『魔法少女まどか☆マギカ』
今回は、前に書いた時に言及し損ねた部分をダベッてこうかと。
前回、魅力を語り尽くそうと網羅したのだけど、なんか…語り切れてないよなとずーっと思ってて。
今回の話をしてもまだ語り切れてない感はあるのだけど、まぁとりあえず今回はある事についてのみダベろうと。前回はここまで言及してると字数がハンパなくなるから端折ったのだけど。

 

本作について少年ジャンプ的という形容があるようなのだが、俺はこれに著しく違和感を持っていて。
そう形容するのもわからなくはないんだけどね、でもそれだとまどマギに対してあまりに安っぽい形容で。
つまり「少年ジャンプ的」というのは(少なくとも俺的には)スポ根的なライバルや友情とか、『ドラゴンボール』で「くそったれーっ!」って悔しさ滲ませるとかそういう、要は対象年齢小学生的な。
そんなレベルじゃないんだよ、まどマギは。

 

ヒーロー然としたマミの突然の惨死、
理想主義のさやかの零落、
一見最も強そうに見える杏子(性格も戦い方も攻撃的であり、弱肉強食を標榜してるし)の思い遣りからの心中爆死、
零落寸前のまどかを撃って逝かせるほむら、
1人1人脱落してゆく展開、
そして最後に残ったほむらも…
など、悲劇的かつアツいドラマにグッときつつ 馴染み深い感覚だなとも思ってて。いっそのこと懐かしいというか。久しぶりに触れた感の、悲惨だけどアツいドラマ。
これね、昔のクンフー映画とか80年代の香港ノアールで描かれてたドラマと結構同質なんだよ。
友情は言わずもがな。
己の信じるものを貫くために命を代償とするところも。
観客が憧憬する登場人物がいきなり命を落としたりというのも、そういえばクンフー映画にあった記憶が。
ほむらがまどかを撃つシーンなんかは『狼 男たちの挽歌 最終章』を連想させる。
杏子は当然ながら、孤独な戦いを繰り広げるほむらも、漢っぷりが高い。
クンフー映画の(いわゆる“男の美学”な)ドラマを現代に置き換え、道着をスーツに、クンフーを銃撃に置き換えたのがジョン・ウーの作家性だった。
で、これは少なくとも俺の知る限りではチャン・ツェーの陽剛路線にまで遡る。
ウーはチャン・ツェーの影響を受けている。スタイルからも明らかなんだけど、さらにウーはかつてチャン・ツェーの助監督をやっていた。
脚本の虚淵玄(映画好きらしい)がチャン・ツェーまで網羅してるかは知らないし、70年代(60年代?)~80年代の頭あたり?までなクンフー映画に造詣があるかも知らないんだけど、少なくとも香港ノアールは好きらしい。インタビューで言及してたから。
香港ノアール(あっちだと「英雄片」と言うのだけど)というのはジョン・ウーによって口火を切ったといえるジャンルで、
男たちの対立や友情、壮絶な戦い、悲劇的な展開、惨死、命を代償にする信念や思い…
といったものが、香港マフィアや刑事や殺し屋などを通して描かれてく。
『男たちの挽歌』
『男たちの挽歌Ⅱ』
『狼 男たちの挽歌 最終章』
『ワイルドブリット』
『ハード‐ボイルド』

 

人は自分の知ってる知識・意識の範囲でしかものを考えられないから、アニオタは少年ジャンプ的という形容になるのだろうが、映画を観てきている人からすると違う。ジョン・ウーとかチャン・ツェーなんてのが出てくるわけよ。この文脈から論じた人いるんだろうか?
ネットや本でのまどマギのレビューや論は結構読んだのだけど、この線から語ってるのを俺はほとんど見たことがない。
だけど俺がまどマギに強く感じる要素の1つがまさにコレなのだ。

 

「チャン・チェ(チャン・ツェー、張徹、Chang Cheh)
香港武俠映画の巨匠
男優の力強さと悲劇的な最後、血だらけの暴力描写の「陽剛」と呼ばれる作風を確立。」
(Wiki)

 

チャン・ツェーのスタイルは“浪漫暴力悲劇”とも呼ばれるらしい。

 

