ふせい白書 -3ページ目

ふせい白書

あらあらまたこんなことを?よろしくないわねえー。ちょっと成敗してあげましょうよ。

芥川賞と言葉


芥川受賞作家の田中慎弥さんが芥川賞受賞時に「もらっといてや
る」と発言をし話題になっている。


田中様がおもらいになられたのは芥川賞である。芥川賞とは純文
学の最高峰の賞で、二度はもらえない、作家といえど、ねらって
いただけるような賞ではない。


それだけの賞を射止め「もらっといてやる」と言っているから騒
がれているのだ。


授賞式には何を言ってくれるのか楽しみにしていたのは私だけで
はないはず。


しかし彼は「ありがとうございました」の一言で終わらせた。

「万感の思いがこめられていました」と司会者が即座に進行したの
で、頭の切れる司会者だな、とそちらが気になってしまった。

本人がさほど本気で言ったのではなさそうだということと、「万
感の思いが・・・・」と司会者が言っている際に笑っている姿が
嫌味がなくてよかった。


「共喰い」まだ読んでないので、読んでみたい一冊である。


今から十数年前に同じ芥川賞を受賞した作家が「言葉を守りたか
った」と言ったことがある。さほど騒がれなかったが、個人的に
はあまり好ましくは思えなかった。
言葉を守るという意味が曖昧なのと、仮に守るという定義があっ
たとしても、守れないと感じたからである。まして一人で守って
いけるものではないだろう、と考えたからである。


言葉はかわっていくもの、だと思っているからで、古文を読めば
それは明らかであるし、コンビニに行けばわかる。
「1000円からお預かりします」の「から」や「次でお待ちの方」
の「で」は正しい日本語の使い方ではない。


2週間ほど前に病院にいったのだが、会計の際にやはり「○○円
からお預かりします」と言われ、ほう、病院までコンビニ化した
のかと驚いた。


しかし、慣れというのは怖いもので、今ではコンビニのレジでそ
ういわれても全く気にならない。


きっと私自身がレジにたっても「1000円からお預かりします」と
言ってしまうだろう。いや、むしろ言いたいのかもしれない。


また似たような使い方で最近仕事の際に自分のことを私ではなく
名字でいう人がいる。


例えば私が佐藤さんだとして「その際には佐藤の方できちんと稟
議を図らせていただきますので」といった使い方である。

お分かりだと思うが、これだけでは別の佐藤さんが稟議を図って
くれるものだと勘違いしてしまう。

分かりにくい上に、ビジネス用語としても自分のことを名字で表
すのはおかしい。


流行っているのかわからないが、自分のことを名字で表すことは
違和感がある上に気持ちがわるい、というのが正直なところであ
る。


コンビニで間違った日本語を当たり前のように使ってみたい、と
いう衝動はあっても、自分のことを名字で呼びたいとは全く思わ
ない。


好んで芥川賞作品を読んでいるわけではないが、130回受賞作、
綿矢りさの「蹴りたい背中」を機会があって読んだことがあるが
学生の日常生活がテーマとなったものであった、読んだ時にこん
な文章が書ける若い子がでてくるなんて、日本文学も捨てたもの
ではないな、と感じたものである。


そのあと各紙の新人賞で「蹴りたい背中」調の若い層の応募作品
が増えたそうなので、彼女も日本の文学界に一役買ったわけだ。
ただ彼女の文章は稀にみる才能に恵まれた文章なので、単に模倣
ではただの模倣に終わってしまう。


彼女にはたぶん言葉を守る、という発想はないだろう、言葉の使
い方がおかしかったわけではない、言葉等守ると言わずとも、彼
女にはまっすぐに言葉を綴っていけるだけのセンスがある、から
である。


昔、同じような感覚になったことがあるがそれが75回受賞作、村
上龍の「限りなく透明に近いブルー」であった。


この本は私が本を好きになるきっかけになった。当作品も著者が
まだ学生時に書いたもので、とても同じ年代で書けるものではな
い、もう何回も読んでいるのであまり新鮮さはなくなった。


こんなことを考えていたら、頭がくらくらしてきた。
なんて日本語は難しいんだ。


もしかしたら私が知らないだけで、「ありがたくいただきます」
と言っていたのは一昔前で、今は「もらっといてやる」っていう
のが正しい使い方なのか?

