傀儡(くぐつ)は平安時代よりもはるか昔から、定まった家を持たずに各地を渡り歩いた日本最古の神事芸能集団です。のちに猿楽や能、歌舞伎などの伝統芸能に影響を与えました。

 

傀儡の集団は昼は噴水が噴き上がる舞台で驚かせ、魚や竜などの面をつけた者が歌い踊って観客を魅了しました。夜は神社境内の神舞殿で神がかって、禊祓いの奉納の舞をしていました。

 

傀儡(くぐつ)達は課役・交通税を免除されて誰からも支配されず諸国を自由に放浪して舞い歌い楽しく暮らしていたようです。

傀儡(くぐつ)のルーツは九州の、おおわたつみ族(海人族・安曇あづみ族)にありました。

宇佐神宮の最古の祭祀儀礼、放生会(ほうじょう え)は744年に隼人の祟りを鎮めるための傀儡子舞を奉納したのが始まりといわれています。

 

 

おおわたつみ族の海幸彦の末裔が隼人です。

 

隼人は大和朝廷に服従し宮中で隼人舞と隼人相撲を演じたと言います。そうして、隼人の服属儀礼が芸能として八幡信仰と結びつき傀儡などの芸能集団になったといわれています。

 

宇佐神宮の末社に百太夫殿(現在の百体神社)がありますが隼人族の霊を祀る首塚に建てられていました。白拍子、歩き巫女、遊女、傀儡が信仰する神が百太夫でした。

 

傀儡たちが信仰する百太夫神は八幡信仰の広がりとともに西日本に広がって行きました。

 

百太夫はえびす神と習合して傀儡子の神から芸能漂泊民の神となって兵庫県西宮市の廣田神社の摂社・夷(ヱビス)社に鎮座しました。

 

 

広田神社の末社だった西宮神社は現在ではえびす神社の総本社として本社を凌ぐ賑わいを見せています。

 

西宮神社の傀儡子たちが「えびす廻し」「えびすかき」と呼ばれる「えびす舞」を全国各地で公演する事で、えびす神は各地に普及しました。大阪の今宮戎神社のえべっさんは、京都八坂神社の氏子が今宮に移り住んだとき、祇園の蛭子社をお祀りしたことに始まります。

 

西宮神社では「蛭子祭」と綴ってエビス祭りと読ませているように「えびす神社」の主な主祭神にヒルコとオオクニとコトシロヌシが祀られています。

 

イザナギとイザナミが最初に産んだ子がヒルコです。しかしヒルコは不完全だったので海へ流されてしまいました。

 

祝詞の後半で浅瀬にいる禍津日神(まがつひのかみ)=瀬織津姫がこの世のあらゆる罪穢れを引き受けて大海原に持ち去っていくと語られています。

 

これは海に流されたヒルコの話と同じです。

海に没した隼人を供養するように八幡神が宣託して傀儡たちの放生会が始まった事とヒルコの話が重なります。また海中の石となった和多都美(ワタツミ)神社の御神体「いそらえびす」は八幡縁起で語られる海中の石舞台となった海人族の祖、阿曇磯良(あずみの いそら)=百太夫神と同じです。

 

出雲族のコトシロヌシもまた国譲りの後、海の彼方に去っています。

ヒルコが不完全だった理由が女性のイザナミが声をかけたからだとされているのは男性原理が優位になる前の母系の先住民、海人族のことにも思えます。

 

ここでヒルコ=えびす=あずみのいそら(安曇磯良)が繋がります。海に流されたヒルコは母系の先住民のことを表していました。

 

ヒルメを先祖とする天孫族に国を譲ってヒルコを先祖とするわたつみ族は海中に没して精霊となったのでした。

罪、穢れを背負ったヒルコは海に流して祀ることで、罪が祓われ人々に福がもたらされました。

 

傀儡たちは祭礼の時に「えびす舞(傀儡舞)」を舞うことで人々の穢れを引き受け、それを神に捧げる舞で神様にお渡して、罪穢れを祓ったのです。

 

傀儡(くぐつ)は誰からも支配されず諸国を放浪する神事芸能集団でした。

身体を依り代として神の言葉を託宣する女性を巫女といいます。

古代は禊祓いの鎮魂儀礼をすることを「遊び」といいました。身体を依り代として神の言葉を託宣する巫女のことを遊女(あそびめ)といいました。その中に信仰の伝道師として各地を旅から旅へと歩き回る歩き巫女がいました。万葉集では遊行女婦(うかれめ)や傀儡女(くぐつめ)とも呼ばれています。

 

傀儡は男女の芸能集団のことで女性だけの芸能集団を遊女と呼んだようです。

万葉集で詠まれた遊行女婦(うかれめ)の遊行とは浮かれ騒ぐことではなく、諸国を歩いて芸能を演じる女性集団のことで売春を伴うことはありませんでした。

 

現在では遊女といえば売春婦と同意語になっていますが、神社や寺社で神事芸能を演じる集団のことでした。

平安時代中期に成立した「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」によると芸能を生業としたのは遊女で夜を待ちて淫売をするのは夜発といいました。

 

古代の母系社会は母から娘へ財産が受け継がれたので女性は経済的に自立していました。暮らしのために性を売る女性はいませんでした。結婚制度がなく男性は子供の養育義務がないので、男女が自由に別れることに経済的な抵抗がありませんでした。

 

そして、古代には相互に求愛の歌謡を掛け合う歌垣(うたがき)という男女が出会うことができる祭があったので、誰もが容易に異性を見つけることができました。万葉集で「歌垣の日は昔から神に許されている日なので他の誰と通じても咎められることはない」と歌われています。

 

好きになれば一緒になり、嫌になれば別れることができた縄文時代は自由恋愛だったので売春がなかったのです。

春をひさぐ女性が増えてきたのは嫁取り婚が出てきた平安時代の中期ごろからです。母系から父系に変わり婿取婚から嫁取り婚になり男性が経済的な支配を強めると女性の経済的自立は弱まってきたのです。

 

一夫一妻制が定着して自由な男女間の関係性が失われると婚姻の外に性の捌け口を求める男性が現れました。暮らしのために性を売る女が増えてくるとやがて遊郭が現れて経済的に自立できない女性たちは大規模な売春組織に飲み込まれて行ったのです。

 

武士が台頭して男性原理が強くなった十三世紀後半から十四世紀を境として女性の社会的地位は劇的に低下しました。

 

天皇や貴族たちの宮廷行事で即興で歌を詠んだり舞を舞っていた傀儡女、遊女、白拍子たちは河口に位置する江口(えぐち)(大阪市)や神崎(かんざき)(兵庫県尼崎市)に根拠を置いて全国(主に西日本・関東)に遍歴のネットワークをもっていました。

 

古代は神事を司っていた女性ですが十三世紀後半に遊女の地位は聖なるものから転落してしまいます。女性は罪深く「不浄」で穢れているという見方が強くなり聖地での女人禁制が現れたのです。

 

古代では女性がリーダーでした。現代の女性首長は一割に満たない人数です。中世に転換した男女の条件つけは現代の大学の女性の合格率が低いように現代まで引きずっています。

 

世界経済フォーラムが発表した「2018年世界男女格差レポート」によると、調査対象の142カ国のうち、日本の順位は110位になっています。

 

男性原理優位の条件つけは平家物語の冒頭にある春の夜の夢のようなものです。外から植え付けられた思い込みなので、夢から目が覚めると風の前の塵のように滅びてしまうでしょう。