平田信出頭と子育てについて | ふせい白書

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平田信出頭と子育てについて


先日、といってもまだ2,3日前の12月31日のことだが、
霞が関の警視庁本部の正面玄関前で警戒中の機動隊員に
オウム真理教で逃亡中であった、平田信容疑者(46)
らしき人間が、「平田です。出頭しました」と名乗り出
た。


しかし、隊員は本人ではないと思い「近くの丸の内署か
交番に行くように」と告げた。


平田と名乗った男は一人で近くの署まで行歩き、本人と
確認され逮捕された。


平田信(まこと)と言えば、あの菊池直子といっしょに
ポスターになっている、オウム真理教元幹部である。

十数年も色々な場所に貼られていた、あのポスターを見
る度に、この人たちはもう死んでいるのかな、と思って
いた人も多いはずだ。


いっしょに逃亡されている、とみられている、高橋克也、
と菊池直子が山中でテント暮らしをしていた形跡のある
光景を雑誌で見たのが、私の記憶に残る、彼らの生存の
痕跡を見た最後の場面である。


あの光景を思い浮かべるたびに、彼らはどこかの山中で
白骨になっているのだろうと思ってきた。


このブログの読者はおおよそ私が書く内容を理解してい
るのと、フェイスブックから入ってきた方は基本的には
同年代の知り合いが多いので、オウム事件と言えば、今
ニュースになっても関心のある年代の人たちでのはずで
ある。


平田信という人がまだ生きていたのか、というのと同じ
位驚いたのが、警視庁本部の警戒中の機動隊員が出頭し
てきた人間をいとも簡単に逃がしているという点である。

本来であれば、違う顔をしていても、いったんは本人か
どうか照合してみるはずである。


何ともお粗末な話である、確保されたからよかったもの
の、これで本人の気が変わり再度逃走でもされていたら
目も当てられなかった。


それはともかくとして、オウム真理教の残していった傷
跡は、われわれ日本人にとってとても深いものである。


以前にもこの枠で書いた。
近年まれにみる異常な事件であった。


一言でいえばテロ事件であるが、皆が感じている異様さ
はただ単にテロ事件だから、というだけではないはずだ。

坂本弁護士一家殺害、地下鉄サリン、松本サリン・・・
多くの被害者を出した一連の実行犯である。


多くの人が違和感を感じるのは事件の数ではく、一般的
には「頭がよい」とされている学歴の持ち主がいとも簡
単に洗脳され、殺人事件に関与している、という点では
ないだろうか。


村上龍の著書に「だいじょうぶマイフレンド」という作
品があるが、だいじょうぶマイフレンド、という共通の
意識のもとで、洗脳され、犯罪を冒すという話である。


例えば組織的犯罪が行われた場合、関わった当事者には
それが裁かれるような悪いことだと思って行っている人
間はほぼいないと言われる。


悪いのかな、と思いつつも、法には違反しないと意識し、
むしろ正しいことをしている、と考えている場合がほと
んどだという。
むしろ組織内では、実行が評価される、という図式にな
っている。

では、なぜ頭脳明晰なはずの人間が、そう思えるまで洗
脳されるのか。


時代を繁栄した精神面の弱さ、といってみればそれまで
だが、彼らには、何かに属することによって、守られた
い、という弱さ、甘さがあり、そこにオウム真理教がは
まった、と考えるのはよくない。


むしろ逆であろう、彼らは何かに属して守られたい、と
いうふうには思っていない。


彼らは、今まで頭がよい、何でもできる、と羨望の眼差
しで見られてきた経験がある。


ところが、大人になると、上には上がいることを思い知
らされる。


しかし、彼らは、何かをしたい、自分の力で何かできる
はずだと思っているのである。


その葛藤を解きほぐすために信心しオウム真理教で出家
をする。


信心だけで終わればいいが、そこでなにか一つ大きなこ
とをやってみよう、そう思ったのではないだろうか。


究極な行動、極端な怒り、激しい言動、を起こす場合、
人は、その行動とは逆のジレンマをかかえているという。


つまり、これを当てはめるなら、オウム真理教信者の多
くが信心をしているが、人を殺害しているという行為か
ら考えるに、信心等したくないと思っている、というこ
とになる。
そして殺人などしたくない、当たり前だが、そう思って
いることになる。


むしろ、自分の頭脳や、純真性を世に認めてほしいと願
っていることになる。


それを曲がった方法で信心し、殺人事件を起こしてしま
う。


断っておくが、宗教の信者がそうだと言っているわけで
はない、この場合、殺人事件という究極な行動を起こし
てる、ということを踏まえた上での話である。


もちろんそういった不安を抱えた人全てが事件を起こす
わけではない。
数が多いといっても、同世代の人口からみると、ほんの
わずかな比率である。


一般的にはそういった時期は誰にでもあるが、しっかり
と将来を考え仕事をしたり、生きていくものである。

自分で何かできるはずの人間が、できない、と自信をな
くしたり、将来に不安を感じている、状態に付け込んだ
新興宗教であった、といえるだろう。


そういった新興宗教自体が世に出現してしまい、そこに
巻き込まれた人たちがいた、というのが時代を反映して
いる、ということになる。


巻き込まれたというのが、適切な表現かどうかはわから
ないが、頭脳明晰な人たちが、殺人事件に関与してしま
った。


ありきたりな話だが、私たちはそこから、多くのことを
学び、何かを決断しなければならないだろう。


まずは、子供を持つ親としては、教育について考えて

しまう。


不安になった時、自信をなくした時に、しっかり自分を
もって生きていけるように、難しいが、教えていかなけ
ればならない。


成人したら、親はそこにはいないことが多いので、自分
で正しい方向を模索できる人間になってもらわなければ
ならない。


結局は本人が決めることではあるが、教育にはこれでい
い、というものがない、と認識しながら、子育てをしな
ければならない、と私は感じた。