寂しくもベランダから



ふせい白書


寂しくもベランダから

ベランダから見た東京側の建物が、異様にへし曲がり、気付くと
相当な揺れで、目前に差し込んでいる東京港の波も尋常ではない。
私が揺れているのか地球規模でいわばお揺れになっているのか、
自身、地震?


先程から、へし曲がり、立ったまま前屈屈伸しているはずの建物
は曲がっているはずもなく、横揺れに耐え切れず崩壊、倒壊し、
数年前に写真や記憶に残っているそれとはみごとに似ても似つか
ぬ姿になっている。


昔の友達や、妻や子供や仕事仲間の笑い声や、その時の記憶が
呼び起される。逃げまどう人の中に誰かいないかと目を細めてみ
るがどれも見ぬ顔。このような事態に、思い出みたいなものが
回想するのも、回想録みたいで、記憶を司っている脳は海馬だっ
たっけ、等と空ぞらと胸を風がふくようで。


しかし、この揺れだと、そろそろ巨大な橋も落ちるのではないか
と心配になる。


私だけではない、妻や子供、いつか同乗していた、電車、バスの
お年寄りなども見ているのであるから、見たこともない観衆を前
に悲壮な想像ばかりふくらみ、耐え切れず、退席することになる。
そのような事態は果たして、席に立つと決まった時から予想でき
たもの。


倒壊、崩壊した建物からは放射能がもれている、想像もつかない
ほどの額にまで膨らみ上がり続ける損害賠償額に、それでも終結
を想像できないために、想像をこえた対策を練る、想像力のない
電力会社。


揺れ事態が直下型なのかそうでないのか、私自身の保身、興味な
どはすでに遠いもの、放心したまま涙にもならず。

しかし、人間、揺れには弱いものだ。じっと耐えていればいいも
のを、断りもなく退席するものだから余計にめだってしまう。こ
のような時に、当の妻である、偉大な大臣の娘の爪の垢でも煎じ
て飲ませたいと、よからぬ気づかいをしたのは私だけではないは
ず。


「このあとトイレに行かせてください」といった娘、奥様のVTRが
とても勇ましく見えた。


退席せぬまま、自信の保身ばかりに気をもむ電力会社もどうかと
思うが。何も言わずに退席し、恥ずかしそうに詫びをいれるより
まだましだ。


いやどっちもどっちか。


かたや、昨年の中くらいまで、揺らいでいた西の方は、揺れもと
まり、崩壊した荒野に新たな党を建築しつつある。その眼を見張
るような、空に突き抜ける、さわやかな風になぞられる爽快感は、
崩壊した東京の街の羨望を受け更に輝きを増す。三つ巴の様相を
持った、本来は、巨大建築物の真下で押しつぶされたはずの当事
者が尻尾を振って擦りよっているので、世も果てである。


かじ取りができなくなった政治と、放射能汚染問題に煮え切らな
い対応ばかりする電力会社。よからぬことに使いすぎた税金を増
税でごまかす政府。役員、社員の給与をかえず、あり余る資産も
そのままに、電気料金の値上げに頼る電力会社。
あまりにも似すぎたこの構造にもし、私の声が届くなら、と考え
る。


ほらそろろそろ、足が壊れた、大きな橋の上からぞくぞくと人が
冷え冷えとさざなむ海水にそうれと身を投げ始めている。


橋の向こうの都内側は赤く、夕日に照らされたような、紫がかっ
た色で、私たちの心をさかなでするかのように綺麗な色に輝いて
いる。


人に驚いて今羽ばたいたのか、下の動乱に気をとられ私が気付か
なかったのか、上空に目を移すといつの間にか何百羽ものかもめた
ちが、はるか上空で私たちをあざ笑うかのように、海岸で聴くあの
声で鳴いているのであった。