86年『男たちの挽歌』香港公開当時に香港の映画雑誌に載った『挽歌』評
「カギとなるのは、爆発、銃撃などのバイオレンスだけではなく、情に訴えるものがあるからだろう。(中略)激情に駆られる場面は他の香港映画にも見られたが、『悪男』などは不入りであった。これは「情感に訴える」にも、その他の要素が必要であること、中でも『男たちの挽歌』に見られるような「ロマン英雄主義」が最も注目されるもの、ということを示している。これらのものは、実は60~70年代の「ニュー・スタイルの武侠映画(チャン・チェー監督のものなど)への回帰であり、それが今日、熱狂的に歓迎されているのである。
チャン・チェー監督からチョー・ユン監督にいたる流れ、クンフーコメディ映画の発展は、武侠映画の世俗化の過程である。(中略)武侠映画のロマンなどはすでに存在しない。(中略)映画の中には英雄はもういない、なぜなら英雄もまた小人物になったのだ。『男たちの挽歌』の出現は、久しく英雄を待ち望んでいた観衆の心の虚をついた。
(中略)ジョン・ウーは機会をとらえては、失われてしまった理想や世俗的人生の憤懣に対し、諷刺と自嘲、黒々とした荒涼感と残酷性をスパイスに、彼のロマン主義を映画に反映させた。」
(『フィルムメーカーズ12 ジョン・ウー』キネマ旬報社 P130~132)
この中の「「情感に訴える」にも、その他の要素が必要」という点と、“失われたロマンや英雄”という点。
虚淵はかつてあった男の美学(というか人としての真っ当かつ至高な生き様)を、男のアクション映画から魔法少女モノに置換して描いたと思われる。
まどマギは女のコたちが主人公でありながら、展開の凄まじさはおよそ女のコらしさからは程遠い。
『男たちの挽歌』がサラリーマンの話でありながら“企業を装ったマフィア”に設定したことによって命懸けの戦い=アクション映画として成立したように、女のコたちが主人公でありながら魔法少女であるが為に命懸けで戦う魂の闘争の物語になった。
虚淵は魔法少女モノに造詣がなかったと明言している。だから本作の源流は『セーラームーン』や『プリキュア』でもない。(『リリカルなのは』(1作目)はジョン・ウー風味があって様相がちょっと異なる。)
エヴァと共通性を見出す奴が多いようだが、俺に言わせりゃエヴァとは似ても似つかない。
まどマギの登場人物の苦悩・葛藤は真っ当であり、不快でない。(俺にとって不快なのは『エヴァ』(“ここにいていいんだ”などという戯言)とか『ヒノキオ』なんか。)
また、魂に性差はない。差は生物学的肉体的及び社会的にであって、そういうのを一切剥ぎ取れば、男も女も関係ない、残るのは霊位が高いか低いか、それだけだ。
社会的に女性の地位が向上した現代、女らしさとか男らしさとかいう観念も昔よりは緩んでいる。(なぜ鹿目家は主婦でなく主夫なのか?)
90年代から血や汗はダサいものになりアクション映画はテレビゲーム的になり、草食系とかニートだのが認知されるようになった現代。
良くも悪くも過去の区分けや観念が揺らいでいる。
また、いつ頃からかアニメやマンガはただのボンクラな高校生や引きこもりオタみたいな主人公がいきなり世界を救うヒーローになったり わんさかいる女の子キャラに囲まれてハーレム状態とか モロにオタの妄想全面展開な現実ナメきった精神的に貧弱すぎる作品――「精神性」なんて上等なもんはゼロ――が氾濫するようになったが、ウーがコメディが主流の時代になった香港映画においてクンフー映画で描かれてきた精神を英雄片にして復活させたように、虚淵(及びまどマギの企画陣)は魔法少女モノというジャンルを使って一見アニオタのニーズに応える作品製作のように見せかけながら その実、氾濫するオタ好みの現実逃避妄想満載作品の対極にある人としての美学・気概を復権させた。(まどマギのドラマティックさは70~80年代前半のヤマトや999などといったアニメ――今では忘れ去られたドラマティックな物語、重くシリアスなテーマ性など――への回帰に近い)
…そういうわけでまどマギの物語のスタイルにどうも一番近いと感じられるのは香港アクション映画であって。
(あと虚淵はヤクザ映画にも言及してて、どうも東映ヤクザ映画も源流にあるっぽいのだが、こちらは俺はほとんど知識がないのでこっちからは語れない(基本的にヤクザ映画は嫌いなのだ)。
それと、別に香港に限らず例えばアメリカにも『ザ・ロック』とかあるんだけど、どうも俺がまどマギの物語の感触を突き詰めて遡ってくと欧米ではなく よりウェットな香港の映画に行く着くんである。どうも欧米的でない…非常に情念の強いアジア人的な人間性というかね。)

