーラー)としてのアイデンティティを演じることにより、その傷は影(シャドウ)として無意識の中に閉じ込められています。

 

治療者(ヒーラー)の内側には傷ついたヒーラー (wounded healer)が潜んでいます。

 

患者(クライアント)が治療者(ヒーラー)の意見を聞かなかったり、従わなかったりすると、内面に抱えている傷ついたヒーラー (wounded healer)に触れてしまいます。

 

治療者(ヒーラー)は患者(クライアント)を力で押え込もうと強い攻撃的口調で不安や恐怖を煽り脅します。不安や恐怖は治療者(ヒーラー)の内面にあるので影(シャドウ)の投影が起きて強い治療者(ヒーラー)像を演じてしまうのです。

 

誠実な自我を持っている治療者(ヒーラー)は、ひたすら真面目に患者(クライアント)の役に立とうと治療に専念します。

 

しかし、治療すればするほど、皮肉なことに患者(クライアント)は健康な治療者(ヒーラー)の反対の役割を演じ、哀れで無能な患者の自我を強化してしまいます。

 

自分の病を自分で癒す力があることを認めずに治療者(ヒーラー)に従属してしまうのです。

 

そうして、治療者(ヒーラー)は患者(クライアント)を支配して治癒力を奪い、共同幻想という共依存関係を続けてしまうのです。

 

ヒーラーは内側から湧き上がって来る衝動に気づいている必要が在ります。

 

否定的な感情は感じたくないために自動的に身体に埋め込んでしまうメカニズムが働いています。

 

マインドは一つの世界に境界線を引いて分離します。そして体と心、他者と自分を切り離し、競争して優劣、勝ち負けを争うようになります。

 

ヒーラーになる前に自覚を養う訓練が必要なのです。ヒーラーに自己観察の能力が欠けていると、癒しの現場で起る情動に飲み込まれてしまいます。

 

自分には治癒力があると自惚れ、自分が優れていると自慢したり、他者を貶めたり、否定的なエネルギーを解消しょうと機械的に反応した行動表現(アクティング・アウト)をとってしまうのです。

 

自覚の領域が育っていないと情動に巻き込まれてしまい、クライアントもヒーラーも共に傷を負うことが起きてしまいます。

 

無意識が浄化されていなければ、「私は自覚がある」と思い込んでも、たちまち暗黒の世界(ダークサイト)に落ちてしまいます。

 

内側から湧き上がって来る衝動を自覚して、反応せず、そこから逃げないで、あるがままにさせておくことができれば、そのエネルギーは全体へと昇華します。

 

ヒーラーに気づきが起れば治療者(ヒーラー)と患者(クライアント)の関係性は消えます。癒す者と癒される者との集合無意識に共鳴が起きれば、クライアントも分離に気づいて自己治癒が起きるのです。

 

真の治癒とは、身体症状の治癒や回復ではなく、世界と分離しているという夢から目を覚ますこと、純粋な魂を取り戻し、生の全体性を回復することにあるのです。

 

 

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2019年5月18日(土)

清水友邦 早池峰 覚醒講座

 

覚醒や意識の目覚め、悟りというと自分とは全く関係ない遠い世界と思っている人が多いと思います。

でも「楽になりたい。愛されたい。苦しみたくない。幸福でいたい。」は誰でも望むところだと思います。浮き沈みする感情の波に振り回されることがなく 本当の満足、真の喜びを知るには、意識の目覚め、覚醒が起きるしかないのです。

 

5/18(土)10:00~18:00

私はいない?

自我のメカニズム

質疑応答

詳細は

https://www.facebook.com/events/283632375666464/

現在精神病の薬を飲んでいる方は参加できません。

 

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2019年6月8日(土)  10:00~18:00

 

清水友邦 早池峰 覚醒講座 

「シャーマン意識状態と覚醒」

 

夢見る力

シャーマン意識とは

 

詳細は 

https://www.facebook.com/events/306636433338195/

 

現在精神病の薬を飲んでいる方は参加できません。

 

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⭐️覚醒の味わい with マジュヌ in 花巻

~ヴィッパサナ瞑想と覚醒!~

 

◉日程

1️⃣6月1日 (土)13時~17時 6,000円

2️⃣6月2日(日) 9時~13時 6,000円

通しでの参加の方は10,000円

◉場所 

岩手県 花巻市 健考館

( 岩手県花巻市石鳥谷町松林寺3-81-13 

http://www.kenkounoyakata.com/

 

◉健考館に宿泊もできます(温泉とマクロビ料理)

(別途必要) 宿泊費 8,240円 (1泊2食付)

問い合せ & 参加申し込み: 清水寿子プラダ 

maprada2525@i.softbank.jp 🌿携帯 09066205173

 

詳細

https://www.facebook.com/events/413784756100081/

 

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⭐️清水友邦1dayワークショップ『サトルボデイ・アウェアネス』

~命の扉を開く~

日程:2019年6月22日(土)10:00~17:00

 

会場:愛知県名古屋市中村公園

 

*お申し込みの方に直接お知らせします。

 

気づきを高める呼吸法と背骨を整えてエネルギーを流す身体技法を組み合わせて微細な身体(サトルボディ)を活性化させるワークです。

微細な身体(サトルボディ)の自覚が、あなたに起きると

今まで悩まされていたネガティヴなエネルギーから解放されます。

身体にエネルギーが充電されるようになるので元気になるでしょう。

意識エネルギーを扱えるようになると、

人生がポジティヴでクリエイティヴになります。

 

☆お申し込み先 清水prada maprada2525@i.softbank.jp

 

☆詳細は

https://www.facebook.com/events/388266662009256/

 

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☆2019年7月19日(木)~21日(日)2泊3日(日)

 

⭐️清水友邦 & おとのわ ワークショップ in 屋久島

 

清水友邦 & おとのわ(なーや&出口はるひ)と一緒に

毎日ワークと瞑想をしながら、屋久島の聖地を巡る

豪華でスペシャルなワークショップ

 

詳細はイベントページへ

https://www.facebook.com/events/751448821915445/

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あらゆる人生の苦悩が訪れても

あなたの本質が傷つくことはありません。

暴風雨で海が荒れて高波に襲われても

深海は静かなように

いくら心の表層が激しく乱れても

心の深層は静かなままです。

月が欠けて見えても

月の本質は変わらないように

あなたの本質が欠けることはありません。

全ては過ぎ去りますが

本当のあなたはいつも変わらずに『いまここ』にあります。

「蓮は泥を栄養に成長して平安と静寂に輝く美しい花を咲かせます。 

私たちの本質も蓮の花のように内側から自然に輝く美そのものなのです。

泥の中にあっても蓮の本質が汚れる事はありません。

どんなにひどい汚れた状態であっても

あなたの本質の輝き、美しさが失われることはありません。

私たちの本質がそのまま美しい蓮の花であるという真実を蓮の花は表しています。」