平田信出頭と子育てについて


先日、といってもまだ2,3日前の12月31日のことだが、
霞が関の警視庁本部の正面玄関前で警戒中の機動隊員に
オウム真理教で逃亡中であった、平田信容疑者(46)
らしき人間が、「平田です。出頭しました」と名乗り出
た。


しかし、隊員は本人ではないと思い「近くの丸の内署か
交番に行くように」と告げた。


平田と名乗った男は一人で近くの署まで行歩き、本人と
確認され逮捕された。


平田信(まこと)と言えば、あの菊池直子といっしょに
ポスターになっている、オウム真理教元幹部である。

十数年も色々な場所に貼られていた、あのポスターを見
る度に、この人たちはもう死んでいるのかな、と思って
いた人も多いはずだ。


いっしょに逃亡されている、とみられている、高橋克也、
と菊池直子が山中でテント暮らしをしていた形跡のある
光景を雑誌で見たのが、私の記憶に残る、彼らの生存の
痕跡を見た最後の場面である。


あの光景を思い浮かべるたびに、彼らはどこかの山中で
白骨になっているのだろうと思ってきた。


このブログの読者はおおよそ私が書く内容を理解してい
るのと、フェイスブックから入ってきた方は基本的には
同年代の知り合いが多いので、オウム事件と言えば、今
ニュースになっても関心のある年代の人たちでのはずで
ある。


平田信という人がまだ生きていたのか、というのと同じ
位驚いたのが、警視庁本部の警戒中の機動隊員が出頭し
てきた人間をいとも簡単に逃がしているという点である。

本来であれば、違う顔をしていても、いったんは本人か
どうか照合してみるはずである。


何ともお粗末な話である、確保されたからよかったもの
の、これで本人の気が変わり再度逃走でもされていたら
目も当てられなかった。


それはともかくとして、オウム真理教の残していった傷
跡は、われわれ日本人にとってとても深いものである。


以前にもこの枠で書いた。
近年まれにみる異常な事件であった。


一言でいえばテロ事件であるが、皆が感じている異様さ
はただ単にテロ事件だから、というだけではないはずだ。

坂本弁護士一家殺害、地下鉄サリン、松本サリン・・・
多くの被害者を出した一連の実行犯である。


多くの人が違和感を感じるのは事件の数ではく、一般的
には「頭がよい」とされている学歴の持ち主がいとも簡
単に洗脳され、殺人事件に関与している、という点では
ないだろうか。


村上龍の著書に「だいじょうぶマイフレンド」という作
品があるが、だいじょうぶマイフレンド、という共通の
意識のもとで、洗脳され、犯罪を冒すという話である。


例えば組織的犯罪が行われた場合、関わった当事者には
それが裁かれるような悪いことだと思って行っている人
間はほぼいないと言われる。


悪いのかな、と思いつつも、法には違反しないと意識し、
むしろ正しいことをしている、と考えている場合がほと
んどだという。
むしろ組織内では、実行が評価される、という図式にな
っている。

では、なぜ頭脳明晰なはずの人間が、そう思えるまで洗
脳されるのか。


時代を繁栄した精神面の弱さ、といってみればそれまで
だが、彼らには、何かに属することによって、守られた
い、という弱さ、甘さがあり、そこにオウム真理教がは
まった、と考えるのはよくない。


むしろ逆であろう、彼らは何かに属して守られたい、と
いうふうには思っていない。


彼らは、今まで頭がよい、何でもできる、と羨望の眼差
しで見られてきた経験がある。


ところが、大人になると、上には上がいることを思い知
らされる。


しかし、彼らは、何かをしたい、自分の力で何かできる
はずだと思っているのである。


その葛藤を解きほぐすために信心しオウム真理教で出家
をする。


信心だけで終わればいいが、そこでなにか一つ大きなこ
とをやってみよう、そう思ったのではないだろうか。


究極な行動、極端な怒り、激しい言動、を起こす場合、
人は、その行動とは逆のジレンマをかかえているという。


つまり、これを当てはめるなら、オウム真理教信者の多
くが信心をしているが、人を殺害しているという行為か
ら考えるに、信心等したくないと思っている、というこ
とになる。
そして殺人などしたくない、当たり前だが、そう思って
いることになる。