 

まどマギ劇場版3作目『[新編]叛逆の物語』で円環の理直前の意味不明?な回想?カットについて無理くりっぽい解釈が出てるけど(ほむらはまどかを殺した自分が許せないから云々というやつ)、『狼』でジェフリーがシドニーを撃って逝かせてやるのと同じことであって、罪なわけがない。
香港映画好きにとってはいつか観た光景なのだけど(笑)。イタリア映画の『デモンズ』にすら出てくる。
ただ、なんであそこであのカット群が入るのか?という疑問は残る。
…あれがほむらの中での「至高の瞬間」なのか!? 一番大切な人から最も頼られた場面。(それ以前は助けられるのみで、それ以降は孤独な戦いが続く。) 一番大切な人の人生最期の瞬間。閉じたのは自分だ。
ジェフリーとシドニーの友情で究極の場面はジェフリーがシドニーをその手で逝かせる場面だろう。
ほむらとまどかの友情で究極の場面はほむらがまどかをその手で逝かせる場面だろう。
撃った瞬間が抜けているのは、『狼』で撃った瞬間は鳩が乱舞&リーの驚愕の表情のカットだったように、『デモンズ』でジョージが親友ケンを斬首したまさにその瞬間のカットは滴り落ちる血のみで表現されたように、そこは外すのがデリケートさであって、別に罪だからじゃない。
ほむらがまどかへの愛ゆえに悪魔化するという、それを観客に対して補強(あるいは補填)すべく悪魔化直前にまどか射殺シーンが挿入されるのは納得であり、かつ射殺瞬間カットは抜くというのも自然。
(ちなみにウーの『ワイルドブリット』でトニー・レオンが親友ジャッキー・チュンを逝かせる一撃はダイレクトに映される。あれはたぶんロマンティシズムより悲惨さを優先させたからだろう。あの映画はとにかくゴッツゴツだから。ウーの特徴であるスローモーションもあまり使われていない。かなり意図的に即物的なテイストで作られてることがうかがえる。まどマギはあそこまで即物的にやる必要はない。『叛逆』だけでなく最初に描かれた時もロングショット&銃撃音ナシ斎藤千和の絶叫のみで表現されている。)
ほむらの記憶の中でデカい割合を占めてるはずのワルプルギスの夜が挿入されないのは、というわけでそこはポイントじゃないから。愛ゆえの悪魔化とワルプルギスの夜は関係がない。
ではクールほむらがめがねほむらに銃を向けているのはなんなのだろう?
ほむらが4段階目(メガほむ→クーほむ→リボほむ→悪魔ほむら)にシフトするにあたって、1段階目のメガほむに対する別離?
悪魔化にあたってメガほむだった頃の自分はあまりに弱すぎるし、優しすぎる。決別する必要があったのかもしれない。だから銃を向けている。それは許せない、とは違う。さようなら、ということだ。



 

というワケで、まどマギの物語が燃えるのは昔の香港映画が描いてたドラマのアツさがあるから。
そして、だから俺と親和性が高い。
「魔法少女」と聞いて(&あの絵を見て)敬遠すると損よ。実態はクンフー映画であり香港ノアールだから(笑)。
それを女のコでやった&ファンシーなテイストでくるんだ一見盛大なミスマッチがマックグリドルソーセージのように意外に絶妙でもあり(笑)。
そしてクンフー映画及び香港ノアールは救われない結末が多い…信念は通せたけど命は落とすみたいな(そこが素晴らしいのでもあるのだけど)、いわゆる「ハッピーエンド」とは言い難い鑑賞後感を残すのだが、まどマギは最後特大スケールの展開・至高さ・特級の感動に迎えられるのが素晴らしさ二乗!
まどマギはかつて香港映画が描いていた人間の素晴らしい在り様を継承しつつ、これに宿命的なようにつきまとっていたやるせなさ・哀しみを乗り越えてみせた。
人類史に残る物語だろう。