むしろ、自分の頭脳や、純真性を世に認めてほしいと願
っていることになる。


それを曲がった方法で信心し、殺人事件を起こしてしま
う。


断っておくが、宗教の信者がそうだと言っているわけで
はない、この場合、殺人事件という究極な行動を起こし
てる、ということを踏まえた上での話である。


もちろんそういった不安を抱えた人全てが事件を起こす
わけではない。
数が多いといっても、同世代の人口からみると、ほんの
わずかな比率である。


一般的にはそういった時期は誰にでもあるが、しっかり
と将来を考え仕事をしたり、生きていくものである。

自分で何かできるはずの人間が、できない、と自信をな
くしたり、将来に不安を感じている、状態に付け込んだ
新興宗教であった、といえるだろう。


そういった新興宗教自体が世に出現してしまい、そこに
巻き込まれた人たちがいた、というのが時代を反映して
いる、ということになる。


巻き込まれたというのが、適切な表現かどうかはわから
ないが、頭脳明晰な人たちが、殺人事件に関与してしま
った。


ありきたりな話だが、私たちはそこから、多くのことを
学び、何かを決断しなければならないだろう。


まずは、子供を持つ親としては、教育について考えて

しまう。


不安になった時、自信をなくした時に、しっかり自分を
もって生きていけるように、難しいが、教えていかなけ
ればならない。


成人したら、親はそこにはいないことが多いので、自分
で正しい方向を模索できる人間になってもらわなければ
ならない。


結局は本人が決めることではあるが、教育にはこれでい
い、というものがない、と認識しながら、子育てをしな
ければならない、と私は感じた。

やさしいあなた


1.雨の音がきこえてくる 朝
  夜からひとしきり 

  空が

  思いをはらしたのだろう


  皿を洗ってくれた 掃除も
  卵は 硬い方?
  私を輝かせるかもしれない下駄箱の
  ブーツ
  クローゼットのニットのワンピース
  どれもこれも あなたが買ってくれた


  ひとまとめにして 昔みたいに
  ベランダに放ってやろうかしら


  だってあの時 わざわざ
  車をとめて
  東京タワーをみせてくれたじゃない


  だってあの時 私のために
  うちに来て
  ご飯をたべてくれたじゃない


  そんなもん!って

  鏡をみながら前髪切って
  カーテンざくざくにして
  私は思いをはらした、のだろう


2.いつまでも晴れない空の向こう
  白くかすむ中 大きな橋は
  虹色に輝いたまま


  これくらい思い出もいつかは
  心におちるのだと  
  そういうことかな?


  わかっているの ぜんぶぜんぶ 私の
  ためだって

  一緒に聴いた曲も ディズニーランドの
  写真も ここにある


  ひとまとめにして 昔みたいに
  ベランダに放ってやろうかしら


  だってあの時 いっしょに船にのって
  笑って
  心配してくれてたじゃない 


  ドアにぶつかって割れた植木鉢を
  怒らずに
  片付けてくれたじゃない


  鏡をみて

  とても小さなことなのかな
  そう思ったら 髪もカーテンも
  少し もったいなくなった

  

  だってあの時 わざわざ
  車をとめて
  東京タワーをみせてくれたじゃない


  だってあの時 私のために
  うちに来て
  ご飯をたべてくれたじゃない


  そんなもん!って

  鏡をみながら前髪切って
  カーテンざくざくにして
  私は思いをはらした、のだろう
  
  雨の音がきこえてくる 朝
  夜からひとしきり

  空が

  思いをはらしたのだろう

フェイスブックの正しい使い方


また、不正をはたらいていた人がいた。
ふせい白書で成敗してあげよう。


最近妻から、フェイスブックで奥さんへのクレームを書いてあ
る書き込みがある、ときいた。


その内容は、「フェイスブックは究極の出会い系サイトである」
「フェイスブックでそういうもめごとで裁判沙汰になった事件が
ある」

というもので、旦那が、フェイスブックにはまっている妻への
嫌がらせで書いているものらしい。

フェイスブックは文明の利器であり、現在最も先端をいってい
るコミニュケーションツールである。


その最も大きな特徴は「実名で登録する」という点だろう。

実名で登録するわりには、自分の書き込みをみせたくない人に
はみせない、という設定もできる。


これはリアルな生活とほぼ同じ感覚だ。


会いたくない人には会わなくていいし、みせたくない人には知
りあいでもみせなくていい。


ビジネスとして使うには他のネットのツールと比較しても群を
抜いている。
使い勝手は今私が書いているブログと同じである。内容を更新
できて写真も掲載でき、見た人がコメントを書き込めるように
なっている。


では、ブログよりビジネスに向いている点は何なのか。


それは、顧客の顔が見えるということである。


ネットのツールをビジネスとしてとらえる場合、機能、使い勝
手、世の中への普及率などを検討する。
ネットのツールはほぼ出尽くしている感があるので、どうして
も差別化を図るのはもはや難しい時代となった。


決してブログが悪いと言っているわけではない、これはそれな
りに使い勝手はいい、しかし、私もブログを長く使っていて、
今は更新していないが、読者が6ヶ月で100名を超えているブロ
グももっている。また、2006年から続けているブログもある。


しかし、その読者の誰もが匿名で、勿論自分も匿名であるので、
発信する側の自己満足しかないということは否めない。

いわばエンターテイメントに近い感覚だ。


自分が匿名であることより、読者が匿名であるということがそ
の実を握っている。

だから、映画やTVドラマといっしょで面白くなければだめだ。


その点、フェイスブックは面白くなくてもいい。


そこが大きな違いだ。


私はフェイスブックの映画は見ていないが、フェイスブックの
最も成功した点は、実名登録、という点だと思っている。

より深く密接な関係を築くには実名で登録するフェイスブック
は最適である。


実名で登録する、という点ではフェイスブックは他のツールに
追随を許さないイニシアチブをもはや握ってしまった。

実名では、発信側だけでなくユーザー側にも責任が委ねられる。


ユーザーの責任で見に行き書き込みをする、それを見に来た別
のユーザーがそこでキャッシュをおとしていく、という流れか
らすれば、どう考えても、ブログよりフェイスブックの方が優
れている。


洋服の小売りなどにはもってこいだということは一目瞭然だ。

そのようなフェイスブックにも罠があるということだ。

フェイスブックを使いこなし、誤解を招かないためには、ユー
ザーにルールをみせることにつきる。
フェイスブックがビジネスとして使える点でもうひとつの利点
としては、ルールが明白な点である。


例えば、洋服であれば、写真や特徴や色などを確認し、他のユ
ーザーのコメントを見て買う、それだけである。
季節ものの紹介や特集をみて、買う、そのためにあるツールで
あり、そこには下世話な世間話は存在しない。
見に来て他の意見を参考にして買う、というルールが明白であ
る。


話を戻すと冒頭に書いた、旦那が妻への嫌がらせを書いている、
ということだが、気持ち的にはわからなくない。わかる、とは
いやがらせを書いた方の旦那の気持ちが、である。


先日も、あるフェイスブックで、数名が一人の女性の旦那の悪
口を書いている、という話をきいた。
その数名の中にその女性がいた。つまり旦那の奥さん(ややこ
しい表現で申し訳ない)


つまり、奥さんが旦那の悪口をかいて、フェイスブックのコミ
ュニティで複数の人が誹謗中傷していたという構図だ。

内容にもよるが、やり玉に挙げられている男性がその気になれ
ば名誉棄損といった裁判沙汰の話である。


それは誰だって怒るだろう。


自分のいないところで、自分のことを知らない人たちから誹謗

中傷されているのである。

また、その書き込みを見られないうちに消してしまう相談もされ

ていたというから、それは証拠隠滅といって、さらに悪質である。

管理人の顔が見てみたいものである。


「旦那には内緒です・・・」などといってフェイスブックやメ
ールを使おうと思えば使える。
冒頭の旦那夫婦は、陰にそのような問題を抱えているのではな
いだろうか。


例えば、インターネットがないころは電話や手紙がコミュニケ
ーション手段であった。
家にいれば、誰からの電話か、あるいは文通は誰としているの
かなどばれる可能性があった。


だから、変なことはできなかった。


だが手紙でも中には子供の学校からのお知らせがはいっている
んだよ、とか、習い事の請求だよ、ということがわかれば、当
たり前だが夫婦喧嘩はない。


何が書いてあるのかわからない、ハート形のシールが貼ってあ
る手紙だと、もめる。こと封筒から香水の香りなど漂っていれ
ば、別格である。送ってきた女性に拍手を送りたい。


フェイスブックも裏のメッセージ機能を使えば、旦那、あるいは
妻にはばれない。


私はフェイスブックが悪いと言っているわけではない、実名で
登録するが故に使う人間のモラルの問題が大きくかかわってく
る。


例えば、夕方公園であった近所の主婦なんかと旦那の悪口をい
う、みたいなもので、旦那がきくと怒るだろう。


本人たちには、怒らせる気はないはずである。

ただ、そこに参加したくない、という奥さんもいる。


冒頭の旦那夫婦の件であれば、妻が旦那にルールをみせればい
いのである。


この友達がいて、こういった話をしている、ということを聞か
れたときに正直に話してやれば、いいのだ。

ただ、問題は、すでにもめている、ということで、火のないところに

煙はたたない、一見変な旦那だなと思うが、奥さんが見えないと

ころでコソコソと旦那の悪口を書いたり、他の男と会う約束をした

りしている可能性はある。


それでは見せられないし、旦那はそのような空気を感じている
のではないだろうか。


そのようなことはもはや社会の悪であり、フェイスブックの使い方

としてはよくない、いやそのような人にはフェイスブックは使わせ

るべきではない、と思う。

見えないコミュニティで平気でそこにいない人の悪口をいった
り聞いたりしている人は、フェイスブックは使えない。


それでは、匿名のブログでもいいではないか、顔が見えている
点でも、被害を受けた側からすると、より悪質である。


まだ、フェイスブックは草創期である。


ひとつのビジネスモデルはできたが、冒頭の話を聞く限り、利用の
仕方が、知らない人をどんどん友達にしていったり、と、ブログの

域を抜けていない。


まだまだ個人間でも誰にも誤解を招かない、楽しい使い方がで
きるはずである。


家族であれば、よりリアルな生活が楽しくなるような、恋人同
士であればより深い愛が築けたり、友人にアピールできたり、
その他、普段の知り合いでは、より交流が楽しくなるような。


冒頭の旦那夫婦の話や、旦那の悪口を書くようなコミュニテ

ィがあるようなフェイスブックは楽しくない。


そう書くと「楽しくなる使い方」が今後のフェイスブックのキ
ーワードではないだろうか、と思った。


結構複雑ですが、この詩の中に出てくる君は

書き手の子供のことです。

そこから先は考えてください。


深いなあ、みんなわかるかなあ、この詩が・・・



 愛の証(あかし)


1.離れて過ごしていた時
  たまに笑う君の笑顔が
  輝く星のようにとても
  きれいで忘れられない


  もういっしょにいよう
  僕が待たせていた愛
  
  すりよってくる君の心に
  そばにいたいと思った


  時間にのってあきらめていた
  新しい気持ち
  
  まっすぐな思いさえあれば
  何でもかなうよと
  君が教えてくれた



2.思いにこたえられない
  はがゆい僕のしうち
  つらく悲しい時に気づく
  まち続けていた君と


  もう一人の愛する人
  
  悲しい日も楽しい日も
  あれからいっしょだった

  

  これからときがすぎても
  強く生きていて
  
  君が僕と愛する人の
  愛の証(あかし)だった
  君が教えてくれた


3.記憶のページめくる間もなく
  大人になった
  まるで僕たちをたまに
  さとすように広がった


  みんないっしょにいないと

  意味がないってこと


  君は言って いつのまにか
  肩を並べていたね


  どんなに時間がたっても
  かわらない瞳
  
  強くしたたかに
  前にすすんでいくこと
  君が教えてくれた



  これからも時がすぎても
  強く生きていて


  君が僕と愛する人の
  愛の証(あかし)だった
  君が教えてくれた

  

  君が教えてくれた

相変わらず、長女との戦いは続いている。


長い間、長女の勉強をみていなかったせいで、どれくらいの
学力になったのか、見当がつかなくなった今日この頃である。
本人は、ほら、と100点のテストはみせに来るのだが、他に
みせていないテストもあるのでは、と疑っている。


いまだ本人のわがまま具合はかわっていない。


少し前から、子供に携帯電話を持たせようという話があがっ
たのだが、とりあえずは持った方がいいという意見と、まだ
早いという意見に分かれた。
持ちたいのは子供たちで、まだ早いというのは、親である図
式はわかってもらえるだろう。
ただ妻は、珍しく中間意見であった。


当然のことながら、持った方がいいという意見が勝ったのだ
が。


ところが我が家でメインモバイルとして使われているキャリ
アがソフトバンクだったため、またそこで無駄な時間がすぎ
た。
ご存じの方もいると思うが、ソフトバンクの子供用の携帯は
とても携帯電話とよべるものではない。


世はスマートフォン一色なのになんという小道具。


ボタンをおして登録してある1つの番号にしかかけられない
のである。
おまけに防犯ベルつきで、引き抜くと防犯ベルがなる、とい
うある意味ツワモノである。


それが引き金となり、そんなもの持ちたくない、という子供
達の意見と、それはいい、という大人とで意見が割れた。
しかも、深い溝までつくったのである。


週にそんなにない休日を利用して家族で携帯電話を見に行く
ことになったのだが、途中で娘が母(妻)をおこらせ、妻が
ブチ切れたために、上の2人をおいたまま末っ子と私と3人で
別の買い物にいくことになり、携帯電話の話はなくなった。


妻は大物である。
仕事をし、家事をし、そして家族をしきる。とても私に真似
ができたものではない。
たまの休日もそのようなことが起きると憂鬱になるので、私
は休み中、関係のない第三者の体をとおした。


われながら、妻に対してよくぞ芯を曲げなかったものだと感
心する。


ついには娘がおれて、ソフトバンクのでいいから買ってとい
いはじめた。

結局大人チームが勝ったのだが、そのかわり、携帯が真新し
娘から、毎日仕事中にラブコールが入ってくるようになった。

     思い・・・


1.うれしさとまどいときめき
  があって
  君とむすばれた
  夜の街を吹く風も
  まだ夏のなごり残っていた


  もしもあの時にやりなおせる
  なら僕は
  きっとやさしさを望むだろう
  今までのすべてをもう一度この手に


2.2人歩いてきた道なのに
  なぜこんなにも
  暗くさびしい 影だけが
  涙を流してそして笑って2人はきっと
  
  いい思い出だったはず
  そして歩いていくこれからも
  君と
  今までと同じ道続いていると
  少なくともそう思っていた


3.ときに身をまかせて 2人には
  2人の時間と場所ができた
  いつから遠くを見つめ離れていくのか
  
  僕たちがもう一度ふりかえるのは
  楽しさではなく悲しみの中で
  おもうのだろう
  明日を向いていくのに
  1人ではきっと歩けない気がして
 
  もしもあの時にやり直せるなら
  僕は
  きっとやさしさを望むだろう
  君が
  楽しそうに笑ってくれるように


  もしもあの時にやり直せるなら
  僕は
  きっとやさしさを望むだろう
  今までのすべてをもう一度この手に

夏のたより


1.白いさざ波見つめてすわっている
  君との思いでがよせては消え
  胸をさらっていく
  
  波間で遊ぶ人を見る
  本当は君以上に愛することはないと
  知っているのに


  雨が降り風が吹いて夏のたよりが来ると
  君と離ればなれの
  季節(とき)を思い出す


  ああ 永遠に戻ってこないと
     知っていたなら
  ああ 愛されることをのぞむ
     君を離さなかった



2.太陽が昇り時間(とき)がすぎ
  目の前を通り過ぎていく
  僕は砂を踏みしめ空を見上げる


  日がさし聞こえる波の音
  もうそばに君はいない
  目を合わせるとどうして
 
  本当のこと言えない
  すれ違いの日々は
  2人を遠ざけていた


  ああ 抱き合っていても2人は
     ここにはいない
  ああ 愛することをのぞむ
     僕を信じられず



3.涙で埋められたあの日の
  さびしそうな後ろ姿
  どうしても別れなければならない理由(わけ)


  いつの間にか空は晴れ
  訪れるいつもと
  同じ夏 大きな分かれ道に


  君はとまどって
  泣いてばかりいた
  ひとときの通り雨
  
  ああ ひとりでまた封を
     あける夏のたより
  ああ 愛されることをのぞむ
     君を待ち続けている



  ああ 永遠に戻ってこないと
     知っていたなら
  ああ 愛されることをのぞむ
     君を離さなかった


ああ ひとりでまた封を
     あける夏のたより
  ああ 愛されることをのぞむ
     君を待ち続けている

見なかったはずの映画覧

今回切なさを提供してくれるのは


   「あなたが寝てる間に…」


1995年
主演:サンドラ・ブロック、ビル・プルマン

今回紹介するのは、ある日の昼、退屈しのぎにひかりテレビをつけ
たら流れていた映画。
サンドラ・ブロックはスピード以来なのだけれども、なんか顔がい
かつくなったと感じるのは自分だけでしょうか?
きれいはきれいなんだけど、スピードの時はもっと顔が小さくてか
わいい印象だったのですが。


「あなたが寝てる間に…」


あらすじ


毎日、駅員として、改札口に座り、通る人を眺めるルーシー(サン
ドラ・ブロック)。ルーシーは毎日通る男ピーター(ピーター・ギ
ャラガー)に好意を寄せていた。


そうとも知らず、挨拶もそこそこに毎日改札を抜けていくピーター、
ああ、いつになったら自分の思いは実を結ぶのかしら、そんな思い
にふけっていたある日、視線の向こうのピーターが、駅にいた人と
ちょっとしたトラブルを起こし、はずみで線路に落ちてしまう。


ルーシーは一目散に走り、線路に飛び込み、寸前のところで、ピー
ターとともに電車をよけ、2人とも一命を取り留める。
だが、ピーターはその後、気を失ったまま長い間意識を取り戻さな
いままとなってしまう。


病院に同行していたルーシーは、誤解により、病院にかけつけた、
ピーターの家族や親族に婚約者だと紹介されてしまう。
驚きながらも、次第にルーシーに好意を抱いていく家族と親族。
だが、ピーターの弟ジャック(ビル・プルマン)は婚約者ではない
と見抜いてしまう。


そこから始まる、ジャックや家族との関係はいかに?
そして、意識を取り戻したピーターとの関係は?


始まってすぐは、重たい映画かな、と思ったのですが、なかなか
楽しめるラブコメディでした。


ピーターの家族や親族の言動が、インハーシューズを彷彿させます。
が、どことなく何かの映画みたい?っぽくて多少、展開に無理を感
じるのは否めないです。


まあ、面白い映画ですので、見て後悔はしません。
ぜひご覧ください。